Eine Kleine Ⅱ
聖域の朝は、平日でも休日でも大抵は穏やかだ。
教皇宮の奥深くに位置するシオンの私室では、豪奢なカーテンを開け放した窓から差し込む陽光が、冬のきらめきを帯びて淡く白く室内を照らしていた。
床に敷いた絨毯の上に長く影を落とし、室内の静謐をいっそう深めていた。
休日は、余計な来客や書類もなく、朝寝坊が許される数少ない日。短く切られた金の髪が、寝起きのまま柔らかく乱れている。
誰の目もない部屋で、大きなあくびを一つする。
朝食は既に終え、今は着替えの途中だった。
白と薄金の刺繍が施された軽装のローブに袖を通し、鏡の前で帯を結ぶ。
(さて、今日は久しぶりに心穏やかに過ごせそうだ)
そう思った瞬間だった。
控えめなノックが、静かな部屋に落ちる。この時間に訪れるのは、限られた者しかいない。
「入れ」
扉が開き、側近の一人が姿を現した。
休日の訪問という事実が、既に厄介ごとの気配を帯びている。
「猊下。正門の衛兵より、メリッサ・ドラコペトラ嬢が来訪していると報告がありました。」
帯を結んでいた手が、ぴたりと止まった。
「……メリッサが?」
声は思った以上に低く、抑えきれない驚きが滲んでしまう。
昨日、彼女に想いを告げている。ずっと胸に秘めていた彼女への恋心。
「返事はいつでもよい」と伝えてある。焦らせるつもりは毛頭なかった。年内に言葉をもらえればそれで十分……いや、それでも僥倖だと思っていた。まして、今日。ストライキでアテネ近郊の電車は全てストップする日だ。
(どうやって来た。まさか……バイクか?)
バイクは危ないからだめだと言ってはいたが、彼女の意外に頑固な性格を考えれば、様々な障害があっても、「聖域へ行く」と決意したら、無茶してでも来るのだろう。
十分あり得る——そう思ってしまう。
側近が続ける。
「衛兵は止めておりますが……お通し致しますか?」
シオンは短く息を吐いた。
驚き、困惑、そして……抑えようのない嬉しさが胸の奥で静かに膨らむ。
メリッサが来てくれた。
「……当然だ。すぐに招き入れよ。……いや待て。私が迎えに行く」
極力感情を抑えて静かな声で告げたが、鏡に映る自分の瞳だけは、普段よりわずかに明るい色を帯びていた。
「御意」
一言だけ残した側近が下がるのを見届けると、シオンはすぐに衣桁へ向かった。
外に出るなら、軽装では不十分だ。
教皇としての威儀を保つためでもあるが——何より、彼女が門前で立ち尽くしている姿を思うと、胸の奥が落ち着かない。
濃紺の法衣を選び、静かに羽織る。
厚手の生地が肩に落ちた瞬間、心の切り替えが自然と訪れた。裾を整え、胸元の留め金を掛ける。金糸の紋様が淡く光を受け、厳かな気配を纏う。
(結界の内には、バイクは入れられぬ。……故障どころか、最悪の場合、彼女自身を危険に晒す)
思わぬ形で、彼女が“無茶をして来た”ことに気づき、心配すると同時に抑え難い愛しさが複雑に混じり合った。
シオンは深く息を吐くと、躊躇いもなく歩み出した。法衣の裾が足元で揺れ、石造りの回廊にその足音が静かに響く。
冷たい朝の空気が、廊下をすり抜けて肌を撫でた。
普段なら誰も通らぬ時間帯だが、すれ違う女官たちは皆、一瞬目を見張り、教皇がこの時刻に外へ向かうという異例の事態に戸惑いながらも深く頭を下げた。
シオンはそれらを拾わず、ただ前を見据えて歩く。
(……彼女が門の前で待っている。ならば、私が迎えに行かぬ理由はないだろう)
そう思うだけで、胸の奥から言いようもない喜びが湧き上がってくるようだった。
回廊を抜けると外気が一気に濃くなる。石段を駆け下りてもなお、十二宮の麓から正門まではまだ遠い。冬の陽射しの下、濃紺の法衣を翻しながら、シオンは足を速めた。
メリッサ。そなたは、一体どんな想いでここまで来たのだ。
待機を命じられて、もう数十分。
時間そのものは、たいした長さではないはずなのに、何度も腕時計を見てしまう。胸がそわそわして、呼吸も鼓動も速くなる。
(どう返事しよう…いや、返事って、言うまでもないんだけどさ…)
地面からの冷気が足の裏にじわりと伝わる。その冷たさが、むずがゆい気持ちをいっそう際立たせてしまう。
恋人になってほしい。
大切にする。
そう言われた瞬間の、心臓が跳ね上がった感覚がいまだに抜けない。
(断れるわけないじゃん……ていうか、断るって何?そんな選択肢あるわけないし)
頭ではそう分かっているのに、肝心の返事の言葉が定まらない。
