Eine Kleine Ⅱ
クロエからブレスレットを渡されたあの日から、何かが静かに――けれど確実に、動き始めていた。
音もなく歯車が回るように、目には見えない変化が日々の隙間に染み込んでいく。
メリッサはまだ、その変化に名前を与えられずにいた。
ただ胸の奥で、何かがゆっくりと形を変えていくのを感じながら、いつもの日常を過ごしていた。
あれほど苦戦したレポートは、気づけば終わっていた。
難解な文献を前に、頭を抱えながら夜を過ごした日々。資料の海で迷子になりそうなとき、いつも隣にはレオンがいた。互いに励まし合い、冗談を交わし、少しだけ肩を寄せて笑った。
そうして生まれた一本の成果物が、ようやく完成した。
レポートを提出した数日後の帰り道。冬の夕暮れが落ちきった坂道を、二人並んで歩いていたときだった。
レオンが、ふと横で小さく笑った。
「……頑張ったね」
その声に、メリッサもつられるように微笑む。
講義後、教員から講評が返却されたのだ。提出してから待ち続けた緊張が、ようやくほどけた日だった。
「うん。ね、ね、思ったより……すごく良かったよね、あたしたち」
講評に書かれた『高く評価する』という言葉を見た瞬間、二人は反射的に顔を見合わせ、思わず小さく声を上げた。
肩をぶつけ合うでもなく、ただ静かに、共有した達成感が胸の奥をあたためていく。
努力は、無駄じゃなかった。
その確かな実感が、冬の帰り道を柔らかく照らしていた。そして、その温度はすぐに形を変えた。嬉しさと一緒に、どうしようもないざわめきが胸の底に沈んでいく。
その感情は、名を持たないまま、静かに息を潜めていた。
レオンの笑顔を見るたびに、胸の奥で微かな痛みが広がった。
感情の正体は、メリッサ自身よく分かっている。
レオンが――シオンに似すぎているからだ。
ふとした仕草、声の調子、考え込むときの沈んだ横顔。
その全てが、記憶の底に沈めたはずの彼を呼び覚ます。
思い出してはいけない、と分かっている。
レオンはレオンであって、シオンの代わりではない。
そんな当たり前のことを、何度も心の中で繰り返してきた。なのに、思い出の影は消えてくれない。
レオンの存在が、気づけば日常の呼吸のように自然になってしまったからこそ、余計に――忘れることができない。
何と、虫の良い話だ。
胸の奥で、ひどく冷たい声がした。
初めにシオンを拒み、突き放したのは自分だというのに。
なのに今では、レオンのことを素直に好きになりきることもできず、シオンへの想いも断ち切れない。
――優柔不断で、愚かで、情けない。
レオンのことを――何も考えずに好きになれたら、どれだけ楽だっただろう。
けれどそんな資格はない。
あの人のことも、目の前にいる彼のことも。
あたしなんかが好きになるなんて、許されるはずがないのだ。
そんな風に自分を責める夜が、静かに増えていった。
季節は少しずつ移ろい、学内の空気が冬の冷たさに包まれた頃。
地上の人間たちが知らぬところで、冥王軍が、再び蠢き出していた。
その日は、午後の講義が急遽休講となった。
講義棟の階段を下りたところで待っていたレオンは、いつもと同じ柔らかな笑みをたたえながら、手に持っている一枚の紙を差し出した。
「夜の公演、観に行かない?話題のミュージカルなんだ。すごく評判のいいやつで、よかったら一緒に」
最近では珍しい紙のチケット。そこに記された演目を目にしたメリッサの声が明るく弾んだ。
「ミュージカルなんて、初めて!でも……そんなに人気の公演のチケット、よく取れたね?」
メリッサが目を丸くすると、レオンは少し頬を赤らめた。
「招待チケットなんだ。祖父の知人が関係してて……」
「招待されたの?レオンくんが?」
彼は少しだけ居心地悪そうに肩をすくめた。
「うん。ほんの、ちょっとしたご縁でね」
――レオンくんて、やっぱりお坊ちゃまなんだ。どこかの貴族の血でも引いてるんじゃ……
そんな冗談めいた思考が、彼の立ち居振る舞いや穏やかな物腰と重なって、メリッサの心に妙な納得感をもたらしていた。
劇場へ向かう道すがら、午後の風がビルの谷間を吹き抜ける。並んで歩く2人の影が、歩道に淡く長く伸びていた。
だが――。
「……っ!メリッサ」
レオンが突然、ぐいと彼女の肩を引き寄せた。
不意に胸元に飛び込んだレオンの体温と、耳元で囁かれた言葉に、メリッサの鼓動が跳ねる。
「え、何?どうしたの?」
「……何か、嫌な気配がする」
その声音は、いつもの穏やかなレオンとは違っていた。静かだが、鋭く張り詰めている。
見ると、彼の紫の瞳が闇の彼方を見つめるように細められている。
ふざけていない。冗談のかけらもない。
そして次の瞬間――。
「……っ!」
メリッサの手首に巻かれた水晶のブレスレットが、淡い光を放って震えた。透き通った珠がまるで心臓の鼓動のように脈動し、次第に微細なひびが入り始める。
(クロエちゃん……! これは――瘴気!?)
***
遥か遠く、聖域・処女宮。
花の香に包まれた沙羅双樹の園で、シャカは結跏趺坐を組み、静かに瞑想していた。そして、微かに空気が揺れた刹那、彼はゆっくり立ち上がった。
「……動いたか。冥王軍が」
その言葉は、風のように空間に溶け、即座にヘスティアのもとへと伝わる。
神殿の高台、茜に染まりかけた空の下で佇むヘスティアは、シャカからの報告を受けると、くい、と顎を上げて言った。
「ありがとう、シャカ。全軍、迎撃態勢を取りなさい。ただし――」
その声音は静かで、しかし神の威厳を帯びていた。
「こちらから先制することだけは、まかりなりません。聖域はあくまでも、“地上の守り手”としての誇りを失ってはなりません」
その言葉に、周囲の空気がぴんと張り詰める。
シャカは深く一礼し、声なく消えた。
***
一方、街では、ブレスレットがついに砕ける音とともに、一筋の闇が空間を裂いた。
メリッサはその黒い“歪み”を見つめながら、内なる血が騒ぎ始めるのを感じていた。
(……来る。ミーノスが)
その直感は、かつて冥界に身を置いた者にしかわからない確かな感覚だった。そしてその隣には、知らぬはずの血の記憶に、何かを呼び起こされそうになっている青年がいる。
――“彼”の血を引く者、レオン・カヴァリエ。
その存在が、今まさに嵐の中心に巻き込まれようとしていた。
「レオンくん、ここから離れて——!」
メリッサは咄嗟に彼の腕を振りほどこうとした。しかし、それはほんの一瞬、間に合わなかった。
黒い霧。
それはあまりにも素早く、あまりにも滑らかに、二人の周囲を絡め取るように広がった。
視界が閉ざされ、足元の感覚がふっと消える。暗転する寸前、レオンの驚愕に染まった瞳と、彼の口が形づくった「メリッサ…?」という言葉が、やけに鮮明に脳裏に焼きついた。
次に目を開けたとき、そこは見慣れた風景だった。
乾いた赤土と、鋭利な岩の突き出す大地。空は灰色に曇り、遠くに聖域の象徴たる教皇宮が霞んで見える。
「……聖域、だ」
メリッサの声が震える。瘴気に包まれた風が、髪をなぶって吹き上げた。
空間移動の際の衝撃にふらつきながらメリッサは辺りを見回した。だが、そんなことにかまけている暇はなかった。レオンの存在がすぐ近くにある。それだけが今、彼女を奮い立たせていた。
傍らのレオンは、手で額を押さえ、呼吸を整えている。その顔は血の気が引き、青ざめていた。
「だ…大丈夫?レオンくん…」
「うん…いや、わからない…。何が起きた…?ここは…どこだ?」
「聖域――でも、ただの聖域じゃない。これは結界の内側。特別な空間だと思う…」
「聖域…?何それ?」
レオンが青ざめた顔を上げ、必死に周囲を見渡している。怯えと、混乱と、守るべき人を前にしての無力感。
その瞬間、空間が軋む音がした。
見えないガラスを叩き割るような、耳障りな音。空が裂け、そこから冥府の闇が漏れ出す。ぞろぞろと現れるのは、冥王軍の兵たち。黒い鎧に身を包み、仮面のように無表情な顔。
一体、また一体と数を増して、包囲の輪が形成されてゆく。
(逃げ道がない……)
レオンの腕をとって、庇うように彼の前に立った。
「……っ、レオンくん、下がってて。ここはあたしから離れないで」
その声音は、覚悟に満ちた戦士のそれだった。まるで、過去の己が戻ってきたかのように。
レオンは言葉を失ったまま、目の前のメリッサを見つめていた。
彼女の周囲に、冥府の闇が集まり始める。
メリッサの瞳が冥府の光に染まると同時に、その身に黒き冥衣が纏われてゆく。
光に背を向けた者に与えられる鎧。けれど今、それは誰よりも崇高な意思の象徴として輝いていた。
「メ……メリッサ……?君、その姿……?」
「お願い、今は訊かないで。守らなきゃいけないの……あなたを」
言葉は優しく、けれど確かな覚悟を含んでいた。
冥闘士たちが剣を抜き、槍を携え、一斉に突撃の構えをとる。
メリッサの言葉が終わるか終わらないかのうちに、空気が震えた。地鳴りのような音。霧が再び揺れ、空間の裂け目がさらに拡がった。際限なく姿を現す影、影、影。
裂け目から止めどなく流れ出る瘴気の濃度は、もう並の人間なら意識を失うほどだ。メリッサの背後でレオンが震えを堪えていた。
(これ、まずい……この瘴気、普通の人間には……!)
