Eine Kleine Ⅱ
聖域に呼び出された数日前の衝撃を、クロエは今でもはっきり思い出せる。
「クロエ、すまないが予定外の任務を受けてほしい。早急にだ」
いつもよりも眉間の皺が深いサガの様子にただならぬ雰囲気を感じ取り、瞬間、クロエは反射的に姿勢を正した。
『早急に』――その二文字が意味するものを、彼女はこの数ヶ月で痛いほど学んでいる。
(まさか……いよいよ冥王軍が?それとも新たな脅威?)
心臓が強く跳ね、唾をごくりと飲み込んだ。
「教皇を、散髪へお連れしてくれ」
――時が止まった。
いや、止まったのは自分の思考だけだろう。窓の外では季節外れに温かな風が吹き、小鳥が優雅に囀っている。
なのに、クロエの頭の中は真っ白だった。
「……は?」
「頼む。このままでは教皇の威厳と品格に関わる」
サガは真顔だった。眉一つ動かさず、冗談の欠片もない。
クロエは乾いた笑みを浮かべ、ぎこちなく一礼する。
「………御意」
あの場面で動揺を見せず、受命の言葉が出ただけでも上出来だ、と自分を褒めたい気分だった。
石造りの回廊を進む足音が、やけに大きく響いていた。
教皇の間に入るよう命じられ、胸の奥で最高潮に達している緊張を必死に押し殺す。
扉の向こう――玉座の上にいたのは、彼女の知るどの聖闘士とも違う、静謐そのものの人物だった。
光を跳ね返し輝く金の髪、人の心を見透かしてしまいそうな紫の瞳。
その眼差しを一目見た瞬間、クロエは呼吸を忘れた。
(……レオン?)
頭の中でその名が弾けた。
しかし、すぐに違うと分かった。髪の長さも纏う空気も、全く異なる。
青年のような姿をしていながら、底知れぬ威厳と静かな哀しみを湛えたその人は、間違いなく――教皇シオン、その人だった。
「そなたが、ヴァシリウの娘か」
低く穏やかな声が降る。
まるで記憶の底に直接触れられたようで、クロエは言葉を失った。それほどまでに、声まで、レオンに酷似していたのだ。
「……はい。クロエ・アレクサンドラ・ヴァシリウです。お目にかかれて光栄に存じます」
膝を折り、形式通りに頭を垂れる。だが心の奥では、混乱と驚愕が渦を巻いていた。
――どうして、こんなにも似ているの。
サガが彼女を監視任務に就かせた理由が、うっすらと見えた気がした。
***
そして今、クロエは思ってもみなかった任務に就いている。
舞台は聖域ではなく、街の一角にある美容室「Luce(ルーチェ)」だった。
クロエの行きつけでもあるその店は、白い壁と木の温もりに包まれ、柔らかなジャズが流れている。
待ち合い椅子に座る教皇――シオンは、百戦錬磨のかつての黄金聖闘士とは到底思えぬほど、どこか所在なげな表情でクロエの隣にいた。
「……こういうのは、初めてで」
ぽつりとこぼした声に、クロエは「でしょうね」と心の中で呟く。
この人が美容室に足を運ぶ姿など、誰が想像できただろう。
シオンの金髪は肩上で無造作に切られたまま、乱暴なハサミの跡が残っていた。
聖域を離れていた数日の間に、何かに耐え切れず自らの手で、長く豪奢な髪を落としたと聞いたが――それが本当なら、彼は何を背負い、何に傷付いていたのだろう。
クロエは胸の奥が痛んだ。
「本日はどんなスタイルをご希望ですか?」
担当のスタイリストが問うと、シオンはわずかに目を伏せた。
「……短めに。清潔感があるように、整えていただければ」
その声には、ひどく静かな決意があった。
己を律し、再び聖域の頂に立つ者としての、再出発のように思えた。
「かしこまりました。もともと小顔で首筋もきれいなので、ショートレイヤーが映えそうですね。前髪は流すようにすると柔らかく見えますよ」
そして、彼は静かにもう一つだけ伝える。
「首に、古い傷がある。気になるようなら、申し訳ない」
美容師は驚くこともなく、柔らかく微笑んだ。
「大丈夫です。気にせず整えていきましょう」
鏡越しに映るその笑みを受けて、シオンの瞳がわずかに安堵の色を帯びた。
小さく頷き、椅子の背に凭れる。
ハサミの音が軽やかに跳ね、金の髪が少しずつ形を変えていく。
不思議なものだ、とクロエは思う。
あれほど畏れ多く感じた教皇が、今は目の前で静かに髪を整えられている。
鏡の中の横顔は、どこか儚げで、人間らしい。
(やっぱり……似ている)
光を受けて揺れる金髪。
伏せたまつげの影。
微かに口もとを引き結ぶ癖まで、まるでレオンと同じだった。
サガがあの青年を気にかけ続けていた理由が、ようやく腑に落ちる。この二人の血の繋がりを疑わずに済むほど、世の中は単純ではない。
「……クロエちゃん、ご兄弟がいらっしゃったんですね」
不意に、美容師が微笑みながら問いかけた。
「っ――!」
クロエは思わず、飲みかけのコーヒーを盛大に吹きそうになった。横目でシオンを見ると、当の本人は「そう見えるか」と穏やかに微笑んでいる。
(教皇、笑った……!?)
