Eine Kleine Ⅱ

 シオンは、メリッサの「お願いします」という言葉を聞くなり、菫色の瞳を静かに閉じた。数回、深く呼吸をしてから、ゆっくり瞳を開けた。
「……そなたは、本当に……私を選んでくれるのだな」
 メリッサの両手を胸の前で包み込む。
 長い年月の孤独と、責務を抱え続けた男が、漸く手にした“かけがえのないもの”を確かめるように。
「ありがとう、メリッサ、そなたのその言葉は……私にとって、願っても得られぬほどの贈り物だ」
 教皇の威厳などそこにはなく、ただ、恋をした一人の青年の声音と安堵の笑みがあった。
「そなたが望んでくれるのなら……私は、そなたを恋人として迎えたい」
 その声音は静かで、しかし揺るぎなかった。
 ただ甘く求めるものではない。責任と覚悟を帯びた、一人の男としての願い。
「ただ――私には、立場上避けられぬ制約が多い。そなたを自由に呼び寄せることも、誰の目も気にせず寄り添うことも、叶わぬ場面があるだろう」
 メリッサの胸の奥が少しだけ痛む。けれどシオンは続けた。
「それでもだ。……私は、そなたに傍にいてほしい。誰よりも大切にしたいと思っている。覚悟や義務を求めたくはない。そなた自身の気持ちだけを、私は聞きたい」
 彼の大きな手が、躊躇いがちに、けれど確かにメリッサの頬へ添えられた。触れた指が微かに震えているのは、慎重ゆえか――それとも、抑えきれない想いのせいか。
「……これからは、遠慮せず言ってくれ。会いたいときは会いたいと。寄り添いたいときは寄り添いたいと。必ずしも望みどおりにできぬ時もある。だが――」
 シオンはふっと息を吸い、真正面から彼女を見つめた。
「私は、可能な限りそなたに応えたい。そのために、ここにいる。……それだけは、疑わないでほしい」
 聖域教皇としてではなく、シオンという名の一人の青年の想いが、そのまま言葉になっていた。
 メリッサの胸が熱くなる。
「……そんなふうに言われたら……今日、頑張って来てよかったって思っちゃう」
 涙ぐむメリッサに、シオンはふっと目元を緩め、そっと両腕を伸ばした。
「来てくれてありがとう。寒さの中……それでも私のもとへ」
 抱き寄せられた肩に落ちる声は低く優しく、ひどく温かい。
「うん……どうしても、今日がよかったの」
「私もだ。……会いたかった、メリッサ」
 その名を呼ぶ声音は甘やかで、どこまでも優しかった。
 シオンの腕の中で小さく息をついたメリッサを、彼はそっと離す。その拍子に、ふと視線が彼女の右手に貼られた絆創膏に落ちた。
「……メリッサ、その指は……?」
 淡い驚きが、紫の瞳に浮かんだ。まるで今、ようやく気付いたというように。
 メリッサは「あ……」と小さく肩をすくめ、手を引こうとしたが、シオンの指先がそれよりも早く触れた。
「少し腫れているな。どうしたのだ……痛むか?」
 触れるか触れないかの距離で、ただ確かめるように。その声音には、気付かなかったことへの悔いにも似た色が潜んでいた。
「大したことじゃないよ。ちょっと切っただけで……」
「大したことかどうかは、そなたが決めることではない」
 ひどく静かで、優しい叱責だった。
 メリッサは俯き、シオンは彼女の手を両手で包み込むように持ち上げた。
「……手当てをしよう。寒さで悪くしては困る」
 その言葉もまた、深い想いをそっと隠すように柔らかかった。
 シオンは包み込んだメリッサの指先に、静かに意識を澄ませた。ひんやりとした風の中、彼の掌だけがゆっくりと温度を帯びていく。
「……少し腫れているな。血も……まだ完全には止まっていないな」
 淡い苦味が滲む声でそう呟くと、彼はメリッサの目をそっと見つめた。
「少しだけ……じっとしていてくれ」
 頷くより早く、シオンの指先に柔らかな光が宿る。
 黄金聖闘士としての技ではない。もっと静かで、もっと個人的な、祈りにも似た力だった。
 温かな光がメリッサの指へゆっくりと流れ込む。
 じん、と染み込むような熱が広がり、痛みがほどけていく。
「……あったかい……」
 メリッサの呟きに、シオンは目元だけで微笑んだ。
「そなたの痛みなど、ないほうが良いに決まっている。……もっと早く気付ければよかったな」
 光がすっと収まり、残されたのは滑らかに整った肌だけ。傷は跡形もなく癒えていた。
 シオンはもう一度、彼女の手を優しく確かめ、安心したように息を吐く。
「もう大丈夫だ。……無理をしたのだな、メリッサ」
 その声音には、どうしようもなく深い愛しさが滲んでいた。

