Eine Kleine Ⅱ

 その日の夜、ようやく胸のざわつきが落ち着きはじめた頃だった。
 鞄の中を整理していて、手がふと止まる。あるはずのものが——ない。
 (嘘でしょ!?どうしよう……)
 実験用ノートと専用のペンケース。
 今朝、シオンの部屋から脱兎の如く逃げ出し、置き忘れがないか確認をし忘れたせいだ。明日の講義で絶対に使う。忘れ物なんてしている余裕はないのに。
 朝からずっと張り詰めていた神経が、急に縮れていくみたいだった。
 でも、どうやって連絡を取ればいい?
 シオンの個人的な連絡先なんて知らないし、知っていてはいけない立場なのだ。
 監視対象だけに与えられる“連絡窓口”の書かれた紙が、机の引き出しにしまってある。聖域と連絡を取るには、その番号に電話をかけなければいけない。この番号は過去の痛みを思い出させる。でも、今はこの番号だけが頼みの綱だった。もう、腹を括るしかない。深く息を吸って、番号を押す。
 数秒後、事務的な声が応答した。
『——聖域監察局です』
「あの……メリッサ・ドラコペトラと言います。いつもお世話になっています」
 自分の名前を名乗るだけで、胸がぐっと詰まる。
 相手がどこまで知っているのか——考えるだけで息が細くなる。
「えっと……教皇猊下に、お伝えしていただきたいことがあるんですけど……いいですか……?」
 わずかな沈黙が走った。電話越しにもわかる“間”が怖い。ほんの数秒なのに、頬が熱くなるほど長く感じた。
『…………はい。どうぞ』
 どこまで把握されているのだろう。監察局は、あたしのことを、どんなふうに記録しているのだろう。この通話だって、絶対に記録されているに違いない。
 その気配を思うだけで、背中に冷たい水を流されたような感覚がした。
「教皇猊下のお部屋に伺った際に……その、忘れ物をしてしまって……。明日の講義で必要なので、明日の朝、大学へ行く前に取りに伺いたいと……お伝えしてほしいんですけど…」
『……確認します。少々お待ちください』
 静けさが耳の奥に沈む。
 鼓動が自分でもわかるほどうるさくて、スマートフォンを力一杯、握りしめていた。
 そして数分後、思ってもいなかった言葉が返ってきた。
『教皇猊下に、お繋ぎいたします』
「えっ……?」
 返事をする間もなく、回線の向こうの気配が変わった。
『もしもし』
 本当にシオンに繋がった。緊張で喉がひゅっと細くなる。
「あの…シオン様?」
『ああ、私だ。ノートとペンケースだろ?』
 聞き慣れた声が流れ込んできた瞬間、胸の奥が一気に熱を帯びた。しかも、何も言わなくてもちゃんと分かってくれていた。
 それだけでもメリッサの心は弾む。
「う、うん……明日の講義で使うから、朝、大学へ向かう前に取りに行ってもいい?」
『今から届けようか?』
「ううん……申し訳ないから、取りに行く」
 受話器を持つ手がじんと震えていた。
 声だけでこんなにも乱されるなんて、自分でも想像していなかった。
『何時に来る?』
 電話口の静かな声に、メリッサは少し戸惑いながら答える。
「えっと……7時には」
『7時?そんなに早く、どうやって来るつもりだ?』
 メリッサは思わずスマートフォンを握り直す。
「あ、バイクで……」
『バイクだと?そなた、バイクで通学しているのか?』
 シオンの声がわずかに低く強張ったのが分かった。
「普段は電車だよ。でも、そのノートは一限の実験で必要だし……」
 声が段々と小さくなる。
『ならば、明朝、私が届ける。何時に行けばよい?』
 その言葉に、メリッサは思わず言葉を詰まらせる。
「え……でも、あたしの忘れ物だから……」
『構わぬ。バイクはだめだ。万が一の際のダメージが大きすぎる。特に聖域周辺は道が悪いのだから』
 メリッサは小さくため息をつく。
「大丈夫。オフロードバイクだから」
『そういう問題ではない』
 電話の向こうの声は低く静かだが、怒っているのではない。心配と過保護が入り混じった声。彼女の安全を思う気持ちが、痛いほど伝わってくる。
 メリッサは頬が熱くなるのを感じた。
 ああ、こんなふうに心配してくれる人がいるのだ、と。
 わずかに窮屈さもあるが、でも、それさえ悪い気はしなかった。電話の先で、シオンの低く澄んだ声が続く。
『明朝に私が直接届ける。よいな?』
「はい…お手数おかけします…」
 メリッサは小さく頷き、胸の奥に喜びを抱え込んだ。シオンの優しさに触れると、いけないと思いながらも心のどこかで甘えてしまいたくなる。
 電話越しの静かなやり取りは、互いの心の距離を、少しだけ縮めたようだった。

