Eine Kleine Ⅱ

 昼休みの中庭。
 噴水の傍で、同級生たちの笑い声が緩く響いていた。その輪の端に、クロエは偶然、居合わせてしまった。
「──あいつ、絶対ドラコペトラさんに惚れてるだろ」
 誰かが笑い混じりに言ったその言葉が、風に乗って耳に届く。
 次の瞬間、心臓が一つ跳ねた。
「え、今更それ言う?」
「え、そうなん?」
「この前、レオン言ってたぜ?『気になってる』って」
「おお!で?ドラコペトラさんの方は?」
「二人でレポートやってるところ見る限り、脈ありそうだけどな。知らんけど」
 ただの学生たちの、他愛ないお喋り。けれどクロエの耳には、それが妙に真っ直ぐ響いた。
 レオンが──メリッサを、気にしている。
 ほんの少し前までなら、そんなこと聞いても「そうなんだ」と笑って流せたはずだった。
 けれど今は、どうしてだろう。胸の奥に、静かに冷たいものが落ちた気がした。気づかないふりをして、飲みかけのコーヒーを口に運ぶ。紙コップの縁が、小さく震えた。
 報告書に、どう書けばいい。
 サガ様に、何を伝えればいい。
 義務と、友情どちらを取る?
 どちらも裏切りたくない気持ちが、胸の内でせめぎ合っている。
 クロエは俯いて、そっと息を吐いた。
 中庭のざわめきは、何事もなかったかのように続いていた。
 そして、報告期限の刻限が迫っていた。

 夜の聖域・教皇宮。
 書斎の中では、サガが机上の通信端末を前に腕を組んでいた。
 薄暗い部屋を、卓上のランプの灯だけが照らす。
 「……ようやく来たか」
 通信アプリに新着の報告データが届く。
 差出人は、クロエ・アレクサンドラ・ヴァシリウ。
 彼女は有能だ。諜報員としての冷静さ、分析力、報告の正確性。どれを取っても申し分のない部下――のはずだった。
 だが、開封した瞬間、サガは眉をひそめた。
 文面は、驚くほど曖昧だった。
 「関係は友好的」「特筆すべき問題なし」「観察継続の必要あり」――まるで新人の報告書のようだ。
 これでは、何も読み取れない。
 「……どういうつもりだ、クロエ」
 独りごとのように低く呟き、サガは椅子の背に凭れた。薄い報告書データの裏側に、彼女の迷いが透けて見える。
 書けないのではない。

 ――書かなかったのだ。

 サガは、深く息をついた。
 彼の視線が書斎の奥、重厚なカーテン越しに広がる夜空をかすめる。
 (友人として、か……。情を持ったか、クロエ)
 それは、非難というよりも、諦めに似た響きだった。
 メリッサ・ドラコペトラ――
 彼女を巡る問題は、いつだって人の心を乱す。
 あの冥闘士の娘に関わる者は、必ず何かを揺さぶられる。
 サガは報告書を閉じ、こめかみを押さえた。
 「全く、手を焼かせる……」
 低く漏れた声には、叱責よりも僅かな苦笑が混じる。
 それでも、情報は必要だ。
 彼は机上の通信端末に指を滑らせ、新たなメッセージを打ち込む。
 《報告内容、不十分。追加資料を提出せよ。メリッサ・ドラコペトラとレオン・カヴァリエの関係性、現時点での心理的傾向を分析すること。期限は明朝まで。以上。》
 送信ボタンを押す前、一瞬だけ手が止まった。
 彼自身、どこかで分かっているのだ。彼女が迷う理由を。そして――メリッサという娘が、誰にとっても“単なる監視対象”ではいられないということを。
 「……やれやれ、厄介な娘だ」
 呟きとともに送信ボタンが押され、電子音が静寂の中に溶けていった。??いてしまったのだ。レオンがメリッサをどう思っているか──彼の友人たちの、何気ない会話の端々から。それを聞いてしまったがゆえに、報告書の筆が止まった。どうしても、あの内容をそのまま書き記すことができなかった。だが、サガから追加で提出を求められた以上、従わぬわけにはいかない。
 任務も、サガへの想いも、全てを投げ捨てられたならどれほど楽だろう。けれども、見習い女官の頃から目をかけてくれた彼を裏切るような真似だけは、どうしてもできなかった。

 ──正しさなど、とうに置いてきたはずなのに。

 正しさの対極に立つ人に仕えると決めたあの日から、クロエにとっての“正義”はただ一つ、サガへの忠誠だった。それでも、胸の奥に疼く痛みだけは、どうしても消せなかった。
 友人を傷つけたくないという、ごく当たり前の感情。その当たり前さが、今の彼女にとっては何よりも残酷だった。