「はい」だけじゃ味気ない気がするし、かといって、準備してきたような返答をするのも違う。
何より——シオンの前に立ったら、きっとまた頭が真っ白になるだろう。
横で門番の兵士が視線を向けてきて、メリッサは慌てて表情を引き締めた。
頬が緩んでいた自覚がある。
バレてないことを祈るばかりだ。
(落ち着けって…でも、シオン様が来てくれてるんだよね?そしたら、もう無理だよ。落ち着けって言われても)
ほんの少しでも風が動くたびに、彼が来たのかと胸が浮き立ってしまう。
ヘルメットのストラップを握る手にも、思わず力がこもる。
心だけは先へ先へと駆けてしまう。けれど、体は門の前に留め置かれたままだ。
早く会いたい。シオンに直接会って、返事を伝えたい。
その想いだけは、揺るぎようがなかった。
正門が見えてきたとき、冬の光が一角だけ妙にきらめいて見えた。それがメリッサだと気づくまでには、一瞬もかからなかった。
門前に立つ小柄な影。風に吹かれて揺れる栗色の髪。その傍らに、鈍い金属光を帯びたヘルメット。
視界に飛び込んできたのは、黒いライダースジャケット、肩と肘に入ったプロテクター、そして分厚いグローブを握る白い手。
(やはりバイクで来たのだな)
胸の奥で、ふっと小さな嘆息が漏れた。だが、表情は崩さない。崩してはならないと、長い年月で身体に刻みつけてきた。
それでも、歩き方に僅かな変化が出てしまったのを、自分でも感じた。
足取りがほんの少しだけ強く地を踏む。
裾が揺れる角度が、いつもより少しだけ鋭い。
叱るつもりはなかった。
怒りというより、もっと別の種類の感情。
心配、焦り、そしてこんな日にストライキを決行した鉄道会社への苛立ち。ほぼ八つ当たりだと分かっているが、それらの感情がない交ぜになって、姿勢の端々から滲み出てしまう。
(ストライキで交通が乱れていると知っているだろうに…なぜ、危険を冒してまで来るのだ、メリッサ)
呼びかけたい名が喉まで上がりかけるが、飲み込む。
兵の目がある。私情を露わにするわけにはいかない。しかし、視線だけはどうにも制御がきかず、門前に立つ彼女の姿をしっかりと捉えてしまった。
ジャケットの肩口が少し白くなっているのは、山道の砂埃のせいだろう。頬も鼻の頭も冷気で赤く染まっている。
(……本当に、無茶をする)
叱らねばならない立場でありながら、彼女を叱りつけることなど到底できないことも分かっていた。
バイクでの来訪を、認めるつもりも簡単に許可するつもりもなかった。だがそれ以上に、目の前に立っていてくれることへの安堵が、胸にじんわりと広がっていく。
歩みは自然と早まり、メリッサとの距離が確実に縮まっていく。
彼女の数歩手前でシオンは足を止めた。その瞬間、空気が張りつめたように静まる。門の石畳を渡ってきた冬の風が、二人の間をかすめて通り抜けた。
「……メリッサ・ドラコペトラ嬢」
名を呼ぶ声音は、押し殺した感情が深い底で揺れている。
「おはようございます、教皇猊下」
メリッサは姿勢を正し、小さく頭を下げた。
シオンは一拍置いてから、きちんと正面から彼女を見た。
「バイクは危険だと言ったはずだ」
声量は落ち着いていて、表情も変わらない。しかし隠しきれないものが、言葉の端に滲む。それは苛立ちや怒りではなく、心底、案じている人間にしか宿らない色。
メリッサは視線を伏せる。
「……ごめんなさい。でも、どうしても……」
言いかけて、言葉を飲み込む。
シオンは小さく息を吐いた。
「理由は後で聞こう。まずは無事で良かった」
表情が和らいだかのように見えたのも束の間、次の瞬間には、いつもの威厳に満ちた教皇の面影へと戻っていた。
「ここでは話せぬ。ついて来なさい」
メリッサの心臓が跳ねる。
叱られるのか、それとも——
返事を伝えに来たことを、シオンはもう分かっているのだろうか。
シオンは振り返らず歩き出した。だが、メリッサがついてこられるように、歩く速さはいつもよりも緩やかだった。
正門を抜けた途端、空気が変わった。
聖域特有の澄んだ冷気が、肺の奥にまで透き通って沁みていく。足元の砂を踏むたび、微かな音が二人分だけ重なった。
シオンは無言のまま歩いていた。だが、拒絶する意図はなかった。ただ、口を開けば余計な感情が零れると分かっているので、無言を貫くしかなかったのだ。
メリッサは少し後ろを歩きながら、彼の背中を見つめていた。
(あたしに合わせて歩いてくれてる?)