 夜の十二宮は、静寂そのものだった。
 険しい岩山の気配が建物の輪郭を縁取り、歩くたびに足音が澄んだ空気へ吸い込まれていく。
 シオンはその階段を、まるで胸の内の熱に背中を押されるようにして駆け降りていた。
 自分でも驚くほど、足取りが軽い。まるで、長い冬のあとに突然訪れた春のようだ。
 教皇としての威厳を抱えたまま喜色を隠すのは、彼には到底できなかった。だからこそ、気心の知れた相手――童虎の守護する天秤宮へ足が向いたのだ。
「童虎、邪魔するぞ!」
 スパンッ、と勢いよく襖を開けると、寝巻姿の童虎が寝台にもぐる寸前で固まった。
「なんじゃ……人が寝ようと思っておったところに来おって」
 ぶっきらぼうな声。だが、長年の友誼がその裏に柔らかく滲んでいる。
「すまん、だが聞け!」
 童虎は布団をばさりと下ろし、片眉だけを器用に吊り上げた。
「メリッサか?」
 シオンは一瞬、言葉を失った。
「なぜわかる?」
「わからいでか。お主をそんなに浮かれさせるのはメリッサしかおらんじゃろ」
「む……そんなに浮かれておるか?」
 童虎は深々とため息をつき、呆れたように笑った。
「自覚がないのか?阿呆め。少しは落ち着け。良いか、わしらは肉体こそ若者じゃが、中身は齢200を超えるジジイなのじゃぞ?だいたい、今朝はメリッサを朝帰りさせおって……」
「断っておくが、それは何もしておらんぞ」
 シオンは得意気に胸を張る。
「なんじゃと?」
 童虎の目が丸くなった。
「確かに私の部屋に泊まらせたが、同衾はしておらん。私はソファで寝た」
 言った瞬間、童虎は「ふん」と鼻で笑い、膝をぽんと軽く叩いた。
 その仕草は、まるで若造をからかう老人そのものだが、長い付き合いの中で滲む遠慮のなさと、揶揄する楽しさが混ざっていた。
「ほぉ……“耐えた”のか。その状況でお主がな」 
 わざと目を細め、呆れたような、しかし、にやりと笑う気配を隠しもしない。
「耐えたとも」
 言い切ったシオンの声音は真っ直ぐで、しかしどこか誇らしげだった
「やればできるものじゃのう、教皇猊下。いや、寧ろ“やらかさなんだ”と聞いて、わしは今ちょっと感心しておるところじゃ」
 茶化す声音に、シオンは眉をひそめた。
 しかしそれを完全には否定できず、心のどこかで「言われても仕方ない」と観念する気配があった。
 童虎は鼻で笑った。
「では、何の報告をしに来たんじゃ?わしはてっきり、メリッサと懇ろな関係になった報告かと思ったのじゃが……」
 シオンは少しだけ視線をそらし、胸の内で膨らむ熱を押し隠すように息を整えた。
「実はな、明日、早朝からメリッサと会うのだ」
 その声音は、どう取り繕っても隠しきれないほど弾んでいた。
 童虎は、わかりやすいほど大きな溜息をつき、だが口元には笑みを浮かべた。
「……やれやれ。ほんに、恋する男というものは年齢に関係ないものじゃな」
 夜の天秤宮に、二人の笑い声が響いた。

