Eine Kleine Ⅱ
店を出たのは午後も遅くなった頃だ。いくつかの資料本の紙袋を提げた帰り道、二人は並んで信号待ちをしていた。大きな交差点の向こうには、静かにエンジンを唸らせる黒塗りの高級車。つややかなボディが街の雑踏から浮き上がるように際立っている。
「ねぇねぇ、あそこ、凄い車だね」
メリッサは自然にレオンの袖を引いた。地元では絶対に見かけない高級車に思わず声が弾む。
「どこかの社長さんとかが乗ってるのかな?」
「ああ、ほんとだ。そうかもしれないね。うちと同じ車だ」
「え? 同じ車?」
「そう、同じ車」
「え…カヴァリエくんて、もしかしてお坊ちゃま?」
ぽかんと口を開けたメリッサに、レオンは肩を竦めて笑った。
「お坊ちゃまって呼ばれるの、あんまり好きじゃないけど。お手伝いさんにはそう言われてるかな」
「うわぁ…お手伝いさんまで……」
メリッサは思わず感嘆の声を漏らした。
今日の彼の振る舞い――上品で穏やかで、どこか自然体な優雅さ――その理由が、ようやく腑に落ちた気がした。
彼は、生まれながらにそういう世界で育ってきたのだ。けれどそれを鼻にかけることもなく、飾らず接してくれる。
そのことが、何より彼の育ちを物語っていた。
そんなレオンが、今日のために少しおしゃれをしていることにも、メリッサは気づいていた。
シンプルながら質の良いシャツに、秋らしいチェックのジャケット。手入れされたスエードの靴。
彼によく似合っている。そして、今の時期なら、きっとシオンも同じような服を着てメリッサの前に現れるかもしれない。
信号が青に変わり、歩き出そうとしたメリッサの手を、レオンの大きな手が包む。メリッサは驚いて彼を見上げた。
「な…何?」
「……あのさ、メリッサって呼んでも……いいかな?」
メリッサは一瞬息を飲んだ。彼の真剣な声が、あまりにも似ていたのだ。シオンに。
「……うん」
断る理由はなかった。だが、それ以上に、あの声で名を呼んでほしかったのだ。レオンに失礼だと分かっている。それでも、揺れ動く心は止められなかった。
そんなメリッサの思いなど知らないレオンは、照れたように笑って、小さく「ありがとう」と囁いた。
秋の午後、二人の間に流れる空気は、心地よく、けれどどこか切なかった。
信号が青に変わり、人々が一斉に横断歩道を渡り始めるその時だった。
黒塗りの高級車の後部座席に座るヘスティアは、ふと交差点に見えた人影に違和感を覚え視線を向けた。青信号になったのに横断歩道を渡らない二人。
金髪にベージュのシャツ、落ち着いた色合いのチェックのジャケット。
その青年の隣には、栗色の髪の一際目を引く容貌の少女がいる。
(あれ、メリッサさん?)
無意識に姿勢を正し、目を凝らす。見間違いではなかった。あれは間違いなく、メリッサ。そして隣にいるのは……
(……まさか、レオン・カヴァリエ!?)
思わず息を呑む。
レオンの名前は既に報告で聞いていた。シオンと酷似した青年がメリッサの大学に在籍し、彼女と接点があると。
だが、まさかこれほどまでとは。
(……あれって、もはやシオンじゃない……)
見間違えるほどの容貌。仕草、空気感までもが似ている。偶然だとしても、あまりにも出来すぎている。
ヘスティアは慌てて隣に目を向けた。
シオンは、手元の書類に目を落とし、淡々と話を進めていた。
「こちらの案件ですが、ギリシャ支部側の動きが――」
ヘスティアは内心で叫んだ。
(お願い、見ないで。気付かないで)
今この瞬間に見てしまえば、彼の心がどれほど乱れるか、わかりきっていた。
メリッサとレオンが、まるで親しい恋人同士のように手を繋いでいる姿を――
「……ヘスティア様?」
シオンの声が、沈黙の中に落ちる。
視線が、彼女の静止の隙を縫って上がってしまった。
そして、窓の外に――見てしまった。
横断歩道を小走りで渡るメリッサと、彼女の手を引くシオンに瓜二つの青年を。
「………………」
僅かに動いたシオンの目元。しかしその奥に湛えられた感情は、まるで深い湖のように、誰にも読み取れなかった。
「どうかした?」
ヘスティアは何でもない風を装って訊ねた。
「……いえ。少し、見間違えたかと」
シオンの声は、極めて穏やかだった。だが、その声の温度がほんの少し低くなったことを、ヘスティアは聞き逃さなかった。
シオンは再び手元の書類に目を戻す。だが、先ほどまでの落ち着いた流れはどこか綻びを帯びていた。
ヘスティアは、何も言わず、ただ、心の中でため息をついた。
(やれやれ……これは、ますます面倒なことになってきたわね)
アテネの夕暮れは、街そのものがゆっくりと息をつくようだった。
石畳に落ちる街灯の光が、黄昏の風にゆらめく。
抱えた資料の重みよりも、今日一日を共に過ごした心地よさの方が、ずっと胸に残っていた。
「結構歩いたね」
レオンが笑いながら言う。
メリッサは前髪を指で直し、軽く頷いた。
「ね。久しぶりに、こんなに歩いた気がする」
「うん。けど、悪くなかったでしょ?こういう日も」
彼の声は穏やかで、街の喧騒の中でも不思議と耳に届く。ふと、道端のショーウィンドウに映る二人の姿が、並んで見えた。まるで、どこかの映画のワンシーンのようで、メリッサは一瞬、息を呑んだ。
そんな自分に気づいて、少しだけ視線を逸らす。
レオンは、そんな彼女の心の揺れを察してか、少し間を置いてから言った。
「ねぇ、このあと、夕飯どうする?」
「え?」
「もうこんな時間だし、せっかくだから……一緒にどうかなって」
その言い方が、あまりに自然で、断る理由が見つからなかった。いつもなら、“勘違いされたくない”とか、“そんなつもりじゃない”とか、そんな言葉が喉の奥で反射的に浮かぶのに。けれど、今日のレオンの横顔には、不思議な温度があった。
彼の穏やかさが、心の中の小さな防波堤を、少しずつ溶かしていくようだ。
「……うん。いいよ」
言葉にしてみると、それは驚くほど素直に出ていた。自分の声が少しだけ震えていたのを、彼は気づいたのだろうか。レオンは目を細め、柔らかく微笑んだ。
「よかった。じゃあ、僕のおすすめの店があるんだ。少し歩くけど、いい?」
「うん」
夕暮れの風が、二人の間をすり抜けていく。
信号の赤が彼の頬を柔らかく照らし、その横顔をいっそう印象的に見せていた。
まるで、誰かを思い出させるような光の角度だった。
