Eine Kleine

 船は静かに波を切りながら港町へと戻っていた。晩夏の夕暮れ。海原は茜に染まり、水平線にはまだ沈みきらぬ陽が、最後の力を振り絞るように黄金の光を投げかけている。潮風は肌に柔らかく、しかし塩の苦みを含み、揺れる髪を湿らせた。
 操縦桿を握るメリッサの背は細く、その影は橙と群青の境を揺蕩う甲板に長く伸びていた。風にたなびく栗色の髪は燃える空の色を帯び、彼女の沈黙に一層の憂いを加えている。
「目的の植物は島にあるのだろうか」
 舳先に立ち、海面のきらめきを見つめていたカミュが口を開いた。声は風に溶け、余韻だけが残る。
「そうだね」
 アフロディーテは、沈みゆく陽を受けて蒼い瞳をきらめかせた。
「いくつか強い作用を持った植物があったから、その中にあると思うよ」
「お前では分からないのか」
 カミュの問いには、わずかな苛立ちが混じっていた。アフロディーテは短く笑い、肩をすくめた。
「残念だけど薬効の程度までは、私にも分からないよ。そこまでの専門的知識がないからね。だからこそ、彼女が必要なんだろうね」
 そう言って、彼の視線は自然と操縦桿にすがるように両手を置くメリッサの背中へ向かう。夕陽に縁取られたその小さな影には、烈しい激情と、言葉にならない痛みが宿っている。
 カミュは眼を伏せた。氷のように沈静を装う彼の胸奥に、ひそかな憤怒が渦巻いていた。
 あの華奢な身に、どれほどの憎悪が燃えているのか。彼女が吐き出した魂の叫びは、過去に何があったのかを知らしめるには、あまりにも充分だった。
 アフロディーテもまた、同じ重さに言葉を失っていた。
 あの島で耳にした彼女の魂の叫びは、自分たちにさえ知らされていなかった聖域の汚泥を暴き出した。
 メリッサが受けた仕打ち――それは彼女一人の尊厳を踏み躙るにとどまらない。
 男である自分たちの矜持すら穢す蛮行だった。言葉にすることすら忌まわしく、想像に耐えぬおぞましさ。
 それでも、その痛みを黙して背負い続ける少女の姿が、夕陽よりも鮮やかに彼らの胸裏を灼いていた。
 海鳴りとともに、甲板を朱に染める陽光は刻一刻と弱まってゆく。
 二人の黄金聖闘士は言葉を重ねぬまま、暮れゆく空を見つめ続けた。その胸の奥底で、彼らは同じ誓いを固く結んでいた。

 窓の外には、夏の熱をわずかに残した風が流れ込んでいた。街路樹の葉が夜の光を受けて揺れ、遠くから潮騒のざわめきがかすかに届く。
 メリッサはランプの明かりの下、受話器を耳にあてながら、机の上の書きかけのノートを無意識に指先で叩いていた。
「延長料金が1日あたり15ユーロかかりますけど?」
努めて軽く言った声が、自分の耳には少し硬い響きを帯びて聞こえる。
『構わぬ』
 短い返答。だが、その声音にわずかな焦燥が滲んでいるのを、メリッサは敏感に察してしまう。
「分かりました。明日も水瓶座様と魚座様が来るんですか?」
『ああ』
 その静かな肯定が、かえって胸に重くのしかかる。 
 彼がただの協力者ではなく、聖域の頂点に立つ存在なのだと、あらためて思い知らされるからだ。
「明日も見つかる保証はありませんけど、その場合はどうしますか?」
 一瞬の沈黙ののち、受話器の向こうからは低く響く声が落ちてくる。
『見つけてくれ』
「……無茶言わないでください。島にない植物かもしれないのに」
『無茶は承知の上だ』
 その答えに、メリッサは息を呑む。彼が自ら無茶を口にするなど、これまでなかったことだ。本気なのだと、相当切羽詰まっているのだと読み取れる。
「……分かりました。まぁ、あまり期待しないでくださいね」
 努めて淡々と告げたものの、言葉の裏側では、自分がどこまでこの人に縛られているのか、確かめるような怖さが膨らんでいく。
 受話器の向こう、シオンは目を閉じていた。闇に沈んだ執務室の中、ただランプの小さな光が机を照らす。声に宿したわずかな震えが、彼女に届いてしまったのではないかと、不安が胸を掠める。

  ——離れていく。

 そう思うたびに、言葉を繋げることでしか、彼女を留める術を持たない己の無力を思い知らされる。
『……すまぬ』
 かすかな謝罪が夜気に溶け、メリッサは返す言葉を失った。沈黙が二人の間に垂れ込める。それは決して心地よい沈黙ではなく、互いの心の距離を測りかねて息を詰めるような、緊張を孕んだ沈黙だった。