まずはレオンの安全を確保しなければならない。
メリッサは冥衣の力で蔓を自在に操り、彼の前に防壁を張る。間髪入れず、冥闘士たちが攻撃を開始した。鋭い蹴りと重い拳が、嵐のように彼女を襲う。
だが――
「伸びろっ!」
彼女の足元で、瞬時に芽吹いた種子が巨大な蔦となって伸び、敵の攻撃を受け止める。小宇宙の制御に長けたメリッサならではの戦術だった。
レオンはそれを、目を見張るような思いで見つめていた。だが彼にもわかる。多勢に無勢だ。メリッサの呼吸が荒くなっている。防御の蔓が一本ずつ斬られ、動きが鈍くなっていく。
「だめだ…このままじゃ保たない…!」
冥闘士たちの気が一気に高まる。全員の小宇宙が一点に集中し、巨大な破壊の奔流となってメリッサを襲おうとしていた。
「メリッサーッ!!」
レオンが絶叫した瞬間だった。
何かが、レオンの内で弾けた。白銀の光が彼の体を包み、その掌から放たれた小宇宙が地を走り、空間を震わせた。
メリッサの目前に、まるで神が編んだかのような防御壁――光の結界が展開される。それはシオンのクリスタルウォールにも似た、けれどもっと拙く、歪な防壁だった。
「これ…レオンくん…?」
呆然と呟くメリッサ。
だがレオンは、その力を使いこなせていない。手が震え、呼吸が荒い。端正な顔は恐怖に引きつっている。それでも――
「……僕、子供の頃からずっと爺ちゃんに言われてたんだ」
震える声。けれど、眼差しは真っ直ぐだった。
「18の時に出会う女の子を命懸けで守れって……それが、君だったんだ……メリッサ。マジで……命懸けだよ、こんなの……怖いに決まってるよ……っ」
笑おうとした口元が震える。でも、彼は一歩、彼女の前に出た。
「でも、僕は君を守りたい…!」
メリッサの胸が締めつけられる。
なぜ彼は、ここまでして――自分を?
それはただの優しさではない。運命と、信念の狭間で揺れながらも、前に立とうとする意志だった。
「レオンくん……!」
思わず手が伸びる。指先がレオンの背に触れた、そのときだった。
空気が弾け、天地の気流が瞬時に反転した。強烈な光の粒子が空から降り注ぎ、聖域全体に眩い震動が走る。
「――もう十分だ。ここから先は、私が引き受けよう」
響いた声は、まっすぐに澄んでいた。だが、同時に空間をも支配する威厳を孕んでいる。
闇を切り裂くようにして、白金色の光がその場に降り立つ。
光が黒い兵たちの間を一閃し、数人が沈む。
そして姿を現したのは、白金の聖衣を纏った青年。
風が金の髪を揺らし、紫の瞳が鋭く光を捉えている。身に纏う白金の鎧は、闇の中でさえ眩く煌めき、その佇まいは、ただそこにあるだけで世界の重心を変える。
「……え?」
その姿を見た瞬間、レオンは息を呑んだ。
意識が逸れ集中が切れた途端、レオンの張った防壁は音もなく空気に溶けていった。
「僕……?」
目の前の男が、あまりにも自分によく似ている。
髪の色、瞳の色、顔立ち。
いや、もう、“似ている”という次元を超えていた。
「そなたが、レオン・カヴァリエか」
男が言った。落ち着いた声、だが心に響く威厳と圧倒的な支配力を含んでいた。
「は、はい……」
言葉が、震えながらも自然と口をついて出る。
その時、メリッサが叫んだ。
「シオン様!」
彼女の声が震え、男の名を呼ぶ。次の瞬間、迷うことなくその胸に飛び込んでいた。
「……メリッサ」
シオンの手が、そっと彼女の背を抱く。彼の瞳が柔らかく細められ、その場だけ別の空気で満たされる。
レオンは悟った。
二人の間で何かが確かに“結ばれていた”ことを。
「……メリッサがずっと思い続けてた人だね」
彼の言葉に、メリッサが振り向いた。
「僕、知ってたよ。メリッサには、ずっとずっと、大好きな人がいるんだってこと」
その瞳に、切なさも、寂しさもなかった。ただ、まっすぐで優しい光が宿っていた。
「レオンくん……」
彼女の頬を、涙が一筋、また一筋と零れ落ちていく。
「泣かないで、メリッサ。僕、メリッサが泣いてるとこなんて、見たくないよ」
その言葉に、胸が熱くなる。
「……レオンくん…ありがとう……」
メリッサの声が、喉の奥から震えたように漏れる。
メリッサを抱き締めるシオン。そんな中でさえ、彼の佇まいそのものが圧倒的な力の象徴だった。
(もう……怖くない)
白金の聖衣が放つ気高き光に、冥闘士たちが一瞬、たじろぐ。彼の紫紺の瞳が鋭く戦場を見渡し、即座にレオンとメリッサの負傷を確認する。
「そなたたちに手出しはさせぬ。」
その声は静かで、だが何よりも重かった。
シオンは自らの背中にかけていた、純白のマントをばさりと脱ぎ、そっとレオンの肩に掛けた。
「このマントは神のご加護を受けている。短い間とはいえ、周囲に渦巻く瘴気からそなたの身を護ってくれよう」
レオンの肩で、マントがふわりと揺れた。
そして、シオンが掲げた掌から小宇宙が放たれる。
レオンとメリッサの周囲に二重のクリスタルウォールが張られる――鉄壁の防御だ。
菫色の瞳が闇からの戦士たちを一瞥する。
「聖域教皇として警告する。これ以上の侵攻は許さぬ。退くがよい」
言葉と同時に、彼の周囲に小宇宙が集中する。
空間全体が震えるほどの圧力が、冥闘士たちを一歩後退させた。
冥闘士たちが怯む。だが――
「これはこれは、教皇自らお出ましとは」
空間が再び割れ、そこに現れたのは、冥界三巨頭の一人――ミーノス。嘲笑を浮かべたその姿に、メリッサが息を呑む。
(まさか…ミーノスまで…)
「シオン様!あたしをここから出して!」
叫ぶ声が震えていた。メリッサはクリスタルウォールの内側から両拳を打ちつける。透明な防壁は微動だにせず、ただ静かに周囲の瘴気と喧騒を隔てていた。
叩いても、叩いても――砕けない。
閉ざされた空間に響くのは、自分の心音と、向こう側から聞こえる殺気を孕んだ小宇宙の鳴動――。
「そなたは、そこにいろ」
淡々とした口調の奥に、強い意志があった。
シオンは、メリッサを一瞥もしないまま、前方の影に視線を向けている。かつて冥界の三巨頭と恐れられた男、ミーノス。彼の存在が歪ませる空間を正面から見据えて、シオンは微動だにしなかった。
「ミーノスは私が相手する」
「だめだよ、そんなことしたら……!」
喉が痛むほど声を張る。
「協約違反になる!」
忘れたはずがない。シオンも、ミーノスも。あの聖戦の後、聖域と冥界が交わしたあまりにも脆く繊細な均衡の上に成り立つ不可侵条約。前回交戦した事は咎められていないが、今再びここでそれを破れば――戦乱の扉が開かれる。
「フッ……」
ミーノスが低く笑った。瞳の奥に不穏な揺らぎが灯る。
「さすが私の部下ですね。冷静に物事を見れている。まぁ、心配しないでください」
彼の語調が変わる。皮肉ではなく、真顔で。
「私も、協約の反故は望んでいません」
「……では、何をしに来た」
シオンの声が鋭くなる。クリスタルウォールの向こう側で、メリッサは固唾をのんだ。
一瞬、風が止んだかのような沈黙。
ミーノスは一歩、ゆっくりと前に出る。
そして、言った。
「単刀直入に申し上げます。――メリッサをお還しください」
しかし、その一言が空気を大きく変えた。
シオンの紫の瞳が、明確に見開かれる。