「で、早朝とは何時なのじゃ?」
「7時だ。7時にメリッサの自宅へ行くことになっている」
 童虎は目を細め、眉間に皺を寄せる。
「……お主、何時起きなんじゃ?」
 シオンは軽く咳払いをし、逆算を始める。
 移動は聖域を出てから瞬間移動すればよい。数分程度で済む。
 朝食に15分、着替えに5分。顔を洗い、寝癖を直し、髪を整えるのが……これが一番時間を要する。20分は見ておくべきだろう。
 6時半では遅いか。6時15分……いや、6時起きか?
「お主……起きれるのか?」
 童虎の視線は鋭い。まるで、老齢の友の“甘さ’を見透かすかのようだ。
「メリッサに会えるのだぞ。起きられぬはずがない」
 シオンの声は落ち着いているように聞こえた。しかし、内心は不安があるのだ。それを童虎は敏感に察知している。それでも、6時起きならシオンでもどうにかなるだろうとは思っている。
「ならば、今夜はもう寝ろ。わしも寝る」
 童虎はあくびを噛み殺すこともせず、静かに寝台へ身を沈めた。夜の静寂に混じる、低い息遣いが小さく響く。
「ああ、夜分に邪魔したな」
「気にするな。お主も立場上、語れぬことも多かろう?」
 童虎の声は柔らかく、しかし確かな重みを帯びていた。シオンはその言葉にふっと笑みを漏らす。
「それはお前も同じではないのか?」
「わしは責任ある立場におらんからの。お主とは条件が違うとるよ」
 微かに揺れる寝台の影。光は淡く、夜の闇がゆっくりと宮殿を包み込んでいく。
「それでも、小僧どもに色恋の話はできぬだろ?」
「その前に相手がおらんわ」
 童虎は自嘲気味に笑った。
 二人の間に、しばしの静寂が落ちる。遠くの窓から差し込む月光が、薄く床に影を伸ばす。
 言葉にせずとも、互いの想い、立場、背負う責任が微かに交差する瞬間。言葉少なに、しかし確かに理解しあえる信頼感が、二人の間に横たわっていた。


 本来、私は早起きが得意ではない。朝の光にすぐ馴染めるわけでもない。
 だが、今朝は違う。眠気も、倦怠も、全てが彼女の存在の前では取るに足らぬことに思えた。
 寝坊は絶対にできなかったからだ。
 メリッサの忘れ物を届けるために、私は普段使わぬ目覚まし時計をセットし、スマートフォンのアラームも最大音量にして、手の届かぬ場所に置いた。
 側近に命じれば、いつでも起こしてもらえる立場だ。だが、今朝は、自分の意志で目覚め、行動することがどうしても必要だった。
 彼女のために。
 その一心が、いつもなら苦痛に感じる朝の冷気や倦怠を、一瞬で押し流してしまった。
 ベッドの縁に腰かけ、深く息を吸う。外の夜明けの匂い。まだ静まり返った教皇宮の空気。全てが、今日の小さな使命を告げているようだった。
 思わず、唇の端に微かな笑みが浮かぶ。
 これから向かう先で、メリッサの顔を見る。会えるのは短時間でも、彼女の大切な学用品を直接渡す。たったそれだけのことが、胸の奥を温かくさせた。
 立ち上がり、床に足を下ろす。靴を履く間も、指先の感触までもが、今日という朝の手触りとして、記憶に刻まれる。
 全てが、彼女のために。
 そして、どうしても答えが欲しかった。昨日の問いの答えが。
 その想いが静かに、しかし、確かに私を動かしていた。

 聖域には、アテナの結界が張られている。外敵の侵入や逃走を防ぐためのものだ。聖闘士であっても、例外はない。
 その結界を抜けるには、自らの足で境界を越えるしかないのだ。教皇宮から光速で移動すれば、結界の境界まではすぐだ。そして、そこからなら、メリッサの自宅まで瞬間移動も可能だろう。
 だが、愚かにも私は肝心なことに気づいていなかった。光速移動の衝撃は、せっかく整えた髪型を乱し、女神の加護を受けていない普通の私服も乱す。さらに、忘れ物の学用品までも、ぐちゃりと台無しになってしまうだろう。
 それを、教えてくれたのは長年仕えてくれている老侍従だった。老、と言っても私よりはるかに年下の彼は、私の心の昂りを見抜く慧眼を持っていた。
 上手く隠したつもりの浮かれた心も、全て見透かされていたのだ。

