Eine Kleine Ⅱ
昼下がりの教皇宮は、穏やかさと緊張が同居していた。回廊を渡る風は冷ややかで、女官室の空気は妙に張りつめている。
「……どうして、あの方ばかり特別扱いなのかしら」
「“監視対象家系”だって聞いたけれど、詳しいことは誰も言ってくれないし……」
「ただの大学生なんでしょう?どうして私たちがあそこまで気を遣わなきゃいけないのかしら」
若い女官たちの囁きは、静かながら刺を含んでいた。
女官たちはメリッサの過去も、冥闘士だったことも、彼女が受けてきた傷も知らない。
ただ、教皇の客人として突然現れ、宮の中心で扱われるメリッサを、戸惑いと距離感を抱えたまま受け入れきれずにいた。
女官長は、机に整然と並べられた帳面から目を上げ、一つ長い息を吐いた。
不満を抱える女官たちを雑にはできない。だが女官長自身も、メリッサの正体を知るがゆえ、来訪を心から歓迎しているわけではない。
――仕事だから、仕えているだけ。
それが彼女の正直なところだった。
「……皆、静かにしなさい」
その声は決して大きくはないのに、部屋の空気が一瞬で引き締まる。
若い女官たちは姿勢を正し、女官長に視線を向けた。
「不満がある気持ちは理解します。ですが――」
女官長は一人一人の表情をゆっくり確かめるように見渡し、続けた。
「教皇宮に仕えるということは、“好き嫌い”で人を扱わないということです。私情で態度を変える者は、この宮では務まりません」
凛とした声音に、若い女官たちは反論できずに唇を噛む。
「“客人”とは、神殿に招かれた者。たとえどこの家柄であろうと、何者であろうと、教皇猊下が庇護を示されたのであれば、我々はその意思に従うだけです。忘れてはなりません。私たちは宮の品位を保つためにここにいるのです」
語調に叱責の鋭さはない。
むしろ淡々としていて、そこに彼女自身の苦悩も紛れている。
若い女官の一人が、おずおずと問いかける。
「……ですが、女官長。あの方がどんな方なのか、私たちには何も……」
「知らなくてよいこともあります」
答えは静かだったが、重みがあった。
「この宮には、“知らないまま”でいる方が互いのためになることが山ほどあります。知らないまま務めるのも、教皇宮付き女官の役目です」
女官たちは、息を呑んだように黙り込んだ。
彼女たちの胸に去来するのは不満だけではない。
“教皇宮の内側”にいる者だけが理解する、説明されぬ義務と、選べぬ忠誠。若い女官たちにはまだ重いそれを、女官長は日々少しずつ教えているのだ。
「……あの方がどうであれ、失礼のないように――私たちは教皇宮の名を背負っているのです」
「……はい」
小さく揃った返事が落ちる。
その声音にまだ戸惑いは残るが、規律が彼女たちを立ち戻らせる。
回廊の奥から、シオンとメリッサの昼餐のために運び出された器を片づける気配がかすかに届いた。
教皇宮は今日も静かに動いている。
その静けさの裏で、それぞれの胸に違う揺らぎを抱えながら。
昼餐を終え、静かな食堂をあとにしようとしたときだった。メリッサが空の皿を乗せたワゴンに手を伸ばし、押していこうとする。
「この食器はどこに運ぶの?」
小首を傾げる仕草があまりに自然で、シオンは思わず苦笑した。そして彼女の手にそっと触れ、静かに制した。
「担当の者が下げに来るから、そのままで構わぬ」
「えぇ、でも、これくらいはしないとさ…」
メリッサは善意そのものの表情で、ワゴンを気遣う。だがシオンは首を横に振った。
「客人に片付けをさせるのは、一般的に無礼とされている。それに、これは担当者の務めだ。役目を奪うのは良くない」
「なんか……難しいね」
メリッサは困ったように笑う。
その表情がやけに幼く見えて、シオンは胸の奥が温まるような感覚を覚えた。
「レストランでも店員が下げに来るだろう?それと同じだ」
「あっ……そっか!そう言ってくれたら分かる!」
ぱっと顔を明るくする彼女に、シオンの目元も自然と和らぐ。まるで陽だまりがそばに寄ってきたようだった。
「じゃあ、“ごちそうさまでした”って誰に言えばいいの?シェフ?」
無邪気な問いに、シオンは喉の奥で小さく笑う。
「ふふ……私から伝えておく」
「うん、お願いね。とっても美味しかったですって――お伝えしてね!」
明るい声が回廊に弾んだ。
その響きに、シオンは一瞬眩しそうに目を細める。
「……ああ、必ず伝えるとも」