その背に、ただならぬ気配が奔った。
「……メリッサを?」
シオンの声が低く揺れた。ほんの微細な波紋――だが、それはメリッサには、はっきりと伝わった。彼の中の何かに触れたのだ。
それは恐らく、逆鱗。
しかし、ミーノスは構う様子も見せず、わざとらしく一礼してから言葉を継いだ。
「ええ。彼女は冥闘士です。……元、と言うべきでしょうか?いずれにせよ、彼女の能力――植物の種子を操り、瞬時に育てあげる力は、冥界の維持にとって非常に重要なのです。混沌を浄化し、秩序を取り戻す。その力は、冥界の再建に不可欠なのです」
唇の端に、微笑が浮かぶ。
「だから、どうか――天立星ドリュアスのメリッサを、我が元へお還し願いたい」
重く、静かに空気が沈んだ。
「断る……と言ったら?」
シオンの声は、氷のように冷たかった。その一言に、クリスタルウォールの内側でメリッサの胸が小さく跳ねた。
ミーノスは肩を竦める。
「それは困りますね。しかし……聖域の教皇ともあろうお方が私情に流されるのは、些か――危ういことではありませんか?」
その言葉は鋭く狡猾だった。教皇という立場に慈しみや情愛が許されないことを、あくまで外側から指摘する。その冷ややかな皮肉に、メリッサは胸の奥が焼かれるような痛みに襲われた。
そして――。
「メリッサ」
ミーノスが、彼女の名をはっきりと呼ぶ。その声は低く、そして絶対的だった。
「還ってきなさい。あなたの在るべき場所へ」
メリッサは唇を噛みしめ、首を振る。
「……嫌だよ。あたしは……地上に生きるって決めたの。あたしは進みたい未来を選んだの。だから……そんな要求――お断りだよ!」
恐怖に震えながらも、声だけは強く返す。それしかできなかった。
けれど。
ミーノスは、すぐに表情を変えた。紫紺の瞳が細められ、冷えた刃のような響きが返ってくる。
「……本当に良いのですか?」
不意に、空気が張り詰めた。
彼の言葉が、地の底から這い上がってくるような冷気を孕む。
「あなた……16歳の頃にこの地で、何をされました?まさか、忘れたとは言いませんよね?」
メリッサの喉がヒュッと鳴った。時間もろとも、呼吸が止まったようだった。
「……な……んで……それを……」
吐息のように洩れた声。メリッサの目から、光が一瞬抜け落ちた。
――言わないで。お願い、言わないで。
頭の奥で何かがひたすらに悲鳴を上げている。
ミーノスは軽く手を広げた。
「逆に、私が知らないとどうして思えたのです?私は冥界の裁判官ですよ。死人が現世で犯したあらゆる罪を記録し、裁く者です。……あなたが手にかけたあの者たちの罪も、もちろん知っていますとも」
唇が勝ち誇ったように歪む。
「あなたが帰還を拒否するというのなら……ここで、全てを話しましょうか?」
あの時のことが、音もなく胸の底から這い出してくる。
拒絶しても、叫んでも、浸食してくる。
無理矢理の手、裂けるような痛み、動けない身体――生きながら剥がされた、心。
シオン様にだけは、知られたくない。
レオンくんにだけは、知られたくない。
あたしの中に封じ込めてきた“あの日”を、今さら、誰にも見られたくなかった。
身体が小さく震える。あの日、誰にも言えなかったこと。言えるはずがなかったこと。夜毎に思い出し、胸を掻きむしって泣いたあの記憶。自分の手で、命を奪った――守るために。自分を守るために。だけど、それでも、あれは――誰にも知られたくない。
壁の中で、メリッサは膝から崩れ落ちた。
嗚咽すら声にならなかった。ただ、握った拳が細かく震える。
ミーノスの声が、さらに追い打ちをかけるように落ちてくる。
「罪を背負ったまま、愛されるなどと思いましたか?その身が汚れていると知っても、彼らは同じ眼で見続けてくれると、本気で……?」
いやだ――あたしは、これ以上奪われたくない。
大切な人たちの眼差しを。
あたしの未来を。
静かに一筋、涙が頬を伝った。
ミーノスの言葉の刃は、誰よりも彼女の心の急所を正確に貫いた。愛してやまぬ人の前で、自分の過去を晒されること。その目に、軽蔑や落胆が浮かぶこと。その恐怖と羞恥が、心を圧迫していく。
「何を戯言を……!」
それまで沈黙を守っていたシオンの声が、怒気を孕んで響いた。炎を孕んだかのような黄金の小宇宙が、周囲の空気ごと震わせる。
「貴様の言う罪とやら、誰しも背負っているものだ!メリッサが穢れている?ならば、私とてこの手で幾多の命を守りながら、奪ってきた……!」
声が、空間を震わせるように響く。
「だが、私は知っている……生きることで償う道もあるということを!」
その一言は、怒りではなく――深い悲しみと、憤りに濡れていた。メリッサはその場で顔を上げることもできぬまま、震える指を握りしめるのがやっとだった。
ミーノスはその様子を眺め、ふいに目を丸くし、それから腹の底から笑い声を上げた。
「はっはっはっはっ!……罪と穢れとはそういう意味ではありませんよ教皇!……ああ、益々面白い。貴方という人は、やはり理想家でいらっしゃる」
その声は、冷えた霧のように場に漂う。
「さあ……どうします、メリッサ!あとは、あなた次第ですよ……?」
その言葉に、メリッサの内側で、何かが壊れた音がした。
立てない。身体が、鉛のように重い。
心の奥に巣食う黒い影が力を奪っていく。思い出したくない。語りたくない。誰にも知られたくない――。
あれは、あたしが死ぬまで、心の底に封じておくはずだった秘密。
「……シオン様……」
その声は、誰の耳にも届かぬほど微かだった。
俯いたまま、メリッサは懇願するように言葉を紡いだ。
「……あたし、ミーノスと……一緒に行きます。だから……この結界を、解除してください。……お願い、します……」
無感情な瞳。色を失った声。そこにあったのは、意志ではなかった。ただ、諦念。
シオンの目が、大きく見開かれる。
「それは――ならぬ!」
咄嗟に、叫んでいた。
「そなたを冥界へ渡すなど……!そのような事を私は認めぬ!」
しかし、そこに割って入ったのは、ミーノスの冷ややかな言葉だった。
「教皇……それは、“協約違反”になりますよ?」
その瞬間、場の空気が一変した。
「……なに?」
シオンが低く呟く。ミーノスは懐から小さく巻かれた羊皮紙を取り出し、わざとらしく広げて見せた。
「ご存じないはずはありますまい。我々冥界と、聖域との間には戦後の和平に基づく協約が交わされています」
長い指が、一つの条項をなぞる。
「――第七条。『相手陣営の闘士に対し、誘拐、拉致、監禁、ならびに不当な身体拘束を行ってはならない』」
その条文を聞いた瞬間、シオンの顔が僅かに引きつる。
ミーノスの声は、ますます滑らかだった。
「自発的に帰還の意志を示した者を、強制的に留めることは、“監禁”にあたります。協約上、それは明確に禁じられている行為。……教皇ともあろう方が、その違反をお認めになるのですか?」
ミーノスは、最後の一言にわずかに皮肉を混ぜる。
沈黙。
張り詰めた、冷たい沈黙が、場を支配する。
シオンの心が激しく揺れていた。目の前の娘は、何かを守るために自らを冥界へ投げ出そうとしている。そして、それを阻む道は――今、この男に奪われた。
言葉を発しようとしても、喉が固まっていた。
