Eine Kleine Ⅱ

 ――ジャミール

 それは、文明の喧騒から遠く隔たれた、天空に近い場所。険しい山々が連なり、季節ごとに表情を変える崖の陰に、ひっそりと人の営みが息づいていた。
 灰色の岩肌と乾いた風。遠く、梵鐘のように響く鷲の鳴き声。そこにあるのは、ただ静寂と、時を重ねる者だけが知る孤高の風景だった。
 この地に生きる者は皆、目に見えぬ力を持って生まれる。それは宿命と祝福の間にあるものだ。
 ムウも、貴鬼も、同じ血を引いていた。だが、その中で誰よりも孤高であったのが、シオンだった。
 彼の帰還を、村の者は多くを問わず迎えた。
 彼が何者で、どれほどの時間を生き、今どんな心でここに戻ったか――その全てを、言葉にせずとも察することのできる人々だけが、この地には残っていた。
 そして今、シオンは一人、小さな墓標の前に静かに跪いていた。
 それは“墓”と呼ぶにはあまりに質素なものだった。だが、彼にとってはこの石こそが、かけがえのない“帰る場所”だった。
 そこに眠るのは、彼の師――ハクレイ。
「師よ……」
 呟くような声が、風にかき消されそうになった。けれども、その言葉は確かに石へ、そしてかつての師の魂へと捧げられたものだった。
「私は……戦士であれ、強くあれと、そう望んで生きて参りました。その生き方を、私は誇りに思っていました。どれほどの血を見ようとも、己の正しさを疑わず、前を向き続けてきたつもりです。されど……」
 その先を口にするまでに、随分と時間がかかった。その間、シオンはじっと石を見つめていた。まるでそこに、遠い昔の自分を映しているかのように。
「されど、私は……愛する女性を幸せにする術を、何一つ知りませんでした」
 それは懺悔ではなかった。
 ただ、一つの“事実”に過ぎなかった。
 愛することと、守ること。
 強くあることと、優しくあること。
 その両立ができないままに、彼は時代に飲まれ、生き延びてしまった。
 シオンは瞼を閉じる。
 思い出せぬはずの女の声が、輪郭を持たぬまま、風に溶けて響いた気がした。
「私は、彼女を探さなかったのでしょうか。それすらも、私は……思い出せない。思い出せない自分に、ただ、打ちのめされるだけです」
 淡々とした語りの裏に、どれほどの絶望が潜んでいたか。それを知る者は、この地には、もういない。
 風が、そっと吹いた。
 墓標の下の乾いた土が、さらりと音を立てて流れる。それはまるで、彼の心の断面が、少しずつ崩れてゆく音のようでもあった。
 どれほどの時間が経ったのか、自分でもわからなかった。跪いたまま、墓標と向き合い、ただ風と呼吸を交わしていた。
 その背に、ふと――声が落ちた。
「シオン様。この度は、よくぞお帰りくださいました」
 振り返る。
 そこに立っていたのは、一人の老女だった。だが“老い”と形容するには、どこか躊躇いが生じた。彼女の背すじは真っすぐに伸び、顔には確かに皺が刻まれていたが、紫水晶を思わせる瞳は、なおも深く、強く、そして優しく光を湛えていた。
「これは……長殿……」
 シオンは静かに立ち上がり、無意識のうちに膝の埃を払った。その仕草は、かつて師の前で礼を正した少年の日々を思わせた。
「お待ち申し上げておりました」
 長と呼ばれた老女は、ゆるやかに頭を垂れた。その動作のどこをとっても、揺らぎも淀みもなく、風のように自然で、祈りのように静謐だった。
「……私が来ると、知っておられましたか?」
「はい」
 その一言の裏に、余計な説明は必要なかった。
 彼女は“見える”人だ――過去と未来、見えざるものの流れを読む力を持つ、ジャミールの長老。
 その予知の力が、この地の均衡を長く保ってきた。
 彼女もまた、人間の時間の軛から外れた場所に立つ者だった。 
 シオンの顔が、ふと翳る。
 沈黙が風に吹かれ、墓標の傍に舞い散った。
「長殿……私の生き方は……何もかも間違っていたのです。私が信じていた正義は……思い上がりでした。それは誰かを救う力ではなく、誰かを断ち切る剣でした。気づいたときには……もう、何も、残っていなかった」
 吐き出すように語られる言葉には、激情の欠片もなかった。ただ乾いていて、空虚で、途切れ途切れに降る雨のように――静かだった。
「……私はこれから、どう生きてゆけば良いのでしょうか……?」
 その問いに、長はほんの少しだけ目を細めた。それは慈しみであり、敬意であり、また痛みを分かつ者だけが知る深い共感だった。
「――メリッサさん、と仰る娘様」
 その名が告げられた瞬間、シオンの肩がはっきりと震えた。
「……どうして、その名を……」
 長は微笑みすら浮かべなかった。その瞳の奥には、揺るぎない真実だけが在った。
「とても可愛らしいお方ではありませんか」
「……私のせいで……彼女は……彼女は……っ」
 声が震え、目に映るすべてが滲む。瞼の裏に焼き付いて離れない、怯え、傷つき、涙を流すメリッサの顔。聖域が彼女に負わせた傷の大元は自分だった。それが、シオンを最も苛んでいた罪だった。
「……大丈夫ですよ」
 長の声は、空よりも穏やかで、月よりも静かだった。
「そのお方は、シオン様の“光”となるお方。闇を宿しながらも、それを抱いたまま光に変えてゆける……とても不思議な娘様ですね。これから、いくつもの試練が訪れましょう。けれど、それらは全て、お二人の絆を強くするためのもの。どうか、ご自分を……少しずつでも、信じてあげてくださいませ」
 静かに。けれど、決して揺るがぬ言葉だった。
「それと――」
 長は、さらにもう一歩踏み込んだ。
 シオンの瞳に、再び微かな緊張が走る。
「シオン様とよく似た面差しの男性が、いらっしゃいますよね」
 その瞬間、彼の呼吸が止まる。
 胸の奥を、古傷のような疼きが貫いた。
「……その方とは、お辛いでしょうけれど。どうか……会って差し上げてください。それが、未来の扉を開く鍵となります」
 シオンは、何も答えられなかった。
 長の言葉が決して誤らないことを、彼は誰よりも知っていた。だからこそ、尚更――自分の心が、その未来を受け止めるには、あまりにも……脆すぎた。
 吹き抜ける風が、墓標の周囲に積もった砂をそっと払った。それはまるで、誰かが彼の罪を少しだけ軽くしようと、寄り添ってくれたようだった。

