Eine Kleine Ⅱ

「ご報告申し上げます。レオン・カヴァリエの家系を遡ったところ……九代前に、教皇猊下と思われる人物の存在が確認されました」
 報告を終えたサガの声は静かだったが、室内の空気を一変させるには十分だった。
 ヘスティアは、きつく目を閉じた。
 予感はあった。何となく、そうではないかと思っていた。けれど、実際にそれが事実として突きつけられると、思いのほか堪える。
 重く組んだ手を額に押し当て、深く、何度も呼吸を繰り返す。
「……遺伝子検査を……できる?」
「……それには、教皇猊下、そしてレオン・カヴァリエ本人からの検体提供が必要です」
「そうよね……シオンはともかく、レオン・カヴァリエのほうは……。あっ、学内実習で使ったサンプルとか、大学に保管されてないかしら?薬学部生なら、何かしら残っていそうだけど」
「なるほど。至急、確認いたします」
 彼らが通うのは、百年を超える歴史を誇る国立大学。その上層部の一部は、聖域と密かに繋がりを持っている。そのルートを辿り、レオンが実習で使用した口腔粘膜のサンプルを極秘裏に入手することに成功した。
 一方、シオンからは、本人の了承を得た上で提出してもらうべきだろう。これ以上、彼に隠しごとを続けるのは――不誠実だ。

 夕暮れの光が、薄く執務室の帳を染めていた。
 静かに扉が開き、ヘスティアが一人、シオンのもとを訪れた。その足取りは迷いなく、けれどどこか、重さを伴っていた。
 机に向かっていたシオンが顔を上げる。書類を整え、立ち上がろうとする彼に、ヘスティアは小さく首を振った。
「いいの。そのままで」
 そう告げて、彼の正面に腰を下ろす。
 しばしの沈黙ののち、ヘスティアはそっと視線を落とし、それからゆっくりと彼を見つめた。まっすぐに、真心をこめて。
「シオン……大切な話があるの」
 その声音に、彼はそっと目を伏せる。彼女がこうして前置きをする時は、決まって――心に波を立てる話だ。
 案の定、ヘスティアの言葉は慎重で、それでも揺るぎないものだった。
「レオン・カヴァリエ……あの青年の家系を遡ったところ、あなたと思しき人物が、九代前に存在していたの。調査の結果、その可能性は極めて高いとされている」
 一拍の間を置いて、シオンの全身から、力がすっと抜けた。
「私に……子がいたということですか……?」
 声はかすれ、震えていた。深い衝撃が、言葉の一つ一つに滲んでいる。
 ヘスティアは頷いた。すぐに答えを返すのではなく、彼が受け止めるまで、間を取ってから。
「ええ。現段階では断定はできないけれど、状況的に見て――その可能性は、非常に高いと考えられているわ」
「そんな……馬鹿な……」
 シオンの掌が机の縁をぎゅっと握る。指先が白くなるほどに。
 しかしヘスティアは、彼の動揺に慌てることなく、淡々と続けた。その冷静さは、決して無関心から来るものではない。むしろ、彼の心に寄り添い続けるために、感情を押し殺しているのだった。
「でも……全く心当たりがない、というわけではないのでしょう?」
 その問いに、シオンは目を伏せたまま無言で頷く。
 ヘスティアは、言葉を選びながらそっと続けた。
「あなたが若かった時代には、現代のような避妊の概念や手段は、一般的ではなかった。だから……もし、そういうことが過去にあったとしても、それは、必ずしもあなたの不注意や過失ではないわ」
 声は優しく、どこまでもまっすぐだった。
「私は、責めるつもりなんてない。驚いたのは事実だけれど……あなたが今、どれだけこの事実に戸惑い、苦しんでいるかも、わかるつもりよ」
 沈黙が降りる。
 その中で、シオンは胸の奥から何かが零れ落ちそうになるのを、必死に抑えていた。
 ヘスティアはそれを見逃さなかった。
 だから、彼が言葉にできない悲鳴を、彼女が代わりに引き受けるように、そっと呟いた。
「あなたが今まで背負ってきたものを、私は少しでも支えたい……あなたの過去がどんなものであっても、私はそれごと、あなたを尊重するわ」
 それは、確かに愛だった。
 暫く、どちらも何も言わなかった。
 窓の外では風が枝葉を揺らしている。けれどその音すら、この部屋には届いてこない。息を呑むような静寂の中で、シオンはまるで石像のように微動だにせず、ヘスティアの言葉を受け止めようとしていた。
 彼女はただ、待った。彼が自分の足でその現実に立てるまで、余計な慰めを差し挟むことなく、沈黙のなかに寄り添い続けた。
 漸く、ヘスティアは口を開く。
「聖域としては――この件を確定させておきたいの。事実であるなら、それ相応の備えが必要だから」
 そして、真正面から見つめる。
「……協力してもらえないかしら?」
 シオンの指がわずかに震えた。彼は漸く視線を彼女に向けたが、その目は深い奥底に影を湛えていた。
「私に……何をせよと……?」
 その問いに、ヘスティアはわずかに息を吸い、できるだけ穏やかに、しかし明確に答えた。
「遺伝子検査をしようと思っています。あなたの口腔粘膜を、採取させてもらえないかしら?」
 一瞬、シオンの瞳が揺れた。呼吸が浅くなるのが、遠目にもはっきりとわかる。
 それは、自らの過去と、血に宿る真実とを引き受けるということ。
 ただでさえ、二年前の惨劇にメリッサが巻き込まれたことを、今なお悔い、責め続けている彼にとって――この提案は、あまりに酷なものだったかもしれない。
 けれど。
 長い沈黙の末に絞り出された言葉は、か細く、擦れ、掠れていた。
 それでも、その声は確かに、彼自身の意志を宿していた。
「…………御意」
 まるで、自らに言い聞かせるように。
 そしてそれは同時に、ヘスティアという存在への深い信頼の証でもあった。
 彼は、彼女の言葉に応えることを選んだのだ。