メリッサは、まだ俯いたまま、一つ深い呼吸をした。その頬には、既に幾筋もの涙の跡があった。
「……お願い……シオン様。行かせてください」
声が擦れていた。
守りたかった。過去も、未来も、あの笑顔も。
だが――協約の名のもとに、彼女を奪われようとしている。
シオンは唇を噛みしめ、静かに小宇宙を収束させる。張り巡らせていたクリスタルウォールは音もなく消えてゆく。
ミーノスが目を細め、ゆっくりと一歩前へ出る。
「さすがは教皇殿。理性的なご判断に、敬意を表します」
「……勘違いするな。これは、貴様の勝利ではない。今はこうするしかない……それだけのことだ」
低く押し殺した声で、シオンは言った。
(必ず取り戻す。何があろうとも――)
その強い意志は、心の奥底で静かに燃え続けていた。
ミーノスは涼しい顔で、手を差し伸べる。
「さあ、メリッサ。参りましょう。約束は守ります。あなたさえ戻ってくれれば、それで良いのです」
「……あたしが行けば……あのことは……黙っていてくれますか?」
喉を絞るように、メリッサは問うた。
「ええ、もちろんですとも。私は誓います。それは決して口外しません。あなたさえ、戻ってくれれば」
その言葉に、メリッサは力無く頷いた。震える指が、ゆっくりと差し出された手へと伸びていく。
――そのとき。
「だめだよ、メリッサ」
すぐ傍で、柔らかな声がした。
静けさを破ったその声は、不思議なほど真っ直ぐで、心の奥へすうっと届いてきた。
「行っちゃだめだ」
腕を掴まれる。その手は、あたたかかった。
はっとして振り向けば、そこに立っていたのはレオンだった。顔色は青ざめ、呼吸も荒い。けれどその瞳は、決して逸らさず、まっすぐに彼女を見つめていた。
「何があったか、僕は知らない。けど……君がそんな顔で、そんな哀しい目で、あんな人の手に触れようとするのは、絶対に間違ってるよ」
その声には、怒りも非難もなかった。ただ、真摯な想いだけが込められていた。
「僕は君を……君を傷付け泣かせるような人のところになんて、行かせたくない」
「レオン……くん……」
メリッサの声が、震える。
彼の言葉が、心の奥に染みていく。
「君は、誰よりも優しくて強い人だ。僕にはわかる。ずっと見てきたから。だから……そんなふうに、自分を捨てないで」
メリッサの足が、ふと止まった。
差し出されていたミーノスの手の前で、彼女の指が宙に浮いたまま動かない。
涙がまた頬を伝う。一雫、地に落ちる音が耳の奥で大きく響いた。
――あたし、今、何をしようとしていたんだろう。
彼の声が、温かくて、痛くて、優しかった。
そして何より――彼女の心を縛っていた鎖を、少しだけ緩めてくれた。
伸ばしていた手は、ミーノスに触れることなく引き戻された。
「……貴様ぁ……」
ミーノスの顔から薄笑いがすっと消えた。代わりに露わになったのは、醜悪な怒り。ゆらりと片手を掲げる。
「その小僧さえ黙っていれば、全ては穏やかに終わったものを……!貴様がッ、貴様さえいなければ――ッ!!」
その手から迸ったのは、冥界の闘士特有の冷たい小宇宙。眼前にいたレオンに向かって、一閃の闇が走る。
その瞬間――。
「させるか!!」
空間が揺らぐ。眩い光と共に、再び現れた結界――クリスタルウォール。
闇の閃光は、不可視の壁に阻まれ、雷鳴のような衝撃音を立てて霧散した。
レオンの前に立ちはだかったのは、教皇・シオン。
金の髪が、静かに揺れている。
「貴様の標的が私であれば応じよう。だが、レオンは罪なき民……手を出させはせん」
「……ふふ……ふはははッ!」
ミーノスが、怒りと嘲笑の混じった声で笑う。
「邪魔ばかりを……!教皇、冥界に戦を仕掛けるつもりか!?いいでしょう、ならば……!」
ミーノスの背後に、無数の黒羽が蠢く。
「ギガンティック・フェザースフラップ!!」
鋭利な羽が嵐のように放たれた。
結界に打ち付けられる度、空間が軋む。凄まじい衝撃が聖域の大気を震わせる。それでも、シオンは微動だにせず結界を維持し続ける。
「無駄だ。幾重にも重ねたこの結界を……容易に破れると思うな!」
「まだだ……まだァッ!!」
怒りに駆られたミーノスが、繰り返し羽の嵐を放つ。空が黒く染まるほどの闇の技。風が叫び、土が抉られ、周囲の大気が悲鳴を上げる。
クリスタルウォールが、軋む。綻びが生まれ、光がわずかに歪んだ。
「……防戦だけでは、埒が明かぬか……!」
シオンの瞳に、強い光が宿る。
「やむを得ん……!」
その身体が、風と共に跳んだ。
稲妻のごとく迸る小宇宙。教皇の聖衣に刻まれた紋章が輝き周囲を鮮やかに照らす。
大地を蹴り、宙を駆けるその姿は、まるで闇を引き裂く希望の光そのものだった。
「スターダスト・レボリューション!!」
シオンの拳が走る。放たれた聖なる力がミーノスの闇を切り裂いた。
拳と拳。技と技。冥界と聖域の力が、空中でぶつかり合う。
炸裂する衝撃。天地を揺らす轟音。傾きかけた冬空の太陽を背景に、白と黒の光が交錯する。
メリッサはただ、立ち尽くしていた。
この世に邪悪がはびこる時、必ず現れる希望の闘士。
その拳は空を裂き、その蹴りは大地を割るのだという。
誰よりも優しく、誰よりも強く、そして――誰よりも美しい。
それが、アテナの聖闘士――牡羊座のシオンだった。
音もなく歯車が回るように、目には見えない変化が日々の隙間に染み込んでいく。
メリッサはまだ、その変化に名前を与えられずにいた。
ただ胸の奥で、何かがゆっくりと形を変えていくのを感じながら、いつもの日常を過ごしていた。
あれほど苦戦したレポートは、気づけば終わっていた。
難解な文献を前に、頭を抱えながら夜を過ごした日々。資料の海で迷子になりそうなとき、いつも隣にはレオンがいた。互いに励まし合い、冗談を交わし、少しだけ肩を寄せて笑った。
そうして生まれた一本の成果物が、ようやく完成した。
レポートを提出した数日後の帰り道。冬の夕暮れが落ちきった坂道を、二人並んで歩いていたときだった。
レオンが、ふと横で小さく笑った。
「……頑張ったね」
その声に、メリッサもつられるように微笑む。
講義後、教員から講評が返却されたのだ。提出してから待ち続けた緊張が、ようやくほどけた日だった。
「うん。ね、ね、思ったより……すごく良かったよね、あたしたち」
講評に書かれた『高く評価する』という言葉を見た瞬間、二人は反射的に顔を見合わせ、思わず小さく声を上げた。
肩をぶつけ合うでもなく、ただ静かに、共有した達成感が胸の奥をあたためていく。
努力は、無駄じゃなかった。
その確かな実感が、冬の帰り道を柔らかく照らしていた。そして、その温度はすぐに形を変えた。嬉しさと一緒に、どうしようもないざわめきが胸の底に沈んでいく。
その感情は、名を持たないまま、静かに息を潜めていた。
レオンの笑顔を見るたびに、胸の奥で微かな痛みが広がった。
感情の正体は、メリッサ自身よく分かっている。
レオンが――シオンに似すぎているからだ。
ふとした仕草、声の調子、考え込むときの沈んだ横顔。
その全てが、記憶の底に沈めたはずの彼を呼び覚ます。
思い出してはいけない、と分かっている。
レオンはレオンであって、シオンの代わりではない。
