Eine Kleine Ⅱ
暖炉の火は、ようやく落ち着いた呼吸を始めていた。ぱち、と薪が小さく弾ける音が、静かな広間に優しいリズムを刻む。
ソファに並んで座った二人を、橙の光が包む。
外は冬の曇り空で、窓の向こうに広がる灰色の世界とはまるで別の場所のように、ここだけが温度を持っていた。
「……あったかいね」
メリッサは手のひらを火に向け、ほっとしたように指を開く。
それだけの動きなのに、シオンの視線はその横顔に引き寄せられる。
「火があると、静けさの質が変わる」
「うん。なんか……落ち着く」
「そなたが隣にいるからだろう」
さらりと言うくせに、声に照れくささが滲んでしまうのがシオンらしい。
メリッサは小さく笑ってから、そっと彼の肩に頭を凭せかけた。
ゆっくりと寄りかかるのではなく、躊躇いが混じる“そっと”。
でも、その距離を開ける気配は欠片もない。
「ねぇ、シオン様」
「ん?」
「……こうしてると、今日ここに来てよかったなぁって思うんだよね」
シオンの手が、迷いなくメリッサの肩に回る。
抱き寄せるというより、受け止めるような腕の動き。
「私もだ。そなたが来てくれて嬉しかった――バイクで、というのはいただけないが」
「まだ言ってる」
メリッサが声を忍ばせて笑った。
シオンに言わせれば、しつこいくらいに言っておかないと、いつかまたバイクで来られては敵わない。事故に遭ってからでは遅いのだ。
「日を改めるという選択はなかったのか?」
「うん。なかった」
即答だった。
ここまで来ると、いっそ清々しさすら覚える。
メリッサは胸元にさらに身体を寄せ、指先で彼の法衣の袖口をくしゅっとつまむ。
「シオン様のこの香り、好き。なんか落ち着く」
「……香り、か」
シオンは少しだけ息を整える。
彼の心を揺らすのは派手な仕草ではなく、こういう遠慮がちな甘え方なのだと毎回思う。
「そなたもとても落ち着くな」
「え……あたし?」
「そうだ」
シオンはメリッサの頬に軽く触れ、そのまま指を滑らせて髪を耳へとかき上げる。
「そなたの温度は、私の心を穏やかにする」
恥ずかしくなるくらいに甘い言葉でも、シオンが言うとまるで祝詞のように聞こえる。
メリッサの胸の奥が、じんわり温度を持って広がっていく。
「……もっと近づいてもいい?」
「もちろん」
その許しを得た瞬間、メリッサは嬉しさを隠しきれず、彼の胸元へ深く凭れた。
シオンの身体が微かに揺れ、受け止める腕の力が強くなる。
火の明滅に、二人の影が寄り添うように揺れた。
「シオン様……あたし、こういう時間すごく好き」
「私もだ。ずっとこうしていたくなる」
メリッサは胸の奥が甘くなり、シオンの腕の中で小さく笑う。
暖炉の火は穏やかに燃え続け、冬の静かな離宮で寄り添う二人は、誰にも邪魔されることのない時間を過ごしていた。
薪が一つ弾け、橙の火の粉がふわりと舞った。
メリッサはその光を眺めながら、シオンの胸に寄り添ったまま、指先だけをそっと動かす。彼の法衣の生地に触れ、その滑らかな質感をたどり、無意識のように袖口へと沿わせる。
「……そんなふうに触れられると」
シオンの声が低く落ちる。
「そなたが求めていることが伝わってくる」
「やだ、分かっちゃう?」
「分からぬわけがない」
シオンは軽く笑い、彼女の腰へと腕を回し直した。
優しい。けれど、はっきりと“恋人”としての距離だった。
メリッサは胸がきゅっと温かくなり、そっと彼の胸元に頬を寄せる。
「……触れても、いい?」
「そなたになら許している」
その言葉に安心するように、メリッサの指が彼の胸元から喉元へと滑った。
生地越しに感じる体温が、じわりと指先に吸い寄せられる。
シオンは微かに息を整え、メリッサの髪へ手を伸ばした。指先が彼女の耳の後ろをかすめ、さらりと髪を梳く。撫でる、というよりは、触れた指先で気持ちを確かめるような、静かな愛情の動きだった。
「シオン様……」
「なんだ、メリッサ」
名前を呼ぶ声が柔らかく震える。
その震えさえ愛しくて、シオンは彼女のこめかみに唇を寄せた。
触れるだけの静かな口付け。メリッサは息を吸い、瞳を閉じる。身体が自然にシオンの方へ傾く。彼の手が背中をゆっくり辿る。肩甲骨のあたりを包み込むように撫で、その指が生み出す温かさにメリッサは身を委ねた。
「もう少し……近くにいてもいい?」
「そなたの望むままに」
その囁きが胸の奥に落ち、メリッサはシオンの膝に片脚を乗せるようにして、より深く寄り添った。
決して乱暴ではない、けれど確かな“求める気持ち”が混ざる距離。
「……重くない?」
「軽いものだ」
シオンは静かな声音でそう言い、彼女の頬を指でなぞった。
その指先が顎のラインを滑り、唇のすぐ近くで止まる。
「もう一度、キス……してくれる?」
メリッサの囁きは、火の音に紛れるほど小さい。
シオンの瞳が揺れ、その奥に深い愛情が宿る。
「……そなたが望むなら」
