Eine Kleine Ⅱ

 メリッサの初々しい反応は、親友としては微笑ましくもある。けれど、諜報員としては頭を抱えたくなる事実だった。 
(さて……今日の報告書、どう書くべきかしらね)
 メリッサの監視は“状態の安定”を記録するのが主目的。
 精神的動揺や外乱要因は些細でも拾わなければならない。そしてその報告書は――高確率で、あの教皇の目にも入る。
(キス……とは書けないわよね)
 そんなこと、わざわざ書いて何になる。
 いや、仕事としては“重大事案”なのだが、教皇本人に読ませた瞬間、状況がもっと複雑になるのは見えている。
(でも……隠すのも、仕事じゃない)
 悩ましい。実に悩ましい。
 クロエは赤ペンをくるくると指で回しながら、報告書の下書きスペースを見つめた。
 客観的事実を書くべきか。曖昧にするべきか。そもそも“書かなくてもいい項目”として処理するか。

 ――親友としては、そっとしておきたい。
 ――諜報員としては、見逃せない。

 その二つが胸の中で衝突し、静かに火花を散らす。
(……よし)
 クロエはペン先を紙に置いた。
 書き始めたのは、ぎりぎりまで主観を排除した一文。

『本日、被監察対象の情緒は全体として安定傾向にあるが、軽度の浮動的高揚状態がみられる。原因は不明だが、対人接触による心的刺激の可能性を排除できない』

 そこまで書くと、クロエはピタリと手を止めた。
 ……まあ、これ以上はいいだろう。読む人には、十分伝わる。
(あとは、猊下がどう読み取るか次第)
 親友と教皇の恋路ほど、扱いにくい案件はない。
 そしてクロエは、ペン先を置きながら小さく呟いた。
「全く……二人とも、悩ませてくれるわね」

 夕刻の執務室は、冬の光が斜めから薄く差し込み、書類の白さを一層冷たく照らしていた。
 サガは報告書の束を整えながら、眉間に寄る皺を隠さなかった。

 ――軽度の浮動的高揚状態がみられる。
 ――対人接触による心的刺激の可能性を排除できない。

 この一文だけで、どのような状態なのかは察しがつく。そして、状況を引き起こした原因についても、だいたい見当はつく。
 ただ、何をしたのか――までは、分からない。
 メリッサ嬢が誰かに心を揺らすとすれば、それは教皇ただ一人だ。そして、教皇がこんなにも機嫌が良いのは、年に何度あるだろう。
 けっして露骨ではないが、普段との微妙な温度差が、隠しきれない。
(……さて、どういう顔をして聞くべきか)
 サガは自らのサインを記した報告書を手に取り、教皇執務室へ向かった。

***

 扉を軽く叩くと、中から「入れ」という静かな声が返る。
 執務机の向こう、シオンは淡々と書類に目を通していた。けれど、その静けさの奥に、わずかな上機嫌が混じっているのを、サガは見逃さない。
「教皇、報告書を回しに参りました」
「うむ、置いていけ。助かる」
 声音はいつも通り。しかし、机に視線を落とすその目元が、どことなく柔らかい。
(……やはり何かあったな)
 サガは報告書を置くと、ほんの半歩、間を詰めた。
「教皇――メリッサ嬢と、何かありましたか?」
 シオンの手が、ぴたりと止まる。顔を上げたその瞳は、驚きでも動揺でもなく、“言葉を選びかねている人間の目”だった。
「いや?なぜだ?」
「……いえ、少々気になる報告が上がってきましたので」
 サガは淡々と告げる。
 シオンはしばし沈黙し、書類の端を整えた。その仕草一つ取っても、心が波立っているのがわかる。
「お前たちは……よく見ているな」
 小さく、諦めたように笑う。めったに見ない表情だった。
 サガは思わず目を細める。
(間違いなく、何かあった。だが……そこまで浮ついてはいない。いや、浮かれてはいるのか?)
 そんな疑問が頭をよぎる。
「心配するな。問題になるようなことは、何もしておらぬ」
 落ち着いた声。だが、その静けさの下に、どこか隠しきれぬ温度がある。
(……“何もしておらぬ”と言える内容かどうかは、怪しいところだな)
 サガは胸の内でひっそりとため息をつく。
「承知しました。では、このまま教皇へお回しいたします」
「うむ。すまぬな」
 そう返すシオンの口調は穏やかで――どこか嬉しさを含んでいた。
 サガは部屋を辞しながら、心の中でぼそりと呟く。
(……浮かれているな)
 苦笑が漏れそうになるのを、なんとか飲み込んだ。
 サガが扉を閉めて退室すると、執務室には静寂が戻った。
 シオンは机上に置かれた報告書へ視線を落とし、丁寧に一枚目をめくる。クロエの筆跡はいつも通り整然としているが、今日だけは行間に微かに揺れがあった。

