Eine Kleine
白い陽光が海面に散り、薬師の島を取り囲む入江は平穏そのものだった。遠くで潮騒が規則正しく寄せては返し、熱を帯びた風が薬草の群生をそよがせている。空気には乾いた草とハーブの強い香りが漂い、どこか甘苦しい。
メリッサはただ立ち尽くしていた。
耳に入った言葉の意味を脳が処理しきれず、胸の奥でざわめく何かが鈍く反響している。
(教皇様?セージくんが?)
信じられなかった。いや、理解はできる。彼の気高さも、立ち居振る舞いがどこか超然としていたのも、今思えばすべて説明がつく。だが、それを受け入れた瞬間、彼の行動の意味を理解した。そして、これまでの彼との記憶の全てに影が落ちる。
(あたし、騙されていたんだ……)
脳裏にセージの面影がちらつき、胸の奥に冷水をかけられたような何かが広がる。熱を帯びた陽光の下にいながら、全身が凍りついたように感覚が遠のいていく。
シオンは彼女の硬直を敏感に察していた。紫の瞳に翳が差し、わずかに躊躇いを含んだ息を吐く。
「……メリッサ」
呼びかける声は低く、慎重に言葉が選ばれる。聖域には時間の猶予がなかった。
「今は急を要する。シーブ・イッサヒル・アメルの毒を解くには、拮抗する植物を見つけねばならぬ。幼き姿に戻された双子座を救うために、力を貸して欲しい……」
声は落ち着いているようで、その奥には焦燥と必死さが滲んでいた。聖域の未来に関わること、そして目の前の少女を信じたいという願い――二重の緊張が張り詰めている。
しかしメリッサの心は追いつかない。頭の奥に浮かぶのはただ一つ。
拒絶だった。
「……何で、あたしがそこまでしてやらなきゃなんないの?」
かすれ気味に吐き出された声には、苛立ちよりも悲哀の色が強く滲んでいた。
「そっちの事情なんか――」
メリッサの声が重く低くなる。
「……知らねぇよ」
喉の奥から絞り出されたのは、シオンの知らない声だった。
言葉を発した瞬間、自分が彼を刺してしまったことは分かっていた。
だがそれを取り消すことはできない。胸の奥で抑え込んだ混乱と怒りと罪悪感が、彼を拒む形でしか表に出せなかった。
沈黙が二人を包んだ。
陽光はあまりに眩しく、薬草の葉脈を透かし、地面には鮮やかな影を刻んでいる。自然の美は息を呑むほどなのに、二人の間には埋めがたい断絶が横たわっていた。
シオンは一瞬だけ瞼を伏せた。痛みを内に隠すように。
「……そうか」
それ以上の責めも抗議もなく、ただ受け止めるしかない声音だった。
メリッサを抱き締めていた腕が、静かに解かれてゆく。温もりを失った途端、胸の奥に取り残された寒さが、メリッサの心を揺らした。
「頼まれてはくれぬという事か?」
低く響いた声は、いつになく脆さを帯びていた。けれども、メリッサの唇からは反射的に言葉がこぼれる。
「聖域に協力して、あたしに何か一つでも得になることってあるの?ないよね。そっちの都合ばっか押し付けないで」
睨みつけるように見上げた蜂蜜色の瞳は、怒りに震えながらも、今にも涙をこぼしそうに揺れている。
その光を受けたシオンの胸は締め付けられるように痛んだ。彼女に憎まれて然るべきだ。彼女の涙は、自らの罪を映す鏡に他ならなかった。
「もちろん、ただでとは言わぬ――」
声を押し殺すようにして、シオンは一度瞼を閉じた。そして、深く心の奥底に隠してきた決意を、ついに吐き出す。
「この依頼を完遂した暁には、そなたの家系を監視対象から外そう」
その提案は、彼女を縛り続けてきた軛を解き放つものだった。だが、メリッサはすぐに問い返す。
「それでも断ったら?」
わずかに震える声。涙をこらえる必死の抵抗。
シオンは一瞬、彼女から目を逸らしそうになったが、自らを叱咤するように視線を絡め続けた。
「断れぬよ」
「なんで?」
まっすぐに問われ、シオンは残酷な現実を言葉にするしかなかった。
「幼子の姿になっている双子座は、海界を護る戦士、海将軍を兼任している。海の安寧は彼の双肩にかかっているのだ。しかし、今のままでは職責を果たせぬ。すると、どうなると思う。海は荒れ、海中は魔物や魑魅魍魎が跋扈する混沌とした世界になるだろう。そうなれば港町は漁業で生計など維持できなくなる。それでも良いか?」
その説明は冷厳な理屈だった。だが同時に、メリッサを断れぬ状況へと追い込むための楔でもあった。