そしてゆっくりと、二人は再び距離を詰めていく。
離宮の静かな広間で寄り添う恋人たちは、誰にも見られない午後の温度を確かめ合っていた。
シオンの唇が離れた瞬間、メリッサは胸の奥がじんわり熱くなるのを感じた。
触れた時間は短かったはずなのに、身体の芯まで余韻が残っている。
「……メリッサ」
名を呼ぶ声が、火の揺らぎよりも柔らかく落ちる。
次の瞬間、シオンは彼女の腰へ手を添え、躊躇いなく引き寄せた。
メリッサの身体がふわりと浮き、気づけばシオンの膝の上に跨るように座っていた。
「え……っ、こんな……」
「顔がよく見える」
短く言う声は穏やかで、それなのに抗えない力を帯びている。
メリッサの両手は自然と、シオンの肩へそっと置かれた。
近い。
さっきまでの距離とは比べものにならないほど、シオンの呼吸が肌に触れる。
シオンは膝上の彼女の腰を支えながら、片方の手でメリッサの頬へ触れた。
親指が優しく、触れるか触れないかの強さで頬を撫でる。
「……続けてもいいか?」
その問いかけは慎重でありながら、微熱を帯びた響きを含んでいた。
「……うん。シオン様がしたいなら……」
メリッサの声は小さく揺れる。
逃げる気なんてない。寧ろ、もっと触れたい。そんな気持ちに気付かれてしまいそうなほど、胸が高鳴っていた。
シオンは少し息を吸い、彼女の顎をそっと持ち上げた。
視線が絡まり、世界が二人だけに狭まる。
そして——唇が触れ合う。
今度の口付けは、先ほどよりも深く、迷いのないものだった。
メリッサの背に回されたシオンの手が、十全に彼女を抱きとめる。逃げ道など初めから与えない、恋人としての確かな抱擁。
唇が重なるたび、鼓動が重なっていく。
メリッサはシオンの肩に指をぎゅっとかけ、身を寄せた。その触れ方が、彼を求める気持ちをそのまま伝えてしまっている。
シオンの息が、メリッサの唇に落ちる。
もう一度、そしてさらにもう一度。
重ねられる口付けは一層熱を帯び、けれど決して荒くはならなかった。
炎の揺らぐ音の中、二人の世界は静かに深く沈んでいく。
「……メリッサ」
名を呼ぶ声が、彼の胸の底から溢れるように甘く響いた。その声一つで、メリッサの身体はふるりと震える。
「シオン様……」
囁くように応えると、シオンは瞳を細め、メリッサの頬へ唇を寄せた。頬から耳元、首筋へと、ゆっくり軌跡を描いていく。
離宮の広間には、暖炉の火と二人の静かな息遣いだけが満ちていた。
シオンはメリッサをそっと抱き寄せた。焔の揺らぎが二人の影を長く落とし、その明滅が静かな呼吸に合わせてふわりと揺れる。
膝に跨るように座らされているメリッサは、視線の高さが揃ったことで胸の奥がどうしようもなくざわめき、落ち着かないように指先をぎゅっと握った。
「……そんなに緊張することはない」
耳もとで落とされたその声は、火の温度に似た情熱を帯びていて、メリッサは小さく息を吐く。
「しちゃうよ……だって、こんなに近いんだもの」
「近くては困るか?」
「困らない……逆に、その……嬉しいけど」
言い終えるより早く、シオンの手が彼女の頬を包んだ。親指が肌をなぞる動きは驚くほど慎重で、触れられたところから余韻がじんわりと広がっていく。
口づけは、ごく短い間を置いて落ちた。
最初は触れるだけの浅いものだったが、互いの呼吸が重なるほどに深みを帯びてゆく。メリッサが背に腕を回すと、シオンの胸の鼓動が厚手の法衣越しに伝わり、鼓動の速さが自分と同じであることに気づいて息が乱れた。
そのまま、シオンはメリッサの背を支えながら、ゆっくりとソファへと倒れ込む。柔らかなクッションに沈み込む感覚と、身を預け合う安心感が同時に訪れ、二人の距離はさらに密やかなものになった。
「……メリッサ」
炎の音に紛れるほどの囁きが降ってくる。
名前を愛しむ声音に、メリッサは思わず目を細めた。
「うん……シオン様」
呼吸はすでに乱れている。
しかし、どちらも急ごうとはしなかった。ただ、熱のこもった口づけを交わしながら、互いの存在を確かめるように、手の動きだけがゆっくりと深まっていく。シオンはメリッサの形を確かめるように背中から腰、太腿へと手を滑らせていく。
焔が一段と強く爆ぜた。
倒れ込んだ姿勢のまま、シオンはふと異変に気づいた。
腕の中のメリッサ。ぎゅっと目をつむり歯を食いしばっている。その体は――明らかに強張っていた。
身体は小刻みに震え、呼吸が不規則になっている。
焔の光が揺れるたび、メリッサの喉元に走る影もまた細かく揺れていた。
なぜか。
理由を問うことはしない。
問うべきではない、と本能で悟っていた。
語りたくない過去があるのだと、知っている。
だが。
知っているとは言わない。
知っている素振りも見せない。
ただ、彼女が今、勇気を振り絞って向き合おうとしていることだけを――胸に刻みつけた。
「メリッサ」
呼びかける声音は、深い水の底で響くように静かだった。
