Eine Kleine Ⅱ
教皇宮の執務室に、分厚い封蝋のついた招待状が静かに置かれていた。
エルダニア王国――アリシア王女、21歳の誕生祝賀パーティー。
元々、教皇が公の場に姿を現すなど、長い聖域の歴史では想定外のことだった。しかし、世界は変わり続ける。人の信仰も、国と国との関係も、今や透明な外交の中に置かれている。
シオンは封書を指先でなぞりながら、微かに息をついた。
「……この季節に、ギリシャを空けねばならぬとはな」
これまではクリスマスなどどうでもよかった。だが、今年ばかりはただの行事ではない。
メリッサの恋人として迎える初めての冬。若いメリッサには、クリスマスという日は特別な一日に違いない。シオンと過ごすその日をどれだけ楽しみにしているか。毎年、この時期になるとどこか浮き足立っている若い兵士や官吏たちを見ていれば、容易に想像できる。それなのに、彼女の傍にいられない。しかも、数日どころか、公務の関係でクリスマス前後はずっとギリシャにいない。
「……寂しがるだろうな」
呟いた瞬間、否定するように首を振った。
(いや……私が寂しいのか)
自覚した途端、胸の奥がじんわりと熱くなる。249歳の聖域教皇とは思えないほど、反応が若い。いや、肉体が19歳である以上、当たり前なのかもしれないが。
それにしても、この恋はあまりに鮮烈すぎた。
「ほんの数日、会えぬだけだ。平常心を保て」
そう言い聞かせながらも、表情はどうしても沈んでしまう。
その頃、メリッサは彼の不在など知らず、港で撮った写真をアルバムに貼り、今日の日付と優しい言葉を綴っていた。
(シオン様、喜んでくれるかな……)
そんな思いで胸を弾ませながらアルバムのラッピングに試行錯誤中だった。
二人のすれ違いが始まっていることを、まだ知らないまま。
祝賀パーティーは世界の王族・大使・国家元首が顔をそろえる国際的な社交の場だった。
かつて、サガがシオンに成り代わり教皇を務めていた頃、数回だけ仮面舞踏会へ出席していたことから“聖域教皇が外に出る”という前例が既に作られている。
今回、エルダニア王国は“新世代の教皇であるシオンと、より良い関係を築きたい”という意向を強く持っており、出席はほぼ必須だ。
シオン自身も外交を軽んじる気はない。聖域が閉ざされた存在でい続ける時代はとうに終わっている。堂々と表の世界に顔を売るのは避けるべきなのだが、教皇宮で座しているだけで寄付が集まってくるわけでもない。聖域を支えるためには莫大な資金が必要なのだ。
「……メリッサに、早めに伝えねばならんな」
だが、どう言えば良いだろう。
彼女は表には出さないが、心の奥でいつも孤独を抱えている。今年は特に、母を亡くした後だ。
クリスマスの寂しさは、ひどく沁みるだろう。
シオンは、胸の奥が握り潰されるように痛むのを感じた。
聖域は、古代から変わらず“地上の均衡を守る拠点”であった。しかし、時代は移り変わる。神話の時代とも異なり、人類が自らの文明と技術を極限まで発達させた現代において、聖域の存在は、もはや“隠されていること”そのものに価値があった。
大々的に名を掲げることはない。国際社会で発言権を主張することもない。代わりに、世界の裏側――闇に潜む異族や、魔物の群れ、封印が綻びた古代の怪物。それらを、誰にも気づかれぬまま鎮めていく。
聖域の財政は、意外にも複雑である。
神族・魔族など超常存在の討伐、封印、調整の“謝礼”、世界各地からの寄付、私的な献金、聖域の技術援助に対する対価などが主な収入源だ。
“謝礼”という名目だが、実際には人外の脅威を鎮圧する救援活動——国家単位では到底対応できない災厄に対する“命の保険料”のようなものだ。
だが一方で、聖域には厳格な“不介入の境界線”がある。国家間・民族間の戦争には一切介入しないのだ。
人の都合で起こる戦争は、人が解決すべきもの。それが、神話の時代から続く聖域の鉄則だ。
聖域は絶対的な中立である。その立場を揺るがせば、地上は再び“神々の代理戦争の場”になってしまう。それだけは許されない。
だが、現代は聖域にとっても厳しい時代だ。
科学が神を軽んじ、人の信仰心は薄れてゆく。魔物討伐よりも軍事力や経済力に重きをおく国家が増えた。
寄付は減り、謝礼も“表に出せない支出”として削られ始めている。世界経済の低迷で、秘密裏の出費は真っ先に縮小されるのだ。
聖域の歳入は、目に見えぬところでじわじわと減り続けていた。
だからこそ、教皇が動かねばならない。かつてなら、教皇は黄金の玉座に座していればよかった。神の御使いとしての存在そのものが威厳であり、抑止力だった。だが、世界が神秘を信じなくなった今、教皇が外交の場に姿を現すことは、聖域の存続に関わる“必要な行為”になっていた。
シオンは、公務を好むわけではない。むしろ、生涯のほとんどを戦場と聖域で過ごした彼には、社交界ほど不慣れで苦手な場もない。
しかし、アテナの神力が消失してしまった今、聖域を保つ責任は彼一人の肩にある。
その重責を理解しているゆえに、アリシア王女の誕生祝賀パーティーへの出席も断ることはできなかった。
聖域の統治構造は、古代から変わらず“神は姿を見せない”という原則の上に成り立っている。
アテナ、ヘスティア、アルテミス——
いかなる神であれ、人類社会の政治・外交の場に自ら姿を現すことは絶対にない。神々が公に交渉の席につくという行為そのものが、地上の秩序へ過剰な干渉を意味するからだ。
ゆえに、地上での聖域の代表者として立つのはただ一人、教皇だけなのだ。
教皇は、アテナの御意思を地上に伝える唯一の存在。その立場は宗教的権威であると同時に、政治・外交面での最高責任者でもある。
外の世界から見れば“教皇 = 聖域の頂点 = 神々の代弁者”という図式が成り立つ。
アテナが現世に存在していても、教皇のこの役割は変わらない。なぜなら、アテナ自身が“地上の争いに直接関わらぬ”という神律を守るからだ。そのため、各国の王侯貴族、財界、宗教指導者、秘匿組織などは、聖域とコンタクトを取る際は必ず教皇を通す。
対外的な“王”がいるとすれば、それは教皇である。
信仰の衰退が進む現代では、“神の存在”が政治力としての説得力を持たなくなった。だからこそ、教皇自身が外交の席に立たねばならない。