 ジャミールの奥、誰の目にも触れぬ結界の内側。
 それは、かつて修行に明け暮れた少年の日々を過ごした場所。今はムウに託し、長らく訪れることもなかった館が、変わらぬ姿で佇んでいた。
 石造りの外壁も、精緻な装飾の刻まれた内壁も、
年月を経たはずの木材すら、どこか静謐な気配を保っていた。風雨も時も、ここだけをそっと避けて通ってきたかのようだった。
「……懐かしい……」
 入口から足を踏み入れた瞬間、胸の奥がふと熱くなった。
 気配のない空間。それなのに、空気が柔らかく波打った気がした。
 埃一つなく保たれた室内。誰かが手入れをしていたのかもしれない。あるいは――この館自体が、主を待っていたのか。

 重い装束を脱ぎ、一人、寝台に身を沈める。
 身体が、静かに軋むような音を立てた。
 硬くも懐かしい感触。見上げた天井の木目が、昔とまったく同じ形を描いていた。
 視線の奥が、ぼやけていく。

 ――師ハクレイの叱咤。厳しくも温かい眼差し。

 言葉は少なかったが、その沈黙の中に、幾度も救われた。
 聖衣を初めて身に纏ったあの日。誇りと畏れを同時に抱いた、手のひらの重み。
 幼きムウを背に乗せ、歩いた雪の道。
「もっと高く跳んでみろ」
「手先の繊細さは、お前の中に確かにある」
 そんな言葉すらも、今や幻のように遠い。
 音もなく、涙が零れ落ちた。
 それは溜めていた悔いでも、悲しみでもない。
 記憶の中に確かに存在していた日々への、名もない感謝だった。

 肩にかけられた重責も、過去に流した血も、この時だけは遠く感じた。
 天井を見上げながら、一つ、深い息を吐いた。

 もう一度、やり直せるのだろうか。
 何かを、守り直すことはできるのだろうか。
 その答えはまだ、遠い。
 それでも。
「……師よ……私はあの玉座に座るに相応しい人間なのでしょうか。誰をも守れなかった私が――」
 誰に向けたとも知れぬ嘆きが、部屋の静けさの中へ吸い込まれていった。