静かに名を呼ぶと、彼女はゆっくりと目を上げた。
怖いわけじゃない。
それでも、体の奥のどこかで疼く過去の記憶が、彼女を縛ってしまう。
それを悟った途端、胸の奥で燃え上がっていたはずの熱が、まるで雪に触れた火のように、瞬く間に鎮まってゆく。
(そなたは……どれほどの恐怖に晒されてきたのだ)
痛いほどに胸が詰まった。
忘れたくても忘れられない記憶。
触れようとするだけで体が強張るほどの傷。
それでも彼に応えようと、震えるまま腕を回してくれた、その事実の尊さに、喉がきつく鳴る。
シオンはゆっくりと息を吐いた。
そして、自分の体重が彼女を圧さぬように片腕で支え、そっと距離を作った。
「……すまぬ。重かったな」
その気になればさらに深められる距離。だが、シオンが望んだのはそれではない。
「違うの……そうじゃないの……」
言いながら、メリッサ自身も説明できないように、胸に手を当てた。
本当は心が望んでいるのに、身体が過去の影を思い出すように強張ってしまう――自分でも分からない震え。
「ただ……なんか、動けないの。シオン様と離れたくないのに、変でしょ?」
シオンはそっと首を振る。
「人には言葉にならぬ感情があるものだ。無理に理由を探さずともよい」
彼女自身が誰より苦しんでいて、誰よりも過去に苛まれているはずなのに。それでも逃げずに向き合おうとしている。彼を受け入れようとしている。
シオンはその健気さが痛いほど愛おしく、同時にどうしようもなく切なかった。
愛情は熱を帯びることなく、ただ静かな光のように胸に満ちていく。
「……メリッサ」
名を呼ぶ声は、先ほどまでとはまるで違う色をしていた。欲望ではなく、包み込むような深い情愛の響き。
「そなたが少しでも戸惑いを覚えているのなら……私は、それ以上を求めたりはしない」
メリッサは瞬きをし、驚いたように彼を見つめた。
「……嫌じゃないの?」
「嫌なものか」
シオンの声は穏やかで柔らかかった。
「そなたがここにいてくれるだけで、私は十分だ。触れ合うことも、抱き合うことも……焦る理由など、どこにもない」
そう告げると、メリッサの瞳が揺れる。涙が一滴、光を吸いながら頬を伝った。
シオンはその涙を拭うことさえ慎重に、指先でそっと触れた。彼女は胸元へ顔を寄せるようにして、ぎゅっと法衣を掴んだ。
「……離れたくない。傍にいたい」
「離れぬ」
シオンはゆっくりと彼女を抱き寄せた。
熱ではなく、守るような抱擁。
「そなたが望む限り、私は傍にいる」
焔の明かりが二人を照らし、深まりすぎた距離は一歩引き、けれど、心はかつてないほど近くに触れ合っていた。
シオンは壁際の黒電話へ向かい、短いダイヤル音の後、端的に告げた。
「私だ。……ああ。昼餉を二人分、用意しておいてくれ」
その声音はいつもの教皇としてのそれより、どこか柔らかい。
通話を終えて受話器を戻すと、彼はすぐ暖炉へ戻った。しゃがみ込み、火かき棒を手に取る。
メリッサは上着を整えながら首を傾げる。
「何してるの?」
「火を落とすのだ」
道具を扱う手の動きは迷いなく、しかし決して乱暴ではない。
シオンは薪を軽く崩して空気を遮り、炎の勢いを抑えていく。
「え…もう帰るの?」
「帰る、ではない。……教皇宮へ行くぞ。腹が空いているだろ?」
メリッサは目を瞬かせる。そんな申し出が返ってくると思わなかった。
「……いいの?」
シオンは振り返り、ふっと表情を緩める。
「もちろんだ。私はそなたと一緒に食事をしたい」
その言葉に胸の奥が熱くなる。
メリッサが近づくと、シオンは火かき棒を置き、次に灰かき棒を手に取った。
「メリッサ、消すところを見ておけ。いずれ一人で使う時のためにな」
「うん。教えて」
シオンは灰の山をそっと広げ、残る火種を探していく。
湿らせた灰や、蓋代わりの鉄板を扱う動作は美しくさえあった。
「火は水で消してはならぬ。爆ぜて飛び散る。基本は、空気を断つか、灰をかけて温度を落とす」
「へぇ……焚き火とは違うんだね」
「似てはいるが、ここは室内だ。安全を第一に考えねばならぬ。……見よ、この赤い部分が火種だ」
シオンは指で示しながら、最後に火ばさみでそっと押し潰すように灰を被せる。
熾火の赤がゆっくりと消え、白い灰の静寂だけが残った。
「これでいい。完全に火が落ちるまでは扉は閉めておく」
シオンは暖炉の扉を静かに閉じ、立ち上がる。
その動作一つさえ、メリッサには心を預けられる頼もしさに見えた。
「行くか、メリッサ」
差し出された手は、恋人としての手。
メリッサは笑顔を浮かべ、その手をしっかり握った。
シオンに手を引かれながら、十二宮の長い階段を上がっていく。
冬の冷えた空気を吸うたび、胸の奥がきゅっと引き締まる。けれど、その手の温度だけは確かで、足取りは不思議と軽かった。
教皇宮へたどり着けば、官吏や女官たちが忙しげに動き回っている。
シオンと並んで歩くメリッサへ無礼な態度をとる者は、さすがに一人もいない。