教皇の言葉はアテナの意志であり、聖域そのものの意志である。この一点が揺らいだ瞬間、聖域の存在意義が否定され、世界の混迷を止める力を失ってしまう。
シオンは、そのことを最もよく理解している。
彼がエルダニア王国の祝賀パーティーへ向かうのも、単なる礼節のためではない。
教皇が出席するということは、聖域はこの国を庇護の範囲内に置く、という“無言のサイン”なのだ。
この事実は、各国の軍部や財界ですら理解している。ゆえに、教皇が姿を現す場ではその空気は一変する。
緊張、畏怖、期待。どれほど国が近代化しても、人々は本能的に“聖域”と“教皇”を畏れる。
エルダニア王国王城。
白大理石の広大な舞踏の間は、冬の光を散りばめたシャンデリアに照らされ、氷のように透き通った輝きを放っていた。
王女アリシアの誕生日を祝うため、各国の王族、貴族、財界の重鎮から宗教指導者まで、名だたる顔ぶれが勢揃いしている。
そのざわめきが、一瞬にして静まり返った。
「教皇猊下がお見えです」
侍従の声が響くと、まるで湖面に落ちた雫が広がるように、場の空気が張り詰めた。
ゆっくりと扉が開く。
そこに現れた青年は、誰もが思っていた“教皇”の姿とは違った。
金の髪を短く整え、夜のように深い紫眼が静かに光を受けている。漆黒のフォーマルに身を包んだその姿は、威厳よりもまず“美しさ”が目に飛び込んでくる。
――若い。あまりにも若すぎる。
しかし、誰一人として軽んじる者はいない。
彼の歩みは、たった一歩であっても、恐ろしいまでに重厚だった。
ただ者ではない。その事実だけで、人々は息を呑む。
シオンは王と王妃に挨拶をし、祝福を述べる。
「アリシア王女にアテナの御加護がありますように」
その声音は落ち着き払っていて、年齢を遥かに超えた威厳を帯びていた。
シオンが一歩後ろに下がり、舞踏の間へと視線を向けた瞬間、会場のあちこちでひそかなため息が上がる。
「……本当に教皇猊下?」
「まだ10代じゃないの……?」
「まるで物語の王子様みたい……」
若い令嬢たちは、うっとりと見惚れたまま動けずにいる。
中にはシオンへ向けて歩み寄ろうとする者までいた。侍女に引き留められながらも、一度も目をそらさない令嬢たち。
その視線の熱さに、シオン自身は困惑を覚えていた。
(……やはり、こうした場は苦手だ)
威厳のある態度で振る舞おうとしても、令嬢たちの視線が斜め45度から突き刺さってくる。気づけば、彼の周りには小さな人だかりができていた。
「猊下、あまり離れないでいただけると助かります……」
同行していた老侍従が小声でそう嘆息した。
「どうも……女性方の視線が、刺さるようでして……
これでは警備が……いや、品格が……いや、とにかく……」
シオンは静かに目を伏せる。
「私が目立てば、王女殿下の祝いの席を乱してしまう。少し距離を置くとしよう」
老侍従へ耳打ちし、壁際へと控えめに移動する。
だが、それがいけなかった。
シオンが壁の近くに立つと、そこへ群れるように淑女たちが吸い寄せられた。
舞踏会では主役の周囲より、壁側のほうが接触しやすい。しかもシオンは、話しかけられれば律儀に応じてしまう。
彼の柔らかな微笑みに、令嬢たちは胸を押さえて頬を染めた。
「猊下、踊っていただけませんか」
「光栄ですが……私は本日は一来賓でして…王女殿下のお祝いが第一です」
やんわり断るが、断られるほど惹かれてしまうのが若い乙女の性。彼が微笑むたびに、気絶しそうな令嬢も現れる始末だ。
その中にあってもシオンの視線は決して誰にも向けられない。
心の奥にあるのは、ただ一人の女性だけだ。令嬢たちがどれほど近づこうと、彼の胸に浮かぶのはメリッサの姿だけだった。その“気配”を察してか、令嬢たちはどこか届かない壁の存在を感じ取っていた。
エルダニア王宮の大広間。
金の光を帯びた冬のシャンデリアが天井から滴り落ちるように輝き、弦の調べが優雅に場を満たしていた。扉が静かに開く。入場の合図とともに、空気が澄んだ。
金の髪、菫色の瞳。
新しい“聖域教皇”として知られる青年、シオンがその姿を現した瞬間だった。
本来、王女の誕生祝いであるはずの祝宴が、一呼吸で別の色に染まる。
一斉に向けられる視線。
その密度の高さに、シオン自身もわずかに瞬いた。だが、動じることなく、静かに歩みを進める。
まるでこの世の光源の全てが、彼の周囲に集まっているかのようだった。
「……あれが、聖域教皇……」
「20にも満たないのに……あの威厳と気品……」
令嬢たちの囁きが広がる。
乾杯の後、音楽が緩やかに切り替わり、ダンスの時間となる。
その瞬間だった。令嬢たちが、色めき立った。
「教皇猊下……もしよろしければ、一曲……」
「お相手いただけますか?」
「どうか私に栄誉を……」
貴族の娘たちが礼儀を尽くして順番を守りつつも、明らかに競い合う気配が渦巻いている。
何しろ、“20歳になる直前に、ようやく社交界に姿を見せた新教皇”という触れ込みは、既に王都の噂になっていたのだ。
本来、教皇が外へ出向くことなどあり得ない。それが現代に入り、政策方針が変わりつつあるとはいえ、“会えるうちに会っておけ”という熱が、令嬢たちを動かしていた。
シオンは誰に対しても丁重で、過度に距離を詰めることもなく、ただ静かに相手に敬意を示す。
節度ある立ち振る舞いが、さらに彼を“手の届かない理想像”にしていた。その様子を、アリシア王女は壇上から見つめていた。本来ならば、ファーストダンスを申し込むのは主役である王女の特権。
皆が知っている。
だから、令嬢たちは“ダンスの真の一番手”を遠慮していた。しかし、肝心のアリシア王女は、胸の前で指を絡めたまま動けずにいた。
「……どうしましょう……話しかけられない……」
控えめで、人前が得意ではないアリシア王女。何より、目の前の青年があまりに美しく、荘厳で、遠い。
「わ、私なんかが……」
王女としての優位性よりも、女子としての羞恥と憧れが勝ってしまう。
女官がそっと促す。
「アリシア様、猊下がご覧になっています」
「……っ、無理よ……」