アテネの中心街から少し離れた住宅街へと入ると、街の喧騒がすっと遠のいた。
石畳の通りの奥、白いアイアンの門扉の向こうに、柔らかな灯りを湛えた一軒家が佇んでいる。壁面を這う蔦が、秋の夕暮れを受けて紅に染まり、ゆっくりと風に揺れていた。
「……ここ?」
メリッサは思わず足を止めた。
建物から漂う静謐な空気に、胸がざわめく。
入口脇には、控えめにレストランの名が刻まれた真鍮のプレート。ガラス越しに見える暖色の光と、キャンドルの炎が、まるで別世界への入り口のように見えた。
「そう。よく来るんだ。落ち着いて話せるし、料理も美味しい」
レオンは門を押し開けながら、振り返って微笑んだ。その何気ない仕草さえ、どこか品がある。メリッサは慌てて口を開いた。
「ねぇ……あたし、こんな服装で大丈夫?ドレスコードとか、あるんじゃ――」
不安げに自分のブラウスとスカートを見下ろす。
レオンは笑って首を振った。
「心配しなくていいよ。ヤバい格好してたら、そもそも別の店にしてるって」
軽い調子なのに、不思議と嫌味がない。
その言葉の端々から、彼がいかに周囲を気づかう人間かが伝わる。それに――同じ顔、同じ声でも、シオンのそれとはまるで違う。
レオンの話し方はあくまで今に生きる青年のもので、その穏やかさの中に、若者らしい軽やかさがある。それなのに、ふとした瞬間の所作や目線に、古の聖域を思わせる影が差すのだった。
(ヤバいのは服装じゃなくて、あたしのハートだったよ……)
胸の内でそう呟いて、メリッサはため息を一つついた。
レオンが扉を開けると、柔らかな音楽とともに、ワインとバターの香りが流れ出す。
店内は思った以上に静かで、低く灯されたランプの明かりが、テーブルクロスや銀器の上に柔らかく反射している。
「いらっしゃいませ、カヴァリエ様」
メートル・ドテルが恭しく頭を下げる。
その一言で、メリッサの背すじはすっと伸びた。
“カヴァリエ様”。
やはり、レオンはそういう世界の人なのだ。
彼に案内されて、窓際の席に腰を下ろす。目の前には庭園が広がり、外の小径を照らすランタンの灯りが、秋の夜気の中で静かに揺らめいている。
白いクロスのかかったテーブルに腰を下ろした瞬間、メリッサは、すっかり圧倒されてしまった。
グラスの透きとおる輝き、磨き上げられたカトラリー、ふわりと鼻先をくすぐる香ばしいソースの香り。
どこを見ても、どこを触れても、自分の知っている“食事”とは別の次元にある気がする。
テーブルの上には、厚みのある革表紙のメニューが置かれた。恐る恐る開くと、流麗な筆記体で書かれた料理名が並んでいる。けれど、フランス語混じりの単語が多くて、どれが肉料理でどれが魚料理なのかすら判別できない。
(……なにこれ、呪文みたい)
焦る気持ちを悟られまいと、メリッサはメニューを持つ手に力を込めた。
しかし、ページをめくるごとに、目が泳いでいく。
レオンが向かいで控えめに笑った。
「困ってる?」
「え、あ……えっと……ちょっとだけ」
情けなく小声で答える。
「どれが何なのか、全然分からなくて」
「そうだよね。ここ、初めての人には分かりにくいと思う」
レオンはそう言って、自然な仕草でメリッサの手元のメニューを引き寄せた。指先が少し触れて、メリッサの心臓がどくんと跳ねる。
「魚が好き?それともお肉?」
「……どっちも」
「うん、じゃあ――」
レオンはページをめくりながら、軽やかに説明を添えていく。
「この“バルビュ・ロティ”はヒラメのロースト。バターソースが香ばしくてお勧めだよ。あと、こっちは仔羊。柔らかくて全然臭みがない。僕はこれが好き」
その声は穏やかで、聞いているだけで安心する。
シオンと似た声なのに、彼とは違う柔らかさがあった。
言葉の端々に漂う無邪気さと優しさが、まるで温かい風のように彼女の胸を撫でていく。
「じゃあ……カヴァリエくんが好きなやつにする」
「ほんとに?じゃあ僕も同じのにしようかな」
嬉しそうに笑うレオンの顔を見て、メリッサはふと頬が熱くなる。
(どうして……そんなふうに笑うの)
あの人と同じ顔で、そんなにも優しい表情を見せないでほしい。
見つめ返すたびに、記憶の中の彼が揺らいでいくようで怖かった。
けれどその一方で――
胸の奥が、不思議なくらい静かに満たされていくのを感じていた。
前菜の皿が運ばれてくると、ほんのり温かな香りが立ちのぼった。白い皿の上には、薄く切られた鴨のローストと彩り豊かな野菜が、まるで絵画のように並んでいる。ドレッシングの滑らかな艶めきさえも、夢のように美しかった。
ナプキンを膝の上に置こうとした瞬間、メリッサは戸惑って手を止める。
どう扱えばいいのか、わからない。
そのわずかな逡巡を、レオンは見逃さなかった。
「こうやって、二つ折りにして膝の上に置けばいいよ」
優しく言いながら、自分のナプキンを見せてくれる。その仕草は自然で、決して教え込むような押しつけがましさがない。
メリッサはほっと息をつき、彼の真似をしてそっとナプキンを置いた。
「ありがとう」
「どういたしまして」
レオンは笑う。その笑顔が、またあの人の笑みに重なる。
けれど、やはり違うのだ。
シオンの笑顔は、静謐で、どこか神聖なものを見ているような気持ちにさせる。
レオンのそれは、もっと親しみやすい温かさを帯びていた。
フォークを手に取ると、レオンが軽く声をかける。
「食べづらかったら、無理しないでね。ここ、ナイフが切れすぎるから気をつけて」
「そんなことある?」
思わず笑いながら答えたが、試しにナイフを入れると、驚くほど滑らかに肉が切れた。
「……ほんとだ。すごい」
「だろ?」
少年のように嬉しそうに頷くレオンの笑顔に、思わずメリッサも笑ってしまう。
ミネラルウォーターを飲む彼の手元も、同年代とは思えないくらい洗練されていた。
まるで長年の訓練を積んだ貴族の子息のような所作――それが、彼の家柄を雄弁に物語っている。
だが、その中に不思議な親しみがあった。
完璧さよりも、温もりを感じさせる動き。
シオンが神聖さの象徴なら、レオンは“人”としての美しさを持っていた。
気づけば、いつのまにか緊張は消えていた。
彼の笑い声に釣られて笑い、料理の感想を言い合い、他愛もない話をする。
大学のこと、授業のこと、好きな食べ物の話。