だが――彼らがひそかに「なぜ、メリッサ・ドラコペトラが?」と探るような視線を送ってくるのは、痛いほど分かる。
メリッサの聖域への貢献度は教皇宮内でも知られているところだが、冥闘士の彼女が教皇宮へ立ち入る事が歓迎される理由にはならない。
(あたし、ここじゃ嫌われてるよね……)
一度は教皇を殺害しようとしたのだ。警戒されて当然だ。寧ろ、そうでないとおかしい。
何度目かのその思いを胸の奥に押し込めたところで、食堂へと入る。
真っ白なテーブルクロス。
銀糸のように光るカトラリー。
整えられすぎた食器が、かえって落ち着かない。
そして給仕の列に――見覚えのある女官の姿を見つけた。
あの日、冷たい声であしらってきた女官。
視線がかすかに触れ合うと、相手はすぐに逸らしたものの、メリッサにはその刹那で十分だった。
彼女の顔は抑えきれない怒りや不満、嫌悪に満ちていた。
胸の奥が、じんわり重くなる。
給仕が皿を運び、次に控える者たちが静かに並ぶ。
だが――妙に視線を感じる。
見ていないふりをしながら、見下すでもなく、ただ“観察”されているような。
シオンはそれに気づいた。
ゆっくりと椅子から立ち上がり、卓の横へ向き直る。
「皆、下がれ。……これは命だ」
低く、反論の余地のない声音だった。
女官たちは息を呑み、一礼して静かに退室していく。扉が閉ざされ、広い食堂に残されたのは二人だけ。
途端に静寂が満ち、外の世界と隔てられたような空気になった。
メリッサはようやく息をつき――その瞬間、シオンが向かいの席から微笑む。
「これで、落ち着いて食べられるだろう?」
「……ありがとう、シオン様」
呟いた声が少し震えたのを、シオンは気づいたかもしれない。だが、追及するようなことはせず、ただメリッサの皿とグラスの位置を、丁寧に整えてくれる。まるで、気遣いそのものが形を持ってそこにあるようだった。
温かいスープが運ばれてきたのは、少し前だったらしい。
湯気がまだ立ちのぼっている。
「いただきます」
メリッサはスプーンをそっとすくい、口に運ぶ。
やわらかく舌に広がる温度。
胃の奥まで沁み込んでいくようで、思わず肩の力が抜けた。
「……あたし、なんか緊張しちゃって。こんな豪華なの、落ち着かないというか……」
「日常ではないからな。だが、私は嬉しいのだ」
シオンは静かに続ける。
「私は常に一人で食事をする。もう、長年の慣習だ。それが“教皇の在り方”だからだ。しかし、今は違う。そなたがいる。……それだけで、どれほど心が満たされるか」
メリッサはスプーンを握ったまま、胸がじわりと熱くなった。
「……そんなふうに言われたら、余計に緊張しちゃうよ」
「私の方は――」
シオンはふっと目を細めた。
「緊張よりも、嬉しさの方が勝っている」
その微笑みは、彼がどれほどこの時間を特別に思っているかを雄弁に語っていた。
メリッサは胸の奥まで温かくなり、そっと目を伏せる。
(シオン様とご飯を食べるだけで、こんなに幸せって……どうなの、あたし)
思わず頬が緩んでしまう。
シオンは気づいたように小さく笑い、スープを口に運んだ。
二人だけの昼餉。
食堂の広さがかえって、秘密の時間を守ってくれる。外では決して見せられない顔で、シオンはメリッサを見つめていた。
運ばれてきた食事は、食堂の扉の前にそっと置かれたワゴンに並んでいた。
シオンが椅子を立ち、静かに配膳へ向かう。その仕草に気づいたメリッサは、慌てたように小走りで駆け寄った。
「ま、待って。あたしがやるよ。シオン様は座ってて」
その声音には、彼を敬う気持ちが滲んでいた。
けれどシオンは、振り返った瞳に柔らかな光を宿し、首を静かに横に振る。
「もてなすのは主の務めだ。そなたは客人なのだから、座して待っていよ」
「でも……そんなの、悪いよ」
メリッサがそっと皿に手を伸ばしかけると、シオンの指先が自然とその上に重なった。
触れた瞬間、胸の奥に静かな熱が生まれた。
低く落ち着いた声で、彼は続けた。
「それに――私は、そなたに尽くしたい」
「つ、尽くすって……そんな……」
メリッサの頬が真っ赤に染まる。
シオンはわずかに目を細め、重ねた指先をそのままそっと包み込んだ。拒む隙のない、けれど強引ではない温かさ。
「そなたが傍にいてくれるだけで、私は救われる。せめて、食事を整えるくらいはさせてほしい」
「……そんなふうに言われたら、断れないよ」
「それで良い。そなたは私の大切な女性だ」
言葉に合わせるように、指先で手の甲を軽く撫でる。そのささやか動きが、甘さを帯びて胸の奥に落ちてくる。
メリッサはきゅっと指を絡め返した。意識した自分の小さな動きに、シオンの呼吸がほんのわずか揺れる。
「……じゃあ、一緒に運ぼ?それなら、いいでしょ」
彼は一拍置いて、まるでその提案がたまらなく愛おしいと言わんばかりに微笑んだ。
「……ああ。そなたが望むなら、共に」
指を絡めたまま、二人はゆっくり歩き出す。