 誰もいない神殿。静寂に満ちた空間は、差し込む天窓からの光で淡く白く照らされていた。光が形づくる円環の中、二人は互いの存在を確かめるように向かい合う。
 シオンは、メリッサの顔を両手で包み込み、親指で頬を撫でる。その動きはただ優しいだけではなく、どこか切実な熱を帯びていた。メリッサの蜂蜜色の瞳は潤み、呼吸は浅く速くなる。
「……シオン様……」
 声はかすかに震え、吐息に混ざる甘さにシオンの胸も疼いた。
 そのまま唇が重なる。
 最初は柔らかく、確かめるように触れるだけの口付け。だが、すぐに熱を帯び、深く、強く、互いの鼓動に合わせるように長く重なる。
 シオンの手はメリッサの背をしっかりと抱きしめ、彼女の体を自分の胸へ引き寄せる。
 メリッサもまた、躊躇うことなく腕を回し、彼の背中に触れながら全身で応える。
 時が止まったかのような神殿の中、二人の息遣いと心音だけが空間を満たす。
 光に照らされる唇、触れ合う指先、交わる呼吸——
それら全てが、静かな情熱と、抑えきれない想いの証となっていた。

 口付けが解かれたとき、互いの頬は熱く紅潮していた。視線は互いを見つめたままだ。言葉にしなくても心は繋がっているのだと本能で理解する。
 この時ようやく、メリッサは自分の胸の奥で、これほどまでに誰かを求めたことがなかったと気づいた。
 シオンもまた、彼女は、二百年を超える長い生の果てに、やっと見つけた宝物なのだと思い知った。
 神殿の静寂は、二人の息遣いで満たされる。
 唇を重ね互いの温もりを確かめるたびに、自然と体は近づき、抱き合う腕の力は増す。抱き締める腕に力を込めると、メリッサの唇から吐息が溢れる。
 その吐息を掬い上げるようにまた唇を重ねる。
 舌先が絡み合い、呼吸が混ざるたび身体の奥まで熱が伝わる。
 その深さはただ甘いだけではなく、愛しい恋人を求め合う衝動そのものだった。
 シオンの手はメリッサの背を滑るように撫で、柔らかな髪に指が通る。
 メリッサもまた、躊躇なく彼の背中に指を這わせ体を密着させながら応える。
 口付けを解いても、唇の余韻は相手を求める衝動となり、二人は互いに吸い寄せられるように何度も唇を重ねる。

 光に照らされた神殿の空間は、二人だけの世界となり、時間は静かに濃密に流れた。深く絡み合う口付けのたびに心はさらに近づき、言葉よりも確かな絆を刻んでいく。互いの存在が、肌で、唇で、全身で感じられる——それは甘く、熱く、優しく、そして抗えないほどの切実さを帯びた、初めての感覚だった。
 唇を離したあとも、二人の体はまだ互いを求め合っていた。
 シオンはそっと額をメリッサの額に寄せ、深い呼吸を整える。
「……メリッサ」
 名を呼ぶだけでも声は低く甘く、抑えきれぬ感情が滲む。メリッサもまた、頬に残る熱を感じながら小さく頷く。心臓は早鐘のように打ち、手のひらはまだシオンの胸に触れていた。
「もぉ…ホントに好き……」
 その声に言葉以上の意味が込められていることを、シオンはすぐに理解した。
 互いの瞳を見つめ合う。言葉を交わさずとも、心は既に繋がっている。数ヶ月間抑えてきた想いが、静かに、しかし確実に形となった瞬間だった。