誰にも聞こえないように、優しく。
昼下がりの静かな光の中、二人の影は寄り添うように揺れていた。
「じゃあ、あたし帰るね」
名残惜しさを隠しきれない声音だったが、彼女は無理に明るい笑顔を作った。
「瞬間移動で送るぞ」
即答するシオンに、メリッサは肩をすくめる。
「バイクだよ?」
「バイクごとだ」
「お気持ちだけもらっとく。たまには走らせないと可哀想だから」
「しかし、山道は危ない」
「危ない運転はしないよ。それに、危険度なら市街地の方が高いんだよ」
「何だと?それなら尚の事ではないか」
「……過保護だねぇ、シオン様は」
「当然だ」
きっぱりと言い切るシオンの声音は、冷静さの奥に柔らかな熱を宿している。
メリッサは頬を赤らめ、目をそらしながら小さく息をついた。
「……ほんと、シオン様って、ずるい」
彼女の呟きが空気に溶けた、その瞬間だった。
廊下の奥、柱の陰――。
一人の女官が、じっと二人を見つめていた。
クラリッサ・ノウィエール。
淡い銀茶の髪をきちんと束ね、清潔な制服を身にまといながらも、彼女の瞳は凪の底に沈む深い翡翠のように、どこか冷たい光を宿していた。
教皇の私的行動には口出しできない――女官である彼女はそれを知っている。
それでも、胸の奥がかすかに疼いた。
(教皇猊下があんなにも……)
静かに、しかし確かに心がざわめく。
自分でも気づかぬほど無意識に、指先に力が入っていた。
近くを通りかかった同僚の女官が、クラリッサに気づいて声をかける。
「クラリッサ?どうしたの?」
「……いいえ。何でもありませんわ」
淡々と微笑み、礼儀正しく首を傾げるクラリッサ。
その声音には曇りはない。完璧な女官の顔だった。
だが――その目は、二人の消えていった廊下の先を、微かに追っていた。
(……あの娘。監視対象の家系のはずなのに。どうして猊下があんなにも優しい顔を――)
胸の奥のざらつきは、いつまでも消えなかった。
教皇宮から石畳をまっすぐに下り、やがて正門前に出る。門の両脇には衛兵が控えており、昼下がりの光の中で槍の金具が鈍く光っていた。
公の前――。
だからこそ、シオンは自然と歩幅を整え、距離を半歩ほど開けた。
メリッサもそれを察して、横に並ぶことはせず、少し後ろに下がるように歩く。
「じゃあ、ここで」
メリッサはいつもの笑顔で言ったが、声はどこか名残惜しい。
シオンはその横顔を一瞬だけ見つめ、すぐに視線を衛兵へ流して取り繕うように返す。
「……気をつけて帰るのだぞ」
「うん。大丈夫だよ」
メリッサは、停めておいたバイクの前に立ち、ヘルメットを手に取った。それを被る前、髪を耳にかける仕草が、無造作でありながら妙にしなやかで――
シオンの胸の奥に、ひどくあたたかいものが灯る。
衛兵の視線があるため、触れることも、近寄り過ぎることもできない。だが、別れ際の短い沈黙が、かえって二人の距離の近さを示していた。
メリッサはヘルメットをかぶり、しっかりと顎紐をしめる。跨がった瞬間、彼女の輪郭が研ぎ澄まされる。小柄な体つきにもかかわらず、ヘルメット越しにのぞく眼差しはどこまでもまっすぐで、静かな強さを帯びていた。
黒い小さめの車体は彼女の脚の内側にしっかりと馴染み、まるでその細い体躯を守護する騎馬のようだ。
「行くね、シオン様」
「ああ……」
返事は短い。
けれど、その一言に、言い足りない想いがいくつも重なっていた。
エンジンがかかり、低い振動が空気を震わせる。
メリッサが軽くアクセルを煽ると、シオンは無意識に拳を握った。
(……心配でならぬ。だが――)
ヘルメット越しでも伝わる、彼女の迷いのない姿勢。背筋を伸ばし、真っ直ぐ前を見て、軽い力でバイクを操る姿は、いつか戦場で見せた冥闘士としての誇りさえ滲んでいた。
(そなたは……こうして私を翻弄する)
守りたいのに、同時に惹かれてやまない。
遠ざけねばと思うたび、むしろ近づきたい気持ちが強くなる。
「……まったく」
シオンは誰にも聞こえないほどの声量で呟いた。
メリッサはゆっくりとバイクを走らせ、正門を出る。その姿が見えなくなるまで、シオンは動かなかった。
衛兵たちは教皇の表情を伺うように静かに立っていたが、シオンは彼らに気づいた様子もなく、ただ一点を見つめていた。
(また、心を持っていかれたな……)
胸に疼く温かさは、恋という名の、小さくてどうしようもない痛みだった。
教皇私室の扉が閉ざされる。