 彼女は通話の切れた受話器を握りしめたまま、胸の奥で小さく波打つ痛みに気づいていた。

 ——どうして、ただの人でいてくれなかったの。

 メリッサの胸に重く澱むものは、裏切られたというよりも“置き去りにされた”という思いだった。
 もしも最初から真実を告げられていたなら、きっと彼女なりに受けとめただろう。驚きもしたし、戸惑いもしたはずだ。けれど、セージと名乗った“誰か”と共に過ごし、信じ、寄り添った時間が、今となってはすべて“虚構の上に築かれた幻影”のように感じられてしまう。

 ――なぜ、隠したの。なぜ、打ち明けてくれなかったの。

 思い返すたびに胸の奥で声が繰り返される。もしも最初から語ってくれていたなら、こんなにも深く傷つかずに済んだのに。心を閉ざす必要も、疑念に苛まれることもなかったのに。
「最後まで隠すつもりなら、それでよかったのに……」
 小さく零れたその呟きは、誰に届くこともない。ただ、宵闇に沈んだ部屋の空気に溶けて消える。
 知りたいと願う心と、知らずにいたかったと叫ぶ心。矛盾する思いが交錯し、メリッサは自分の感情の輪郭すら見失っていた。
 恋した人が偽りをまとっていたのではなく、恋した人の沈黙そのものが、何よりも痛烈な刃となって胸を裂く。

 ――いっそ、最後まで黙したまま、秘密を墓場まで持っていってくれたら……そうすれば、あたしは夢の中で生き続けられたのに。

 メリッサは自らの願いの苦さに唇を噛み、涙を流すことすら許されないように、ただ硬く目を閉じた。


 港町の朝は、晩夏の陽に淡く霞んでいた。
 白い石畳の路地を抜けると、海風が塩と果実の香りを運んでくる。帆を張った小舟がいくつも並び、港の一角では早朝の市がまだ賑わいを残していた。
 約束の時刻よりも早く、カミュとアフロディーテの姿が現れる。二人とも、黄金聖衣を纏っていない。薄手のシャツに上質なジャケットを羽織る程度で、まるでただの旅行客のように見えた。
「……あれ、二人とも今日は聖衣持ってきてないんですか?」
 驚き混じりに声をかけるメリッサの目が、ぱちりと大きく見開かれる。
 カミュは朝の海のように澄んだ視線で彼女を見下ろし、抑揚の乏しい声で答えた。
「島に危険はないと判断した」
 その一言に、メリッサは小さく唇を尖らせる。
「……あたしが危険人物かもしれませんよ?」
 からかい半分、本気半分。けれど、返ってきた言葉は冷ややかなのに不思議と温かみを帯びていた。
「そういう事を言っているうちは、危険人物にはなり得ん」
「むぅ……じゃあ、黙ってます」
 ふてくされたように肩をすくめ、足元の小石を軽く蹴る。
 けれど、二人の黄金聖闘士の眼差しは鋭敏だった。
 彼女の整った顔の端に、ほんの僅か、翳りが差していることを、彼らは見逃さなかった。
 昨日の出来事。シオンの正体を知ってしまった衝撃は、まだメリッサの胸を深く揺らしている。目の前の二人に対しても、距離を測るように一歩引いた笑みしか浮かべられない。
「……」
 アフロディーテは鮮やかな碧の瞳で彼女を見つめたが、何も言わなかった。カミュもまた、冷静を装いながらも、彼女の表情の奥に宿る揺らぎを読み取っていた。彼女の若さゆえに、心の整理にはまだ時が要る。笑顔に翳りを帯びながら、それでも“いつものように”彼らを迎えようとする姿に、二人の黄金聖闘士は互いに目を合わせ、黙したまま港の船影を仰いだ。

 昼下がりの陽射しは、海からの風さえ奪い取るように重く、緑の影の少ない島の奥はじりじりと焼け付く。
 薄い布の帽子を深くかぶり、籠を手に歩を進めるメリッサの横顔は、どこか張り詰めた気配を帯びていた。
 前日は無邪気に問いかけ、驚き、笑ってみせた彼女が、今日は必要最低限の言葉しか口にしない。
「あの葉も、薬効がありそうです」――そう小さく告げる声には、どこか影が差していた。
 カミュとアフロディーテは互いに視線を交わす。彼女が無理に平静を装っていることに気づかぬほど、二人は鈍感ではない。
 採取した植物を包みに収めると、カミュが凍気を放って鮮度を保つ。冷気に触れて涼やかさが広がっても、彼女の表情の曇りは消えなかった。
 陽射しに照らされるその背中は細く、しかし凛としていた。
 島の奥へ、まだ足を踏み入れたことのない区域へと導く彼女の足取りは、迷いながらも確かだった。
 彼女は傷付いた心を抱え込みながらも、歩みを止めることを知らない。ただ黙々と、必要な薬草を探し、摘み取り、籠に収めていく。その沈黙の奥に、前日の夜から続く痛みや揺らぎが、ひそやかに燃えていることを、二人は感じ取っていた。けれども、今はただ、言葉を挟むのを避けた。彼女の沈黙は、彼女自身が整理するための時間なのだと。