 検体採取は、シオン自身の手で行われた。
 消毒された綿棒をそっと指に受け取り、何も言わずに頬の内側を拭う。その動作は、極めて静かで、丁寧だった。まるで、神聖な儀式でも執り行っているかのように。
 たったそれだけのこと。医療的には、ほんの数秒の作業に過ぎない。
 けれど、その作業が終わるまでの時間は、あまりにも長く感じられた。
 手を止めたシオンは、僅かに目を伏せたまま、綿棒をヘスティアに差し出す。手が触れ合わぬように注意しながら。
 彼の指先が小さく震えていたのを、ヘスティアは見逃さなかった。
「……ありがとう」
 やっとの思いで絞り出したその言葉は、掠れていた。彼女の苦悩と葛藤が、そこに全て凝縮されていた。
「いえ……」
 二人とも、それ以上言葉を紡ぐことができなかった。
 この場で、どんな慰めも意味をなさない。空疎に響くだけだと、彼女は誰よりも理解していた。
 彼女が手にした検体は、無機質な密閉容器に収められた。それは、ただの口腔粘膜にすぎないはずなのに――ヘスティアには、胸が引き裂かれるように思えた。
 どちらも声を発せず、どちらも動けない。
 執務室の空気が、静かに、しかし確実に凍りついていく。それは、時間の流れさえも止めてしまったかのようだった。

***

 私がその場を立ち去らなかったのは、立ち去ることができなかったからだ。
 終わったはずの検体採取。小さな綿棒一つに込められた、重すぎる意味。
 それを理解していながら――私は、彼にこれを求めた。
 たとえ心を削ることになっても、過去を掘り起こすことになっても、真実を知る必要があった。
 それは彼のためでも、未来のためでもある。
 そう、自分に言い聞かせるしかなかった。
 けれど今、机に置かれた小さな容器を見ているだけで、呼吸が浅くなる。
 これがどれほど残酷な所業だったかを、私は痛いほど思い知っていた。

***

 私の掌が、まだ震えている気がする。
 あの綿棒を手に取った瞬間から、心が自分のものではなくなった。
 まるで、遠い誰かの記憶に触れたかのような――
違う、記憶などない。ただ、虚無が押し寄せるばかりだった。だが、あの女神の目を見た瞬間、私は理解していた。
 これは逃げられない。問われているのだ。
 過去の私が、何を遺したのか。
 何を知らずにいたのか。
 そして――それが今、誰を傷つけているのか。