どれも特別な会話ではないのに、時間がゆっくり流れていくように感じられた。
デザートのプレートが運ばれてきた頃、店内の照明が少し落とされ、窓の外の街明かりが柔らかに差し込んだ。
メリッサはグラスの中の水を見つめながら、小さく息を吐いた。
こんな穏やかな夕食の時間を、最後に過ごしたのはいつだっただろう。
記憶の奥に浮かぶのは、もう遠い――家族団欒の夜だった。
不意に、視線を感じて顔を上げる。
レオンが、まっすぐにこちらを見ていた。
熱のこもった瞳。
けれどそこに、いやらしさはない。
ただ純粋に、目の前の彼女を見ていた。
「楽しいね、メリッサ」
名前を呼ばれ、胸がきゅっと鳴る。
「……うん。楽しい」
静かな声で答えながら、彼女は自分の心が少しずつ、温かい方へ傾いていくのを感じていた。
店を出たときには、街の灯りがすっかり夜色に溶け込んでいた。
白い壁面に蔦を這わせたレストランの外観は、昼間よりもいっそう幻想的で、まるで別世界の門を背にして立っているようだった。
「メリッサ、家まで送るよ」
会計を終えたレオンが、穏やかな笑みを浮かべながら言った。
「ううん、うち遠いから」
メリッサは慌てて手を振る。
「それなら尚更だよ。迎えの車を寄越してるから」
「えっ、迎えの車……?」
「うん。さっき見た高級車。うちにもあるって言ったでしょ」
「――あの車!?」
信号の向こうに見かけた、漆黒のボディの車が脳裏によみがえる。
まさか本当に、自分のためにそんな車が来ているなんて。
彼が手元の端末をちらと見ると、タイミングを見計らったように、レストランの前へ静かに黒塗りの車が滑り込んだ。
ヘッドライトが柔らかく路面を照らし、ドアマンが無言で一礼する。
「……いつの間に、こんな手配を……」
「君がデザートを悩んでる間かな」
レオンは肩をすくめて、少し照れくさそうに笑った。
その自然な所作や物腰の柔らかさが、あまりに洗練されていて――思わず息を呑む。
けれど、彼は決して驕った様子もなく、ただ当たり前のように気遣ってくれるのだ。
黒い車のドアが音もなく開かれる。夜気の中、微かに革の香りが漂う。
メリッサは一歩踏み出す前に、そっと彼を見上げた。
「……なんか、夢みたい」
「そう?僕にとっては、君と食事できたことの方が、ずっと夢みたいだよ」
その言葉に、胸がきゅうっと締めつけられる。同じ顔、同じ声――けれど、そこにあるのは別の温もり。
夜の街に流れるテールランプの赤が、二人の影を静かに照らしていた。
車内は、静寂という名の柔らかなヴェールに包まれていた。
運転席との間には薄い仕切りがあり、外の喧噪も殆ど聞こえない。革張りのシートに身体を預けると、上質な香りがふわりと漂う。
レオンは隣に座っていた。けれど、触れられるほどの距離にいるのに、決してそれ以上近づこうとはしなかった。
窓の外を流れる街灯の光が、彼の横顔を静かに照らしては過ぎていく。その表情は穏やかで、けれどどこか慎重さを帯びていた。無理に話しかけず、沈黙を壊すこともない。けれど沈黙が気まずいものではなく、安心できる静けさに変わっていくのが不思議だった。
優しい人だ。
そう思うたび、胸の奥に小さな痛みが走る。
もし彼が強引だったなら、きっとこんなふうに心を乱されなかった。けれど彼は、まるで壊れものを扱うように丁寧で、そっと距離を取ってくれる。
その優しさが、かえって怖いほどに沁みるのだ。
レオンはふと、視線を彼女に向けた。
街灯の明かりに照らされたメリッサの瞳が、どこか遠くを見ている。けれどその眼差しの奥に、彼は確かに自分の存在を感じ取っていた。
焦るな。
自分に言い聞かせるように、ゆっくりと息を吐く。
彼女はきっと、時間をかけて心を開く人だ。その扉をこじ開けるのではなく、いつか自然に、彼女のほうから鍵を渡してくれる日を待ちたい。
恋人になれたら――それは最高の幸せだろう。
けれど、今はただ、この静かな時間を共に過ごせることが何よりの喜びだった。
夜の街を滑る車の音が、どこか遠い子守唄のように響いていた。
車が速度を落とし、やがて細い路地の手前で静かに停車した。メリッサの家は、この先の坂を少し下った場所にある。車では入れない小道だ。
「ありがとう、ここで大丈夫」
メリッサがそう言うと、レオンは軽く頷いて運転手に目で合図を送った。
「……送ってくれてありがとう、カヴァリエくん。こんな遅くまで付き合わせちゃって」
そう言った瞬間、レオンがふっと笑った。
どこか照れたように、けれど優しく。
「ねえ、“カヴァリエくん”って、なんだか他人行儀じゃない?」
「え?」
「レオンでいいよ。友達でしょ?」
真っ直ぐな目でそう言われ、メリッサは思わず瞬きをした。
名前で――。
そんなふうに呼ぶことを許されるなんて、思ってもみなかった。
胸の奥が、ほんの少し温かく波打つ。
「……じゃあ、レオンくん」
そう呼ぶと、彼の表情がぱっと明るくなった。
「うん。そのほうがずっといい」
静かな笑みを浮かべるレオンを見ていると、シオンの面影が一瞬よぎった。でも、それは同じ顔をしているからではない。優しさの質が似ているのだ――相手を包み込むような、穏やかな光。
ドアノブに手をかけかけたところで、レオンの声が呼び止める。
「あ、メリッサ…もしよかったら……連絡先、交換しない?」
「れ、連絡先?」
「うん。課題のこともあるし、また資料の共有もしたいし。それに、困ったときに連絡できた方がいいでしょ?」
言葉自体は穏やかで、押しつけがましさもない。けれどその瞳の奥に宿る光には、ささやかな期待が混ざっていた。メリッサはそんな視線から逃げるようにスマートフォンを取り出し、レオンの方へ差し出した。
「じゃあ……お願いします」
「ありがとう」
レオンは受け取った彼女のスマートフォンを軽く操作し、自分の名前と番号を入力して返す。
その動作の一つ一つが、穏やかで丁寧だった。
「はい、登録完了……僕のも、いい?」
「あ、うん」
メリッサは指先で彼の名前を打ち込みながら、小さく呟いた。
「……レオン、くん」
彼が振り向く。
「ん?」
「えっと、こう呼んでいいんだよね?」
レオンは少し驚いたように目を見開いたあと、ふっと微笑んだ。
「うん。もちろん」
「……じゃあ、これで」
二人のスマートフォンが、ほぼ同時に通知音を鳴らす。登録が完了した瞬間、車内の空気が少し柔らかくなったように感じた。
