Eine Kleine Ⅱ

 ミーノス襲撃の余韻も薄れ始めた頃――メリッサとレオンは命を懸けた戦場から帰還したこと、メリッサが冥闘士だったこと、レオンの出自の秘密を知ったことで、二人には奇妙な連帯感が育まれていた。
 大学の仲間たちは真相を知らぬがゆえに勝手な想像を膨らませ、噂がさらに噂を生んだ。
 「最近いつも一緒にいるよね」
 「ほら、昼休みとか、よく並んでカフェにいるじゃない?」
 「あれはただの友達だって聞いたけど。……でも、あの空気、どう見ても恋人じゃない?」
 「え、レオンくんのあの“守ってる感”すごくない?なんかボディーガードみたい」
 「いやいや、むしろ彼女の方が強そう」
 「試験前に二人で図書館にこもってたって聞いた」
 「えっ、それ本当?じゃあもう確定じゃん」
 根も葉もない噂は、広いキャンパスを風のように駆け抜け、誰もが面白がって尾ひれをつけた。
 中には、「彼女が事故に遭った時、彼が真っ先に駆けつけた」とか、「二人の間に運命的な絆があるらしい」などという、いかにも物語じみた脚色まで加わっていた。
 結論。

 ――二人は付き合っている。

 その噂は瞬く間に学内に拡散され、教室の隅々にまで届く。
 本人たちの知らぬところで、まるで新しい恋の物語が一人歩きを始めていた。
 それもただのカップルではない。
 “世紀の美男美女カップル誕生”とまで言われ、キャンパス内はちょっとしたフィーバー状態に陥っていた。
 普段から学食やカフェで一緒にランチをとっていたこと、時折二人で出かけていたところを目撃されていたこと……そんな些細なピースが次々と繋ぎ合わされ、出来上がったのがそのストーリーだった。

 ある日の昼休み、教室の片隅で四人の会話が続いている。
「ねぇ、今日も先輩に聞かれちゃったの。『二人って付き合ってるの?』って」
 アリサが溜息まじりに言う。
「わたしはそういう話、聞いてないって答えたけど……良かった?」
「うわ……アリサちゃん、ごめんね、毎日そんなこと訊かれて」
 メリッサが眉を寄せて申し訳なさそうに言えば「私は他学部の子から訊かれたわよ?」とクロエがさらりと続けた。
「……え。そこまで広がってるの、噂……?」
 呆然とするメリッサ。まさかここまでとは思っていなかった。アリサとクロエまで巻き込まれていることに、ひたすら恐縮するしかない。
「レオンくんも、ごめんね。何だか大事になってしまって……」
 その言葉に、レオンは頬杖をつきながら、少し小首を傾げて微笑んだ。
「僕はその噂――嬉しいけど?」
「……!」
 不意打ちのような優しい声。穏やかな光を湛えた菫色の瞳。
 メリッサの心臓がどくん、と跳ねる。
(あっぶな……今、ときめいた。なんて破壊力……さすがシオン様の血を引いてるだけあるわ…)
「さすが、イケメンは言うことが違うわね」
「ほんと。レオンのそういうところだよ?」
 クロエとアリサが即座にツッコミを入れる。
「でも、本当のことだよ」
 さらりと続けるレオンの声に、メリッサは苦笑しつつも、視線をそらした。

 確かに彼は、あの人――シオン様にあまりにもよく似ている。金の髪、紫の瞳、立ち姿、所作、そして笑ったときの表情まで。特に、少し前にシオンが短髪にしたせいで、さらに瓜二つになってしまった。
 けれど、性格はまるで違う。
 レオンは人懐こくて、よく喋る。気安く肩を並べて、軽口を叩く。シオンなら決してしないような仕草や言葉を、レオンは平気でする。
 さっきの頬杖もそうだ。
(シオン様、頬杖なんてしなそうだけど……)
 そんな風にして、ふと心が揺れる。
 レオンと過ごす時間は穏やかで、楽しくて、心を和らげてくれる。でもそれでも、胸の奥には一つだけ、答えのような気持ちが残っている。
(……シオン様に、会いたいな)
 その想いは、まだ口に出せそうもない。だけど確かに、メリッサの胸の中に生きていた。


 聖域の高台、スターヒルと呼ばれる場所で、シオンは一人、星を見上げていた。
 彼の胸の奥には、静かだが深く淀んだ思念が横たわっていた。先の戦闘。ミーノスが放った言葉。あれは交渉の皮を被った、卑劣極まりない脅迫だった。

