2026/1月(38~67)

 おかしい。机の上に置いてあるのは燭台と、茶色い小瓶。私は日もとっぷり暮れた暗がりの中、灯りをちらちらと跳ね返すガラスを睨みつけていた。
 手のひらサイズのそれは半分目まで液体が入っている。甘ったるい香りがして、舌先をビリビリと刺す味の液体だ。一見して調味料のようだけどそんなチャチなものでなく、これはれっきとした「媚薬」というやつだった。
 ことの発端は数日前。暇つぶしに立ち寄った馴染みの馬宿に、見知らぬ露天商が店を広げていた。隠密の本懐は情報収集で、怪しげなものがあれば探りを入れるべき、とはコーガ様も度々口にすることである。それに純粋に暇だったし、隠れ家の主も全然帰ってこないものだから私は会話に飢えていた。
 敷物に置かれていたのは虫下しの薬やイボ取りの軟膏。実用的な薬ばかりで興味はそそられたけど、いまいち購買意欲が掻き立てられない。このまま冷やかしになるのもなぁと視線を滑らせた先に見つけたのが、この茶色い小瓶だった。
『ご興味あります?』と、さすが商売人。私の目色が変わったのを見抜いたらしい。芝居がかった風にキョロキョロと辺りを見まわし、手壁を作った彼は一段と声を潜ませて『これ、媚薬なんですよ』と言った。
『感度が上がるってんで奥さま方に人気でね。男に使やぁ、一晩中元気満々!いかがです?』
 一晩中! 明け透けに下っぽい話をされて顔がカッと照る。ただそれだけじゃなく、薬の効果にも目を剥いた。それでなくとも彼は精力的な性質だし、こういった助けが必要になるような歳でもない。いかがです、と言われたとして買うわけない。と思ったけれど、なぜか返事に戸惑ってしまった自分もいる。
 彼と肌を合わせるようになって幾星霜。当初こそねっとりと愛してくれた彼は、一つ屋根の下で暮らすようになってからというもの、やけにあっさりしている。割り切った関係なのだと自分自身で分かっているつもりだけれど、彼から知らない甘いニオイが漂ってきたとき、砂漠の夜より胸の中が冷えていき、このまま動物のように冬眠出来たら良いのにと思うことだってある。
 これを使えば、少しは昔みたいに愛してくれるかな。私を獲物だと思ってくれていただろうときの指先が、ふと頭の中に蘇ってしまった。
 『恋人とのマンネリな夜に』と付け足された瞬間にくださいと返したものだから、商人は呆気に取られ、次の瞬間に笑った。私は顔を覆うばかりである。
 ダメで元々、口車に乗せられたとして、高い勉強代だったと割り切ろう。
 彼が帰ってきた日、計画は実行された。コップに一匙の媚薬。ニオイや味でバレたらいけないと思い、リンゴやイチゴを漬けたフルーツウォーターに混ぜて夕餉に供した。
 「こうすると香りがついて美味しくなるんですって」と説明すれば、彼は「なんとまぁ贅沢な水ですねぇ」と呆れながらも飲みほしてくれた。
 よし、と内心で拳を握ったのも束の間、彼の様子は普段と比べて変哲がない。ご馳走様でしたと夕餉を完食し、湯浴みを済ませ、刀の手入れをして、少しばかり読書をし・・・今は既に布団の中だ。なぜ。
 やっぱりこんなの眉唾か。指先でコロコロと弄りながらも腑に落ちなくて、ほんの少し指先に垂らしてみる。無色透明のサラリとした媚薬。甘ったるいにおいを確かめてから舐めてみて、じわぁ、と舌先に熱が広がっていくのを感じた。摂取する量が肝要なのだろうか? 舌の上で転がすように味わうけど、確かに何も起こらない。
 ま、仕方ない。釈然としないけど、実は家政がまだ終わっていない。汚れ切った装束をせめて石鹸水に漬け置こうと思って、私は水場へと足を進めた。
「あぁ。そういうことでしたか」
 背中に低い声。びく、と跳ねた勢いのまま振り返ると、寝室で布団をかぶっていたはずの彼が立っている。
 しかもあろうことか、指先で持ち上げてるのは例の小瓶じゃないか。さあっと血の気が引いて、私は言葉を失った。
「何やら様子がおかしいなとは思っていたのですよ。なかなか手に入らないイチゴを、たかが水のために使うなんてとね。なるほどニオイ消しでしたか」
「ち、違います! あれはほんとにフルーツウォーターが飲みたくて!それは私が個人的に使ってる、薬で!」
 呆れたように眉尻をさげてみせる彼は、それがなんなのかを知っていたのかもしれない。「個人的に、ねぇ」と意味深に繰り返しながら、手に収まったそれを見つめる。
「よもや同輩に盛られるとは思いませんでした。それも、私の家政婦である貴女に」
「も、盛ってなど・・・」
「ただ、残念でした。私はこういった類の薬は効かない性質でして」
 口端を曲げて笑うものだから、肩透かしだ。と思ったのも束の間、彼が信じられない行動に出る。
「だから、気になってたのですよ。どれほどで効き目が出るのか」
 唇に瓶の口を宛がったと思ったら、彼はそれをゆっくりと傾けた。呆気に取られている内に、半分残っていたそれが二度ほど喉仏を動かしただけで無くなってしまう。
 っはぁ、と息を吐いた彼が、液体に濡れた唇を手の甲で拭い、ニッと目を細めた。
 ぎ、ぎ、と木の床を軋ませながら、彼がすぐ私の目の前に迫ってくる。
「お望みだったんですよね、付き合ってもらいますよ」
 お腹に突きつけられたのは、芯を感じる人の肉。
 陰の中、とろりと蕩けた彼の瞳に、私は生唾を呑み込んだ。
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