気のせいかもしれない。けれど、その僅かな歩幅の調整が、胸を甘く締めつける。
ライダースジャケットの下で心臓が忙しなく動いている。追いつきたくて、でも追い越すわけにはいかなくて、距離を測りかねて足元ばかり見てしまう。
沈黙が続くほど、胸がざわついてくる。
怒ってるのかな。ううん、違う。さっきの「無事で良かった」の声音。あれは、怒ってる声じゃない。
メリッサはほんの少し勇気を出して、シオンの横に並ぶように歩幅を変えた。その瞬間、歩いていたシオンの肩がかすかに揺れた。驚いたのか、それとも意識したのか。理由はわからないが、彼の静かな呼吸が僅かに乱れたのが分かった。
(……あたしのせい?)
メリッサの胸に熱が広がる。
シオンは横目でメリッサを確認して、すぐに視線を前へ戻した。感情を抑え込んだ声で言葉を落とす。
「……本当に、危ないのだぞ」
その低声には、威厳よりもメリッサを案じる気持ちが勝っていた。
「うん……ごめんなさい。でも……」
言いかけた言葉を飲み込んだのは、『シオン様に会いたくてたまらなかった』と続けてしまいそうだったからだ。
歩幅の調整、並んだときの緊張、呼吸のリズムが時おり重なるたびに、昨日の口付けの余韻が揺らぎ出す。
やがて、シオンが歩みを緩めた。視線の先には、人の気配のない神殿の影。
「……ここならよい。話を聞かせてくれ、メリッサ」
その声音には、教皇としての威厳と恋する男の静かな熱が入り混じっていた。
神殿に射し込む薄い冬光が、冷たい石畳の上で静かに揺れていた。その光の帯を踏み越えるたび、メリッサの影が細く伸びたり縮んだりする。それだけで胸の内側がざわついた。
(言わなきゃ。ちゃんと自分の口で)
そう思うたび、喉がきゅっと締めつけられた。
シオンはただ静かに待っている。
逃げ場を塞ぐような強引さは微塵もなく、それでいて、どんな言葉でも受け止める覚悟がその眼差しに宿っていた。
メリッサは深く息を吸い、吐き出した。
バイクで走り続けたせいで身体が冷えているのに、胸の奥は妙に熱い。
「……シオン様」
呼んだ瞬間、シオンの睫毛が微かに揺れた。
「昨日の…返事なんだけど…」
声が震える。けれど、それを止めようとは思わなかった。自分の気持ちをありのままに伝えたい。
「考えて……考えても、答えは一つしかなくて」
口が乾く。
指先が震える。それを誤魔化すように、手に持ったヘルメットを強く握りしめた。
「……あたし、ずっと……ずっと……」
言葉が続かない。胸が苦しいほど高鳴って息がつまる。それでも、逃げたくなかった。昨日の口付けが、彼の温度が、まだ唇の奥に残っている。
「……シオン様のことが、好きだったの」
やっとの想いで言えた。
吐息のような声だったけれど、紛れもなく本心だった。
「恋人になってほしいだなんて……そんなの……断る理由なんかないよ……」
言い終えると同時に、肩から力が抜けた。
シオンは暫しの間、何も言わなかった。
その沈黙は、彼女が震える声で紡いだ想いを、一つ残らず丁寧に受け止めている証のようだった。
やがて、ゆっくりとシオンが一歩だけ近づく。
長い影が、メリッサの足元を包む。
「……そなたは、いつも私の予想の外側へ行くな」
静かな声だった。
それは、どこか微笑むような柔らかな温度を含んだ口調だった。
「まさか、今日ここへ来るとは思わなかった。ストライキで交通は止まり、寒さも厳しい。それでも……私に伝えに来てくれて……ありがとう」
