Eine Kleine
鈴蘭の畑の中で、メリッサの掌から淡い紫の光が揺れる。
「さあ、黄金聖闘士様。ここで、死んでください」
声には冷たくも悲痛な響きがあり、空気を震わせる。風が吹くたびに鈴蘭の香気が濃く漂い、カミュの鼻腔をくすぐった。
「君は……それを撒くつもりか」
カミュの声は低く、緊張を帯びていた。だが瞳は動かず、あくまで冷静だ。毒が視界に映る花畑をゆらゆらと揺らす。
「もちろん、撒くに決まってます。二人の黄金聖闘士をここで屠って、シーブの毒に中った聖闘士も戻さないために」
メリッサは静かに、だが確実に香気を濃くしていく。掌から放たれる紫色の光が、花弁の中の毒を精製し、濃度を高めていった。
カミュは一歩前に出る。その目は冷たく光り、警戒の色が濃くなる。
「考えろ……それをやったとしても、我々の力は君が思うほど脆くはない」
言葉には冷静さと理知が滲む。だが、その背後で小さく震える息遣いから、彼自身が毒の香気に微かな影響を受けていることが窺えた。
「脆くない?ふふっ、甘いですねぇ。いかに黄金聖闘士だって、空気は必要でしょ?酸素ないと死にますよね?」
メリッサの声に、自信と冷酷さが混じる。過去の復讐心が、毒と一緒に花畑に濃縮されていた。
「……君の目に映る世界は、復讐の対象しか存在しないのか?」
カミュはその冷静な声で問いかける。目の前の少女に、人間としての恐怖も悲しみも理解しようとする意図が滲む。
「そうかもしれません。あたしにも大切な人はいたんです。その大切な人を聖域が踏み躙ったから、あたしはやり返したいだけです。ハンムラビ法典にあるでしょ?目には目を、って」
メリッサは足元の花に視線を落とし、掌で紫の光をさらに濃くする。空気は甘く、しかし毒々しい匂いに満たされていた。
「……わかった」
カミュの瞳が一瞬だけ揺れる。計算された冷静さの裏に、わずかな動揺が見えた。
「君の復讐心の大きさ、理解した。だが……それでも、やり方を誤れば自分を滅ぼすだけだ」
メリッサは薄く笑う。その笑みには、過去の痛みと憎悪、そして決意が入り混じっている。
「そうですね。でも、誰も止められませんよ。あたしを止めるのはあたし自身です」
波打つ鈴蘭畑に、紫色の光が揺れ、二人の間の空気を張り詰めさせる。互いの心理が、毒の香気と混ざり合い、静かな戦場を作り出していた。
鈴蘭畑の中、紫の光が揺れる空気に、カミュの凍気がゆっくりと広がった。
「……これでどうだ」
彼の手先から伸びる冷気は、毒の香気を覆い封じ込めるように流れた。空気は瞬間的に凍り、花畑の香りは薄らいだかに見えた。だが、完全に封じることはできない。毒の微細な粒子はすでに空中へ散り、凍気が届かぬ隙間に潜んでいる。
メリッサは地面にしゃがみ込み、掌で淡く光る毒を再び濃縮する。冷気の中で紫色の光が映え、あたりを薄い霞のように包んだ。
「くっ……!」
カミュは目を細め、手で振り払う。凍気で香気を押さえ込むが、空気全体を完全に支配することはできない。微かに息が苦しくなる。毒に耐性のない者なら、すでに動けなくなるはずだ。
「どうしたんですかぁ?」
メリッサは無邪気に微笑むように言った。だがその瞳には冷酷さが宿る。生身である自分の無力さを理解しつつも、策略で相手を追い詰める狡猾さが滲んでいた。
カミュの凍気が畑を覆い、足元の鈴蘭を凍らせる。
「まだ……やれる」
彼の声は低く、凍気の中に渋い決意を含ませていた。しかし、メリッサの小さな掌から放たれる光は、凍らせきれない香気を次々と再生させる。空気中に漂う毒の粒子が、凍結の隙間からカミュの周囲に濃密に戻る。
「だーめ!」
メリッサは笑い声を混ぜ、手の動きを素早く繰り返す。毒の濃度が増すごとに、カミュの顔色が変わっていく。冷静さを保とうとする眉間の皺が、微かに深くなる。
「……甘く見すぎだ、少女」
カミュの声には警告が含まれていた。だが、冥衣を纏わぬメリッサに対し、直接の攻撃はためらわれる。生身の少女を傷つければ、復讐の正当性を自ら作り出すことになると直感していた。
