Eine Kleine Ⅱ
光と闇が入り乱れる戦場のただ中で、ミーノスの目が、ふいに細められた。
小さく吐き捨てるように呟く。
「……鬱陶しい虫けらが……」
その目線の先――レオン。彼が再びメリッサの前に立ち、傷ついた彼女を庇おうとしている。
シオンの注意が一瞬、そちらに逸れた。
その瞬間、空間が歪んだ。
「死ね、小僧ッ!」
ミーノスの姿が、黒い疾風のようにレオンへと襲いかかる。
轟音が辺り一帯に響き渡った。
漆黒の波動が光の壁面を叩き割り、砕け散った結晶の破片が鋭い光を放ちながら宙を舞う。
防御が破られた一瞬の隙に、ミーノスの影が再び動いた。
だが。
「やめて!!」
割って入ったのは、メリッサだった。満身創痍の身体で、彼女はレオンの前に立つ。その胸元から、蒼白い小宇宙が奔る。
メリッサの掌に広がったのは、小宇宙の盾。
しかし。
「無駄だッ!」
ミーノスの拳が、容赦なくその盾を砕く。闇が閃き、風が吹き荒れる。
冥衣を纏っていてもなお小柄な身体が、空中を舞った。
「メリッサ!!」
助けに駆け出そうとしたシオンの身体にミーノスの繰り出したコズミック・マリオネーションの糸が絡みつき動きを制する。
「…くっ!」
メリッサの華奢な肢体が、あわや地面に叩きつけられる寸前。
レオンがその身体を抱き留める。
骨が折れる鈍い音がした。
「痛ってぇ……!」
呻き声に血が滲む。
「レオンくん!!いやぁーーっ!!」
メリッサの悲鳴と涙が散る。怒りが込められた蜂蜜色の瞳がミーノスを睨みつけ、絶叫する。
「レオンくんは関係ない!あんたなんか大っ嫌い!!どっか行っちゃえ!!」
その瞬間、空気が裂けた。ミーノスの足元から黒い衝撃波が走り、砕けた石片が宙に舞う。
震える肩、剥き出しの殺気。紫紺の瞳が灼けるように光を放つ。
「メリッサ……一度ならず二度まで……またも、私を裏切るのですね……!」
ミーノスの声が、怒りに震える。
「ならば――お前も砕け散れッーー!!」
黒羽が広がる。幾度目かの、ギガンティックフェザースフラップ。
避けられない。もはや、誰にも止められない。
そのときだった。
「やめろォォッーー!!」
声が、世界を裂いた。
叫びが、闇を切り裂いた。
それは、レオンだった。
目に見えぬ力が、彼の全身を駆け巡る。まるで何かに貫かれたような感覚。目を見開いた彼の体から、瞬間、閃光が奔った。
――爆ぜたのは、彼の“意志”そのものだった。
それは、誰に教えられたものでもなかった。誰の模倣でもなかった。ただ、メリッサを守りたいという、純粋な思い。
その願いが、小宇宙を覚醒させた。
光の壁が再び生まれる。ミーノスの技を、完全に遮断する聖なる防壁。
メリッサとレオンを囲うように、それは静かに、そして確かに、顕現していた。
「……な、に……?」
ミーノスが目を細める。その技法、その構築。その形。
「まさか……小僧…その血筋……」
風が吹いた。
空気が震えた。
次の瞬間、彼らの頭上に白銀の光が現れた。
光の中に浮かぶのは、一体の聖衣。
それは、それは、神殿の柱と円環を思わせる神聖な造形を持つ――祭壇座の聖衣。
まるでレオンを待っていたかのように、それはゆっくりと、彼の元へと降りてきた。
天が震え大地が鳴った。
まるで天と地の結界そのものが共鳴するかのように。
聖衣が青年の胸元に触れた瞬間、聖域全土に眩いい光が走り抜け、聖なる防壁が一層強靭に編み直されていく。
その輝きは、遥か地底の彼方の闇に潜む者たちへ明確な警鐘を放っていた。
ミーノスの表情が、怒りと焦りに歪む。
「馬鹿な……!祭壇座が目覚めただと!?」
この瞬間、聖域の防衛力が跳ね上がる。
空間を切り裂くように黒い波動が渦を巻く。