その言葉は、ゆっくりと、深く胸へ染みる。
シオンは視線を少し伏せ、息を整えるように静かに続けた。
「……嬉しかった。そなたのように若く美しい娘が、こんな年寄りを好いてくれて」
顔を上げたときの瞳は、透明な冬の光のように澄んでいた。
「メリッサ。私も……そなたが愛おしい。誰よりも大切だ」
メリッサの呼吸がふっと止まる。
シオンはそっと手を伸ばし、彼女の手の甲に触れた。
「恋人になってほしい、と——あれは、軽い気持ちで告げた言葉ではない。そなたと共に過ごす日々を……真剣に望んでいる」
その言葉に嘘や虚飾がないのは、彼の眼差しから伝わってくる。
「……そなたが、この想いを受け入れてくれるなら」
声が少しだけ震えていた。
シオンには珍しい、抑えきれない感情の揺れ。
「私は……誰よりもそなたを守り、慈しみ、共に歩んでいきたい」
その言葉は、冬の朝に差し込む陽光のように静かで温かく、揺るぎない誓いだった。
シオンは、握られたままのメリッサの両手に視線を落とし、それからそっと彼女の瞳を見つめた。
「……そなたが迷っているのだと思っていた。私の立場や、年齢や……過去のこと。どれも、そなたの心を曇らせる要素には違いあるまい」
短く息を吐き、彼はメリッサの手を包み込むように握り直した。
「だが……今の言葉で知った。迷っているのはそなたではなく、私の方だったのだと」
薄闇の中、シオンの紫水晶の眼差しが僅かに揺れた。
それは彼が滅多に見せぬ、人としての弱さの影——しかし同時に、強く真摯な決意が宿っていた。
「そなたが、私と共に歩む未来を望むなら……。その願いに、私は全霊で応えよう。大切にすると約束した言葉は真実だと、生涯を懸けて誓おう」
近づいた彼の声は、低く、胸の奥に染み入るようだった。
「メリッサ、そなたを愛している」
その一言に、シオンの想いの全てが込められていた。
教皇宮の奥深くに位置するシオンの私室では、豪奢なカーテンを開け放した窓から差し込む陽光が、冬のきらめきを帯びて淡く白く室内を照らしていた。
床に敷いた絨毯の上に長く影を落とし、室内の静謐をいっそう深めていた。
休日は、余計な来客や書類もなく、朝寝坊が許される数少ない日。短く切られた金の髪が、寝起きのまま柔らかく乱れている。
誰の目もない部屋で、大きなあくびを一つする。
朝食は既に終え、今は着替えの途中だった。
白と薄金の刺繍が施された軽装のローブに袖を通し、鏡の前で帯を結ぶ。
(さて、今日は久しぶりに心穏やかに過ごせそうだ)
そう思った瞬間だった。
控えめなノックが、静かな部屋に落ちる。この時間に訪れるのは、限られた者しかいない。
「入れ」
扉が開き、側近の一人が姿を現した。
休日の訪問という事実が、既に厄介ごとの気配を帯びている。
「猊下。正門の衛兵より、メリッサ・ドラコペトラ嬢が来訪していると報告がありました。」
帯を結んでいた手が、ぴたりと止まった。
「……メリッサが?」
声は思った以上に低く、抑えきれない驚きが滲んでしまう。
昨日、彼女に想いを告げている。ずっと胸に秘めていた彼女への恋心。
「返事はいつでもよい」と伝えてある。焦らせるつもりは毛頭なかった。年内に言葉をもらえればそれで十分……いや、それでも僥倖だと思っていた。まして、今日。ストライキでアテネ近郊の電車は全てストップする日だ。
(どうやって来た。まさか……バイクか?)