 神殿の光は、二人の輪郭を優しく包み込み、空間を淡い金色に染めた。
 その光の中で、メリッサは初めて、自分がこの人を心から信頼し、愛していることを確信する。
「シオン様、これからよろしくね」
「私の方こそ、よろしく頼む」
 指を絡めて手を繋ぐ。神殿を一歩出てしまえば、この手を解かなければならない。
 それを二人とも知っているから、底冷えのする神殿なのにここから出られない。それに、抱きしめ合っていれば温かくいられる。
 いつまでもここに閉じ籠もっているわけにいかないのだが、やっと手に入れた恋人といつまでも一緒にいたい。
「メリッサ…ここは冷える。私の宮殿へ行こう」
「白羊宮?」
「いや…実は外部からの来訪者と謁見するための離宮があるのだ」
「なんか…王族みたいだね」
「危機管理上、必要なことなのだ」
「なるほど……じゃあ、行ってみる。シオン様の離宮、見てみたい!」
 シオンはメリッサの手を軽く引き、神殿の冷たい石畳をゆっくりと歩き出す。
 指先が絡んだまま、互いの温もりを確かめ合うように、そっと手を握り締める。
「シオン様、あたし……手、離したくない」
「……私もだ」
 シオンの応えに、メリッサの胸が小さく跳ねる。言葉は少ないが、互いの気持ちは十分伝わる。
 二人の手は、互いを確かめ合うように温かく結ばれたまま、神殿の薄暗い回廊をゆっくり歩いていく。
 外へ続く大扉の前で、シオンはふっと立ち止まった。差し込む外光が二人の影を長く伸ばす。
「……ここまでだ、メリッサ」
 穏やかにそう告げると、シオンは繋いだ手をそっと持ち上げ、名残を惜しむように親指でメリッサの手の甲をなぞった。
 離れがたい気持ちがそのわずかな仕草に滲む。
「外へ出れば、私がそなたと手を取っていたことが、誰かの目に映るやもしれぬ。今はまだ…公にすべき時期ではない。分かってくれるか?」
 ただ事実を告げるだけの静かな声だった。聖域教皇と冥闘士。監視する側とされる側。言われるまでもなく、自分たちの交際は秘密にしなければならないものだと、メリッサも理解している。わかっているけれど——胸の奥に小さな痛みが走る。
「……うん」
 メリッサが小さく答えると、シオンはゆっくりと指をほどいた。触れ合っていた温度が離れてゆく。その一瞬の寂しさは、二人の胸に同時に落ちた。
 離れた手は行き場を失うように宙をさまよい、互いに触れられないまま並んで立つ。
「行こう、メリッサ」
 優しい声音に促され、メリッサはこくりと頷いた。
 シオンが扉に手をかける。冷えた金具が音を立てて開き、外の光が広がった。

 外の石畳を抜け、離宮の門前に差し掛かると、シオンは錠前に手を翳す。その手が淡く光り、錠前がカチャリと音を立てて解錠された。
 限られた人物の小宇宙だけが鍵になる特殊な錠前。
 まるでファンタジーの世界を見るようだった。
「ここから先は機密情報扱いだ。離宮内の構造は外部の干渉を避けるため秘匿にせねばならぬ。どうか、口外しないと誓ってくれ」
「もちろん」
 メリッサは頷き、少し緊張した面持ちで門をくぐる。
 中に入ると、外の冷気は遮断され、柔らかな光が差し込んでいてほのかに温かい。
「わ……なんか、温かい……」
「冷えた体を温めるには最適だろう」
 シオンは微笑みを浮かべ、メリッサの肩をそっと抱き寄せた。二人はそのまま歩き、広間の一角にあるソファへ腰を下ろす。
 メリッサはシオンの温もりが恋しくて、彼の手に指を絡める。シオンもそれを拒まず、絡められた指を握り返した。
「……ここでゆっくりできるの?」
 メリッサの言葉に、シオンは頷いた。
「ああ。ここは限られた者しか出入りできぬ。それも、私の許可なくては入れぬようになっている」
「ふふ…まるで秘密基地だね」
「そうだな」
 手をつなぎ顔を見合わせるだけで、何も言わずとも互いの気持ちが伝わる時間。
 メリッサは心の中で小さく呟く。