「猊下、光速移動はなりません」

 その声に、私の胸はぐっ、と引き締まった。理性と衝動、慎重さと焦燥がせめぎ合う。
 港町で待つ彼女の顔を思い浮かべるだけで、胸がときめき、けれども――決して荒々しい手段には頼れないことを、私は知っていた。
 私は深呼吸を一度して、覚悟を決めた。光速移動は諦める。慎重に、確実に、彼女のもとへ――。

 教皇宮の扉を静かに開けると、冬の早朝の薄暗さが廊下を満たしていた。外はまだ夜の名残を帯び、宮殿の灯りが淡く揺れている。冷たい空気が肌を刺し、吐く息が白く立ち上る。
 老侍従がすぐ隣を歩き、私の動きを見守る。彼の目は厳しくも温かく、どこか安心させられる。結界外までの道筋を淡々と示しながら、私の緊張を和らげるように静かに言葉を添える。
「猊下、くれぐれも民間人のレベルを超えた行動はお控えください」
 私は頷き、歩を進める。薄暗い廊下の壁にかかる肖像画や調度品を横目に、朝の静けさを胸に刻む。普段なら気にも留めないものも、今は全てが美しく、冬の冷気とともに時間の流れを慈しむように思えた。
 宮殿の前庭に出た時、老侍従が軽く会釈をした。私はその姿に目を向けず、メリッサのもとへ向かう。

 結界の端に近づくにつれ、胸の鼓動は高まる。学用品を抱え、もう起きているはずの彼女の顔を思い浮かべる。あの声を、笑顔を、朝一番に感じられるのだ――。

 結界外へ出たとき、外界の冬の冷気が頬に触れた。加護がない分、結界内よりもより直接的な冷たさに肩をすくめる。光速移動で一気に距離を縮めるわけにはいかない。だが、この薄明かりの静けさの中で歩く時間も、悪くないと思えた。胸の奥が温かく満たされていく。慎重であっても、心は既に急ぎたがっていた。彼女の忘れ物を手渡す瞬間を思うだけで、身体が軽くなる。
 光速移動を諦めたその選択が、きっと正しかったのだと、冬の冷たい朝の空気を胸に吸い込みながら、静かに確信した――。
 
 まだ薄暗い早朝、港町の街路には灯りがかすかに揺れている。瞬間移動を駆使して、文字通り、私は瞬く間にメリッサの自宅前に立った。
 市場も、夏の頃の喧騒はどこへやら、冬の冷気に沈むように静まり返っていた。屋台の看板も人通りも、潮の香りさえ夏よりずっと控えめで、眠った街を見守るかのようだ。
 木製の扉の前で、私は折りたたみの携帯ミラーを取り出す。鏡の中の自分を見て、髪の寝癖や服の乱れを確認する。今朝は、普段なら気にも留めない微かな乱れも許されない。メリッサの前で、恰好良くない私は見せられない。
 冬の冷気で肌が少し赤く染まり、指先がかじかむ。だが、それも朝の空気の一部として心地よく感じられた。前髪や襟足の整え、シャツのしわも軽く直す。細部に手を入れるたびに、胸の奥で静かに高鳴る期待が膨らんでいく。
 鏡を畳み、ポケットに仕舞う。全てが整った。準備は完璧だ。あとは彼女に会うだけ。
 深呼吸を一つ。冷たい空気が肺に満ち、私の心を清める。冬の早朝、街はまだ微睡んでいる。私の足音だけが、静かな世界に小さく響いた。

 ――もう少しで、メリッサに会える。

 呼び鈴を押すと、すぐに扉の向こうで控えめな足音が近づいてくる。冬の朝の静寂に、そっと溶け込むような音。けれど、その柔らかな響きは、心の奥にじんわりと届く。
 鍵が回る音さえも、どうしようもなくドキドキさせられる。
 扉が開くと、そこにいたのは、今朝も変わらずのメリッサ。薄暗い冬の朝に、柔らかな光をまとったように見えた。肩までかかった髪は丁寧にセットされ耳の上を大きめのヘアピンで留めてある。アイボリーのニットが紅く染まる頬を際立たせていた。
 はにかんだ笑顔はやはり愛らしく、胸が熱くなる。
「おはよう、メリッサ」
 小さな声だったが、精一杯の朝の挨拶を届ける。
「シオン様…おはよう…」
 返ってきた声もまた、かすかに震えている。瞳の奥に隠れた緊張が、私には手に取るようにわかった。
 ノートとペンケースを入れた紙袋を差し出す。指先が触れそうで、触れないぎりぎりの距離で。
「これだろ?」
 彼女は一瞬、驚いたように袋を見つめ、それからそっと中身を確認する。
「どうもありがとう…」
 その声に安堵の色が混ざっている。胸の奥で、私もほっと息をつく。肌を刺すように冷たい冬の空気が、二人を包む柔らかな静けさになった気がした。


