Eine Kleine Ⅱ
朝靄が教皇宮を包み、白金の光が静かに石畳を照らしていた。
聖域の一日は、鐘の音とともに始まる。だがこの朝、サガはその鐘が鳴るより早く、教皇執務室の前に立っていた。
扉の向こうから低く「入れ」と声がする。
重たい足取りで執務室へ入る。シオンが座っている執務机の前まで進むと、サガは深く頭を垂れ、封筒を両手で差し出した。
「急ぎの報告です。メリッサ嬢の通う大学で確認された人物について——」
シオンは静かに視線を上げた。
卓上の薄紙を透かす朝日が、彼の頬を柔らかく照らしている。
報告書を受け取ると、シオンは封を切り、一枚一枚目を通していった。その指が微かに震えていることに、サガは気づく。
「……これは…誰だ?」
薄く息を吐き、シオンの瞳がわずかに揺れる。
報告書の中ほどには、一枚の写真が貼られていた。
大学の広報ページに掲載されたという青年の顔。
金髪、紫の瞳、整った面差し。
まるで、若き日の己がそこに映っているかのようだった。
「レオン・カヴァリエ。薬学部薬学科一年生。メリッサ嬢の同級生です」
サガは必要最低限の説明だけを述べ、沈黙した。
シオンの表情を読み取ることが、今は無作法のように思えた。
「なぜ……私と、こんなにも似ているのだ」
その声は呟きに近かった。
己の存在が誰かの手で複製されたような、不気味な感覚。しかし、サガの報告書には作為の痕跡は見られないとある。彼はただの学生であり、善良で、学業にも真面目な青年だという。
「作為的な気配は今のところ確認できていません。現在、当該人物の調査を継続しております」
「そうか……」
シオンは報告書を閉じ、長い沈黙ののち、視線を宙に彷徨わせた。開け放たれた窓から吹き込む朝の風が、書類の端をめくる。
静寂が二人を包み込む。
「引き続き、情報収集をしてくれ」
低く、抑えた声。
「承知しました」
報告を終えると、サガは一礼して執務室を後にした。
扉が閉じられた瞬間、シオンは背凭れに身を沈め、額に手を当てた。
サガが退室し、一人きりになった執務室でシオンは深く息を吐いた。報告書を見返す。眉間に皺を寄せ、紙面を強くなぞる。
「私に……似ている。だが、私ではない」
声に出すことで、理性を保とうとする。冷静さを取り戻したい。だが、その努力は空しく、胸の奥に黒い感情が渦を巻いた。
「髪が短い。背丈も、少しだけ私より高いかもしれない。だが……私ではない。では、誰なのだ……」
それでも
――メリッサが、その男と並んでいる
その事実が、シオンの胸に鋭い刃を突き立てる。
嫌だ。
その感情が、はっきりと胸を貫いた。
メリッサが他の男に心を許すことが。
他の男の腕の中で微笑むことが。
他の男の腕の中で泣くことが。
他の男に恋されることが。
――そして、他の男を恋しく思うことが
「……認められない」
ポツリと漏れた声に、自分自身が驚いた。己の声がこんなにも低く、苦しげに震えるとは。
彼女の笑顔が、自分以外の男に向けられる未来。その未来を想像するだけで、心臓が締め付けられる。
「私は彼女を守りたいと思っていた。幸せでいてほしいと……相手が私でなくともと、そう思っていた……はずだ」
言葉にした瞬間、自らの偽善が砕けた。
違う。
私は、彼女を誰にも渡したくない。
彼女の瞳に映るのは、私でなければならない。
彼女の声で呼ばれる名は、私でなければならない。
彼女の隣に立つべきなのは、私でなければならない。