 ――これからも、ずっと一緒にいたい。

 シオンもまた、心の奥で同じ思いを抱えていた。
 この日、この時間、この温もりを、永遠に忘れたくないと。


 シオンは暖炉の前に立ち、手際よく火を起こす準備を始める。それを見たメリッサは勢いよくソファから立ち上がった。
「あたしもやりたい!教えて!」
 メリッサが前に飛び出すようにして、両手を伸ばす。
「火の粉が飛ぶ。危ないからだめだ」
 シオンはきっぱりと断る。
「むぅ…シオン様って、あたしに過保護じゃない?」
 メリッサは頬を膨らませ、手を腰に当てる。
「そなたは私の大切な恋人だ。過保護で当然だろ?」
 シオンの声には、淡い微笑が混ざっていた。
「えぇ…それじゃあ、あたしがつまんないよぉ」
「つまる、つまらぬで語るものではない」
 シオンの返答は淡々としているが、楽しそうな表情を隠し切れていない。
「だったら、危なくないようにシオン様がちゃんと教えてくれたらいいんだよ。ね?その方が建設的だし!」
 メリッサの瞳はキラキラと輝き、声も真剣だ。
「だめだ」
「ねぇ〜、お願い〜」
 メリッサは両手を胸の前で握り、甘えた声と上目遣いで懇願する。
 シオンはしばし黙って彼女を見つめる。目を細め、微かにため息をつく。
 結局、折れたのはシオンの方だった。
「……仕方がない、少しだけだぞ」
 シオンが薪を一本手渡すと、メリッサは飛び跳ねるように喜んだ。
「やったぁ!」
「但し、火は扱い方を間違えれば途端にその牙を剥いてくるものだ。場合によっては命まで奪われる。ゆえに、火起こしの段階から消火するまで、絶対に慎重でなければならない。良いな?」
 目を輝かせているメリッサに、真剣な表情で言い聞かせる。
「はい!分かりました!」
「うむ、良い返事だ。では教えよう。まずは――薪の置き方だ」
 低く穏やかな声が、暖炉の石壁に柔らかく反響する。
「置くって…こう?」
 メリッサは薪を斜めに傾けながら、火床へそっと伸ばす。
「待て。焦らずともよい」
 シオンは彼女の手首に触れない程度に、指で動きを制した。
 その距離は寸分。触れていないのに、指先が温かく感じられるほど近い。
「薪は、炎が育つための“道”を作らねばならぬ」
 シオンは自ら一本の薪を取り、火床に三角を描くように組んでいく。
「空気が通らねば火はつかぬ。重ねすぎても、離しすぎてもだめだ」
「なるほど…呼吸する場所をあけてあげるってこと?」
「そうだ。火は生き物と同じだ」
 シオンはわずかに目を細める。メリッサの理解に満足したようだった。
「じゃあ、あたしもやってみる!」
 メリッサがもう一本の薪を手に取り、慎重に配置する。その様子は真剣そのものだが――シオンには、どうにも可愛らしく映ってしまう。
「ここを、もう半寸ほど上げると良い」
 シオンが手を添えて導くと、薪は三角形の頂をなめらかに揃えた。
「……できた?」
「うむ。悪くない」
 シオンは小さく頷き、炉縁に置かれた真鍮製の小箱を手に取った。小箱の表面には細やかな紋章の彫刻が施され、金色に鈍く光っている。
 その中には、乾いたマッチと小さな火吹き棒が整然と収められてあった。
「最後に――着火だが、これは私がやる」
「えぇっ、そこまでやらせてくれてもよくない?」
 メリッサは口を尖らせて抗議する。
「いずれな。しかし今は危ない。そなたが火傷でもしたら…私は後悔する」
 その声音は決して揶揄ではなく、本気でメリッサを案じているものだった。
「もし火傷しても、シオン様がヒーリングで治してくれるでしょ?だから大丈夫!」
 メリッサは目を輝かせ、少し体を前に乗り出す。
「初めからそれをあてにしているような姿勢では、尚の事させるわけにはいかぬ」
 シオンの声は厳しさを帯びていた。それはきっと、メリッサへ初めて向けられた彼の厳格さだったかもしれない。