 夜の聖域は、どこか冷たく澄んでいた。
 執務室の扉を叩く音が、石造りの回廊にかすかに響く。
「──入れ」
 低く通る声に促され、クロエは静かに扉を開けた。
 机上の燭台に揺れる火が、サガの横顔を照らす。陰影がその表情を切り取り、整った顔立ちを一層冷たく見せていた。
「報告書を、完成させました」
 クロエは封を施した分厚い封筒を差し出した。サガは黙ってそれを受け取り、銀のペーパーナイフで封を切る。
 視線を落としたまま、指先が紙をめくる音だけが静寂に響いた。
 数分。
 報告書の末尾には、彼女が何度も迷い、削り、書き直した末にたどり着いた一文が残されている。
《メリッサ・ドラコペトラは、対象レオン・カヴァリエと明確な相互感情の形成段階にあると推察される》
 その文を目で追いながら、サガはわずかに瞼を伏せた。
「……そうか」
 短く呟いた声が、静寂の中に沈んでいく。
 クロエはもう一度、深く頭を下げた。彼女の胸には、燃え尽きたような痛みだけが残っていた。
 やがて、息が一つ漏れた。
「……やっと、いつもの君に戻ったようだな」
 その声には、叱責でも賞賛でもなく、ただ淡い疲労の色が滲んでいた。
 クロエは胸の奥がきゅっと締めつけられるのを感じながら、深く頭を下げる。
「申し訳ございません、サガ様……一時的に、心を乱しておりました」
「理由は問わん」
 サガは報告書を閉じ、無造作に机上へ置く。金の髪が揺れ、瞳が淡く光を帯びた。
「だが忘れるな。任務とは、感情よりも先にあるものだ。君がどれほど心を揺らそうと、情報は正確でなければならない。もう一度言う。対象に同情するな」
「……はい」
 クロエは絞り出すように答えた。
 彼の言葉は冷ややかだったが、そこに怒りの色はなかった。それがかえって、胸を痛ませた。


 扉が閉まる音がしてから、長い沈黙が訪れた。
 聖域の夜は深く、静まり返った空気の中で、燭の灯が小さく揺れている。
 サガは机に肘をつき、片手で額を覆った。
 指先が震えているのを、自分でも感じた。
 クロエが、ようやく報告を上げてきた。
 義務を全うしたのだ。
 だが、彼女の筆跡には、どれほどの苦悩が滲んでいたか。
 彼は報告書の束を手に取り、もう一度、最終頁を開いた。そこに記された数行の文字が、淡い灯に照らされて浮かび上がる。
 《メリッサ・ドラコペトラは、対象レオン・カヴァリエと明確な相互感情の形成段階にあると推察される》

 ──相互感情。

 つまり、互いに惹かれ合っているということか。
 紙面から視線を外すと、サガはゆっくりと息を吐いた。
 胸の奥で何かが鈍く疼いた。
 それが嫉妬なのか、哀惜なのか、自分でも分からない。
 「……シオン様」
 思わず口をついて出た。
 闇の向こうに、彼の姿が見える気がした。かつて手に掛けた男、今は教皇として再び地上に立つ男。
 あの人は、どこまで知っているのだろうか。
 メリッサが、彼に似た青年と共に過ごしていることを。そして、その青年に惹かれ始めていることを。
 もし知れば──微笑むのか、それとも……。
 サガは唇を引き結び、報告書を閉じた。
 蝋燭の灯が、音もなく揺れた。
 「……これでいい」
 低く呟く声は、自分自身に言い聞かせるようだった。
 サガにとって、報告はただの任務ではない。聖域の均衡を守るための一手であり、かつての罪を贖うための行為でもある。彼が選べるのは、正しさではなく静かな従順だけだ。
 火が小さく爆ぜる音がした。その光の中で、サガの瞳が微かに陰を帯びる。
 「クロエ……よくやった」
 小さく呟いた声は、夜気に溶けるように消えていった。

 報告書を閉じても、サガの手は離れなかった。指先に伝わる紙のざらつきが、妙に現実的だった。
 これを、教皇へ上げるべきか。
 聖域の規律に照らせば、迷う余地などない。報告は、上官の指揮下で完結する。だが、これは単なる任務ではなかった。
 サガは深く息を吐き、椅子の背に凭れた。窓の外、アテナ神殿の方角に夜風が吹く。その風が、遠い鐘の音を運んできた。
 レオン・カヴァリエ。
 シオンの面影を受け継ぐ、あの青年。
 彼の存在が初めて報告されたときから、サガの中には言葉にならぬ疑問があった。血の気配。因縁のようなもの。
 そして、あの紫の瞳──。
 まだ結果は出ていない。それでも、直感だけは確かに告げている。
 彼は、何かを継いでいる。
 もし、その“何か”が真実であれば。
 この報告書を渡すことで、教皇の心にどんな影を落とすのか。
 サガはそっと報告書を裏返した。
 封をするための蝋が、まだ溶かされぬまま机上にある。火を点けるだけで、全てが動き出す。
 「……メリッサ・ドラコペトラ」
 その名を、静かに呼んだ。
 彼女は深い傷と闇を抱え、それでもなお前を向いて生きている。あれほど痛みを知る人間が、ようやく穏やかに笑えるようになったのだ。
 それを壊してよいのか。