心のどこかで理解している。このままでは、主役である自分が一曲も踊れず、全ての“最初の瞬間”を他の令嬢に奪われてしまう、と。
分かっているが、それでも足が動かない。
シオンはダンスを申し込まれるたびに微笑み、礼を返しながら、ちらりと主役席へ視線を向けた。
王女の肩は強張り、まるで氷の像のように固まっている。
(……困ったな)
“押しのけてくればいい”などという考えは彼の中にない。むしろ、王女の繊細さを思えば、あれほどの視線の中で歩み出せないのは当然だ。
心の内で小さく息をつく。
(……メリッサならどうしただろう)
ふとそんなことを思ってしまい、それを思った自分に気づいて、胸の奥がわずかに揺れる。
令嬢たちの申し出は止まらない。それにひきかえ控えめな王女は動けないままだ。
その微妙な均衡を破るのはシオン自身の一歩かもしれない。
彼はどう動くべきか。主役を立てるべきか。それとも、距離を取りすぎず、王女に寄り添うべきか。
ダンスホールの空気は甘やかに華やいでいるはずなのに、どこか張りつめている。
原因は明らかだった。
――聖域教皇シオン。
彼がわずかに歩を進めるだけで、令嬢たちの視線は一斉にそちらへ集まり、周囲の令息たちは呼吸を飲む。
そんな状況を、シオン自身も理解していた。
淑女たちが熱を帯びて迫ってくる一方で、同世代の若い令息たちの動きは実に静かなものだった。まるで、「勝てるわけがない」と本能で悟ってしまっているかのように。
遠巻きに眺め、ときおり小声で囁き合うだけで、自分から令嬢に近づこうとする者は、ほとんどいない。
これでは、主役の王女に冴えた舞台が回ってこない。
シオンは心の中で小さく苦笑した。
(……男子たるもの、もう少し勇ましくあってもよいだろうに)
たった一人を相手に、全員が怯えて座しているというのは、少々寂しい。
(本来なら、己の意中の令嬢に堂々と申し込めばよいものを……近頃の若い者は、肝が据わっておらぬのか……)
嘆息が胸の奥でそっと広がる。男女の間に立つ空気は、本来もっと自由で、もっと奔放で、もっと愉しいものだ。聖域で育ったシオンがそう思うほどに、目の前の光景は不自然だった。
令息たちはシオンを“勝ち目のない敵”と見なし、令嬢たちは“手の届かない理想”として憧れを募らせる。
結果として、たった一人の青年の動向で、夜会そのものが左右される。それは過剰な注目であり、同時に社交界が抱える繊細な空気の表れでもあった。
(……全く。これでは、私の振る舞い一つで場が崩れる)
やれやれ――と、心の中で肩をすくめる。だが、外に出るのは静謐な微笑みだけだ。彼の呼吸は一定で、気品の揺らぎ一つない。
それがまた、彼を“手に届かない存在”として際立たせてしまうことに、本人はまだ気づいていなかった。
令嬢たちの誘いを、シオンは一つ一つ、静かに微笑みを添えて辞していった。断るたび、相手の瞳に小さな落胆が宿るのが見えたが、それでも彼の所作には一片の棘もない。むしろ、彼に断られることすら特別な思い出になってしまいそうな、そんな柔らかな気品があった。だが、その温和な拒みが繰り返されるほどに、会場の空気はじわりと“先が読めない緊張”で満ちていった。
(……さて、これ以上は無益だな)
シオンは状況を即座に読み取り、思考を巡らせる。このままでは、場が停滞してしまう。夜会とは、本来もっと軽やかで、流動的で、喜びの連鎖であるべきだ。だが、彼が断るたび、周囲の令嬢たちは息を潜め、令息たちはますます臆してゆく。
(主役である王女殿下に迷惑をかけるわけにはいかぬ)
シオンは短く息を吸い、令嬢たちの輪から自然に抜け出し、ゆっくりと会場の中央へ視線を向けた。
アリシア王女。
控えめで、華奢で、夜会の喧騒から半歩下がった位置で大人しげに佇む女性。美しいドレスに身を包んでいるのに、どこか所在なげで、『自分は主役に相応しいのだろうか』と問いかけているような気さえする。
シオンは歩き出した。
音もなく流れるような足取りに、場の空気が震えた。会場のざわめきがすっと引き、視線が一斉に彼へ集まる。
アリシア王女は驚いたように目を瞬かせ、ゆっくりと姿勢を整えた。
シオンは敬意を尽くした、深い一礼を捧げる。
「アリシア王女殿下。今宵の主役たるあなたに、敬意と祝意を込めて、最初の舞をともに踊る栄誉を、私にお与えいただけますか」
王女の頬が、冬薔薇の蕾のようにぱっと赤く染まった。その変化は、シオンでさえ瞬きを忘れるほどの鮮やかさだった。
本来であれば、主役である彼女が彼に申し出る権利があったはずなのに、控えめな性格ゆえに叶わなかった願い。それを、世界の均衡を司る教皇シオンが、彼女に差し出した。
令嬢たちの息を呑む気配。
令息たちのたじろぐ気配。
その全てが、彼の所作ひとつで塗り替えられていく。
アリシア王女は、胸に手を添え、かすかに震える声で応じた。
「……光栄にございます、教皇猊下」
囁くような声は、ホールのざわめきに溶けてしまいそうで、シオンは自然と距離を詰めて聞き取った。
差し出した彼の手に、王女がそっと触れる。その指先は小さく震え、花弁のように頼りなく、けれど懸命に気丈さを保とうとしていた。
シオンは思う。
(これでようやく、この場も動き出すだろう)
夜会の中心に立つ男は、誰よりも冷静に、そして誰よりも優しく場を整えていた。
令嬢たちは一瞬だけ互いの顔を見交わし、ようやく気付いたように微笑を浮かべた。
――ああ、だから断られたのだ
誰の目にも、シオンがこの場の均衡を保つために動いたことは明らかだった。
気を悪くする者は一人としていない。むしろ、完璧な礼節と穏やかな所作で断りを入れたその姿に、彼への憧れが一層強まってしまったようだった。だが、彼女たちは聡明だった。ここで感情を露わにしては、かえって彼の立場を乱すことになると理解している。
「では、私たちは私たちの役目を果たしましょうか」
小さく囁き合うと、令嬢たちはそれぞれ背を伸ばし、優雅な歩みでホールの中央へ向かった。
新たな曲が始まる。軽やかで深みのあるワルツの旋律が、冬の夜の空気をあたためるように広がっていく。
誰かに誘われたり、あるいは自ら手を差し出したりしながら、令嬢たちはすぐに踊りの輪へと加わっていった。
ドレスの裾が花弁のように広がり、宝石のきらめきが弧を描く。