「こうしてちゃんと繋がったの、嬉しいな」
メリッサは、何も言えずに頷いた。
胸の奥で、何かが静かに溶けていくような感覚。
夕暮れの光の中で、その一瞬のぬくもりが、どこまでも長く続くような気がした。
「また、大学で――いや、本の整理が終わったら、うちでも構わないよ。一緒にレポート進めよう」
「うん……ありがとう。助かる」
一瞬、言葉が詰まった。
本当は「また会えるのが楽しみ」と言いたかった。
けれど、それを口にする勇気はまだなかった。
「じゃあ……おやすみ、メリッサ」
名前を呼ばれた瞬間、胸の奥が熱く揺れた。
「おやすみ、レオンくん」
ドアを開け、夜風の冷たさを肌に受ける。
振り返ると、車の中でレオンが静かに手を振っていた。エンジンがかかり、車体がゆっくりと遠ざかっていく。
テールランプの赤い光が角を曲がって消えるまで、メリッサはその場に立ち尽くしていた。
胸の中に残るのは、優しい余韻と、名前を呼ばれた時の声。そして、どうしようもなく懐かしい響き。
――シオン様
心の奥で、もう一人の人の名を呼びかけてしまう自分が、少しだけ切なかった。
聖域に帰還したヘスティアは、執務室の椅子に凭れながら、レオン・カヴァリエという存在の不穏な輪郭に思いを巡らせていた。
(それにしても……彼の存在は、看過できないわ……)
姿形が似ている程度なら偶然の範疇。世界には似た顔の人間が三人いるというのは、よく知られた話だ。しかし、それがよりによって聖域の最高位に座す男と瓜二つ――しかも、元冥闘士の女性と親しくしているとなれば、話はまるで違ってくる。
聖域の存在は表向きには秘密裏に保たれている。だが、万が一にも教皇と酷似した人物が世間で注目されるような事態になれば、その均衡が崩れる恐れもある。何より――レオン自身が、ただの“一般人”でない可能性が浮上していた。
帰還後、ヘスティアはすぐにサガを呼び出した。書類を脇に置き、短く切り出す。
「レオン・カヴァリエの身元照会は?」
「はい。ただいま調査中ではありますが……」
サガは手元のファイルを開いて、慎重に言葉を選ぶ。
「家系を遡る必要があるとのことで、少々お時間をちょうだいしております」
「家系を?」
ヘスティアの声色が微かに変わった。その響きにサガは少しだけ眉をひそめ、答える。
「まだ確定情報ではありませんが、聖域との繋がりのある家系に属している可能性があると、調査班から報告がありました」
「……何ですって?」
ヘスティアは一瞬、言葉を失った。
(まさか……)
思考が急速にめぐる。彼女はシオンの過去を全て知っているわけではない。
前聖戦後、彼女自身が人間界を離れた時、シオンはまだ若く、信念に燃えた理想主義の若き教皇だった。あの後、彼がどのような人生を歩んだのか。誰と出会い、何を選び、何を残したのか――知る術はない。
だが、婚姻歴はなかったはず。
ヘスティアはそれだけは断言できた。公的には、彼は一度も誰かと結ばれたことなどない。しかし、“結ばれていない”ことと“何もなかった”ことは、決して同義ではない。
(……シオンの、血を引いている……?)
口には出さなかったが、その予感が胸を突く。
だとすれば――レオン・カヴァリエという青年の存在は、単なる偶然の産物ではなく、“必然”だったということになる。
ヘスティアはゆっくりと立ち上がった。
視線は遠く、教皇宮の先――シオンの部屋の方角を捉えていた。
「……彼にも確認しておく必要があるわね」
静かな声の裏に、女神としてではない、一人の年長者としての真摯な危惧が滲んでいた。
ヘスティアは、教皇宮の長い廊下をゆっくりと歩いていた。薄明の中、石造りの壁に灯る蝋燭がゆらりと影を揺らす。これから向かうのは、教皇の執務室――かつて自身が座していたその玉座の後ろに、静かに佇む男のもと。
シオンがまだ知らないのなら、この件は慎重に、しかし確実に進めねばならない。だが、もし彼が既に何らかの形で察しているのだとすれば――
「どこまで伏せるか……それが問題だわ」
呟いた声は、廊下に吸い込まれていった。
「入れ」
扉の前に立つと、内からシオンの声が応じた。
「失礼するわね」
静かに入室し、扉を閉める。シオンは書類に目を通していたが、ヘスティアが姿を見せると、すぐに手を止め、立ち上がって一礼する。
「ヘスティア様。わざわざこちらに?」
「ええ。少し、あなたに確認したいことがあって」
シオンの眉が、ぴくりと動いた。ヘスティアは立ったまま、彼の正面に進み、視線をまっすぐに重ねた。
「シオン。あなたは、かつて――子を成した可能性はある?」
シオンの顔から、明らかに色が引いた。
「……何を、仰っておられるのですか」
「レオン・カヴァリエという青年。メリッサさんと同じ大学に通っている。あなたに酷似しているの。容貌だけでなく、立ち居振る舞いや物腰までも。昼間、あなたも見たでしょ?メリッサさんと一緒に歩いていたレオン・カヴァリエを」
「……はい」
「しかも彼の家系を調べたところ、聖域と繋がりがある可能性が高いという報告を受けたわ」
「…………」
沈黙が落ちる。だがそれは、動揺からくる一瞬の空白ではなかった。シオンの眼差しは内面を深く探りながら、静かに過去を辿っている――そんな気配があった。
ヘスティアは続ける。
「婚姻歴がないのは知っている。でも、それが全てではないでしょう?私が人間界を離れていた長い時間、あなたには、私の知らない日々があった。その中で、誰かに心を許したことがあったのか――あるいは、何かを遺した可能性があるのか。それを、聞かせてほしいの」
シオンは目を閉じた。そして、ほんの僅か、肩を落とした。
「……過去に、心を寄せた女性がいたことは、否定しません」
「――!」
「しかし、子がいたとすれば……私は、それを知らなかった。もし仮にそうであったとしても、確証は……何一つ、持ち得ておりません」
その声には、長命者ゆえの深い悲哀と、どうしようもない悔恨が滲んでいた。
ヘスティアは、やがて頷いた。
「分かったわ。今はそれで充分。引き続き調査は進めるけれど、くれぐれも慎重に扱って。メリッサさんにも……不用意に知られることがないように」
「……はい」
視線を交わす二人。だがその間には、既に一つの確信に近い直感が芽生えていた。