 ――軽度の浮動的高揚状態がみられる。
 ――対人接触による心的刺激の可能性を排除できない。
 ――実験作業中、集中力の乱れによる軽微な受傷あり。

 シオンは小さく息をついた。胸の奥で温かいものと痛みが同時に広がる。
(浮動的……高揚、か。メリッサらしい)
 場面が自然と脳裏に広がる。
 朝、彼の胸元にぎゅっと顔を寄せて赤くなっていたメリッサ。触れた唇の柔らかさ。甘い香り。離れたあともなお、自分に寄せられていた想いが指先に染み込むような感覚。

 ――“昨日の返事を聞かせてくれないか?”
 ――“愛している”

 その全てを彼女は受け止め、そして逃げずに応えようとしてくれた。
(そなたは……本当に、私を)
 報告書の「浮動的高揚」を見ただけで、メリッサの横顔が手に取るように思い浮かび、頬が少し緩んでしまう。
 だが、すぐに次の記述が胸に刺さった。
 《実験中の不注意により負傷》
 ほんの紙一枚で切ってしまうような軽傷であっても、シオンにとっては小さくはない。
 メリッサが怪我をしている――それだけで心がざわつく。
(……そなたは、私と口付けしたくらいで心ここにあらずになってしまうほど、思い詰めてしまったのか)
 自分のせいで集中を乱したのではないか。
 そう思うと穏やかでいられない。さらに、クロエの文字の端に滲む“気づき”の影。
(クロエは察したのだろう。あの娘は鋭い……メリッサの様子で読み取れたのだろうな)
 報告を『曖昧にした』その気遣いもまた、彼女らしい。
 シオンは報告書を閉じ、指先で軽く叩いた。
「……そなたは、どれほど戸惑っていたのだ。メリッサ」
 呟く声には、隠しきれない甘さが滲む。だが同時に、胸の奥には守りたいという強い思いも芽生える。
 今日、確かに交わした口付けは、冥闘士と聖闘士という敵対する者同士の取引のような、死を差し出すための冷たい儀式ではない。
 それは、初めて彼女が“好きな人”としてシオンに触れた瞬間だった。
 その重みを思うと、彼は胸に手を当て、静かに目を閉じた。
(メリッサ……そなたの“初めて”を、今度は正しい形で守らねばならぬ)
 机上の報告書へ、そっと触れる。
「………明日、顔を見られれば良いのだが…」
 密やかな幸福と、深い慈しみを胸に。
 シオンは書類を整然と積み直し、静かにペンを取った。