ふっと静寂が落ちた瞬間、シオンの膝から力が抜けた。ソファへ沈み込むように腰を下ろすと、胸の奥がまだ騒いでいるのが分かった。
メリッサの残り香が、衣の内側にやわらかく留まっている。
(……落ち着け。深呼吸だ……)
呼吸を整えようとするが、うまくいかない。
彼女が自分の胸元につけた浅い爪跡の感覚までが、まだ生々しい。
さきほどの口付け──
舌が触れ、絡み、温度が重なったあの瞬間。
思い返しただけで、不意に若い肉体が熱を帯びる。
背凭れに頭を預け、喉の奥で短く息が漏れた。
「……メリッサ……」
自分の声が、驚くほど甘い。呼んだつもりもないのに、彼女を思い出すと口をついて出てしまう。額に手を当てて目を閉じた。瞼の裏には、赤く染まった頬の彼女、揺れる睫毛、そしてあの震えるような吐息。
(そなたが……あれほど求めてくれるとは……)
身体の中心が熱を帯びて拍動する。だが──その熱に任せることだけは、絶対にすまい。
彼女が震えたあの一瞬。僅かに身を硬くしたのを、彼は確かに感じてしまった。
(私は……そなたを怖がらせたくはない)
若い肉体は、ただ抱きしめたいと訴える。しかし精神は249年の重さでもって静かにそれを押しとどめる。胸を押さえながら、天井を仰ぐ。
「……どうしてこんなにも……」
想いが溢れて仕方ない。自分ほど、恋というものに不器用な存在はいない。
メリッサが自分の首に腕を回し、躊躇いながらも深い口付けを返してきたあの瞬間。シオンは心臓が本当に止まるかと思った。
「……そなたが愛おしくて……」
息を吐く。押し殺すように。
「たまらぬ」
若い肉体は、彼女のあらゆる仕草に敏感に反応してしまう。だが大人の精神は、彼女を一番に考え、慎重になろうとする。
この矛盾に、彼は一人、胸を掻き毟りたくなるほど苦しくなる。けれど、その苦しみでさえ、今のシオンには幸福だった。
「……また会いたい」
ぽつりと落ちた言葉は、甘く切実で、まるで少年のようだった。
彼は肩を落とし、ソファに横たわる。鼓動の速さはまだ戻らない。胸の奥で、メリッサの名だけが、何度も反響していた。
山道を抜け、冬の陽が低く差し込む道路を、メリッサのバイクが軽快に走る。風が頬を撫でるたび、胸の奥に少しだけ残っていた緊張が、ゆっくり溶けていく。
ヘルメットの内側で、思わず笑みがこぼれた。
(クリスマス……どうしようかな)
アクセルをゆるく開き、景色に視線を流しながら考える。
(やっぱりプレゼント、何か渡したいよね……)
途端に、胸がそわそわして落ち着かなくなる。
聖域の教皇、200年以上の歴史を背負った男。世界中の一流品が身の回りに当たり前のように揃っている暮らし。
そんな人に、今さら“物”を贈って喜んでもらえるのか。
その不安が、メリッサを小さく萎縮させる。
(うぅ……何がいいんだろ……)
悩んで、ハンドルに置いた指先にも力が入る。
( “事” なら……?でも、事って何?プライスレスって……具体的には……?)
辺りを走る車はまばらだ。冬の乾いた空気が、思考を余計に鮮明にする。
(そもそも……聖域って、クリスマスやるのかな?)
聖域の厳格な雰囲気を思い返す。
少なくとも、あの石造りの空間にツリーが飾られる姿はまったく想像がつかない。
(家族で過ごす……とか、そういう感じもしないし……
シオン様、家族……いないよね……)
そこで、ふと。
(あ……レオンくんは、家族になるのかな)
九代目の子孫。血の繋がりが遠いとはいえ、確かな “家族の線” がある。
けれど──自分には。
メリッサの胸の奥が、すこし冷たい風に触れたように沈む。
夏に亡くなった母の姿がよぎる。一緒に食べた食卓や、くだらない会話や、何気ないあたたかさが、途端に遠く感じた。
(……あたしは、もう、一人なんだよね)
そう思った瞬間、バイクのエンジン音だけがやけに大きく響いて感じられた。
(……でも、今年くらいは……一緒にいられるといいな)
“家族” ではない。だけど、胸の奥が求めてしまう。
あたたかい食卓と、誰かのぬくもり。
メリッサはアクセルを軽く回し、前方に広がるアテネの街を見やった。
(よし……街で、考えよう。素敵なものが見つかるといいな)
風を切りながら、彼女はシオンの笑顔を思い浮かべる。
胸にそっと灯る、今年だけの小さなクリスマスの希望。それを抱え、バイクはアテネへ向かっていった。
(逆に……今どきっぽいやつ、良くない?)