――レオン・カヴァリエは、ただの青年ではない。
そしてそれが、どんな運命を呼び起こすのかを、彼らはまだ知らなかった。
「ねぇねぇ、あそこ、凄い車だね」
メリッサは自然にレオンの袖を引いた。地元では絶対に見かけない高級車に思わず声が弾む。
「どこかの社長さんとかが乗ってるのかな?」
「ああ、ほんとだ。そうかもしれないね。うちと同じ車だ」
「え? 同じ車?」
「そう、同じ車」
「え…カヴァリエくんて、もしかしてお坊ちゃま?」
ぽかんと口を開けたメリッサに、レオンは肩を竦めて笑った。
「お坊ちゃまって呼ばれるの、あんまり好きじゃないけど。お手伝いさんにはそう言われてるかな」
「うわぁ…お手伝いさんまで……」
メリッサは思わず感嘆の声を漏らした。
今日の彼の振る舞い――上品で穏やかで、どこか自然体な優雅さ――その理由が、ようやく腑に落ちた気がした。
彼は、生まれながらにそういう世界で育ってきたのだ。けれどそれを鼻にかけることもなく、飾らず接してくれる。
そのことが、何より彼の育ちを物語っていた。
そんなレオンが、今日のために少しおしゃれをしていることにも、メリッサは気づいていた。
シンプルながら質の良いシャツに、秋らしいチェックのジャケット。手入れされたスエードの靴。
彼によく似合っている。そして、今の時期なら、きっとシオンも同じような服を着てメリッサの前に現れるかもしれない。
信号が青に変わり、歩き出そうとしたメリッサの手を、レオンの大きな手が包む。メリッサは驚いて彼を見上げた。
「な…何?」
「……あのさ、メリッサって呼んでも……いいかな?」
メリッサは一瞬息を飲んだ。彼の真剣な声が、あまりにも似ていたのだ。シオンに。
「……うん」
断る理由はなかった。だが、それ以上に、あの声で名を呼んでほしかったのだ。レオンに失礼だと分かっている。それでも、揺れ動く心は止められなかった。
そんなメリッサの思いなど知らないレオンは、照れたように笑って、小さく「ありがとう」と囁いた。
秋の午後、二人の間に流れる空気は、心地よく、けれどどこか切なかった。
信号が青に変わり、人々が一斉に横断歩道を渡り始めるその時だった。
黒塗りの高級車の後部座席に座るヘスティアは、ふと交差点に見えた人影に違和感を覚え視線を向けた。青信号になったのに横断歩道を渡らない二人。
金髪にベージュのシャツ、落ち着いた色合いのチェックのジャケット。
その青年の隣には、栗色の髪の一際目を引く容貌の少女がいる。
(あれ、メリッサさん?)
無意識に姿勢を正し、目を凝らす。見間違いではなかった。あれは間違いなく、メリッサ。そして隣にいるのは……
(……まさか、レオン・カヴァリエ!?)
思わず息を呑む。
レオンの名前は既に報告で聞いていた。シオンと酷似した青年がメリッサの大学に在籍し、彼女と接点があると。
だが、まさかこれほどまでとは。
(……あれって、もはやシオンじゃない……)
見間違えるほどの容貌。仕草、空気感までもが似ている。偶然だとしても、あまりにも出来すぎている。
ヘスティアは慌てて隣に目を向けた。
シオンは、手元の書類に目を落とし、淡々と話を進めていた。
「こちらの案件ですが、ギリシャ支部側の動きが――」
ヘスティアは内心で叫んだ。
(お願い、見ないで。気付かないで)
今この瞬間に見てしまえば、彼の心がどれほど乱れるか、わかりきっていた。
メリッサとレオンが、まるで親しい恋人同士のように手を繋いでいる姿を――
「……ヘスティア様?」
シオンの声が、沈黙の中に落ちる。
視線が、彼女の静止の隙を縫って上がってしまった。
そして、窓の外に――見てしまった。
横断歩道を小走りで渡るメリッサと、彼女の手を引くシオンに瓜二つの青年を。
「………………」
僅かに動いたシオンの目元。しかしその奥に湛えられた感情は、まるで深い湖のように、誰にも読み取れなかった。
「どうかした?」
ヘスティアは何でもない風を装って訊ねた。
「……いえ。少し、見間違えたかと」
シオンの声は、極めて穏やかだった。だが、その声の温度がほんの少し低くなったことを、ヘスティアは聞き逃さなかった。
シオンは再び手元の書類に目を戻す。だが、先ほどまでの落ち着いた流れはどこか綻びを帯びていた。
ヘスティアは、何も言わず、ただ、心の中でため息をついた。
(やれやれ……これは、ますます面倒なことになってきたわね)
アテネの夕暮れは、街そのものがゆっくりと息をつくようだった。
石畳に落ちる街灯の光が、黄昏の風にゆらめく。
抱えた資料の重みよりも、今日一日を共に過ごした心地よさの方が、ずっと胸に残っていた。
「結構歩いたね」
レオンが笑いながら言う。
メリッサは前髪を指で直し、軽く頷いた。
「ね。久しぶりに、こんなに歩いた気がする」
「うん。けど、悪くなかったでしょ?こういう日も」
彼の声は穏やかで、街の喧騒の中でも不思議と耳に届く。ふと、道端のショーウィンドウに映る二人の姿が、並んで見えた。まるで、どこかの映画のワンシーンのようで、メリッサは一瞬、息を呑んだ。
そんな自分に気づいて、少しだけ視線を逸らす。
レオンは、そんな彼女の心の揺れを察してか、少し間を置いてから言った。
「ねぇ、このあと、夕飯どうする?」
「え?」
「もうこんな時間だし、せっかくだから……一緒にどうかなって」
その言い方が、あまりに自然で、断る理由が見つからなかった。いつもなら、“勘違いされたくない”とか、“そんなつもりじゃない”とか、そんな言葉が喉の奥で反射的に浮かぶのに。けれど、今日のレオンの横顔には、不思議な温度があった。
彼の穏やかさが、心の中の小さな防波堤を、少しずつ溶かしていくようだ。
「……うん。いいよ」
言葉にしてみると、それは驚くほど素直に出ていた。自分の声が少しだけ震えていたのを、彼は気づいたのだろうか。レオンは目を細め、柔らかく微笑んだ。
「よかった。じゃあ、僕のおすすめの店があるんだ。少し歩くけど、いい?」
「うん」
夕暮れの風が、二人の間をすり抜けていく。
信号の赤が彼の頬を柔らかく照らし、その横顔をいっそう印象的に見せていた。
まるで、誰かを思い出させるような光の角度だった。
アテネの中心街から少し離れた住宅街へと入ると、街の喧騒がすっと遠のいた。
