Eine Kleine Ⅱ

 ハーデスは、己の右手の指先に爪を立て、静かに血を滲ませた。その血は黒く、まるで夜そのものが液体となって滴るようだった。
 「――神の契約においては、血と意志、そして真名が不可欠」
 低く響く声とともに、彼は空中に向かって指を動かし始める。その軌跡に沿って、黒い光が文字を象り、空間に浮かび上がっていく。それはこの世界の言語ではなく、神々の時代にのみ通用した“根源の文字”――読む者を選び、理解すら魂に刻まれるほどの重みを持つ記号であった。

 一文字、また一文字。
 「誓約」「不可侵」「保護」「血縁」「正義」――概念そのものが、具現化するように連なってゆく。
 ハーデスが最後の一筆を描き終えた瞬間、その文字たちは一斉に震え、上空へと昇り始めた。空に現れた巨大な魔法陣――神性の印が浮かび、聖域全体を包み込むように回転し始める。
 ヘスティアは静かにその場に立ち、右手を胸元に添えると、白金の小刀を取り出した。
 それはかつてオリンポスの神々が、盟約を交わす際にのみ用いた聖なる刃。
 「私もまた、この誓いに血を捧げましょう」
 彼女はその刃で、自らの掌を切り、赤き血を垂らした。
 ハーデスの漆黒と、ヘスティアの紅――相対する神の血が、一つの杯に受けられる。それは、何もない空間から突如現れた黄金の祭器であった。その縁には、天地創造の文様が刻まれている。
 ヘスティアが杯を手に取り、ハーデスの方へ差し出す。
 二人の視線が、静かに交わる。
 「この血をもって、我らは誓う」
 「互いの世界を侵さず、無用な戦を起こさず、定められし者たちの未来を保証することを」
 二人が同時にその血を一滴口に含むと、空に浮かぶ魔法陣が白と黒に分かれ、
 その円の中央に一筋の光――“誓いの帯”が走る。

 天地が共鳴した。
 雲が割れ、雷鳴が轟き、大地が低く唸った。
 契約は成立したのだ。

 それはもう、誰にも破ることはできない。たとえ神であっても――否、神だからこそ破ってはならぬ、永遠の誓い。

 光はやがて収まり、天空に浮かんでいた神性の印はゆっくりと聖域の空へ溶け込んでいった。
 沈黙の中、ヘスティアは息を吐き目を閉じる。
 「……これで、全てが鎮まることを願いましょう。弟よ」
 ハーデスは深く頭を下げた。
 「姉上の御心のままに」
 契約の光が天へと還ったあと、場にはしばしの沈黙が降りた。聖域を包んでいた威圧的な空気が、ほんの少しだけ和らいだようだった。

 ハーデスは静かに立ち上がると、再びヘスティアに向き直る。深く頭を垂れたまま、緩やかに口を開いた。
 「……姉上。今一度、深くお詫び申し上げます。我が配下が、あなた様と、地上の秩序にここまでの不敬を働いたこと。全ては私の監督不行き届きの罪」
 「その言葉に偽りはないと信じています、ハーデス」
 ヘスティアは静かに応じた。
 風がその長い黒髪を揺らし、白金の鎧が陽光を受けて微かに光を放つ。
 「けれど、あなたが『気づいていなかった』というのは、私にとって免罪符にはなりません。神である以上、自らの“無関心”が引き起こす影響を、あなたはもっと重く受け止めるべきです」
 ハーデスは視線を伏せ、深く頷いた。
 「……そうでしょう。私は冥府という閉ざされた領域に甘んじ、地上への関心を失いすぎていた。ミーノスたちは、その隙を突いたに過ぎぬ……私の怠慢です」
 「それに――」
 ヘスティアは一歩、弟に近づいた。
 「あなたは知らないままでいてはいけない。この地上に何が芽吹きつつあるのかを」
 ハーデスの赤い瞳が、かすかに揺れた。
 「……芽吹き?」
 「ええ。ほんの小さな、しかし確かな希望の芽です。あなたたちが、ことごとく切り落とそうとするもの。でも私は、それを守るためにここにいるのです」
 言葉には確かな決意が込められていたが、どこか柔らかな響きもあった。
 「……それが、“あの少女”なのですね」
 ハーデスは呟いた。
 「そう。彼女と、彼女を守ろうとした青年。彼らがあなたの軍勢を止めたのよ。神々の契約が結ばれるよりも前に」
 ハーデスはしばらく黙っていたが、やがて小さく苦笑を浮かべた。
 「……皮肉ですね。人の子が、神々の間に盾を築いたとは。私が、最も過小評価していた存在が」
 「だからこそ、私は二つ目の要求として“彼らの保護”を条件にしました。彼らを傷つけることは、即ちこの契約への違反。あなたの名にかけて、二度と繰り返させないようにしてください」
 「……姉上は、変わりませんね」
 ハーデスは顔を上げ、僅かに目を細めた。
 「かつてオリンポスにあって、唯一、人々の火を絶やさぬことを願った。今も同じように、火を灯そうとされている。……決して、消させはしないと」
 「そうよ」
 ヘスティアは静かに微笑んだ。
 「火は消えれば、もう戻らない。だから私は、灯し続けるのです。誰かの心に、小さな希望の火が残る限り」
 沈黙が、再び二柱の間に訪れた。しかし、それは先ほどまでの緊張とは異なる、柔らかな沈黙だった。
 「……私は冥府へ戻ります。契約は履行しましょう。二度と同じ過ちは繰り返さぬよう、配下には厳しく命じます」
 「ええ。忘れないで、ハーデス。あなたの誓いは、あなた自身の存在を縛ることにもなります」
 ハーデスは静かに空を見上げた。そこには、闇に隠れていたはずの薄明が、雲の切れ間から差し込んでいた。
 「……ならば、束の間でも、この光が照らす未来に――意味があると信じたいものです」
 黒のマントが風に揺れ、ハーデスの姿は闇の裂け目とともに消えていった。彼の配下全員を引き連れて。
 残されたヘスティアは、彼の去った空を見上げ、小さく呟いた。
 「……そう。信じて見守って。それが、姉としての私の願いよ、ハーデス」

