Eine Kleine

 港町の波止場に、淡く朱色が混じる夕陽が差し込む。海面は穏やかに揺れ、微かな潮風が頬を撫でる。昼間の喧騒は消え、漁港特有の木材の香りや潮の匂いが静かに漂うだけだ。猫の影も海鳥の鳴き声も、昼間の活気はなく、港はひっそりと沈黙していた。
 夕陽の光はメリッサの髪の先を淡く金色に染め、海面に反射する光と交錯して揺れる。腕に抱えた容器の重みよりも、胸の奥に残る緊張や不安の方がずっと重く、肩を少し丸めながら足を運ぶ。
「ありがとう、メリッサ。本当に助かるよ」
「同感だ。君の勇気に感謝している」
 アフロディーテとカミュの声が港の静寂に柔らかく響く。しかし、メリッサの耳には、言葉そのものよりも、その背後にある真剣なまなざしや重みが伝わる。
 長い睫毛を伏せ、掌に残る小宇宙の余韻を感じながら、彼女の心はまだ整理できず、揺らぎを残していた。
「でも、植物を入手しただけで、この後はどうするんですか?」
「私たちにもまだ分からないんだ。もしかしたら、また君の力を借りなければならないかもしれないし、聖域内で対処できるかもしれない」
 メリッサは小さく息をつき、掌の硝子容器を揺らさないよう慎重に抱え直す。心の奥では、昨日の暴走の記憶と、教皇シオンとセージが同一人物だったという事実がまだ重く横たわっている。口に出すべき言葉が見つからず、夕風に髪をなびかせながら、静かに答える。
「そうですか……まぁ、何か手伝うことがあったら言ってください」
 アフロディーテが軽く微笑み、気遣わしげに確認する。
「その時は、きっと教皇から連絡が行くと思うけど……良いかな?」
 メリッサは一瞬逡巡し、胸の奥で小さく息を呑む。誰よりも、セージ――教皇シオンに関わることは、自分の心をまだ揺さぶるものだからだ。
「できれば……別の人が良いです」
 小さな声で告げた言葉は、夕陽の色に溶けるように柔らかく、しかし確かな意思を含んでいた。
「うん、分かった。そうだよね」
「すみません……」
「君が謝ることではないよ。気にしないで」
 港に落ちる夕陽の光は、メリッサの背後に広がる海面を橙色に染め、彼女の心の揺らぎを静かに照らす。まだ受容できず、心の中に残る混乱と戸惑いは、港町の静寂の中で揺れ動き続けていた。

