Eine Kleine Ⅱ

 翌日、補佐官執務室が茜色に染まる頃、サガは一人、封蝋の施された書簡を前にしていた。
 差出人の印章──ヘリオス遺伝研究所。
 見慣れたグラード財団の紋章の下に、金色で刻まれた太陽の意匠が輝く。
 数日前、自らが依頼した検査の結果だ。
 対象は、レオン・カヴァリエと教皇シオン。
 推測を確かめるための、決定的な証拠。
 しかし、いざその封を切るとなると、指先が止まる。
 もし、結果が“肯定”ならば──
 あの若者は、聖域の歴史そのものを変える存在となる。
 サガは一度深く息を吐き、静かに封蝋を割った。
 厚手の紙の擦れる音が、静寂に溶けていく。
 文書の最下段には、研究所の主任科学者の署名が記されていた。

《ヘリオス遺伝研究所 遺伝子解析報告書》
依頼主: 聖域・教皇補佐官サガ殿
案件番号: GΦ-1182-Σ
検査日: 西暦**年**月**日
被検体:
 A:シオン(聖域登録個体コード 001-G)
 B:レオン・カヴァリエ(民間個体コード 09L-CVL)

■解析結果

当研究所における全ゲノム比較解析の結果、被検体Aおよび被検体Bの間に、高一致率99.98%の遺伝子相同性を確認。
両者は直系の血統関係にあると断定される。
ただし、ミトコンドリアDNAならびにY染色体ハプロタイプの変異パターン解析の結果、両個体間には8〜10世代前後の遺伝的隔たりが存在すると推定される。
この変異量は通常の親子・祖孫関係とは異なるが、
「祖先と子孫」という系統的関係に矛盾しないものである。

■補足観察

聖域側から提供されたカヴァリエ家家系図(写本)の記録によれば、被検体Bより9代前の系譜において、出自・素性共に不明の男性が一名記載されている。
同人物の名は伏せられるか、もしくは空欄で記録が終わっており、他の代と異なり異常に簡略な記載形式をとる。
この点は、今回の遺伝子解析で得られた世代推定(約9代前)と一致し、両データ間に矛盾は認められない。

■総括

両被検体は血統的に直系関係にある可能性が極めて高い。

世代推定はおおよそ8〜10代前後。

系譜上の欠落部分との一致が確認されたため、被検体A=シオンがカヴァリエ家の先祖である可能性が極めて高い。


解析責任者:
ヘリオス遺伝研究所
主任研究員 エレニ・フォティアス博士
(Grado Genetics Division)

---

 サガはこの報告書を受け取った瞬間、静かに息を吐く。
「やはり、そうだったか…」
 だが、それが“血の繋がり”というだけで済まされる問題ではないことを、彼は誰よりも理解していた。

 秋の夜は早足で訪れる。茜色の陽光が紫紺へ移ろう頃、補佐官執務室では、サガが結果報告書を机上に広げていた。紙の上には、赤く示された数値と、淡々とした科学的文言。その無機質な文字列が、まるで一つの運命を告げているかのようだった。
 「……レオン・カヴァリエ。やはり、ただ者ではなかったな」
 低く呟いた声に、応えるように扉が叩かれた。
 入室を許すと、金茶の髪を揺らしながらアイオロスが姿を現す。
 「呼んだか、サガ」
 「来てくれ……見せたいものがある」
 サガは一枚の報告書を差し出した。
 アイオロスは受け取り、数秒で表情を引き締めた。
 「この数値……まさか」
 「推定で八〜十代前の共通祖先。聖域の記録と照らせば、時代的に符合する」
 「つまり、シオン様の……?」
 サガは沈黙で肯定した。
 アイオロスは短く息を呑み、報告書を丁寧に机に戻した。
 「レオン・カヴァリエはそれを知らんのだろ?」
 「当然だ。メリッサ嬢も同様だ」
 「ならば、誰にも口外はすまい……今はまだ、時期ではない」
 サガは小さく頷く。
 彼の手は報告書をそっと封筒に戻し、赤い封蝋を押した。
 「ヘスティア様に報告に向かう。正式な判断は、あのお方に委ねるしかあるまい」
 「……そうか」
 アイオロスは静かに立ち上がった。
 長年の戦友として、サガの決意を察していた。
 「気をつけて行け……あの方の御前では、余計な感情を見せるなよ」
 「心得ている」
 サガは封筒を懐に収め、補佐官法衣の襟を正した。
 その横顔には、重責と覚悟が滲んでいる。
 これを報告するということは、シオン、メリッサ、レオン、三人の運命を再び結び直す行為にほかならない。