メリッサは花畑の中で、凍気と毒の間に微妙なバランスを取りながら立つ。
「どうします?もう諦めますか?」
問いかける声には、挑発と冷笑が混ざり合う。背後の風に揺れる鈴蘭の花が、紫の光を反射し、二人の間の空気を緊張で震わせた。
追い詰められるカミュと、狡猾に立ち回る生身の少女。
鈴蘭畑は、戦場とも心理戦の舞台ともつかぬ、静かで凄絶な緊張に包まれていた。
鈴蘭畑の紫の霞が、凍気に押されつつもなお揺れる。カミュは汗を滲ませながら、息を整えつつも必死に冷気で毒を封じようとしていた。思いの外、苦戦している。生身の少女が、ここまで冷静かつ狡猾に動き回るとは予想外だった。
そのとき、遠くから青い光が差し込む。意識を取り戻したアフロディーテが現れた。ゆらりと立つその姿には、優雅さだけでなく、戦士としての鋭さが宿っている。
「ピラニアンローズ!」
言葉と同時に、空間を裂くように黒薔薇が広がり、鈴蘭の花々を一瞬で粉砕した。紫色に揺れていた毒の香気もすべて消え去り、残るのは冷気で凍った地面だけだった。
メリッサの肩に一瞬、迷いが芽生える。冥衣……纏えば、強大な力で対等に戦える。しかし、それは同時に彼女自身の意識を支配するもの。完全に冥闘士の存在となり、冷酷な計算の下で自らの意思は封じられる。
「……どうする?」
空気の中で自問するメリッサ。その一瞬の隙を、カミュは見逃さなかった。氷の結晶が彼女の手首と足首を瞬く間に覆い、冷たく硬い手枷と足枷へと変わる。メリッサは抵抗しようと腕を振るうが、氷は魔法のように彼女の動きを封じ、身動きが取れなくなる。
「……くっ」
唇の端に笑みを浮かべようとするが、それも凍りついたかのように歪む。紫の光が掌で揺れるが、もう自由にはならない。
鈴蘭畑の静寂に、遠くで砕けた花の残り香だけが残る。風が吹き抜け、凍気とともに、彼女の胸に芽生えた迷いをも吹き散らしていった。
メリッサは、完全に動きを封じられたまま、次の瞬間に訪れる展開をただ待つしかなかった。
カミュの氷の鎖は、肉体よりも心を縛るように冷たい。手足の自由を奪われただけなのに、まるで胸の奥まで凍りつかされるような感覚が広がる。
逃げられない。身体も、心の奥底も。
「メリッサ。君がそこまで聖域を憎む理由を知りたい」
淡々とした声音。責め立てるでも、憐れむでもなく、ただ事実を求める口調。だからこそ、余計に逃げ道は塞がれる。
「……言いたくない」
吐き出した声は、自分でも驚くほど幼く響いた。頑なに拒むつもりだったのに、そこには力強さもなく、ただ弱さを覆い隠すための言葉しか残っていない。
「しかし、理由が分からなければ償いの道筋がつけられない」
冷ややかな言葉。けれど、その奥に微かな誠意を感じ取ってしまうのはなぜだろう。
メリッサは唇を噛みしめた。
「話した所で、奪われたものは何一つ返らないもん」
心の奥に巣食う傷痕が疼く。決して癒えない。誰にも見せられない。けれど、彼は退かなかった。
「確かに返らないものはある。だが、今あるものを失わないようにすることはできるはずだ」
「今、あるもの…?」
その響きに、メリッサは思わず顔を上げていた。
“今あるもの”。彼はそれを当然のように告げた。彼女にまだ守るべきものがあると信じて。
「君には大切にしたいことや大切にしたい人はいないのか?」
静かに投げかけられた問いは、氷よりも鋭く心臓に突き刺さった。答えられるはずがなかった。彼女のすべては奪われ、踏み躙られた。誰も信じられない。誰も愛せない――そう言い聞かせて生きてきたのに。
なのに。
その瞬間、脳裏をかすめたのは、柔らかな光に包まれた笑顔だった。
セージ。
彼が見せる穏やかな眼差し。いつも変わらず差し伸べられる手。無条件に与えられる優しさ。
思い浮かべるつもりなどなかった。なのに、心は勝手に彼を呼び寄せてしまった。
(あたし……なんで、セージくんのこと……?)