彼女たちの動きには張り詰めた競争心も、無用な虚勢もない。ただ、洗練された貴族の娘としての誇りがあった。
シオンを断らせてしまったのではない。シオンが“この場を守るために”彼女たち全員を等しく立てたのだと、誰もが理解していた。
曲が始まると、シオンはゆっくりと王女の腰に手を添え、軽やかにステップを踏み出す。だが、王女は緊張のあまり身体が強ばってしまっている。一歩目からぎこちなく、足さばきは硬く、視線も床に落ちたままだ。
「大丈夫です。私に合わせて」
声を潜めて優しく誘導すると、王女は小さく頷いた。
しかし、緊張の波はそう簡単には引かない。ふとした拍子に王女のつま先がシオンの甲に触れ、かすかに踏んでしまう。王女ははっと息を呑み、みるみるうちに顔が青ざめた。
「も、申し訳ありません……っ」
「構いませんよ。少し肩の力を抜いて――そうです」
彼は気にするそぶりさえ見せず、ただ穏やかにリードし続ける。けれど、王女は自分の粗相が恥ずかしくてたまらないらしく、目を上げることができない。
その後も、手の位置を迷ったり、ステップを半拍ずらしたりと、いくつかの小さな乱れがあった。だが、シオンはすべてを受け止め、滑らかに動きへ溶かし込んでいく。まるで、王女の不安をそっと包み隠すように。
曲が終わりに近づき、最後のターンを回る。王女はなお一度も顔を上げず、ただ震える声で繰り返す。
「教皇猊下……失礼ばかりで……私……本当に……」
シオンはその声を遮らぬまま、そっと手を離し、一礼した。その所作はあくまで誠実で、王女を責める影など一片も含んでいない。
「殿下のおかげで、優雅な時間をいただきました。ありがとうございました」
その穏やかさに、王女はさらに胸を詰まらせ、結局最後までシオンの顔を見ることができなかった。
曲が終わり、王女の震える指先がそっと離れていく。シオンは深く丁寧に礼をし、その金の前髪が柔らかく揺れた。その所作だけでも、周囲の令嬢たちの息が止まるほどだったが、アリシア王女にとっては、世界の全ての色彩が煌めきを放つほどの衝撃だった。
「……ありがとうございました、殿下」
シオンの柔らかな声が、王女の耳元に残る。その一言にこめられた敬意と寛容。自分の未熟さを咎めるどころか、美しい礼節の中にそっと包み込んでくれた優しさ。王女は、何か温かいものが胸の奥で静かに灯るのを感じた。
(こんな方が、この世に存在するなんて)
王女の視界は、いつの間にかシオンの姿ばかり追うようになっていた。ホールの中央で軽く礼を返し、次に挨拶へ向かうまでの短い動きですら、洗練された威厳と若さの繊細な輝きが同居している。
その立ち姿は、同年代の青年とは比べものにならない静かな風格をまとい、背すじの伸びた影だけで周囲の空気が変わってしまうほどだった。
だが王女が恋に落ちたのは、その外見だけではない。つい先ほどまで、自分は緊張で何度も粗相をした。何度もシオンの足を踏み、手が震え、呼吸すら乱れた。それでも彼は、ほんの一瞬たりとも不快を滲ませなかった。むしろ、すべてを受け入れ、吸い込むように穏やかに導いてくれた。
ああ。こんなに優しい方がいらっしゃるなんて。
王女は胸に手を当て、ひそかに息を整えた。自分の鼓動が、普段よりもずっと速く、熱く、真っ直ぐに跳ねている。
それは、はじめて感じる種類のものだった。
憧れとも違う。尊敬だけでは説明がつかない。ただ、シオンの姿を目で追うたびに、胸がそっと疼き、
先ほど握った手の温度が蘇ってくる。
恋だ、と気づいたときには、もう遅かった。
王女の頬は自然に紅潮し、視線はどこかすがるように揺れていた。
この日、アリシア王女は確かに恋に落ちた。若く慎ましい王女が生涯で初めて出会った、“救いのような優しさ”を持つ男性に。
その相手が、聖域教皇という手の届かぬ存在だと知りながらも。アリシア王女の頬に宿る淡い紅潮。視線はひたすらシオンを追い、その光は恋する女性のそれであった。
王女のその様子を、国王アンドレアスは遠くから静かに見つめていた。杯を口に運びながら、口元にかすかな笑みを浮かべる。まるで長い年月を費やして育ててきた果樹に、ようやく実が成ったのを確認するかのように。
やはり、狙い目だ。
エルダニアは豊かな大地を持ちながら、資源に乏しい小国。先々代国王が、農業と並んで国力の柱として選んだのが、製薬事業だ。長年、多額の予算を投じてきたその成果がようやく外の世界にも認められつつある。
だが、まだ足りない。他国に対して決定的な優位を築くには、確たる後ろ盾が要る。
各国の王侯貴族、要人、財界の重鎮――
今日のパーティーへ招いたのは、いずれもそのためだ。アリシアを“有力な家”と結びつけるために。
だが、誰もが霞んで見える。圧倒的な光を放つ一人の人物の前では。
あの若さであの威厳と風格。そして、政治の場に現れたのは今回が初という。
聖域教皇シオン。
アテナの地上代行者にして、古代より続く武の象徴。世界中の国家元首が知っていながら、決して表立つことはない存在。その神秘性は他に代えがたく、何より“信仰”という絶対的な支柱を背負っている。
アリシアが恋に落ちるのも無理はない。だが、それ以上に、国王自身がその価値を嗅ぎつけていた。
「アテナの聖域……その権力の実態は未だ闇の中だが、利用できるなら、これほどの後ろ盾はない」
王は視線を細め、遠目にシオンの立ち姿を観察する。立ち居振る舞いは優雅で、どの令嬢にも分け隔てなく礼を尽くす。だが、どこか冷ややかな壁のようなものがある。近づけぬほどの神聖さと孤高――それがむしろ王には好ましく映った。
「アリシアが惚れるのも当然だな……」
杯をテーブルに静かに置き、側に控える側近へと顔を寄せる。
低く、誰にも聞かれぬ声で命じた。
「……あの若造の身辺を洗え」
その声音には、王としての権謀術数と、小国を守るためならばどんな策も使うという強かさが滲んでいた。
側近は無言で一礼し、影のようにその場から消えていく。
国王アンドレアスの視線は、再びシオンの背中へ向けられる。彼の目は笑っているが、その奥には冷徹な計算が宿っていた。
エルダニアに必要なのは、“力”だ。そのために王女の恋心が利用できるのなら、それもまた国の未来。