 それが吉となるか凶となるか。
 誰にも、まだ分からなかった。

 サガは静かに部屋を出た。
 向かう先は、聖域最上層──地上の女神ヘスティアの執務室。
 彼女の前で真実を口にする瞬間が、刻一刻と迫っていた。


 サガは黙礼ののち、一枚の封筒を私に差し出した。
 金の封蝋が割られている。彼の手の中で、報告書は既に開かれていた。だが、それでもなお、読み上げるには覚悟が要ったのだろう。白い紙の端を掴む指先に、かすかに力が入っていた。
「……確認の結果、レオン・カヴァリエと先代牡羊座聖闘士、現教皇シオンの間に、直系の遺伝的繋がりが……認められました」
 声は淡々としていた。けれど、その震えを私は聞き逃さなかった。
 サガの眉が、苦悶を堪えるように寄せられている。彼は冷静な報告者であろうとした。誰より理知的であろうとした。だが、その理性の隙間から滲むものを、私は知っていた。

 ――これは、誰か一人の胸に納めておけるような、軽い事実ではない。

 私は、耳を塞ぎたかった。
 この報告を聞くために自ら動いたというのに。
 真実を明らかにするべきだと、疑う余地などないと、そう信じていたのに。
 それでも、胸の奥から湧き上がる衝動は、抗いがたかった。
 聞きたくない。
 知りたくなかった。

 ――なんと、身勝手なのだろう。

 私は静かに瞼を閉じた。
 浮かぶのは、綿棒を握る彼の、震える指。
 「御意」と呟いた、あの細い声。
 それらの全てが、今この瞬間、私の中で痛みに変わっていく。
 ならば、初めからすべきではなかったのだ。
 調べるなどという暴挙に手を染めなければ、彼は――彼はずっと彼のままでいられたのだ。
 私が欲したのは、事実だった。
 疑念を消すため、未来のため、全てが真っ当な理由だったはずだ。
 でもその“正しさ”が、最も深く誰かの心を傷つけることもあると――なぜ、私は気づいていたのに、止まれなかったのだろう。
 「……ご苦労だったわね、サガ」
 声が掠れていた。自分でもわかるほどに。
 それでも言葉を口にしなければ、この場にいられなかった。
 サガは浅く頭を下げたまま、私の目を見ようとしなかった。それが、彼なりの誠実さだということを、私は理解していた。
 レオン・カヴァリエ。
 その名の奥に、繋がってしまった血の重み。
 そして――シオン。
 彼の魂を震わせるに足る、過去の影。
 彼がどれほど苦しむことか。
 私の無垢な正義が、彼の安寧を奪った。
 もし、メリッサの魂を彼が傷つけたと嘆く者がいるならば、彼の魂を傷つけたのは、間違いなく――この私だ。
 椅子の背に凭れ、深く息を吸う。
 透明な空気すら、肺に刺さるように重たかった。
 静寂はやがて、天井の高みに吸い込まれていく。
 答えは、まだ遠い。
 けれど、もう後戻りはできない。
 結果を伏せることは、不誠実の極みだ。
 彼に検体を提出させた瞬間から、この結果は彼に返すべきものだった。
 そのことに、議論の余地はない。

 ――それでも…

 私は、これから彼の心を殺しに行く。
 自らの手で、その魂に、再び深い裂け目を刻む。
 重ねて傷付けるのだ。
 二年前のあの事件を巡り、彼がどれほど自責し、どれほど崩れかけたかを私は知っている。
 あの夜、彼は一人会議室へ籠り、何時間も姿を見せなかった。声を押し殺し、床に伏して泣いていた。
 私がかけた全ての言葉は、あのときどれほど無力だっただろう。
 それなのに、私は――
 「またあなたを、傷付けるのね」
 自室の扉に手をかけたまま、私は独りごちた。
 誰に向けてでもなく、ただ、空気に混じるように。
 足は重い。息は苦しい。
 目を閉じれば、彼が検体を差し出したあの瞬間が蘇る。
 頬の内側を綿棒で拭う――たったそれだけの行為だった。
 それだけなのに、彼の指は震えていた。
 私はそれに何も言えず、ただ「ありがとう」と呟くしかなかった。
 罪は、私の中にある。
 正しさという名の刃を手に取り、それを彼に向けたのは、私なのだ。
 彼の過去を暴き、彼の静寂を壊し、彼を一人の人間としての安息から引き剥がしたのは、私なのだ。
 だからこそ、責任を果たさねばならない。
 私の口から、直接。
 嘘偽りなく、隠し立てなく。
 たとえ彼が、私を憎んでも――それでいい。
 その憎しみさえ、私が引き受けよう。
 何も言わず、私は部屋を出た。
 乾いた足音だけが、廊下に消えていく。
 執務室の扉の先に待つのは、もう一つの十字架。
 シオン、どうか壊れないで。
 それが、今の私にできる唯一の祈りだった。