そんな当たり前のことを、何度も心の中で繰り返してきた。なのに、思い出の影は消えてくれない。
レオンの存在が、気づけば日常の呼吸のように自然になってしまったからこそ、余計に――忘れることができない。
何と、虫の良い話だ。
胸の奥で、ひどく冷たい声がした。
初めにシオンを拒み、突き放したのは自分だというのに。
なのに今では、レオンのことを素直に好きになりきることもできず、シオンへの想いも断ち切れない。
――優柔不断で、愚かで、情けない。
レオンのことを――何も考えずに好きになれたら、どれだけ楽だっただろう。
けれどそんな資格はない。
あの人のことも、目の前にいる彼のことも。
あたしなんかが好きになるなんて、許されるはずがないのだ。
そんな風に自分を責める夜が、静かに増えていった。
季節は少しずつ移ろい、学内の空気が冬の冷たさに包まれた頃。
地上の人間たちが知らぬところで、冥王軍が、再び蠢き出していた。
その日は、午後の講義が急遽休講となった。
講義棟の階段を下りたところで待っていたレオンは、いつもと同じ柔らかな笑みをたたえながら、手に持っている一枚の紙を差し出した。
「夜の公演、観に行かない?話題のミュージカルなんだ。すごく評判のいいやつで、よかったら一緒に」
最近では珍しい紙のチケット。そこに記された演目を目にしたメリッサの声が明るく弾んだ。
「ミュージカルなんて、初めて!でも……そんなに人気の公演のチケット、よく取れたね?」
メリッサが目を丸くすると、レオンは少し頬を赤らめた。
「招待チケットなんだ。祖父の知人が関係してて……」
「招待されたの?レオンくんが?」
彼は少しだけ居心地悪そうに肩をすくめた。
「うん。ほんの、ちょっとしたご縁でね」
――レオンくんて、やっぱりお坊ちゃまなんだ。どこかの貴族の血でも引いてるんじゃ……
そんな冗談めいた思考が、彼の立ち居振る舞いや穏やかな物腰と重なって、メリッサの心に妙な納得感をもたらしていた。
劇場へ向かう道すがら、午後の風がビルの谷間を吹き抜ける。並んで歩く2人の影が、歩道に淡く長く伸びていた。
だが――。
「……っ!メリッサ」
レオンが突然、ぐいと彼女の肩を引き寄せた。
不意に胸元に飛び込んだレオンの体温と、耳元で囁かれた言葉に、メリッサの鼓動が跳ねる。
「え、何?どうしたの?」
「……何か、嫌な気配がする」
その声音は、いつもの穏やかなレオンとは違っていた。静かだが、鋭く張り詰めている。
見ると、彼の紫の瞳が闇の彼方を見つめるように細められている。
ふざけていない。冗談のかけらもない。
そして次の瞬間――。
「……っ!」
メリッサの手首に巻かれた水晶のブレスレットが、淡い光を放って震えた。透き通った珠がまるで心臓の鼓動のように脈動し、次第に微細なひびが入り始める。
(クロエちゃん……! これは――瘴気!?)
***
遥か遠く、聖域・処女宮。
花の香に包まれた沙羅双樹の園で、シャカは結跏趺坐を組み、静かに瞑想していた。そして、微かに空気が揺れた刹那、彼はゆっくり立ち上がった。
「……動いたか。冥王軍が」
その言葉は、風のように空間に溶け、即座にヘスティアのもとへと伝わる。
神殿の高台、茜に染まりかけた空の下で佇むヘスティアは、シャカからの報告を受けると、くい、と顎を上げて言った。
「ありがとう、シャカ。全軍、迎撃態勢を取りなさい。ただし――」
その声音は静かで、しかし神の威厳を帯びていた。
「こちらから先制することだけは、まかりなりません。聖域はあくまでも、“地上の守り手”としての誇りを失ってはなりません」
その言葉に、周囲の空気がぴんと張り詰める。
シャカは深く一礼し、声なく消えた。
***
一方、街では、ブレスレットがついに砕ける音とともに、一筋の闇が空間を裂いた。
メリッサはその黒い“歪み”を見つめながら、内なる血が騒ぎ始めるのを感じていた。
(……来る。ミーノスが)
その直感は、かつて冥界に身を置いた者にしかわからない確かな感覚だった。そしてその隣には、知らぬはずの血の記憶に、何かを呼び起こされそうになっている青年がいる。
――“彼”の血を引く者、レオン・カヴァリエ。
その存在が、今まさに嵐の中心に巻き込まれようとしていた。
「レオンくん、ここから離れて——!」
メリッサは咄嗟に彼の腕を振りほどこうとした。しかし、それはほんの一瞬、間に合わなかった。
黒い霧。
それはあまりにも素早く、あまりにも滑らかに、二人の周囲を絡め取るように広がった。
視界が閉ざされ、足元の感覚がふっと消える。暗転する寸前、レオンの驚愕に染まった瞳と、彼の口が形づくった「メリッサ…?」という言葉が、やけに鮮明に脳裏に焼きついた。
次に目を開けたとき、そこは見慣れた風景だった。
乾いた赤土と、鋭利な岩の突き出す大地。空は灰色に曇り、遠くに聖域の象徴たる教皇宮が霞んで見える。
「……聖域、だ」
メリッサの声が震える。瘴気に包まれた風が、髪をなぶって吹き上げた。
空間移動の際の衝撃にふらつきながらメリッサは辺りを見回した。だが、そんなことにかまけている暇はなかった。レオンの存在がすぐ近くにある。それだけが今、彼女を奮い立たせていた。
傍らのレオンは、手で額を押さえ、呼吸を整えている。その顔は血の気が引き、青ざめていた。
「だ…大丈夫?レオンくん…」
「うん…いや、わからない…。何が起きた…?ここは…どこだ?」
「聖域――でも、ただの聖域じゃない。これは結界の内側。特別な空間だと思う…」
「聖域…?何それ?」
レオンが青ざめた顔を上げ、必死に周囲を見渡している。怯えと、混乱と、守るべき人を前にしての無力感。
その瞬間、空間が軋む音がした。
見えないガラスを叩き割るような、耳障りな音。空が裂け、そこから冥府の闇が漏れ出す。ぞろぞろと現れるのは、冥王軍の兵たち。黒い鎧に身を包み、仮面のように無表情な顔。
一体、また一体と数を増して、包囲の輪が形成されてゆく。
(逃げ道がない……)
レオンの腕をとって、庇うように彼の前に立った。
「……っ、レオンくん、下がってて。ここはあたしから離れないで」
その声音は、覚悟に満ちた戦士のそれだった。まるで、過去の己が戻ってきたかのように。
レオンは言葉を失ったまま、目の前のメリッサを見つめていた。
彼女の周囲に、冥府の闇が集まり始める。
メリッサの瞳が冥府の光に染まると同時に、その身に黒き冥衣が纏われてゆく。
光に背を向けた者に与えられる鎧。けれど今、それは誰よりも崇高な意思の象徴として輝いていた。
「メ……メリッサ……?君、その姿……?」
「お願い、今は訊かないで。守らなきゃいけないの……あなたを」
言葉は優しく、けれど確かな覚悟を含んでいた。
冥闘士たちが剣を抜き、槍を携え、一斉に突撃の構えをとる。
メリッサの言葉が終わるか終わらないかのうちに、空気が震えた。地鳴りのような音。霧が再び揺れ、空間の裂け目がさらに拡がった。際限なく姿を現す影、影、影。
裂け目から止めどなく流れ出る瘴気の濃度は、もう並の人間なら意識を失うほどだ。メリッサの背後でレオンが震えを堪えていた。
(これ、まずい……この瘴気、普通の人間には……!)
