Eine Kleine Ⅱ

 ――静寂が、かえって胸を騒がせた。

 メリッサの入浴中、教皇宮の私室はひどく静まり返っていた。浴室から聞こえる水音が、やけに艶めいて耳を打つ。脱衣所へ繋がる扉は閉まっているのに、ほのかに香る湯気の気配までもが彼の想像力を煽った。
 シオンは長椅子の上で脚を組んだまま、己の掌を見つめていた。涼しい顔をしていたいのに、思うようにいかない。掌には、微かに汗が滲んでいる。
(こんなにも落ち着かぬとは……)
 顔を手で覆いたくなる。幾多の戦場をくぐり抜け、過去の聖戦では最前線にも立ち続けたというのに、たった一人の女性を迎える夜に、こんなにも脆くなろうとは。
 メリッサが「泊まってもいい?」と訊ねたとき、彼は一瞬にして全ての理性が吹き飛ぶのを感じ、世界の全てに感謝した。だがそれは、ほんの一瞬である。すぐに胸に降り立ったのは、彼女の過去の影だった。

 無理をさせてはいけない。
 決して、焦ってはならない。
 それなのに――。

 流れ落ちる水の音が、部屋の静寂をかすかに震わせていた。そのたびに、心の奥に沈んでいた熱が、輪郭を取り戻していく
(……ああ、だめだ。理性が保たぬ)
 たまらず立ち上がり、窓を開け放つ。
 夜気が肌を刺すように冷たい。ひと息吸い込むと、胸の奥の熱がほんの少しだけ引いていくような気がした。
 部屋の隅に積まれた本の山。その中から、シオンは無意識のうちに一冊を抜き取っていた。
 革の表紙に指を滑らせる。古びた手触りが、今だけはどこか安心をもたらしてくれる。
 ソファに腰を下ろし、ページを開いた。
 けれど、文字は目の前にあるのに、意味を結ばない。
 目で追っても、脳が拾い上げようとしない。思考の隙間に、メリッサの声や笑顔が、何度も差し込んでくる。
 メリッサは、今――
 想像してはいけない、と理性が告げる。だが、想像を止める術を、心はもう失っていた。
 ページを捲り、深く息をつく。
 紙の香りと、遠くから響く水音。
 そのどちらもがひどく現実的で、そして残酷だった。
 今夜、彼女を抱くべきか。
 思えば、どれほどこの日を夢見てきたか知れない。港町に通い始めたあの時から、慎重に、丁寧に距離を縮めてきた。だが、先に踏み込むにはあまりに深く刺さった心の棘が、彼女の奥にまだ潜んでいる気がした。
 それでも、彼の身体は若く健康で、そして何より、メリッサを堪らなく愛している。肌を重ねることが欲望だけでなく、魂の交わりであると知っているからこそ、彼女に触れたいと願った。
 だからこそ、決意するしかなかった。
(もし、メリッサが受け入れてくれるのなら、今夜――)
 気持ちを整えるように、手のひらで胸を押さえた。これほどまでに慎重で、これほどまでに緊張するのは、初めてだった。
 メリッサと過ごす一夜は、彼にとって、どんな戦場へ赴くよりも緊張し、どんな敵と対峙するより恐ろしかった。
 本を閉じる音が、やけに大きく響いた。
 集中しようとすればするほど、心の奥では別の雑音が膨らんでいく。理性の皮を一枚ずつ剥がされていくような感覚に、これ以上は駄目だと必死に抗う。
 立ち上がると、椅子の軋む音が室内に落ちた。
 指先には、まだ紙の感触が残っている。だがその温もりは、現実から逃れるための小さな盾にすぎなかった。
 上着を羽織り、扉へと歩み寄る。
 外の廊下に出ると、夜の冷気が頬を撫でた。熱に浮かされた頭を、少しだけ冷ます。
 静まり返った回廊に、彼の足音だけが規則正しく響く。このまま、どこへ行くのか。
 自分でも分からないまま、シオンはただ歩き続けた。
 外気に触れた瞬間、肺の奥まで冷たさがしみわたった。夜の中庭は静まり返っていて、噴水の水音だけが、遠くでかすかに響いている。空を見上げると、薄雲の隙間からいくつかの星が顔を覗かせていた。
 ベンチに腰を下ろすと、手のひらが石の冷たさを拾った。
 どこまでも静かだ。静かすぎて、自分の鼓動さえうるさく感じる。
 彼女は、どうしているだろう。
 湯を浴びているときの、無防備な背中を思い出して、慌てて首を振る。そんなことを考える自分が嫌になる。 守ると誓ったはずだ。それなのに、今の心はどうだ。どこか、違う熱で満たされている。
 シオンは深く息を吸い込んだ。夜気は冷たく、胸の奥のざらつきを少しだけ削り取ってくれる気がした。
 遠くで、風が梢を渡る音がする。
 瞼を閉じると、闇の中にメリッサの笑顔が浮かぶ。
 それだけで、どうしようもなく、痛いほどに――息が詰まった。