『あなたが帰還を拒否するというのなら……ここで、全てを話しましょうか?』

 シオンは、奥歯を噛み締めていた。
 冥闘士としての過去を捨て、普通の大学生として生き始めた彼女の、まだ癒えきらぬ過去を。
 己の無力によって許してしまった、あの出来事を。
 己の罪として心に刻んだはずのそれを、よりにもよって敵に突きつけられたのだ。

 あれは、決して交渉ではない。
 力の差、立場の非対称を利用した、ただの圧迫であり、凌辱に等しい。
 そして何より……
 メリッサがその記憶にどれほど苛まれているか。
 知られることをどれほど恥じ、恐れているか。

 彼女の脆さも、勇気も、言葉にできぬほど知っているからこそ、シオンの胸にあるのは怒りよりも、深い後悔だった。
 彼女を守れなかった。
 そして今もなお、彼女はその影に怯えながら、それでも前を向こうとしている。
「――私が、もっと強ければ……」
 呟きは風に溶けていく。
 教皇として、黄金聖闘士として、そして何より一人の男として。
 自分はあまりに無力だった。
 それでも、彼女が自分を恨まず今も笑顔を忘れずにいてくれることが、どれほど救いであり、どれほど罪深いことか。
「……メリッサ」
 名を呼べば、胸の奥が疼く。
 今、彼女は自ら選んだ世界で、同世代の若者とともに――あの青年、レオンとも――歩んでいる。
 だからこそ、シオンは願う。

 ――彼女が、心から笑える未来を。

 それがどれほど切なく、どれほど痛みを伴う願いであっても。それが、自分にできる、たった一つの償いなのだと。


「メリッサ、レオンのこと、どう思ってるの?」
 唐突に投げかけられたクロエの問い。
 あたしは思わず言葉に詰まり、食事の手を止めてしまった。学食のざわめきが、ひどく遠くに感じる。
「どう、って言われても……」
 言い淀んだまま、返事の続きを探しているうちに、自分の胸の奥が波立ち始める。

 どう、思ってるんだろう。レオンくんのこと。

 彼があたしに好意を寄せてくれているのは、間違いない。視線、距離感、言葉の端々――優しさに紛れた確かな気持ち。
 あたしが少し俯いただけで、すぐに察して声をかけてくれる。笑ってくれる。真っ直ぐに。
 でも、あたしは……?
 レオンくんに、同じような感情を向けているだろうか。あたしがレオンくんに惹かれる瞬間がないわけじゃない。彼の笑顔に、胸がときめくこともある。優しい声に、ふと心がほどけそうになることもある。
 でも、その瞬間、決まって浮かんでくるのは、シオン様の姿だった。
 レオンくんの笑い方が、些細な仕草が、あまりに  も似ているから。
 それだけじゃない。
 あたしの心のどこかが、レオンくんを通して“シオン様の面影”を見ようとしてしまっている。
 シオン様の代わりにしてはいけない。
 そう思うたびに、胸が痛む。
 レオンくんにだって、彼自身の人生がある。彼は彼で、誰かの代わりなんかじゃない。それを分かっているつもりなのに、どうしてこんなに心が揺れるんだろう。
 シオン様――会いたい。
 きっと、はっきりしないこの気持ちの答えは、そこにある。
 レオンくんに対する想いも、シオン様に対する想いも、偽物なんかじゃない。でも、ちゃんと向き合わなきゃ、どちらにも失礼だ。

 大学、忙しいけど行こう。
 聖域へ。
 シオン様に会いに。
 そして、自分の心とちゃんと向き合おう。

 提出期限3日前、メリッサは部屋にこもり、ひたすらレポートに向き合っていた。睡眠も食事も後回しにして、神経を限界まで張りつめたままキーボードを叩き続ける。明け方、ようやく提出に耐えうる形に仕上げた頃には、東の空が白み始めていた。体は重かったが、不思議と心だけが浮足立っていた。
 ずっと気になっていた――どうでもいいほど些細な疑問。
「シオン様、頬杖なんてつくのかな」
 そんな思いがレポートよりもずっと胸を占めていた。