「大学へは何時に到着すればよいのだ?」
 穏やかな問いかけなのに、シオンの声はどこか胸の奥をそわつかせる響きがある。
「実験の準備もしなきゃいけないから、8時半には着いてたいの。もう出なくちゃ」
 こちらの都合を優先しようとしたのに、言ったそばから胸が締めつけられる。早く行かなきゃいけないのに、行きたくない気持ちが同じくらい強まる。
「いや…まだ大丈夫だ。私が送る」
 迷いのない声音だった。
「え…車なの?」
 思わず現実的な手段を想像してしまう。
「瞬間移動だ」
 その返答と同時に、シオンはするりと室内へ足を踏み入れた。玄関での別れを想定していたメリッサの心臓が跳ねる。
 彼は何の躊躇いもなく後ろ手に扉を閉めた。カチャリと鍵のかかる音が、思いのほか大きく響く。
「シ…シオン様…?」
 呼吸が浅くなる。
 冬の朝の冷気が、たった今すべて遮断されたせいで、部屋の空気がやけに濃く感じられた。
「メリッサ」
 名を呼ばれただけで、胸の奥がぎゅっと縮む。
 その声音には、昨夜よりも深く沈んだ熱が宿っていた。
「昨日の返事を聞かせてくれぬか?」
 言葉の意味を理解するより先に、シオンの影が近づく。狭い玄関。あっという間に背中は壁に触れ、逃げ場がなくなる。彼の両腕が左右に伸び、メリッサを囲い込んだ。触れてはいないのに、体温が伝わってくるような距離。
 部屋の薄暗い朝の光の中で、シオンの瞳だけが真っ直ぐにこちらを射抜いてくる。
「昨日…って…」
 声が震えて、うまく息が吸えない。
 脳裏に蘇る言葉。

 ――私の一方的な気持ちではないと思っているのだが……そなたはどうだ?

 思い出しただけで、心臓が痛いほど跳ねる。顔が熱くて、視界の端まで赤く染まっていく気がする。
 逃げたかった。
 恥ずかしくて。怖くて。
 何より、この“気持ち”を言葉にしてしまえば、もう後戻りできなくなることがわかっていた。
 でも、今はもう逃げ場がない。
 いや、違う。
 逃げ道を塞いでいるのは壁でも、シオンの腕でもなく、自分の心だった。
 昨夜、胸の奥で静かに灯った気持ちが、今、彼に名を呼ばれるだけで鮮やかに形を持ってしまう。
 その熱に、どう返事をすればいいのか。どう言葉にすればいいのか。それがわからなくてメリッサは唇を震わせた。

 返事を待つ沈黙は、シオンにとって冬の朝の空気よりも冷たく感じられた。
 メリッサは俯き、胸の奥で早鐘のように脈打つ鼓動をどうにか抑え込もうとしている。
「……昨日の返事を」
 低く抑えた声が、至近距離で胸に触れるように響く。
「あ、あたしは……」
 視線を上げれば、逃げ道を塞ぐ両腕よりも、彼のまっすぐな瞳の方がずっと残酷で優しかった。
 言葉が喉でほどけるより早く、シオンがさらに半歩、距離を詰めた。
 壁に置かれた片手が拳を結ぶ。
 メリッサの頬に触れるほど近くで、彼の吐息が揺れる。
「メリッサ」
 名を呼ぶ声音は、昨夜よりも柔らかく、しかし逃がさぬ決意を含んでいた。
「そなたが沈黙するほど迷う理由は……私が思うほど、そなたにとって私は特別ではないということか?」
 静かに、けれど痛むほど真剣に。
「違……っ、違うよ……!」
 思わず身を起こしたメリッサの肩に、シオンの指がそっと触れた。
 驚かせぬように、しかし拒ませぬように。
「なら、教えてくれ。私は――そなたを困らせたいわけではない。ただ……」
 言葉を探すように、彼の睫毛が微かに震える。
「ただ、そなたの気持ちを聞かずには、一歩も動けないのだ」
 その一言が、メリッサの胸の奥の何かを静かに揺らした。
 喉がきゅっと鳴った。
 言葉が出ないのは、拒むためではない。胸がいっぱいで、どこから触れていいのか分からないだけだった。
 その沈黙を、シオンは痛みに似た眼差しで受け取ってしまう。
「……そなたを追い詰めるつもりはなかったのだが」
 かすかに眉を寄せ、彼は視線を逸らしそうになってしかし、すぐに戻した。迷いを断つように。
「だが、もう誤魔化したくない。私の気持ちを告げた以上、そなたの言葉を聞かねば……私は、前へ進めぬ」
 メリッサは胸元をぎゅっと握った。逃げたいのではない。ただ、苦しかった。彼がこんな表情をして、自分の答えを待っているのがたまらなく苦しかった。
「シオン様……」
 やっとの思いで名を呼ぶと、彼の瞳が揺れもせずまっすぐに向けられた。

