2024/12月(7~37)
「あ、アッカレから帰ってきたばかり・・・なんですか?」
何気ない談笑での一幕。十数日ぶりに会った彼が、にわかに信じられないことを口にした。
彼がコーガ様から依頼された業務を終えたのは、昨日という話だ。アッカレからゲルド間なんてとても二日で踏破できる距離ではないし、かといえ真面目な彼が嘘を吐いているとも思えない。
目をパチクリさせていると、彼はネイルポリッシュを塗る手を止めずに「ああ」と声だけで頷く。
「昨日、と言っても、日を跨いだばかりだったから実質三日だ。馬とザラシを乗り継いでな。さすがにここまで強行突破をしたのは初めてだが」
「なんでそんな無茶を・・・」
「なんでって、今日会うと約束をしていただろう」
「き、今日会うって約束してただけで、そこまでの無茶をしたんですか!?」
いくらイーガへの入団を果たしたばかりの新人と言えど、数日も居れば幹部役がどれほど忙しないかくらい分かる。私との逢瀬という、たったそれだけの約束を守るために、途方もない距離を急いだと?
荒げた声に、漸く彼の面が持ち上がる。だけど、その瞬間に彼は何も言わなかった。なんの音もしない、静謐な時間。ただただ赤い印同士で見つめ合う。
「・・・じゃないと、これがそのままになってしまうだろう。お前はまだ上手く塗れないと思っていたが?」
言いながらまた視線を落とし、彼は刷毛を動かし始める。今度は私が何も言えなくなった。
彼が言った”これ”とは、爪の保護のために塗るようになったネイルポリッシュのことだ。
確かに、何度やっても、特に右の爪など一向に上手く塗れる気がしないし、ムラになったり装束につきそうになったり散々な目に遭っている。自分はこれほどまで不器用だったのかと、挑戦の度に思い知らされているようだ。そしてこのところ、自分で補強しようと思い立った瞬間に「あと数日すれば、彼にしてもらえるのだし」と頭をよぎることだって、正直に言えば0じゃない。
彼はとても無骨な人で、言葉だって最小限だ。今も気持ちが続いているかどうか、不安にさいなまれることだってある。
だけど、爪先に注視している刹那。カサついた指先を下から掬い上げる仕草が、暗殺の使徒とは思えないほど丁寧で、繊細で・・・愛おしくって。
「貴方ってまるで、・・・いえ、これはさすがに思い上がりかも」
ふと零れてしまった内心。彼の瞳が持ち上がる。
「・・・なんだ、言ってみろ」
「・・・少し、恥ずかしいです。あくまで、貴方がそう見えた、というだけの話ですから」
「いいから、ほら」
「えっと、貴方ってまるで・・・近衛のようだな、と」
私自身が、姫のように扱われている気になってしまって。
紡いだ瞬間、彼がはたと黙り込み、それから「なるほど」と息を漏らす。
「自分を姫に見立てたわけだな? それは憧憬か?」
「だからっ、違うと言ってるでしょう!意地悪な人!」
「ふふ・・・。しかし俺を近衛とは、お前も人が悪いな。俺はどこまでいっても影に生きる人間だ」
「そうかもしれませんが、でも・・・重なってしまったんです。手の甲へ忠義を受ける姫と、・・・貴方に手を取られている、今この時が」
それになりたいと思ったことなど一度もない。ただ、あまりにも目の前の彼が、私に優しく触れてくれるから。
それから、また二人して黙った。そのままでいるのは、なんだかいたたまれなくて、「あ、あくまで貴方が、という話ですからね」としどろもどろに口を回すと、彼は俯いたまま黙々と作業を終わらせ、刷毛を小瓶に戻していく。
それから、彼は、私の面をまじと正面から見据えた。空気がぴっ、と厳かさを纏って辺りに広がったのが分かった。
まるでそうしなければいけないように、背筋を伸ばした途端──片手で私の指先を掬いながら、彼がその場で片膝立ちになる。それから彼の仮面を少しだけずらして、手の甲へ寄せた。
押し付けられたのは、柔らかくて暖かな忠義の感触。数秒して、仮面の使徒はふと離れていく。
「あなた、なに・・・」と言葉を失う私に向けられる真剣な口元。
ややあって、それが呆れたような笑みと共に崩れる。
「姫というには、お前は驚き過ぎだな」
ああ、この人は。どこまでも静かに、私に知らない高ぶりを植え付けていく。
だけど、こちらばかりがそぞろにされるのも悔しい。私は彼の顎を指さした。
「・・・近衛であれば、顎にそれをつける失態はしませんけどね」
爪へ塗ったばかりの赤いネイルポリッシュ。すぐさま顎に触れる彼の慌てようが可笑しくて、私はふふっと息を漏らした。
何気ない談笑での一幕。十数日ぶりに会った彼が、にわかに信じられないことを口にした。
彼がコーガ様から依頼された業務を終えたのは、昨日という話だ。アッカレからゲルド間なんてとても二日で踏破できる距離ではないし、かといえ真面目な彼が嘘を吐いているとも思えない。
目をパチクリさせていると、彼はネイルポリッシュを塗る手を止めずに「ああ」と声だけで頷く。
「昨日、と言っても、日を跨いだばかりだったから実質三日だ。馬とザラシを乗り継いでな。さすがにここまで強行突破をしたのは初めてだが」
「なんでそんな無茶を・・・」
「なんでって、今日会うと約束をしていただろう」
「き、今日会うって約束してただけで、そこまでの無茶をしたんですか!?」
いくらイーガへの入団を果たしたばかりの新人と言えど、数日も居れば幹部役がどれほど忙しないかくらい分かる。私との逢瀬という、たったそれだけの約束を守るために、途方もない距離を急いだと?