バイクを走らせながら、ふとそんな考えがよぎる。
シオンは200年以上を生きてきた。歴史の中の人みたいに思えてしまうほど全てが整っていて、伝統や格式が重視される世界にいる。
でも、今の彼はメリッサと同じ19歳の青年の姿をしている。
(だったら……“普通のカップル”がやるようなことが良いかな。そういうの、きっとシオン様は経験したことないよね)
その想像だけで、少し胸が跳ねる。
(今のシオン様なら……あたしと同じ景色を見てくれるかもしれない)
高価な物ではなく、値段ではなく、“時間の共有” と “気持ち”。
それが一番響く気がした。
アテネの街へ向かう帰り道。冬の乾いた風が頬を刺し、赤信号で止まった瞬間、メリッサはハンドルに肘をついて小さく唸る。
「高級品は……違うんだよね」
シオンの部屋に溢れる豪奢な物たちが頭に浮かぶ。指輪も時計も、歴代教皇が代々受け継いだ骨董品レベルのものばかり。自分が贈るような物は、きっと比較にもならないだろう。
「じゃあ、“今”だからこその物は……?」
横断歩道を横切る大学生カップルが写真を撮ってはしゃいでいる。スマホを向け合い、笑い合って、何度も撮り直して。
メリッサは思わず見つめた。
(仲、良いな…)
胸の奥がふっと温かくなる。
そして次の瞬間。
(……あ、もしかしてああいう――“今の若者らしさ”って、シオン様には未知の世界なんじゃ…?)
頭の中で閃いた。
チェキだ。
スマホと違ってデータが残らない。シオンの立場でも安心。
それに――
(2人だけの“瞬間”を、その場で手に取れる…)
バイクの振動より心臓の方が強く脈打って、メリッサはヘルメットの中で頬が緩む。
アテネの大型ショッピングモールに入っているカメラ店。買ったのはチェキ本体と、フィルムパック、シンプルな白いアルバム。
余計な装飾はつけず、ただ質の良い紙と厚みだけが静かに存在を主張するものを選んだ。
(シオン様はこういう落ち着いた方が、きっと好きだよね)
メリッサはバイクを走らせ、港へ向かう。アテネ近郊の冬の海は透き通るように青く、波が寄せるたび白い光が弾けていた。
人けのない場所にバイクを停め、髪を整えた後、チェキをそっと構えた。
「………よし」
シャッターを押す。
ジーッと音を立て白いフィルムが吐き出される。やがて、淡い色がじわりと滲むように、写真の中の自分が海を背に微笑んで浮かび上がってくる。
髪が風に揺れ、メリッサらしい、少しはにかみを含んだ無邪気な笑顔。
「うん。これなら……シオン様、喜んでくれるかな」
自分で自分に問いかけながら、小さく息を吐いた。こんなにも誰かのことを想いながら贈り物を用意する日が来るなんて想像もしていなかった。あの日以来、男性とは距離を保つようにしてきた。それなのに――
自宅に持ち帰る前に、メリッサは港のベンチに腰を下ろした。冬の日差しが落とす影が長く伸び、潮の香りが静かに漂っている。
アルバムの最初のページを開く。まっさらな紙の上に、先ほどの写真を丁寧に貼り付けた。余白が広く残る。メリッサはペンを握り、少しだけ迷ったあと、静かに文字を書き始めた。
「〇〇年 12月24日
シオン様へ
あなたと一緒に過ごせる今日が、とても幸せです。これから先の“二人の時間”を、このアルバムに少しずつ残していけたら嬉しいです」
書き終えて、ペン先を見つめる。“家族”を失ったばかりの自分が、こうして誰かのために何かを作っている――その事実が胸に沁みた。
「……なんだろ。あったかいな」
そっとページを閉じ、アルバムを抱きしめる。
チェキ本体(白)、フィルム数パック、シンプルなアルバム、港で撮ったメリッサの自撮り、メッセージ
全部、袋の中で静かに揃っている。
メリッサはバイクに跨がり、ハンドルに触れながら小さく笑った。
「シオン様、絶対にびっくりするよね」
教皇宮で渡した時の彼の反応を思い浮かべただけで、胸が跳ねるように高鳴った。
「……どうして、あの方ばかり特別扱いなのかしら」
「“監視対象家系”だって聞いたけれど、詳しいことは誰も言ってくれないし……」
「ただの大学生なんでしょう?どうして私たちがあそこまで気を遣わなきゃいけないのかしら」
若い女官たちの囁きは、静かながら刺を含んでいた。