 ハーデスの姿が闇の中へと溶けて消え去ると、空を覆っていた厚い暗雲が徐々に引きはじめ、聖域の上空に再び陽光が現れた。まるで、息を呑んでいた大地そのものが、ようやく静かに息を吐いたかのようだった。
 メリッサはその場に膝をついたまま、呆然と空を見上げていた。目の奥に焼き付いたのは、恐怖でも憎悪でもない――崇高さだった。
 「……あれが……神々……」
 震える声でそう呟いたメリッサの傍らで、レオンは静かに手を差し伸べた。彼の瞳はまだ揺れていたが、そこには一つの決意の光が宿っていた。
 「立てる?メリッサ」
 「……うん」
 掴んだその手の温かさに、ようやく自分が生きているのだと実感が返ってくる。立ち上がると、二人は遠くに佇むヘスティアの背中を見つめた。あれほどの力と威厳を持ちながら、それでもあの女神は――誰かの心に灯る“希望”のために剣を抜いたのだ。
 「……あたしたちなんかが、あの方に守られたの?」
 メリッサの呟きに、レオンはゆっくりと頷いた。
 「違うよ。『なんか』じゃない。――あの方は、“人間”を信じたんだ。君と、僕を」
 レオンの言葉に、メリッサは息を呑む。
 そう、ヘスティアは語った。
 “希望の芽吹きがある”と。
 あの言葉が、メリッサの胸に希望を灯す。
 「……それでもあたし、まだ怖いよ。だって……あたしは……」
 「怖くていいんだよ、きっと」
 レオンは静かに言った。
 「怖いからこそ、進めることもある。――君がこの世界に必要だって、誰かが信じてる。それなら僕は、その信じた人のためにも……君の隣に立ちたい」
 メリッサは、レオンの瞳を見つめ返す。紫の瞳の奥に、あの人の面影が揺れている。でも今、その瞳の中には“レオン”としての確かな意思があった。彼自身の意志で、傍にいようとしてくれているのだと。
 「……ありがとう、レオンくん」
 小さな声で、それでも確かな気持ちを込めてメリッサは答えた。空には、先ほどまでの闇を裂いた陽光が残っている。あたたかな、その光の下で――二人の影が、そっと並んでいた。

 風が止んだ。

 空を覆っていた雲は晴れ渡り、午後の陽光が再び聖域を淡く照らす。焦げた岩肌と血に染まった石畳が、幻だったかのように静まり返っていた。その中を、一人の男が歩み出てくる。
 教皇の聖衣を纏った前牡羊座の黄金聖闘士――シオン。
 白金に輝く聖衣に深い傷が刻まれ、流れた血で紅く染まっている。肩も、脇腹も、額も、頬も、唇の端さえ切れていて見るも痛ましい姿だった。