バイクは危ないからだめだと言ってはいたが、彼女の意外に頑固な性格を考えれば、様々な障害があっても、「聖域へ行く」と決意したら、無茶してでも来るのだろう。
十分あり得る——そう思ってしまう。
側近が続ける。
「衛兵は止めておりますが……お通し致しますか?」
シオンは短く息を吐いた。
驚き、困惑、そして……抑えようのない嬉しさが胸の奥で静かに膨らむ。
メリッサが来てくれた。
「……当然だ。すぐに招き入れよ。……いや待て。私が迎えに行く」
極力感情を抑えて静かな声で告げたが、鏡に映る自分の瞳だけは、普段よりわずかに明るい色を帯びていた。
「御意」
一言だけ残した側近が下がるのを見届けると、シオンはすぐに衣桁へ向かった。
外に出るなら、軽装では不十分だ。
教皇としての威儀を保つためでもあるが——何より、彼女が門前で立ち尽くしている姿を思うと、胸の奥が落ち着かない。
濃紺の法衣を選び、静かに羽織る。
厚手の生地が肩に落ちた瞬間、心の切り替えが自然と訪れた。裾を整え、胸元の留め金を掛ける。金糸の紋様が淡く光を受け、厳かな気配を纏う。
(結界の内には、バイクは入れられぬ。……故障どころか、最悪の場合、彼女自身を危険に晒す)
思わぬ形で、彼女が“無茶をして来た”ことに気づき、心配すると同時に抑え難い愛しさが複雑に混じり合った。
シオンは深く息を吐くと、躊躇いもなく歩み出した。法衣の裾が足元で揺れ、石造りの回廊にその足音が静かに響く。
冷たい朝の空気が、廊下をすり抜けて肌を撫でた。
普段なら誰も通らぬ時間帯だが、すれ違う女官たちは皆、一瞬目を見張り、教皇がこの時刻に外へ向かうという異例の事態に戸惑いながらも深く頭を下げた。
シオンはそれらを拾わず、ただ前を見据えて歩く。
(……彼女が門の前で待っている。ならば、私が迎えに行かぬ理由はないだろう)
そう思うだけで、胸の奥から言いようもない喜びが湧き上がってくるようだった。
回廊を抜けると外気が一気に濃くなる。石段を駆け下りてもなお、十二宮の麓から正門まではまだ遠い。冬の陽射しの下、濃紺の法衣を翻しながら、シオンは足を速めた。
メリッサ。そなたは、一体どんな想いでここまで来たのだ。
待機を命じられて、もう数十分。
時間そのものは、たいした長さではないはずなのに、何度も腕時計を見てしまう。胸がそわそわして、呼吸も鼓動も速くなる。
(どう返事しよう…いや、返事って、言うまでもないんだけどさ…)
地面からの冷気が足の裏にじわりと伝わる。その冷たさが、むずがゆい気持ちをいっそう際立たせてしまう。
恋人になってほしい。
大切にする。
そう言われた瞬間の、心臓が跳ね上がった感覚がいまだに抜けない。
(断れるわけないじゃん……ていうか、断るって何?そんな選択肢あるわけないし)
頭ではそう分かっているのに、肝心の返事の言葉が定まらない。
「はい」だけじゃ味気ない気がするし、かといって、準備してきたような返答をするのも違う。
何より——シオンの前に立ったら、きっとまた頭が真っ白になるだろう。
横で門番の兵士が視線を向けてきて、メリッサは慌てて表情を引き締めた。
頬が緩んでいた自覚がある。
バレてないことを祈るばかりだ。
(落ち着けって…でも、シオン様が来てくれてるんだよね?そしたら、もう無理だよ。落ち着けって言われても)
ほんの少しでも風が動くたびに、彼が来たのかと胸が浮き立ってしまう。
ヘルメットのストラップを握る手にも、思わず力がこもる。
心だけは先へ先へと駆けてしまう。けれど、体は門の前に留め置かれたままだ。
早く会いたい。シオンに直接会って、返事を伝えたい。
その想いだけは、揺るぎようがなかった。
正門が見えてきたとき、冬の光が一角だけ妙にきらめいて見えた。それがメリッサだと気づくまでには、一瞬もかからなかった。
門前に立つ小柄な影。風に吹かれて揺れる栗色の髪。その傍らに、鈍い金属光を帯びたヘルメット。
視界に飛び込んできたのは、黒いライダースジャケット、肩と肘に入ったプロテクター、そして分厚いグローブを握る白い手。