石畳の通りの奥、白いアイアンの門扉の向こうに、柔らかな灯りを湛えた一軒家が佇んでいる。壁面を這う蔦が、秋の夕暮れを受けて紅に染まり、ゆっくりと風に揺れていた。
「……ここ?」
メリッサは思わず足を止めた。
建物から漂う静謐な空気に、胸がざわめく。
入口脇には、控えめにレストランの名が刻まれた真鍮のプレート。ガラス越しに見える暖色の光と、キャンドルの炎が、まるで別世界への入り口のように見えた。
「そう。よく来るんだ。落ち着いて話せるし、料理も美味しい」
レオンは門を押し開けながら、振り返って微笑んだ。その何気ない仕草さえ、どこか品がある。メリッサは慌てて口を開いた。
「ねぇ……あたし、こんな服装で大丈夫?ドレスコードとか、あるんじゃ――」
不安げに自分のブラウスとスカートを見下ろす。
レオンは笑って首を振った。
「心配しなくていいよ。ヤバい格好してたら、そもそも別の店にしてるって」
軽い調子なのに、不思議と嫌味がない。
その言葉の端々から、彼がいかに周囲を気づかう人間かが伝わる。それに――同じ顔、同じ声でも、シオンのそれとはまるで違う。
レオンの話し方はあくまで今に生きる青年のもので、その穏やかさの中に、若者らしい軽やかさがある。それなのに、ふとした瞬間の所作や目線に、古の聖域を思わせる影が差すのだった。
(ヤバいのは服装じゃなくて、あたしのハートだったよ……)
胸の内でそう呟いて、メリッサはため息を一つついた。
レオンが扉を開けると、柔らかな音楽とともに、ワインとバターの香りが流れ出す。
店内は思った以上に静かで、低く灯されたランプの明かりが、テーブルクロスや銀器の上に柔らかく反射している。
「いらっしゃいませ、カヴァリエ様」
メートル・ドテルが恭しく頭を下げる。
その一言で、メリッサの背すじはすっと伸びた。
“カヴァリエ様”。
やはり、レオンはそういう世界の人なのだ。
彼に案内されて、窓際の席に腰を下ろす。目の前には庭園が広がり、外の小径を照らすランタンの灯りが、秋の夜気の中で静かに揺らめいている。
白いクロスのかかったテーブルに腰を下ろした瞬間、メリッサは、すっかり圧倒されてしまった。
グラスの透きとおる輝き、磨き上げられたカトラリー、ふわりと鼻先をくすぐる香ばしいソースの香り。
どこを見ても、どこを触れても、自分の知っている“食事”とは別の次元にある気がする。
テーブルの上には、厚みのある革表紙のメニューが置かれた。恐る恐る開くと、流麗な筆記体で書かれた料理名が並んでいる。けれど、フランス語混じりの単語が多くて、どれが肉料理でどれが魚料理なのかすら判別できない。
(……なにこれ、呪文みたい)
焦る気持ちを悟られまいと、メリッサはメニューを持つ手に力を込めた。
しかし、ページをめくるごとに、目が泳いでいく。
レオンが向かいで控えめに笑った。
「困ってる?」
「え、あ……えっと……ちょっとだけ」
情けなく小声で答える。
「どれが何なのか、全然分からなくて」
「そうだよね。ここ、初めての人には分かりにくいと思う」
レオンはそう言って、自然な仕草でメリッサの手元のメニューを引き寄せた。指先が少し触れて、メリッサの心臓がどくんと跳ねる。
「魚が好き?それともお肉?」
「……どっちも」
「うん、じゃあ――」
レオンはページをめくりながら、軽やかに説明を添えていく。
「この“バルビュ・ロティ”はヒラメのロースト。バターソースが香ばしくてお勧めだよ。あと、こっちは仔羊。柔らかくて全然臭みがない。僕はこれが好き」
その声は穏やかで、聞いているだけで安心する。
シオンと似た声なのに、彼とは違う柔らかさがあった。
言葉の端々に漂う無邪気さと優しさが、まるで温かい風のように彼女の胸を撫でていく。
「じゃあ……カヴァリエくんが好きなやつにする」
「ほんとに?じゃあ僕も同じのにしようかな」
嬉しそうに笑うレオンの顔を見て、メリッサはふと頬が熱くなる。
(どうして……そんなふうに笑うの)
あの人と同じ顔で、そんなにも優しい表情を見せないでほしい。
見つめ返すたびに、記憶の中の彼が揺らいでいくようで怖かった。
けれどその一方で――
胸の奥が、不思議なくらい静かに満たされていくのを感じていた。
前菜の皿が運ばれてくると、ほんのり温かな香りが立ちのぼった。白い皿の上には、薄く切られた鴨のローストと彩り豊かな野菜が、まるで絵画のように並んでいる。ドレッシングの滑らかな艶めきさえも、夢のように美しかった。
ナプキンを膝の上に置こうとした瞬間、メリッサは戸惑って手を止める。
どう扱えばいいのか、わからない。
そのわずかな逡巡を、レオンは見逃さなかった。
「こうやって、二つ折りにして膝の上に置けばいいよ」
優しく言いながら、自分のナプキンを見せてくれる。その仕草は自然で、決して教え込むような押しつけがましさがない。
メリッサはほっと息をつき、彼の真似をしてそっとナプキンを置いた。
「ありがとう」
「どういたしまして」
レオンは笑う。その笑顔が、またあの人の笑みに重なる。
けれど、やはり違うのだ。
シオンの笑顔は、静謐で、どこか神聖なものを見ているような気持ちにさせる。
レオンのそれは、もっと親しみやすい温かさを帯びていた。
フォークを手に取ると、レオンが軽く声をかける。
「食べづらかったら、無理しないでね。ここ、ナイフが切れすぎるから気をつけて」
「そんなことある?」
思わず笑いながら答えたが、試しにナイフを入れると、驚くほど滑らかに肉が切れた。
「……ほんとだ。すごい」
「だろ?」
少年のように嬉しそうに頷くレオンの笑顔に、思わずメリッサも笑ってしまう。
ミネラルウォーターを飲む彼の手元も、同年代とは思えないくらい洗練されていた。
まるで長年の訓練を積んだ貴族の子息のような所作――それが、彼の家柄を雄弁に物語っている。
だが、その中に不思議な親しみがあった。
完璧さよりも、温もりを感じさせる動き。
シオンが神聖さの象徴なら、レオンは“人”としての美しさを持っていた。
気づけば、いつのまにか緊張は消えていた。
彼の笑い声に釣られて笑い、料理の感想を言い合い、他愛もない話をする。
大学のこと、授業のこと、好きな食べ物の話。
どれも特別な会話ではないのに、時間がゆっくり流れていくように感じられた。
デザートのプレートが運ばれてきた頃、店内の照明が少し落とされ、窓の外の街明かりが柔らかに差し込んだ。