アンドレアスは静かに杯を傾けた。
エルダニア王国――アリシア王女、21歳の誕生祝賀パーティー。
元々、教皇が公の場に姿を現すなど、長い聖域の歴史では想定外のことだった。しかし、世界は変わり続ける。人の信仰も、国と国との関係も、今や透明な外交の中に置かれている。
シオンは封書を指先でなぞりながら、微かに息をついた。
「……この季節に、ギリシャを空けねばならぬとはな」
これまではクリスマスなどどうでもよかった。だが、今年ばかりはただの行事ではない。
メリッサの恋人として迎える初めての冬。若いメリッサには、クリスマスという日は特別な一日に違いない。シオンと過ごすその日をどれだけ楽しみにしているか。毎年、この時期になるとどこか浮き足立っている若い兵士や官吏たちを見ていれば、容易に想像できる。それなのに、彼女の傍にいられない。しかも、数日どころか、公務の関係でクリスマス前後はずっとギリシャにいない。
「……寂しがるだろうな」
呟いた瞬間、否定するように首を振った。
(いや……私が寂しいのか)
自覚した途端、胸の奥がじんわりと熱くなる。249歳の聖域教皇とは思えないほど、反応が若い。いや、肉体が19歳である以上、当たり前なのかもしれないが。
それにしても、この恋はあまりに鮮烈すぎた。
「ほんの数日、会えぬだけだ。平常心を保て」
そう言い聞かせながらも、表情はどうしても沈んでしまう。
その頃、メリッサは彼の不在など知らず、港で撮った写真をアルバムに貼り、今日の日付と優しい言葉を綴っていた。
(シオン様、喜んでくれるかな……)
そんな思いで胸を弾ませながらアルバムのラッピングに試行錯誤中だった。
二人のすれ違いが始まっていることを、まだ知らないまま。
祝賀パーティーは世界の王族・大使・国家元首が顔をそろえる国際的な社交の場だった。
かつて、サガがシオンに成り代わり教皇を務めていた頃、数回だけ仮面舞踏会へ出席していたことから“聖域教皇が外に出る”という前例が既に作られている。
今回、エルダニア王国は“新世代の教皇であるシオンと、より良い関係を築きたい”という意向を強く持っており、出席はほぼ必須だ。
シオン自身も外交を軽んじる気はない。聖域が閉ざされた存在でい続ける時代はとうに終わっている。堂々と表の世界に顔を売るのは避けるべきなのだが、教皇宮で座しているだけで寄付が集まってくるわけでもない。聖域を支えるためには莫大な資金が必要なのだ。
「……メリッサに、早めに伝えねばならんな」
だが、どう言えば良いだろう。
彼女は表には出さないが、心の奥でいつも孤独を抱えている。今年は特に、母を亡くした後だ。
クリスマスの寂しさは、ひどく沁みるだろう。
シオンは、胸の奥が握り潰されるように痛むのを感じた。
聖域は、古代から変わらず“地上の均衡を守る拠点”であった。しかし、時代は移り変わる。神話の時代とも異なり、人類が自らの文明と技術を極限まで発達させた現代において、聖域の存在は、もはや“隠されていること”そのものに価値があった。
大々的に名を掲げることはない。国際社会で発言権を主張することもない。代わりに、世界の裏側――闇に潜む異族や、魔物の群れ、封印が綻びた古代の怪物。それらを、誰にも気づかれぬまま鎮めていく。
聖域の財政は、意外にも複雑である。
神族・魔族など超常存在の討伐、封印、調整の“謝礼”、世界各地からの寄付、私的な献金、聖域の技術援助に対する対価などが主な収入源だ。
“謝礼”という名目だが、実際には人外の脅威を鎮圧する救援活動——国家単位では到底対応できない災厄に対する“命の保険料”のようなものだ。
だが一方で、聖域には厳格な“不介入の境界線”がある。国家間・民族間の戦争には一切介入しないのだ。
人の都合で起こる戦争は、人が解決すべきもの。それが、神話の時代から続く聖域の鉄則だ。
聖域は絶対的な中立である。その立場を揺るがせば、地上は再び“神々の代理戦争の場”になってしまう。それだけは許されない。
だが、現代は聖域にとっても厳しい時代だ。
科学が神を軽んじ、人の信仰心は薄れてゆく。魔物討伐よりも軍事力や経済力に重きをおく国家が増えた。
寄付は減り、謝礼も“表に出せない支出”として削られ始めている。世界経済の低迷で、秘密裏の出費は真っ先に縮小されるのだ。
聖域の歳入は、目に見えぬところでじわじわと減り続けていた。
だからこそ、教皇が動かねばならない。かつてなら、教皇は黄金の玉座に座していればよかった。神の御使いとしての存在そのものが威厳であり、抑止力だった。だが、世界が神秘を信じなくなった今、教皇が外交の場に姿を現すことは、聖域の存続に関わる“必要な行為”になっていた。
シオンは、公務を好むわけではない。むしろ、生涯のほとんどを戦場と聖域で過ごした彼には、社交界ほど不慣れで苦手な場もない。
しかし、アテナの神力が消失してしまった今、聖域を保つ責任は彼一人の肩にある。
その重責を理解しているゆえに、アリシア王女の誕生祝賀パーティーへの出席も断ることはできなかった。
聖域の統治構造は、古代から変わらず“神は姿を見せない”という原則の上に成り立っている。
アテナ、ヘスティア、アルテミス——
いかなる神であれ、人類社会の政治・外交の場に自ら姿を現すことは絶対にない。神々が公に交渉の席につくという行為そのものが、地上の秩序へ過剰な干渉を意味するからだ。
ゆえに、地上での聖域の代表者として立つのはただ一人、教皇だけなのだ。
教皇は、アテナの御意思を地上に伝える唯一の存在。その立場は宗教的権威であると同時に、政治・外交面での最高責任者でもある。
外の世界から見れば“教皇 = 聖域の頂点 = 神々の代弁者”という図式が成り立つ。
アテナが現世に存在していても、教皇のこの役割は変わらない。なぜなら、アテナ自身が“地上の争いに直接関わらぬ”という神律を守るからだ。そのため、各国の王侯貴族、財界、宗教指導者、秘匿組織などは、聖域とコンタクトを取る際は必ず教皇を通す。
対外的な“王”がいるとすれば、それは教皇である。
信仰の衰退が進む現代では、“神の存在”が政治力としての説得力を持たなくなった。だからこそ、教皇自身が外交の席に立たねばならない。