 扉が静かに開いた。
 執務机に向かっていたシオンは、顔を上げた。
 その瞳の奥には、何かを悟ったような光が、既に揺れていた。
 来訪者がヘスティアであることに驚きはなかった。むしろ、ようやく来たか、というような、諦念に似た沈黙が、空気を支配していた。
 「お忙しいところ、ごめんなさい」
 ヘスティアは一礼し、静かに歩を進める。その手には、一枚の封筒。
 それが何であるかを、シオンは既に知っていたのだろう。僅かに瞬きをしてから、椅子の背に身を預けた。
 部屋の空気が、冷たく固まっていく。
 「結果が、出たのですね」
 低く抑えられた声。そこにあるのは動揺でも恐れでもなく、ただ純粋な覚悟だった。
 「……ええ」
 ヘスティアは封筒を開かず、そのまま彼の前に差し出す。
 けれどシオンは、受け取ろうとしなかった。
 眼差しが、封筒の白に焦点を結ばず、宙を漂っている。どこか現実とは遠い場所を見つめるように。
 「ヘスティア様のお言葉で……伝えていただけますか」
 ヘスティアは一瞬だけ、唇を噛んだ。
 その間も、シオンは彼女を見なかった。ただ、静かに答を待っていた。
 「……レオン・カヴァリエは、あなたの子孫でした。九代を隔てた、直系の」
 それは、彼にとって死刑宣告にも等しかっただろう。
 部屋の中に音が消える。壁も天井も、風も呼吸も、時さえも凍りついたかのように。
 シオンは何も言わなかった。
 瞬きもせず、息を吸うことさえ忘れたように、ただその場に座していた。
 彼の顔から、見る間に血の気が引いていく。
 まるで魂を吸い取られたように、視線は虚空をさまよい、頬は翳り、肩は微かに震えていた。
 その姿はもはや、意思を持つ人間というよりも、静かに機能を停止した自動人形のようだった。
 「……私は……」
 かろうじて漏れた声には、内容も、意味もなかった。
 それは独り言ですらなく、ただ心の奥底から零れ落ちた音。

 ヘスティアは、その場に立ち尽くしていた。
 言葉はなかった。
 シオンが沈黙に沈む間、彼女は動かず、ただその場に在った。
 やがて彼の瞳がゆっくりと伏せられる。
 瞼の奥に広がる記憶と痛みが、彼をどれだけ貫いているのか、誰にも知る由はない。
 ただ、そこに一つの事実が確かにあった。
 彼は過去に命を残していた。
 そして今、その重さに、また新たな十字架を背負ったのだった。

 遠い過去の記憶の断片を、私は手繰り寄せる。
 確かに心を寄せた女性がいたのだ。
 その名も、顔も、声すらも、今ではもう思い出せない。
 ただ、胸の奥のどこかに、確かな温もりと共に、彼女を愛した日々が朧げに残っている。
 しかし、私は一度も、彼女から懐妊を告げられたことはなかった。なぜなら、彼女はある日、私の前から忽然と姿を消したのだから。
 彼女を探したのかどうかさえ、今の私には記憶がない。
 もしも、彼女が私の子を宿していたのなら。
 そして、その女性がカヴァリエ家の一員であったのなら。
 全ては、時の流れの中で希薄になり、歴史という大雑把な軛に静かに飲み込まれてしまったのだろう。
 私は――古い過去であれ、新しい過去であれ、愛する女性をただの一人も幸せにできない、愚か者なのだ。
 それが、私という人間の真実なのだ。