「破壊します!」
怒声とともに、ミーノスが再び攻撃の構えを取った――そのとき。
風が、止んだ。
空気が、静かに震え、光が全ての影を呑み込んでいく。
大地の奥底から、響くような鈴音が聞こえた。
それは清らかで、しかし圧倒的な威を帯びた音。
天より降り立ったのは、白き炎を纏う女神――ヘスティア。
その足が地を踏むと同時に、暴れ狂っていた闇の波動が霧散した。
光が世界の均衡を取り戻す。
「――ここまでです、ミーノス」
その声は穏やかでありながら、抗う余地を一切許さぬ威厳を孕んでいた。
燃えるような白炎が女神の周囲を巡り、聖域の空に新たな秩序の印を刻んでいく。
彼女の瞳は燃えていた。
冷酷なほど沈着でありながら、灼けつくような意思を湛えた神の瞳。
踏み出す一歩ごとに、その足元から黄金の環が放射状に広がっていく。
地が震えるのではない。世界が、彼女の存在を前にして膝を屈しているのだ。
「……あなたはやり過ぎです」
声は清澄にして冷厳。
だが、その声は重く沈み空気を震わせた。
女神を取り巻く白炎は虹色の輝きへ変化していく。
「姉神……様……?」
ミーノスの肩がわずかに引き攣る。冥界三巨頭として君臨する彼ですら、その言葉には逆らえない。
「私は、あなたに少なからず恩があります。ですから……私への少々の悪戯であれば、目を瞑る心算でした」
白金のレイピアが、その手に閃いた。冷たい銀光を纏い、刃先はまっすぐにミーノスを指し示す。
「――けれど、三たびの狼藉。聖域の主神であるこの私の目前で、それをやり過ごせると本気で思っているのですか?」
その響きは、神の裁きを下す最後通牒に他ならなかった。
ミーノスの顔が歪む。怒気と焦り、そして焦燥。
「ならば……ならば、完全に協約は破棄されたも同然!これよりは、我ら冥界の同胞が、全面進軍を開始する!」
「やむを得ません」
ヘスティアの声に、迷いはなかった。
「では……まず、姉神様。あなたから――葬り去りましょうッ!」
ミーノスが叫び、怒涛の如く攻撃を繰り出す。黒い羽が旋回し、深淵の小宇宙が波状となって襲いかかる。空間ごと抉るそれは、幾度も神を討たんとした死の風。
だが。
その全てを――ヘスティアは受け流した。
まるで優雅に舞うように。あるいは、軽く手を払うだけで、髪一本すら乱すことなく、彼女はミーノスの全ての技を無効化していく。
「……ば、ばかな……!」
ミーノスの表情から、みるみるうちに血の気が引いていく。
信じられない。
これほどの力――これが本当の地上の神の力なのだ。
「私を……誰だと思っているのですか?」
ヘスティアは、微動だにせず告げた。
女神の声は、大地の奥底へと沈み、空の高みにも届くように響いた。
それは、宣告だった。
女神の怒りは、既に引き返せぬ域に達していた。
圧倒的な力を誇るヘスティアを前にしても、ミーノスはなおもその衝動を抑えることができなかった。
唇を噛みしめ、歯を食いしばる。怒りと憎しみに燃えた瞳は、もう何も怖れず、前進しようとする。
だが、その刹那。
――静寂が訪れた。
周囲の全てが一瞬で凍りつく。風も、音も、時間さえも止まったかのような、息を呑むような静けさ。そして、圧倒的な威圧感を孕んだ声が響く。
「止めよ」
それは、静かで、低く、冷徹でありながら、同時に、存在そのものが世界を支配するような圧倒的な力を帯びていた。声は、空気を裂き、皮膚を切り裂くように、直接脳に響き渡る。その声が発せられた瞬間、ミーノスの体はまるで重力に押し潰されたように、乾いた大地に膝をついた。
「ハ、ハーデス様……」
震える声で、ミーノスが呟く。その言葉が絞り出されるように零れ落ちた。
聖域の空が再び闇に覆われる。