女官たちはメリッサの過去も、冥闘士だったことも、彼女が受けてきた傷も知らない。
ただ、教皇の客人として突然現れ、宮の中心で扱われるメリッサを、戸惑いと距離感を抱えたまま受け入れきれずにいた。
女官長は、机に整然と並べられた帳面から目を上げ、一つ長い息を吐いた。
不満を抱える女官たちを雑にはできない。だが女官長自身も、メリッサの正体を知るがゆえ、来訪を心から歓迎しているわけではない。
――仕事だから、仕えているだけ。
それが彼女の正直なところだった。
「……皆、静かにしなさい」
その声は決して大きくはないのに、部屋の空気が一瞬で引き締まる。
若い女官たちは姿勢を正し、女官長に視線を向けた。
「不満がある気持ちは理解します。ですが――」
女官長は一人一人の表情をゆっくり確かめるように見渡し、続けた。
「教皇宮に仕えるということは、“好き嫌い”で人を扱わないということです。私情で態度を変える者は、この宮では務まりません」
凛とした声音に、若い女官たちは反論できずに唇を噛む。
「“客人”とは、神殿に招かれた者。たとえどこの家柄であろうと、何者であろうと、教皇猊下が庇護を示されたのであれば、我々はその意思に従うだけです。忘れてはなりません。私たちは宮の品位を保つためにここにいるのです」
語調に叱責の鋭さはない。
むしろ淡々としていて、そこに彼女自身の苦悩も紛れている。
若い女官の一人が、おずおずと問いかける。
「……ですが、女官長。あの方がどんな方なのか、私たちには何も……」
「知らなくてよいこともあります」
答えは静かだったが、重みがあった。
「この宮には、“知らないまま”でいる方が互いのためになることが山ほどあります。知らないまま務めるのも、教皇宮付き女官の役目です」
女官たちは、息を呑んだように黙り込んだ。
彼女たちの胸に去来するのは不満だけではない。
“教皇宮の内側”にいる者だけが理解する、説明されぬ義務と、選べぬ忠誠。若い女官たちにはまだ重いそれを、女官長は日々少しずつ教えているのだ。
「……あの方がどうであれ、失礼のないように――私たちは教皇宮の名を背負っているのです」
「……はい」
小さく揃った返事が落ちる。
その声音にまだ戸惑いは残るが、規律が彼女たちを立ち戻らせる。
回廊の奥から、シオンとメリッサの昼餐のために運び出された器を片づける気配がかすかに届いた。
教皇宮は今日も静かに動いている。
その静けさの裏で、それぞれの胸に違う揺らぎを抱えながら。
昼餐を終え、静かな食堂をあとにしようとしたときだった。メリッサが空の皿を乗せたワゴンに手を伸ばし、押していこうとする。
「この食器はどこに運ぶの?」
小首を傾げる仕草があまりに自然で、シオンは思わず苦笑した。そして彼女の手にそっと触れ、静かに制した。
「担当の者が下げに来るから、そのままで構わぬ」
「えぇ、でも、これくらいはしないとさ…」
メリッサは善意そのものの表情で、ワゴンを気遣う。だがシオンは首を横に振った。
「客人に片付けをさせるのは、一般的に無礼とされている。それに、これは担当者の務めだ。役目を奪うのは良くない」
「なんか……難しいね」
メリッサは困ったように笑う。
その表情がやけに幼く見えて、シオンは胸の奥が温まるような感覚を覚えた。
「レストランでも店員が下げに来るだろう?それと同じだ」
「あっ……そっか!そう言ってくれたら分かる!」
ぱっと顔を明るくする彼女に、シオンの目元も自然と和らぐ。まるで陽だまりがそばに寄ってきたようだった。
「じゃあ、“ごちそうさまでした”って誰に言えばいいの?シェフ?」
無邪気な問いに、シオンは喉の奥で小さく笑う。
「ふふ……私から伝えておく」
「うん、お願いね。とっても美味しかったですって――お伝えしてね!」
明るい声が回廊に弾んだ。
その響きに、シオンは一瞬眩しそうに目を細める。
「……ああ、必ず伝えるとも」
誰にも聞こえないように、優しく。
昼下がりの静かな光の中、二人の影は寄り添うように揺れていた。
「じゃあ、あたし帰るね」
名残惜しさを隠しきれない声音だったが、彼女は無理に明るい笑顔を作った。
「瞬間移動で送るぞ」
即答するシオンに、メリッサは肩をすくめる。
「バイクだよ?」