***

 私は、彼を傷つけたくて真実を求めたのではない。
 むしろ、守るために必要だった。
 でも、守るという行為が、誰かの痛みを伴うのだとしたら――
 私は、それでも正しかったのだろうか?
 何度も、そう自問している。
 それでも、私は女神であり、この地上を守る存在であり、そして……かつて彼に救われた、ただ一人の人間でもあった。
 この感情がただの同情ではないことを、私は知っている。
 だからこそ、私の沈黙も、私の逡巡も、きっと彼には全て見抜かれているのだ。

***

 私には、何もわからない。
 なぜこんな話が、今になって降ってくるのか。
 なぜ、よりによってあの子の隣に、その可能性が現れたのか。
 私にとって、メリッサは――
 それは、口にするにはあまりにも…
 だが、そうではないのだろう。
 この因果の渦は、最早、私一人ではどうにもできない。
 もしかすると、あの女神だけが、それを知っていたのかもしれない。
 その予感の重さを、私は彼女の眼差しの奥に見た。
 だから、あの一言に従ったのだ。

 御意、と。

***

 彼は、受け入れてくれた。
 その声のか細さに、どれほどの決意と痛みが滲んでいたか。
 私はそれを、全身で受け止めるしかなかった。
 もう、これ以上、言葉で触れるべきではない。
 彼の沈黙を壊さぬよう、私はただその場に立ち尽くした。
 この冷たい空間に、微かな祈りをこめて。

 ――どうか、あなたの心がこれ以上傷つきませんように。
 ――どうか、あなたの過去が、あなた自身を否定しませんように。


 翌日は日曜日だった。
 空は澄みきって、窓辺に射す光が柔らかい。
 メリッサは、昨日アテネで買った本を机に並べ、ページをめくった。
 目的ははっきりしている。
 レオンと分担するための資料を、できるだけ早く読み込んでおくこと。そうすれば、彼に貸せるし、レポート作成も効率的になる。
 なのに。
 文字を追っても、頭に入らない。
 紙の上を視線だけが滑っていく。
 読み終えたページの内容が、まるで霞のように溶けて消えていくのだ。ページを閉じて、深く息を吐いた。

 ――昨日のこと。

 街の雑踏、信号待ちの瞬間、秋の風。
 そして、レオンが自分の名前を呼んだときの声。
 どうしても、そこへ心が戻ってしまう。
 (落ち着け、あたし)
 額に手を当て、椅子の背に凭れる。
 自分でもわかっている。
 レオンのことがこんなにも気になるのは、彼があまりにも――似ているからだ。あの人に。
 シオンの姿。
 声の低さ、瞳の奥の静けさ、何より、誰かを包み込むような穏やかさ。それらが、少しずつ心をかき乱していく。
 けれど。
 (違う。レオンくんは、レオンくんだ)
 小さく呟くように言い聞かせた。
 シオンの代わりになど、誰にもなれないし、なってほしくもない。あの人への想いを、他の誰かで埋めようとするのは――彼にも、レオンにも、失礼だ。
 理屈では分かっているのに、胸の奥がざわつく。
 抑えようとすればするほど、昨日の笑顔や、車内の沈黙が蘇る。

 窓の外では、午前の日差しが街を照らしていた。
 鳥の声がして、洗濯物を干す隣家の母親の姿が見える。そんな穏やかな日常の中で、メリッサの心だけが、静かに波立っていた。
 (レオンくん……)
 その名を思い浮かべた瞬間、胸の奥が熱を帯びる。それと同時に、どこか遠い痛みが走る。
 (駄目だ、集中しなきゃ)
 気持ちを切り替えようと、彼女は本を持ち直した。
 ちょうどその時、机の上のスマートフォンが小さく震えた。
 レオンからだ。
 メッセージを開く。
 《おはよう。昨日は楽しかったよ。どうもありがとう。早速レポートに取りかかろうと思って本を開いたのは良いんだけど、難解過ぎて苦戦してる。きっとそっちも大変だと思うけど、お互い頑張ろう》
 自然と笑みがこぼれる。
 彼らしい、誠実で優しい言葉だった。少し肩の力を抜きながら、返信を打つ。
 《おはよう。こちらこそ、昨日はどうもありがとう。素敵なお夕食もご馳走様でした。人生で初めて遭遇した味わいに、新しい世界の扉が開きました。さてさて、こっちも苦戦必至。最早、何語?って感じ。まずは解読からだね(笑)。一人だと絶対挫けるよね。レオンくんがいてくれて心強いよ。頑張ろう!》
 送信して、スマートフォンを伏せる。
 小さな達成感と、胸の奥に残る温かい鼓動。
 メッセージアプリはこういう時、本当に助かる。
 本人を前にしていたら、こんなに軽く言葉を交わせなかった。