‐‐‐

 頭がぐらぐらする。
 寝不足のせいだ、と分かってはいるけど、意識がふと途切れそうになるたび、背中に冷や汗が滲む。ヤバい、と思う。だけどその『ヤバい』が何に対してのものなのか、自分でももうよく分からなかった。

 とにかく、限界だった。

 前日は夜を徹してレポートを仕上げた。今朝は一限から薬理学の講義。実験の補足説明があって、脳みそを絞り切られた後、午後は教皇宮へ。高地にあり坂道の多い聖域は、入口の門へ辿り着くだけでもちょっとした登山に近い。
 港町の自宅まで戻ろうとすれば、終バスに間に合うかも怪しい。下手をすれば、途中の路上で寝落ちして、起きたら警察に保護されている――そんな自信さえあった。
(……無理だ。今帰ったら、たぶん死ぬ)
 それで、つい、シオンにお願いしてしまった。
「今日、泊まってもいい?」
 自分の声が、少し甘えていたような気がして、言ってから後悔した。甘えるつもりなんてなかったのに。ただ、ただ、もう動けないだけだったのに。

 きっと、シオン様を……勘違いさせてしまう。
 もしかしたら、期待させてしまったかもしれない。

 でも、今さら「やっぱり帰ります」とも言えず、ふかふかの寝台に横たわった瞬間、背中から体が溶けていくような感覚に襲われた。
 気がつけば、瞼が重くて持ち上がらない。
(……ごめんなさい、シオン様)
 本当は、もう少しお話したかった。優しい声を聞いていたかった。あなたの隣で、きちんと目を見て、「ありがとう」と伝えたかった。

 でも、今夜だけは――どうか、許してください。

 あなたの香りがするこの寝台の中で、あなたの気配をすぐそばに感じながら、あたしは眠ります。
 それだけで、今夜は……幸せです。

‐‐‐

 寝室の扉を静かに開けたとき、灯りは既に落とされていた。
 ベッドに近づいたシオンは、そっと寝台を覗き込む。
「……メリッサ?」
 囁くように声をかけるも、返事はなかった。
 彼女はぐっすりと眠り込んでいた。毛布の隙間から覗く肩が、小さく上下している。おそらく、長い一日で疲れ切っていたのだろう。そういえば、前日は徹夜で大学のレポートを仕上げたと話していた。
 シオンは膝から力が抜けるのを感じながら、思わず小さく笑った。
 がっかり、とまでは言わない。だが、心の奥底で、熱く渦巻いていた期待が静かに溶けていくのを感じる。それと同時に、妙な安堵も湧き上がっていた。
(……これでよかったのかもしれない)
 手を伸ばせば届く距離に、彼女は眠っている。安心しきった寝顔で。無防備で。彼を信じて、身体を預けてくれている。
 それだけで、十分だった。
 けれど、今夜ばかりは彼も眠れそうになかった。火照った心と身体を持て余し、メリッサの寝息を聞きながら、どうにもならない気持ちを胸の奥に押し込める。
 愛している。どうしようもなく、彼女を求めている。
 けれど、それ以上に――彼女が安らかに眠っていられるこの夜を、壊したくはなかった。
 シオンはそっと、彼女の隣に身を横たえた。シーツの向こう、彼女の髪が枕に散っているのが見える。
 全てを預け、安心しきって眠る彼女の寝顔は、愛しさの極みだった。
 そっと指先で彼女の髪を撫でる。
「……おやすみ、メリッサ」
 その声は、自分に向けた呪文のようでもあった。
 明日も彼女が笑ってくれるなら、それだけでいい。
 今夜は――ただ、それだけでいいのだ。
 それだけで……十分、幸せなのだから。

‐‐‐

 メリッサの髪に触れた指先が、ゆっくりと宙へ戻る。それだけの動作なのに、胸の奥が疼くように痛んだ。
 このまま、隣にいたい。
 その願いは、どうしてこんなにも簡単に胸の内側を満たしてしまうのだろう。
 眠りに落ちているメリッサの呼吸が、静かに胸を上下させている。その動きが、シオンの理性を確かめるようだった。