 陽光に透ける白花を見上げ、メリッサは深く息をついた。その木は、他のものよりも柔らかに、しかし確かな強さで、根本から枝葉に至るまで小宇宙を帯びているように感じられる。
「…これだけの株をそのまま運ぶのは、さすがに無理だなぁ」
 呟きながら、枝に指先をそっと触れる。ひんやりとした感触の奥に、力強い脈動を感じた。
「根を傷つけずに掘り起こして移植するのは、かなり大掛かりになると思います。樹齢も長そうだし…」
 思案顔のメリッサを見て、カミュが冷静に口を開いた。
「植物学的に重要なのは、遺伝子情報と有効成分だ。根本を丸ごと運ぶ必要はないだろう」
「はい、そうですね……標本を採取して、枝や葉、花、それに種子をできるだけ多く。必要なら樹皮も。エルダーフラワーは全ての部位に薬効があるので」
 そう言いながらも、メリッサの眼差しはどこか揺れていた。

 ――この木を切り取ることに、躊躇いがある。

 アフロディーテの小宇宙が示したということは、この樹そのものが特別な意味を帯びているのかもしれない。
「……でも」
 声が小さくなる。
「これは、この島で何十年も何百年も生きてきた木です。人間の勝手な都合で、ただ切り取ってしまっていいのか考えてしまうんです」
 陽射しに照らされた白い花が、静かに風に揺れた。
 メリッサの胸に、再び迷いが膨らんでいく。
「どうしよう……」
 口に出したのは、単なる小さな呟きだが、声には揺らぎが含まれていた。手元の標本袋や刃物を目の前に置いても、心は決まらない。目の前の木は、ただの薬用植物ではない――長い歳月をこの島で生き、風や陽光を受けてきた“命”そのもののように感じられた。
 カミュは少し距離を置き、低く息を吐く。表情にはいつもの冷徹さがあるが、声には穏やかな色があった。
「根本から切り倒すのは、最も簡単な方法だ。だが、君の逡巡も理解できる。無理に押し切る必要はない」
 アフロディーテも、風に揺れる白花を見上げたまま頷く。
「確かに、合理的に考えれば切り倒すのが一番効率的だ。でも、植物にも寿命や成長の歴史がある。無理に奪うのは、暴力的だと思う」
 メリッサはその声に、胸の奥が少し温かくなるのを感じた。二人の黄金聖闘士は、常に理性を優先し、効率と成果を追求する――しかし、今、目の前の植物をただの“材料”として扱うことに、同意していない。
 彼らもまた、人や命への想いを忘れていないのだと、かすかに理解した。
「でも、持ち帰らないと、シーブに効く成分は手に入らないかもしれないです」
 声に力がない。メリッサ自身も理屈では分かっている。薬効があれば、傷ついた者や海を守ることができる。だが、目の前に生きている木を切る想像は、過去に受けた傷と重なって胸を締めつける。
 カミュが慎重に口を開く。
「切るのではなく、枝や花、種子の形で標本を採取する手もある。それなら、木自体を傷つけずに持ち帰れる」
 アフロディーテが微笑む。
「そうだよ。少しずつでも、木の命を尊重しながら、目的を達する方法もあるはずじゃないかな」
 メリッサは唇を噛み、手のひらの感触を頼りに木をそっと撫でる。決断はまだ先だ。だが、二人の理性と優しさを見て、自分が一人で抱え込まなくてもいいのだと、少しだけ心が軽くなる。
 まだ、切り倒すか採取するか、完全な決断はできない。だが、誰かの力に頼りながら、木を傷つけずに成分を手に入れる可能性があると、メリッサの心は初めて希望の光を見出した。
 陽光が傾き始め、影が長く伸びる。花々がゆらりと揺れるたび、微かな香気が漂う。島の静けさと、三人の胸にある迷いと希望が、昼下がりの空気に溶けていく。
 メリッサはゆっくりと息を吐き、木から手を離した。掌に残る微かな温もりが、決断を急かすわけではなく、寧ろ慎重さを促していた。
「よし。枝だけ、花だけ、種子だけ、少しずつ採ってみよう」
 小さな声で呟き、手元のナイフを取り出す。手が震えないよう、深呼吸して心を落ち着ける。カミュとアフロディーテは静かに彼女を見守る。
 メリッサはまず枝を小宇宙で包み、ほんのわずかに光らせる。その光は、木が持つ薬効成分に反応して微かに色を変え、採取すべき部分を示す。光の粒が揺らめき、風に揺れる白い花びらに柔らかく絡みつく。
「この感覚、やっぱり難しいなぁ」
 触れる手の先で、木の生命力が微かに抗うように感じられる。メリッサはその微細な抵抗に心を痛めつつも、必要最小限の量だけ枝を切り、花を摘む。
 アフロディーテが穏やかに声をかける。
「いい感じだね。無理に全てを奪わなくても、必要な成分は十分取れるはず」
 カミュも頷き、凍気で切断面を保護する。
「これなら、木も大きな損傷はない。メリッサの判断は正しい」
 小宇宙で光らせた部分を一つずつ確認し、枝と花を慎重にカゴへ入れる。メリッサの背中には緊張が残るが、昨日の暴走の影は薄れていた。自分の意思で選び取り、木の生命を尊重する――その行為が、少しだけ心の平穏をもたらす。

