Eine Kleine Ⅱ

 唇に互いの温もりがまだ残っている。
 けれど、時間は確かに進んでいて、メリッサが大学へ行かなければならない現実も動き出す。
「そろそろ行かないと……」
 メリッサが小さく呟く。その声は、恥じらいと名残惜しさがないまぜになっていて、シオンの胸を優しく撫でた。
「そうだな」
 少しでも平静を装うために、シオンは深く息を整えた。だが、胸の高鳴りは、先ほど口付けした時よりも一層、強くなっていた。
「外へ出ずともよい。ここから行く」
 そう言って、シオンはゆっくりと彼女の手を取った。その手は、緊張のせいか少し冷えていたが、触れた瞬間に指の内側へと熱が移ってくるようだった。

 通学時間帯の瞬間移動は慎重さが要る。
 学内や大通りは避けるべきだ。
 不自然に出現すれば、メリッサの立場にも影響が出る。
「人気のない場所へ降りる。大学の近くに、路地裏があったはずだな」
「うん……購買横の小さい通り。人は通るけど、朝は少ないよ」
「そこにする」
 シオンは少し距離を詰め、彼女をそっと引き寄せた。
腕の中へ迎え入れる動作は自然だった。しかし、メリッサの頬はたちまち熱を帯びる。
「えっ……こ、こうやって行くの?」
「離れていたら正確に転移できぬ……安心しろ。先ほどのようなことは、もうせぬ」
 メリッサはわずかに息をのんで、それから小さく笑った。その笑みは、微かな恥じらいと、名前のない幸福の色を含んでいる。
「……うん。大丈夫」
 その返事に、シオンの胸の奥がそっと揺れた。
「では――行くぞ」
 彼が軽く息を吐き、意識を集中させる。
 念動力が静かに、しかし確実に空気を震わせる。
 部屋の灯りが陽炎のようにゆらりと揺れ、足元の空気が透明にほどけていく。

 次の瞬間、二人の姿はふっと消えた。

 着地した大学近くの細い路地裏は、ひんやりとした朝の匂いに包まれていた。高い建物が日の光を遮り、辺りはまだ群青を保っている。冬の朝特有の湿った冷気が、頬に触れた。
「……着いたぞ」
 シオンは周囲を素早く確認する。
 人影はない。
 遠くから学生たちの話し声がかすかに届くが、ここには誰もいない。
「ありがとう……シオン様」
 メリッサがそっと手を離そうとした瞬間、シオンは指を絡めるようにしてそれを止めた。
「気をつけて行け……先程のことは、急がずゆっくり考えてくれればよい」
 メリッサは驚いたように目を瞬き、そして柔らかく微笑んだ。
「……うん。また、連絡……するね」
 そう言い残すと、彼女は胸に抱えた紙袋をしっかりと握り、路地の出口へと駆けて行く。その背中が光に向かって歩き出すように見え、シオンは胸の奥がじんと温かくなるのを感じた。
 彼女が角を曲がって見えなくなるまで、シオンはその場に立ち尽くしていた。
 冬の朝の空気はまだ冷たいのに、体の中心はずっと熱かった。