胸の奥がざわめいた。認めたくない。だが否定できない。セージは聖域に連なる存在だ。己が憎む、その中に生きる者。忘れもしない惨劇を背負わせた、あの場所と切っても切れぬ縁を持つ人間。
憎むべきはずの側に立つ者を、なぜ“大切”と思ってしまうのか。
罪の意識が喉を締めつける。裏切っているようだった。過去に奪われたものの痛みを忘れたのか。憎しみを薄れさせてしまったのか。いや、そんなはずはない。忘れられるわけがない。忘れてしまえば、自分が壊れてしまう。
それなのに――。
脳裏に浮かんだのは、誰でもない、セージ。
聖域の人間である彼を大切に思ってしまった自分を、メリッサは心底許せなかった。
カミュの問いかけが再び耳に残り、心の奥で木霊する。
「今あるものを失わないようにすることはできるはずだ」
今あるもの。その中にセージが含まれてしまっている。
認めることが、どうしようもなく苦しかった。
薬師の島の空気は、湿り気を帯び始めていた。風は海から引きずってくる塩と、薬草の強い香りを混ぜ合わせ、木々の梢を揺らす。地面の熱と海の冷えが同居する空気のなかで、植物はじっと呼吸をしているようだった──だが、その“呼吸”は今や、メリッサの鼓動と同調し始めていた。
彼女の声が、突然に割れた。
「聖域のせいであたしの家族は壊れた!一番大切な物を壊された!偉そうに説教する前に!あたしの家族を返してよ!!」
声は怒号というより、失われた日々の総量を一度に吐き出すような破裂だった。
枷をされたままの手で、メリッサは腰に巻いたバッグから1枚の書状を引き摺り出した。それは、教皇の印が押された依頼状だ。純白の紙は陽射しを跳ね返して、場違いなほど鮮やかに光って見えた。
「教皇様だって、こんな紙切れ一枚であたしに命令してさ!お前が束ねてる聖域が、あたしに何をしてくれた!?黄金聖闘士が何をしてくれた!?末端の兵士がお兄ちゃんとあたしに何をした!!あたしが……あたしが……どれだけ酷い目に遭わされたのかも知らないで……!」
言葉が一つずつ、粉々に砕けていく。声は震え、その先にあるのは泣き声よりも深い、生命の根源から抉られたような痛みである。メリッサの身体が怒りで震えた。憎悪は理性を侵食し、胸のなかで渦を巻き始める。彼女の顔に浮かぶのは、憎悪と悲痛と、それを超えた絶望の表情だった。
「お前らなんて大嫌いだ――!」
その絶叫が大気に引火した瞬間、アフロディーテのピラニアンローズで薙ぎ払われたはずの鈴蘭が急速に芽吹き、蕾をつけ、一斉に開花した。彼女の手足を拘束していた氷の枷が粉々に弾け飛び、凍てついた破片が、鈴蘭の葉を叩いて散る。カミュは思わず後ずさり、驚愕と畏怖が混じった声を漏らす。
「まさか……私の凍気を――!」
だがその時にはすでに手遅れだった。メリッサの身体を暗紫色のオーラが包み込み、風景の輪郭を滲ませる。暗紫は墨のように濃く、しかし生き物のように蠢き、彼女の四肢から滲み出す意思のように広がっていく。オーラは熱を孕み、周囲の植物を共鳴させる振動となって草の根へ、茎へ、葉へ、花弁へと伝播する。
「カミュ!離れろ!」
アフロディーテの声が割り込み、空気が一瞬にして張り詰める。カミュが咄嗟に身を引くと、立っていた地面が、樹木の根によって音を立てて抉られた。根は意思を得たかのように暴れ、土を抉り起こし、鈍い衝撃とともに暗い泥が高く跳ね上がる。
「メリッサ、やめろ!」
アフロディーテの言葉は必死だった。だがメリッサの返答は、嗚咽でも哭でもなく、短い、断絶の命令のような一語だった。
「うるさい!黙れ黙れ黙れ!!」
その怒声に呼応するかのように、鈴蘭畑は一斉に動き出した。細い茎が音もなく曲がり、葉が鋭利な刃のようになって空中を走る。鈴蘭の花弁は、もはや可憐な釣鐘ではなく、濃密な香気を吐き続ける器官となって、空間に毒の層を成していく。根は牙のように土を裂き、茎は蛇のように伸びて、カミュとアフロディーテの周囲に絡みついた。
メリッサの顔には涙が混じっている。怒りの奥で、彼女の目は砕けた少女の記憶を映していた――四人の雑兵の影、兄の叫び、乾いた地面と砂埃、身体を引き裂かれる強烈な痛み、そして下卑た笑い声。
叫びは復讐のための呪文となり、その声が植物へ伝わると、世界の生ける部分までもが彼女の感情に同調した。