(やはりバイクで来たのだな)
胸の奥で、ふっと小さな嘆息が漏れた。だが、表情は崩さない。崩してはならないと、長い年月で身体に刻みつけてきた。
それでも、歩き方に僅かな変化が出てしまったのを、自分でも感じた。
足取りがほんの少しだけ強く地を踏む。
裾が揺れる角度が、いつもより少しだけ鋭い。
叱るつもりはなかった。
怒りというより、もっと別の種類の感情。
心配、焦り、そしてこんな日にストライキを決行した鉄道会社への苛立ち。ほぼ八つ当たりだと分かっているが、それらの感情がない交ぜになって、姿勢の端々から滲み出てしまう。
(ストライキで交通が乱れていると知っているだろうに…なぜ、危険を冒してまで来るのだ、メリッサ)
呼びかけたい名が喉まで上がりかけるが、飲み込む。
兵の目がある。私情を露わにするわけにはいかない。しかし、視線だけはどうにも制御がきかず、門前に立つ彼女の姿をしっかりと捉えてしまった。
ジャケットの肩口が少し白くなっているのは、山道の砂埃のせいだろう。頬も鼻の頭も冷気で赤く染まっている。
(……本当に、無茶をする)
叱らねばならない立場でありながら、彼女を叱りつけることなど到底できないことも分かっていた。
バイクでの来訪を、認めるつもりも簡単に許可するつもりもなかった。だがそれ以上に、目の前に立っていてくれることへの安堵が、胸にじんわりと広がっていく。
歩みは自然と早まり、メリッサとの距離が確実に縮まっていく。
彼女の数歩手前でシオンは足を止めた。その瞬間、空気が張りつめたように静まる。門の石畳を渡ってきた冬の風が、二人の間をかすめて通り抜けた。
「……メリッサ・ドラコペトラ嬢」
名を呼ぶ声音は、押し殺した感情が深い底で揺れている。
「おはようございます、教皇猊下」
メリッサは姿勢を正し、小さく頭を下げた。
シオンは一拍置いてから、きちんと正面から彼女を見た。
「バイクは危険だと言ったはずだ」
声量は落ち着いていて、表情も変わらない。しかし隠しきれないものが、言葉の端に滲む。それは苛立ちや怒りではなく、心底、案じている人間にしか宿らない色。
メリッサは視線を伏せる。
「……ごめんなさい。でも、どうしても……」
言いかけて、言葉を飲み込む。
シオンは小さく息を吐いた。
「理由は後で聞こう。まずは無事で良かった」
表情が和らいだかのように見えたのも束の間、次の瞬間には、いつもの威厳に満ちた教皇の面影へと戻っていた。
「ここでは話せぬ。ついて来なさい」
メリッサの心臓が跳ねる。
叱られるのか、それとも——
返事を伝えに来たことを、シオンはもう分かっているのだろうか。
シオンは振り返らず歩き出した。だが、メリッサがついてこられるように、歩く速さはいつもよりも緩やかだった。
正門を抜けた途端、空気が変わった。
聖域特有の澄んだ冷気が、肺の奥にまで透き通って沁みていく。足元の砂を踏むたび、微かな音が二人分だけ重なった。
シオンは無言のまま歩いていた。だが、拒絶する意図はなかった。ただ、口を開けば余計な感情が零れると分かっているので、無言を貫くしかなかったのだ。
メリッサは少し後ろを歩きながら、彼の背中を見つめていた。
(あたしに合わせて歩いてくれてる?)
気のせいかもしれない。けれど、その僅かな歩幅の調整が、胸を甘く締めつける。
ライダースジャケットの下で心臓が忙しなく動いている。追いつきたくて、でも追い越すわけにはいかなくて、距離を測りかねて足元ばかり見てしまう。
沈黙が続くほど、胸がざわついてくる。
怒ってるのかな。ううん、違う。さっきの「無事で良かった」の声音。あれは、怒ってる声じゃない。
メリッサはほんの少し勇気を出して、シオンの横に並ぶように歩幅を変えた。その瞬間、歩いていたシオンの肩がかすかに揺れた。驚いたのか、それとも意識したのか。理由はわからないが、彼の静かな呼吸が僅かに乱れたのが分かった。
(……あたしのせい?)