 ――誰のために。何のために。

 サガは指先で額を押さえた。
 理性が“職務”を促し、心が“沈黙”を乞う。
 「……私は、何を守りたい」
 低く呟いたその声が、部屋の壁に虚しく響く。
 次の瞬間、扉の向こうで足音がした。副官の兵が報告を求めているのだろう。サガは顔を上げ、報告書を封じた。

 ──今はまだ、渡さない。

 そう決めた。
 結果が出るまでの、少しの猶予を自らに与えるために。そして、心を確かめるために。
 蝋燭の炎が、ふっと揺らいだ。
 封をされたばかりの報告書が、机の上で静かに沈黙している。
 その紙の下には、サガ自身の迷いが刻まれていた。


 冥王軍襲撃の記憶が遠ざかりつつある頃、冥府の深奥で、静かに蠢く影があった。その中心に立つのは、冥界三巨頭の一人、天貴星ミーノス。
「……ようやく、動き出す時が来たようですね」
 彼は背後に跪く冥闘士たちに目もくれず、黒水晶の盤を撫でるように見下ろしていた。その盤には、淡い光を帯びた少女の姿が揺らめいている。
「メリッサ……いえ、天立星ドリュアス。貴女の無垢で美しい魂が、かの聖域の手によってどれほど捻じ曲げられたか。私は、嘆かわしく思っているのですよ」
 声音は丁寧そのものだったが、奥底には氷のような冷たさが漂っている。
「聖域の愚鈍どもが気付かぬうちに、静かに、確実に――彼女を還しましょう。元あるべき場所へ。主の御許へと」
 その声に応じて、黒衣の冥闘士たちが音もなく立ち上がった。闇が、静かに現世へと滲み始めていた。

「……ついに来たわね」
 冬の夕闇が降りきったキャンパス。
 薬学部の講義が終わる頃には、既に空は深い藍に沈んでいる。メリッサと別れて校門を出た瞬間だった。歩道で、クロエはそっと足を止めた。
 空気の層が、一つ波打った。
 まるで水面の下に何かが潜んでいるように、重く淀んで、肌をじわりと撫でてくるような気配。
「これは……聖域の誰かの小宇宙じゃない。もっと……いやらしい干渉」
 喉の奥が、うっすらと冷えた。
 報告すべき、と頭では理解している。それでも、あの子を一人このまま帰したのは——まずかった。
 クロエは迷いなくスマホを取り出し、メリッサへメッセージを送る。
《言うの忘れた。今日うち来ない?頂き物の茶葉があってね、一人じゃ消費しきれないから飲んでほしいの。別れたばかりなのにごめんね》
 自然な文面。だが内心は、急ぎ足で。
《いいの!?やった!行く行く!》
 すぐに来た返信に、クロエは胸を撫で下ろした。

 クロエの自宅マンションは、大学から徒歩圏の落ち着いた場所にあった。
 エントランス前の植栽にはイルミネーションが灯っていて、クリスマスシーズンらしい華やかさを添えている。
 玄関をくぐると、薄い柑橘の香りがふわりと漂う。
「どうぞ。今日は少し冷えるから、温かいのにしましょ」
 リビングの照明は柔らかく、二人で座るにはちょうどよい静けさだった。
 クロエはキッチンに立つと、迷いのない手順でティーポットを温め、茶葉を計り、湯を注ぐ。
 その所作は、メリッサの知る“クロエらしさ”とはどこか違っていた。
 無駄な動きが一つもない。
 まるで儀式のように、静謐で、洗練されていて——どこか格式を感じさせる。
 カップに注がれる琥珀色の紅茶。
 湯気が柔らかく立ちのぼり、クロエがそっと差し出した。
「飲んで。落ち着くから」
 その掌の角度さえも、どこか“宮廷”を思わせる――そう気づくのは、もう少し先のことだ。