 メリッサは自宅で机の上の文献に目を落とす。エルダーフラワーの挿絵が、黄ばんだ紙面にやけに鮮明に浮かんでいる。植物の名前を口にしてみようとしたが、声にならなかった。喉が凍りつき、唇はただ乾くだけだった。
 隠すなら、最後まで隠してほしかった。
 あの人が教皇であることを知らなければ、ここまで傷は抉られなかったかもしれない。いっそ、最初から聖域と無縁のまま普通の港町の娘として、小さな日常だけを続けていけたらどんなに楽だったろう。しかし現実は、彼女を再び忌まわしい記憶の残る場所へと引き戻そうとしている。
 机に突っ伏した瞬間、閉じた瞼の裏にあの祭祀場の石畳が現れた。足音と、防具の擦れる金属音。抗えなかった日々の記憶。呼吸が荒くなり、胸の奥で叫びそうな声を必死に押し殺す。
 行きたくない。
 本能は叫んでいる。だが、同時に、行かざるを得ないという理性が、冷たく告げる。
 カップの中のハーブティーを口に含んでみた。
 冷えきった液体は舌の上で温度を失っており、酷く苦く感じた。窓の外では、街灯の明かりに蛾が飛び込み、何度も弾かれていた。その小さな影を見ながら、メリッサは自分の心もまた、同じ軌道を繰り返しているのではないかと気付いた。
 不意に、静寂を切り裂くように固定電話が鳴り響いた。心臓がわずかに跳ねる。番号表示には《非通知》と出ていた。
 メリッサはほんの数秒、受話器を取るべきか逡巡した。だが結局、指は勝手に動いていた。
 受話口から聞こえてきたのは、深みを帯びた低い声だった。
『聖域文官筆頭教皇補佐官、双子座のサガと申す。メリッサ・ドラコペトラ嬢だな?』
 やはり、来たか――。
 胸の奥に小さな波紋が広がる。シオンからではない。それだけで、ほんの少し救われた気がした。カミュかアフロディーテが、彼女の心情を慮ってくれたに違いない。
「はい。私がメリッサ・ドラコペトラです」
 努めて抑揚をつけない声で答える。
『この度は我々の依頼に応じてくれ、感謝している』
「いえ……事実上、選択肢がなかっただけです」
『それでも、実に丁寧な仕事ぶりだったと聞き及んでいる』
 淡々とした言葉が往復する。そのやり取りは、感情を押し隠した無機質さを持ちながらも、逆にひどく生々しかった。
「で、こうしてお電話をもらったのは……まだ何かしなきゃいけないって事ですか?」
『察しが良くて助かる。単刀直入に言う。聖域で行う触媒評価試験を受けに来てもらいたい』
 カーテンの隙間から、街灯の光が差し込み、机の上の文献の紙面に輪郭のぼやけた影を作る。庭で鳴く虫の声が、やけに耳についた。
「触媒評価試験?……何ですか、それ?」
『君の小宇宙が触媒になるかどうか、調べたい。調査は医療班が行う。明日、こちらへ来てもらいたい。もちろん送迎はさせてもらう』
 受話器を握る手がじんわりと汗ばむ。
「……困ってるんですか?」
 一瞬の沈黙。その後、微かに息が洩れる。
『ふっ……君は素直だな。その通りだ。聖域は困っているし、特に私が困っている』
 抑制の効いた声なのに、不可思議な重みがあった。理路整然とした響きの奥に、ほんのひとかけらの人間らしい切実さが透けて見える。
「どうしてですか?えっと……文官補佐官?様でしたっけ?」
『文官筆頭教皇補佐官、双子座のサガだ』
「長くて覚えられません」
『サガで良い』
 短い言葉の応酬に、緊張の幕がほんの少し緩む。
『実は、幼児化しているのは私の双子の弟なのだ。聖域としても、私個人としても困っている。助けてもらいたい』
 淡々と告げられる事実。だが、彼女の耳には確かに“兄”としての切迫が響いていた。
「はぁ……まぁ……試験受けるだけなら行きますけど……」
『愚弟が君にまで迷惑をかけることに、兄として謝罪する』
「いえ、そこまででは……」
 濁した言葉の裏側に本音を隠す。
『では、明朝九時に迎えに上がっても良いだろうか』
「分かりました。お待ちしてます」
 通話が途切れ、再び静寂。受話器を置いた途端、メリッサは全身の力が抜け、そのまま椅子に深く沈んでいった。
 電話が切れたあと、部屋に沈黙が降りた。
 受話器を置いた右手はまだ熱を帯び、心臓の鼓動と同じ速さでじんわりと脈打っている。メリッサはしばらく指を握ったり開いたりしながら、深呼吸を試みた。だが、呼吸は胸の奥でつかえてうまく下りていかない。

 ――また、聖域に行かなければならない。

 その一文が、頭の中で幾度も反響する。まるで厚い壁に打ち付けられて跳ね返る音のように、何度も、何度も。
 リビングの窓を開けてみた。夜風は海の塩気を含んでいるはずなのに、喉の奥に届く前に、鉄錆のような味が混じった。あの石畳の匂い、晴れ渡った真昼の空、押し寄せてくる声と笑い、痛み、絶望――封じ込めていた記憶が、風に乗って一瞬で呼び覚まされる。
 身体が、先に反応してしまう。
 肩がこわばり、背筋を伝って冷たい汗がすべり落ちる。指先は小刻みに震え、膝の裏には力が入らない。頭では『試験を受けるだけ』と理解しているのに、肉体は頑なに拒否していた。
 逃げても、結局は戻ってしまう。
 夜の深まりと共に、その思いだけが、じわじわと胸を締めつけていった。