メリッサの胸に熱が広がる。
シオンは横目でメリッサを確認して、すぐに視線を前へ戻した。感情を抑え込んだ声で言葉を落とす。
「……本当に、危ないのだぞ」
その低声には、威厳よりもメリッサを案じる気持ちが勝っていた。
「うん……ごめんなさい。でも……」
言いかけた言葉を飲み込んだのは、『シオン様に会いたくてたまらなかった』と続けてしまいそうだったからだ。
歩幅の調整、並んだときの緊張、呼吸のリズムが時おり重なるたびに、昨日の口付けの余韻が揺らぎ出す。
やがて、シオンが歩みを緩めた。視線の先には、人の気配のない神殿の影。
「……ここならよい。話を聞かせてくれ、メリッサ」
その声音には、教皇としての威厳と恋する男の静かな熱が入り混じっていた。
神殿に射し込む薄い冬光が、冷たい石畳の上で静かに揺れていた。その光の帯を踏み越えるたび、メリッサの影が細く伸びたり縮んだりする。それだけで胸の内側がざわついた。
(言わなきゃ。ちゃんと自分の口で)
そう思うたび、喉がきゅっと締めつけられた。
シオンはただ静かに待っている。
逃げ場を塞ぐような強引さは微塵もなく、それでいて、どんな言葉でも受け止める覚悟がその眼差しに宿っていた。
メリッサは深く息を吸い、吐き出した。
バイクで走り続けたせいで身体が冷えているのに、胸の奥は妙に熱い。
「……シオン様」
呼んだ瞬間、シオンの睫毛が微かに揺れた。
「昨日の…返事なんだけど…」
声が震える。けれど、それを止めようとは思わなかった。自分の気持ちをありのままに伝えたい。
「考えて……考えても、答えは一つしかなくて」
口が乾く。
指先が震える。それを誤魔化すように、手に持ったヘルメットを強く握りしめた。
「……あたし、ずっと……ずっと……」
言葉が続かない。胸が苦しいほど高鳴って息がつまる。それでも、逃げたくなかった。昨日の口付けが、彼の温度が、まだ唇の奥に残っている。
「……シオン様のことが、好きだったの」
やっとの想いで言えた。
吐息のような声だったけれど、紛れもなく本心だった。
「恋人になってほしいだなんて……そんなの……断る理由なんかないよ……」
言い終えると同時に、肩から力が抜けた。
シオンは暫しの間、何も言わなかった。
その沈黙は、彼女が震える声で紡いだ想いを、一つ残らず丁寧に受け止めている証のようだった。
やがて、ゆっくりとシオンが一歩だけ近づく。
長い影が、メリッサの足元を包む。
「……そなたは、いつも私の予想の外側へ行くな」
静かな声だった。
それは、どこか微笑むような柔らかな温度を含んだ口調だった。
「まさか、今日ここへ来るとは思わなかった。ストライキで交通は止まり、寒さも厳しい。それでも……私に伝えに来てくれて……ありがとう」
その言葉は、ゆっくりと、深く胸へ染みる。
シオンは視線を少し伏せ、息を整えるように静かに続けた。
「……嬉しかった。そなたのように若く美しい娘が、こんな年寄りを好いてくれて」
顔を上げたときの瞳は、透明な冬の光のように澄んでいた。
「メリッサ。私も……そなたが愛おしい。誰よりも大切だ」
メリッサの呼吸がふっと止まる。
シオンはそっと手を伸ばし、彼女の手の甲に触れた。
「恋人になってほしい、と——あれは、軽い気持ちで告げた言葉ではない。そなたと共に過ごす日々を……真剣に望んでいる」
その言葉に嘘や虚飾がないのは、彼の眼差しから伝わってくる。
「……そなたが、この想いを受け入れてくれるなら」
声が少しだけ震えていた。
シオンには珍しい、抑えきれない感情の揺れ。
「私は……誰よりもそなたを守り、慈しみ、共に歩んでいきたい」
その言葉は、冬の朝に差し込む陽光のように静かで温かく、揺るぎない誓いだった。
シオンは、握られたままのメリッサの両手に視線を落とし、それからそっと彼女の瞳を見つめた。
「……そなたが迷っているのだと思っていた。私の立場や、年齢や……過去のこと。どれも、そなたの心を曇らせる要素には違いあるまい」
短く息を吐き、彼はメリッサの手を包み込むように握り直した。
「だが……今の言葉で知った。迷っているのはそなたではなく、私の方だったのだと」
薄闇の中、シオンの紫水晶の眼差しが僅かに揺れた。
それは彼が滅多に見せぬ、人としての弱さの影——しかし同時に、強く真摯な決意が宿っていた。
「そなたが、私と共に歩む未来を望むなら……。その願いに、私は全霊で応えよう。大切にすると約束した言葉は真実だと、生涯を懸けて誓おう」
近づいた彼の声は、低く、胸の奥に染み入るようだった。
「メリッサ、そなたを愛している」
その一言に、シオンの想いの全てが込められていた。
