Eine Kleine Ⅱ

 夜気がゆるやかに部屋へ流れ込み、カーテンの陰影が揺れていた。静かすぎるほどの静寂の中で、メリッサは身じろぎもできずにいた。
 あの時、唇が触れた瞬間。
 思い出しただけで、胸の奥に甘い火が灯るようだった。瞼を閉じればシオンの表情が浮かぶ。菫色の美しい瞳に映った自分。
 触れたのは一瞬だったはずなのに、そこから全身に広がった熱は、いまだ収まる気配を見せなかった。
「……もう一度……」
 自分の声が、あまりにも切実で、震えて聞こえる。
こんなふうに誰かを求める気持ちが、自分の中に眠っていたのかと驚くほど、心が乱れていた。

 会いたい。
 名前を呼んでほしい。
 抱き締められたら、きっと呼吸さえ忘れてしまう。
 もう一度、優しく唇を重ねてほしい。

 頭ではいけないと分かっている。立場も、年齢も、状況も——冷静になればなるほど、距離を保つべきなのだと思い知る。けれど、胸の奥から湧き上がる衝動は、そんな理性を軽々と打ち破ってしまった。
 彼の指先が頬に触れたときの温度。短い吐息。わずかな沈黙ののち、そっと触れてきた口付け。
 思い返すほどに熱がせり上がり、メリッサはベッドの上で身を縮めるようにして膝を抱えた。
「……どうして……あんなに……」
 苦しいほどに恋しくて、切なくて、胸が疼く。あの口付けが、彼女の心の奥深くに、逃れられない印のように残っていた。

 会いたい。ただ、それだけなのに。

 自分でも信じられないほどの渇望が、静かな夜の闇の中でゆっくりと形を成していった。その想いが、どこまで深く沈んでいくのか——メリッサ自身も、もう分からない。
 シオンとの口付けも、そして「恋人になってほしい」と告げられたことも、メリッサにとっては現実の輪郭をあやふやにしてしまうほどの出来事だった。
 胸に手を当てると、あの瞬間の余韻がまだ微熱のように残っている。
 夢みたい。
 そう思うたび、胸の奥で静かに波が立つ。だが、その甘さのすぐ隣に、ふと冷たい影が落ちる。
 教皇が、よりにもよって冥闘士と交際するなんて本当に許されるのだろうか。
 ベッドサイドの灯りに照らされた自分の指先を見つめながら、メリッサは息をゆっくり吐いた。
 素性は細部に至るまで調査されている。出自も、家族構成も、経歴も。——身長や体重、スリーサイズまで……いや、さすがにスリーサイズまではないか。
 そう思って小さく首を振ってみるけれど、胸のざわつきは鎮まらなかった。
 冥界との縁も、もうとっくに切れている。自分は幹部だったわけでもなく、ハーデスの眷属として重んじられていたわけでもない。あの神々の間で契約が結ばれた以上、冥界が再び自分に触れてくる理由もないはずだ。
 だったら、あたしをそばに置く必要なんて……もう、ない。
 そう考えれば考えるほど、まとまらない思考が胸の内側で渦を巻く。
 シオンの気持ちは疑いたくない。あの眼差しを思い出せば、疑えるはずがない。ただ、彼の立場を思うと足がすくむような気持ちになる。

 本当に、あたしは恋人になってもいいのだろうか。
 あたしなんかがあの人の隣に立ってしまって、本当にいいの?

 枕に顔を半ば埋めたまま、メリッサは目を閉じた。
甘い幸福と、苦い不安とが胸の奥で絡み合い、簡単にはほどけてくれそうになかった。
 夜の静けさが部屋を包む中、メリッサは布団に身を沈めながらも、心のざわめきが収まらず、何度も寝返りを打った。
「……もう、考えても仕方ない」
 声にならない声を漏らす。
 枕に沈めた顔を少し上げ、窓の外の月明かりに目を細める。淡い光は冷たく、しかし確かに彼女の胸の奥まで届いているようだった。
 シオンのことを思わない時間はない。
 昼間、講義を受けている間も、実験器具を扱っているときも、思考の隙間を全て彼が占めていた。
 初めて交わした口付けの温もり、そして「恋人になってほしい」という言葉。思い返すたびに胸が熱く、指先は自然に唇に触れる。
 好きだ、と。
 会いたい、と。
 そばにいたい、と。
 迷いもあった。
 立場の差、監視対象の身だったこと、自分の素性が丸裸であること。理性で考えれば、諦める理由はいくらでもあった。だが、理性の声は夜の静けさの中で、あまりにもか細く、届かない。
「…いい、よね」
 布団の中で膝を抱えながら、メリッサはそっと自分に言い聞かせる。もう、シオンの気持ちを疑ったり、不安に揺れるのはやめよう。
 目を閉じて深く息を吸い、吐く。
 その瞬間、胸の奥の緊張が少しずつ解けていくのを感じた。明日、会いにいこう。
「……シオン様の気持ちに応えたいな」
 夜の静寂の中で、決意がゆっくりと胸に落ち、眠気とともに穏やかな熱を伴った。
 眠る前のひととき、未来に向けた小さな一歩。
 心に灯ったその光は、これからの道のりを照らす選択だった。