「なんで?」
「油断が生まれるだろ?そうすると思わぬ事故が起こるものだ」
「そっか…油断大敵ってやつね。分かった」
 神妙な面持ちで頷くメリッサに、シオンは安堵した。もし、へそを曲げられでもしたらどうしようかと不安があったのだ。しかし、彼女はそこまで話の分からない質ではなかった。
「分かってくれたか」
「うん。シオン様に心配や迷惑をかけないようにします。だから、火をつけさせてください」
 両手を前に出して真剣な眼差しで見つめるメリッサに、シオンはため息を吐き出した。肩が少し落ちる。
「何も分かっておらぬではないか…」
「そんなことないよ。あたしだってそこまでおバカじゃないもん。真面目にやるよ」
 暫く沈黙した後、シオンは小さく頷いた。
「……わかった。だが、慎重にな。繰り返すが、火は生き物だ」
 彼女にマッチを手渡す。
 日頃から、料理をしたり大学の実習でガスバーナーやアルコールランプを扱うメリッサにとって、火の扱いは慣れたものだ。しかし、シオンと違い現代っ子のメリッサ。彼女にとって、マッチというものは前時代の遺物で、目にしたことはあっても使ったことは一度もなかった。
「どうやって使うの?」
 期待を含んだ声が跳ねる。
 シオンは少し目を瞬かせた。
「……マッチは初めてか?」
「うん!絵本とかでは見たことあるけど、使ったことはないよ。人が使ってるのも見たことないかも?」
 悪びれもせず言い切る彼女に、シオンはほんの少しだけ肩を落とす。些細な事なのだろうが、ジェネレーションギャップを感じざるを得ない。
「そうか。今はライターが主流なのだろうな……よし、まずは使い方だ」
 シオンは箱を少し傾け、指先で一本マッチを取り出す。
 細い木軸と小さな赤い頭――火の予感を抱かせるそれをメリッサへ渡す。
「持ち方はこうだ。力を入れすぎると折れる。だが、弱すぎても擦れない」
「え、難しくない?」
「大丈夫だ。手前から向こうへ擦ってみろ。一気に擦らないと火はつかぬぞ」
 メリッサはマッチをつまみ、不安そうに側薬へ向ける。
 チッ――
 乾いた音がしたが、火はつかなかった。
「……今のは空振りだな」
 シオンが静かに告げる。
「むむ……もう一回!」
 気合いを入れ直して擦る。
 カツッ。
 赤い頭はちらりとも光らない。
 続けてもう一度、焦りが混じった力で擦る。
 パキッ。
「……あっ」
 赤い頭が折れた。
「だから言っただろう。力を入れすぎると折れると」
「だってぇ……!」
 悔しさで頬を膨らませるメリッサに、シオンは苦笑するしかない。
「焦る必要はない。どれ、少し手助けしよう」
 そう言って、シオンはメリッサの手をそっと包み込む。暖炉よりも温かい、その掌。
「こうだ。動かすのは腕ではなく手首だ。一定の速さで――」
 シュッ。
 淡い橙が一瞬で咲き、メリッサは目を丸くした。
 指の先で揺れる小さな炎が、二人をやわらかく照らす。
「……着いた!シオン様、あたしできたよ!」
「ふむ。よくやった」
 火の匂いと、シオンの温もりと、成功の余韻が、広間で静かに溶け合っていた。
「ね、ね!次はどうしたらいいの?」
「火傷しないよう気をつけて、そっと置くのだ――この辺りだ」
 メリッサは炎にそっと薪を近づけ、炎がゆっくりと三角形をなぞるように広がっていくのを見守った。
「やったぁ!シオン様、見て!」
 火の温もりと自分の手の温もりが同時に胸に伝わり、メリッサの頬は赤くなる。
 シオンはその横顔を静かに眺め、心の中で小さく呟く。
(この子の一生懸命さが、何より愛おしい)
 離宮の広間に、ぱちりと薪の爆ぜる音が響く。
 二人の距離は、揺れる炎と同じように静かに、確かに近づいていた。
 二人きりの距離。二人きりの時間。
 この瞬間の温もりは、互いの心に深くゆっくりと染み渡っていった。