 日差しがさらに傾き、白い花びらの影が長く伸びる。波の音と、風に揺れる草木のさざめきが、薬師の島の静かな午後を包む中で、三人は互いに沈黙を保ったまま作業を続ける。心の中の微細な揺れを抱えながら、それでも前に進む――その感覚が、メリッサにとって、初めて“自分で選んだ”という実感となった。
 白い花びらを慎重にカゴに収めたメリッサは、そっと目を閉じ、小宇宙を掌へ流し込む。淡い紫色の光が指先から溢れ、花や枝を包む。光の粒子は花の中心を通り抜け、微かに震えるように反応した。
「反応してる」
 メリッサの声は静かだ。小宇宙の光が、エルダーフラワーの中の有効成分と共鳴し、拮抗作用を示す部分だけをわずかに明るく照らす。その光は温かく、まるで植物自身が「ここを使って」と囁いているかのようだった。
 アフロディーテが近くでその光を見つめる。
「確かに、強い反応が出てるね。この部分を使えば、シーブ・イッサヒル・アメルの成分にも対抗できるかも」
 カミュも腕を組み、眉を寄せながら静かに言う。
「だが、濃度や量を間違えれば逆効果になる。慎重に扱わねば」
 メリッサは深呼吸し、手で触れる枝や花をひとつずつ確認しながら、小宇宙の光でマーキングしていく。
 微かな光の揺らぎが、成分の濃淡を知らせ、最適な採取箇所を示す。
「これなら、実際に使える量は十分取れそうです」
 小さく呟き、ほっとした表情を浮かべるメリッサ。掌に残る紫色の光の残像は、まるで花たちが応えてくれたかのように揺れた。

 日差しは傾き、波間に金色の光が散る。三人は言葉少なに、しかし着実に作業を進めた。静かな午後の薬師の島。緊張感は残るが、目の前の成果が確かな手応えとしてメリッサの心に届く。昨日の暴走の影はまだ完全には消えていないが、今は、自分の手で状況を制御できるという確信が、彼女に小さな安堵を与えていた。
 メリッサは採取した花の一部を小さな硝子容器に入れ、掌に流した小宇宙の光で成分の反応を確認する。淡い紫の光が花弁から徐々に溶け出し、液体に微細な振動を与える。
「反応は上々。濃度も均一に抽出できてるみたいです」
 彼女は低く息をつきながら、慎重に試験用の少量をガラスパイプに移す。
 アフロディーテが傍で観察する。
「こんな少ない量で、ちゃんと反応が出るなんて…やっぱり特殊な植物だね」
 カミュは手を組み、視線を鋭く光らせる。
「メリッサ、試験は慎重にな。成分が強力すぎれば、逆に毒性を増す場合もある」
 メリッサは頷き、呼吸を整える。掌の小宇宙を液体に注ぎ、光を集中させる。花の精油が微かに揮発し、空気中に柔らかな香気を漂わせる。紫色の光は液面で波紋のように広がり、反応が一定になった瞬間、メリッサは小さく微笑む。
「大丈夫。これなら使えると思います」
 その声には、まだ不安と緊張の色が残るが、昨日の暴走と比べれば遥かに落ち着いていた。掌に残る光の残滓が、彼女の心の中に小さな自信を灯す。
 アフロディーテが微笑む。
「さすが、ドリュアスの力だね。手際も勘も、完璧に近い」
 カミュも少しだけ口元を緩め、静かに言った。
「これなら、明日には本格的な拮抗試験に入れるな」
 午後の光が傾き、海風が揺れる薬師の島。三人は沈黙の中で確かな成果を噛みしめながらも、次の段階に向けた期待感を抱いていた。
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