周囲の空気は、今や聴覚に訴えるだけでなく、嗅覚に、皮膚に、理性にまで押し寄せる。鈴蘭の甘さが過剰なほどに濃縮され、その甘美さが舌先を痺れさせ、思考を曇らせる。アフロディーテは顔を顰め、手を振り払って香気の流れを断とうとする。カミュは凍気を集め、周囲の植物を凍結させんと放つが、暗紫のオーラはその凍気をも吸い込み、むしろ反動として倍化させるように植物の脈動を強めた。
メリッサは、もはや自分の名を呼ぶ声さえ届かない遠いところで、ただひたすらに喉から絞り出すように叫ぶ。
「返してよ!あたしの家族を!あたしの尊厳を返してよ!!あたしに!きれいな身体を返してよ!!」
その言葉に、島の緑が答える。茎が伸び、葉が裂け、根が投げ出される。鈴蘭畑は生き物となって、聖域を包囲しようとする二人を締め上げた。だがそれは、同時に危険の始まりでもあった。メリッサの小宇宙は制御を失いつつあり、どこで歯止めがかかるかは誰にも分からない。
薬師の島を覆う大気は、狂おしいまでに震えていた。潮の匂い、薬草の香気、土の匂い、それらすべてが一つの激しい呼吸となって、この場に集まった命を震わせている。
海鳴りのように荒れ狂う小宇宙が、島全体を覆っていた。
潮風に混じって、生気を奪うほど濃密な小宇宙が吹き荒び、息をするだけで肺を灼かれるようだった。
風に煽られた木々は根を引き抜かれ、鋭い枝葉が無数の槍のように宙を奔る。地を裂き、天を震わせる力は、もはやひとりの娘が放つものとは思えなかった。
聖域の奥、教皇宮の祭壇で祈りを終えていたシオンは、異変を察知した。
「メリッサ!?一体何があった!」
荒々しい波動の中に確かに刻まれている――温かくて愛しい、小さな鼓動。
迷う暇もなく、小宇宙を開放してその身を薬師の島へ転移させる。
次の瞬間、彼の眼前に広がっていたのは、狂おしい絶望に引き裂かれる光景だった。
蒼白な顔を涙に濡らし、髪を振り乱して叫ぶメリッサ。その足元から這い出す蔓は猛毒を宿す蛇のようにうねり、カミュとアフロディーテを容赦なく襲っている。カミュは氷の結界を必死に張り巡らせ、アフロディーテは薔薇を盾に防御していたが、凍気も薔薇も防ぎ切れず、二人の聖闘士の防御は追いついていなかった。
眼前の少女――メリッサの泣き叫ぶ姿は、彼らの心臓を冷たく握り潰すように痛ましかった。
「メリッサ!やめろ!」
シオンの声が、嵐を切り裂くように響いた。だが、彼女の耳には届かない。叫んだ声は嵐のような小宇宙に掻き消されていく。
彼の眼前で、少女は蔦を振り上げ、容赦なく聖闘士を攻撃していた。泣き喚き、叫び、喉を裂きながら、彼女はただ破壊を繰り返す。血走った瞳には理性の光も宿らず、ひたすらに悲嘆と憤怒がメリッサを駆り立てていた。
暴走した植物は意思を持つかのように、シオンへも牙を剥く。太く伸びた蔦が鞭のように唸りをあげ、白の法衣を切り裂こうと襲いかかる。
「教皇!お下がりください!!」
アフロディーテが叫ぶ。
「お前らこそ下がれ!」
シオンは一喝する。
黄金聖闘士の二人を後方へ退かせると、躊躇なく暴れる蔦の網を縫って少女へ駆け寄った。
「――メリッサ!やめるんだ!!」
轟音を裂いて、彼はその華奢な体を抱き締めた。暴れる四肢も、棘を持つ蔓も、自らの肉体を盾にして構わないと胸に抱え込む。
「離して!!離してよ!!」
メリッサは必死に腕を振りほどこうとする。涙で濡れた頬、血走った瞳。
シオンの胸は張り裂けそうになる。
「メリッサ、私だ!落ち着け!」
彼女を抱きしめる胸の奥から、焦りと切実な想いが溢れる。嗚咽の中で、少女の唇からかすれるような声が漏れた。
「――セージ……くん……?」
一瞬、時が止まる。
その名を口にした瞬間、メリッサの狂乱が止まった。無数の蔓が動きを忘れたように静止し、荒れ狂っていた小宇宙がふっと収束する。
「そうだよ。私だ」
シオンは優しく彼女の耳元に囁く。大粒の涙に曇った瞳が、恐る恐る彼を見上げる。
「え……何で?どうしてセージくんが……ここに……?」
少女は呆然と彼を見上げ、彼の法衣をぎゅっと掴んだ。混乱に震える手が、それでも必死にシオンの法衣を掴んで離さない。憎しみに荒れ狂っていた力は、彼の声を耳にした途端、子どものようにすがりつく弱さへと変わっていた。