 だめだ。全然、集中できない。
 実験器具を並べながら、メリッサは内心で何度目かの嘆息をついた。
 わかっている。
 今日は実験の準備担当だから、段取りよく器具を揃えて、必要量を量って、机を整えないといけない。
 だけど。
(……シオン様……)
 今朝のことを思い出すたび、胸の奥がふわりと熱を帯びる。唇に触れた柔らかな温度が、まだそこに残っている気がする。
 気を抜くと、思考が全部そちら側へ引きずられる。
 ピペットを持つ手が震えるし、試薬の瓶を置く力加減を誤って、瓶が大きく音を立てる。
「メリッサ?」
 すぐ隣で、一緒に準備をしているアリサが、眉を寄せた怪訝そうな顔でこちらを見ている。
「えっ、あ、ごめん」
「大丈夫?顔、赤いよ。熱……あるんじゃない?」
 そう言うアリサの手が、メリッサの額に伸びてくる。
「だ、大丈夫!本当に大丈夫!」
 慌てて身を引く。
「でもさっきからぼーっとしてるし、試薬のラベル読み間違えてたし……」
「……!」
 あまりの動揺に、メリッサは言葉を失った。視線が勝手に宙を泳いでしまう。
(や、やばい……完全に挙動不審……)
 こんなの、アリサに説明できるわけがない。
 まさか、聖域の教皇であるシオンに壁ドンされて、告白されて、キスされて――
 その余韻に浸ってるだけです、なんて。
 無理だ。口が裂けても言えない。そもそも、アリサは聖域の存在なんて知らないはずだ。
「ほんと、顔赤いって。ほら、鏡見る?」
「見ないっ……!」
 即答しすぎた。アリサが逆に目を丸くしてしまう。
「……ねぇ、本当に大丈夫なの?」
 心配は本気だ。
 アリサのまっすぐな視線に、メリッサは少しだけ胸が痛くなる。
「うん……ちょっと寝不足なだけ。大丈夫だよ」
 そう言うしかなかった。
 アリサはまだ完全には納得していないようだが、それ以上追及はしなかった。
「無理そうならちゃんと言ってね。代わるから」
「ありがとう……アリサちゃん」
 そう答えながら、メリッサは胸の奥でそっと息をついた。
(……ほんとに勝手でごめんけど……今はそっとしといて…)
 何しろ、今朝の口付けの感触がまだ鮮明に残っているのだ。
 
 二人が準備をしている間に、学生たちが次々に教室へ入ってくる。「おはよう」「準備ありがとう」「お疲れ様〜」など、口々に挨拶を交わしてそれぞれのグループへ分かれていく。
 そこへ、クロエがあくびを噛み殺しながら教室へ入ってきた。
「準備手伝うわよ」
 彼女は荷物を自分の椅子に置くとアリサに声をかけてきた。
「もう終わるから大丈夫。それよりね、朝からメリッサの様子がおかしいの。なんか、ぼんやりしてて、顔が赤いの。熱でもあるのかも」
 教室の窓の外では、冬の柔らかな光が校庭を照らし、足早に登校してくる学生たちの影を長く伸ばしている。
「風邪かしら?今、流行ってるものね」
 クロエは小さく首を傾げ、試薬瓶をキャビネットに戻しているメリッサを見やった。
「もしかして、これから熱出たりするかもね」
「そうね。私も気を付けておくわ」
 何しろメリッサは一人暮らしの上、通学も一時間以上かかるのだ。体調が悪いなら早めに帰すに越したことはない。
「メリッサの事だから、ギリギリまで言わないでしょうからね」
「ね、まるで動物だよね、ひた隠しにするの。わたしなんて真っ先に言っちゃうけど」
 確かにアリサは言うだけ言って、あとでけろっとしている事は多い。構われたがりという程でもないが、それを好まない仲間がいたのも事実だ。
 それももう、昔の話だ。
「アリサみたいに大げさなのも困るけど、隠したがりはもっと困るわね」
「それは周囲に対する配慮だからね。メリッサとわたしでは配慮の方向性が違うだけなの」
「そうとも言えるわね」
 クロエは肩をすくめて笑った。