 徹夜でレポート作成をした日、夕方の講義を終えた頃には、もう迷いはなかった。
 メリッサは大学から直接、聖域へ向かった。
 アテネ市街地の雑踏から少しずつ離れ、地元民もめったに通らぬ裏通りを進んでいく。石畳の小道は徐々に勾配を増し、点在する古い教会や林の合間を縫うように歩くにつれ、風の匂いが変わってゆく。都市の湿った空気が抜け、乾いたオリーブと大地の香りが鼻腔をくすぐった。時折すれ違う車もこの辺りまで来ると、もう見ない。まるで現代の地図から切り離されたような静寂が、そこにはあった。
 アクセスの悪さは慣れたものだったが、今日に限って道のりがいつもより長く感じられた。理由はわかっている。緊張だ。胸の奥がじわりと熱を帯びて、足元が少しだけふらつく。目の前にいるはずの姿を、頭の中では何度も思い描いているのに、それでも実際に会うとなると、鼓動が収まってくれない。
 聖域の外郭に近づくと、視界がぐっと開けた。
 切り立った岩肌と、古代ギリシア風の建築群。辺りは既に陽を失い、月明かりと星々の光を薄くまとって白壁が静かに浮かび上がっている。見慣れたはずの風景が、今日は妙に遠く、そして懐かしかった。
 門に立つ衛兵は、彼女の姿を認めると小さく会釈した。
「ご用件を伺ってもよろしいですか、メリッサ・ドラコペトラ嬢」
「教皇様にお目通りを願いたいのですが」
 身分証明と通行許可証を提示すると衛兵は頷き、詰所へと連絡を取る。しばしの間、無言の静寂が続いた。
 胸の奥がざわつく。断られることはないと分かっていても、シオンと会うときは、いつだって心が落ち着かない。
 やがて、衛兵が戻ってきた。
「お通りいただいて構いません、とのことです」
 その一言に、肩の力がふっと抜けた。
 正式な申請を経て通された――ただそれだけのことなのに、向こうが自分の訪れを拒んでいないと知った瞬間、胸の奥が柔らかくほどけていくのを感じた。