己が卑劣な手を用いていると理解しながら、シオンは言葉を紡ぐしかなかった。
「なに、それ…」
容赦なく突きつけられた現実に、メリッサの唇が小さく震え、声にならぬ抗議が喉の奥で詰まる。
やがて、か細い声で呟いた。
「……それって、あたし、絶対に断れないじゃん……ずる過ぎだよ……」
肩を落とし俯いた瞬間、溢れ出した涙が頬を濡らす。雫はとめどなく零れ落ち、地面に小さな跡を刻んでいった。
シオンはその光景を、ただ見つめるしかできなかった。
彼女を泣かせたのは聖域ではない。誰よりも、自分自身だという自覚が胸を苛む。それでもなお、彼は――彼女に憎まれる道を選ぶしかなかった。
目の前で嗚咽に崩れるメリッサを見ながら、シオンは胸の奥を鋭く抉られるような痛みに支配されていた。伝えるべき事実は避けられないものだったにせよ、それを口にした瞬間から、彼女を傷付けた張本人としての烙印を負ったのだ。
――なぜ、そなたの涙の理由が、常に私でなければならぬのだ。
手を伸ばせば抱き締めることは出来た。言葉を紡げば慰めることも出来た。けれど、どの行為も偽りにしかならないと知っていた。慰撫の言葉は空虚で、抱擁は自己弁護に等しい。そんな薄っぺらなものを彼女に押しつけるくらいならば、何もせず、ただ己を責め続ける方がましだった。
喉の奥で渦巻く「すまない」の一言さえ、出すことが許されないように思えた。謝罪すら彼女の心を傷付ける。どの言葉も、どの仕草も、彼女を救うどころか深みに突き落とすに違いないと、理性が告げていた。
胸の奥で叫びたい衝動を押し殺しながら、シオンはただ、己の拳を強く握りしめた。爪が掌に食い込み、血が滲み出ても構わなかった。それはせめてもの贖いであり、彼女の代わりに自らを罰したい衝動の表れだった。
もし、私でなくてよかったのなら。もし、この真実を告げる役目が他の者に与えられていたなら。
彼女は涙を流すことなく、いくらか穏やかにその現実を受け止められたかもしれぬ。だが神も運命も、残酷な采配を彼に課した。彼女を愛しながら、彼女を壊す言葉を渡さねばならない矛盾を。
その宿命に、シオンは抗えなかった。
愛しているのに、その愛の手を差し伸べることさえ出来ない。この胸に溢れる想いは、もはやただの呪いでしかなかった。
「――分かりました。その依頼、引き受けます」
メリッサは、力なく口から出た自分の言葉がやけに遠く、他人のもののように響いているのを感じていた。
「引き受けます」——その声は確かに自分の声だった。けれどそこには、意志も熱もなかった。ただ、差し出された運命を拒むこともできず、機械的に口を動かしたにすぎない。
胸の奥では、冷たい鉛のような塊が沈殿していた。冗談じゃない、馬鹿にするな、と叫びたい気持ちは確かにあった。シオンを罵倒し、その場から駆け出したい衝動も確かにあった。だが、それらは喉の奥で絡まり、重く沈んで声にはならない。心の中の叫びは、空気を震わせることもなく、自分をさらに苦く締め付けるだけだった。
ああ、やはり——と、思う。結局自分は聖域にとって“駒”でしかないのだ、と。過去に奪われたものの記憶が、容赦なく胸の奥を抉る。何度だって踏みにじられ、使い捨てられる。そういう宿命から逃れる術など、初めからなかったのだと、残酷な諦念が心を覆い尽くしていく。
それでもなお、「分かりました」と口にした自分を、メリッサはどこかで軽蔑していた。抵抗できず、縋るように従ってしまう弱さ。背を向けられない優柔さ。けれど同時に、それ以外の選択肢がなかったことも、痛いほど分かっている。だからこそ、もう涙は出なかった。哀しみはすでに乾ききり、嗚咽を超えて、ただ虚ろな静けさだけが広がっていた。
メリッサの微かな震えは、怒りとも恐怖ともつかない。己の無力を噛みしめるしかない、その震えだった。
消え入りそうな声でメリッサが了承の言葉を口にしたとき、シオンの胸は焼け爛れるような痛みに満たされた。彼女の唇から零れた「引き受けます」という言葉に、救いなど一欠片もなかった。寧ろそれは、己が彼女の自由を奪った証に他ならなかった。
本来ならば、彼女は自分の意思で未来を選ぶべきだった。誰にも強いられず、誰にも縛られずに。しかし今、メリッサは己の重ねた罪の重さのせいで、ただ“従う”という選択しか持たぬ少女に変えられてしまった。
その現実を突き付けたのが、この自分だということが何よりも耐え難い。