クロエは心の中で盛大に動揺しながら、慌てて視線をそらした。それでも、耳の奥に残る低い笑い声が、なぜか離れなかった。あのとき玉座で見た威厳と、この柔らかな微笑み。同じ人物だと分かっていても、どこか現実味がなかった。だが確かに今、クロエは知ってしまったのだ。
教皇シオンという存在の、もう一つの顔を。
それは、威光でも伝説でもなく――
静かに息づく“人”の姿だった。
ハサミが走り出すと、シオンは目を閉じ、静かに身を預けた。どこか、眠る子どものように穏やかな横顔だった。
――髪に、未練はなかったのだろうか。
ふと、クロエは思う。
長い金髪は、彼の過去そのものの象徴だったはずだ。
聖衣を纏い、戦いに明け暮れた日々。
誇りと痛みの両方を背負ってきた、その証。
それを今、自らの手で切り離そうとしている。
けれど、だからこそ――とクロエは確信した。
この人は、本当に変わろうとしているのだ、と。
「……はい、終わりました」
スタイリストの声に、シオンは静かに目を開けた。鏡の中に映るのは、聖域の教皇でも、歴戦の聖闘士でもない。
――ただ、一人の青年の顔。
短く整えられた金髪が、柔らかく光を反射する。
その瞳に宿る光はどこまでも清らかで、クロエは思わず息を呑んだ。
「……どうだろうか」
椅子に座ったままのシオンが、鏡を見ながら問う。
ショートレイヤーに整えられた金髪は光を受け、後頭部から襟足にかけて滑らかな曲線を描いていた。前髪は流れるように額に沿い、彼の聡明な眼差しを一層際立たせている。
美しい――という形容が、これほど自然に浮かぶ人間も珍しい。
「……よく、お似合いです。猊下」
クロエは、そう答える以外なかった。その変化の意味を、全ては訊かず。ただ、これが彼にとっての一歩なのだと、心の奥で静かに理解しながら。
店を出ると、夕暮れの光が街を淡く染めていた。
風が吹き抜け、短くなったシオンの髪がさらりと揺れる。
彼はしばらく黙ったまま歩いていたが、やがて小さく息を吐いた。
「……不思議なものだな。鏡の中の自分を見て、ようやく己の感情に気づいた」
クロエが首を傾げると、シオンは視線を前に向けたまま続けた。
「私は……何をどうしたら、レオン・カヴァリエに勝てるだろうか?」
その言葉に、クロエの足が止まった。
思わず聞き返す。
「それは……つまり、メリッサ・ドラコペトラ嬢の心を手に入れるために、という意味でよろしいですか?」
シオンは一瞬、表情を固くして気まずそうに視線を逸らした。
「まぁ……端的に申せば……」
その声音に、クロエは思わず目を瞬いた。
聖域の最高位に立つ男が、今、恋の相談をしている。
しかも、ただの外部諜報員に。
(あ……教皇、赤くなってる)
真面目な横顔のまま、しかし耳の先まで染まっている。それが妙に可笑しくて、クロエは笑いを堪えるのに苦労した。
「猊下。残念ながら、恋は勝ち負けではないと思います」
慎重に言葉を選びながらも、口調はどこか柔らかい。
「ですが……レオン・カヴァリエに“勝とう”とするそのお気持ちは、きっと彼女を想う誠実さの表れなのでしょうね」
シオンは静かに歩を進めながら、目を伏せた。
沈黙ののち、彼の唇から微かにこぼれる。
「……そなたは、優しいな」
その声音には、わずかな照れと、深い感謝が滲んでいた。
クロエは少し肩をすくめ、冗談めかして言った。
「優しいというより、恐れ多いだけです。恋愛指南の相手が教皇猊下だなんて」
シオンはふと笑った。
短く整えられた髪が夕風に揺れ、穏やかな光を反射する。
その笑みを見て、クロエは思う。
この人は本当に、変わろうとしているのだ。それは、髪を切ったことよりもずっと大きな変化で、彼が人として生き直そうとしている証なのだ、と。
「クロエ、すまないが予定外の任務を受けてほしい。早急にだ」
いつもよりも眉間の皺が深いサガの様子にただならぬ雰囲気を感じ取り、瞬間、クロエは反射的に姿勢を正した。
『早急に』――その二文字が意味するものを、彼女はこの数ヶ月で痛いほど学んでいる。
(まさか……いよいよ冥王軍が?それとも新たな脅威?)