 階段を一段、また一段と上るたび、靴の音がやけに響いて聞こえる。遥か高みに聳える教皇宮。石段をひたすら踏みしめる。初めの頃は、一体何段あるのか数えたものだが、今ではもう諦めた。
 十二の宮殿を抜け、教皇宮の前庭に足を踏み入れた瞬間、空気がひときわ張りつめた。
 ここから先は、聖域でも限られた者しか入れない場所だ。
 正門の前で待ち構えていた衛兵が、槍を交差させて行く手を塞ぐ。
「身元の確認をいたします。通行証を」
 メリッサは小さく頷き、胸ポケットから通行証を取り出した。教皇宮に入るときだけに使われる、白金の封蝋が押されたものだ。
 衛兵が丁寧に封を確かめ、視線をメリッサへ戻す。
「確認いたしました。お入りください」
 門が静かに開く。
 そこから先には、案内役の官吏が控えていた。深い緋色の衣は、教皇宮付きである者だけに許されるものだ。
「メリッサ・ドラコペトラ嬢、こちらへ」
 彼に導かれて歩き出すと、回廊の白さがひどく眩しく感じられた。
 胸の奥は、歩幅と同じ速さで落ち着きを失っていく。理由はわかっていた。会いたいという気持ちが、抑えようとしても募ってくるからだ。
 執務室の前で官吏が立ち止まる。
 メリッサはそっと息を吸い、吐き出した。細い呼気が熱を帯びて揺れる。
 何を話すのか、まだ決められない。
 どんな表情をすればいいのかも、わからない。
 それでも――この扉の向こうにいる人に、会いたかった。
 官吏が扉をノックする。
「恐れ入ります。メリッサ・ドラコペトラ嬢をご案内いたしました」
 中から、静かな声が返る。
「通せ」
 扉がゆっくりと開いた。
 蝋燭の光が薄暗い廊下に差し込み、その奥にシオンがいた。
 彼の姿を目にした瞬間、頭の中が真っ白になる。緊張も言葉も、胸の奥で音を立てて崩れていく。代わりに、何かがふっとほどけて、自然と笑みがこぼれそうになる。
 官吏が一礼して立ち去る。メリッサはそれを確認してから室内に足を踏み入れた。
「……来ちゃった」
 言葉が、空気のように流れていった。
「メリッサ……講義は終わったのか?」
 執務机に広げられた文書から顔を上げたシオンは、部屋の入り口に立つ彼女の姿を捉えて、ふと声の調子を和らげた。日中の張り詰めた空気は影を潜め、教皇執務室に差し込む月光が、静かに二人を包んでいた。
「うん」
 メリッサは小さく頷いて、そっと扉を閉める。
「一人で来たのか?」
「……うん」
 今度はほんの少し間を置いて。おずおずとしたその様子に、シオンの胸がぎゅっと締めつけられる。
 はにかむような笑顔。けれど、夜道を若い娘一人で歩くにはあまりに心許ない。それを理解しているからこそ、彼は軽く眉を寄せて言った。
「何かあったらどうするつもりだ?夜道は……危うい」
「でも……どうしても会いたかったし」
 メリッサは身を縮め、言い訳するように言った。その手元に目を落とすと、組んだ両手の親指がそわそわと擦れ合っている。視線は床を彷徨い、どこにも落ち着かない。
 シオンは、言葉をなくした。
 その仕草のなんと無防備で、愛らしいことか。胸に走った熱は、抑えていた感情をあっさりと凌駕していく。
 そっと椅子を離れ、彼女に近づく。メリッサが目を上げた瞬間、シオンは迷わずその華奢な体を抱きしめた。
「……奇遇だな。私も、同じことを考えていた」
 腕の中で、メリッサの体がびくりと震えた。けれど、拒まない。むしろ安堵したように、ふわりと体を預けてくる。
「やった。あたしたち気が合うね」
 囁くように笑うその声が、たまらなく愛おしい。
 シオンは思わず彼女の髪に顔を埋めた。甘い果実のような香り。細く柔らかい髪。腕の中にすっぽり収まる、かけがえのない存在。
「シオン様……?」
 不思議そうに問いかける声が、腕の中でくぐもって聞こえた。シオンは小さく息を吐いて、抱きしめたまま囁いた。
「……愛いな」
「うい?」
 怪訝そうな声に、彼は微笑を含ませながら答えた。
「そうだ。健気で可愛い、という意味だ。――メリッサ」
 瞬間、メリッサの顔がみるみる紅潮していく。まるで夕陽の名残が肌の内側から染み出したかのように、頬から耳の先まで、真っ赤に。
 シオンはその様を、息を詰めて見つめた。可愛い、という言葉ではまるで足りない。むしろ、そんな月並みな語彙しか見つけられない己の無力を悔やむほどに、彼女の存在は胸を焦がす。
 この手に抱いてなお、まだ信じられない。――本当に、ここにいてくれるのか。
 その想いが、腕に、声に、温度となって溶けていく。
 彼女の鼓動がそっと伝わってくる。柔らかく、ひたむきで、そして何より温かい。
「で、私にどうしても会いたくなった理由は?」
 そう問いかけながらも、シオンはメリッサを抱きしめたまま動かない。声は低く、穏やかで、けれど微かに緊張を帯びていた。腕の中にある温もりを、まるで壊れ物でも扱うように大切にしている。
「……確かめたいことがあったの」
 メリッサの声は小さく、それでも揺るぎなかった。
「何を確かめたかった?」
 その一言に、メリッサの喉がつっと鳴る。胸の奥に溜めていた思いが、浮かび上がるようだった。
 自分の気持ち。レオンとシオンと。似た姿、似た声。でも違う。それを明確にするために、彼女はここまで来たのだ。そして、もう答えは出ていた。
 シオンといるこの瞬間、時間が音を失い、世界が色彩に満ちる。触れられるだけで心が跳ねる。
 対して、レオンに抱くのは、あくまで親しみ。家族に近いような穏やかさ。手を繋げばきっと胸は高鳴るだろう。でも、そこまでだ。
 シオンが同じ距離感にいたなら、どうしようもなく、もっとを望んでしまう。その先を期待してしまう。この熱も、鼓動も、紛れもなく“恋”だった。触れられたことで、より鮮明になった。
(やっぱり、あたし、シオン様のことが一番好きなんだな……)
 心の中で、そっと確信する。けれどそれを言葉にするには、まだ少しだけ勇気が足りなかった。だから、もう一つの、別の“確かめたかったこと”を口にする。
「……シオン様も、頬杖つくことある?」
「……は?」
 ぴたり、と空気が止まった。
 何を言い出すのかと構えていたシオンは、その突拍子もない問いに明らかに面食らった様子だった。抱きしめたまま動きを止め、メリッサの顔を見下ろす。
「いや、なんとなく……ちょっと、気になって……」
 メリッサは視線を逸らし、口元をごまかすように指で撫でる。