淡い陽光は消え、世界を覆う闇はどこまでも深く、重く、その圧力は身体を押し潰すようだった。そして、闇の中から、黒い稲妻が大地を穿つ。まるで空が裂け、神の力が直に地に落ちるように衝撃が走る。その瞬間、全ての存在がその恐怖を肌で感じ取った。
闇の中に現れたその姿――
身に纏った黒の冥衣が光を吸い込むように、深淵から現れたその存在は、まさに死を司る神。
ハーデス――冥界の主神、その降臨。
彼の立ち姿、その威厳、そして冷徹な眼差しに、誰もが一歩も動けなくなった。
「ここからは私が仕切る」
ハーデスの冷たい声が、全てを凍らせた。
その言葉一つで、聖域の全ての小宇宙が震えた。
彼の眼差しは、ヘスティア、そしてシオンのもとを通り過ぎ、最後にミーノスへと向けられる。その視線は死者を裁く者のそれであり、言葉を必要としない非情な命令そのものであった。
「ミーノス。余に無断で兵を動かし度々聖域を襲撃。あまつさえ、我が姉上にまで拳を向けるとは…お前の行動、目に余る」
「は…も、申し訳…ありません…」
ミーノスは震える声を絞り出すのが精一杯だ。
ハーデスはゆっくりと姉神ヘスティアの前へ進み出ると、そこへ膝を折り頭を下げた。
「姉上、此度は私の配下の者たちが大変な無礼を働きましたこと、このハーデス、心よりお詫び申し上げます」
「…どういうこと?」
ヘスティアの瞳が訝しげに細められる。
「二度に渡る聖域襲撃、ならびに、今回の天立星への暴力は、私の意思とは無関係のところで行われました。しかし、冥闘士の罪は主神である私の罪。どうぞ、何なりと罰をお与えください」
ハーデスの膝を折る姿に、辺りは息を呑んだ。
死を司る主神が、地上に膝をつく――それは、天地の均衡すら揺るがす象徴的な所作だった。
誰もが言葉を失い、ヘスティアもまた一瞬、目を伏せた。
しかし、次にその瞳に宿ったのは、神々の頂に立つ存在としての覚悟と責務。
「では、私からの要求は二つ!」
その声音は、雷鳴の如く天地に轟き、全ての者の背筋を正させた。
ヘスティアが右手を掲げると、金の指輪が光を放った。
「第一に――冥界による、いかなる形での聖域への干渉も、今後一切禁ずること。配下の独断によるものだったとしても、私たちはもうそれを看過しません。聖域は、今、再建の途上にあります。再び混乱に陥れば、守るべきものを守れなくなる。それは、地上の安寧を司る神の責務として、断じて容認できることではありません」
空気が震えた。ハーデスの漆黒の髪が静かに揺れる。
「……承知しました」
彼の声は低く、だが明確だった。
ヘスティアは一度頷き、次に歩を進め、ハーデスを見下ろす位置に立つ。
「第二に――」
言葉を切り、ヘスティアの瞳が一瞬、メリッサとレオンを見やった。
「……今回、冥界が地上に遺した混乱の種、その影響を最も強く受けた者たちがいます。私はその者たちが、今後、正当に生きられる未来を求めます。そのための“保証”を、あなたから得たいのです。彼らの安全、そして存在を脅かさぬという、冥界主神としての誓約を」
風が止み、空が静まる。
重い沈黙の中で、ハーデスはやがて顔を上げ、立ち上がる。
「……それは、血の契約を意味しますか?」
「然り。神と神の間に交わされる、最も古く、最も破れぬ約定。あなたがそれを拒むというのなら――ここで、あなたを討つ覚悟もあります」
剣を抜かずとも、ヘスティアの気迫が剣よりも鋭く冴え渡る。その威厳に、ミーノスは再び地に額を伏せ、震える。
ハーデスは一瞬、静かに瞳を閉じ、そして再び開いたときには、神としての凛とした冷静さが戻っていた。
「良いでしょう。冥界主神ハーデスは、女神ヘスティアとの間に、二つの誓約をここに交わします」
