Eine Kleine
聖域・大司教棟 西翼第三会議室
同席者:女神ヘスティア、教皇シオン、武官筆頭アイオロス(報告者)
時刻:正午前
分厚い扉は音を殺して閉ざされ、窓の外にさす光さえも、今はただの薄い灰色だった。
沈黙が落ちていた。
誰も咳払いすらしなかった。
石造りの会議室には、冷たい空気だけが淀んでいる。
アイオロスが立ち上がり、無言で一礼する。その仕草には普段の朗らかさの影は微塵もなく、報告書を握る手には、震えが見られた。
「……ご報告いたします」
第一声が発された瞬間、空気が凍った。
「これは、先日提出された聴取記録に基づく関連事件……そして、二年前、聖域の内部において発生した、極めて深刻かつ重大な不祥事についての正式報告です」
音ではない何かが、シオンの鼓膜を鈍く叩いた。報告の内容を知っているはずだった。それでも――いや、それゆえにか、胸の奥底に封じていた名状しがたい感情が、もう一度静かに目を覚ました。
「記録番号第4782−β。被害者は元監視対象であったメリッサ・ドラコペトラ嬢と、彼女の兄――故・デメトリウス氏」
名が呼ばれた瞬間、シオンの視界が、静かに色を失っていった。
菫色の瞳が鈍く翳る。
言葉は続く。
「事件は第四祭祀場地域にて発生。聖域からの定期召集を終えた両名が、帰路において、該当地域の警備兵四名に襲撃されました。……兄君はその場で死亡。メリッサ嬢には、加害者全員による……集団による性的暴行が加えられています」
呼吸が、喉を通らなかった。
音が――消えた。
何かが、胸の奥でずたずたに裂けた。
椅子に座したまま、シオンは動けなかった。
視線も、呼吸も、血液も、体の全てが凍りついていた。
メリッサが。
あの、明るく、よく笑う少女が。
小鳥の囀りのように軽やかな声で語り、よく人を気遣い、悲しみに暮れながらも崩折れることのなかった少女が――
その身を、蹂躙された。
兄の命を、その目の前で断ち切られ、その直後に、無数の汚辱と暴力の渦に、ただ一人、晒された。
それは、“傷ついた”という言葉では、決して済まされぬことだった。
想像の及ぶ範囲にすらない。
理解することも、受け容れることも、赦すこともできない。自分は、彼女に、正義の名のもとで聖域への召集を強いていた。
“定期確認の義務”――そう唱え、何の疑問も抱かず。それがこの惨劇の導線だったなどとは、あの時、夢にも思わずに。
「犯人四名は事件から数日後、現場付近にて、何者かに惨殺された状態で発見されています。遺体は損壊が激しく、聖闘士の仕業とは考え難く、加害者は全員死亡。……よって、裁定も処罰も、事実上行われておりません」
「では、正義は果たされなかったのですね」
ヘスティアの声が、低く重たく響いた。
「はい、ヘスティア様。処分対象者が全員死亡していたため、内部調査は名目上完了とされ……事実上、うやむやにされております」
何もかもが、狂っていた。
それでも、制度は、仕組みは、歯車を回し続けていた。
その上に――いや、その最上層に、自分は立っていた。
何を正義と言ってきた?
何を守ってきたつもりだった?