 翌朝、空気は冬特有のひんやりした湿り気を含んでいて、息を吐くと白く揺れた。
 メリッサは自宅のガレージで、愛車のオフロードバイクにキーを差し込みながら、ヘルメット越しに深く息をついた。
 電車のストライキ——。
 ニュースで見たときは「え、今?」と思ったが、週末であることに救われた気持ちもあった。とはいえ、止まってしまったものは動かない。月曜まで待っていたら、シオンに会えるのはまた先延ばしになる。
 「……そんなの、絶対やだよね」
 小さく呟いて、バイクのシートに跨がる。
 昨日の夜、決めたことを胸の奥で確かめるように。心臓の鼓動は、少しだけいつもより速い。

 会いたい。
 早く伝えたい。
 “恋人になってほしい”に、ちゃんと、返事を。

 エンジンがかかると同時に、胸の奥の迷いまで少し震えて飛んでいくような気がした。
 「シオン様、バイクは危ないって言うけど……でも」
 アクセルを軽くひねりながら、メリッサは口元に苦笑を浮かべた。
 “危険だからバイクはだめだ”って、言われたばかりだけど。心配してくれるのは嬉しい。でも、今日だけは譲れなかった。
 「だって、電車動くの待ってたら……月曜になっちゃうし」
 一人きりのガレージで言葉にすると、少し照れくさくて、少し誇らしい。
 大学は月曜で今年最後。火曜からは冬休み。そして、すぐクリスマス。
 「……カレシと過ごすクリスマスってやつ、初体験したいし」
 そう口にした瞬間、胸が熱くなる。
 “カレシ”なんて言い慣れない単語が、空気の中で少しぎこちなく、けれど確かに存在感を持って響いた。
 シオンの連絡先も、ちゃんと欲しい。
 そういう普通のことができる恋人になりたかった。
 「ま、聖域に入りさえしなければ、大丈夫でしょ。バレないバレない……んなわけないわ。服装で分かるっての……」
 一人でボケて一人でツッコミながらアクセルをひねる。
 冬の朝の冷気が体を冷やすけれど、火照った心にはそれが妙に心地いい。
 スピードに合わせて、心も前へ前へと走っていく。
 聖域へ向かう道は、今日だけ、特別に輝いて見えた。
 市街地を抜けると、街路樹の並ぶ明るい景色が少しずつ後ろへ遠ざかっていく。
 冬の朝の光はまだ弱く、ビルの影が長く伸びて、まるで町全体がまだ目を覚ましていないように見えた。
 そこから山岳地帯に向かう道路は、朝の冷え込みをそのまま抱えたようにひんやりしている。
 舗装されているのは途中までで、やがてアスファルトは途切れ、岩礫が散らばる未舗装路へと変わった。
 普通のバイクならためらうような道。
 けれど。
 「へーき、へーき」
 言葉にすると、少し気持ちが軽くなる。
 メリッサの愛車はオフロードバイクだ。
 高校時代、土日も返上で市場の売り子をしたり、スーパーのレジに立ったりして、少しずつ貯金を積み上げて買ったものだ。
 あの頃の自分にとって、ただの“乗り物”じゃなかった。
 頑張った証そのものだった。
 岩が露出した道は、どうやっても走りやすいとは言えない。でも、タイヤは新品のグリップの強いものに履き替えているし、ある程度の悪路なら問題ない。
 ハンドルを握る手に、自然と力がこもる。
 「それでも……安全運転、だね」
 小さくつぶやきながら減速する。
 今は無事に辿り着くことの方がずっと大切だ。
 本当は、大学に入ったら毎日バイクで通うつもりだった。
 朝の風を切りながらキャンパスに向かったら気持ちいいだろうな——なんて、何度も想像した。
 でも、大学は車・バイクでの通学が禁止。
 仕方ない、ルールなんだから。
 シオンもメリッサがバイクに乗るのを好まない。
 「まあ……今日だけは特別、だよね」
 冬の山道は少し寂しい色をしているけれど、アクセルを開けるたび、胸の奥だけは軽やかに弾む。
 シオンに会いに行くというその事実が、色彩の少ない風景に色を差していくようだった。

 山岳地帯の薄い朝の光の中、聖域へ続く道はひっそりと静まり返っていた。まるで空気そのものが凜とした線を引くようで、メリッサはその境界に近づくにつれ、胸の奥がそわそわと落ち着かなくなる。
 (ほんとに……来ちゃった)
 昨日は、まるで夢みたいな出来事だった。
 シオンの手の温度、唇の熱、あの声。
 全部が残像みたいに心を撫でていく。