 テーブルの上には、小さな箱が一つ置かれている。
 クロエは視線を落とし、その蓋に指先を添えた。
「……今日、渡したかったものがあるの」
 箱を開けると、中には、透明な光を宿した水晶のブレスレットが丁寧に置かれてあった。
 まるで、見えないものを祓うために生まれたかのような、清らかな輝き。
「えっ、これ……すごく高そう……!」
「クリスマスにはまだ早いけど、私からのプレゼント。とっておきの、ね」
 メリッサが戸惑いながらも受け取ると、クロエは静かに続けた。
「それ、あなたを護ってくれるものなの。肌身離さず身につけて」
「…え?」
「何でもない。ただの御守よ。だから、受け取ってくれると嬉しいな」
 クロエの微笑みはいつも通りだったけれど、その瞳の奥に宿る緊張の色は、どこか非日常の訪れを予感させた。
 この水晶の中には、サガが託し、乙女座シャカの小宇宙が込められている。強い邪気に反応すれば、シャカが即座に感知する仕組みだ――本来なら、使われることのない護りの品。
「ありがとう、クロエちゃん。大切にするね」
「うん……それだけでいいの」
 クロエの声が、どこか遠くを見ていた。
 この後、静かに始まろうとしている闇を、メリッサはまだ知らない。だが確かに、冥界は動き出していた。それも、決して緩やかとは言えない足取りで。

 灰色の雲が低く垂れ込めた午後、クロエは聖域との通信端末を手にし、抑えた声で報告を始めた。
 彼女の声音は平坦で、しかしその奥にある緊張と責任の重みは、わずかな呼吸の乱れに滲んでいた。
「この度、メリッサ・ドラコペトラ嬢の周辺において、不穏な気配を確認いたしました」
 視線は机上の記録書に落とされているが、瞼の裏に浮かぶのは、無防備に談笑する友人の姿――メリッサ。
「万が一に備え、メリッサ嬢へは、例のブレスレットを渡し、常時身につけておくよう説明しております」
 あのとき、彼女は小首を傾げながらも素直に頷き、何も問わなかった。クロエはそれが、胸の奥に鈍く痛みを残すことを知っていた。
「尚、メリッサ嬢本人は、まだ何も気付いていない様子です」
 最後の一文を告げると、クロエは数秒、瞼を閉じた。
「まだ気付いていない」――それは救いでもあり、同時に恐怖でもある。彼女が気付かぬうちに、暗い波が足元に迫ってきている。

 報告を受けたサガは、冷静を装いつつも、深い皺を眉間に寄せていた。僅かな油断が命取りになる――それを彼は幾度となく見てきた。
 彼はそのまま、女神ヘスティアの執務室へと足を運んだ。扉を閉め、沈黙の中に報告の言葉を置く。
「ブレスレットは渡されました。メリッサ嬢はまだ異変に気づいておらず、不穏な気配が漂っているとの報告が、クロエより」
 ヘスティアは報告を黙して聞いたまま、指に挟んだペンをくるりと回した。彼女の瞳は窓の向こうの空を映しながら、遠いものを見ているように曖昧だった。
「教皇への報告はいかがいたしますか?」
 サガの問いかけに、ヘスティアのペンが止まる。
一瞬の沈黙。だがその僅かな間に、彼女の思考は何層もの判断を積み重ねていた。
「シオンへは……まだ、いいわ」
 低く、決然とした声。
 その言葉に込められた意図を、サガは即座に察する。
「御意」
 答えは短く、だがその背後には複雑な感情が広がっていた。いまだレオン・カヴァリエとシオンの関係は明らかではなく、それゆえ軽々しく情報を共有するには危うさが伴う。
 何より――
「そうでないと、彼の精神がもたないわ……」
 ヘスティアは静かに呟いた。
 脳裏によぎるのは、幼いような不安の色を帯びた、あの若き教皇の横顔。
 過去に背を向けることも、完全に断ち切ることもできずにいる彼に、今さら何を与えられるというのか。
「シオンは強いわ。でも、強い人間ほど、守られることに慣れていないのよ」
 言いながら、ヘスティアは自身の言葉に気づく。
 それは、かつて自分が誰にも頼れずにいた頃の記憶をなぞっていたのかもしれない。
 サガは黙して頷く。その背筋には硬質な覚悟が宿っていた。
 彼の中で、かつて命を奪った教皇が、今やその命の儚さを抱えて立っている。この均衡を崩してはならない――彼もまた、そう痛感していた。

 静かに時が流れてゆく。
 その間にも、何かが、確実にこちらへと向かっている。

 誰にも見えない場所で、予兆は静かに満ちていた。
 それぞれの立場、それぞれの過去が絡み合い、やがて一つの運命へと収束してゆく。
 そのとき、誰が何を選び取るのか――まだ、女神にさえもわからなかった。
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