そうして、ハーデスは指先に己の血を滲ませ、空中に神聖文字を描き始めた――
小さく吐き捨てるように呟く。
「……鬱陶しい虫けらが……」
その目線の先――レオン。彼が再びメリッサの前に立ち、傷ついた彼女を庇おうとしている。
シオンの注意が一瞬、そちらに逸れた。
その瞬間、空間が歪んだ。
「死ね、小僧ッ!」
ミーノスの姿が、黒い疾風のようにレオンへと襲いかかる。
轟音が辺り一帯に響き渡った。
漆黒の波動が光の壁面を叩き割り、砕け散った結晶の破片が鋭い光を放ちながら宙を舞う。
防御が破られた一瞬の隙に、ミーノスの影が再び動いた。
だが。
「やめて!!」
割って入ったのは、メリッサだった。満身創痍の身体で、彼女はレオンの前に立つ。その胸元から、蒼白い小宇宙が奔る。
メリッサの掌に広がったのは、小宇宙の盾。
しかし。
「無駄だッ!」
ミーノスの拳が、容赦なくその盾を砕く。闇が閃き、風が吹き荒れる。
冥衣を纏っていてもなお小柄な身体が、空中を舞った。
「メリッサ!!」
助けに駆け出そうとしたシオンの身体にミーノスの繰り出したコズミック・マリオネーションの糸が絡みつき動きを制する。
「…くっ!」
メリッサの華奢な肢体が、あわや地面に叩きつけられる寸前。
レオンがその身体を抱き留める。
骨が折れる鈍い音がした。
「痛ってぇ……!」
呻き声に血が滲む。
「レオンくん!!いやぁーーっ!!」
メリッサの悲鳴と涙が散る。怒りが込められた蜂蜜色の瞳がミーノスを睨みつけ、絶叫する。
「レオンくんは関係ない!あんたなんか大っ嫌い!!どっか行っちゃえ!!」
その瞬間、空気が裂けた。ミーノスの足元から黒い衝撃波が走り、砕けた石片が宙に舞う。
震える肩、剥き出しの殺気。紫紺の瞳が灼けるように光を放つ。
「メリッサ……一度ならず二度まで……またも、私を裏切るのですね……!」
ミーノスの声が、怒りに震える。
「ならば――お前も砕け散れッーー!!」
黒羽が広がる。幾度目かの、ギガンティックフェザースフラップ。
避けられない。もはや、誰にも止められない。
そのときだった。
「やめろォォッーー!!」
声が、世界を裂いた。
叫びが、闇を切り裂いた。
それは、レオンだった。
目に見えぬ力が、彼の全身を駆け巡る。まるで何かに貫かれたような感覚。目を見開いた彼の体から、瞬間、閃光が奔った。
――爆ぜたのは、彼の“意志”そのものだった。
それは、誰に教えられたものでもなかった。誰の模倣でもなかった。ただ、メリッサを守りたいという、純粋な思い。
その願いが、小宇宙を覚醒させた。
光の壁が再び生まれる。ミーノスの技を、完全に遮断する聖なる防壁。
メリッサとレオンを囲うように、それは静かに、そして確かに、顕現していた。
「……な、に……?」
ミーノスが目を細める。その技法、その構築。その形。
「まさか……小僧…その血筋……」
風が吹いた。
空気が震えた。
次の瞬間、彼らの頭上に白銀の光が現れた。
光の中に浮かぶのは、一体の聖衣。
それは、それは、神殿の柱と円環を思わせる神聖な造形を持つ――祭壇座の聖衣。
まるでレオンを待っていたかのように、それはゆっくりと、彼の元へと降りてきた。
天が震え大地が鳴った。
まるで天と地の結界そのものが共鳴するかのように。
聖衣が青年の胸元に触れた瞬間、聖域全土に眩いい光が走り抜け、聖なる防壁が一層強靭に編み直されていく。
その輝きは、遥か地底の彼方の闇に潜む者たちへ明確な警鐘を放っていた。
ミーノスの表情が、怒りと焦りに歪む。
「馬鹿な……!祭壇座が目覚めただと!?」
この瞬間、聖域の防衛力が跳ね上がる。
空間を切り裂くように黒い波動が渦を巻く。
「破壊します!」
怒声とともに、ミーノスが再び攻撃の構えを取った――そのとき。