荒げた声に、漸く彼の面が持ち上がる。だけど、その瞬間に彼は何も言わなかった。なんの音もしない、静謐な時間。ただただ赤い印同士で見つめ合う。
「・・・じゃないと、これがそのままになってしまうだろう。お前はまだ上手く塗れないと思っていたが?」
言いながらまた視線を落とし、彼は刷毛を動かし始める。今度は私が何も言えなくなった。
彼が言った”これ”とは、爪の保護のために塗るようになったネイルポリッシュのことだ。
確かに、何度やっても、特に右の爪など一向に上手く塗れる気がしないし、ムラになったり装束につきそうになったり散々な目に遭っている。自分はこれほどまで不器用だったのかと、挑戦の度に思い知らされているようだ。そしてこのところ、自分で補強しようと思い立った瞬間に「あと数日すれば、彼にしてもらえるのだし」と頭をよぎることだって、正直に言えば0じゃない。
彼はとても無骨な人で、言葉だって最小限だ。今も気持ちが続いているかどうか、不安にさいなまれることだってある。
だけど、爪先に注視している刹那。カサついた指先を下から掬い上げる仕草が、暗殺の使徒とは思えないほど丁寧で、繊細で・・・愛おしくって。
「貴方ってまるで、・・・いえ、これはさすがに思い上がりかも」
ふと零れてしまった内心。彼の瞳が持ち上がる。
「・・・なんだ、言ってみろ」
「・・・少し、恥ずかしいです。あくまで、貴方がそう見えた、というだけの話ですから」
「いいから、ほら」
「えっと、貴方ってまるで・・・近衛のようだな、と」
私自身が、姫のように扱われている気になってしまって。
紡いだ瞬間、彼がはたと黙り込み、それから「なるほど」と息を漏らす。
「自分を姫に見立てたわけだな? それは憧憬か?」
「だからっ、違うと言ってるでしょう!意地悪な人!」
「ふふ・・・。しかし俺を近衛とは、お前も人が悪いな。俺はどこまでいっても影に生きる人間だ」
「そうかもしれませんが、でも・・・重なってしまったんです。手の甲へ忠義を受ける姫と、・・・貴方に手を取られている、今この時が」
それになりたいと思ったことなど一度もない。ただ、あまりにも目の前の彼が、私に優しく触れてくれるから。
それから、また二人して黙った。そのままでいるのは、なんだかいたたまれなくて、「あ、あくまで貴方が、という話ですからね」としどろもどろに口を回すと、彼は俯いたまま黙々と作業を終わらせ、刷毛を小瓶に戻していく。
それから、彼は、私の面をまじと正面から見据えた。空気がぴっ、と厳かさを纏って辺りに広がったのが分かった。
まるでそうしなければいけないように、背筋を伸ばした途端──片手で私の指先を掬いながら、彼がその場で片膝立ちになる。それから彼の仮面を少しだけずらして、手の甲へ寄せた。
押し付けられたのは、柔らかくて暖かな忠義の感触。数秒して、仮面の使徒はふと離れていく。
「あなた、なに・・・」と言葉を失う私に向けられる真剣な口元。
ややあって、それが呆れたような笑みと共に崩れる。
「姫というには、お前は驚き過ぎだな」
ああ、この人は。どこまでも静かに、私に知らない高ぶりを植え付けていく。
だけど、こちらばかりがそぞろにされるのも悔しい。私は彼の顎を指さした。
「・・・近衛であれば、顎にそれをつける失態はしませんけどね」
爪へ塗ったばかりの赤いネイルポリッシュ。すぐさま顎に触れる彼の慌てようが可笑しくて、私はふふっと息を漏らした。