教皇宮の静謐な食堂に、二人の温度だけが柔らかく満ちていった。
ソファに並んで座った二人を、橙の光が包む。
外は冬の曇り空で、窓の向こうに広がる灰色の世界とはまるで別の場所のように、ここだけが温度を持っていた。
「……あったかいね」
メリッサは手のひらを火に向け、ほっとしたように指を開く。
それだけの動きなのに、シオンの視線はその横顔に引き寄せられる。
「火があると、静けさの質が変わる」
「うん。なんか……落ち着く」
「そなたが隣にいるからだろう」
さらりと言うくせに、声に照れくささが滲んでしまうのがシオンらしい。
メリッサは小さく笑ってから、そっと彼の肩に頭を凭せかけた。
ゆっくりと寄りかかるのではなく、躊躇いが混じる“そっと”。
でも、その距離を開ける気配は欠片もない。
「ねぇ、シオン様」
「ん?」
「……こうしてると、今日ここに来てよかったなぁって思うんだよね」
シオンの手が、迷いなくメリッサの肩に回る。
抱き寄せるというより、受け止めるような腕の動き。
「私もだ。そなたが来てくれて嬉しかった――バイクで、というのはいただけないが」
「まだ言ってる」
メリッサが声を忍ばせて笑った。
シオンに言わせれば、しつこいくらいに言っておかないと、いつかまたバイクで来られては敵わない。事故に遭ってからでは遅いのだ。
「日を改めるという選択はなかったのか?」
「うん。なかった」
即答だった。
ここまで来ると、いっそ清々しさすら覚える。
メリッサは胸元にさらに身体を寄せ、指先で彼の法衣の袖口をくしゅっとつまむ。
「シオン様のこの香り、好き。なんか落ち着く」
「……香り、か」
シオンは少しだけ息を整える。
彼の心を揺らすのは派手な仕草ではなく、こういう遠慮がちな甘え方なのだと毎回思う。
「そなたもとても落ち着くな」
「え……あたし?」
「そうだ」
シオンはメリッサの頬に軽く触れ、そのまま指を滑らせて髪を耳へとかき上げる。
「そなたの温度は、私の心を穏やかにする」
恥ずかしくなるくらいに甘い言葉でも、シオンが言うとまるで祝詞のように聞こえる。
メリッサの胸の奥が、じんわり温度を持って広がっていく。
「……もっと近づいてもいい?」
「もちろん」
その許しを得た瞬間、メリッサは嬉しさを隠しきれず、彼の胸元へ深く凭れた。
シオンの身体が微かに揺れ、受け止める腕の力が強くなる。
火の明滅に、二人の影が寄り添うように揺れた。
「シオン様……あたし、こういう時間すごく好き」
「私もだ。ずっとこうしていたくなる」
メリッサは胸の奥が甘くなり、シオンの腕の中で小さく笑う。
暖炉の火は穏やかに燃え続け、冬の静かな離宮で寄り添う二人は、誰にも邪魔されることのない時間を過ごしていた。
薪が一つ弾け、橙の火の粉がふわりと舞った。
メリッサはその光を眺めながら、シオンの胸に寄り添ったまま、指先だけをそっと動かす。彼の法衣の生地に触れ、その滑らかな質感をたどり、無意識のように袖口へと沿わせる。
「……そんなふうに触れられると」
シオンの声が低く落ちる。
「そなたが求めていることが伝わってくる」
「やだ、分かっちゃう?」
「分からぬわけがない」
シオンは軽く笑い、彼女の腰へと腕を回し直した。
優しい。けれど、はっきりと“恋人”としての距離だった。
メリッサは胸がきゅっと温かくなり、そっと彼の胸元に頬を寄せる。
「……触れても、いい?」
「そなたになら許している」
その言葉に安心するように、メリッサの指が彼の胸元から喉元へと滑った。
生地越しに感じる体温が、じわりと指先に吸い寄せられる。
シオンは微かに息を整え、メリッサの髪へ手を伸ばした。指先が彼女の耳の後ろをかすめ、さらりと髪を梳く。撫でる、というよりは、触れた指先で気持ちを確かめるような、静かな愛情の動きだった。
「シオン様……」
「なんだ、メリッサ」
名前を呼ぶ声が柔らかく震える。
その震えさえ愛しくて、シオンは彼女のこめかみに唇を寄せた。
触れるだけの静かな口付け。メリッサは息を吸い、瞳を閉じる。身体が自然にシオンの方へ傾く。彼の手が背中をゆっくり辿る。肩甲骨のあたりを包み込むように撫で、その指が生み出す温かさにメリッサは身を委ねた。
「もう少し……近くにいてもいい?」
「そなたの望むままに」
その囁きが胸の奥に落ち、メリッサはシオンの膝に片脚を乗せるようにして、より深く寄り添った。
決して乱暴ではない、けれど確かな“求める気持ち”が混ざる距離。
「……重くない?」
「軽いものだ」
シオンは静かな声音でそう言い、彼女の頬を指でなぞった。
その指先が顎のラインを滑り、唇のすぐ近くで止まる。
「もう一度、キス……してくれる?」
メリッサの囁きは、火の音に紛れるほど小さい。
シオンの瞳が揺れ、その奥に深い愛情が宿る。
「……そなたが望むなら」
そしてゆっくりと、二人は再び距離を詰めていく。