聖域とは、何だ。
その存在意義とは、誰のためにあったのか――
「……アイオロス」
自らの声とは思えなかった。
静かに、そして確かに震えていた。
「……その報告は、過去帳簿で読んでいた。だが……正式な口頭報告を受けるのは、これが初めてだ」
奥歯が震えて小さな音を立てた。
何も映さぬ目が、テーブルの一点を見つめる。いや、見つめることすらできていなかった。
――もし、自分があの時ここにいたなら。
――もし、制度を一度でも見直していれば。
――もし、あの定期召集という名の命令を、躊躇っていたなら。
一つでも違っていれば。
彼女の人生は、兄との時間は、あの惨たらしい闇に、呑まれることはなかったのではないか。
その可能性すら奪ったのは、他ならぬ、自分。
管理する立場にいた、十三年前の、自分自身だ。
言葉にならない痛みが、魂の奥を引き裂いていく。
沈黙の中、シオンは、ただ、息を殺していた。
そして、自分の心の中で、深く、深く――崩れ落ちていた。
――こんな過酷な人生を歩ませてしまった。
その罪の重さは、どれだけ時を重ねようとも、拭えるものではなかった。
彼の指先が、無意識に震え始めていた。
にもかかわらず、目を伏せたままのシオンは、声を上げることもできなかった。その心に巣食うものは、痛みではなく、もはや、贖いきれぬ“悔い”の形をした、永遠の傷だった。
「……補足事項として、もう一点ございます」
アイオロスの声は、もはや報告というよりも懺悔のようだった。
アイオロスは告げたくなどなかった。
誰よりも、この場にいる人物の心を砕いてしまうと知っていたからだ。
しかし、記録は事実である。
そして事実は、あまりに容赦がなかった。
「――被害の後、メリッサ嬢は、医務局の極秘保護下に置かれておりました」
「……その際、体調不良と継続的な精神的失調が見られ、診察の結果……望まぬ妊娠が確認されました」
言葉の一つ一つが冷たく室内に落ちた。
「胎児は、およそ八週目に入っており……彼女の明確な意思により、聖域の医師団が中絶手術を実施しています。手術は成功。現在の身体的健康に重大な影響はありません……」
シオンの指先が、机に沈んだ。
いや、それは指だけではなかった。その瞬間、彼の存在全体が崩れた。
椅子に座したまま、呼吸を止め、目を伏せ、声を失った彼は、もはや人ではなかった。
生きる意志という火が、一瞬にして吹き消されたようだった。
「……」
口は開かれていた。だが、言葉が出なかった。
何も、出せなかった。
彼女が。
メリッサが。
誰よりも愛しく、守るべき存在であるはずの彼女が――
無理矢理、孕まされ、それを、自らの意思で手放す決断を迫られた。誰にも相談などできぬままに。
絶望と痛みの中で、一人、命を摘まねばならなかった。
どれほどの恐怖と絶望の中に、彼女はいたのだろう。
あの細い肩で、どれほどの重荷を、どれほどの屈辱を背負わされたのか。
シオンの心の奥で、何かが音を立てて砕けた。
硬質な、冷たく、脆くもろい何かが。
それは『理性』と呼ばれるものであったかもしれない。
それとも『自我』であったかもしれない。
彼の胸の内には、激しい怒りも、激情も湧き上がってこなかった。
あるのは、ただ一つ。
――“私が彼女をここに引き留めていなければ”。
それだけだった。
「私が……」
喉の奥から、掠れた声が漏れた。
それは呪詛のように、血を吐くように、発せられた。
「私が……彼女を……呼ばなければ……あの制度を……続けなければ……」
首を垂れる。背が折れるように、ゆっくりと。
「兄を……死なせることも……なかった……こんな、ことに……」
言葉の一つ一つが、自身を裂いた。
自責。否、それすら生温い。
これは、罪だった。
女神の代行者を名乗り、正義を標榜し、一人の少女を地獄に突き落とした自分自身の、原罪だった。
「私が……守れなかった……守るべきだったのに……」
視界が、涙で滲むことすらなかった。
あまりにも深い悲しみは、涙すら枯らす。
目の前がぼやけていく。
机も、壁も、椅子も、誰の顔も、そして自分の存在すら、希薄になっていく。
“彼女の笑顔”――その幻だけが、唯一、胸に焼きついていた。だがその笑顔を、この手で壊した。
この聖域という名の檻の中に留め、過去を背負わせ、未来を閉ざしたのは――
他ならぬ、自分だった。
もはや、立ち上がることすらできぬ。
この痛みを、自らの中に抱え続けることでしか、償えぬというのならば――
心など、とうに壊れてしまえと。
彼は、魂の深奥で、静かに崩れ落ちていった。
「……退きましょう」
会議室を包む沈黙のなかで、最初に声を発したのはヘスティアだった。