 息が触れ合うほど近い。
 逃げようとすれば、シオンの腕が壁となり、視界いっぱいに彼しか映らない。
「あたしは――」
 勇気を集めて声を発した、その瞬間。
 シオンがもう一度、もう一歩、踏み込んだ。
 メリッサの額に、彼の前髪がふれる。
「そなたの心が、私を拒んでいないのなら……それだけで十分だ」
 囁くような声音が、メリッサの耳を震わせる。
「言葉にならぬなら、無理に言わずともよい。表情だけで、十分に伝わっている」
 そう言うシオンの顔は、どこまでも誠実で、どこまでも優しかった。
 逃げられないのではなく、逃げる理由がどこにもなくなっていく。
 メリッサはそっと、視線を上げた。
 自分でも気づかぬほどに潤んだ瞳で、彼の名をもう一度呼ぶ。
「……シオン様」
 メリッサが名を呼んだ瞬間、シオンの瞳が微かに揺れた。ほんの僅かに。だが、彼ほどの男が隠しきれないほどの揺らぎだった。
 それは期待であり、恐れであり、何よりも強い願いだった。
「……あのね、シオン様」
 胸の奥からこぼれるように、メリッサは言った。
「あたし……昨日、逃げたのは……」
 唇が震え、少しだけ目が伏せられる。
「怖かったの……嬉しすぎて、どうして良いか分からなくて…」
 シオンは息を呑んだ。
 その反応だけで、胸の内の何かが大きく波打ったのがわかる。
「でもね……」
 メリッサは顔を上げた。
 壁に追い込まれ、逃げられないはずなのに――その瞳には、もう逃げる気配など微塵もない。
「今度は……逃げたくない。ちゃんと、シオン様を見たいの」
 たったそれだけの言葉で、シオンの喉元がかすかに震えた。菫色の瞳が優しく細められる。
「……メリッサ」
 呼び慣れた名が、いつも以上に深く愛おしい響きを持つ。
 シオンは、壁に置いた手の力をほんの少しだけ緩めた。すると、二人の距離は近くなる。
「そなたが恐れを隠さずに言ってくれたこと……それが、何よりも嬉しい」
 低く落とされた声が、早朝の静けさに溶けていく。
「私はそなたを困らせたいのではない。ただ……」
 彼の額がメリッサの額へそっと触れた。
 それは口づけよりもずっと慎ましく、しかし心を深く揺さぶる仕草。
「……ただ、愛している」
 メリッサの瞼がわずかに震えた。視界がふっと滲む。震える指先が、シオンの胸元をそっとつまむ。掴むというより、触れただけの、あまりに小さく繊細な動きだった。
「……あたしも……シオン様が好き」
 その瞬間、シオンの世界が音もなく変わった。
 彼はゆっくりと腕を下ろし、逃げ場を塞いでいた壁の両手のうち片方を外し――
 その代わりにメリッサの頬に触れた。
 暖かい掌。触れ方は驚くほど慎重で、けれど確かに求めている。
「……ようやく、聞けた」
 囁きは、安堵と喜びの入り混じった深い息とともにこぼれた。
 シオンの指が、頬に触れたまま動かない。その温もりに包まれながら、メリッサはようやく気づく。