 朝の光が、薄く開いたカーテンから差し込む。
 机の上には昨夜のノートと、開きっぱなしの文献。
 レオンは紅茶を片手に、それらをぼんやりと眺めていた。
 送ろうか、どうしようか。
 昨夜、何度もその思いを繰り返した。
 別れ際、彼女にもう一言伝えたい気持ちはあった。
 でも、すぐに連絡するのは軽率かもしれない。
 メリッサは優しい人だ。彼女の中に踏み込みすぎてはいけない――そう考えて、メッセージアプリを閉じた。けれど、眠りは浅かった。
 何度も夢の中で、彼女の笑顔が浮かんでは消えた。
 思えば、誰かとあんなに自然に話せたのは久しぶりだ。彼女の無邪気な仕草に、どれほど救われただろう。
 鳥の声に背中を押されるように、レオンはスマートフォンを手に取った。
 文字を打つ指先が、やけに慎重になる。
 句読点の位置一つで、印象が変わってしまいそうで怖かった。
 何度も何度も見返して、深呼吸を繰り返す。
 そして、漸く『送信』を押した。
 数分も経たないうちに、通知音が鳴った。
 返信が届いている。
 画面に並ぶ言葉を追っていくうちに、口元が自然に綻んだ。
 “レオンくん”という呼び方が目に留まり、胸の奥にじんとした熱が広がる。
 (やっぱり、彼女は特別だ)
 その言葉を胸の奥で静かに反芻しながら、彼はノートを開いた。けれど、暫くの間、文字を追っても内容は頭に入ってこなかった。
 ペン先が紙の上で止まるたび、心の中では彼女の笑顔がゆっくりと浮かび上がっていた。

 昼へ向かう光が少しずつ部屋を満たしていく。
 レオンからのメッセージを読み返すうちに、胸の奥がふわりと温かくなる。
 “レオンくん”と呼んでしまった自分の言葉が、少しだけくすぐったい。
 けれど、不思議と自然だった。
 彼の真っ直ぐな優しさが、静かに心を満たしていく。
 まだ恋ではない。けれど、心がほどけていく感覚だけは、確かにそこにあった。

 昼下がりの部屋に、紙をめくる音だけが響いていた。
 メリッサは、買ったばかりの資料本の一節をノートに纏めながら、時折眉をひそめる。専門的すぎる語彙と、古典的な文体。まるで暗号のような文章に、何度も首を傾げた。
 そこへ、スマートフォンの通知音が鳴る。
 画面には『レオンくん』の名前が浮かぶ。
 《こっちは“魂の再生過程における記憶の断絶”について書かれてた。文体は難しいけど、哲学的な切り口で面白いよ》
 すぐに返信する。
 《こっちは“魂の同調現象”に触れてる章を見つけた。ただ、実験データの部分が曖昧で、再現性に乏しい感じ。でも、論点としては使えそう》
 何往復かのやり取りの中で、二人のやりとりは自然に熱を帯びていった。
 文献を引用し合い、解釈を比べ、時折冗談を挟みながら。けれど、どれほどやっても、完全な整理は難しい。画面越しのやり取りでは、どうしても限界がある。
 《やっぱり、こういうのって一緒に見た方が早いかも》
 レオンからのメッセージに、メリッサは思わず頷いた。
 《あたしもそう思ってた。明日、空きコマとか放課後にやろうか?》
 《賛成。僕、午後の授業が終わったら時間ある》
 《じゃあその時に。場所はまた相談しよう》
 会話がひと段落すると、スマートフォンを置いた。
 静まり返った部屋に、ページを繰る音が戻ってくる。けれど先ほどまでとは違って、心は軽やかだった。
 “誰かと一緒にやる”というだけで、
 こんなにも前向きになれるものなのか――。
 窓の外では、傾き始めた陽が淡く街を染めていた。
 明日、またレオンに会える。
 それだけで、胸の奥がほのかに温かくなるのを、メリッサは感じていた。