シオンはその震えを抱き締め、胸奥で苦い決意を噛み締める。
――この時を避け続けることは、もう許されない。
メリッサの胸の奥で揺れる不安も、罪悪感も、全てが見えてしまう。彼女を抱き寄せたまま、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「……メリッサ。そなたに、伝えねばならぬ事がある」
シオンは彼女の髪に頬を寄せ、囁くように告げた。
「セージとは……偽りの名。聖域の教皇、前牡羊座の黄金聖闘士シオン。それが、私の正体だ」
静寂が島を覆った。
波の音だけが、遠くで虚しく砕け散っていた。
「さあ、黄金聖闘士様。ここで、死んでください」
声には冷たくも悲痛な響きがあり、空気を震わせる。風が吹くたびに鈴蘭の香気が濃く漂い、カミュの鼻腔をくすぐった。
「君は……それを撒くつもりか」
カミュの声は低く、緊張を帯びていた。だが瞳は動かず、あくまで冷静だ。毒が視界に映る花畑をゆらゆらと揺らす。
「もちろん、撒くに決まってます。二人の黄金聖闘士をここで屠って、シーブの毒に中った聖闘士も戻さないために」
メリッサは静かに、だが確実に香気を濃くしていく。掌から放たれる紫色の光が、花弁の中の毒を精製し、濃度を高めていった。
カミュは一歩前に出る。その目は冷たく光り、警戒の色が濃くなる。
「考えろ……それをやったとしても、我々の力は君が思うほど脆くはない」
言葉には冷静さと理知が滲む。だが、その背後で小さく震える息遣いから、彼自身が毒の香気に微かな影響を受けていることが窺えた。
「脆くない?ふふっ、甘いですねぇ。いかに黄金聖闘士だって、空気は必要でしょ?酸素ないと死にますよね?」
メリッサの声に、自信と冷酷さが混じる。過去の復讐心が、毒と一緒に花畑に濃縮されていた。
「……君の目に映る世界は、復讐の対象しか存在しないのか?」
カミュはその冷静な声で問いかける。目の前の少女に、人間としての恐怖も悲しみも理解しようとする意図が滲む。
「そうかもしれません。あたしにも大切な人はいたんです。その大切な人を聖域が踏み躙ったから、あたしはやり返したいだけです。ハンムラビ法典にあるでしょ?目には目を、って」
メリッサは足元の花に視線を落とし、掌で紫の光をさらに濃くする。空気は甘く、しかし毒々しい匂いに満たされていた。
「……わかった」
カミュの瞳が一瞬だけ揺れる。計算された冷静さの裏に、わずかな動揺が見えた。
「君の復讐心の大きさ、理解した。だが……それでも、やり方を誤れば自分を滅ぼすだけだ」
メリッサは薄く笑う。その笑みには、過去の痛みと憎悪、そして決意が入り混じっている。
「そうですね。でも、誰も止められませんよ。あたしを止めるのはあたし自身です」
波打つ鈴蘭畑に、紫色の光が揺れ、二人の間の空気を張り詰めさせる。互いの心理が、毒の香気と混ざり合い、静かな戦場を作り出していた。
鈴蘭畑の中、紫の光が揺れる空気に、カミュの凍気がゆっくりと広がった。
「……これでどうだ」
彼の手先から伸びる冷気は、毒の香気を覆い封じ込めるように流れた。空気は瞬間的に凍り、花畑の香りは薄らいだかに見えた。だが、完全に封じることはできない。毒の微細な粒子はすでに空中へ散り、凍気が届かぬ隙間に潜んでいる。
メリッサは地面にしゃがみ込み、掌で淡く光る毒を再び濃縮する。冷気の中で紫色の光が映え、あたりを薄い霞のように包んだ。
「くっ……!」
カミュは目を細め、手で振り払う。凍気で香気を押さえ込むが、空気全体を完全に支配することはできない。微かに息が苦しくなる。毒に耐性のない者なら、すでに動けなくなるはずだ。
「どうしたんですかぁ?」
メリッサは無邪気に微笑むように言った。だがその瞳には冷酷さが宿る。生身である自分の無力さを理解しつつも、策略で相手を追い詰める狡猾さが滲んでいた。
カミュの凍気が畑を覆い、足元の鈴蘭を凍らせる。
「まだ……やれる」
彼の声は低く、凍気の中に渋い決意を含ませていた。しかし、メリッサの小さな掌から放たれる光は、凍らせきれない香気を次々と再生させる。空気中に漂う毒の粒子が、凍結の隙間からカミュの周囲に濃密に戻る。
「だーめ!」