 ――この距離を、あたしはずっと怖がっていたのだ。

 あの日。
 冥闘士として聖域に攻め込んだとき、シオンは自らの命を差し出す対価として口付けを求めた。
 それは儀式のようで、断罪のようで、救いに似ていて。どんな感情を抱けばいいのかもわからないまま、その場は過ぎていった。
 けれど今日――。
 胸の奥からせり上がってくる、震えるほどの温度。
 それが、今の自分の答えだった。
「……シオン様」
 名を呼ぶだけで、シオンの目が深く揺れる。
 彼もまた、同じ記憶を抱えているのだとわかる。
「そなたが……私をそう呼ぶと、心が乱れる」
 囁きは掠れていた。
 普段は絶対に崩れない彼の声音が、はっきり認識できるほど震えている。急いで支度をしなければいけない時間のはずなのに、部屋の空気がゆっくりと沈み、動き出す。
 シオンが、そっとメリッサの顎を指先で上向かせた。その触れ方は、乱暴なものとはほど遠い。祈るように、願うように、そして恐れるように――丁寧だった。
「これは……あの日の、続きではない」
 彼が静かに告げる。
「そなたの“初めて”を奪った記憶を、私は持っていない」
 その一言が、胸に刺さる。
 優しさであり、赦しであり、そして痛いほどの誠実さ。
「今日のこれは……」
 シオンの額が再び彼女の額に触れた。その距離で、彼は息を整えるように短く息を吸う。
「互いが望んだうえでの……初めてだ」
 メリッサの心臓が跳ねた。こぼれそうな息を飲み込み、彼の衣の胸元をそっと握る。
「……うん」
 その小さな肯定だけで、シオンの眼差しが深いところで柔らかくほどける。
 そして――。
 シオンは、触れるだけの軽い動作で、メリッサの唇に自分の唇を重ねた。
 それは驚くほど優しく、触れた瞬間にふっと涙が滲むほどに温かかった。音もなく、静かに、慎ましく。なのに胸の奥を深く揺らす。

 ――あの日の口付けとは、何もかもが違っていた。

 奪われたものでも、差し出したものでもなく、ただ二人の呼吸が触れ合うために存在する、そんな口付け。
 メリッサの指が、無意識のうちにシオンの胸元から上へ滑り、彼の衣の縁を恐る恐る掴む。
 シオンもまた、彼女の頬に添えた手を滑らせ、後ろ髪をそっと指に絡めて引き寄せる。
 だが、すぐには深めなかった。
 単に唇を押し付けるのではなく、触れたまま静かに待つ。まるで、彼女が受け入れてくれる温度を確かめるように。
 やがて――メリッサは、ほんのすこしだけ首を伸ばして、触れた唇に自ら押し付けた。
 その小さな応えに、シオンの指先が震えた。
 ようやく、彼の唇が少しだけ動く。
 触れる強さが増し、けれど決して求めすぎない。
 呼吸さえ忘れそうなほどの静けさの中で、二人の初めての口づけが徐々に深まっていく。

 唇が離れると、シオンがゆっくりと目を開けた。
 深く長い夜を抜けたような、静かな光が宿っていた。
「……これが、私の望んだ“初めて”だ」
 メリッサは呼吸を整えながら、小さく笑った。
「あたしも……これがいい」
 シオンの指先が、彼女の頬を親指でそっと撫でる。
 その仕草が、言葉よりもずっと雄弁だった。
 掌が頬に触れる。
 そのわずかな温もりが、メリッサの心臓の鼓動をさらに早める。けれど、不思議と怖くはなかった。
 胸の奥を密やかに満たす安心が、彼の手のひらを通して形を持った気がした。
 互いの呼吸がふっと触れあう距離で、シオンは小さく囁いた。
「恋人になってほしい……大切にする。そなたがどれほど私を信じてくれたか……決して忘れぬから」
 メリッサの胸が熱で満ちる。
 言葉が出ない。
 ただ、見つめ返すことだけが今の自分にできる全てだった。
 シオンはその眼差しをしっかりと受け止めると、そっと額にもう一度軽く唇を触れさせた。
「行こう。そなたを大学へ送る」
 その声には、まだ少し震えが残っていた。
 初めて触れた唇の余韻が、二人の間に静かに溶けていった。
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