言葉を返すべきか否か、シオンは迷った。だが、慰めの言葉を告げたところで、もはや欺瞞にしかならないだろう。彼女を追い詰めているのが他ならぬ自分なのだから。
それでもなお、心はどうしようもなく彼女へと伸びてしまう。涙に濡れた頬を拭いたい。怯えと絶望に沈んだ心を抱き締めたい。たとえ罵倒されてもいい、彼女の痛みに寄り添いたい――。
けれどそれら全ては、許されざる衝動だった。
指先一つ動かすことができず、シオンは己の無力を噛み締めた。
「……そなたを、このようにしてしまったのは――」
喉までせり上がった言葉は、結局最後まで声にならなかった。
彼はただ、目の前で力なく瞼を伏せるメリッサの姿を凝視しながら、己の存在そのものが彼女にとって呪縛であることを痛烈に思い知らされるのだった。
――彼女を守りたくて、ここまで歩んできたはずなのに。
その手は、守るどころか、大切なものを壊してしまった。シオンの胸に、深い罪悪感とどうしようもない愛情が絡まり合い、静かに、しかし残酷に広がっていった。
風に海塩の匂いが混じっていた。
蒼い波が絶え間なく岩を打ち、重く湿った音を響かせている。
メリッサは聖域の男たちをルコの家へ招き入れ、木製の簡素な椅子に座らせた。
「こんな場所ですみません」
「我々は構わぬ」
メリッサの顔は疲労と諦めが入り混じり、憂いを帯びている。彼女は殆ど無表情で淡々と説明をする。
「毒素へ拮抗作用のある植物はいろいろありますけど……」
メリッサは低く呟いた。声には迷いと同時に、薬師としての直感が滲んでいる。
「お話を聞く限り、これは特殊な成分です。通常の植物での治癒は難しいかもしれません」
シオンは、彼女の指先が細かく震えているのに気づいた。疲労のせいだけではない。傷付けられた心が、彼らを拒んでいるのだ。今、彼女は孤独と戦っていた。
「島の植物は独自に進化している種もあります。その中で、抗アレルギー作用の強いものが適しているのではないかと思います」
彼女の視線はテーブルに落とされたまま、彷徨うことさえ忘れているように、ただ一点を見つめていた。
「抗アレルギー?では、アレルギーが原因だと?」
シオンの問いに、メリッサは頭を振った。
「それは分かりません。ただ、可能性の話です」
弱々しい動作で、額に落ちた前髪を掻き上げた。
「探しに行きます」
メリッサは立ち上がり、家と呼ぶには粗末な、その木造りの小屋を出た。
出入口の扉を開けると、彼女は一瞬、空を仰いだ。曇天の切れ間から光が差し、金色の筋が海面へ渡っていく。背後に座している男たちを振り返った。
「だけど……人を若返らせる成分。つまり、アンチエイジングの成分が過剰に働いたと考えるのが自然です」
深い呼吸を整えるように言葉を区切りながら、彼女は続けた。
「シーブ・イッサヒル・アメルは基本的に薬草なんです」
その名を口にするとき、メリッサの声はかすかに震えていた。恐れではない。長い時間、書物の中でだけ出会ってきた名称が、現実として彼女の手の届く所へ提示された高揚感もあった。
「詳しいな」
シオンの静かな一言に、彼女は少しだけ息を詰め、感情を悟らせないよう視線を逸らした。
「自宅に、ルコが残した古い文献がたくさんあったんです。それを小さい頃から繰り返し読んでいました。まぁ、趣味みたいなものです」
その告白は、あまりに素朴で、同時に胸を締めつけるほど切実だった。
潮風に揺れる彼女の髪を見ながら、シオンは思う。この若き女性は、自らの過去に刻まれた苦しみを背負いながらも、人を救うための知識を己の中に育ててきたのだと。
そして今、彼女が差し出そうとしているのは、単なる知識ではなく、積み重ねてきた時間と努力と、彼女の人生そのものだった。
鈴蘭畑の間を抜ける風が、メリッサの髪を軽く揺らした。花々の甘い香りが漂い、海からの潮風と混ざり合って、薬師の島ならではの独特の空気を作り出している。
「魚座様、抗アレルギー作用のある植物を探してもらいたいんですけど、できますか?」
メリッサの声は相変わらず感情の色を失ったままだ。
「やってみよう」
アフロディーテの声には、静かで確かな力強さがあった。光を帯びるようなその声に、メリッサは少しだけ安心した。
「そしたら、どの植物がそうなのかってマーキングしてほしいです」