 子――それは、私の生きた証でありながら、知らぬ間に私から奪われた命。
 私が守れなかった命。

 自我が音もなく崩れていく。
 その痛みは鋭く、内側から私を裂くように苦しめる。
 思考は混濁し、頭の中で過去と現在、現実と幻影が絡まり合う。
 私は自分が誰なのか、何のためにここにいるのかさえ分からなくなった。
 愚か者――その言葉が胸に突き刺さる。
 愛した女性すら一人も守れず、失い、今また、自分の血を引く子がいるかもしれないという真実に直面して、私は全てを失った気がした。
 自分の内なる声が、呻き、絶望の淵で叫び続ける。
「なぜ……なぜ気づかなかったのだ。なぜ、守れなかったのだ……」
 痛みと罪悪感が渦巻き、崩れゆく心の奥底で、かすかに温かい何かが光を放つ。
 それは、守るべき者がまだいるという、ささやかな希望の灯火。
 しかし、その灯火すらも揺らぎ、私の心はまだ見えない深淵へと沈もうとしていた。

 自分が何者なのか、わからなくなる。
 私はシオン。
 長きに渡り聖域を統べてき教皇。数多の命を導き、時に守り、時に裁いてきた。
 だが今ここにいる私は、そのどれにもあてはまらない。
 私はただの抜け殻だ。名前だけが残り、中身は既に崩れている。
 あの子――レオン・カヴァリエ。
 私の子孫。
 私は彼に何を与えることができる?
 彼が私に何を求めているかもわからない。
 私は彼に何もしてやれない。
 私は一人の女性を幸せにできなかった。
 私は一人の子を守れなかった。
 私は誰も救えていない。
 私は虚しい。
 私という存在そのものが、始めから不在だったかのように感じる。
 そうだ。
 私は空洞だ。
 記憶も、感情も、意味を持たないただの空の器。
 その器に価値があると思い込んでいた日々が、今では滑稽だ。
 この事実を知らされたことで、何かが変わるのかと思っていた。
 だが、変わるものなど何もない。
 私は依然として、何者にもなれず、何者でもないままだ。
 それでも私は、生きていなければならないのだろうか。
 誰かの命に繋がる過去を持ちながら、何一つ、それに対して責任を果たすこともできずに。

 ――私はもう、私であることに疲れた。


 数日、彼は私室に籠もったままだった。
 食事もほとんど喉を通らず、書類にも手がつけられていない。
 気配はあるのに、声は返ってこない。
 あの部屋の中で、彼は何を見つめていたのだろう。
 過去か。未来か。あるいは、虚無か。

 誰もが言葉をかけることを躊躇っていた。
 彼の沈黙はあまりに深く、痛々しく、そして――静かだった。
 その静けさは、すでに生の域を踏み越えてしまった者に特有の、凍てついた気配を伴っていた。
 だが、五日目の朝。
 唐突に、扉が開いた。
 廊下に現れたのは、どこか懐かしさを漂わせる装束を纏ったシオンだった。
 あまりに古式ゆかしく、誰も見たことのない装束。
 それは彼が遠い故郷、ジャミールの血を引く証。
 まるで自らの根を確かめるように、彼は民族衣装の裾を乱さず静かに歩いていた。
 彼の姿に、誰もが言葉を失った。
 黄金の髪を掻き上げる仕草一つにさえ、苦悩の影が漂う。
 歩幅は小さく、目線は伏せられている。
 だがその背すじだけは、凛と伸びていた。
 何かを終える者の静かな覚悟が、そこにはあった。
 そして、彼はヘスティアの元を訪れた。
「ヘスティア様」
 その声は驚くほど穏やかで、乾いていた。
 痛みも、怒りも、後悔さえも、すでに彼の声には含まれていなかった。
「暫し、故郷ジャミールへ戻ることをお許しいただけますか?」
 ヘスティアは即答できなかった。
 この状況で、教皇が席を外すのは本来なら許されない。
 冥闘士が再び姿を見せる兆しもある。
 だが――。
 今のシオンに、政務を担う意思はない。
 いや、それ以前に、“担える心”が残っていない。
 目の前に立つ青年は、教皇ではなかった。
 黄金聖闘士でも、地上を守る盾でもない。
 ただ一人の、迷子のような青年だった。
「そうね……構わないわよ」
 それだけで、彼はふっと息を吐いた。
 それが安堵なのか、諦念なのか、誰にも分からない。
「ありがとうございます」
 一礼した彼は、すぐにその場を辞した。
 振り返らなかった。
 彼の背中はどこまでも静かで、遠かった。
 それは、過去へと歩む者の背に他ならなかった。

 そしてヘスティアは、彼の背に心の中でそっと呟いた。
「帰ってきて。……必ず」

 だが、それすらも彼には届いていなかった。
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