その声音には、いつもの凛とした威厳はなく、深い痛みと慈しみが滲んでいた。
シオンの横顔を一瞥し、それ以上、何も言葉をかけることはしなかった。
その沈黙こそが、何より深い哀悼であると知っていた。
アイオロスもまた、深く一礼し、言葉なく踵を返す。
扉が静かに閉じられる。
厚い扉が噛み合うその音だけが、世界と彼を分断した。
音が消えた。気配が消えた。
何もかもが、遠ざかった。
会議室には、ただ一人――
繊細な魂を持ちながら、誰よりも重い責任を負ってきた男。
聖域の礎を担う者として生きてきた男――シオンが残された。
静寂。
それは癒しではなかった。
それは、終わらぬ刑罰だった。
「……」
嗚咽すら出なかった。
身体が、感情の奔流に追いつかず、遅れて震えていた。肩が、腕が、頬が、指先が――まるで自分のものでないかのように震え、軋み、冷えていく。
彼女が、あの少女が――
どれほどの苦しみに、恐怖に、孤独に晒されていたのか。それを、自分が知ったのは、今この瞬間だという事実が、彼を引き裂いた。
「……っ」
息が、喉で詰まる。
水を求めるように、口が開かれる。
だが、空気すら入らない。
天を仰いだその瞳に、何の光もなかった。
怒りも、涙も、祈りも、全てを飲み込んで――
ただ、一つ。
「……メリッサ……」
その名が、口からこぼれた瞬間、張り詰めていた何かが、決壊した。
椅子を蹴るようにして立ち上がると、彼はそのまま、膝から崩れ落ちた。
大理石の床に、指を立てる。
額が触れる。冷たい。冷たすぎる。
だが、その冷たさこそが、現実だった。
「……すまなかった……」
声にならない呟きが、床に染み込んでいく。
それは赦しを乞う言葉ではなかった。
赦されるなどと、思うことすら許されぬほどの罪。
「私が……守ると、思っていた……のに……」
震える指が床を掴む。
爪が割れ、血が滲んでも、その手は離れない。
唯一彼を支えるのは、冷たい石の床だけだった。
「私が、私があの子を……この地獄に、引きずり込んだ……」
誰よりも高潔であろうとした。
誰よりも正しさを信じ、行動してきた。
その積み重ねの果てに待っていたのが――彼女の地獄だった。
「どうして、私は……」
言葉が掠れる。喉が焼ける。
あらゆる感情が崩れ、形を失ってゆく。
やがて、声が、喉から絞り出されるように漏れ始めた。
それは泣き声などではなかった。
悲鳴でもなく、咆哮でもない。
それは、魂の悲嘆だった。
失われたものを、決して取り戻せぬと知った者の、最も静かで、最も凄絶な慟哭。
彼の肩が揺れ、身体が折れ、血のような嗚咽が胸の奥から溢れ出す。
それは己を呪い、世界を呪い、それでも彼女を愛し続ける者だけが、流せる涙だった。
「メリッサ…メリッサ……」
何度も、何度も、名を呼んだ。
その名は、やがて声にならなくなり、嗚咽と共に途切れていった。
そうして、会議室の中に――
誰にも見られることのない男の崩壊が、静かに、果てしなく、繰り返された。
それは、誰の目にも映らぬ地獄の一頁。
彼にとって、終わることのない贖罪の始まりだった。
【教皇宮・教皇執務室】
扉が重く閉まる音がした。
シオンの前に立つサガの顔は、いつにも増して無表情だった。だがその無表情こそが、何かを悟っている証だった。
「お呼びとのことでしたので、参上いたしました、教皇」
「……サガ。お前は、二年前の“あの事件”を知っていたな」
声に怒気はなかった。けれど、静かな怒りの方が恐ろしいことを、サガはよく知っていた。
「――承知しておりました」
シオンの目が細く鋭くなる。
「ならば、なぜ放置した。なぜ、報告書において冥闘士との内通疑惑という項目を設け、あの子の罪として葬り去った?」
一瞬の沈黙。
「……教皇職を騙っていた私が、聖域の腐敗を語る資格はありません。しかし、あの頃、聖域の内部は既に毒されていた。無数の小さな不正と暴力が見過ごされ、あるいは利用されていたのです」
「つまり、それをお前は黙認したというのか」
「黙認ではありません……利用したのです」
言い終えてから、サガは苦悶するように目を伏せた。
「聖域に仇なす“因子”を潰すための口実として……彼女の憎しみが、冥衣に通じていくのを、止めようとはしませんでした」
「お前……!」
シオンの双眸が激しく揺れる。
それは怒りだけではない。かつて信じた部下に、愚かなる過去の自分の影を見ていたからだ。
「……だが、なぜ今まで黙っていた」
「……謝罪する資格がないと思っていたのです。彼女の前では、私は何者であってもならない。私もまた加害者です」
しばし沈黙。