「バイクごとだ」
「お気持ちだけもらっとく。たまには走らせないと可哀想だから」
「しかし、山道は危ない」
「危ない運転はしないよ。それに、危険度なら市街地の方が高いんだよ」
「何だと?それなら尚の事ではないか」
「……過保護だねぇ、シオン様は」
「当然だ」
きっぱりと言い切るシオンの声音は、冷静さの奥に柔らかな熱を宿している。
メリッサは頬を赤らめ、目をそらしながら小さく息をついた。
「……ほんと、シオン様って、ずるい」
彼女の呟きが空気に溶けた、その瞬間だった。
廊下の奥、柱の陰――。
一人の女官が、じっと二人を見つめていた。
クラリッサ・ノウィエール。
淡い銀茶の髪をきちんと束ね、清潔な制服を身にまといながらも、彼女の瞳は凪の底に沈む深い翡翠のように、どこか冷たい光を宿していた。
教皇の私的行動には口出しできない――女官である彼女はそれを知っている。
それでも、胸の奥がかすかに疼いた。
(教皇猊下があんなにも……)
静かに、しかし確かに心がざわめく。
自分でも気づかぬほど無意識に、指先に力が入っていた。
近くを通りかかった同僚の女官が、クラリッサに気づいて声をかける。
「クラリッサ?どうしたの?」
「……いいえ。何でもありませんわ」
淡々と微笑み、礼儀正しく首を傾げるクラリッサ。
その声音には曇りはない。完璧な女官の顔だった。
だが――その目は、二人の消えていった廊下の先を、微かに追っていた。
(……あの娘。監視対象の家系のはずなのに。どうして猊下があんなにも優しい顔を――)
胸の奥のざらつきは、いつまでも消えなかった。
教皇宮から石畳をまっすぐに下り、やがて正門前に出る。門の両脇には衛兵が控えており、昼下がりの光の中で槍の金具が鈍く光っていた。
公の前――。
だからこそ、シオンは自然と歩幅を整え、距離を半歩ほど開けた。
メリッサもそれを察して、横に並ぶことはせず、少し後ろに下がるように歩く。
「じゃあ、ここで」
メリッサはいつもの笑顔で言ったが、声はどこか名残惜しい。
シオンはその横顔を一瞬だけ見つめ、すぐに視線を衛兵へ流して取り繕うように返す。
「……気をつけて帰るのだぞ」
「うん。大丈夫だよ」
メリッサは、停めておいたバイクの前に立ち、ヘルメットを手に取った。それを被る前、髪を耳にかける仕草が、無造作でありながら妙にしなやかで――
シオンの胸の奥に、ひどくあたたかいものが灯る。
衛兵の視線があるため、触れることも、近寄り過ぎることもできない。だが、別れ際の短い沈黙が、かえって二人の距離の近さを示していた。
メリッサはヘルメットをかぶり、しっかりと顎紐をしめる。跨がった瞬間、彼女の輪郭が研ぎ澄まされる。小柄な体つきにもかかわらず、ヘルメット越しにのぞく眼差しはどこまでもまっすぐで、静かな強さを帯びていた。
黒い小さめの車体は彼女の脚の内側にしっかりと馴染み、まるでその細い体躯を守護する騎馬のようだ。
「行くね、シオン様」
「ああ……」
返事は短い。
けれど、その一言に、言い足りない想いがいくつも重なっていた。
エンジンがかかり、低い振動が空気を震わせる。
メリッサが軽くアクセルを煽ると、シオンは無意識に拳を握った。
(……心配でならぬ。だが――)
ヘルメット越しでも伝わる、彼女の迷いのない姿勢。背筋を伸ばし、真っ直ぐ前を見て、軽い力でバイクを操る姿は、いつか戦場で見せた冥闘士としての誇りさえ滲んでいた。
(そなたは……こうして私を翻弄する)
守りたいのに、同時に惹かれてやまない。
遠ざけねばと思うたび、むしろ近づきたい気持ちが強くなる。
「……まったく」
シオンは誰にも聞こえないほどの声量で呟いた。
メリッサはゆっくりとバイクを走らせ、正門を出る。その姿が見えなくなるまで、シオンは動かなかった。
衛兵たちは教皇の表情を伺うように静かに立っていたが、シオンは彼らに気づいた様子もなく、ただ一点を見つめていた。
(また、心を持っていかれたな……)
胸に疼く温かさは、恋という名の、小さくてどうしようもない痛みだった。
教皇私室の扉が閉ざされる。
ふっと静寂が落ちた瞬間、シオンの膝から力が抜けた。ソファへ沈み込むように腰を下ろすと、胸の奥がまだ騒いでいるのが分かった。