メリッサはグラスの中の水を見つめながら、小さく息を吐いた。
こんな穏やかな夕食の時間を、最後に過ごしたのはいつだっただろう。
記憶の奥に浮かぶのは、もう遠い――家族団欒の夜だった。
不意に、視線を感じて顔を上げる。
レオンが、まっすぐにこちらを見ていた。
熱のこもった瞳。
けれどそこに、いやらしさはない。
ただ純粋に、目の前の彼女を見ていた。
「楽しいね、メリッサ」
名前を呼ばれ、胸がきゅっと鳴る。
「……うん。楽しい」
静かな声で答えながら、彼女は自分の心が少しずつ、温かい方へ傾いていくのを感じていた。
店を出たときには、街の灯りがすっかり夜色に溶け込んでいた。
白い壁面に蔦を這わせたレストランの外観は、昼間よりもいっそう幻想的で、まるで別世界の門を背にして立っているようだった。
「メリッサ、家まで送るよ」
会計を終えたレオンが、穏やかな笑みを浮かべながら言った。
「ううん、うち遠いから」
メリッサは慌てて手を振る。
「それなら尚更だよ。迎えの車を寄越してるから」
「えっ、迎えの車……?」
「うん。さっき見た高級車。うちにもあるって言ったでしょ」
「――あの車!?」
信号の向こうに見かけた、漆黒のボディの車が脳裏によみがえる。
まさか本当に、自分のためにそんな車が来ているなんて。
彼が手元の端末をちらと見ると、タイミングを見計らったように、レストランの前へ静かに黒塗りの車が滑り込んだ。
ヘッドライトが柔らかく路面を照らし、ドアマンが無言で一礼する。
「……いつの間に、こんな手配を……」
「君がデザートを悩んでる間かな」
レオンは肩をすくめて、少し照れくさそうに笑った。
その自然な所作や物腰の柔らかさが、あまりに洗練されていて――思わず息を呑む。
けれど、彼は決して驕った様子もなく、ただ当たり前のように気遣ってくれるのだ。
黒い車のドアが音もなく開かれる。夜気の中、微かに革の香りが漂う。
メリッサは一歩踏み出す前に、そっと彼を見上げた。
「……なんか、夢みたい」
「そう?僕にとっては、君と食事できたことの方が、ずっと夢みたいだよ」
その言葉に、胸がきゅうっと締めつけられる。同じ顔、同じ声――けれど、そこにあるのは別の温もり。
夜の街に流れるテールランプの赤が、二人の影を静かに照らしていた。
車内は、静寂という名の柔らかなヴェールに包まれていた。
運転席との間には薄い仕切りがあり、外の喧噪も殆ど聞こえない。革張りのシートに身体を預けると、上質な香りがふわりと漂う。
レオンは隣に座っていた。けれど、触れられるほどの距離にいるのに、決してそれ以上近づこうとはしなかった。
窓の外を流れる街灯の光が、彼の横顔を静かに照らしては過ぎていく。その表情は穏やかで、けれどどこか慎重さを帯びていた。無理に話しかけず、沈黙を壊すこともない。けれど沈黙が気まずいものではなく、安心できる静けさに変わっていくのが不思議だった。
優しい人だ。
そう思うたび、胸の奥に小さな痛みが走る。
もし彼が強引だったなら、きっとこんなふうに心を乱されなかった。けれど彼は、まるで壊れものを扱うように丁寧で、そっと距離を取ってくれる。
その優しさが、かえって怖いほどに沁みるのだ。
レオンはふと、視線を彼女に向けた。
街灯の明かりに照らされたメリッサの瞳が、どこか遠くを見ている。けれどその眼差しの奥に、彼は確かに自分の存在を感じ取っていた。
焦るな。
自分に言い聞かせるように、ゆっくりと息を吐く。
彼女はきっと、時間をかけて心を開く人だ。その扉をこじ開けるのではなく、いつか自然に、彼女のほうから鍵を渡してくれる日を待ちたい。
恋人になれたら――それは最高の幸せだろう。
けれど、今はただ、この静かな時間を共に過ごせることが何よりの喜びだった。
夜の街を滑る車の音が、どこか遠い子守唄のように響いていた。
車が速度を落とし、やがて細い路地の手前で静かに停車した。メリッサの家は、この先の坂を少し下った場所にある。車では入れない小道だ。
「ありがとう、ここで大丈夫」
メリッサがそう言うと、レオンは軽く頷いて運転手に目で合図を送った。
「……送ってくれてありがとう、カヴァリエくん。こんな遅くまで付き合わせちゃって」
そう言った瞬間、レオンがふっと笑った。
どこか照れたように、けれど優しく。
「ねえ、“カヴァリエくん”って、なんだか他人行儀じゃない?」
「え?」
「レオンでいいよ。友達でしょ?」
真っ直ぐな目でそう言われ、メリッサは思わず瞬きをした。
名前で――。
そんなふうに呼ぶことを許されるなんて、思ってもみなかった。
胸の奥が、ほんの少し温かく波打つ。
「……じゃあ、レオンくん」
そう呼ぶと、彼の表情がぱっと明るくなった。
「うん。そのほうがずっといい」
静かな笑みを浮かべるレオンを見ていると、シオンの面影が一瞬よぎった。でも、それは同じ顔をしているからではない。優しさの質が似ているのだ――相手を包み込むような、穏やかな光。
ドアノブに手をかけかけたところで、レオンの声が呼び止める。
「あ、メリッサ…もしよかったら……連絡先、交換しない?」
「れ、連絡先?」
「うん。課題のこともあるし、また資料の共有もしたいし。それに、困ったときに連絡できた方がいいでしょ?」
言葉自体は穏やかで、押しつけがましさもない。けれどその瞳の奥に宿る光には、ささやかな期待が混ざっていた。メリッサはそんな視線から逃げるようにスマートフォンを取り出し、レオンの方へ差し出した。
「じゃあ……お願いします」
「ありがとう」
レオンは受け取った彼女のスマートフォンを軽く操作し、自分の名前と番号を入力して返す。
その動作の一つ一つが、穏やかで丁寧だった。
「はい、登録完了……僕のも、いい?」
「あ、うん」
メリッサは指先で彼の名前を打ち込みながら、小さく呟いた。
「……レオン、くん」
彼が振り向く。
「ん?」
「えっと、こう呼んでいいんだよね?」
レオンは少し驚いたように目を見開いたあと、ふっと微笑んだ。
「うん。もちろん」
「……じゃあ、これで」
二人のスマートフォンが、ほぼ同時に通知音を鳴らす。登録が完了した瞬間、車内の空気が少し柔らかくなったように感じた。
「こうしてちゃんと繋がったの、嬉しいな」
メリッサは、何も言えずに頷いた。