 朝の光は、やけに冷たく感じられた。晩夏の地中海特有の眩しさも、この日ばかりは心を焼きつけることなく、ただ硬質な刃のように部屋へ差し込んでいた。
 メリッサは身支度を整えながら、鏡の前でしばらく動けなかった。
 彼女の快活さを体現したようなショートヘアはワックスでセットされている。淡いグレーのブラウスに袖を通し、濃紺のスカートをはいた。そのスカートの表面を手で撫でる。それでも心は落ち着かない。化粧水の匂いも、布の擦れる音も、すべてが遠くで響いているように感じられる。
 昨夜はまんじりともできなかった。メリッサの心は重く、しかし身体はきちんと前へ進んでしまう――その乖離が、かえって恐ろしかった。

 外では既に港町の通りが営みを始めている。パン屋の前には焼きたての香りが漂い、老人が犬を連れて散歩をしている。誰にとっても変わらぬ日常の朝。けれど自分にとっては、過去と現在が交錯する運命の日だ。
 九時少し前、大通りの方から長髪の男が歩いてきた。港町には不似合いの、厳格な雰囲気とどこか翳りを帯びた表情の男だった。
 男は、メリッサの家の前で一度呼吸を整えると、玄関扉をノックした。その音は控えめだが、否応なく彼女の鼓膜を揺らした。

 ――来てしまった。

 玄関に向かう足取りは鉛のように重い。
 それでも靴を履き、扉に手をかける。手のひらはじっとりと汗ばみ、冷たい金属のドアノブをつかむと、かえって熱を帯びているかのようだった。
 扉を開けると、そこには端正な顔立ちをした男が立っていた。淡々とした佇まいに厳格な気配を纏った、シオンよりも年長の男だった。
「――迎えに上がった。サガだ」
 低く落ち着いた声。昨日の電話の主と同じ声だ。
 メリッサは反射的に背筋を伸ばした。
「……おはようございます」
 精一杯、平静を装ったつもりだった。しかし声はかすかに震えていた。サガはそれを聞き取ったかもしれないが、何も言わなかった。
「準備は整ったか?」
「はい……」
 それだけのやり取りなのに、喉はひどく乾いていた。
 扉の外の朝の空気は澄んでいるのに、肺に入っていくそれは冷たい刃のように内側を削った。
 メリッサは最後に一度だけ自室を振り返った。静かな部屋。机の上には昨夜のまま置かれた文献。
 ここに留まりたい――心は叫んでいた。けれど足は、もう後戻りできない方向へ動き出していた。
 彼女は扉を閉め、静かに息を吐いた。
 車内は思いのほか静かだった。
 エンジンの低い唸りと、時折タイヤがアスファルトを擦る音だけが一定のリズムを刻んでいる。
 後部座席でサガの隣に座るメリッサは、窓の外に視線を固定していた。陽射しに白く霞む港町の屋根瓦、漁網を干す木枠、石畳をゆっくり歩く人々。そのひとつひとつが、今この瞬間、もう自分の手の届かない遠い世界になっていくようで、胸が締め付けられた。
 隣から漂ってくる気配は、無駄のない静謐さに満ちている。双子座の聖闘士――サガ。言葉少なに前を見据えた横顔は、まるでギリシャ彫刻のようだ。けれど、ただ冷たいのではない。そこには、揺らぎを内に封じ込めた硬質な静けさがあった。
「……緊張しているのか」
 唐突に、低い声が車内の空気を揺らした。
 メリッサは小さく肩を震わせた。問いかけにどう答えればいいのか分からず、言葉を探す。
「……まぁ、そうですね」
 努めて淡々と返した。
 サガは視線を前から逸らさず、わずかに口元を緩める。
「当然だ。誰にとっても、聖域は気安い場所ではない」
 その言葉には、慰めというよりも、現実を淡々と肯定する響きがあった。だからこそ、かえってメリッサの胸にすっと染み込んでくる。
「……嫌なんです」
 気づけば声が漏れていた。自分でも驚くほど小さな声。
「行きたくない。けど……行かなくちゃいけない」
 窓ガラスに映った自分の顔は蒼白で、グロスを塗った唇の色さえ褪せて見えた。
 サガは一瞬、言葉を探すように沈黙した。その沈黙がむしろ誠実さを物語っているように思えた。
「君の負担を承知の上で、我々は頼んでいる」
 低く、重い声。
「だが、この件は聖域にとって避けられぬものだ。そして私にとっても、個人的な問題である」
「……弟さんのこと、でしたね」
「そうだ」
 サガの瞳が、ガラス越しに遠い一点を見つめている。
「私は弟を救いたい。そのためには君の協力が必要だ」
 その声音に、わずかながら熱が混じっているのを、メリッサは感じ取った。彼もまた苦悩しているのだ。聖域の冷たい権威の仮面を被りながらも、その奥底には切実な願いがある。
 それでも――。
 メリッサは膝の上で指を絡め、視線を落とした。
「……でも、あたしにとって聖域は、地獄みたいな場所なんです」
 言葉にした途端、胸の奥の傷がひりついた。
 サガは返さなかった。沈黙のまま、車窓の景色を見ている。その横顔は硬く、しかし無関心ではなく、むしろ彼女の痛みに触れて言葉を選んでいるように見えた。
 車は徐々に町を離れ、山道へと差し掛かる。海の匂いが薄れ、乾いた草と石灰岩の匂いが混ざり始める。遠ざかる港町の青は、もう随分前に見えなくなっていた。
 山道はうねりながら高度を上げ、窓の外の景色が少しずつ変わってゆく。石灰岩の白い断崖が現れ、乾いた風が吹き抜ける。遠くには、聖域のある山脈の稜線がかすかに見えていた。
 それが目に入った瞬間、メリッサの身体が小さく震えた。
 自分の意志とは無関係に、喉の奥が狭まり、呼吸が浅くなる。心臓が早鐘のように胸を叩き、手のひらが汗でじっとり濡れていった。