 いま触れてしまったら。
 寄り添ってしまったら。
 きっと、歯止めなど利かない。

 彼はそっと目を伏せる。
 火照っているのは身体だけではなく、思考の隅々までもだ。抑えようとしても、どうしようもない渇きが驚くほど鮮烈に疼いている。
 それでも――。
 シオンは静かに上体を起こした。
 寝台が軋むことさえメリッサを起こしてしまいそうな気がして、彼には許せなかった。
 彼女は眠っている。警戒も、不安も、痛みもない顔で。その姿が、彼の決断を決定づけた。
「……すまない、メリッサ」
 囁くような声だった。
 すぐ隣にある暖かさから、逃げるようにベッドを離れる。
 視線の端で、彼女の寝息が緩やかに続いていることを確認し、胸の奥が締めつけられる。
 別室へ行ってしまえば楽だったかもしれない。
 だが、離れすぎるのもまた、彼には耐えられなかった。
 シオンは、寝室の隅に置かれたソファへ歩み寄る。深く腰掛け、背凭れに身を預けた瞬間、身体が内側から震える。
 彼の理性は勝ったのではない。ただ――彼女の安らぎに、勝てなかったのだ。
「……ここでいい」
 かすれた声が、暗闇に溶けた。

 メリッサに触れたい気持ちは、消えない。抱きしめたい衝動は、寧ろ強くなるばかりだった。だが、それ以上に――彼女が、何の不安もなく眠っていられることの方が、ずっと大切だった。
 今日くらいは、欲を飲み込んでいい。
 自分を徹底して律し、ただ彼女を見守る夜があっていい。
 目を閉じる。遠くで、メリッサの寝息がかすかに揺れた。その音だけが、彼をぎりぎりの場所で支えていた。ソファの上で眠ると決めたのは、彼の弱さではなく、愛の形だった。

 そう思えたとき、漸くシオンは静かに息を吐けた。
 
‐‐‐

 チチチ……と、小鳥の声がどこかで揺れている。
 朝の光が、白いカーテン越しに柔らかくこぼれ、薄く瞼を透かした。
 目を開けると、あたしの隣は静かだった。昨夜、夢の中で彼の温もりを感じたはずの場所には、誰もいない。
 胸の奥が、ゆっくりと現実に追いついていく。
 寝返りを打って、部屋の中へ視線を向けた。

 ――いた。

 寝室の隅に置かれたソファ。その細く長い影に、シオン様が静かに横たわっている。毛布をかけた肩が、寝息に合わせて、ほとんどわからないほどゆるやかに上下していた。

 どうして、あんなところで。
 どうして、あたしの隣に来なかったのだろう。

 問いは喉まで上ったけれど、声にはしなかった。
 足音を忍ばせて、彼が眠るソファの横へ移動し、まだ眠っている彼の寝顔を見つめた。
 美しい人だと思う。
 顔立ちとか、姿の整い方じゃない。
 生き方も、背負ってきた痛みも、赦したことも、抗ってきたことも――その全てを含めて、美しいと思う。心の底から。

 ソファの上で眠るその姿さえも、どこか透き通るように見えてしまう。

 でも、その心のどこかには、あたしの知らない誰かがいたのだ。
 遠い昔、この人の横顔を、あたしと同じ想いで見つめていた誰かが。
 彼が、その想いごと、静かに抱きながら眠る夜を過ごしたことがあるのだと思うと、胸の奥がひどくひりついた。
 あたしは、その場所に立てないんじゃないか。
 そんな不安が、朝の光の中でそっと形を持った。

 あたしだけのシオン様であってほしかったのに。
 あたしだけがシオン様の唯一でありたかったのに。

 だけど、あたしたちが出会った時、彼の人生は既に200年以上を数えていた。
 そりゃ、いろんなことがある。あって当然だ。
 あたしだって、まだ19年しか生きてないのに、もういろんなことがあった。
 誰にも言えないこともあるし、知られたくないことだってある。

 あの日のこと。
 今でも、夢に見る。目が覚めたあと、心臓がバクバクして、息が苦しくて、涙で濡れた枕にしがみついて動けないことがある。
 大学でも、たまに――いや、けっこう頻繁に、知らない男子から熱のこもった視線を感じて、身体が凍りつく。
 でも。
 でも――シオン様は違う。
 あの人には、あたしをそういうふうに見てほしいとさえ思ってしまう。
 矛盾してるって、自分でも思うけど。
 あの、低くて、穏やかで、どこか艶めいた声。
 イケボ――なんて軽い言葉じゃ言い表せない。俗っぽすぎる。
 そう、もっとこう、心の奥に響く、祈りのような声で。
 『メリッサ、そなたを抱きたい』
 そう囁かれたら、あたしはきっと、何も恐れずに抱かれることができる。
 過去の傷も、恐れも、全部、彼の中に溶けて消える気がするのだ。
 あたしは、いつから、こんなふうに思うようになったんだろう。
 でも今はただ、目の前で眠るその人が、静かに息をしていることが、嬉しくて、苦しくて、幸せだった。
16/31ページ
スキ