メリッサは笑い声を混ぜ、手の動きを素早く繰り返す。毒の濃度が増すごとに、カミュの顔色が変わっていく。冷静さを保とうとする眉間の皺が、微かに深くなる。
「……甘く見すぎだ、少女」
カミュの声には警告が含まれていた。だが、冥衣を纏わぬメリッサに対し、直接の攻撃はためらわれる。生身の少女を傷つければ、復讐の正当性を自ら作り出すことになると直感していた。
メリッサは花畑の中で、凍気と毒の間に微妙なバランスを取りながら立つ。
「どうします?もう諦めますか?」
問いかける声には、挑発と冷笑が混ざり合う。背後の風に揺れる鈴蘭の花が、紫の光を反射し、二人の間の空気を緊張で震わせた。
追い詰められるカミュと、狡猾に立ち回る生身の少女。
鈴蘭畑は、戦場とも心理戦の舞台ともつかぬ、静かで凄絶な緊張に包まれていた。
鈴蘭畑の紫の霞が、凍気に押されつつもなお揺れる。カミュは汗を滲ませながら、息を整えつつも必死に冷気で毒を封じようとしていた。思いの外、苦戦している。生身の少女が、ここまで冷静かつ狡猾に動き回るとは予想外だった。
そのとき、遠くから青い光が差し込む。意識を取り戻したアフロディーテが現れた。ゆらりと立つその姿には、優雅さだけでなく、戦士としての鋭さが宿っている。
「ピラニアンローズ!」
言葉と同時に、空間を裂くように黒薔薇が広がり、鈴蘭の花々を一瞬で粉砕した。紫色に揺れていた毒の香気もすべて消え去り、残るのは冷気で凍った地面だけだった。
メリッサの肩に一瞬、迷いが芽生える。冥衣……纏えば、強大な力で対等に戦える。しかし、それは同時に彼女自身の意識を支配するもの。完全に冥闘士の存在となり、冷酷な計算の下で自らの意思は封じられる。
「……どうする?」
空気の中で自問するメリッサ。その一瞬の隙を、カミュは見逃さなかった。氷の結晶が彼女の手首と足首を瞬く間に覆い、冷たく硬い手枷と足枷へと変わる。メリッサは抵抗しようと腕を振るうが、氷は魔法のように彼女の動きを封じ、身動きが取れなくなる。
「……くっ」
唇の端に笑みを浮かべようとするが、それも凍りついたかのように歪む。紫の光が掌で揺れるが、もう自由にはならない。
鈴蘭畑の静寂に、遠くで砕けた花の残り香だけが残る。風が吹き抜け、凍気とともに、彼女の胸に芽生えた迷いをも吹き散らしていった。
メリッサは、完全に動きを封じられたまま、次の瞬間に訪れる展開をただ待つしかなかった。
カミュの氷の鎖は、肉体よりも心を縛るように冷たい。手足の自由を奪われただけなのに、まるで胸の奥まで凍りつかされるような感覚が広がる。
逃げられない。身体も、心の奥底も。
「メリッサ。君がそこまで聖域を憎む理由を知りたい」
淡々とした声音。責め立てるでも、憐れむでもなく、ただ事実を求める口調。だからこそ、余計に逃げ道は塞がれる。
「……言いたくない」
吐き出した声は、自分でも驚くほど幼く響いた。頑なに拒むつもりだったのに、そこには力強さもなく、ただ弱さを覆い隠すための言葉しか残っていない。
「しかし、理由が分からなければ償いの道筋がつけられない」
冷ややかな言葉。けれど、その奥に微かな誠意を感じ取ってしまうのはなぜだろう。
メリッサは唇を噛みしめた。
「話した所で、奪われたものは何一つ返らないもん」
心の奥に巣食う傷痕が疼く。決して癒えない。誰にも見せられない。けれど、彼は退かなかった。
「確かに返らないものはある。だが、今あるものを失わないようにすることはできるはずだ」
「今、あるもの…?」
その響きに、メリッサは思わず顔を上げていた。
“今あるもの”。彼はそれを当然のように告げた。彼女にまだ守るべきものがあると信じて。
「君には大切にしたいことや大切にしたい人はいないのか?」
静かに投げかけられた問いは、氷よりも鋭く心臓に突き刺さった。答えられるはずがなかった。彼女のすべては奪われ、踏み躙られた。誰も信じられない。誰も愛せない――そう言い聞かせて生きてきたのに。
なのに。
その瞬間、脳裏をかすめたのは、柔らかな光に包まれた笑顔だった。
セージ。
彼が見せる穏やかな眼差し。いつも変わらず差し伸べられる手。無条件に与えられる優しさ。
思い浮かべるつもりなどなかった。なのに、心は勝手に彼を呼び寄せてしまった。
(あたし……なんで、セージくんのこと……?)