 ――あの石の匂い。
 ――乾いた風。
 ――見下ろしてくるような白い建造物の輪郭。

 全てが記憶を呼び起こす。
 雑兵たちの冷笑。突き刺さる視線。追いかけてくる足音。押し潰されるような恐怖。
 思考がそこまで触れた瞬間、胃の奥から吐き気が込み上げてきた。ドアを開けて飛び出したい衝動に駆られる。だが足はすくみ、声も出なかった。
 「……メリッサ嬢」
 隣から呼びかける声。低く、しかしどこか慎重さを孕んだサガの声だった。
 彼女は顔を上げることができず、震える手で自分の膝を握りしめた。
「……大丈夫です」
 声はかすれていた。
「いや、顔色が悪い。車を止めよう」
 サガは運転手へ停車を指示した。
 車が停まった瞬間、メリッサは反射のようにドアを押し開け、外気に身をさらした。
 熱を含んだ風が頬を打つ。だがそれは救いにならず、彼女の身体は拒絶反応のように屈みこみ、地面に手をついた。
 喉の奥が逆流する。吐き気は堰を切ったように込み上げ、唇を噛み締めなければ声になってしまいそうだった。えずきそうになる衝動を押し殺しながら、ただただ、乾いた土の匂いを吸い込むしかなかった。
 顎を伝った汗が滴り落ちる。冷えた雫が小石混じりの地面に落ち、瞬く間に吸い込まれて消えてゆく。その小さな消失が、なぜか彼女の胸をさらに締めつけた。
 「無理は禁物だ。今日は帰った方が良さそうだ」
 背後から静かな声が落ちてきた。サガの声だった。それでも、彼女はかすれた声で首を振る。
 「……いえ、少し、休ませてもらえれば」
 「少し休んで回復するようには見えんぞ」
 サガの声音には、叱責ではなく冷静な観察があった。
 「君が傷つき苦痛を覚えるのなら、我々は別の方策を探すまでだ」
 「……場所を……場所を変えてもらえれば……試験、受けられます」
 言葉を絞り出した瞬間、また胸の奥がざわついた。呼吸は浅く速く、手足の先から痺れが広がってゆく。止めどなく流れる冷汗が背を伝い、衣服を濡らす。
 「過換気だな。ゆっくり呼吸をしなさい。吸うよりも、吐くことを意識するんだ」
 落ち着いた指示が背中に届く。彼女は頷いたが、もう声を出す余裕はなかった。
 ただ必死に、空気を体外へ押し出し、また吸い込む。波のように乱れた呼吸を整えようとする。
 涙がにじんだ視界の向こうで、陽射しに照らされた山脈が揺れて見えた。