 翌日から、二人は大学の図書館でレポート作成に取りかかるようになった。互いに見つけた文献から要点を抜き出し、ノートにまとめ、時折意見を交わす。昼下がりの光が窓辺を白く照らし、紙の上に落ちる影がゆらゆらと揺れた。
「この章、“魂の共鳴”の部分なんだけど、訳が少し違う気がしない?」
 レオンが頁を指で押さえながら尋ねた。
 メリッサは椅子を寄せて、彼の手元を覗き込む。
「あ……本当だ。“ハルモニア”を“連帯”って訳してる。でも、たぶん“調和”とか“融和”のほうが近いと思う」
「なるほど。そういう読み方もあるのか……面白いね」
 レオンの声は穏やかで、言葉の端にいつも優しい温度があった。それが、彼をただの同級生以上の存在に感じさせる。けれどその声が、時折、誰かの声と重なる。
 メリッサはペンを握ったまま、胸の奥が微かに痛むのを感じた。この人を見つめるたび、あの人の影を思い出してしまう。
 そのことが、レオンにも、シオンにも、そして自分自身にも、ひどく申し訳ない気がしてならなかった。
(何も考えずに、レオンくんのことを好きになれたら、どんなに幸せだろう)
 ページをめくる音が、静かな図書館に小さく響いた。窓の外では、秋の風がオリーブの葉を鳴らしている。
 メリッサは顔を上げ、レオンの横顔を見た。
 光に透ける金の髪が、どこまでも穏やかに揺れていた。
(あたしは、シオン様のことも、レオンくんのことも……好きになる資格なんて、ないのに)


 クロエは、カフェテリアの窓際に座って、二人の様子を何気なく視界の端に収めていた。
 メリッサとレオンが並んでノートパソコンを覗き込み、画面を指し示しながら小声で話している。
 肩が、触れるか触れないかの距離。笑う時には、互いの顔を自然に覗き込んでしまうほど近い。
(本当に、仲が良くなったわね)
 レポートに追われているのは知っている。彼らが努力していることも。それでも、日に日に縮まっていく距離を見ていると、胸の奥がざわついた。
 単なる共同作業の延長なのか、それとも……。
 もし本当にそうなら――報告すべきなのか?
 クロエは、自分の中の二つの声に引き裂かれる思いだった。一方は、聖域の諜報員としての冷静な理性。もう一方は、親友としての情。
 メリッサが笑う。レオンも同じように笑う。
 その笑顔を見ていると、どちらの声が正しいのか分からなくなる。
 「……もう少しだけ、様子を見ようかしら」
 小さく呟いて、紅茶のカップを持ち上げた。
 報告を遅らせるつもりなどなかった。ただ、タイミングを見極めたかった。
 クロエは、冷めた紅茶を一口含みながら、自分の胸に生じた焦燥と罪悪感を、静かに飲み込んだ。

 夜。
 窓の外には、アテネの街の灯りが遠く瞬いていた。
 クロエは机に向かい、報告書の白紙を前にしてペンを握りしめていた。
 聖域から支給された、黒革の表紙の報告書。定期の報告はこの文書で提出することになっている。これまでにも幾度となくこの報告書を聖域へ提出している。書き方や記載内容に迷ったり悩んだりしたことはない。今回だって、そこに記すべき内容は明白だった。