メリッサの言葉に、アフロディーテは優しく視線を下ろす。畑の間に差し込む陽光が、花の白と緑を反射して小さな光の粒を作り出していた。
「マーキングか……少し小宇宙を送って薄く光らせるくらいでも良いかい?」
アフロディーテの掌に、淡く青白い光が宿った。光はゆらゆらと揺れながら、花々の間を静かに漂い、特定の植物を穏やかに照らし出す。
「はい。それで大丈夫です」
メリッサは小さく頷く。その眼差しには、植物への深い愛情と、自分の役割を果たそうとする真摯な意志が滲んでいた。
「君は感応能力を持っていないの?」
メリッサは肩をすくめる。淡い光の中で、少し悲しげな笑みが零れた。
「ドリュアスの能力は、植物を支配して操るのを得意としてますけど、彼らはそれを好まないから……あたしは植物と友達にはなれないんです。あたしは植物好きなんですけど……言ったら、永遠の片想いです」
鈴蘭の花が風に揺れ、まるで彼女の言葉に応えるかのように優雅に揺れた。その光景は、メリッサの孤独と、尽きない愛情を象徴するかのようだった。
「そうか……いつか君の想いが通じると良いね」
アフロディーテの声は、穏やかでありながら、どこか未来への希望を含んでいた。
「そうですね」
メリッサは小さな微笑みを浮かべた。感情はまだ完全には戻らないが、花々に囲まれたこの空間で、ほんの少しだけ心が安らいだ瞬間だった。
海風と鈴蘭の香りが混ざる中、二人は言葉少なに畑を見渡した。純白の鈴蘭が、まるで柔らかい光に包まれるかのように輝き、静かで穏やかな午後の時間を刻んでいく。
鈴蘭畑に傾きかけた夕陽が、淡桃色や淡紫色の花々を金色に染め上げる。海風が潮の香りを運び、穏やかな波音が遠くから届く。アフロディーテの掌から静かに放たれた小宇宙は、島の植物たちに淡い光を宿らせ、まるで優しい星屑のように揺れていた。
メリッサは、光に照らされた植物の間を一つ一つ手で触れながら歩く。掌に触れる花弁は柔らかく、甘い香気や爽やかな香気を放つ。しかし、そのどれもが、彼女が探している“解毒に適した植物”ではないらしい。手のひらに残る感覚を確かめるたび、微かに肩をすくめ、首をひねる。
「……うーん、やっぱり違う」
ため息が潮風に混ざって宙を漂う。花々は揺れ、光は柔らかく瞬いているのに、メリッサの心はどこか宙を漂ったままだった。まだ、先ほどシオン=セージとして聞いた事実の衝撃が、胸の奥でくすぶっている。
傾きかけた陽の光が、メリッサの顔を黄金色に照らす。頬には疲労と苛立ち、そしてわずかな罪悪感が滲む。心のどこかで、ただの“普通の人間のセージ”として信頼していた相手が、実は聖域教皇だった事実を、まだ完全には受け入れられないでいた。
「遅くなると潮の流れとか変わっちゃうから、今日は帰ります。教皇様は瞬間移動できるから、聖域に戻ったらどうですか?港町には行かない方が良いと思いますけど」
声をかけるメリッサに、アフロディーテはやんわりと眉を寄せる。
「メリッサ、さすがにそういう言い方は……」
「え、あ、ごめんなさい。嫌味とかじゃなくて、その格好で港町に戻ったら、まずいですよって話です。だって、町の人達にも正体隠してるのに。バレても良いって言うなら、あたしは構わないけど」
夕陽に染まる畑の向こうで、メリッサは少し俯き、髪を風になびかせる。声は刺々しくないが、決して優しくもなかった。
「そうだな。そなたの言う通りだ。私は先に聖域へ戻ろう。アフロディーテ、カミュ、彼女の事を頼むぞ」
アフロディーテは頷き、柔らかな光を宿した瞳でメリッサを一瞥する。その眼差しには、尊重と信頼が込められていた。
「御意」
メリッサは、傾きかけた太陽の下で一瞬、シオンを見た。夕陽が自分の足元の鈴蘭を黄金色に照らすと、その光の中でまだ揺れる感情の影を、そっと押し込むように小さく息をついた。
胸の奥では、信頼していたセージが聖域教皇であった事実に戸惑い、受容できないもどかしさがくすぶっている。けれど、その感情を声に出すことはない。目の前の光と香り、穏やかな波音に身を委ねながら、メリッサは小さく肩を落とし、今日の作業を終えようとしていた。
静かな薬師の島の夕方は、海風に揺れる鈴蘭と、まだ混乱の残る少女の心を包み込みながら、ゆっくりと暮れていく――。
メリッサはただ立ち尽くしていた。
耳に入った言葉の意味を脳が処理しきれず、胸の奥でざわめく何かが鈍く反響している。
(教皇様?セージくんが?)