 ――セージくん。

 その名が心の奥で震えた。
 会いたい。今だけは、教皇シオンではなく、あの穏やかな笑顔のセージに。
 無力な自分を、ただ一人の人間として抱き留めてほしかった。今はただ、彼に会いたかった。

 まだ立ち上がれずに蹲るメリッサの背を、蝉時雨が包んでいた。夏の終わりを告げる音はどこか虚ろで、張り裂けそうな胸の奥に滲み入ってくる。
 サガは彼女に手を差し伸べるのではなく、ただ静かに見守っていた。
 サガは彼女が過去に受けた仕打ちを知っている。あの傷に触れるような真似をすることは、たとえ慰めの意であっても残酷でしかない。それを彼は理解していた。だからこそ、目の前で涙に濡れる彼女に触れることもなく、言葉さえも選んでいた。
 「場所を変え、後日改めて試験を行おう」
 低く響く声は、叱責でもなく同情でもなく、ただ理性と冷静さに裏打ちされた提案だった。
 「今日は帰った方が良い。これ以上、無理はさせられない」
 メリッサは揺れる肩を抱きしめるように両腕で自分を包み込み、俯いたまま掠れた声を絞り出した。
 「……すみません」
 「謝る必要はない」
 サガの声音には一分の揺らぎもない。
 「君は何も悪くない」
 その瞬間、張りつめていた糸が切れるように、メリッサは唇を噛みしめた。喉の奥が焼けつき、涙がまたひと筋落ちた。

 ――それでも、伝えなくては。

 「……あの、一つお願いがあります」
 「何だ?」
 「セージくんに……会わせてほしいです」
 その名を呼ぶと、胸の奥が強く疼いた。教皇シオンではなく、セージ。そっと寄り添ってくれた姿のままで。
「セージ?」
 サガの眉がわずかに動いた。彼もその名の意味を知っている。メリッサにとって、それが何を象徴するのかも。
 「教皇様に、そうお伝えしてください…お願いします…」
 彼女の声は頼みごとというより、懇願に近かった。目を伏せるその横顔には、羞恥と必死の祈りが入り混じっている。
 「……分かった」
 サガは短く頷くと、視線を逸らさず答えた。
 「だが、ここでは休まらないだろう。車に乗りなさい。冷房もきいている」
 メリッサは袖で目元を拭い、力なく「はい」と応じた。まだ震えの残る身体を立ち上がらせ、ふらつきながら車へ向かう。
 蝉の声はなお鳴き続けていた。燃えるような陽射しは容赦なく降り注ぎ、影を濃くする。
 その中で、サガはただ無言で後を歩いた。彼女の願いがどこまで叶えられるか分からない。だが、それを伝えることだけは約束した。

 セージ――その名が、彼の胸の奥にもしこりのように残った。

 車内に戻った瞬間、冷房の冷気が、焼けついた皮膚を撫でた。額や首筋に浮いた冷汗がひやりとし、呼吸がわずかに楽になる。けれど胸の奥の重さは消えない。吐き出しても吐き出しても残る、濁った淀みのように。
 メリッサは窓際に身を寄せ、両手を膝の上で固く握りしめた。細い肩はまだかすかに震えている。車窓の外では、白く霞んだ陽光に揺れるオリーブの葉が過ぎ去っていく。目に映るのは見慣れた地中海の風景のはずなのに、胸の中には見えない鎖が絡みついて、ひとつ息をするたびに締めつけてくる。
 (……セージくん……)
 声に出せば、涙腺がすぐに決壊しそうだった。喉元まで迫った名前を、唇の裏で押し殺す。だが、心は叫び続けていた。
 教皇シオンではなく、ただの青年として寄り添ってくれたあの人に会いたい。
 冷たい空調の風が頬を撫でる。だがその冷たさの中で、彼女の目尻からは熱を帯びた雫が静かに零れ落ちた。急いでまた袖口で拭う。誰にも見られたくない。これ以上、弱い自分を知られたくない。