 ――監視対象:メリッサ・ドラコペトラ。
 ――同大学所属、レオン・カヴァリエとの接触頻度増加。
 ――情緒的親密性の進行が認められる。

 言葉は、頭の中ではいくらでも浮かんでくる。
 しかし、ペン先は一行たりとも進まなかった。
 「……そんなに単純な話じゃないのよ」
 小さく漏れた声が、静かな部屋の空気に溶けていく。
 彼女はペンを置き、両手で顔を覆った。
 メリッサの笑顔が、ふと脳裏に浮かぶ。レオンと一緒に資料を抱えて歩いていたあの横顔。その中に、どんな思惑があるというのだろう。
 あれが本当に“危険”なのか――。
 「職務に、情を挟むな」
 サガの言葉が、鋭く胸を刺した。けれど同時に、その声はあまりにも遠く感じられる。
 クロエは報告書を閉じ、ランプの灯を落とした。
 暗闇の中で小さく息を吐く。

 もう少しだけ、待ちたい。
 せめて、レポートが終わるまでは。

 彼女は自分にそう言い聞かせるように、静かに瞼を閉じた。だがその夜、クロエはなかなか眠りにつくことができなかった。


 聖域・教皇宮。
 補佐官執務室の重厚な扉が、蝶番の軋む音とともに閉ざされ、空気が一変する。
 広間の奥、薄明かりの下に、文官筆頭教皇補佐官双子座の黄金聖闘士サガが立っていた。
 背すじを伸ばし、両手を後ろに組んだまま、無言でクロエを見つめている。その紺碧の瞳には、叱責の色も、怒気もない。ただ、全てを見透かすような静けさだけがあった。
 「――報告が滞っているな、クロエ・アレクサンドラ・ヴァシリウ」
 その声は低く、冷ややかに響いた。クロエは膝を折り、深く頭を垂れる。
 「申し訳ありません。確認に時間を要しております」
 「時間、か」
 サガは緩やかに歩み寄る。靴音が石床に規則正しく響くたび、クロエの胸の奥が強く脈打つ。
 「君が観察している対象は、ただの女子学生ではない。冥闘士としての過去を持つ、特異な存在だ。報告の遅れは、それ自体が“異変”と見なされる」
 「……承知しております」
 「では、何故だ?」
 その問いは、鋭い刃のようだった。サガの瞳が、わずかに光を宿す。
 「感情に迷いが生じたのか?」
 クロエは、呼吸が止まるのを感じた。反論しようと口を開くが、声が出ない。
 沈黙。
 その静寂の中、サガは一歩だけ距離を詰める。
 「クロエ。君は忠実な部下だ。だからこそ言っておく。“情”は任務を腐らせる。対象に同情を寄せた瞬間、諜報員はただの傍観者になる」
 クロエは唇を噛み、低く頭を垂れた。
 「……申し訳ありません。以後、私情を挟みません」
 サガはしばらく黙し、やがて背を向けた。
 「三日以内に最新の報告書を提出しろ。それができないなら、任を解く」
 その言葉を最後に、サガは静かに執務室を後にした。
 残されたクロエは、動くこともできず、冷たい石床に手をついて震えた。サガの言葉が、耳の奥で何度も反響していた。
 “情は任務を腐らせる”――あの冷ややかな声音が、心臓の奥まで沁み込んで離れない。

 教皇宮を出たクロエは、石畳を踏みしめながら、夜風に頬を打たれていた。聖域の夜は澄み切って美しいのに、胸の中は重く濁っている。
 (……どうすればいいの)
 任務を解かれたら、もう二度と、あの人の傍にはいられない。サガの信頼を失うことは、彼女にとって死に等しかった。
 彼の言葉を、声を、視線を、どんな形であれ受けることができる――それだけが、自分をここにつなぎとめている。
 けれど。
 脳裏に浮かぶのは、メリッサの笑顔だった。
 難しい資料を前に眉をひそめ、ふとした拍子に見せる無邪気な笑み。そして、それを隣で見守るレオンの穏やかな眼差し。
 (あの二人が……あんなふうに自然に笑い合う姿を、壊したくない)
 報告すれば、監視体制は強化される。
 メリッサが再び、聖域の枠に縛られてしまうかもしれない。彼女はようやく、普通の生活を取り戻し始めたというのに。
 クロエは立ち止まり、夜空を仰いだ。
 星々が散らばるその光景は、美しくも残酷だ。
 手を伸ばしても届かない光。サガへの想いも、きっと同じだ。
 (でも、私は――)
 サガの部下としての自分を選ぶか、それとも、メリッサの友人としての自分を選ぶか。
 どちらを選んでも、誰かを裏切ることになる。
 クロエは自室に戻り、机の上の報告書に手を伸ばした。白紙のページに触れたまま、しばらく動けない。
 あと三日。
 決断の時は、すぐそこまで迫っていた。