胸の奥で、何かが静かに溶けていくような感覚。
夕暮れの光の中で、その一瞬のぬくもりが、どこまでも長く続くような気がした。
「また、大学で――いや、本の整理が終わったら、うちでも構わないよ。一緒にレポート進めよう」
「うん……ありがとう。助かる」
一瞬、言葉が詰まった。
本当は「また会えるのが楽しみ」と言いたかった。
けれど、それを口にする勇気はまだなかった。
「じゃあ……おやすみ、メリッサ」
名前を呼ばれた瞬間、胸の奥が熱く揺れた。
「おやすみ、レオンくん」
ドアを開け、夜風の冷たさを肌に受ける。
振り返ると、車の中でレオンが静かに手を振っていた。エンジンがかかり、車体がゆっくりと遠ざかっていく。
テールランプの赤い光が角を曲がって消えるまで、メリッサはその場に立ち尽くしていた。
胸の中に残るのは、優しい余韻と、名前を呼ばれた時の声。そして、どうしようもなく懐かしい響き。
――シオン様
心の奥で、もう一人の人の名を呼びかけてしまう自分が、少しだけ切なかった。
聖域に帰還したヘスティアは、執務室の椅子に凭れながら、レオン・カヴァリエという存在の不穏な輪郭に思いを巡らせていた。
(それにしても……彼の存在は、看過できないわ……)
姿形が似ている程度なら偶然の範疇。世界には似た顔の人間が三人いるというのは、よく知られた話だ。しかし、それがよりによって聖域の最高位に座す男と瓜二つ――しかも、元冥闘士の女性と親しくしているとなれば、話はまるで違ってくる。
聖域の存在は表向きには秘密裏に保たれている。だが、万が一にも教皇と酷似した人物が世間で注目されるような事態になれば、その均衡が崩れる恐れもある。何より――レオン自身が、ただの“一般人”でない可能性が浮上していた。
帰還後、ヘスティアはすぐにサガを呼び出した。書類を脇に置き、短く切り出す。
「レオン・カヴァリエの身元照会は?」
「はい。ただいま調査中ではありますが……」
サガは手元のファイルを開いて、慎重に言葉を選ぶ。
「家系を遡る必要があるとのことで、少々お時間をちょうだいしております」
「家系を?」
ヘスティアの声色が微かに変わった。その響きにサガは少しだけ眉をひそめ、答える。
「まだ確定情報ではありませんが、聖域との繋がりのある家系に属している可能性があると、調査班から報告がありました」
「……何ですって?」
ヘスティアは一瞬、言葉を失った。
(まさか……)
思考が急速にめぐる。彼女はシオンの過去を全て知っているわけではない。
前聖戦後、彼女自身が人間界を離れた時、シオンはまだ若く、信念に燃えた理想主義の若き教皇だった。あの後、彼がどのような人生を歩んだのか。誰と出会い、何を選び、何を残したのか――知る術はない。
だが、婚姻歴はなかったはず。
ヘスティアはそれだけは断言できた。公的には、彼は一度も誰かと結ばれたことなどない。しかし、“結ばれていない”ことと“何もなかった”ことは、決して同義ではない。
(……シオンの、血を引いている……?)
口には出さなかったが、その予感が胸を突く。
だとすれば――レオン・カヴァリエという青年の存在は、単なる偶然の産物ではなく、“必然”だったということになる。
ヘスティアはゆっくりと立ち上がった。
視線は遠く、教皇宮の先――シオンの部屋の方角を捉えていた。
「……彼にも確認しておく必要があるわね」
静かな声の裏に、女神としてではない、一人の年長者としての真摯な危惧が滲んでいた。
ヘスティアは、教皇宮の長い廊下をゆっくりと歩いていた。薄明の中、石造りの壁に灯る蝋燭がゆらりと影を揺らす。これから向かうのは、教皇の執務室――かつて自身が座していたその玉座の後ろに、静かに佇む男のもと。
シオンがまだ知らないのなら、この件は慎重に、しかし確実に進めねばならない。だが、もし彼が既に何らかの形で察しているのだとすれば――
「どこまで伏せるか……それが問題だわ」
呟いた声は、廊下に吸い込まれていった。
「入れ」
扉の前に立つと、内からシオンの声が応じた。
「失礼するわね」
静かに入室し、扉を閉める。シオンは書類に目を通していたが、ヘスティアが姿を見せると、すぐに手を止め、立ち上がって一礼する。
「ヘスティア様。わざわざこちらに?」
「ええ。少し、あなたに確認したいことがあって」
シオンの眉が、ぴくりと動いた。ヘスティアは立ったまま、彼の正面に進み、視線をまっすぐに重ねた。
「シオン。あなたは、かつて――子を成した可能性はある?」
シオンの顔から、明らかに色が引いた。
「……何を、仰っておられるのですか」
「レオン・カヴァリエという青年。メリッサさんと同じ大学に通っている。あなたに酷似しているの。容貌だけでなく、立ち居振る舞いや物腰までも。昼間、あなたも見たでしょ?メリッサさんと一緒に歩いていたレオン・カヴァリエを」
「……はい」
「しかも彼の家系を調べたところ、聖域と繋がりがある可能性が高いという報告を受けたわ」
「…………」
沈黙が落ちる。だがそれは、動揺からくる一瞬の空白ではなかった。シオンの眼差しは内面を深く探りながら、静かに過去を辿っている――そんな気配があった。
ヘスティアは続ける。
「婚姻歴がないのは知っている。でも、それが全てではないでしょう?私が人間界を離れていた長い時間、あなたには、私の知らない日々があった。その中で、誰かに心を許したことがあったのか――あるいは、何かを遺した可能性があるのか。それを、聞かせてほしいの」
シオンは目を閉じた。そして、ほんの僅か、肩を落とした。
「……過去に、心を寄せた女性がいたことは、否定しません」
「――!」
「しかし、子がいたとすれば……私は、それを知らなかった。もし仮にそうであったとしても、確証は……何一つ、持ち得ておりません」
その声には、長命者ゆえの深い悲哀と、どうしようもない悔恨が滲んでいた。
ヘスティアは、やがて頷いた。
「分かったわ。今はそれで充分。引き続き調査は進めるけれど、くれぐれも慎重に扱って。メリッサさんにも……不用意に知られることがないように」
「……はい」
視線を交わす二人。だがその間には、既に一つの確信に近い直感が芽生えていた。
――レオン・カヴァリエは、ただの青年ではない。
そしてそれが、どんな運命を呼び起こすのかを、彼らはまだ知らなかった。