 沈黙が流れる。

 その奇妙な空白に、窓の外で風が木々を揺らす音だけが微かに聞こえる。

 シオンはゆっくりと瞬きをした後、唇の端を持ち上げた。困惑と照れと、そして……ほぐれるような、柔らかい微笑。
「そなたは、時折…全く読めぬな」
 ぽつりと呟くその声音に、愛しさが滲んでいた。
「頬杖なぞ、しょっちゅうついているぞ?」
 さらりと放たれたその言葉に、メリッサは瞳を丸くした。
「え……!そうなの!?」
 思わず身体を起こし、驚愕の面持ちで見上げる。シオンはそんな反応が返ってくるとは思っていなかったのか、ひとつ眉を上げ、苦笑した。
「……いや、そんなに驚くことか?」
「うん、驚く!絶対しないと思ってた!」
 興奮気味にこくこくと頷くメリッサの様子に、シオンは小さく息を吐いて笑う。苦笑というより、呆れ混じりの慈しみ――まるで、予想外の行動に振り回されながらも、それすら愛しくてたまらないというような、そんな笑みだった。
「そなたは、私のことを随分と美化しているようだが……私とて普通の、一人の男だぞ?」
 メリッサの動きがぴたりと止まる。「普通の」という言葉が、胸の奥にじわりと染み込んでいく。
「普通の、男の人……?」
 呟き返すように口にしたその言葉に、シオンはほんの少しだけ目を細め、柔らかく――けれど決して冗談ではなく、真摯に語った。
「ああ。そなたにどうしようもなく恋している、普通の男だよ」
 目から鱗が落ちる、とはまさにこのことだ。彼は、神でも英雄でもない。ただ、自分を想ってくれる一人の、心を持った人間なのだ。

 メリッサは言葉もなく見つめ返した。
 鼓動が早くなる。温かい何かが胸いっぱいに広がって、頬がじんわり熱を帯びる。
 この夜の静けさが、愛しさを引き立てていた。
「で、私が頬杖をつくのかどうか――こんな時刻にわざわざ確かめに来たのは、もしや…レオンか?」
 さらりと投げかけられた名前に、メリッサの背中がぴくりと跳ねた。
「ゔ……」
 思わず口をつぐむその反応だけで、答えは明白だった。
「図星か…」
 シオンは浅くため息をついた。咎めるというよりは、軽く肩を落としたような響き。呆れと苦笑、そして少しの――ほんの少しの嫉妬が滲む。
「そうなの…レオンくんが頬杖ついてたのを見て…その、ちょっと…」
 言いにくそうに視線を逸らしながらメリッサが白状する。頬に手を添え、小さく身をすくめて。シオンの前ではいつも素直でいたいけれど、これはさすがに言いづらかった。
「なるほど…まあ、何があったのか、大方想像はつくがな」
 皮肉でも怒りでもない、どこか寂しげな声音。それがかえってメリッサの胸に刺さる。
「……ごめんなさい」
 項垂れた肩が小さく震えた。反省しているのは本当だった。シオンがどれほど自分を想ってくれているか、もう嫌というほど知っているのに。
 そんな彼女の様子に、シオンはしばし沈黙した。だが、次の瞬間には唐突に姿勢を正し、端然と口を開いた。
「――同じようにしてみせよう。レオンは、どういう仕草をしたのだ?」
「えっ…?」
 顔を上げたメリッサは目を丸くする。けれど、シオンの目は至って真剣だった。どこか対抗心に火がついているらしく、その神々しい顔立ちに妙な気迫が宿っている。
「教えてくれ。そなたの前で、どう頬杖をついていた?」
 メリッサは思わず吹き出しそうになるのを堪えながら答えた。
「こ、こんな感じ…?左の頬に手を当てて、ちょっとだけ小首を傾けて…それから……にこっ、てしてたかな」
「なるほど」
 シオンは静かに頷き、執務机へ移動した。重厚な椅子に座し、机の端に肘を乗せると、メリッサの言葉通り、左手で頬を支えた。そして、ほんの僅かに首を傾け――緩やかに笑ってみせた。

 その瞬間、教皇の威厳を纏った青年は、メリッサだけを見つめる一人の男になった。視線の奥にある感情が、頬杖だけでこんなにも伝わってしまうことに、彼女は胸を撃ち抜かれた。
「……どうだ?」
「……ずるい。そんなの、反則だよ……」
 メリッサの顔が、みるみるうちに真っ赤になる。レオンの仕草など、今や遠い記憶の底に沈んだ。ただそこにいるのは、愛おしさで胸が詰まりそうになるほどの、たった一人の人。
「これで、レオンに対する気持ちなど、吹き飛んだのではないか?」
「うん、もう……何か…ごめんなさい…」
「おいで、メリッサ」
 シオンは微笑を崩さぬまま、そっと手を伸ばした。今度は頬杖ではなく、その手でメリッサの頬を優しく撫でる。夜の静寂のなかで、二人の距離は、もう言葉もいらないほど近づいていた。
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