メリッサの残り香が、衣の内側にやわらかく留まっている。
(……落ち着け。深呼吸だ……)
呼吸を整えようとするが、うまくいかない。
彼女が自分の胸元につけた浅い爪跡の感覚までが、まだ生々しい。
さきほどの口付け──
舌が触れ、絡み、温度が重なったあの瞬間。
思い返しただけで、不意に若い肉体が熱を帯びる。
背凭れに頭を預け、喉の奥で短く息が漏れた。
「……メリッサ……」
自分の声が、驚くほど甘い。呼んだつもりもないのに、彼女を思い出すと口をついて出てしまう。額に手を当てて目を閉じた。瞼の裏には、赤く染まった頬の彼女、揺れる睫毛、そしてあの震えるような吐息。
(そなたが……あれほど求めてくれるとは……)
身体の中心が熱を帯びて拍動する。だが──その熱に任せることだけは、絶対にすまい。
彼女が震えたあの一瞬。僅かに身を硬くしたのを、彼は確かに感じてしまった。
(私は……そなたを怖がらせたくはない)
若い肉体は、ただ抱きしめたいと訴える。しかし精神は249年の重さでもって静かにそれを押しとどめる。胸を押さえながら、天井を仰ぐ。
「……どうしてこんなにも……」
想いが溢れて仕方ない。自分ほど、恋というものに不器用な存在はいない。
メリッサが自分の首に腕を回し、躊躇いながらも深い口付けを返してきたあの瞬間。シオンは心臓が本当に止まるかと思った。
「……そなたが愛おしくて……」
息を吐く。押し殺すように。
「たまらぬ」
若い肉体は、彼女のあらゆる仕草に敏感に反応してしまう。だが大人の精神は、彼女を一番に考え、慎重になろうとする。
この矛盾に、彼は一人、胸を掻き毟りたくなるほど苦しくなる。けれど、その苦しみでさえ、今のシオンには幸福だった。
「……また会いたい」
ぽつりと落ちた言葉は、甘く切実で、まるで少年のようだった。
彼は肩を落とし、ソファに横たわる。鼓動の速さはまだ戻らない。胸の奥で、メリッサの名だけが、何度も反響していた。
山道を抜け、冬の陽が低く差し込む道路を、メリッサのバイクが軽快に走る。風が頬を撫でるたび、胸の奥に少しだけ残っていた緊張が、ゆっくり溶けていく。
ヘルメットの内側で、思わず笑みがこぼれた。
(クリスマス……どうしようかな)
アクセルをゆるく開き、景色に視線を流しながら考える。
(やっぱりプレゼント、何か渡したいよね……)
途端に、胸がそわそわして落ち着かなくなる。
聖域の教皇、200年以上の歴史を背負った男。世界中の一流品が身の回りに当たり前のように揃っている暮らし。
そんな人に、今さら“物”を贈って喜んでもらえるのか。
その不安が、メリッサを小さく萎縮させる。
(うぅ……何がいいんだろ……)
悩んで、ハンドルに置いた指先にも力が入る。
( “事” なら……?でも、事って何?プライスレスって……具体的には……?)
辺りを走る車はまばらだ。冬の乾いた空気が、思考を余計に鮮明にする。
(そもそも……聖域って、クリスマスやるのかな?)
聖域の厳格な雰囲気を思い返す。
少なくとも、あの石造りの空間にツリーが飾られる姿はまったく想像がつかない。
(家族で過ごす……とか、そういう感じもしないし……
シオン様、家族……いないよね……)
そこで、ふと。
(あ……レオンくんは、家族になるのかな)
九代目の子孫。血の繋がりが遠いとはいえ、確かな “家族の線” がある。
けれど──自分には。
メリッサの胸の奥が、すこし冷たい風に触れたように沈む。
夏に亡くなった母の姿がよぎる。一緒に食べた食卓や、くだらない会話や、何気ないあたたかさが、途端に遠く感じた。
(……あたしは、もう、一人なんだよね)
そう思った瞬間、バイクのエンジン音だけがやけに大きく響いて感じられた。
(……でも、今年くらいは……一緒にいられるといいな)
“家族” ではない。だけど、胸の奥が求めてしまう。
あたたかい食卓と、誰かのぬくもり。
メリッサはアクセルを軽く回し、前方に広がるアテネの街を見やった。
(よし……街で、考えよう。素敵なものが見つかるといいな)
風を切りながら、彼女はシオンの笑顔を思い浮かべる。
胸にそっと灯る、今年だけの小さなクリスマスの希望。それを抱え、バイクはアテネへ向かっていった。
(逆に……今どきっぽいやつ、良くない?)