心臓が強く跳ね、唾をごくりと飲み込んだ。
「教皇を、散髪へお連れしてくれ」
――時が止まった。
いや、止まったのは自分の思考だけだろう。窓の外では季節外れに温かな風が吹き、小鳥が優雅に囀っている。
なのに、クロエの頭の中は真っ白だった。
「……は?」
「頼む。このままでは教皇の威厳と品格に関わる」
サガは真顔だった。眉一つ動かさず、冗談の欠片もない。
クロエは乾いた笑みを浮かべ、ぎこちなく一礼する。
「………御意」
あの場面で動揺を見せず、受命の言葉が出ただけでも上出来だ、と自分を褒めたい気分だった。
石造りの回廊を進む足音が、やけに大きく響いていた。
教皇の間に入るよう命じられ、胸の奥で最高潮に達している緊張を必死に押し殺す。
扉の向こう――玉座の上にいたのは、彼女の知るどの聖闘士とも違う、静謐そのものの人物だった。
光を跳ね返し輝く金の髪、人の心を見透かしてしまいそうな紫の瞳。
その眼差しを一目見た瞬間、クロエは呼吸を忘れた。
(……レオン?)
頭の中でその名が弾けた。
しかし、すぐに違うと分かった。髪の長さも纏う空気も、全く異なる。
青年のような姿をしていながら、底知れぬ威厳と静かな哀しみを湛えたその人は、間違いなく――教皇シオン、その人だった。
「そなたが、ヴァシリウの娘か」
低く穏やかな声が降る。
まるで記憶の底に直接触れられたようで、クロエは言葉を失った。それほどまでに、声まで、レオンに酷似していたのだ。
「……はい。クロエ・アレクサンドラ・ヴァシリウです。お目にかかれて光栄に存じます」
膝を折り、形式通りに頭を垂れる。だが心の奥では、混乱と驚愕が渦を巻いていた。
――どうして、こんなにも似ているの。
サガが彼女を監視任務に就かせた理由が、うっすらと見えた気がした。
***
そして今、クロエは思ってもみなかった任務に就いている。
舞台は聖域ではなく、街の一角にある美容室「Luce(ルーチェ)」だった。
クロエの行きつけでもあるその店は、白い壁と木の温もりに包まれ、柔らかなジャズが流れている。
待ち合い椅子に座る教皇――シオンは、百戦錬磨のかつての黄金聖闘士とは到底思えぬほど、どこか所在なげな表情でクロエの隣にいた。
「……こういうのは、初めてで」
ぽつりとこぼした声に、クロエは「でしょうね」と心の中で呟く。
この人が美容室に足を運ぶ姿など、誰が想像できただろう。
シオンの金髪は肩上で無造作に切られたまま、乱暴なハサミの跡が残っていた。
聖域を離れていた数日の間に、何かに耐え切れず自らの手で、長く豪奢な髪を落としたと聞いたが――それが本当なら、彼は何を背負い、何に傷付いていたのだろう。
クロエは胸の奥が痛んだ。
「本日はどんなスタイルをご希望ですか?」
担当のスタイリストが問うと、シオンはわずかに目を伏せた。
「……短めに。清潔感があるように、整えていただければ」
その声には、ひどく静かな決意があった。
己を律し、再び聖域の頂に立つ者としての、再出発のように思えた。
「かしこまりました。もともと小顔で首筋もきれいなので、ショートレイヤーが映えそうですね。前髪は流すようにすると柔らかく見えますよ」
そして、彼は静かにもう一つだけ伝える。
「首に、古い傷がある。気になるようなら、申し訳ない」
美容師は驚くこともなく、柔らかく微笑んだ。
「大丈夫です。気にせず整えていきましょう」
鏡越しに映るその笑みを受けて、シオンの瞳がわずかに安堵の色を帯びた。
小さく頷き、椅子の背に凭れる。
ハサミの音が軽やかに跳ね、金の髪が少しずつ形を変えていく。
不思議なものだ、とクロエは思う。
あれほど畏れ多く感じた教皇が、今は目の前で静かに髪を整えられている。
鏡の中の横顔は、どこか儚げで、人間らしい。
(やっぱり……似ている)
光を受けて揺れる金髪。
伏せたまつげの影。
微かに口もとを引き結ぶ癖まで、まるでレオンと同じだった。
サガがあの青年を気にかけ続けていた理由が、ようやく腑に落ちる。この二人の血の繋がりを疑わずに済むほど、世の中は単純ではない。
「……クロエちゃん、ご兄弟がいらっしゃったんですね」
不意に、美容師が微笑みながら問いかけた。
「っ――!」
クロエは思わず、飲みかけのコーヒーを盛大に吹きそうになった。横目でシオンを見ると、当の本人は「そう見えるか」と穏やかに微笑んでいる。
(教皇、笑った……!?)