胸の奥がざわめいた。認めたくない。だが否定できない。セージは聖域に連なる存在だ。己が憎む、その中に生きる者。忘れもしない惨劇を背負わせた、あの場所と切っても切れぬ縁を持つ人間。
憎むべきはずの側に立つ者を、なぜ“大切”と思ってしまうのか。
罪の意識が喉を締めつける。裏切っているようだった。過去に奪われたものの痛みを忘れたのか。憎しみを薄れさせてしまったのか。いや、そんなはずはない。忘れられるわけがない。忘れてしまえば、自分が壊れてしまう。
それなのに――。
脳裏に浮かんだのは、誰でもない、セージ。
聖域の人間である彼を大切に思ってしまった自分を、メリッサは心底許せなかった。
カミュの問いかけが再び耳に残り、心の奥で木霊する。
「今あるものを失わないようにすることはできるはずだ」
今あるもの。その中にセージが含まれてしまっている。
認めることが、どうしようもなく苦しかった。
薬師の島の空気は、湿り気を帯び始めていた。風は海から引きずってくる塩と、薬草の強い香りを混ぜ合わせ、木々の梢を揺らす。地面の熱と海の冷えが同居する空気のなかで、植物はじっと呼吸をしているようだった──だが、その“呼吸”は今や、メリッサの鼓動と同調し始めていた。
彼女の声が、突然に割れた。
「聖域のせいであたしの家族は壊れた!一番大切な物を壊された!偉そうに説教する前に!あたしの家族を返してよ!!」
声は怒号というより、失われた日々の総量を一度に吐き出すような破裂だった。
枷をされたままの手で、メリッサは腰に巻いたバッグから1枚の書状を引き摺り出した。それは、教皇の印が押された依頼状だ。純白の紙は陽射しを跳ね返して、場違いなほど鮮やかに光って見えた。
「教皇様だって、こんな紙切れ一枚であたしに命令してさ!お前が束ねてる聖域が、あたしに何をしてくれた!?黄金聖闘士が何をしてくれた!?末端の兵士がお兄ちゃんとあたしに何をした!!あたしが……あたしが……どれだけ酷い目に遭わされたのかも知らないで……!」
言葉が一つずつ、粉々に砕けていく。声は震え、その先にあるのは泣き声よりも深い、生命の根源から抉られたような痛みである。メリッサの身体が怒りで震えた。憎悪は理性を侵食し、胸のなかで渦を巻き始める。彼女の顔に浮かぶのは、憎悪と悲痛と、それを超えた絶望の表情だった。
「お前らなんて大嫌いだ――!」
その絶叫が大気に引火した瞬間、アフロディーテのピラニアンローズで薙ぎ払われたはずの鈴蘭が急速に芽吹き、蕾をつけ、一斉に開花した。彼女の手足を拘束していた氷の枷が粉々に弾け飛び、凍てついた破片が、鈴蘭の葉を叩いて散る。カミュは思わず後ずさり、驚愕と畏怖が混じった声を漏らす。
「まさか……私の凍気を――!」
だがその時にはすでに手遅れだった。メリッサの身体を暗紫色のオーラが包み込み、風景の輪郭を滲ませる。暗紫は墨のように濃く、しかし生き物のように蠢き、彼女の四肢から滲み出す意思のように広がっていく。オーラは熱を孕み、周囲の植物を共鳴させる振動となって草の根へ、茎へ、葉へ、花弁へと伝播する。
「カミュ!離れろ!」
アフロディーテの声が割り込み、空気が一瞬にして張り詰める。カミュが咄嗟に身を引くと、立っていた地面が、樹木の根によって音を立てて抉られた。根は意思を得たかのように暴れ、土を抉り起こし、鈍い衝撃とともに暗い泥が高く跳ね上がる。
「メリッサ、やめろ!」
アフロディーテの言葉は必死だった。だがメリッサの返答は、嗚咽でも哭でもなく、短い、断絶の命令のような一語だった。
「うるさい!黙れ黙れ黙れ!!」
その怒声に呼応するかのように、鈴蘭畑は一斉に動き出した。細い茎が音もなく曲がり、葉が鋭利な刃のようになって空中を走る。鈴蘭の花弁は、もはや可憐な釣鐘ではなく、濃密な香気を吐き続ける器官となって、空間に毒の層を成していく。根は牙のように土を裂き、茎は蛇のように伸びて、カミュとアフロディーテの周囲に絡みついた。
メリッサの顔には涙が混じっている。怒りの奥で、彼女の目は砕けた少女の記憶を映していた――四人の雑兵の影、兄の叫び、乾いた地面と砂埃、身体を引き裂かれる強烈な痛み、そして下卑た笑い声。
叫びは復讐のための呪文となり、その声が植物へ伝わると、世界の生ける部分までもが彼女の感情に同調した。
周囲の空気は、今や聴覚に訴えるだけでなく、嗅覚に、皮膚に、理性にまで押し寄せる。鈴蘭の甘さが過剰なほどに濃縮され、その甘美さが舌先を痺れさせ、思考を曇らせる。アフロディーテは顔を顰め、手を振り払って香気の流れを断とうとする。カミュは凍気を集め、周囲の植物を凍結させんと放つが、暗紫のオーラはその凍気をも吸い込み、むしろ反動として倍化させるように植物の脈動を強めた。