 実験室の空気は、薬品の匂いとアルコールランプのほのかな熱気で満ちていた。メリッサは机に向かって座っているが、その手元はまるで集中できていない。試薬のフラスコやビーカーを扱う手に力が入っていないのだ。
 教員の説明が耳に届いているはずなのに、彼女の視線はどこか遠く、机の上の器具をぼんやりと見つめている。計量器の数字を確認しているのか、それとも頭の中で説明を反芻しているのか、判断がつかない。
「メリッサ、具合悪い?」
 隣に座るアリサが小さな声で尋ねる。
 返事はない。ただ、わずかに肩が揺れるだけで、呼吸のリズムにさえ乱れが感じられた。
 クロエもそっと隣の席に寄り、メリッサの背中を観察する。筆記具を手に取り、何度もメモを取るふりをして、彼女の動きを注意深く追った。
 教員の声が反響する実験室。器具の触れ合うカチャカチャとした音と、試薬が混ざるわずかな泡立ちの音が、メリッサのぼんやりとした様子をさらに際立たせる。
「集中しないと、危ないよ」
 アリサの囁きが、ようやく彼女の意識の一部に届く。手が一瞬止まり、目が僅かに瞬く。けれどすぐに、また遠くを見つめるような視線に戻る。
 彼女の胸の奥にまだ残る、今朝の記憶。シオンとの距離、そして初めて交わしたあの温かな接触。思考は無意識にそこへ戻ってしまう。
「……あの子、ほんとに授業聞いてるのかしら」
 クロエが小声で呟く。アリサも、眉をひそめながら小さく頷いた。
 メリッサは、机上の作業と心の中の余韻の間で揺れていた。外見は平静を保っているが、内側では、初めての体験の余韻が、静かに、しかし確実に彼女を支配していた。
 ビーカーに試薬を注ぐ手が、わずかに震える。
「メリッサ、ちょっと手、貸すよ」
 アリサが咄嗟に手を添える。
 「えっ、あ……ごめん……」
 慌てて謝るメリッサ。
「まったく、あの子、朝からずっとぼんやりしてるじゃない」
 クロエが小声で呟く。
 メリッサは完全に現実に戻れていない。目の端にチラリと見えるフラスコの中の溶液の色や、計量器の数字よりも、頭の中のあの朝の光景が優先されてしまう。シオンの温かな声、指先に触れた温もり、柔らかな唇に触れた記憶――それが、胸の奥で小さく波打つ。
「次はこの順番で混ぜて――」
 教員の声も耳に入っているはずなのに、言葉が頭に届く前に、心はふわふわと別世界を漂っている。
「一緒にやろ?」
 アリサが再び手を添え、彼女の作業を補助する。
「う、うん……ごめんね、ちょっとぼーっとしてて……」
 やっと声を出すメリッサ。しかし、その頬は相変わらず赤いままだ。
 クロエは、量り取った薬品をビーカーへと注ぎながら、横目でメリッサの動きを追っていた。
 朝からずっと気になっていた違和感――それが、ようやく形を持った。
(……また、指先を唇に当ててる)
 ほんの一瞬触れるだけ。本人すら無意識なのだろう。だが、クロエは知っている。メリッサにそんな癖はない。緊張しているときも、困っているときも、喜んでいるときでさえ、見たことがない仕草だ。
「……ふうん」
 気づかれないほど小さく、鼻の奥で笑う。
 昨日、メリッサは“お相手様専用備品”のワンピースを着ていた。それは聖域の女性なら誰でも意味を知っている服だ。だが、昨日の彼女は、いつも通りの振る舞いだった。
 対して今日はどうだ。
 ビーカーを持つ手は時折震え、火を使うときはアリサがそっと寄り添わないと危険を感じる。頬はずっと赤みを帯びていて、心ここにあらずだ。不意に呼べば肩が跳ねる。