その静けさの中で、シオンはサガから目を離さなかった。
目の前にいるのは、誤った道を歩み、それでも聖域に戻り、背負おうとしている男だった。
「……そうか。ならば、償え。命に代えてでも、彼女を二度と泣かせるな。お前に、それができるか?」
サガは一礼した。深く、深く、額が床に届くほどに。
「――命を賭して、果たします」
【サガ内心独白】
十三年前、私はこの手で教皇を殺し、神すらも殺そうとした。
それが、己の中の“もう一人の自分”の仕業だったと、誰に弁解するつもりもない。
あれは、間違いなく――私だったのだ。
シオン様の血の温度も匂いも、鮮やかな色彩までもが、この掌にはまだ焼き付いている。忘れようにも、忘れられるものではない。
メリッサ嬢の事件も、例外ではない。
あの歪んだ聖域の空気を作ったのは、私だ。
圧政という言葉すら生ぬるい。私は恐怖で支配し、秩序を語りながら腐敗を許した。
あの少女が憎しみに堕ちたのは、必然だったのだ。
私が彼女を――その魂を、二度殺した。
……償うなど、おこがましい。
その言葉すらも、赦されるべきではない。
私は、償いの資格すら持たぬ身だ。
それでも私は、聖域にいる。
神々の意志で生かされた身であるなら、その理由は、傷を癒すことではなく、血を流すことにある。
私の命は、その少女のために使われるべきだ。
彼女が再び冥衣に囚われそうになるとき、彼女が悲しみを背負いきれなくなるとき、彼女が希望を見失いそうになるとき――
盾となり、壁となり、死してなお進むべき道を指し示そう。
そうでなければ、私が生きている意味など、あるものか。
同席者:女神ヘスティア、教皇シオン、武官筆頭アイオロス(報告者)
時刻:正午前
分厚い扉は音を殺して閉ざされ、窓の外にさす光さえも、今はただの薄い灰色だった。
沈黙が落ちていた。
誰も咳払いすらしなかった。
石造りの会議室には、冷たい空気だけが淀んでいる。
アイオロスが立ち上がり、無言で一礼する。その仕草には普段の朗らかさの影は微塵もなく、報告書を握る手には、震えが見られた。
「……ご報告いたします」
第一声が発された瞬間、空気が凍った。
「これは、先日提出された聴取記録に基づく関連事件……そして、二年前、聖域の内部において発生した、極めて深刻かつ重大な不祥事についての正式報告です」
音ではない何かが、シオンの鼓膜を鈍く叩いた。報告の内容を知っているはずだった。それでも――いや、それゆえにか、胸の奥底に封じていた名状しがたい感情が、もう一度静かに目を覚ました。
「記録番号第4782−β。被害者は元監視対象であったメリッサ・ドラコペトラ嬢と、彼女の兄――故・デメトリウス氏」
名が呼ばれた瞬間、シオンの視界が、静かに色を失っていった。
菫色の瞳が鈍く翳る。
言葉は続く。
「事件は第四祭祀場地域にて発生。聖域からの定期召集を終えた両名が、帰路において、該当地域の警備兵四名に襲撃されました。……兄君はその場で死亡。メリッサ嬢には、加害者全員による……集団による性的暴行が加えられています」
呼吸が、喉を通らなかった。
音が――消えた。
何かが、胸の奥でずたずたに裂けた。
椅子に座したまま、シオンは動けなかった。
視線も、呼吸も、血液も、体の全てが凍りついていた。
メリッサが。
あの、明るく、よく笑う少女が。
小鳥の囀りのように軽やかな声で語り、よく人を気遣い、悲しみに暮れながらも崩折れることのなかった少女が――
その身を、蹂躙された。
兄の命を、その目の前で断ち切られ、その直後に、無数の汚辱と暴力の渦に、ただ一人、晒された。
それは、“傷ついた”という言葉では、決して済まされぬことだった。
想像の及ぶ範囲にすらない。
理解することも、受け容れることも、赦すこともできない。自分は、彼女に、正義の名のもとで聖域への召集を強いていた。
“定期確認の義務”――そう唱え、何の疑問も抱かず。それがこの惨劇の導線だったなどとは、あの時、夢にも思わずに。
「犯人四名は事件から数日後、現場付近にて、何者かに惨殺された状態で発見されています。遺体は損壊が激しく、聖闘士の仕業とは考え難く、加害者は全員死亡。……よって、裁定も処罰も、事実上行われておりません」
「では、正義は果たされなかったのですね」
ヘスティアの声が、低く重たく響いた。
「はい、ヘスティア様。処分対象者が全員死亡していたため、内部調査は名目上完了とされ……事実上、うやむやにされております」
何もかもが、狂っていた。
それでも、制度は、仕組みは、歯車を回し続けていた。
その上に――いや、その最上層に、自分は立っていた。
何を正義と言ってきた?