離宮の静かな広間で寄り添う恋人たちは、誰にも見られない午後の温度を確かめ合っていた。
シオンの唇が離れた瞬間、メリッサは胸の奥がじんわり熱くなるのを感じた。
触れた時間は短かったはずなのに、身体の芯まで余韻が残っている。
「……メリッサ」
名を呼ぶ声が、火の揺らぎよりも柔らかく落ちる。
次の瞬間、シオンは彼女の腰へ手を添え、躊躇いなく引き寄せた。
メリッサの身体がふわりと浮き、気づけばシオンの膝の上に跨るように座っていた。
「え……っ、こんな……」
「顔がよく見える」
短く言う声は穏やかで、それなのに抗えない力を帯びている。
メリッサの両手は自然と、シオンの肩へそっと置かれた。
近い。
さっきまでの距離とは比べものにならないほど、シオンの呼吸が肌に触れる。
シオンは膝上の彼女の腰を支えながら、片方の手でメリッサの頬へ触れた。
親指が優しく、触れるか触れないかの強さで頬を撫でる。
「……続けてもいいか?」
その問いかけは慎重でありながら、微熱を帯びた響きを含んでいた。
「……うん。シオン様がしたいなら……」
メリッサの声は小さく揺れる。
逃げる気なんてない。寧ろ、もっと触れたい。そんな気持ちに気付かれてしまいそうなほど、胸が高鳴っていた。
シオンは少し息を吸い、彼女の顎をそっと持ち上げた。
視線が絡まり、世界が二人だけに狭まる。
そして——唇が触れ合う。
今度の口付けは、先ほどよりも深く、迷いのないものだった。
メリッサの背に回されたシオンの手が、十全に彼女を抱きとめる。逃げ道など初めから与えない、恋人としての確かな抱擁。
唇が重なるたび、鼓動が重なっていく。
メリッサはシオンの肩に指をぎゅっとかけ、身を寄せた。その触れ方が、彼を求める気持ちをそのまま伝えてしまっている。
シオンの息が、メリッサの唇に落ちる。
もう一度、そしてさらにもう一度。
重ねられる口付けは一層熱を帯び、けれど決して荒くはならなかった。
炎の揺らぐ音の中、二人の世界は静かに深く沈んでいく。
「……メリッサ」
名を呼ぶ声が、彼の胸の底から溢れるように甘く響いた。その声一つで、メリッサの身体はふるりと震える。
「シオン様……」
囁くように応えると、シオンは瞳を細め、メリッサの頬へ唇を寄せた。頬から耳元、首筋へと、ゆっくり軌跡を描いていく。
離宮の広間には、暖炉の火と二人の静かな息遣いだけが満ちていた。
シオンはメリッサをそっと抱き寄せた。焔の揺らぎが二人の影を長く落とし、その明滅が静かな呼吸に合わせてふわりと揺れる。
膝に跨るように座らされているメリッサは、視線の高さが揃ったことで胸の奥がどうしようもなくざわめき、落ち着かないように指先をぎゅっと握った。
「……そんなに緊張することはない」
耳もとで落とされたその声は、火の温度に似た情熱を帯びていて、メリッサは小さく息を吐く。
「しちゃうよ……だって、こんなに近いんだもの」
「近くては困るか?」
「困らない……逆に、その……嬉しいけど」
言い終えるより早く、シオンの手が彼女の頬を包んだ。親指が肌をなぞる動きは驚くほど慎重で、触れられたところから余韻がじんわりと広がっていく。
口づけは、ごく短い間を置いて落ちた。
最初は触れるだけの浅いものだったが、互いの呼吸が重なるほどに深みを帯びてゆく。メリッサが背に腕を回すと、シオンの胸の鼓動が厚手の法衣越しに伝わり、鼓動の速さが自分と同じであることに気づいて息が乱れた。
そのまま、シオンはメリッサの背を支えながら、ゆっくりとソファへと倒れ込む。柔らかなクッションに沈み込む感覚と、身を預け合う安心感が同時に訪れ、二人の距離はさらに密やかなものになった。
「……メリッサ」
炎の音に紛れるほどの囁きが降ってくる。
名前を愛しむ声音に、メリッサは思わず目を細めた。
「うん……シオン様」
呼吸はすでに乱れている。
しかし、どちらも急ごうとはしなかった。ただ、熱のこもった口づけを交わしながら、互いの存在を確かめるように、手の動きだけがゆっくりと深まっていく。シオンはメリッサの形を確かめるように背中から腰、太腿へと手を滑らせていく。
焔が一段と強く爆ぜた。
倒れ込んだ姿勢のまま、シオンはふと異変に気づいた。
腕の中のメリッサ。ぎゅっと目をつむり歯を食いしばっている。その体は――明らかに強張っていた。
身体は小刻みに震え、呼吸が不規則になっている。
焔の光が揺れるたび、メリッサの喉元に走る影もまた細かく揺れていた。
なぜか。
理由を問うことはしない。
問うべきではない、と本能で悟っていた。
語りたくない過去があるのだと、知っている。
だが。
知っているとは言わない。
知っている素振りも見せない。
ただ、彼女が今、勇気を振り絞って向き合おうとしていることだけを――胸に刻みつけた。
「メリッサ」
呼びかける声音は、深い水の底で響くように静かだった。
静かに名を呼ぶと、彼女はゆっくりと目を上げた。
怖いわけじゃない。