まずはレオンの安全を確保しなければならない。
メリッサは冥衣の力で蔓を自在に操り、彼の前に防壁を張る。間髪入れず、冥闘士たちが攻撃を開始した。鋭い蹴りと重い拳が、嵐のように彼女を襲う。
だが――
「伸びろっ!」
彼女の足元で、瞬時に芽吹いた種子が巨大な蔦となって伸び、敵の攻撃を受け止める。小宇宙の制御に長けたメリッサならではの戦術だった。
レオンはそれを、目を見張るような思いで見つめていた。だが彼にもわかる。多勢に無勢だ。メリッサの呼吸が荒くなっている。防御の蔓が一本ずつ斬られ、動きが鈍くなっていく。
「だめだ…このままじゃ保たない…!」
冥闘士たちの気が一気に高まる。全員の小宇宙が一点に集中し、巨大な破壊の奔流となってメリッサを襲おうとしていた。
「メリッサーッ!!」
レオンが絶叫した瞬間だった。
何かが、レオンの内で弾けた。白銀の光が彼の体を包み、その掌から放たれた小宇宙が地を走り、空間を震わせた。
メリッサの目前に、まるで神が編んだかのような防御壁――光の結界が展開される。それはシオンのクリスタルウォールにも似た、けれどもっと拙く、歪な防壁だった。
「これ…レオンくん…?」
呆然と呟くメリッサ。
だがレオンは、その力を使いこなせていない。手が震え、呼吸が荒い。端正な顔は恐怖に引きつっている。それでも――
「……僕、子供の頃からずっと爺ちゃんに言われてたんだ」
震える声。けれど、眼差しは真っ直ぐだった。
「18の時に出会う女の子を命懸けで守れって……それが、君だったんだ……メリッサ。マジで……命懸けだよ、こんなの……怖いに決まってるよ……っ」
笑おうとした口元が震える。でも、彼は一歩、彼女の前に出た。
「でも、僕は君を守りたい…!」
メリッサの胸が締めつけられる。
なぜ彼は、ここまでして――自分を?
それはただの優しさではない。運命と、信念の狭間で揺れながらも、前に立とうとする意志だった。
「レオンくん……!」
思わず手が伸びる。指先がレオンの背に触れた、そのときだった。
空気が弾け、天地の気流が瞬時に反転した。強烈な光の粒子が空から降り注ぎ、聖域全体に眩い震動が走る。
「――もう十分だ。ここから先は、私が引き受けよう」
響いた声は、まっすぐに澄んでいた。だが、同時に空間をも支配する威厳を孕んでいる。
闇を切り裂くようにして、白金色の光がその場に降り立つ。
光が黒い兵たちの間を一閃し、数人が沈む。
そして姿を現したのは、白金の聖衣を纏った青年。
風が金の髪を揺らし、紫の瞳が鋭く光を捉えている。身に纏う白金の鎧は、闇の中でさえ眩く煌めき、その佇まいは、ただそこにあるだけで世界の重心を変える。
「……え?」
その姿を見た瞬間、レオンは息を呑んだ。
意識が逸れ集中が切れた途端、レオンの張った防壁は音もなく空気に溶けていった。
「僕……?」
目の前の男が、あまりにも自分によく似ている。
髪の色、瞳の色、顔立ち。
いや、もう、“似ている”という次元を超えていた。
「そなたが、レオン・カヴァリエか」
男が言った。落ち着いた声、だが心に響く威厳と圧倒的な支配力を含んでいた。
「は、はい……」
言葉が、震えながらも自然と口をついて出る。
その時、メリッサが叫んだ。
「シオン様!」
彼女の声が震え、男の名を呼ぶ。次の瞬間、迷うことなくその胸に飛び込んでいた。
「……メリッサ」
シオンの手が、そっと彼女の背を抱く。彼の瞳が柔らかく細められ、その場だけ別の空気で満たされる。
レオンは悟った。
二人の間で何かが確かに“結ばれていた”ことを。
「……メリッサがずっと思い続けてた人だね」
彼の言葉に、メリッサが振り向いた。
「僕、知ってたよ。メリッサには、ずっとずっと、大好きな人がいるんだってこと」
その瞳に、切なさも、寂しさもなかった。ただ、まっすぐで優しい光が宿っていた。
「レオンくん……」
彼女の頬を、涙が一筋、また一筋と零れ落ちていく。
「泣かないで、メリッサ。僕、メリッサが泣いてるとこなんて、見たくないよ」
その言葉に、胸が熱くなる。
「……レオンくん…ありがとう……」
メリッサの声が、喉の奥から震えたように漏れる。
メリッサを抱き締めるシオン。そんな中でさえ、彼の佇まいそのものが圧倒的な力の象徴だった。
(もう……怖くない)
白金の聖衣が放つ気高き光に、冥闘士たちが一瞬、たじろぐ。彼の紫紺の瞳が鋭く戦場を見渡し、即座にレオンとメリッサの負傷を確認する。
「そなたたちに手出しはさせぬ。」
その声は静かで、だが何よりも重かった。
シオンは自らの背中にかけていた、純白のマントをばさりと脱ぎ、そっとレオンの肩に掛けた。
「このマントは神のご加護を受けている。短い間とはいえ、周囲に渦巻く瘴気からそなたの身を護ってくれよう」
レオンの肩で、マントがふわりと揺れた。
そして、シオンが掲げた掌から小宇宙が放たれる。
レオンとメリッサの周囲に二重のクリスタルウォールが張られる――鉄壁の防御だ。
菫色の瞳が闇からの戦士たちを一瞥する。
「聖域教皇として警告する。これ以上の侵攻は許さぬ。退くがよい」
言葉と同時に、彼の周囲に小宇宙が集中する。
空間全体が震えるほどの圧力が、冥闘士たちを一歩後退させた。
冥闘士たちが怯む。だが――
「これはこれは、教皇自らお出ましとは」
空間が再び割れ、そこに現れたのは、冥界三巨頭の一人――ミーノス。嘲笑を浮かべたその姿に、メリッサが息を呑む。
(まさか…ミーノスまで…)
「シオン様!あたしをここから出して!」
叫ぶ声が震えていた。メリッサはクリスタルウォールの内側から両拳を打ちつける。透明な防壁は微動だにせず、ただ静かに周囲の瘴気と喧騒を隔てていた。
叩いても、叩いても――砕けない。
閉ざされた空間に響くのは、自分の心音と、向こう側から聞こえる殺気を孕んだ小宇宙の鳴動――。
「そなたは、そこにいろ」
淡々とした口調の奥に、強い意志があった。
シオンは、メリッサを一瞥もしないまま、前方の影に視線を向けている。かつて冥界の三巨頭と恐れられた男、ミーノス。彼の存在が歪ませる空間を正面から見据えて、シオンは微動だにしなかった。
「ミーノスは私が相手する」
「だめだよ、そんなことしたら……!」
喉が痛むほど声を張る。
「協約違反になる!」
忘れたはずがない。シオンも、ミーノスも。あの聖戦の後、聖域と冥界が交わしたあまりにも脆く繊細な均衡の上に成り立つ不可侵条約。前回交戦した事は咎められていないが、今再びここでそれを破れば――戦乱の扉が開かれる。
「フッ……」
ミーノスが低く笑った。瞳の奥に不穏な揺らぎが灯る。