何を守ってきたつもりだった?
聖域とは、何だ。
その存在意義とは、誰のためにあったのか――
「……アイオロス」
自らの声とは思えなかった。
静かに、そして確かに震えていた。
「……その報告は、過去帳簿で読んでいた。だが……正式な口頭報告を受けるのは、これが初めてだ」
奥歯が震えて小さな音を立てた。
何も映さぬ目が、テーブルの一点を見つめる。いや、見つめることすらできていなかった。
――もし、自分があの時ここにいたなら。
――もし、制度を一度でも見直していれば。
――もし、あの定期召集という名の命令を、躊躇っていたなら。
一つでも違っていれば。
彼女の人生は、兄との時間は、あの惨たらしい闇に、呑まれることはなかったのではないか。
その可能性すら奪ったのは、他ならぬ、自分。
管理する立場にいた、十三年前の、自分自身だ。
言葉にならない痛みが、魂の奥を引き裂いていく。
沈黙の中、シオンは、ただ、息を殺していた。
そして、自分の心の中で、深く、深く――崩れ落ちていた。
――こんな過酷な人生を歩ませてしまった。
その罪の重さは、どれだけ時を重ねようとも、拭えるものではなかった。
彼の指先が、無意識に震え始めていた。
にもかかわらず、目を伏せたままのシオンは、声を上げることもできなかった。その心に巣食うものは、痛みではなく、もはや、贖いきれぬ“悔い”の形をした、永遠の傷だった。
「……補足事項として、もう一点ございます」
アイオロスの声は、もはや報告というよりも懺悔のようだった。
アイオロスは告げたくなどなかった。
誰よりも、この場にいる人物の心を砕いてしまうと知っていたからだ。
しかし、記録は事実である。
そして事実は、あまりに容赦がなかった。
「――被害の後、メリッサ嬢は、医務局の極秘保護下に置かれておりました」
「……その際、体調不良と継続的な精神的失調が見られ、診察の結果……望まぬ妊娠が確認されました」
言葉の一つ一つが冷たく室内に落ちた。
「胎児は、およそ八週目に入っており……彼女の明確な意思により、聖域の医師団が中絶手術を実施しています。手術は成功。現在の身体的健康に重大な影響はありません……」
シオンの指先が、机に沈んだ。
いや、それは指だけではなかった。その瞬間、彼の存在全体が崩れた。
椅子に座したまま、呼吸を止め、目を伏せ、声を失った彼は、もはや人ではなかった。
生きる意志という火が、一瞬にして吹き消されたようだった。
「……」
口は開かれていた。だが、言葉が出なかった。
何も、出せなかった。
彼女が。
メリッサが。
誰よりも愛しく、守るべき存在であるはずの彼女が――
無理矢理、孕まされ、それを、自らの意思で手放す決断を迫られた。誰にも相談などできぬままに。
絶望と痛みの中で、一人、命を摘まねばならなかった。
どれほどの恐怖と絶望の中に、彼女はいたのだろう。
あの細い肩で、どれほどの重荷を、どれほどの屈辱を背負わされたのか。
シオンの心の奥で、何かが音を立てて砕けた。
硬質な、冷たく、脆くもろい何かが。
それは『理性』と呼ばれるものであったかもしれない。
それとも『自我』であったかもしれない。
彼の胸の内には、激しい怒りも、激情も湧き上がってこなかった。
あるのは、ただ一つ。
――“私が彼女をここに引き留めていなければ”。
それだけだった。
「私が……」
喉の奥から、掠れた声が漏れた。
それは呪詛のように、血を吐くように、発せられた。
「私が……彼女を……呼ばなければ……あの制度を……続けなければ……」
首を垂れる。背が折れるように、ゆっくりと。
「兄を……死なせることも……なかった……こんな、ことに……」