信じられなかった。いや、理解はできる。彼の気高さも、立ち居振る舞いがどこか超然としていたのも、今思えばすべて説明がつく。だが、それを受け入れた瞬間、彼の行動の意味を理解した。そして、これまでの彼との記憶の全てに影が落ちる。
(あたし、騙されていたんだ……)
脳裏にセージの面影がちらつき、胸の奥に冷水をかけられたような何かが広がる。熱を帯びた陽光の下にいながら、全身が凍りついたように感覚が遠のいていく。
シオンは彼女の硬直を敏感に察していた。紫の瞳に翳が差し、わずかに躊躇いを含んだ息を吐く。
「……メリッサ」
呼びかける声は低く、慎重に言葉が選ばれる。聖域には時間の猶予がなかった。
「今は急を要する。シーブ・イッサヒル・アメルの毒を解くには、拮抗する植物を見つけねばならぬ。幼き姿に戻された双子座を救うために、力を貸して欲しい……」
声は落ち着いているようで、その奥には焦燥と必死さが滲んでいた。聖域の未来に関わること、そして目の前の少女を信じたいという願い――二重の緊張が張り詰めている。
しかしメリッサの心は追いつかない。頭の奥に浮かぶのはただ一つ。
拒絶だった。
「……何で、あたしがそこまでしてやらなきゃなんないの?」
かすれ気味に吐き出された声には、苛立ちよりも悲哀の色が強く滲んでいた。
「そっちの事情なんか――」
メリッサの声が重く低くなる。
「……知らねぇよ」
喉の奥から絞り出されたのは、シオンの知らない声だった。
言葉を発した瞬間、自分が彼を刺してしまったことは分かっていた。
だがそれを取り消すことはできない。胸の奥で抑え込んだ混乱と怒りと罪悪感が、彼を拒む形でしか表に出せなかった。
沈黙が二人を包んだ。
陽光はあまりに眩しく、薬草の葉脈を透かし、地面には鮮やかな影を刻んでいる。自然の美は息を呑むほどなのに、二人の間には埋めがたい断絶が横たわっていた。
シオンは一瞬だけ瞼を伏せた。痛みを内に隠すように。
「……そうか」
それ以上の責めも抗議もなく、ただ受け止めるしかない声音だった。
メリッサを抱き締めていた腕が、静かに解かれてゆく。温もりを失った途端、胸の奥に取り残された寒さが、メリッサの心を揺らした。
「頼まれてはくれぬという事か?」
低く響いた声は、いつになく脆さを帯びていた。けれども、メリッサの唇からは反射的に言葉がこぼれる。
「聖域に協力して、あたしに何か一つでも得になることってあるの?ないよね。そっちの都合ばっか押し付けないで」
睨みつけるように見上げた蜂蜜色の瞳は、怒りに震えながらも、今にも涙をこぼしそうに揺れている。
その光を受けたシオンの胸は締め付けられるように痛んだ。彼女に憎まれて然るべきだ。彼女の涙は、自らの罪を映す鏡に他ならなかった。
「もちろん、ただでとは言わぬ――」
声を押し殺すようにして、シオンは一度瞼を閉じた。そして、深く心の奥底に隠してきた決意を、ついに吐き出す。
「この依頼を完遂した暁には、そなたの家系を監視対象から外そう」
その提案は、彼女を縛り続けてきた軛を解き放つものだった。だが、メリッサはすぐに問い返す。
「それでも断ったら?」
わずかに震える声。涙をこらえる必死の抵抗。
シオンは一瞬、彼女から目を逸らしそうになったが、自らを叱咤するように視線を絡め続けた。
「断れぬよ」
「なんで?」
まっすぐに問われ、シオンは残酷な現実を言葉にするしかなかった。
「幼子の姿になっている双子座は、海界を護る戦士、海将軍を兼任している。海の安寧は彼の双肩にかかっているのだ。しかし、今のままでは職責を果たせぬ。すると、どうなると思う。海は荒れ、海中は魔物や魑魅魍魎が跋扈する混沌とした世界になるだろう。そうなれば港町は漁業で生計など維持できなくなる。それでも良いか?」
その説明は冷厳な理屈だった。だが同時に、メリッサを断れぬ状況へと追い込むための楔でもあった。
己が卑劣な手を用いていると理解しながら、シオンは言葉を紡ぐしかなかった。
「なに、それ…」
容赦なく突きつけられた現実に、メリッサの唇が小さく震え、声にならぬ抗議が喉の奥で詰まる。
やがて、か細い声で呟いた。
「……それって、あたし、絶対に断れないじゃん……ずる過ぎだよ……」