メリッサは、もはや自分の名を呼ぶ声さえ届かない遠いところで、ただひたすらに喉から絞り出すように叫ぶ。
「返してよ!あたしの家族を!あたしの尊厳を返してよ!!あたしに!きれいな身体を返してよ!!」
その言葉に、島の緑が答える。茎が伸び、葉が裂け、根が投げ出される。鈴蘭畑は生き物となって、聖域を包囲しようとする二人を締め上げた。だがそれは、同時に危険の始まりでもあった。メリッサの小宇宙は制御を失いつつあり、どこで歯止めがかかるかは誰にも分からない。
薬師の島を覆う大気は、狂おしいまでに震えていた。潮の匂い、薬草の香気、土の匂い、それらすべてが一つの激しい呼吸となって、この場に集まった命を震わせている。
海鳴りのように荒れ狂う小宇宙が、島全体を覆っていた。
潮風に混じって、生気を奪うほど濃密な小宇宙が吹き荒び、息をするだけで肺を灼かれるようだった。
風に煽られた木々は根を引き抜かれ、鋭い枝葉が無数の槍のように宙を奔る。地を裂き、天を震わせる力は、もはやひとりの娘が放つものとは思えなかった。
聖域の奥、教皇宮の祭壇で祈りを終えていたシオンは、異変を察知した。
「メリッサ!?一体何があった!」
荒々しい波動の中に確かに刻まれている――温かくて愛しい、小さな鼓動。
迷う暇もなく、小宇宙を開放してその身を薬師の島へ転移させる。
次の瞬間、彼の眼前に広がっていたのは、狂おしい絶望に引き裂かれる光景だった。
蒼白な顔を涙に濡らし、髪を振り乱して叫ぶメリッサ。その足元から這い出す蔓は猛毒を宿す蛇のようにうねり、カミュとアフロディーテを容赦なく襲っている。カミュは氷の結界を必死に張り巡らせ、アフロディーテは薔薇を盾に防御していたが、凍気も薔薇も防ぎ切れず、二人の聖闘士の防御は追いついていなかった。
眼前の少女――メリッサの泣き叫ぶ姿は、彼らの心臓を冷たく握り潰すように痛ましかった。
「メリッサ!やめろ!」
シオンの声が、嵐を切り裂くように響いた。だが、彼女の耳には届かない。叫んだ声は嵐のような小宇宙に掻き消されていく。
彼の眼前で、少女は蔦を振り上げ、容赦なく聖闘士を攻撃していた。泣き喚き、叫び、喉を裂きながら、彼女はただ破壊を繰り返す。血走った瞳には理性の光も宿らず、ひたすらに悲嘆と憤怒がメリッサを駆り立てていた。
暴走した植物は意思を持つかのように、シオンへも牙を剥く。太く伸びた蔦が鞭のように唸りをあげ、白の法衣を切り裂こうと襲いかかる。
「教皇!お下がりください!!」
アフロディーテが叫ぶ。
「お前らこそ下がれ!」
シオンは一喝する。
黄金聖闘士の二人を後方へ退かせると、躊躇なく暴れる蔦の網を縫って少女へ駆け寄った。
「――メリッサ!やめるんだ!!」
轟音を裂いて、彼はその華奢な体を抱き締めた。暴れる四肢も、棘を持つ蔓も、自らの肉体を盾にして構わないと胸に抱え込む。
「離して!!離してよ!!」
メリッサは必死に腕を振りほどこうとする。涙で濡れた頬、血走った瞳。
シオンの胸は張り裂けそうになる。
「メリッサ、私だ!落ち着け!」
彼女を抱きしめる胸の奥から、焦りと切実な想いが溢れる。嗚咽の中で、少女の唇からかすれるような声が漏れた。
「――セージ……くん……?」
一瞬、時が止まる。
その名を口にした瞬間、メリッサの狂乱が止まった。無数の蔓が動きを忘れたように静止し、荒れ狂っていた小宇宙がふっと収束する。
「そうだよ。私だ」
シオンは優しく彼女の耳元に囁く。大粒の涙に曇った瞳が、恐る恐る彼を見上げる。
「え……何で?どうしてセージくんが……ここに……?」
少女は呆然と彼を見上げ、彼の法衣をぎゅっと掴んだ。混乱に震える手が、それでも必死にシオンの法衣を掴んで離さない。憎しみに荒れ狂っていた力は、彼の声を耳にした途端、子どものようにすがりつく弱さへと変わっていた。
シオンはその震えを抱き締め、胸奥で苦い決意を噛み締める。
――この時を避け続けることは、もう許されない。
メリッサの胸の奥で揺れる不安も、罪悪感も、全てが見えてしまう。彼女を抱き寄せたまま、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「……メリッサ。そなたに、伝えねばならぬ事がある」
シオンは彼女の髪に頬を寄せ、囁くように告げた。
「セージとは……偽りの名。聖域の教皇、前牡羊座の黄金聖闘士シオン。それが、私の正体だ」
静寂が島を覆った。
波の音だけが、遠くで虚しく砕け散っていた。