 暖炉の火がようやく落ち着き、ぱちぱちと薪が静かに爆ぜる音だけが離宮の広い客間に漂っていた。外は冬の気配が濃く、石造りの壁を伝って冷気が忍び込んでくる。
 それでも、シオンがメリッサの肩にそっと外套を掛けてくれたおかげで、肌寒さはすっと遠のいた。
「……あ、そう言えばなんだけど」
 火の音に紛れるほどの小さな声で、メリッサが口を開く。
 肩を寄せ合って座る距離が、いつもよりずっと近い。
「ん?」
「シオン様の連絡先、教えて」
「連絡先?」
 シオンが小首を傾げる。
「うん」
「教えていなかったか?」
「うん」
 短い沈黙。
 そして――シオンの視線がさまよった。

 あ、これは絶対に忘れてたやつだ。

「……そなたの番号は知っているが」
「えっ、知ってるの?」
 メリッサの瞳がぱちくりと瞬いた。
「そなたの個人情報は登録されているからな。この番号で変わりないか?」
 シオンが差し出してきたスマホの画面には、メリッサの名前と番号が表示されていた。もう監視対象ではないのに、シオンはこの番号を削除していなかった。
 それは、メリッサとの繋がりを手放したくなかっただけなのか、監視対象に戻す可能性をまだ残していたからなのか。
 後者なら二人の関係が根底から覆されてしまう。それが怖くて、メリッサは理由を問うことができなかった。
「……うん、大丈夫だよ。じゃあさ、メッセージアプリは?入ってる?」
 作った笑顔が引きつっているような気がして、シオンの顔が見れなかった。
「メッセージアプリは使っておらぬな」
「だよね。そしたら、インストールしても大丈夫?」
 ほんの私的な、他愛もない会話がしたいだけなのに――そう告げる前から、シオンの眉間が寄るのが分かった。
「セキュリティの問題があるからな……」
 反応が悪い。
 (あぁ……だめなんだ……)
 そう考えてしまう自分が嫌だった。
「プライベートな話だけなら構わない?」
「万が一外部に漏洩しても影響しない範囲でのやり取りになるが……良いか?」
「うん。それで十分」
 そう返したものの、胸の奥に少しだけ影が落ちる。暖炉の火は明るく熱く燃え盛っているのに、メリッサの高揚した気分はたちまちしぼんでいく。
 仕方ない。シオンは教皇で聖域の要だ。
 でも――恋人としての距離は、あまりにも寂しい。
「できれば通話も固定電話からにしてもらいたい」
 シオンはサイドテーブルの引き出しから小さなメモを取り出し、丁寧に書きつけた二つの番号をメリッサに手渡した。
「私への直通番号だ。執務室と私室、どちらにも繋がる。……そなたが困った時、連絡してくれ」
 その言葉だけで、十分すぎるほど嬉しい。
 けれど同時に――この人がどれほど重大な場所に立っているのかを、改めて思い知らされる。そして、自分は全てを許されているわけではないのだとも。
 それでも、メリッサはそっと笑ってみせた。
 シオンの過保護も、堅苦しい規則も、全部ひっくるめて好きになってしまったのだ。
 大切にすると言ってくれた。その言葉、気持ちを信じたい。
「……ね、シオン様」
「ん?」
「そのうち、普通に“おはよう”とか“今日会える?”って、気軽に送れる日が来るといいね」
 言いながら、彼の指先に自分の指を絡める。
 暖炉の火が揺れて、二人の影を一つに重ねた。
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