風が、止んだ。
空気が、静かに震え、光が全ての影を呑み込んでいく。
大地の奥底から、響くような鈴音が聞こえた。
それは清らかで、しかし圧倒的な威を帯びた音。
天より降り立ったのは、白き炎を纏う女神――ヘスティア。
その足が地を踏むと同時に、暴れ狂っていた闇の波動が霧散した。
光が世界の均衡を取り戻す。
「――ここまでです、ミーノス」
その声は穏やかでありながら、抗う余地を一切許さぬ威厳を孕んでいた。
燃えるような白炎が女神の周囲を巡り、聖域の空に新たな秩序の印を刻んでいく。
彼女の瞳は燃えていた。
冷酷なほど沈着でありながら、灼けつくような意思を湛えた神の瞳。
踏み出す一歩ごとに、その足元から黄金の環が放射状に広がっていく。
地が震えるのではない。世界が、彼女の存在を前にして膝を屈しているのだ。
「……あなたはやり過ぎです」
声は清澄にして冷厳。
だが、その声は重く沈み空気を震わせた。
女神を取り巻く白炎は虹色の輝きへ変化していく。
「姉神……様……?」
ミーノスの肩がわずかに引き攣る。冥界三巨頭として君臨する彼ですら、その言葉には逆らえない。
「私は、あなたに少なからず恩があります。ですから……私への少々の悪戯であれば、目を瞑る心算でした」
白金のレイピアが、その手に閃いた。冷たい銀光を纏い、刃先はまっすぐにミーノスを指し示す。
「――けれど、三たびの狼藉。聖域の主神であるこの私の目前で、それをやり過ごせると本気で思っているのですか?」
その響きは、神の裁きを下す最後通牒に他ならなかった。
ミーノスの顔が歪む。怒気と焦り、そして焦燥。
「ならば……ならば、完全に協約は破棄されたも同然!これよりは、我ら冥界の同胞が、全面進軍を開始する!」
「やむを得ません」
ヘスティアの声に、迷いはなかった。
「では……まず、姉神様。あなたから――葬り去りましょうッ!」
ミーノスが叫び、怒涛の如く攻撃を繰り出す。黒い羽が旋回し、深淵の小宇宙が波状となって襲いかかる。空間ごと抉るそれは、幾度も神を討たんとした死の風。
だが。
その全てを――ヘスティアは受け流した。
まるで優雅に舞うように。あるいは、軽く手を払うだけで、髪一本すら乱すことなく、彼女はミーノスの全ての技を無効化していく。
「……ば、ばかな……!」
ミーノスの表情から、みるみるうちに血の気が引いていく。
信じられない。
これほどの力――これが本当の地上の神の力なのだ。
「私を……誰だと思っているのですか?」
ヘスティアは、微動だにせず告げた。
女神の声は、大地の奥底へと沈み、空の高みにも届くように響いた。
それは、宣告だった。
女神の怒りは、既に引き返せぬ域に達していた。
圧倒的な力を誇るヘスティアを前にしても、ミーノスはなおもその衝動を抑えることができなかった。
唇を噛みしめ、歯を食いしばる。怒りと憎しみに燃えた瞳は、もう何も怖れず、前進しようとする。
だが、その刹那。
――静寂が訪れた。
周囲の全てが一瞬で凍りつく。風も、音も、時間さえも止まったかのような、息を呑むような静けさ。そして、圧倒的な威圧感を孕んだ声が響く。
「止めよ」
それは、静かで、低く、冷徹でありながら、同時に、存在そのものが世界を支配するような圧倒的な力を帯びていた。声は、空気を裂き、皮膚を切り裂くように、直接脳に響き渡る。その声が発せられた瞬間、ミーノスの体はまるで重力に押し潰されたように、乾いた大地に膝をついた。
「ハ、ハーデス様……」
震える声で、ミーノスが呟く。その言葉が絞り出されるように零れ落ちた。
聖域の空が再び闇に覆われる。