教皇の言葉はアテナの意志であり、聖域そのものの意志である。この一点が揺らいだ瞬間、聖域の存在意義が否定され、世界の混迷を止める力を失ってしまう。
シオンは、そのことを最もよく理解している。
彼がエルダニア王国の祝賀パーティーへ向かうのも、単なる礼節のためではない。
教皇が出席するということは、聖域はこの国を庇護の範囲内に置く、という“無言のサイン”なのだ。
この事実は、各国の軍部や財界ですら理解している。ゆえに、教皇が姿を現す場ではその空気は一変する。
緊張、畏怖、期待。どれほど国が近代化しても、人々は本能的に“聖域”と“教皇”を畏れる。
エルダニア王国王城。
白大理石の広大な舞踏の間は、冬の光を散りばめたシャンデリアに照らされ、氷のように透き通った輝きを放っていた。
王女アリシアの誕生日を祝うため、各国の王族、貴族、財界の重鎮から宗教指導者まで、名だたる顔ぶれが勢揃いしている。
そのざわめきが、一瞬にして静まり返った。
「教皇猊下がお見えです」
侍従の声が響くと、まるで湖面に落ちた雫が広がるように、場の空気が張り詰めた。
ゆっくりと扉が開く。
そこに現れた青年は、誰もが思っていた“教皇”の姿とは違った。
金の髪を短く整え、夜のように深い紫眼が静かに光を受けている。漆黒のフォーマルに身を包んだその姿は、威厳よりもまず“美しさ”が目に飛び込んでくる。
――若い。あまりにも若すぎる。
しかし、誰一人として軽んじる者はいない。
彼の歩みは、たった一歩であっても、恐ろしいまでに重厚だった。
ただ者ではない。その事実だけで、人々は息を呑む。
シオンは王と王妃に挨拶をし、祝福を述べる。
「アリシア王女にアテナの御加護がありますように」
その声音は落ち着き払っていて、年齢を遥かに超えた威厳を帯びていた。
シオンが一歩後ろに下がり、舞踏の間へと視線を向けた瞬間、会場のあちこちでひそかなため息が上がる。
「……本当に教皇猊下?」
「まだ10代じゃないの……?」
「まるで物語の王子様みたい……」
若い令嬢たちは、うっとりと見惚れたまま動けずにいる。
中にはシオンへ向けて歩み寄ろうとする者までいた。侍女に引き留められながらも、一度も目をそらさない令嬢たち。
その視線の熱さに、シオン自身は困惑を覚えていた。
(……やはり、こうした場は苦手だ)
威厳のある態度で振る舞おうとしても、令嬢たちの視線が斜め45度から突き刺さってくる。気づけば、彼の周りには小さな人だかりができていた。
「猊下、あまり離れないでいただけると助かります……」
同行していた老侍従が小声でそう嘆息した。
「どうも……女性方の視線が、刺さるようでして……
これでは警備が……いや、品格が……いや、とにかく……」
シオンは静かに目を伏せる。
「私が目立てば、王女殿下の祝いの席を乱してしまう。少し距離を置くとしよう」
老侍従へ耳打ちし、壁際へと控えめに移動する。
だが、それがいけなかった。
シオンが壁の近くに立つと、そこへ群れるように淑女たちが吸い寄せられた。
舞踏会では主役の周囲より、壁側のほうが接触しやすい。しかもシオンは、話しかけられれば律儀に応じてしまう。
彼の柔らかな微笑みに、令嬢たちは胸を押さえて頬を染めた。
「猊下、踊っていただけませんか」
「光栄ですが……私は本日は一来賓でして…王女殿下のお祝いが第一です」
やんわり断るが、断られるほど惹かれてしまうのが若い乙女の性。彼が微笑むたびに、気絶しそうな令嬢も現れる始末だ。
その中にあってもシオンの視線は決して誰にも向けられない。
心の奥にあるのは、ただ一人の女性だけだ。令嬢たちがどれほど近づこうと、彼の胸に浮かぶのはメリッサの姿だけだった。その“気配”を察してか、令嬢たちはどこか届かない壁の存在を感じ取っていた。
エルダニア王宮の大広間。
金の光を帯びた冬のシャンデリアが天井から滴り落ちるように輝き、弦の調べが優雅に場を満たしていた。扉が静かに開く。入場の合図とともに、空気が澄んだ。
金の髪、菫色の瞳。
新しい“聖域教皇”として知られる青年、シオンがその姿を現した瞬間だった。
本来、王女の誕生祝いであるはずの祝宴が、一呼吸で別の色に染まる。
一斉に向けられる視線。
その密度の高さに、シオン自身もわずかに瞬いた。だが、動じることなく、静かに歩みを進める。
まるでこの世の光源の全てが、彼の周囲に集まっているかのようだった。
「……あれが、聖域教皇……」
「20にも満たないのに……あの威厳と気品……」
令嬢たちの囁きが広がる。
乾杯の後、音楽が緩やかに切り替わり、ダンスの時間となる。
その瞬間だった。令嬢たちが、色めき立った。
「教皇猊下……もしよろしければ、一曲……」
「お相手いただけますか?」
「どうか私に栄誉を……」
貴族の娘たちが礼儀を尽くして順番を守りつつも、明らかに競い合う気配が渦巻いている。
何しろ、“20歳になる直前に、ようやく社交界に姿を見せた新教皇”という触れ込みは、既に王都の噂になっていたのだ。
本来、教皇が外へ出向くことなどあり得ない。それが現代に入り、政策方針が変わりつつあるとはいえ、“会えるうちに会っておけ”という熱が、令嬢たちを動かしていた。
シオンは誰に対しても丁重で、過度に距離を詰めることもなく、ただ静かに相手に敬意を示す。
節度ある立ち振る舞いが、さらに彼を“手の届かない理想像”にしていた。その様子を、アリシア王女は壇上から見つめていた。本来ならば、ファーストダンスを申し込むのは主役である王女の特権。
皆が知っている。
だから、令嬢たちは“ダンスの真の一番手”を遠慮していた。しかし、肝心のアリシア王女は、胸の前で指を絡めたまま動けずにいた。
「……どうしましょう……話しかけられない……」
控えめで、人前が得意ではないアリシア王女。何より、目の前の青年があまりに美しく、荘厳で、遠い。
「わ、私なんかが……」
王女としての優位性よりも、女子としての羞恥と憧れが勝ってしまう。
女官がそっと促す。
「アリシア様、猊下がご覧になっています」
「……っ、無理よ……」
心のどこかで理解している。このままでは、主役である自分が一曲も踊れず、全ての“最初の瞬間”を他の令嬢に奪われてしまう、と。