肩を落とし俯いた瞬間、溢れ出した涙が頬を濡らす。雫はとめどなく零れ落ち、地面に小さな跡を刻んでいった。
シオンはその光景を、ただ見つめるしかできなかった。
彼女を泣かせたのは聖域ではない。誰よりも、自分自身だという自覚が胸を苛む。それでもなお、彼は――彼女に憎まれる道を選ぶしかなかった。
目の前で嗚咽に崩れるメリッサを見ながら、シオンは胸の奥を鋭く抉られるような痛みに支配されていた。伝えるべき事実は避けられないものだったにせよ、それを口にした瞬間から、彼女を傷付けた張本人としての烙印を負ったのだ。
――なぜ、そなたの涙の理由が、常に私でなければならぬのだ。
手を伸ばせば抱き締めることは出来た。言葉を紡げば慰めることも出来た。けれど、どの行為も偽りにしかならないと知っていた。慰撫の言葉は空虚で、抱擁は自己弁護に等しい。そんな薄っぺらなものを彼女に押しつけるくらいならば、何もせず、ただ己を責め続ける方がましだった。
喉の奥で渦巻く「すまない」の一言さえ、出すことが許されないように思えた。謝罪すら彼女の心を傷付ける。どの言葉も、どの仕草も、彼女を救うどころか深みに突き落とすに違いないと、理性が告げていた。
胸の奥で叫びたい衝動を押し殺しながら、シオンはただ、己の拳を強く握りしめた。爪が掌に食い込み、血が滲み出ても構わなかった。それはせめてもの贖いであり、彼女の代わりに自らを罰したい衝動の表れだった。
もし、私でなくてよかったのなら。もし、この真実を告げる役目が他の者に与えられていたなら。
彼女は涙を流すことなく、いくらか穏やかにその現実を受け止められたかもしれぬ。だが神も運命も、残酷な采配を彼に課した。彼女を愛しながら、彼女を壊す言葉を渡さねばならない矛盾を。
その宿命に、シオンは抗えなかった。
愛しているのに、その愛の手を差し伸べることさえ出来ない。この胸に溢れる想いは、もはやただの呪いでしかなかった。
「――分かりました。その依頼、引き受けます」
メリッサは、力なく口から出た自分の言葉がやけに遠く、他人のもののように響いているのを感じていた。
「引き受けます」——その声は確かに自分の声だった。けれどそこには、意志も熱もなかった。ただ、差し出された運命を拒むこともできず、機械的に口を動かしたにすぎない。
胸の奥では、冷たい鉛のような塊が沈殿していた。冗談じゃない、馬鹿にするな、と叫びたい気持ちは確かにあった。シオンを罵倒し、その場から駆け出したい衝動も確かにあった。だが、それらは喉の奥で絡まり、重く沈んで声にはならない。心の中の叫びは、空気を震わせることもなく、自分をさらに苦く締め付けるだけだった。
ああ、やはり——と、思う。結局自分は聖域にとって“駒”でしかないのだ、と。過去に奪われたものの記憶が、容赦なく胸の奥を抉る。何度だって踏みにじられ、使い捨てられる。そういう宿命から逃れる術など、初めからなかったのだと、残酷な諦念が心を覆い尽くしていく。
それでもなお、「分かりました」と口にした自分を、メリッサはどこかで軽蔑していた。抵抗できず、縋るように従ってしまう弱さ。背を向けられない優柔さ。けれど同時に、それ以外の選択肢がなかったことも、痛いほど分かっている。だからこそ、もう涙は出なかった。哀しみはすでに乾ききり、嗚咽を超えて、ただ虚ろな静けさだけが広がっていた。
メリッサの微かな震えは、怒りとも恐怖ともつかない。己の無力を噛みしめるしかない、その震えだった。
消え入りそうな声でメリッサが了承の言葉を口にしたとき、シオンの胸は焼け爛れるような痛みに満たされた。彼女の唇から零れた「引き受けます」という言葉に、救いなど一欠片もなかった。寧ろそれは、己が彼女の自由を奪った証に他ならなかった。
本来ならば、彼女は自分の意思で未来を選ぶべきだった。誰にも強いられず、誰にも縛られずに。しかし今、メリッサは己の重ねた罪の重さのせいで、ただ“従う”という選択しか持たぬ少女に変えられてしまった。
その現実を突き付けたのが、この自分だということが何よりも耐え難い。
言葉を返すべきか否か、シオンは迷った。だが、慰めの言葉を告げたところで、もはや欺瞞にしかならないだろう。彼女を追い詰めているのが他ならぬ自分なのだから。