「さすが私の部下ですね。冷静に物事を見れている。まぁ、心配しないでください」
彼の語調が変わる。皮肉ではなく、真顔で。
「私も、協約の反故は望んでいません」
「……では、何をしに来た」
シオンの声が鋭くなる。クリスタルウォールの向こう側で、メリッサは固唾をのんだ。
一瞬、風が止んだかのような沈黙。
ミーノスは一歩、ゆっくりと前に出る。
そして、言った。
「単刀直入に申し上げます。――メリッサをお還しください」
しかし、その一言が空気を大きく変えた。
シオンの紫の瞳が、明確に見開かれる。
その背に、ただならぬ気配が奔った。
「……メリッサを?」
シオンの声が低く揺れた。ほんの微細な波紋――だが、それはメリッサには、はっきりと伝わった。彼の中の何かに触れたのだ。
それは恐らく、逆鱗。
しかし、ミーノスは構う様子も見せず、わざとらしく一礼してから言葉を継いだ。
「ええ。彼女は冥闘士です。……元、と言うべきでしょうか?いずれにせよ、彼女の能力――植物の種子を操り、瞬時に育てあげる力は、冥界の維持にとって非常に重要なのです。混沌を浄化し、秩序を取り戻す。その力は、冥界の再建に不可欠なのです」
唇の端に、微笑が浮かぶ。
「だから、どうか――天立星ドリュアスのメリッサを、我が元へお還し願いたい」
重く、静かに空気が沈んだ。
「断る……と言ったら?」
シオンの声は、氷のように冷たかった。その一言に、クリスタルウォールの内側でメリッサの胸が小さく跳ねた。
ミーノスは肩を竦める。
「それは困りますね。しかし……聖域の教皇ともあろうお方が私情に流されるのは、些か――危ういことではありませんか?」
その言葉は鋭く狡猾だった。教皇という立場に慈しみや情愛が許されないことを、あくまで外側から指摘する。その冷ややかな皮肉に、メリッサは胸の奥が焼かれるような痛みに襲われた。
そして――。
「メリッサ」
ミーノスが、彼女の名をはっきりと呼ぶ。その声は低く、そして絶対的だった。
「還ってきなさい。あなたの在るべき場所へ」
メリッサは唇を噛みしめ、首を振る。
「……嫌だよ。あたしは……地上に生きるって決めたの。あたしは進みたい未来を選んだの。だから……そんな要求――お断りだよ!」
恐怖に震えながらも、声だけは強く返す。それしかできなかった。
けれど。
ミーノスは、すぐに表情を変えた。紫紺の瞳が細められ、冷えた刃のような響きが返ってくる。
「……本当に良いのですか?」
不意に、空気が張り詰めた。
彼の言葉が、地の底から這い上がってくるような冷気を孕む。
「あなた……16歳の頃にこの地で、何をされました?まさか、忘れたとは言いませんよね?」
メリッサの喉がヒュッと鳴った。時間もろとも、呼吸が止まったようだった。
「……な……んで……それを……」
吐息のように洩れた声。メリッサの目から、光が一瞬抜け落ちた。
――言わないで。お願い、言わないで。
頭の奥で何かがひたすらに悲鳴を上げている。
ミーノスは軽く手を広げた。
「逆に、私が知らないとどうして思えたのです?私は冥界の裁判官ですよ。死人が現世で犯したあらゆる罪を記録し、裁く者です。……あなたが手にかけたあの者たちの罪も、もちろん知っていますとも」
唇が勝ち誇ったように歪む。
「あなたが帰還を拒否するというのなら……ここで、全てを話しましょうか?」
あの時のことが、音もなく胸の底から這い出してくる。
拒絶しても、叫んでも、浸食してくる。
無理矢理の手、裂けるような痛み、動けない身体――生きながら剥がされた、心。
シオン様にだけは、知られたくない。
レオンくんにだけは、知られたくない。
あたしの中に封じ込めてきた“あの日”を、今さら、誰にも見られたくなかった。
身体が小さく震える。あの日、誰にも言えなかったこと。言えるはずがなかったこと。夜毎に思い出し、胸を掻きむしって泣いたあの記憶。自分の手で、命を奪った――守るために。自分を守るために。だけど、それでも、あれは――誰にも知られたくない。
壁の中で、メリッサは膝から崩れ落ちた。
嗚咽すら声にならなかった。ただ、握った拳が細かく震える。
ミーノスの声が、さらに追い打ちをかけるように落ちてくる。
「罪を背負ったまま、愛されるなどと思いましたか?その身が汚れていると知っても、彼らは同じ眼で見続けてくれると、本気で……?」
いやだ――あたしは、これ以上奪われたくない。
大切な人たちの眼差しを。
あたしの未来を。
静かに一筋、涙が頬を伝った。
ミーノスの言葉の刃は、誰よりも彼女の心の急所を正確に貫いた。愛してやまぬ人の前で、自分の過去を晒されること。その目に、軽蔑や落胆が浮かぶこと。その恐怖と羞恥が、心を圧迫していく。
「何を戯言を……!」
それまで沈黙を守っていたシオンの声が、怒気を孕んで響いた。炎を孕んだかのような黄金の小宇宙が、周囲の空気ごと震わせる。
「貴様の言う罪とやら、誰しも背負っているものだ!メリッサが穢れている?ならば、私とてこの手で幾多の命を守りながら、奪ってきた……!」
声が、空間を震わせるように響く。
「だが、私は知っている……生きることで償う道もあるということを!」
その一言は、怒りではなく――深い悲しみと、憤りに濡れていた。メリッサはその場で顔を上げることもできぬまま、震える指を握りしめるのがやっとだった。
ミーノスはその様子を眺め、ふいに目を丸くし、それから腹の底から笑い声を上げた。
「はっはっはっはっ!……罪と穢れとはそういう意味ではありませんよ教皇!……ああ、益々面白い。貴方という人は、やはり理想家でいらっしゃる」
その声は、冷えた霧のように場に漂う。
「さあ……どうします、メリッサ!あとは、あなた次第ですよ……?」
その言葉に、メリッサの内側で、何かが壊れた音がした。
立てない。身体が、鉛のように重い。
心の奥に巣食う黒い影が力を奪っていく。思い出したくない。語りたくない。誰にも知られたくない――。
あれは、あたしが死ぬまで、心の底に封じておくはずだった秘密。
「……シオン様……」
その声は、誰の耳にも届かぬほど微かだった。
俯いたまま、メリッサは懇願するように言葉を紡いだ。
「……あたし、ミーノスと……一緒に行きます。だから……この結界を、解除してください。……お願い、します……」
無感情な瞳。色を失った声。そこにあったのは、意志ではなかった。ただ、諦念。
シオンの目が、大きく見開かれる。
「それは――ならぬ!」
咄嗟に、叫んでいた。
「そなたを冥界へ渡すなど……!そのような事を私は認めぬ!」