 夕刻の風は、ひんやりと肌を撫でていった。
 エーゲ海から吹き込む冬の気流は、街の石畳に冷えた気配を静かに降ろしていく。冷たい風が肌の内側までゆっくり染み込んでくる。その温度に、メリッサは肩をすくめ、小さく息を吐いた。
 白い吐息が夕空へ揺らぎながら消えていく。
 講義を終えた彼女は、足早に帰路についていた。
 自宅前の静かな路地に差し掛かると、胸の奥がまた騒ぎ出すのを感じた。
 そして――玄関の前に立った瞬間。
「…………ッ」
 足がすくみ、その場で固まってしまった。
 ドアノブに触れた指先が震える。
(ヤバい……思い出してしまった……)
 朝の光の中で、シオンがそっと顔を寄せてきたあの瞬間。壁際に追い込まれたときの、逃げられない距離。息を呑む暇もなく触れた唇の温度。深く、ゆっくり沈んでいくような甘さ。優しく押し包まれ、胸の奥で何かがほどけていった感覚。唇の間から差し込まれた舌。どう応えてよいのか分からなくて、でも迎えるように自らの舌を触れさせた。あれで正解だったのかは分からない。
(……どうしよう……)
 膝が力を失いかけ、玄関ドアに背を預けてしまう。指先が無意識に唇へ添えられ、そっと押し当てた。
(朝からずっと、これだよ……)
 講義内容も実験結果も、全て遠い霞の向こうに流れ去った。教授の説明は右から左で、ノートには意味を成さない走り書きだけ。ふとした拍子に思い出しては、胸の奥が熱くなる。そんな不安定な状態で本当によく指を切ったくらいで済んだものだ、と自分で自分に呆れる。そしてもう一つ、今日の救いとなった出来事を思い出す。
(レオンくん……助かった……)
 朝から風邪気味で、マスクをしていたレオン。
 「移しては良くないから」と自ら距離を置き、メリッサに近づかなかったのは本当にありがたかった。いつもの距離であの表情を見せられていたら、シオンのことで動揺しているのが確実にバレていた。
 それにしても。
(なんであの人……マスクしててもイケメンなの……?)
 顔が半分隠れているはずなのに、整った目元だけで周囲の女子学生がざわつくほどの破壊力。
 熱で少し潤んだ菫色の瞳まで絵になるのは反則だと思う。あの目元がシオンに似ているのも、今のメリッサには落ち着かない理由だった。
(今日は……本当に……いろんな意味でダメだ……)
 自宅の玄関の前で、メリッサはしばらく動けなかった。胸の奥をくすぐる甘い余韻が、まだどこにも行ってくれない。
 意を決して鍵を差し込み、ドアを開いた。薄暗い室内は、当然ながら誰の姿もない。その空虚さに安堵しながらも、ほんの少しだけ胸が沈む。
 メリッサは扉を閉め、靴も脱がずに壁へ背を預けた。視線だけが天井へ向かう。
(……このくらいの角度だった)
 朝、シオンを見上げたときの距離感がそのまま蘇る。熱を帯びた頬に手を当て、目を閉じた。
(シオン様……)
 胸の奥で、恋心がそっと膨らむ音がした。もう押し込めておくことなどできない。あの口付けで、完全に蓋が外れてしまったのだ。

 ――恋人になってほしい。

 あの言葉。信じられなかった。好かれていることは分かっていた。彼が“セージ”と名乗って近づいてきた頃から、彼の優しさに触れるたび、惹かれていた。
 いや、違う。もっとずっと前からだ。
 まだ五歳の、何も分からない少女だった頃。
 初めて聖域を訪れた日、岩の回廊の奥でひっそりと古の気配を纏う小さな祭祀場で出会った教皇。
 威厳を漂わせながら、不思議なほど温かい気配を持つ人。
 白いワンピースを汚すほどのお転婆を咎められるかと思ったら、彼は少しも怒らず、ただ目を細めて笑ってくれた。
 言えば父を困らせる――幼いながらにそう思って我慢した靴擦れも、その痛みに気付いて、跪いて手当てしてくれた。
(……そうだったんだ)
 あれも、シオンのヒーリングの力だ。
 でも、シオンはどうして気付いたのだろう。あの日の自分は、声を上げて泣いていたわけでも、足を引きずって歩いていたわけでもない。ただ、平気なふりをしていただけなのに。
(聞いてみたいけど……覚えてないよね)
 口元が寂しげに歪む。でも、目を閉じたまま思ってしまう。

 ――もし覚えていてくれたら。
 ――もしあの日からの想いが、少しでも重なっていたら。

 胸の奥が温かく満ちていく。
 静かな部屋で、ただ壁に凭れたまま、メリッサはゆっくりと息を吸い込んだ。その空気に、ほんの微かな甘さとシオンの香りが残っている気さえした。
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