 だけど今日は、それをきちんと形にする日だ。自分の足で来たかった。ちゃんと、自分の言葉で返したかった。

 聖域の大門が見えてくると、メリッサはバイクの速度を落とし、止まると、フルフェイスのヘルメットを外して腕に抱えた。
 こんなところで怪しまれたくない。
 少なくとも“いつものメリッサ”でいたい。
 バイクを押して砂岩に靴を沈ませると、門前に立つ衛兵の姿が見えた。
 今日の立番は、よく顔を合わせる人だ。
 けれど、立場上、彼らは誰に対しても一定の距離を崩さない。
 メリッサは深呼吸してから声をかけた。
「おはようございます。メリッサ・ドラコペトラです」
「用件を」
 硬い声。
 いつものことなのに、今日はやけに胸が跳ねた。
「教皇猊下にお目通りをお願いします」
「目的は」
「えっと……」
 目的。
 ……目的。
 言わなきゃだめ?
 いや、でも言ったら……。
 “教皇猊下に交際を申し込まれましたので、その返事をしに来ました”
 とか……絶対言えるわけない。
 メリッサが固まったまま口ごもっていると、衛兵がもう一度言う。
「目的を言え」
「えっと……あの……教皇猊下からご依頼をいただいていた、お仕事の件で……」
 つい、逃げ道に走ってしまった。
 心臓がドクンと嫌な跳ね方をする。
 衛兵は短く頷くと、
「こちらで承る」
 その瞬間、メリッサの全身から血の気が引いた。
 え。
 え、待って。
 ちょっと待って、それは——だめ。

 本当にだめ!!

 ここで「預かっておく」とか言われたら終わりじゃない!?
 シオン様に会えない。
 今日の返事を言伝なんて、絶対にあり得ない。
 あり得ない……!
 喉がひきつる。
 呼吸が浅くなる。
(どうしよう……どうしようっ……!!)
 胸の中で、言葉にならない焦りが渦を巻いた。
 どうにかして通してもらわなければならないのだ。頭をフル回転させ、現状での最適解を導き出す。
「恐れ入りますが、猊下直々のご依頼ですので、言伝というわけにはいきません。私にも守秘義務があります」
 言いながら、メリッサは自分でも驚くほど落ち着いた声を出していた。けれど、心臓はバイクのエンジンみたいに暴れていた。
 衛兵は眉一つ動かさない。
「本日は休業日である。任務の報告であれば平日に出直して参れ」
 ああ——だめだ。
 この人は“徹底的に頑固”なタイプだ。
「え……でも、平日は大学があって……」
 言った瞬間に、自分が弱い方へ崩れたのがわかった。ただの学生の都合なんて聖域には関係ない。衛兵の目は、それを明確に示していた。
(どうしよう……どうしよう……)
 焦りで胃の奥でぎゅっと固まる。この門を越えられなかったら、今日来た意味がなくなる。
 返事も言えない。
 シオン様は……どう思うだろう。
 胸が苦しくて、ヘルメットを抱える腕に少し力が入る。
 言葉じゃ突破できない。でも、引き返すなんて絶対嫌だ。
(——行くしかない)
 メリッサは一歩、門に向かって踏み出した。
 その瞬間だった。
「止まれ」
 衛兵の槍が、彼女の前へ伸びて行く手を塞ぐ。

 だめだ。
 行かせてもらえない。
 正面突破は無理だ。

 喉の奥がぎゅっと締まり、言い返す言葉が見つからない。
 だけど。
 頭のどこかが、ふいに冷静になった。
(違う。正面から通ろうとするからいけないんだ)
 シオンの元に辿り着くルートは、一つじゃない。
 深呼吸して、メリッサはもう一度、衛兵の目を見る。
「あの……では、”緊急の私的面会”を申請します。書式は——」
「却下だ。休業日だと言った」
「ですが、今日、猊下にお渡しする必要がある“もの”があります。これは……私の判断では預けられません」
 “言葉”ではなく“もの”。
 内容の具体性を曖昧にしたまま、彼らが最も嫌う“預かりリスク”を提示する。
 衛兵がわずかに目を細めた。
(これで引くはず……引いて……)
「……待て」
 短い沈黙のあと、衛兵は懐の通信端末を取り出した。
「教皇宮へ確認を取る」
(……っっしゃ!!)
 心の内側で小さく拳を握りしめる。ここまで持ち込めれば、もうひと押し。少なくとも“完全拒否”の状態ではなくなった。
 衛兵は背を向け、数歩離れた場所で小声でやり取りを始める。その僅かな数十秒が、メリッサには永遠のように長く感じられた。
(どうか……どうか、通してください……)
 胸が痛いほど願ったそのとき、衛兵が戻ってきて言った。
「……教皇猊下より、“結界の外まで出る”との伝達があった。ここで待機せよ」
 メリッサは息を飲んだ。
 会える。
 ちゃんと……今日、伝えられる。
 胸の奥がじんと熱くなり、視界がにじみかける。
「……はい。ありがとうございます」
 絞り出すような声しか出なかった。けれど、足元はふわりと軽くなった。
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