分かっているが、それでも足が動かない。
シオンはダンスを申し込まれるたびに微笑み、礼を返しながら、ちらりと主役席へ視線を向けた。
王女の肩は強張り、まるで氷の像のように固まっている。
(……困ったな)
“押しのけてくればいい”などという考えは彼の中にない。むしろ、王女の繊細さを思えば、あれほどの視線の中で歩み出せないのは当然だ。
心の内で小さく息をつく。
(……メリッサならどうしただろう)
ふとそんなことを思ってしまい、それを思った自分に気づいて、胸の奥がわずかに揺れる。
令嬢たちの申し出は止まらない。それにひきかえ控えめな王女は動けないままだ。
その微妙な均衡を破るのはシオン自身の一歩かもしれない。
彼はどう動くべきか。主役を立てるべきか。それとも、距離を取りすぎず、王女に寄り添うべきか。
ダンスホールの空気は甘やかに華やいでいるはずなのに、どこか張りつめている。
原因は明らかだった。
――聖域教皇シオン。
彼がわずかに歩を進めるだけで、令嬢たちの視線は一斉にそちらへ集まり、周囲の令息たちは呼吸を飲む。
そんな状況を、シオン自身も理解していた。
淑女たちが熱を帯びて迫ってくる一方で、同世代の若い令息たちの動きは実に静かなものだった。まるで、「勝てるわけがない」と本能で悟ってしまっているかのように。
遠巻きに眺め、ときおり小声で囁き合うだけで、自分から令嬢に近づこうとする者は、ほとんどいない。
これでは、主役の王女に冴えた舞台が回ってこない。
シオンは心の中で小さく苦笑した。
(……男子たるもの、もう少し勇ましくあってもよいだろうに)
たった一人を相手に、全員が怯えて座しているというのは、少々寂しい。
(本来なら、己の意中の令嬢に堂々と申し込めばよいものを……近頃の若い者は、肝が据わっておらぬのか……)
嘆息が胸の奥でそっと広がる。男女の間に立つ空気は、本来もっと自由で、もっと奔放で、もっと愉しいものだ。聖域で育ったシオンがそう思うほどに、目の前の光景は不自然だった。
令息たちはシオンを“勝ち目のない敵”と見なし、令嬢たちは“手の届かない理想”として憧れを募らせる。
結果として、たった一人の青年の動向で、夜会そのものが左右される。それは過剰な注目であり、同時に社交界が抱える繊細な空気の表れでもあった。
(……全く。これでは、私の振る舞い一つで場が崩れる)
やれやれ――と、心の中で肩をすくめる。だが、外に出るのは静謐な微笑みだけだ。彼の呼吸は一定で、気品の揺らぎ一つない。
それがまた、彼を“手に届かない存在”として際立たせてしまうことに、本人はまだ気づいていなかった。
令嬢たちの誘いを、シオンは一つ一つ、静かに微笑みを添えて辞していった。断るたび、相手の瞳に小さな落胆が宿るのが見えたが、それでも彼の所作には一片の棘もない。むしろ、彼に断られることすら特別な思い出になってしまいそうな、そんな柔らかな気品があった。だが、その温和な拒みが繰り返されるほどに、会場の空気はじわりと“先が読めない緊張”で満ちていった。
(……さて、これ以上は無益だな)
シオンは状況を即座に読み取り、思考を巡らせる。このままでは、場が停滞してしまう。夜会とは、本来もっと軽やかで、流動的で、喜びの連鎖であるべきだ。だが、彼が断るたび、周囲の令嬢たちは息を潜め、令息たちはますます臆してゆく。
(主役である王女殿下に迷惑をかけるわけにはいかぬ)
シオンは短く息を吸い、令嬢たちの輪から自然に抜け出し、ゆっくりと会場の中央へ視線を向けた。
アリシア王女。
控えめで、華奢で、夜会の喧騒から半歩下がった位置で大人しげに佇む女性。美しいドレスに身を包んでいるのに、どこか所在なげで、『自分は主役に相応しいのだろうか』と問いかけているような気さえする。
シオンは歩き出した。
音もなく流れるような足取りに、場の空気が震えた。会場のざわめきがすっと引き、視線が一斉に彼へ集まる。
アリシア王女は驚いたように目を瞬かせ、ゆっくりと姿勢を整えた。
シオンは敬意を尽くした、深い一礼を捧げる。
「アリシア王女殿下。今宵の主役たるあなたに、敬意と祝意を込めて、最初の舞をともに踊る栄誉を、私にお与えいただけますか」
王女の頬が、冬薔薇の蕾のようにぱっと赤く染まった。その変化は、シオンでさえ瞬きを忘れるほどの鮮やかさだった。
本来であれば、主役である彼女が彼に申し出る権利があったはずなのに、控えめな性格ゆえに叶わなかった願い。それを、世界の均衡を司る教皇シオンが、彼女に差し出した。
令嬢たちの息を呑む気配。
令息たちのたじろぐ気配。
その全てが、彼の所作ひとつで塗り替えられていく。
アリシア王女は、胸に手を添え、かすかに震える声で応じた。
「……光栄にございます、教皇猊下」
囁くような声は、ホールのざわめきに溶けてしまいそうで、シオンは自然と距離を詰めて聞き取った。
差し出した彼の手に、王女がそっと触れる。その指先は小さく震え、花弁のように頼りなく、けれど懸命に気丈さを保とうとしていた。
シオンは思う。
(これでようやく、この場も動き出すだろう)
夜会の中心に立つ男は、誰よりも冷静に、そして誰よりも優しく場を整えていた。
令嬢たちは一瞬だけ互いの顔を見交わし、ようやく気付いたように微笑を浮かべた。
――ああ、だから断られたのだ
誰の目にも、シオンがこの場の均衡を保つために動いたことは明らかだった。
気を悪くする者は一人としていない。むしろ、完璧な礼節と穏やかな所作で断りを入れたその姿に、彼への憧れが一層強まってしまったようだった。だが、彼女たちは聡明だった。ここで感情を露わにしては、かえって彼の立場を乱すことになると理解している。
「では、私たちは私たちの役目を果たしましょうか」
小さく囁き合うと、令嬢たちはそれぞれ背を伸ばし、優雅な歩みでホールの中央へ向かった。
新たな曲が始まる。軽やかで深みのあるワルツの旋律が、冬の夜の空気をあたためるように広がっていく。
誰かに誘われたり、あるいは自ら手を差し出したりしながら、令嬢たちはすぐに踊りの輪へと加わっていった。
ドレスの裾が花弁のように広がり、宝石のきらめきが弧を描く。