「……最低だな、私は」
そう呟いても、吐き出された独占欲と嫉妬は引っ込まない。それは、密かに隠し持っていた小さな炎が、今まさに息を吹き込まれたように燃え上がっている証。
だが。
(彼女を縛りつけたいのではない。ただ……他の者に、私と見紛うような顔で、彼女の心に触れてほしくないのだ)
それがどれほど身勝手な願いでも。
彼女が傷つくことだけは、どうしても、どうしても耐えられない。
報告書を閉じた手が、まだ微かに震えていた。
朝、窓の外では鳩がのんびりと屋根の上を歩いていた。
その日、メリッサの起床時刻はいつもより三十分も遅れていた。
どうしてアラームに気づかなかったのだろう。
昨夜、レポートを遅くまで直していたせいだろうか。
寝癖を直す余裕もなく、髪を一つに束ねて外へ出た。いつもより少し冷たい風が、頬を撫でていく。秋の朝の空気は透き通っていて、どこか寂しさのようなものを含んでいる。
駅までの道を早足で歩きながら、メリッサはふと背中に小さな違和感を覚えた。
リュックが、軽い。
けれど時間はない。
振り返ることもできず、彼女はそのまま電車に乗り込んだ。
大学に着いて、教室に入り、席に着く。
レジュメを出して、ノートを開いて、筆箱を置いて——その瞬間、ようやく気づいた。
「あっ……」
声にならない息が洩れた。
弁当。冷蔵庫の中だ。きっちり詰めて、包みまで用意してあったのに。
どうりで、リュックが軽いはずだ。
頭の中が一瞬、白くなる。けれど、隣のクロエやアリサに気づかれたくなくて、すぐに平静を装った。
ノートを開いたまま、ペンの先で同じ文字を何度もなぞっていた。
仕方ない。今日は学食に行くしかないか。
でも——。
彼女の胸の奥に、あの言葉が浮かぶ。
『一緒にランチしない?』と、何度も誘ってきたレオンの笑顔。何度も『また今度ね』と断ってきたのに、まさか、今日がその“今度”になろうとは。
小さく息をつきながら、窓の外を見た。
雲一つない青。穏やかで、どこまでも広がる秋の空。
こんな日には、何かが動き出す予感がする。
静かで、けれど確かに、運命の水面に小石が落ちたような——そんな朝だった。
昼休みのチャイムが鳴った瞬間、教室の空気が緩む。
椅子が引かれる音、笑い声、教科書を閉じるパタンという軽い音が重なって、朝から張りつめていた緊張がふっと溶けていく。
ざわめく教室の中、いつもと同じ昼休みの風景。ただ一つ違っていたのは、メリッサのリュックの中に、弁当が入っていないこと。
メリッサは、机の上の筆記具を整えながら小さく息を吐いた。
今日に限って弁当がない。
学食に行くには少し勇気がいる。いつも一人で中庭の隅に座って食べていたせいで、ざわざわとした人混みが苦手なのだ。
どうしようかと迷っていた、そのときだった。
「ドラコペトラさん」
その声を聞いた瞬間、胸の奥がかすかに跳ねた。
振り返ると、レオン・カヴァリエが立っていた。光をはね返す金髪に、菫色の瞳。穏やかな笑みをたたえたその姿は、やはり何度見ても心臓が痛くなるほど、シオンに似ていた。
「良かったら一緒にランチどうかな?」
いつものように、柔らかな声。
その声を聞いた瞬間、胸の奥が小さく跳ねた。
今日も断るつもりだった。いつも通り、『ごめんなさい』と微笑んで終わるはずだった。
でも、頭の中に浮かぶのは冷蔵庫の中でぽつんと取り残された弁当箱の姿。
今日は、断る理由がない。
「……うん、いいよ」