***

 ──静寂。

 風の音もなく、空間の輪郭すら曖昧な場所。どこかで見たようで、どこにも存在しない風景。
 その中心に、ただ一人、懐かしい人物が佇んでいた。白髪の老聖闘士。背すじを伸ばし、両手を袖の内に隠した姿。厳しさと慈しみをそのまま形にしたような面差し。
「……師、ハクレイ……」
 その名を口にした瞬間、胸の奥に熱が走った。
 夢だと分かっている。だが、それでも、この人にもう一度会えるとは。
 ハクレイは、面倒そうに眉根を寄せながら、ふっとため息をついた。
「なんだ、お前……嫁を娶ったのではないのか?一人でこんなところまで来おって」
 唐突なその言葉に、シオンは虚を突かれたように菫色の瞳を瞬かせる。
「……嫁?」
 かすかに脳裏をよぎったのは、遥か昔に、手を取り損ねた人の面影。だが、ハクレイがそれを指しているとは思えなかった。
「その女性でしたら、私の不誠実な態度が……」
「阿呆」
 ばっさりと切り捨てられる。
「そんな昔話をしておるのではない。……あの冥闘士の娘のことに決まっておるだろうが」
「……メリッサのこと、ですか……!?」
 驚きが声に滲む。思いもよらぬ名が、恩師の口から紡がれた。
 ハクレイは腕を組み、ふんと鼻を鳴らした。
「メリッサと言うのか……お前が選んだにしては、よく出来た娘ではないか」
「い、いえ……彼女と私は、まだ何も……!ただの……」
 言葉が喉に詰まる。
「ただの」何なのか、自分でも定かでない。
 守りたかった。支えたかった。だが、彼女の隣に立つ覚悟を持てていたか。
「……お前のことを、待っておるのではないのか?」
 その問いかけは、静かだった。だが、鋭く、深く、胸を抉った。
「……そ、それは……」
 うろたえるように言葉を濁すシオンを、ハクレイはじっと見つめていた。あの日と同じ、逃げ場のない眼差し。だが、その奥に、深い慈しみと温もりがあった。
「お前はまだ、戦士であろうとしすぎておる……戦士である前に、人間なのだということを忘れるでないぞ」
「……師よ……」
 夢の空が、音もなく滲みはじめた。
 声をかけようと伸ばした手は、もう何にも届かない。
 次の瞬間、シオンは、古びた寝台の上で静かに目を覚ました。
 頬に伝う涙が、現実であることを告げていた。
 朝の冷気が、肌を刺すようだった。
 高地の空気は澄み切っていて、まるでこの地の全てが、言葉にならぬ静かな祈りでできているかのようだ。

 数日の後、シオンは小さな荷を肩に掛け、ゆっくりと館を後にした。
 結界の境目に立ち、振り返る。
 山々は黙したまま見下ろしていた。厳しくも、どこか懐かしい眼差しで。
 そこに、杖をついて佇む一人の影──長がいた。
 その紫の瞳は、シオンが来たときと変わらぬ力を宿しながらも、どこか名残惜しそうに細められていた。
「長殿……私は、聖域へ戻ります」
 低く、静かに告げた。
 長は一瞬目を伏せ、それからしっかりと顔を上げた。
「ええ、ええ……良いご判断です。かの地は、シオン様を必要としておりますから」
 風が吹いた。長の白髪がさらさらと靡く。
 彼女とは、これが最後かもしれない。
 この山を二度と訪れることが叶わぬかもしれない運命を、彼はどこかで理解していた。
 気づけば、シオンは一歩、二歩と近づいていた。
 迷いなく、そっとその小柄な身体を抱きしめた。
 布越しに感じる骨の細さと、驚くほど穏やかなぬくもり。
「……ありがとう、ございました」
 それは、修行に明け暮れた日々に対してでもあり、己の弱さを見透かしながら導いてくれたことへの感謝でもあり、もう戻れないかもしれぬ故郷と、それを象徴する長への、惜別の祈りでもあった。
「……行きなされ。振り返らずとも、ここは常に、あなたを見守っておりますゆえ」
 その声は静かでありながら、力強く揺るがなかった。
 シオンは一度だけ深く頭を下げ、踵を返す。
 その背に、長の声がふわりと追いかけてきた。
「……どうか、幸せになられますように」

 聖域への道は遠い。だが、迷いはなかった。かの地には、自分を待つ者がいる。彼の闇と光の全てを受け入れようとしてくれた、あの娘が。
 一陣の風が吹き、シオンの外套をはためかせる。
 それはまるで、旅立ちを祝う祝詞のように、やさしく背を押していた。

 ジャミールで過ごした数日間。
 それが彼に何をもたらしたのか――それを正確に知る者は、誰一人としていない。ただ、確かなことが一つだけあった。
 聖域に戻ってきたシオンは、まるで一度死に、再び甦った者のようだった。
 かつてよりも深く静かな光を宿した眼差し。
 何かを赦し、何かを手放し、それでもなお守りたいものを抱いた人間の目。その背は、かつて以上に真っ直ぐに伸びていた。
 そして。
「髪、切ったのね」
 ヘスティアの声は微笑みを含み、どこか胸の奥を打つほどに優しかった。
 黄金の髪は肩にかかる程度にまで短くなり、風に揺れる度、彼の輪郭がいっそう際立った。

 その佇まいは、まるで……そう、まるで――

「……レオン・カヴァリエみたいね」
 ふと、ヘスティアが口にした言葉に、空気が少しだけ張り詰めた。
 シオンは、静かに目を伏せた。
「……その名を聞くとは思いませんでした」
「彼はまだ何も知らない。けれど、あなたにとてもよく似ているわ。外見だけじゃなく、歩き方も、所作も」
「……それは、聖域に連なる家系の血の成せる業でしょう」
「でも、それだけじゃないと思うの。きっと……」
 ヘスティアは、そこで言葉を切った。
「彼もまた、誰かの光になる人だから」
 その言葉に、シオンの睫毛が一瞬だけ揺れた。
 彼は、空を仰ぐように、視線を遠くへ向けた。
 まるで、自分が守るべき未来の在り処を、静かに見極めるかのように。
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