 それでも――

 その姿は、まるで神々の戦に立ち向かった聖戦の戦士そのものだった。
 神々しさすら漂わせる、凛然たる佇まい。
 だが、彼の瞳が真っ直ぐに向けられたのは――ただ一人。
 「……メリッサ」
 その名前を呼ばれた瞬間、メリッサは身体が震えた。見てはいけないものを見てしまったような、熱に浮かされたような気持ち。鼓動がうるさくて、顔を上げられなかった。
 「シオン様……ごめんなさい……」
 ようやく絞り出した声は、掠れていた。
 「……構わぬ。そなたが無事でいてくれたなら、それだけで良い」
 その声が、優しかった。いつものような威厳も、指揮官として厳格さもない。
 メリッサ一人を想って絞り出された、ただの一人の男の、安堵と愛情に満ちた声。
 「私にとって、そなたを失うより恐ろしいことなどない……」
 血の滲む手が、そっとメリッサの頬に触れる。
 「良かった……本当に……良かった……」
 その一言が、胸の奥に残っていた最後の堰を決壊させた。
 「シオン……さまっ……ふ、うぁあ……っ」
 メリッサは堪えきれずにシオンの胸に飛び込んだ。
 彼の胸甲に額をぶつけたまま、子どものようにわんわんと泣きじゃくる。
 「怖かった……怖くて……冥界に……連れて行かれたら…シオン様に会えなくなっちゃうって……」
 「もう……もう二度と離さぬ……誰にもそなたを渡さぬ……」
 シオンの腕が、静かに、でも強く彼女の背を抱きしめる。痛むはずの腕で、傷ついたままの身体で、守るように。それはあまりにも甘やかで、あまりにも愛しくて、あまりにも切実だった。
 レオンは、少しだけ視線を逸らした。そうすることで、なぜか胸が少し楽になる気がした。

 ――良かったね、メリッサ…

 だけど、自分の心に生まれた想いまで否定することはできなかった。だからこそ、レオンは静かにその場を離れる。
 彼女の隣に立つ資格を、いつか自分も得られるだろうか――
 その答えを求めるように、誰にも気づかれず背を向けた。

 シオンとメリッサは、互いの鼓動だけを頼りに、しばし沈黙の中で寄り添っていた。まだ言葉にはできない思いが、空気に溶けるように満ちていた。
「……ごほん」
 澄んだ咳払いの音が、静寂を裂いた。
 「……あ〜、お二人さん?」
 その声にメリッサとシオンが同時にピクリと肩を震わせた。
 「お楽しみのところ悪いんだけど――少し、良いかしら?」
 振り向けば、そこには白金の神聖衣を身に纏ったヘスティアが苦笑いを浮かべている。
 淡く光る黒の髪を風に遊ばせ、腰に手を当てた姿勢には、女神としての威厳と人間味ある軽やかさが同居していた。
 メリッサは目を見開き、シオンは咄嗟に表情を引き締めると、互いにそっと身を離した。
 頬が、耳が、目に見えて赤い。
 「えっと……す、すみません……っ」
 メリッサが小さく縮こまる。
 「……申し訳ありません、ヘスティア様」
 シオンは深く頭を下げたが、その声はどこか照れたようでもあった。
 「ふふ、いいわよ。人間らしくて、ちょっと安心したわ」
 ヘスティアは柔らかく微笑むと、二人の間に歩み寄る。
 「シオン。よく守ってくれたわね。あなたの戦いぶりは、見ていて胸が熱くなったわ」
 「勿体なきお言葉です」
 「メリッサも、よく耐えましたね。恐怖の中でも、自分を見失わなかった。その勇気と意思を、私は誇りに思います」
 メリッサは、褒められることに慣れていない様子で小さく頭を下げ、視線を逸らす。だが、その頬は少し誇らしげに色づいていた。

 そして――

 「レオン・カヴァリエ」
 名前を呼ばれた瞬間、レオンの姿勢が自然と正された。
 それは命令でも威圧でもなく、ただ“神に名を呼ばれる”という圧倒的な出来事だった。その場に存在するだけで空気を支配する、白金の女神の視線が、自分一人に向けられている。
 「あなたの働きに、心から感謝します」
 レオンの胸が、どくりと高鳴る。
 畏れと誇り、混ざり合った感情が彼の身体を突き動かした。
 「光栄……に、ございます……」
 ようやく絞り出せたのは、それだけだった。
 ヘスティアはゆっくりと彼に歩み寄ると、そっと右手を掲げた。女神の指先が淡く光を帯びる。次の瞬間、レオンの身体を温かな波が包み込んだ。
 「無理をしていましたね。肋骨にひびが入っています。もう大丈夫ですよ」
 その言葉と同時に、痛みが――まるで初めから存在しなかったかのように消えた。骨の軋む感覚も、呼吸のたびに走る鈍痛も、全てが穏やかな温もりに溶けていく。
 「……っ、これは……」
 レオンが驚きに目を見開くと、ヘスティアは微笑んだ。
 「癒やしとは、火と同じです。誰かを焦がすこともあれば、照らし、温めることもできる。あなたは後者の光を選んだ。だから、私がその勇気に応えましょう」
 その言葉に、レオンは何も言えず、ただ深く頭を垂れた。
 メリッサが静かに口元を押さえ、涙をこぼした。彼の勇気と優しさを、女神が見ていたことが嬉しかったのだ。
 女神は静かに頷くと、三人を見回し、淡く告げる。
 「あなたたちに、話があります。二時間後、謁見の間へおいでなさい」
 それだけ言い残し、女神は背を向けた。
 白金の聖衣が光を撥ね返し、まるで夜明けの光そのもののように美しく輝く。その背中が視界から消えるまで、誰も声を発する者はいなかった。
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