しかし、そこに割って入ったのは、ミーノスの冷ややかな言葉だった。
「教皇……それは、“協約違反”になりますよ?」
その瞬間、場の空気が一変した。
「……なに?」
シオンが低く呟く。ミーノスは懐から小さく巻かれた羊皮紙を取り出し、わざとらしく広げて見せた。
「ご存じないはずはありますまい。我々冥界と、聖域との間には戦後の和平に基づく協約が交わされています」
長い指が、一つの条項をなぞる。
「――第七条。『相手陣営の闘士に対し、誘拐、拉致、監禁、ならびに不当な身体拘束を行ってはならない』」
その条文を聞いた瞬間、シオンの顔が僅かに引きつる。
ミーノスの声は、ますます滑らかだった。
「自発的に帰還の意志を示した者を、強制的に留めることは、“監禁”にあたります。協約上、それは明確に禁じられている行為。……教皇ともあろう方が、その違反をお認めになるのですか?」
ミーノスは、最後の一言にわずかに皮肉を混ぜる。
沈黙。
張り詰めた、冷たい沈黙が、場を支配する。
シオンの心が激しく揺れていた。目の前の娘は、何かを守るために自らを冥界へ投げ出そうとしている。そして、それを阻む道は――今、この男に奪われた。
言葉を発しようとしても、喉が固まっていた。
メリッサは、まだ俯いたまま、一つ深い呼吸をした。その頬には、既に幾筋もの涙の跡があった。
「……お願い……シオン様。行かせてください」
声が擦れていた。
守りたかった。過去も、未来も、あの笑顔も。
だが――協約の名のもとに、彼女を奪われようとしている。
シオンは唇を噛みしめ、静かに小宇宙を収束させる。張り巡らせていたクリスタルウォールは音もなく消えてゆく。
ミーノスが目を細め、ゆっくりと一歩前へ出る。
「さすがは教皇殿。理性的なご判断に、敬意を表します」
「……勘違いするな。これは、貴様の勝利ではない。今はこうするしかない……それだけのことだ」
低く押し殺した声で、シオンは言った。
(必ず取り戻す。何があろうとも――)
その強い意志は、心の奥底で静かに燃え続けていた。
ミーノスは涼しい顔で、手を差し伸べる。
「さあ、メリッサ。参りましょう。約束は守ります。あなたさえ戻ってくれれば、それで良いのです」
「……あたしが行けば……あのことは……黙っていてくれますか?」
喉を絞るように、メリッサは問うた。
「ええ、もちろんですとも。私は誓います。それは決して口外しません。あなたさえ、戻ってくれれば」
その言葉に、メリッサは力無く頷いた。震える指が、ゆっくりと差し出された手へと伸びていく。
――そのとき。
「だめだよ、メリッサ」
すぐ傍で、柔らかな声がした。
静けさを破ったその声は、不思議なほど真っ直ぐで、心の奥へすうっと届いてきた。
「行っちゃだめだ」
腕を掴まれる。その手は、あたたかかった。
はっとして振り向けば、そこに立っていたのはレオンだった。顔色は青ざめ、呼吸も荒い。けれどその瞳は、決して逸らさず、まっすぐに彼女を見つめていた。
「何があったか、僕は知らない。けど……君がそんな顔で、そんな哀しい目で、あんな人の手に触れようとするのは、絶対に間違ってるよ」
その声には、怒りも非難もなかった。ただ、真摯な想いだけが込められていた。
「僕は君を……君を傷付け泣かせるような人のところになんて、行かせたくない」
「レオン……くん……」
メリッサの声が、震える。
彼の言葉が、心の奥に染みていく。
「君は、誰よりも優しくて強い人だ。僕にはわかる。ずっと見てきたから。だから……そんなふうに、自分を捨てないで」
メリッサの足が、ふと止まった。
差し出されていたミーノスの手の前で、彼女の指が宙に浮いたまま動かない。
涙がまた頬を伝う。一雫、地に落ちる音が耳の奥で大きく響いた。
――あたし、今、何をしようとしていたんだろう。
彼の声が、温かくて、痛くて、優しかった。
そして何より――彼女の心を縛っていた鎖を、少しだけ緩めてくれた。
伸ばしていた手は、ミーノスに触れることなく引き戻された。
「……貴様ぁ……」
ミーノスの顔から薄笑いがすっと消えた。代わりに露わになったのは、醜悪な怒り。ゆらりと片手を掲げる。
「その小僧さえ黙っていれば、全ては穏やかに終わったものを……!貴様がッ、貴様さえいなければ――ッ!!」
その手から迸ったのは、冥界の闘士特有の冷たい小宇宙。眼前にいたレオンに向かって、一閃の闇が走る。
その瞬間――。
「させるか!!」
空間が揺らぐ。眩い光と共に、再び現れた結界――クリスタルウォール。
闇の閃光は、不可視の壁に阻まれ、雷鳴のような衝撃音を立てて霧散した。
レオンの前に立ちはだかったのは、教皇・シオン。
金の髪が、静かに揺れている。
「貴様の標的が私であれば応じよう。だが、レオンは罪なき民……手を出させはせん」
「……ふふ……ふはははッ!」
ミーノスが、怒りと嘲笑の混じった声で笑う。
「邪魔ばかりを……!教皇、冥界に戦を仕掛けるつもりか!?いいでしょう、ならば……!」
ミーノスの背後に、無数の黒羽が蠢く。
「ギガンティック・フェザースフラップ!!」
鋭利な羽が嵐のように放たれた。
結界に打ち付けられる度、空間が軋む。凄まじい衝撃が聖域の大気を震わせる。それでも、シオンは微動だにせず結界を維持し続ける。
「無駄だ。幾重にも重ねたこの結界を……容易に破れると思うな!」
「まだだ……まだァッ!!」
怒りに駆られたミーノスが、繰り返し羽の嵐を放つ。空が黒く染まるほどの闇の技。風が叫び、土が抉られ、周囲の大気が悲鳴を上げる。
クリスタルウォールが、軋む。綻びが生まれ、光がわずかに歪んだ。
「……防戦だけでは、埒が明かぬか……!」
シオンの瞳に、強い光が宿る。
「やむを得ん……!」
その身体が、風と共に跳んだ。
稲妻のごとく迸る小宇宙。教皇の聖衣に刻まれた紋章が輝き周囲を鮮やかに照らす。
大地を蹴り、宙を駆けるその姿は、まるで闇を引き裂く希望の光そのものだった。
「スターダスト・レボリューション!!」
シオンの拳が走る。放たれた聖なる力がミーノスの闇を切り裂いた。
拳と拳。技と技。冥界と聖域の力が、空中でぶつかり合う。
炸裂する衝撃。天地を揺らす轟音。傾きかけた冬空の太陽を背景に、白と黒の光が交錯する。
メリッサはただ、立ち尽くしていた。
この世に邪悪がはびこる時、必ず現れる希望の闘士。
その拳は空を裂き、その蹴りは大地を割るのだという。
誰よりも優しく、誰よりも強く、そして――誰よりも美しい。
それが、アテナの聖闘士――牡羊座のシオンだった。