バイクを走らせながら、ふとそんな考えがよぎる。
シオンは200年以上を生きてきた。歴史の中の人みたいに思えてしまうほど全てが整っていて、伝統や格式が重視される世界にいる。
でも、今の彼はメリッサと同じ19歳の青年の姿をしている。
(だったら……“普通のカップル”がやるようなことが良いかな。そういうの、きっとシオン様は経験したことないよね)
その想像だけで、少し胸が跳ねる。
(今のシオン様なら……あたしと同じ景色を見てくれるかもしれない)
高価な物ではなく、値段ではなく、“時間の共有” と “気持ち”。
それが一番響く気がした。
アテネの街へ向かう帰り道。冬の乾いた風が頬を刺し、赤信号で止まった瞬間、メリッサはハンドルに肘をついて小さく唸る。
「高級品は……違うんだよね」
シオンの部屋に溢れる豪奢な物たちが頭に浮かぶ。指輪も時計も、歴代教皇が代々受け継いだ骨董品レベルのものばかり。自分が贈るような物は、きっと比較にもならないだろう。
「じゃあ、“今”だからこその物は……?」
横断歩道を横切る大学生カップルが写真を撮ってはしゃいでいる。スマホを向け合い、笑い合って、何度も撮り直して。
メリッサは思わず見つめた。
(仲、良いな…)
胸の奥がふっと温かくなる。
そして次の瞬間。
(……あ、もしかしてああいう――“今の若者らしさ”って、シオン様には未知の世界なんじゃ…?)
頭の中で閃いた。
チェキだ。
スマホと違ってデータが残らない。シオンの立場でも安心。
それに――
(2人だけの“瞬間”を、その場で手に取れる…)
バイクの振動より心臓の方が強く脈打って、メリッサはヘルメットの中で頬が緩む。
アテネの大型ショッピングモールに入っているカメラ店。買ったのはチェキ本体と、フィルムパック、シンプルな白いアルバム。
余計な装飾はつけず、ただ質の良い紙と厚みだけが静かに存在を主張するものを選んだ。
(シオン様はこういう落ち着いた方が、きっと好きだよね)
メリッサはバイクを走らせ、港へ向かう。アテネ近郊の冬の海は透き通るように青く、波が寄せるたび白い光が弾けていた。
人けのない場所にバイクを停め、髪を整えた後、チェキをそっと構えた。
「………よし」
シャッターを押す。
ジーッと音を立て白いフィルムが吐き出される。やがて、淡い色がじわりと滲むように、写真の中の自分が海を背に微笑んで浮かび上がってくる。
髪が風に揺れ、メリッサらしい、少しはにかみを含んだ無邪気な笑顔。
「うん。これなら……シオン様、喜んでくれるかな」
自分で自分に問いかけながら、小さく息を吐いた。こんなにも誰かのことを想いながら贈り物を用意する日が来るなんて想像もしていなかった。あの日以来、男性とは距離を保つようにしてきた。それなのに――
自宅に持ち帰る前に、メリッサは港のベンチに腰を下ろした。冬の日差しが落とす影が長く伸び、潮の香りが静かに漂っている。
アルバムの最初のページを開く。まっさらな紙の上に、先ほどの写真を丁寧に貼り付けた。余白が広く残る。メリッサはペンを握り、少しだけ迷ったあと、静かに文字を書き始めた。
「〇〇年 12月24日
シオン様へ
あなたと一緒に過ごせる今日が、とても幸せです。これから先の“二人の時間”を、このアルバムに少しずつ残していけたら嬉しいです」
書き終えて、ペン先を見つめる。“家族”を失ったばかりの自分が、こうして誰かのために何かを作っている――その事実が胸に沁みた。
「……なんだろ。あったかいな」
そっとページを閉じ、アルバムを抱きしめる。
チェキ本体(白)、フィルム数パック、シンプルなアルバム、港で撮ったメリッサの自撮り、メッセージ
全部、袋の中で静かに揃っている。
メリッサはバイクに跨がり、ハンドルに触れながら小さく笑った。
「シオン様、絶対にびっくりするよね」
教皇宮で渡した時の彼の反応を思い浮かべただけで、胸が跳ねるように高鳴った。