彼女たちの動きには張り詰めた競争心も、無用な虚勢もない。ただ、洗練された貴族の娘としての誇りがあった。
シオンを断らせてしまったのではない。シオンが“この場を守るために”彼女たち全員を等しく立てたのだと、誰もが理解していた。
曲が始まると、シオンはゆっくりと王女の腰に手を添え、軽やかにステップを踏み出す。だが、王女は緊張のあまり身体が強ばってしまっている。一歩目からぎこちなく、足さばきは硬く、視線も床に落ちたままだ。
「大丈夫です。私に合わせて」
声を潜めて優しく誘導すると、王女は小さく頷いた。
しかし、緊張の波はそう簡単には引かない。ふとした拍子に王女のつま先がシオンの甲に触れ、かすかに踏んでしまう。王女ははっと息を呑み、みるみるうちに顔が青ざめた。
「も、申し訳ありません……っ」
「構いませんよ。少し肩の力を抜いて――そうです」
彼は気にするそぶりさえ見せず、ただ穏やかにリードし続ける。けれど、王女は自分の粗相が恥ずかしくてたまらないらしく、目を上げることができない。
その後も、手の位置を迷ったり、ステップを半拍ずらしたりと、いくつかの小さな乱れがあった。だが、シオンはすべてを受け止め、滑らかに動きへ溶かし込んでいく。まるで、王女の不安をそっと包み隠すように。
曲が終わりに近づき、最後のターンを回る。王女はなお一度も顔を上げず、ただ震える声で繰り返す。
「教皇猊下……失礼ばかりで……私……本当に……」
シオンはその声を遮らぬまま、そっと手を離し、一礼した。その所作はあくまで誠実で、王女を責める影など一片も含んでいない。
「殿下のおかげで、優雅な時間をいただきました。ありがとうございました」
その穏やかさに、王女はさらに胸を詰まらせ、結局最後までシオンの顔を見ることができなかった。
曲が終わり、王女の震える指先がそっと離れていく。シオンは深く丁寧に礼をし、その金の前髪が柔らかく揺れた。その所作だけでも、周囲の令嬢たちの息が止まるほどだったが、アリシア王女にとっては、世界の全ての色彩が煌めきを放つほどの衝撃だった。
「……ありがとうございました、殿下」
シオンの柔らかな声が、王女の耳元に残る。その一言にこめられた敬意と寛容。自分の未熟さを咎めるどころか、美しい礼節の中にそっと包み込んでくれた優しさ。王女は、何か温かいものが胸の奥で静かに灯るのを感じた。
(こんな方が、この世に存在するなんて)
王女の視界は、いつの間にかシオンの姿ばかり追うようになっていた。ホールの中央で軽く礼を返し、次に挨拶へ向かうまでの短い動きですら、洗練された威厳と若さの繊細な輝きが同居している。
その立ち姿は、同年代の青年とは比べものにならない静かな風格をまとい、背すじの伸びた影だけで周囲の空気が変わってしまうほどだった。
だが王女が恋に落ちたのは、その外見だけではない。つい先ほどまで、自分は緊張で何度も粗相をした。何度もシオンの足を踏み、手が震え、呼吸すら乱れた。それでも彼は、ほんの一瞬たりとも不快を滲ませなかった。むしろ、すべてを受け入れ、吸い込むように穏やかに導いてくれた。
ああ。こんなに優しい方がいらっしゃるなんて。
王女は胸に手を当て、ひそかに息を整えた。自分の鼓動が、普段よりもずっと速く、熱く、真っ直ぐに跳ねている。
それは、はじめて感じる種類のものだった。
憧れとも違う。尊敬だけでは説明がつかない。ただ、シオンの姿を目で追うたびに、胸がそっと疼き、
先ほど握った手の温度が蘇ってくる。
恋だ、と気づいたときには、もう遅かった。
王女の頬は自然に紅潮し、視線はどこかすがるように揺れていた。
この日、アリシア王女は確かに恋に落ちた。若く慎ましい王女が生涯で初めて出会った、“救いのような優しさ”を持つ男性に。
その相手が、聖域教皇という手の届かぬ存在だと知りながらも。アリシア王女の頬に宿る淡い紅潮。視線はひたすらシオンを追い、その光は恋する女性のそれであった。
王女のその様子を、国王アンドレアスは遠くから静かに見つめていた。杯を口に運びながら、口元にかすかな笑みを浮かべる。まるで長い年月を費やして育ててきた果樹に、ようやく実が成ったのを確認するかのように。
やはり、狙い目だ。
エルダニアは豊かな大地を持ちながら、資源に乏しい小国。先々代国王が、農業と並んで国力の柱として選んだのが、製薬事業だ。長年、多額の予算を投じてきたその成果がようやく外の世界にも認められつつある。
だが、まだ足りない。他国に対して決定的な優位を築くには、確たる後ろ盾が要る。
各国の王侯貴族、要人、財界の重鎮――
今日のパーティーへ招いたのは、いずれもそのためだ。アリシアを“有力な家”と結びつけるために。
だが、誰もが霞んで見える。圧倒的な光を放つ一人の人物の前では。
あの若さであの威厳と風格。そして、政治の場に現れたのは今回が初という。
聖域教皇シオン。
アテナの地上代行者にして、古代より続く武の象徴。世界中の国家元首が知っていながら、決して表立つことはない存在。その神秘性は他に代えがたく、何より“信仰”という絶対的な支柱を背負っている。
アリシアが恋に落ちるのも無理はない。だが、それ以上に、国王自身がその価値を嗅ぎつけていた。
「アテナの聖域……その権力の実態は未だ闇の中だが、利用できるなら、これほどの後ろ盾はない」
王は視線を細め、遠目にシオンの立ち姿を観察する。立ち居振る舞いは優雅で、どの令嬢にも分け隔てなく礼を尽くす。だが、どこか冷ややかな壁のようなものがある。近づけぬほどの神聖さと孤高――それがむしろ王には好ましく映った。
「アリシアが惚れるのも当然だな……」
杯をテーブルに静かに置き、側に控える側近へと顔を寄せる。
低く、誰にも聞かれぬ声で命じた。
「……あの若造の身辺を洗え」
その声音には、王としての権謀術数と、小国を守るためならばどんな策も使うという強かさが滲んでいた。
側近は無言で一礼し、影のようにその場から消えていく。
国王アンドレアスの視線は、再びシオンの背中へ向けられる。彼の目は笑っているが、その奥には冷徹な計算が宿っていた。
エルダニアに必要なのは、“力”だ。そのために王女の恋心が利用できるのなら、それもまた国の未来。
アンドレアスは静かに杯を傾けた。