その一言が、思いのほか自然に口をついて出た。
「え!?」
「うそ…!?」
隣のクロエとアリサが、声を揃えてこちらを見る。メリッサはほのかに頬に染めて、俯いた。誘ったレオン本人さえも、目を丸くしている。
「ほんとに…?」
「うん……今日はお弁当、忘れちゃって」
言ってしまってから、少し恥ずかしくなった。
レオンの顔がぱっと明るくなり、嬉しそうに笑う。その笑顔が眩しくて、思わず視線を逸らした。
——やっぱり似ている。
金色の髪、紫の瞳。微笑むときの唇の形まで。
胸の奥で、記憶と現実が静かに重なり合っていく。
「じゃあ、行こうか。食堂、混む前に」
穏やかに微笑むその声は、驚くほど自然に心の壁をほどいてくる。けれど、同時に——メリッサの胸には、警戒の棘のようなものが刺さったままだった。
(どうしてこんなに、似てるの……)
彼の瞳を見るたび、胸の奥のどこかがざわめく。
懐かしいような、切ないような、けれど決して口に出してはいけない感情。そんな思考を押し隠すように、メリッサは静かに頷いた。
「うん」
立ち上がるメリッサを見て、クロエは何か言いたげに唇を噛みしめた。
アリサは目を丸くしたまま、「写真撮りたいくらいの瞬間だね」と冗談めかして笑う。
メリッサは苦笑しながら、少しだけ肩を竦めてみせた。
窓の外からは、秋の日差しが柔らかく差し込んでいる。木々の葉が黄金色に揺れ、その間を二人の影が並んで伸びていく。
ほんの些細なきっかけ。
でも、その一歩が、彼女の心の風景をゆっくりと変えていくことを、まだ誰も知らなかった。
食堂は昼の光でいっぱいだった。
高い天井から降り注ぐ陽射しがテーブルにまだら模様を落とし、談笑する学生たちの声が幾重にも重なって響く。
レオンはそんな喧騒の中でも、不思議と穏やかにそこにいた。落ち着いた所作でトレーを取り、列の途中でも先にオーダーを決めた後ろの学生に先を譲る。席を探すときさえ、メリッサの歩調に自然と合わせ、無理にリードするようなことはしない。
紳士的、という言葉が、これほど似合う人がいるだろうか。
「ここでいいかな?」
「うん」
小さな二人掛けのテーブルに向かい合って座ると、レオンはナプキンを丁寧に膝の上に置き、にこりと笑った。その微笑みは、眩しいというよりも温かい。陽だまりのような優しさで、まっすぐに人を包み込む。
(この顔の人って、みんなこんな感じ?)
胸の奥で、ふとそんな思いがよぎる。
もし、シオン様から“高貴さ”と“威厳”を取り除いて、代わりに“親しみやすさ”を加えたら、きっとこうなるのだろう。
そう思うと、どこか現実感がなくて、目の前のレオンが夢の中の誰かに見えてくる。
「ドラコペトラさんは、普段はお弁当なんだね」
「うん。少しでも節約したくて。……それに、自分で作るの、好きだから」
「すごいな。僕なんて、料理は全然。パスタを茹でるだけでも大騒ぎだよ」
「パスタなら、あんまり失敗しないでしょ?」
「うん、でも僕がやると、鍋が大変なことになるんだ」
レオンが少し照れたように笑うと、周囲のざわめきがふっと遠のいた。冗談めかした会話が、妙に新鮮に響く。久しく、誰かとこんな風に笑いながら食事をした記憶がなかった。
(……カヴァリエくんも、育ちが良いんだろうな)
仕草も言葉も穏やかで丁寧で、どこにも隙がない。そして、それは作られたものではなく、自然に身についている優しさのように思えた。
(で、なんであたし?)