 ――何かが起きた。昨日ではなく“今朝”。

 その瞬間、メリッサがまた唇へ指先を運ぶ。触れた場所を確かめるように。そこへ意識を戻すように。
 クロエは、実験の経過をノートに記入しながら、静かに結論へ至った。
(……キス、したわね)
 胸の奥に、親友としての嬉しさと諜報員としての冷静な推察、その両方が絡み合う。
 あんな反応をするということは、恐らく、初めてのキスで間違いない。もし、経験済みならここまで挙動が崩れるはずがない。
 仮に昨日、男女の関係に至っていたなら……今日のこの“混乱”どころでは済まない。視線が虚空を彷徨い、作業など到底できないほど余韻に浸ってしまうはずだ。
 つまり、昨日のワンピースの件は、「ただそういう状況だっただけ」。
 そして今朝、とうとう二人は踏み越えたのだ。
( ……よかった、のよね?メリッサ )
 クロエは胸が温かくなる。
 けれどそれと同じくらい、胸の奥に鈍い痛みも走る。この先、彼女はどれだけ揺れ、どれだけ泣き、どれだけ恋の深いところへ落ちていくのだろう。
 何しろ相手は聖域教皇だ。
 クロエは、親友の横顔をそっと見つめた。
 唇に触れた指先が震えたまま、メリッサはフラスコを持ち直している。
(……全く。猊下、やっと動いたのね)
 小さく息を吐いて、クロエは再び作業に戻った。だが、メリッサの指先が唇へ上がるたびに、胸の奥がひどくくすぐったくなるのを、どうしても抑えきれなかった。

 実験台の上で透明な液体が揺れる。
 ガラス器具同士が触れ合うたび、細く澄んだ音が立った。その音が、今朝のあの瞬間――触れ合った唇の、柔らかな震えと重なり、メリッサの意識をさらっていく。
(……ダメだ、集中しなきゃ。実験は危ないのに)
 そう思うのに、体が現実へ戻ってこない。教員の説明は遠く聞こえ、手元の計量は指先がかすかに震えているせいで、普段よりも時間がかかっていた。
「メリッサ、代わるよ?」
 隣のアリサが、小さな声で囁くように訊ねてくる。
「……うん、平気。ちょっと寝不足で」
 笑おうとしたが、うまく口角が上がらない。胸の奥には、今朝の温度がまだ残っている。
 触れた瞬間の衝撃。
 心臓が跳ね息が止まるような、あの初めての口付け。
(……思い出したら、余計ダメじゃん……)
 焦りと羞恥が混ざった思考のまま、メリッサはフラスコを持ち直した。

 その瞬間だった。

 彼女の指先からフラスコが滑った。普段なら絶対に落とさないタイミングだったのに。
「あ……!」
 床に落ちたガラス器具が砕け、鋭い破片が四方へ散る。
 周囲の学生が同時に息を呑む音がした。
 教員がすぐさま駆け寄る。
「ごめんなさい、すぐ片付け――」
 反射的にしゃがみ込む。
「素手で触らない!」
 教員の声が鋭く響いた。
「え……」
 しかし、その声は間に合わなかった。
 メリッサが伸ばした指先が破片に触れた。
「痛っ…!」
 白い肌を裂く、鋭い痛み。指先から薄紅色の血がじわりと滲む。クロエが険しい顔でこちらへ歩み寄ってきた。
「メリッサ、手を見せて」
 促されるまま掌を見せると、人差し指と中指に赤い血が小さく珠を作っていた。大した怪我ではないのに、メリッサの胸は妙にざわつく。
 シオンが知ったら、間違いなく眉をひそめるだろう。その想像がよぎり、頬が熱を帯びた。
 クロエはため息をひとつ落とし、ポケットからティッシュを取り出す。
「……ぼーっとしてるから。私が掃除するから、メリッサは医務室行って。アリサ、一緒に行ってあげて」
「う、うん……ごめん……」
「気にしないでいいから。でも今日はちょっと……」
 言葉の続きを飲み込み、クロエは小さく微笑んだ。
その笑みは、ただ優しいだけではなく――“全て察している”ようだった。
 メリッサは胸の奥がぎゅっと締め付けられ、思わず自分の唇へ指先を運びかけた。
 触れた瞬間の感覚が、まだ残っている。
(……こんなんじゃ、絶対気づかれるよ……)
 自分でもわかるほどの初々しさと、心のざわめき。
頬を熱で染めたまま、メリッサはアリサに手を引かれて実験室を後にした。
 医務室へ向かう廊下は静まり返っているのに、胸の鼓動だけはいつまでも騒がしく響いていた。
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