 翌朝。
 キャンパスの朝は、いつもより少しだけ賑やかだった。週明け特有のざわめきの中を、クロエは淡々と歩いていた。
 肩までの茶髪を風に揺らしながら、まるで何事もない顔で。
 けれど、心は波立っていた。
 昨夜、報告書の前で動けずにいた自分を思い出すたび、胸が締めつけられる。
 (……まだ、書けていない)
 彼女の足が止まったのは、いつもの中庭。
 そこには、ベンチに並んで座るメリッサとレオンの姿があった。
 二人の間に広げられたノート。
 難解な文献を前に、レオンがペンを走らせ、メリッサがそれを覗き込む。
 至って真面目な光景。けれど――ほんの少し、距離が近い。
 レオンが何かを指差し、メリッサが首を傾げる。
 その仕草に彼が小さく笑うと、メリッサも釣られるように笑った。
 柔らかく、穏やかな、春の光のような笑顔。
 クロエは胸の奥で、微かに息を呑んだ。
 (……やっぱり、違う)
 単なる勉強仲間――そう言い切るには、あまりにも優しい空気だった。
 メリッサの表情に宿るものは、警戒でも遠慮でもない。
 信頼。安心。そして……。

 クロエは目を伏せた。
 これが報告対象の“異変”なのだろうか。
 それとも、ただの青春の一場面として、見逃してやってもいいのだろうか。
 (サガ様なら、きっと見逃さない。けれど……)
 友人としてのクロエが、もう一人の自分の耳元で囁く。
 “あの笑顔を奪うような真似はしないで”
 報告すべき事実を記すためのペンが、心の中で重く沈む。
 任務と情の境界線が、今日も霞んでいく。


 昼下がりの講義室。
 授業が終わると同時に学生たちは一斉に立ち上がり、ざわめきが廊下へ流れ出していく。
 クロエは席に残ったまま、ゆっくりとスマートフォンを取り出した。
 画面には、見慣れた暗号化通信アプリの通知。送信者名は表示されない。だが、誰からのものかは分かっている。
 《進捗報告を。本日中に提出》
 短い一文だった。
 形式的な文面だが、その背後にいる人物の声が、頭の中ではっきりと響く。
 「……サガ様」
 その名を呟くだけで、胸の奥に重く沈むような感覚が広がる。
 彼の前では、どんな言葉も嘘にできない。かつて幾度となく諜報員として任務報告をしてきたが、今日は違った。
 報告の対象が、“友人”だから。
 クロエは視線を伏せ、机の上に手を組んだ。
 思考がぐるぐると巡る。
(報告すれば……あの二人の関係は、すぐに監視対象を超える扱いになる。サガ様の命令で、メリッサの自由は制限されるかもしれない。でも、報告を怠れば……任務放棄。諜報員失格)
 指が震える。スマートフォンの画面が僅かに揺れた。
 “サガ様の信頼を失いたくない”
 その想いは本心だ。
 彼に見出された時、どれほど嬉しかったかを、今でも鮮明に覚えている。
 どんなに冷たく見られても構わなかった。彼の傍で働けることが、誇りだった。
 けれど――。
 窓の外では、メリッサとレオンが中庭を並んで歩いていた。ほんの一瞬、笑い合う二人の姿が見えた。その光景を見て、クロエは思わずスマートフォンを握りしめる。
 (どうして……こんなに苦しいの)
 友を守りたい気持ちと、命令を果たさねばという義務感。その狭間で、クロエの心は軋むように揺れていた。
 結局その日の夕暮れまで、彼女は報告書の送信ボタンを押せなかった。
 送れば、何かが壊れる。
 だが送らなければ、もっと大切なものを失う。

 どちらを選んでも、痛みは避けられない――それだけは確かだった。
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