 前席に座るサガは、ルームミラー越しにその姿を見ながら、しかし、何も言わなかった。言える言葉など、初めから存在しないと知っていたからだ。ただ、双子座の黄金聖闘士としてではなく、一人の兄として胸に刻んだ。必ず伝えよう。彼女が求めるのは教皇ではなく“セージ”だと。

 車内に満ちる沈黙は、重くもあり、同時にどこか透明でもあった。無言のまま走る車の振動が、メリッサの背中を緩やかに揺らす。その小さな揺れの中で、彼女は袖で涙を隠しながら、ただひたすらに心の奥で名を呼び続けた。

 ――セージくん。どうか、もう一度。

 教皇宮の執務室は、いつもと同じ静けさを湛えていた。磨き込まれた床、薄い陽光を受けて揺れる白布、重苦しいほどに整えられた空間。だが、サガの胸には沈みゆく鉛のようなものが広がっていた。
 「――以上が、本日の経過報告です」
 端的に言葉を結び、サガは一礼した。メリッサが聖域の門前で取り乱したこと。過去の記憶が彼女を苛み、試験どころではなかったこと。そして最後に、彼女が告げた願い。
 「一つ……お願いがある、と。彼女は、こう言いました。『セージくんに会わせてほしい』と」
 その瞬間、机越しに対峙していたシオンの身体がかすかに硬直した。彼女の蜂蜜色の瞳を思い浮かべるまでもなく、彼の胸には鮮烈にその声が蘇る。呼びかけられていたのは、“教皇”ではなかった。人を導く立場でも、黄金の聖衣を纏う戦士でもない。ただの青年、セージだった。
 沈黙が部屋を覆った。サガは余計な言葉を挟まなかった。己の役目は、報告することだけだ。彼女がどれほどの勇気を振り絞って口にしたのかを知っているからこそ、そのまま伝えることに意味があると悟っていた。
 「……そうか」
 ようやく絞り出されたシオンの声は、深く掠れていた。彼は机の縁に両手を置き、視線を落とす。癖のある金の髪が揺れ、その影が頬を覆った。

 ――彼女が求めているのは、教皇ではない。

 その事実は胸を鋭く裂いた。教皇としての威光も、聖域を背負う責任も、彼女の心に届くことはない。ただ“セージ”として彼女の傍にいた時間だけが、彼女を支えている。
 「承知した。……サガ、よく伝えてくれた」
 顔を上げたときの声音には、もはや揺らぎはなかった。だが、その瞳の奥には、誰にも触れさせぬ苦悩が沈んでいた。
 サガは深く一礼し、部屋を辞した。重々しい扉が閉じられると、静寂だけが残る。
 シオンは胸の奥に押し寄せる思いを、一人で受け止めるしかなかった。彼女にとって自分は“教皇”ではなく“セージ”である。それは望んでいたことのはずなのに、なぜか胸を焼く痛みを伴っていた。

 執務室に残されたシオンは、机上に置かれた書類へ視線を落とした。視線はあるはずなのに、文字は形を結ばず、墨の跡のように滲んで見える。彼の思考はすでに別の場所にあった。

 ――メリッサ。

 彼女が求めているのは、教皇ではなく“セージ”だった。
 それは、かつて彼自身が願っていたことでもある。教皇という仮面を剥ぎ取ったときにだけ見える、ただの一人の青年。彼女にとってはその姿こそが真実であり、救いだった。
 しかし――
 “セージ”として近付けば、教皇としての立場は揺らぐ。自分は聖域の頂点に座する者。彼女を再び聖域に巻き込むことは本来なら避けねばならない。それなのに、彼女は苦痛の中で、なお自分を呼んでいる。
 「……」
 短く息を吐き、シオンは椅子から立ち上がった。足取りは重い。窓辺へ近づき、カーテンを押し開く。外には、群青から濃紺へ移ろいゆく空が広がっていた。遠くで夜鳥の声がする。