言葉の一つ一つが、自身を裂いた。
自責。否、それすら生温い。
これは、罪だった。
女神の代行者を名乗り、正義を標榜し、一人の少女を地獄に突き落とした自分自身の、原罪だった。
「私が……守れなかった……守るべきだったのに……」
視界が、涙で滲むことすらなかった。
あまりにも深い悲しみは、涙すら枯らす。
目の前がぼやけていく。
机も、壁も、椅子も、誰の顔も、そして自分の存在すら、希薄になっていく。
“彼女の笑顔”――その幻だけが、唯一、胸に焼きついていた。だがその笑顔を、この手で壊した。
この聖域という名の檻の中に留め、過去を背負わせ、未来を閉ざしたのは――
他ならぬ、自分だった。
もはや、立ち上がることすらできぬ。
この痛みを、自らの中に抱え続けることでしか、償えぬというのならば――
心など、とうに壊れてしまえと。
彼は、魂の深奥で、静かに崩れ落ちていった。
「……退きましょう」
会議室を包む沈黙のなかで、最初に声を発したのはヘスティアだった。
その声音には、いつもの凛とした威厳はなく、深い痛みと慈しみが滲んでいた。
シオンの横顔を一瞥し、それ以上、何も言葉をかけることはしなかった。
その沈黙こそが、何より深い哀悼であると知っていた。
アイオロスもまた、深く一礼し、言葉なく踵を返す。
扉が静かに閉じられる。
厚い扉が噛み合うその音だけが、世界と彼を分断した。
音が消えた。気配が消えた。
何もかもが、遠ざかった。
会議室には、ただ一人――
繊細な魂を持ちながら、誰よりも重い責任を負ってきた男。
聖域の礎を担う者として生きてきた男――シオンが残された。
静寂。
それは癒しではなかった。
それは、終わらぬ刑罰だった。
「……」
嗚咽すら出なかった。
身体が、感情の奔流に追いつかず、遅れて震えていた。肩が、腕が、頬が、指先が――まるで自分のものでないかのように震え、軋み、冷えていく。
彼女が、あの少女が――
どれほどの苦しみに、恐怖に、孤独に晒されていたのか。それを、自分が知ったのは、今この瞬間だという事実が、彼を引き裂いた。
「……っ」
息が、喉で詰まる。
水を求めるように、口が開かれる。
だが、空気すら入らない。
天を仰いだその瞳に、何の光もなかった。
怒りも、涙も、祈りも、全てを飲み込んで――
ただ、一つ。
「……メリッサ……」
その名が、口からこぼれた瞬間、張り詰めていた何かが、決壊した。
椅子を蹴るようにして立ち上がると、彼はそのまま、膝から崩れ落ちた。
大理石の床に、指を立てる。
額が触れる。冷たい。冷たすぎる。
だが、その冷たさこそが、現実だった。
「……すまなかった……」
声にならない呟きが、床に染み込んでいく。
それは赦しを乞う言葉ではなかった。
赦されるなどと、思うことすら許されぬほどの罪。
「私が……守ると、思っていた……のに……」
震える指が床を掴む。
爪が割れ、血が滲んでも、その手は離れない。
唯一彼を支えるのは、冷たい石の床だけだった。
「私が、私があの子を……この地獄に、引きずり込んだ……」
誰よりも高潔であろうとした。
誰よりも正しさを信じ、行動してきた。
その積み重ねの果てに待っていたのが――彼女の地獄だった。
「どうして、私は……」
言葉が掠れる。喉が焼ける。
あらゆる感情が崩れ、形を失ってゆく。
やがて、声が、喉から絞り出されるように漏れ始めた。
それは泣き声などではなかった。
悲鳴でもなく、咆哮でもない。
それは、魂の悲嘆だった。
失われたものを、決して取り戻せぬと知った者の、最も静かで、最も凄絶な慟哭。