クロエは心の中で盛大に動揺しながら、慌てて視線をそらした。それでも、耳の奥に残る低い笑い声が、なぜか離れなかった。あのとき玉座で見た威厳と、この柔らかな微笑み。同じ人物だと分かっていても、どこか現実味がなかった。だが確かに今、クロエは知ってしまったのだ。
教皇シオンという存在の、もう一つの顔を。
それは、威光でも伝説でもなく――
静かに息づく“人”の姿だった。
ハサミが走り出すと、シオンは目を閉じ、静かに身を預けた。どこか、眠る子どものように穏やかな横顔だった。
――髪に、未練はなかったのだろうか。
ふと、クロエは思う。
長い金髪は、彼の過去そのものの象徴だったはずだ。
聖衣を纏い、戦いに明け暮れた日々。
誇りと痛みの両方を背負ってきた、その証。
それを今、自らの手で切り離そうとしている。
けれど、だからこそ――とクロエは確信した。
この人は、本当に変わろうとしているのだ、と。
「……はい、終わりました」
スタイリストの声に、シオンは静かに目を開けた。鏡の中に映るのは、聖域の教皇でも、歴戦の聖闘士でもない。
――ただ、一人の青年の顔。
短く整えられた金髪が、柔らかく光を反射する。
その瞳に宿る光はどこまでも清らかで、クロエは思わず息を呑んだ。
「……どうだろうか」
椅子に座ったままのシオンが、鏡を見ながら問う。
ショートレイヤーに整えられた金髪は光を受け、後頭部から襟足にかけて滑らかな曲線を描いていた。前髪は流れるように額に沿い、彼の聡明な眼差しを一層際立たせている。
美しい――という形容が、これほど自然に浮かぶ人間も珍しい。
「……よく、お似合いです。猊下」
クロエは、そう答える以外なかった。その変化の意味を、全ては訊かず。ただ、これが彼にとっての一歩なのだと、心の奥で静かに理解しながら。
店を出ると、夕暮れの光が街を淡く染めていた。
風が吹き抜け、短くなったシオンの髪がさらりと揺れる。
彼はしばらく黙ったまま歩いていたが、やがて小さく息を吐いた。
「……不思議なものだな。鏡の中の自分を見て、ようやく己の感情に気づいた」
クロエが首を傾げると、シオンは視線を前に向けたまま続けた。
「私は……何をどうしたら、レオン・カヴァリエに勝てるだろうか?」
その言葉に、クロエの足が止まった。
思わず聞き返す。
「それは……つまり、メリッサ・ドラコペトラ嬢の心を手に入れるために、という意味でよろしいですか?」
シオンは一瞬、表情を固くして気まずそうに視線を逸らした。
「まぁ……端的に申せば……」
その声音に、クロエは思わず目を瞬いた。
聖域の最高位に立つ男が、今、恋の相談をしている。
しかも、ただの外部諜報員に。
(あ……教皇、赤くなってる)
真面目な横顔のまま、しかし耳の先まで染まっている。それが妙に可笑しくて、クロエは笑いを堪えるのに苦労した。
「猊下。残念ながら、恋は勝ち負けではないと思います」
慎重に言葉を選びながらも、口調はどこか柔らかい。
「ですが……レオン・カヴァリエに“勝とう”とするそのお気持ちは、きっと彼女を想う誠実さの表れなのでしょうね」
シオンは静かに歩を進めながら、目を伏せた。
沈黙ののち、彼の唇から微かにこぼれる。
「……そなたは、優しいな」
その声音には、わずかな照れと、深い感謝が滲んでいた。
クロエは少し肩をすくめ、冗談めかして言った。
「優しいというより、恐れ多いだけです。恋愛指南の相手が教皇猊下だなんて」
シオンはふと笑った。
短く整えられた髪が夕風に揺れ、穏やかな光を反射する。
その笑みを見て、クロエは思う。
この人は本当に、変わろうとしているのだ。それは、髪を切ったことよりもずっと大きな変化で、彼が人として生き直そうとしている証なのだ、と。