それでもなお、心はどうしようもなく彼女へと伸びてしまう。涙に濡れた頬を拭いたい。怯えと絶望に沈んだ心を抱き締めたい。たとえ罵倒されてもいい、彼女の痛みに寄り添いたい――。
けれどそれら全ては、許されざる衝動だった。
指先一つ動かすことができず、シオンは己の無力を噛み締めた。
「……そなたを、このようにしてしまったのは――」
喉までせり上がった言葉は、結局最後まで声にならなかった。
彼はただ、目の前で力なく瞼を伏せるメリッサの姿を凝視しながら、己の存在そのものが彼女にとって呪縛であることを痛烈に思い知らされるのだった。
――彼女を守りたくて、ここまで歩んできたはずなのに。
その手は、守るどころか、大切なものを壊してしまった。シオンの胸に、深い罪悪感とどうしようもない愛情が絡まり合い、静かに、しかし残酷に広がっていった。
風に海塩の匂いが混じっていた。
蒼い波が絶え間なく岩を打ち、重く湿った音を響かせている。
メリッサは聖域の男たちをルコの家へ招き入れ、木製の簡素な椅子に座らせた。
「こんな場所ですみません」
「我々は構わぬ」
メリッサの顔は疲労と諦めが入り混じり、憂いを帯びている。彼女は殆ど無表情で淡々と説明をする。
「毒素へ拮抗作用のある植物はいろいろありますけど……」
メリッサは低く呟いた。声には迷いと同時に、薬師としての直感が滲んでいる。
「お話を聞く限り、これは特殊な成分です。通常の植物での治癒は難しいかもしれません」
シオンは、彼女の指先が細かく震えているのに気づいた。疲労のせいだけではない。傷付けられた心が、彼らを拒んでいるのだ。今、彼女は孤独と戦っていた。
「島の植物は独自に進化している種もあります。その中で、抗アレルギー作用の強いものが適しているのではないかと思います」
彼女の視線はテーブルに落とされたまま、彷徨うことさえ忘れているように、ただ一点を見つめていた。
「抗アレルギー?では、アレルギーが原因だと?」
シオンの問いに、メリッサは頭を振った。
「それは分かりません。ただ、可能性の話です」
弱々しい動作で、額に落ちた前髪を掻き上げた。
「探しに行きます」
メリッサは立ち上がり、家と呼ぶには粗末な、その木造りの小屋を出た。
出入口の扉を開けると、彼女は一瞬、空を仰いだ。曇天の切れ間から光が差し、金色の筋が海面へ渡っていく。背後に座している男たちを振り返った。
「だけど……人を若返らせる成分。つまり、アンチエイジングの成分が過剰に働いたと考えるのが自然です」
深い呼吸を整えるように言葉を区切りながら、彼女は続けた。
「シーブ・イッサヒル・アメルは基本的に薬草なんです」
その名を口にするとき、メリッサの声はかすかに震えていた。恐れではない。長い時間、書物の中でだけ出会ってきた名称が、現実として彼女の手の届く所へ提示された高揚感もあった。
「詳しいな」
シオンの静かな一言に、彼女は少しだけ息を詰め、感情を悟らせないよう視線を逸らした。
「自宅に、ルコが残した古い文献がたくさんあったんです。それを小さい頃から繰り返し読んでいました。まぁ、趣味みたいなものです」
その告白は、あまりに素朴で、同時に胸を締めつけるほど切実だった。
潮風に揺れる彼女の髪を見ながら、シオンは思う。この若き女性は、自らの過去に刻まれた苦しみを背負いながらも、人を救うための知識を己の中に育ててきたのだと。
そして今、彼女が差し出そうとしているのは、単なる知識ではなく、積み重ねてきた時間と努力と、彼女の人生そのものだった。
鈴蘭畑の間を抜ける風が、メリッサの髪を軽く揺らした。花々の甘い香りが漂い、海からの潮風と混ざり合って、薬師の島ならではの独特の空気を作り出している。
「魚座様、抗アレルギー作用のある植物を探してもらいたいんですけど、できますか?」
メリッサの声は相変わらず感情の色を失ったままだ。
「やってみよう」
アフロディーテの声には、静かで確かな力強さがあった。光を帯びるようなその声に、メリッサは少しだけ安心した。
「そしたら、どの植物がそうなのかってマーキングしてほしいです」