レオンは、目の前の彼女以外、誰も見ていないようだった。
視線が合うたび、あたたかく笑いかけてくる。
その純粋さが、逆に怖い。
誰かに似ているという理由だけで、心が波立つ自分を、メリッサはどうにも持て余していた。
窓の外では、秋の光がオリーブの葉を透かしている。その穏やかな時間の中で、メリッサは静かにスプーンを置き、ほんの少し息をついた。
(この系統の顔に、あたしは弱いのかもしれない)
クロエは、ふとした瞬間に感じる違和感の正体をつかみかねていた。
レオン・カヴァリエという青年は、言葉づかいも穏やかで、笑うときの目尻の下がり方も自然だ。
けれど、その立ち居振る舞いの底には、日常の延長だけでは説明しきれないものが沈んでいる。
たとえば、人のために扉を押さえるとき。
彼は相手が完全に通り切るまで、決して手を離さない。その手には力が入りすぎることも、抜けることもなく、まるで「役目」を果たすことだけを身体が知っているかのようだった。
あるいは、席を譲るとき。
声をかける前に、ほんの一拍、呼吸が置かれる。その間は短いのに、妙に正確で、頭を下げる角度も、視線を外すタイミングも、どこか訓練されたものに見える。
どれも些細な所作に過ぎない。
だがそれらが積み重なると、レオンは“普通の大学生”という枠の中に、きれいには収まらなくなる。
本人が意識している様子もなく、誇示する気配もないからこそ、そのずれは静かで、否応なく目に残った。
(何がどう、とは言えないけど……聖域の空気に似てる)
そう思ってしまった瞬間、クロエは自分の思考を打ち消すように強く瞼を閉じた。
論理的であることを信条としている。勘や感覚に頼るのは好きではない。けれど、理屈では説明できない“気配”というものが、世の中には確かにある。そして、それが今、目の前の青年から微かに漂っている気がしてならなかった。
昼食後、彼女らと合流し中庭へ出る。
メリッサとレオンが並んで座るベンチのそばで、クロエは紙コップのコーヒーを手に立っていた。遠くから見れば、ただの友人グループ。けれど、クロエの胸の奥には小さな警鐘が鳴り続けていた。
(この距離感……早すぎない?)
レオンが笑うと、メリッサもつられて笑う。彼女が話しながら首を傾げると、レオンはほんの少し身体を寄せて耳を傾ける。
その仕草があまりに自然で、見ているこちらの心が落ち着かないほどだった。
まるで、以前からそうしてきた二人みたいに。
クロエは唇を噛んだ。
諜報員としての直感が、何かを告げようとしている。だが、メリッサを見つめるその横顔には、一片の打算も見えない。レオンは本当に優しいのだ。彼の言葉も、笑い方も、すべてがまっすぐで、偽りがない。
それでも思うのだ。
(おかしい。何かが、どこかが)
大学の人間には珍しい“規律”の匂い。
言葉の端々に滲む“伝統”の影。
どれも、かつて聖域で身につけた感覚が覚えているものだ。
クロエは視線を落とし、紙コップの縁を指でなぞった。
もし彼が“そちら側”の人間だとしたら。
もし彼が、知らず知らずのうちに、メリッサを再び聖域へと引き寄せているとしたら。
その考えを最後まで言葉にするのが怖かった。
風が吹いて、メリッサの髪がふわりと揺れる。レオンの視線が、優しくその動きを追っていた。
クロエは目を細める。
(……まさか、ね)
そう呟きながら、胸の中の不安が消えないままコーヒーを飲み干した。
レオンは、ずっとあの言葉の意味を考えていた。
「十八歳になったら、一人の娘に出会う。その子は世界の命運を握る。命を懸けて守りなさい」――そう祖父に言われ続けてきた。
まるでお伽話みたいなその言葉を、幼い頃は半分冗談だと思っていた。
けれど、入学式の日。
初めてメリッサ・ドラコペトラを見た瞬間、胸の奥で何かが強く鳴った。その音は、驚くほど鮮明で、怖いくらいに確信に満ちていた。
――ああ、この子だ。
なぜそう思ったのかは分からない。ただ、そうとしか言いようがなかった。まるで、心の奥にあらかじめ埋め込まれていた何かが、彼女を見た瞬間に目を覚ましたようだった。
それからのレオンは、できるだけ自然に、彼女に近づこうとした。
命を懸けて守る、なんて言われても、どうすればいいかなんて分からない。だからまずは、友達になろう。隣で笑っていてもらえるようにしよう。