 ――教皇として、距離を置くべきだ。

 頭では理解している。彼女の心を再び揺らすのは愚かだ。傷を癒やすのは、静かな時間と安全な場所であるべきだ。
 だが、胸の奥で囁く声は違った。
 彼女が泣きながら縋ったのは、“セージ”という名だった。その名を捨て去ることは、彼女の切実な願いを裏切ることになる。
 「……どうすべきか」
 誰に問うでもなく、低い声が漏れる。
 もしも彼女の傍に“セージ”として立てるのなら。その時、彼は初めて彼女の涙を拭えるのかもしれない。だがそれは、教皇としての責務を自ら手放すことを意味していた。
 両の掌を組み、額に押し当てる。まるで祈るように。
 彼が抱えるのは祈りではなく、葛藤であった。
 彼女の求めに応じて会いに行くか、それとも冷静に距離を保つか。
 答えはまだ見つからない。ただ、静かに時が流れ、夜の帳が聖域を覆っていった。

 その夜、港町の小さな家の窓に灯りが漏れていた。
 扉を叩くと、中から慌ただしい足音が近づいてくる。鍵が外れる音。そっと扉が開いた。
 そこに立っていたのは、眠る前の簡素な服に身を包んだメリッサだった。だが、その蜂蜜色の瞳が彼を認めた瞬間、潤んで揺れた。
「……セージ、くん……」
 呼び慣れた名を口にした時の声音は、微かに震えていた。
 シオン――いや、セージと名乗る彼は、短く息を吸い込み、ゆっくりと微笑んだ。教皇の威厳も黄金聖闘士の気配も纏わず、ただ一人の青年として静かにそこに立っていた。
「来てくれたんだね……」
 彼女の声はか細い。だが、溢れそうな安堵がその一言に込められていた。
 シオンは一歩踏み込み、扉を背で閉じる。
「……セージとしてそなたに会うのは、これで最後だ」
 その言葉に、メリッサの瞳が大きく揺れた。
「え……最後って……どうして?」
「私は……もう、教皇として在るしかない。そなたに真実を隠して近づいたこと、今も尚、そなたを苦しめていること――その全てが罪だと分かっている。だから、これ以上は欺けぬ」
 彼の声音は深い湖の底から響くように低く、哀しみに満ちていた。
 メリッサは必死に首を振る。
「そんなの……そんな言い方、ずるいよ……! あたし、まだ……心の整理なんかできてないのに……」
 嗚咽が混じる。彼女の肩は小刻みに震えていた。
 シオンは拳を握り、しかしその手を伸ばすことはなかった。抱きしめてしまえば、別れの言葉が崩れてしまうと知っていたからだ。
「そなたの望んだ“セージ”として、今、ここに立てるのはこれが最後だ。……だが、忘れないでほしい。私がどんな名を名乗ろうとも――そなたを想う心だけは、変わらぬ」
 その一言に、メリッサの涙が溢れ落ちた。
 彼女はただ唇を噛み、声にならない声をこぼしながら、そこに立ち尽くす。
 静かな部屋に、二人の呼吸だけが残った。
 それは、永遠に交わることのない一夜のように美しい沈黙だった。