それでも、体の奥のどこかで疼く過去の記憶が、彼女を縛ってしまう。
それを悟った途端、胸の奥で燃え上がっていたはずの熱が、まるで雪に触れた火のように、瞬く間に鎮まってゆく。
(そなたは……どれほどの恐怖に晒されてきたのだ)
痛いほどに胸が詰まった。
忘れたくても忘れられない記憶。
触れようとするだけで体が強張るほどの傷。
それでも彼に応えようと、震えるまま腕を回してくれた、その事実の尊さに、喉がきつく鳴る。
シオンはゆっくりと息を吐いた。
そして、自分の体重が彼女を圧さぬように片腕で支え、そっと距離を作った。
「……すまぬ。重かったな」
その気になればさらに深められる距離。だが、シオンが望んだのはそれではない。
「違うの……そうじゃないの……」
言いながら、メリッサ自身も説明できないように、胸に手を当てた。
本当は心が望んでいるのに、身体が過去の影を思い出すように強張ってしまう――自分でも分からない震え。
「ただ……なんか、動けないの。シオン様と離れたくないのに、変でしょ?」
シオンはそっと首を振る。
「人には言葉にならぬ感情があるものだ。無理に理由を探さずともよい」
彼女自身が誰より苦しんでいて、誰よりも過去に苛まれているはずなのに。それでも逃げずに向き合おうとしている。彼を受け入れようとしている。
シオンはその健気さが痛いほど愛おしく、同時にどうしようもなく切なかった。
愛情は熱を帯びることなく、ただ静かな光のように胸に満ちていく。
「……メリッサ」
名を呼ぶ声は、先ほどまでとはまるで違う色をしていた。欲望ではなく、包み込むような深い情愛の響き。
「そなたが少しでも戸惑いを覚えているのなら……私は、それ以上を求めたりはしない」
メリッサは瞬きをし、驚いたように彼を見つめた。
「……嫌じゃないの?」
「嫌なものか」
シオンの声は穏やかで柔らかかった。
「そなたがここにいてくれるだけで、私は十分だ。触れ合うことも、抱き合うことも……焦る理由など、どこにもない」
そう告げると、メリッサの瞳が揺れる。涙が一滴、光を吸いながら頬を伝った。
シオンはその涙を拭うことさえ慎重に、指先でそっと触れた。彼女は胸元へ顔を寄せるようにして、ぎゅっと法衣を掴んだ。
「……離れたくない。傍にいたい」
「離れぬ」
シオンはゆっくりと彼女を抱き寄せた。
熱ではなく、守るような抱擁。
「そなたが望む限り、私は傍にいる」
焔の明かりが二人を照らし、深まりすぎた距離は一歩引き、けれど、心はかつてないほど近くに触れ合っていた。
シオンは壁際の黒電話へ向かい、短いダイヤル音の後、端的に告げた。
「私だ。……ああ。昼餉を二人分、用意しておいてくれ」
その声音はいつもの教皇としてのそれより、どこか柔らかい。
通話を終えて受話器を戻すと、彼はすぐ暖炉へ戻った。しゃがみ込み、火かき棒を手に取る。
メリッサは上着を整えながら首を傾げる。
「何してるの?」
「火を落とすのだ」
道具を扱う手の動きは迷いなく、しかし決して乱暴ではない。
シオンは薪を軽く崩して空気を遮り、炎の勢いを抑えていく。
「え…もう帰るの?」
「帰る、ではない。……教皇宮へ行くぞ。腹が空いているだろ?」
メリッサは目を瞬かせる。そんな申し出が返ってくると思わなかった。
「……いいの?」
シオンは振り返り、ふっと表情を緩める。
「もちろんだ。私はそなたと一緒に食事をしたい」
その言葉に胸の奥が熱くなる。
メリッサが近づくと、シオンは火かき棒を置き、次に灰かき棒を手に取った。
「メリッサ、消すところを見ておけ。いずれ一人で使う時のためにな」
「うん。教えて」
シオンは灰の山をそっと広げ、残る火種を探していく。
湿らせた灰や、蓋代わりの鉄板を扱う動作は美しくさえあった。
「火は水で消してはならぬ。爆ぜて飛び散る。基本は、空気を断つか、灰をかけて温度を落とす」
「へぇ……焚き火とは違うんだね」
「似てはいるが、ここは室内だ。安全を第一に考えねばならぬ。……見よ、この赤い部分が火種だ」
シオンは指で示しながら、最後に火ばさみでそっと押し潰すように灰を被せる。
熾火の赤がゆっくりと消え、白い灰の静寂だけが残った。
「これでいい。完全に火が落ちるまでは扉は閉めておく」
シオンは暖炉の扉を静かに閉じ、立ち上がる。
その動作一つさえ、メリッサには心を預けられる頼もしさに見えた。
「行くか、メリッサ」
差し出された手は、恋人としての手。
メリッサは笑顔を浮かべ、その手をしっかり握った。
シオンに手を引かれながら、十二宮の長い階段を上がっていく。
冬の冷えた空気を吸うたび、胸の奥がきゅっと引き締まる。けれど、その手の温度だけは確かで、足取りは不思議と軽かった。
教皇宮へたどり着けば、官吏や女官たちが忙しげに動き回っている。
シオンと並んで歩くメリッサへ無礼な態度をとる者は、さすがに一人もいない。
だが――彼らがひそかに「なぜ、メリッサ・ドラコペトラが?」と探るような視線を送ってくるのは、痛いほど分かる。