彼の肩が揺れ、身体が折れ、血のような嗚咽が胸の奥から溢れ出す。
それは己を呪い、世界を呪い、それでも彼女を愛し続ける者だけが、流せる涙だった。
「メリッサ…メリッサ……」
何度も、何度も、名を呼んだ。
その名は、やがて声にならなくなり、嗚咽と共に途切れていった。
そうして、会議室の中に――
誰にも見られることのない男の崩壊が、静かに、果てしなく、繰り返された。
それは、誰の目にも映らぬ地獄の一頁。
彼にとって、終わることのない贖罪の始まりだった。
【教皇宮・教皇執務室】
扉が重く閉まる音がした。
シオンの前に立つサガの顔は、いつにも増して無表情だった。だがその無表情こそが、何かを悟っている証だった。
「お呼びとのことでしたので、参上いたしました、教皇」
「……サガ。お前は、二年前の“あの事件”を知っていたな」
声に怒気はなかった。けれど、静かな怒りの方が恐ろしいことを、サガはよく知っていた。
「――承知しておりました」
シオンの目が細く鋭くなる。
「ならば、なぜ放置した。なぜ、報告書において冥闘士との内通疑惑という項目を設け、あの子の罪として葬り去った?」
一瞬の沈黙。
「……教皇職を騙っていた私が、聖域の腐敗を語る資格はありません。しかし、あの頃、聖域の内部は既に毒されていた。無数の小さな不正と暴力が見過ごされ、あるいは利用されていたのです」
「つまり、それをお前は黙認したというのか」
「黙認ではありません……利用したのです」
言い終えてから、サガは苦悶するように目を伏せた。
「聖域に仇なす“因子”を潰すための口実として……彼女の憎しみが、冥衣に通じていくのを、止めようとはしませんでした」
「お前……!」
シオンの双眸が激しく揺れる。
それは怒りだけではない。かつて信じた部下に、愚かなる過去の自分の影を見ていたからだ。
「……だが、なぜ今まで黙っていた」
「……謝罪する資格がないと思っていたのです。彼女の前では、私は何者であってもならない。私もまた加害者です」
しばし沈黙。
その静けさの中で、シオンはサガから目を離さなかった。
目の前にいるのは、誤った道を歩み、それでも聖域に戻り、背負おうとしている男だった。
「……そうか。ならば、償え。命に代えてでも、彼女を二度と泣かせるな。お前に、それができるか?」
サガは一礼した。深く、深く、額が床に届くほどに。
「――命を賭して、果たします」
【サガ内心独白】
十三年前、私はこの手で教皇を殺し、神すらも殺そうとした。
それが、己の中の“もう一人の自分”の仕業だったと、誰に弁解するつもりもない。
あれは、間違いなく――私だったのだ。
シオン様の血の温度も匂いも、鮮やかな色彩までもが、この掌にはまだ焼き付いている。忘れようにも、忘れられるものではない。
メリッサ嬢の事件も、例外ではない。
あの歪んだ聖域の空気を作ったのは、私だ。
圧政という言葉すら生ぬるい。私は恐怖で支配し、秩序を語りながら腐敗を許した。
あの少女が憎しみに堕ちたのは、必然だったのだ。
私が彼女を――その魂を、二度殺した。
……償うなど、おこがましい。
その言葉すらも、赦されるべきではない。
私は、償いの資格すら持たぬ身だ。
それでも私は、聖域にいる。
神々の意志で生かされた身であるなら、その理由は、傷を癒すことではなく、血を流すことにある。
私の命は、その少女のために使われるべきだ。
彼女が再び冥衣に囚われそうになるとき、彼女が悲しみを背負いきれなくなるとき、彼女が希望を見失いそうになるとき――
盾となり、壁となり、死してなお進むべき道を指し示そう。
そうでなければ、私が生きている意味など、あるものか。