 夜は静かに港町を包み、窓の外では潮騒が遠くに響いていた。微かに揺れるカーテンの影が、部屋の隅々に柔らかな闇を落とす。
 メリッサはソファの端に座り、膝を抱えたままじっと動かない。目の前の彼――セージと呼び慣れた男は、普段の威厳も黄金聖闘士としての圧も一切纏わず、ただ穏やかにそこに立っている。しかし、彼の瞳の奥には、苦悩と決意が交錯していた。
「……セージくん……」
 声はかすれ、僅かに震えていた。呼び慣れた名前を口にすることで、彼女は自分を落ち着けようとしているようだった。
「メリッサ……」
 その呼びかけは柔らかく、しかしどこか遠くの音のようにも聞こえる。シオンは肩の力を抜き、じっと彼女を見つめた。触れたい、抱きしめたい――その衝動を必死で押さえ込む。
「どうして……どうして、今さら……」
 涙に濡れた瞳で彼女は問う。
「……私は、そなたを欺き続けた。セージとして近づいたこと、そして真実を隠してしまったこと。全てが罪だと分かっている。だから、今、正直でありたい」
 言葉は淡々としているが、重みは深く、胸にずっしりと沈む。彼の口調に揺れる小さな感情を、メリッサは敏感に感じ取る。
「そっか……あたし……そっか……」
 吐息混じりに、メリッサは膝を抱えたまま小さく震える。心の奥底で求めていた“セージ”との安らぎは、もはや手の届かないものになったことを、痛いほどに理解する。
「覚えておいてほしい……どんな名を名乗ろうとも、私の心は変わらない」
 シオンは言葉だけを残し、しかし腕を伸ばすこともできず、ただそこに立っていた。触れれば崩れてしまう――その夜の奇跡の静寂を、壊したくなかった。
 メリッサはそれでも一歩前に出て、か細く声を絞り出す。
「……でも……抱きしめてくれたら……少しは……」
 嗚咽が混じり、声は途切れ途切れになる。
「……それは、今はできない」
 静かに、しかし毅然とした声。シオンの心も痛む。抱きしめたい、慰めたい――だがそれをすれば、別れはさらに残酷になる。彼女の心を守るためには、距離を取らねばならない。
 窓の外、夜風がカーテンを揺らす。潮の匂いと遠くで光る灯火が、二人の間に柔らかな境界線を描く。互いの存在を感じつつも、触れられぬ距離――それは切なく、しかし確かに、二人の絆の証だった。
「……セージ……くん……」
 メリッサは肩を震わせ、涙を何度もぬぐう。声にならない声をこぼしながら、それでもそっと唇を噛み締めた。
「これが……最後……なんだね」
 小さな呟きは、夜の静寂に溶けて消える。シオンはうなずき、しかし何も言わず、部屋の片隅でその言葉を胸に刻む。
 二人の呼吸だけが、夜の港町の静寂に溶けていく。永遠には続かない、ただ一夜の奇跡のような時間。
 触れられぬまま、心だけが触れ合う夜。
 手を伸ばせば届く距離に、セージ――シオンが立っている。指先をほんの少し動かせば、抱きしめることも、互いの温もりを感じることもできるのに、二人はその一歩を踏み出さなかった。
「明日、迎えに来て。セージくんが一緒にいてくれたら、多分行けると思う」
 メリッサの声は震え、吐息のように吐き出される。けれど、その中に秘められた決意は、微かに硬さを帯びていた。彼女は触れられない距離で、想いだけを握りしめている。
「セージとしては来れぬが、良いか?」
 声には淡い痛みと、揺れる心が滲む。抱き締められず、ただ傍に立つしかできない。
「……うん」
 小さく頷くメリッサ。言葉に出さずとも、全身で理解している。触れられぬままでも、彼が傍にいてくれることだけで、心は少しだけ軽くなるのだと。
 夜風が静かに二人の間を抜け、カーテンを揺らす。海の匂いと遠くの灯火が、触れられぬ距離を優しく包む。手を伸ばした指の先で、触れられぬ温もりが確かに存在するように感じられ、互いの胸に静かな切なさが積もっていく。

 抱きしめられない。触れられない。
 ただ、見つめ合い、呼吸を感じ合うだけの夜。
 けれど、その沈黙の温もりこそが、二人の想いを確かに繋ぎ止めていた。
 メリッサの瞳に浮かぶ涙の粒は、月光を受けて淡く輝き、シオンはその光を胸に焼き付ける。触れられなくとも、言葉にならぬ感情は、二人だけの静かな絆として夜に溶けていった。
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