淡い陽光は消え、世界を覆う闇はどこまでも深く、重く、その圧力は身体を押し潰すようだった。そして、闇の中から、黒い稲妻が大地を穿つ。まるで空が裂け、神の力が直に地に落ちるように衝撃が走る。その瞬間、全ての存在がその恐怖を肌で感じ取った。
闇の中に現れたその姿――
身に纏った黒の冥衣が光を吸い込むように、深淵から現れたその存在は、まさに死を司る神。
ハーデス――冥界の主神、その降臨。
彼の立ち姿、その威厳、そして冷徹な眼差しに、誰もが一歩も動けなくなった。
「ここからは私が仕切る」
ハーデスの冷たい声が、全てを凍らせた。
その言葉一つで、聖域の全ての小宇宙が震えた。
彼の眼差しは、ヘスティア、そしてシオンのもとを通り過ぎ、最後にミーノスへと向けられる。その視線は死者を裁く者のそれであり、言葉を必要としない非情な命令そのものであった。
「ミーノス。余に無断で兵を動かし度々聖域を襲撃。あまつさえ、我が姉上にまで拳を向けるとは…お前の行動、目に余る」
「は…も、申し訳…ありません…」
ミーノスは震える声を絞り出すのが精一杯だ。
ハーデスはゆっくりと姉神ヘスティアの前へ進み出ると、そこへ膝を折り頭を下げた。
「姉上、此度は私の配下の者たちが大変な無礼を働きましたこと、このハーデス、心よりお詫び申し上げます」
「…どういうこと?」
ヘスティアの瞳が訝しげに細められる。
「二度に渡る聖域襲撃、ならびに、今回の天立星への暴力は、私の意思とは無関係のところで行われました。しかし、冥闘士の罪は主神である私の罪。どうぞ、何なりと罰をお与えください」
ハーデスの膝を折る姿に、辺りは息を呑んだ。
死を司る主神が、地上に膝をつく――それは、天地の均衡すら揺るがす象徴的な所作だった。
誰もが言葉を失い、ヘスティアもまた一瞬、目を伏せた。
しかし、次にその瞳に宿ったのは、神々の頂に立つ存在としての覚悟と責務。
「では、私からの要求は二つ!」
その声音は、雷鳴の如く天地に轟き、全ての者の背筋を正させた。
ヘスティアが右手を掲げると、金の指輪が光を放った。
「第一に――冥界による、いかなる形での聖域への干渉も、今後一切禁ずること。配下の独断によるものだったとしても、私たちはもうそれを看過しません。聖域は、今、再建の途上にあります。再び混乱に陥れば、守るべきものを守れなくなる。それは、地上の安寧を司る神の責務として、断じて容認できることではありません」
空気が震えた。ハーデスの漆黒の髪が静かに揺れる。
「……承知しました」
彼の声は低く、だが明確だった。
ヘスティアは一度頷き、次に歩を進め、ハーデスを見下ろす位置に立つ。
「第二に――」
言葉を切り、ヘスティアの瞳が一瞬、メリッサとレオンを見やった。
「……今回、冥界が地上に遺した混乱の種、その影響を最も強く受けた者たちがいます。私はその者たちが、今後、正当に生きられる未来を求めます。そのための“保証”を、あなたから得たいのです。彼らの安全、そして存在を脅かさぬという、冥界主神としての誓約を」
風が止み、空が静まる。
重い沈黙の中で、ハーデスはやがて顔を上げ、立ち上がる。
「……それは、血の契約を意味しますか?」
「然り。神と神の間に交わされる、最も古く、最も破れぬ約定。あなたがそれを拒むというのなら――ここで、あなたを討つ覚悟もあります」
剣を抜かずとも、ヘスティアの気迫が剣よりも鋭く冴え渡る。その威厳に、ミーノスは再び地に額を伏せ、震える。
ハーデスは一瞬、静かに瞳を閉じ、そして再び開いたときには、神としての凛とした冷静さが戻っていた。
「良いでしょう。冥界主神ハーデスは、女神ヘスティアとの間に、二つの誓約をここに交わします」
そうして、ハーデスは指先に己の血を滲ませ、空中に神聖文字を描き始めた――