メリッサの聖域への貢献度は教皇宮内でも知られているところだが、冥闘士の彼女が教皇宮へ立ち入る事が歓迎される理由にはならない。
(あたし、ここじゃ嫌われてるよね……)
一度は教皇を殺害しようとしたのだ。警戒されて当然だ。寧ろ、そうでないとおかしい。
何度目かのその思いを胸の奥に押し込めたところで、食堂へと入る。
真っ白なテーブルクロス。
銀糸のように光るカトラリー。
整えられすぎた食器が、かえって落ち着かない。
そして給仕の列に――見覚えのある女官の姿を見つけた。
あの日、冷たい声であしらってきた女官。
視線がかすかに触れ合うと、相手はすぐに逸らしたものの、メリッサにはその刹那で十分だった。
彼女の顔は抑えきれない怒りや不満、嫌悪に満ちていた。
胸の奥が、じんわり重くなる。
給仕が皿を運び、次に控える者たちが静かに並ぶ。
だが――妙に視線を感じる。
見ていないふりをしながら、見下すでもなく、ただ“観察”されているような。
シオンはそれに気づいた。
ゆっくりと椅子から立ち上がり、卓の横へ向き直る。
「皆、下がれ。……これは命だ」
低く、反論の余地のない声音だった。
女官たちは息を呑み、一礼して静かに退室していく。扉が閉ざされ、広い食堂に残されたのは二人だけ。
途端に静寂が満ち、外の世界と隔てられたような空気になった。
メリッサはようやく息をつき――その瞬間、シオンが向かいの席から微笑む。
「これで、落ち着いて食べられるだろう?」
「……ありがとう、シオン様」
呟いた声が少し震えたのを、シオンは気づいたかもしれない。だが、追及するようなことはせず、ただメリッサの皿とグラスの位置を、丁寧に整えてくれる。まるで、気遣いそのものが形を持ってそこにあるようだった。
温かいスープが運ばれてきたのは、少し前だったらしい。
湯気がまだ立ちのぼっている。
「いただきます」
メリッサはスプーンをそっとすくい、口に運ぶ。
やわらかく舌に広がる温度。
胃の奥まで沁み込んでいくようで、思わず肩の力が抜けた。
「……あたし、なんか緊張しちゃって。こんな豪華なの、落ち着かないというか……」
「日常ではないからな。だが、私は嬉しいのだ」
シオンは静かに続ける。
「私は常に一人で食事をする。もう、長年の慣習だ。それが“教皇の在り方”だからだ。しかし、今は違う。そなたがいる。……それだけで、どれほど心が満たされるか」
メリッサはスプーンを握ったまま、胸がじわりと熱くなった。
「……そんなふうに言われたら、余計に緊張しちゃうよ」
「私の方は――」
シオンはふっと目を細めた。
「緊張よりも、嬉しさの方が勝っている」
その微笑みは、彼がどれほどこの時間を特別に思っているかを雄弁に語っていた。
メリッサは胸の奥まで温かくなり、そっと目を伏せる。
(シオン様とご飯を食べるだけで、こんなに幸せって……どうなの、あたし)
思わず頬が緩んでしまう。
シオンは気づいたように小さく笑い、スープを口に運んだ。
二人だけの昼餉。
食堂の広さがかえって、秘密の時間を守ってくれる。外では決して見せられない顔で、シオンはメリッサを見つめていた。
運ばれてきた食事は、食堂の扉の前にそっと置かれたワゴンに並んでいた。
シオンが椅子を立ち、静かに配膳へ向かう。その仕草に気づいたメリッサは、慌てたように小走りで駆け寄った。
「ま、待って。あたしがやるよ。シオン様は座ってて」
その声音には、彼を敬う気持ちが滲んでいた。
けれどシオンは、振り返った瞳に柔らかな光を宿し、首を静かに横に振る。
「もてなすのは主の務めだ。そなたは客人なのだから、座して待っていよ」
「でも……そんなの、悪いよ」
メリッサがそっと皿に手を伸ばしかけると、シオンの指先が自然とその上に重なった。
触れた瞬間、胸の奥に静かな熱が生まれた。
低く落ち着いた声で、彼は続けた。
「それに――私は、そなたに尽くしたい」
「つ、尽くすって……そんな……」
メリッサの頬が真っ赤に染まる。
シオンはわずかに目を細め、重ねた指先をそのままそっと包み込んだ。拒む隙のない、けれど強引ではない温かさ。
「そなたが傍にいてくれるだけで、私は救われる。せめて、食事を整えるくらいはさせてほしい」
「……そんなふうに言われたら、断れないよ」
「それで良い。そなたは私の大切な女性だ」
言葉に合わせるように、指先で手の甲を軽く撫でる。そのささやか動きが、甘さを帯びて胸の奥に落ちてくる。
メリッサはきゅっと指を絡め返した。意識した自分の小さな動きに、シオンの呼吸がほんのわずか揺れる。
「……じゃあ、一緒に運ぼ?それなら、いいでしょ」
彼は一拍置いて、まるでその提案がたまらなく愛おしいと言わんばかりに微笑んだ。
「……ああ。そなたが望むなら、共に」
指を絡めたまま、二人はゆっくり歩き出す。
教皇宮の静謐な食堂に、二人の温度だけが柔らかく満ちていった。