メリッサの言葉に、アフロディーテは優しく視線を下ろす。畑の間に差し込む陽光が、花の白と緑を反射して小さな光の粒を作り出していた。
「マーキングか……少し小宇宙を送って薄く光らせるくらいでも良いかい?」
アフロディーテの掌に、淡く青白い光が宿った。光はゆらゆらと揺れながら、花々の間を静かに漂い、特定の植物を穏やかに照らし出す。
「はい。それで大丈夫です」
メリッサは小さく頷く。その眼差しには、植物への深い愛情と、自分の役割を果たそうとする真摯な意志が滲んでいた。
「君は感応能力を持っていないの?」
メリッサは肩をすくめる。淡い光の中で、少し悲しげな笑みが零れた。
「ドリュアスの能力は、植物を支配して操るのを得意としてますけど、彼らはそれを好まないから……あたしは植物と友達にはなれないんです。あたしは植物好きなんですけど……言ったら、永遠の片想いです」
鈴蘭の花が風に揺れ、まるで彼女の言葉に応えるかのように優雅に揺れた。その光景は、メリッサの孤独と、尽きない愛情を象徴するかのようだった。
「そうか……いつか君の想いが通じると良いね」
アフロディーテの声は、穏やかでありながら、どこか未来への希望を含んでいた。
「そうですね」
メリッサは小さな微笑みを浮かべた。感情はまだ完全には戻らないが、花々に囲まれたこの空間で、ほんの少しだけ心が安らいだ瞬間だった。
海風と鈴蘭の香りが混ざる中、二人は言葉少なに畑を見渡した。純白の鈴蘭が、まるで柔らかい光に包まれるかのように輝き、静かで穏やかな午後の時間を刻んでいく。
鈴蘭畑に傾きかけた夕陽が、淡桃色や淡紫色の花々を金色に染め上げる。海風が潮の香りを運び、穏やかな波音が遠くから届く。アフロディーテの掌から静かに放たれた小宇宙は、島の植物たちに淡い光を宿らせ、まるで優しい星屑のように揺れていた。
メリッサは、光に照らされた植物の間を一つ一つ手で触れながら歩く。掌に触れる花弁は柔らかく、甘い香気や爽やかな香気を放つ。しかし、そのどれもが、彼女が探している“解毒に適した植物”ではないらしい。手のひらに残る感覚を確かめるたび、微かに肩をすくめ、首をひねる。
「……うーん、やっぱり違う」
ため息が潮風に混ざって宙を漂う。花々は揺れ、光は柔らかく瞬いているのに、メリッサの心はどこか宙を漂ったままだった。まだ、先ほどシオン=セージとして聞いた事実の衝撃が、胸の奥でくすぶっている。
傾きかけた陽の光が、メリッサの顔を黄金色に照らす。頬には疲労と苛立ち、そしてわずかな罪悪感が滲む。心のどこかで、ただの“普通の人間のセージ”として信頼していた相手が、実は聖域教皇だった事実を、まだ完全には受け入れられないでいた。
「遅くなると潮の流れとか変わっちゃうから、今日は帰ります。教皇様は瞬間移動できるから、聖域に戻ったらどうですか?港町には行かない方が良いと思いますけど」
声をかけるメリッサに、アフロディーテはやんわりと眉を寄せる。
「メリッサ、さすがにそういう言い方は……」
「え、あ、ごめんなさい。嫌味とかじゃなくて、その格好で港町に戻ったら、まずいですよって話です。だって、町の人達にも正体隠してるのに。バレても良いって言うなら、あたしは構わないけど」
夕陽に染まる畑の向こうで、メリッサは少し俯き、髪を風になびかせる。声は刺々しくないが、決して優しくもなかった。
「そうだな。そなたの言う通りだ。私は先に聖域へ戻ろう。アフロディーテ、カミュ、彼女の事を頼むぞ」
アフロディーテは頷き、柔らかな光を宿した瞳でメリッサを一瞥する。その眼差しには、尊重と信頼が込められていた。
「御意」
メリッサは、傾きかけた太陽の下で一瞬、シオンを見た。夕陽が自分の足元の鈴蘭を黄金色に照らすと、その光の中でまだ揺れる感情の影を、そっと押し込むように小さく息をついた。
胸の奥では、信頼していたセージが聖域教皇であった事実に戸惑い、受容できないもどかしさがくすぶっている。けれど、その感情を声に出すことはない。目の前の光と香り、穏やかな波音に身を委ねながら、メリッサは小さく肩を落とし、今日の作業を終えようとしていた。
静かな薬師の島の夕方は、海風に揺れる鈴蘭と、まだ混乱の残る少女の心を包み込みながら、ゆっくりと暮れていく――。