それが一番自然な“守り方”だと思った。
ただ、戸惑ったことが一つだけある。
思っていた以上に、彼女は綺麗だった。
笑うと、胸の奥がくすぐったくなるような声を出すし、時々見せる寂しげな横顔は、なぜだか放っておけない。
(こんなに綺麗な子なら……命、懸けられるかもな)
冗談めかしてそう心の中で呟いたけれど、言葉の端には少しだけ真実が混じっていた。
祖父の言葉が運命だったのか、それとも偶然なのか。それはまだ分からない。ただ、彼女を守りたいという気持ちだけは、確かに本物だった。
この日を境に、レオンは以前よりも自然に、そして確実に、メリッサの傍にいるようになった。けれど、それは決して押しつけがましいものではなかった。
彼には彼の友人たちがいて、授業の合間には気さくに談笑し、誰かの相談にも耳を傾ける。その輪の中で、レオンは誰よりも穏やかで、他人の時間を尊重する人間だった。だからこそ、彼の優しさは、時にじんわりと沁みてくる。
昼休みの中庭、ふと視線を感じて顔を上げると、レオンがこちらを見ていた。目が合うと、彼は少しだけ目尻を緩めて、すぐに視線を逸らす。それだけのことなのに、胸の奥が少しだけ温かくなる。
たぶん、彼は気づいていない。
その目が、どれほどまっすぐで、どれほど熱を帯びているのかを。
最初の頃は、ただの偶然だと思っていた。
同じ授業を取っているのだから、何度か顔を合わせるのも当然。けれど、気づけばいつも彼がいる。
講義室の入り口で、何気なく待っているような姿。
図書館の窓際で、偶然隣の席に座るあの自然さ。
彼の存在は、少しずつ日常の景色の中に溶け込み、いつの間にか当たり前になっていた。けれど、彼の視線だけは、どこか特別だった。柔らかく、けれど確かに熱を帯びていて、まるで言葉にならない想いが、そこに滲んでいるようだった。
(……どうして、そんな目で見るの)
問いかけるように視線を返すと、彼は小さく笑った。何も言わないその笑みが、メリッサの心の奥で、静かに波紋を広げていく。
図書館の午後は、いつも静かで冷たい。
高い天窓から差し込む光は淡く、棚に並ぶ書籍の背表紙を鈍く照らしていた。
メリッサはページをめくりながら、ため息をひとつこぼした。
――これも、違う。
探している資料は、どの書架を巡っても見つからなかった。
講義のテーマは『古代薬学と神話体系の関係性』。参考文献の指定はあったが、大学の図書館には古いギリシャ語の資料しか残っていない。翻訳版はすべて貸出中だった。
仕方なく、別の資料で代用できないかと目を走らせていたとき。
「ドラコペトラさん?」
振り返ると、レオンが立っていた。
彼は両手に数冊の本を抱え、少し困ったような笑みを浮かべている。
「もしかして、君も例の課題の資料探してる?」
「うん……でも、全然なくて」
「僕も困ってたところ。あの講義、地獄だよね」
彼が笑うと、図書館の空気がほんの少し柔らぐ気がした。その笑顔が自然すぎて、まるで以前から知っている人のように錯覚してしまう。
二人並んで検索端末を覗き込み、在庫情報を確認する。『貸出中』の文字がずらりと並ぶ画面を目にした途端、同時にため息が出た。
「……こうなったら、もうアテネで探すしかないかも」
「アテネ?」
「うん。中心街の大型書店なら、専門書のコーナーがあるはずだよ。週末、行ってみようか?」
レオンの提案は軽やかで、その言葉に迷いはなかった。メリッサは一瞬だけ躊躇った。だが、他に手立てもない。
「……わかった。じゃあ、土曜の午後に」
「了解。待ち合わせは、午後1時にシンタグマ広場の噴水前で」
そう言って彼は、笑顔で親指を立てた。
小さな約束なのに、胸の奥がふわりと浮き上がるような感覚がした。
こんな気持ちは、いけないのに。
レオンは最後にもう一度「じゃあね」と言って、資料室の奥へ消えていった。その背中を見送りながら、メリッサはしばらくページの文字を追えなかった。
週末のアテネの街は、昼を過ぎてもざわめきを止めない。バスを降りた瞬間、メリッサは少しだけ息を詰めた。石畳の道を踏みしめるたびに、観光客の笑い声や露店の呼び声が耳を打つ。
ここへ来るのは、本当に久しぶりだった。中学生のときの校外学習以来だ。前は母の面会でアテネへ来ても、入院していた病院はシンタグマ広場とは方向が違っていた。わざわざこちらまで足を伸ばすことはしなかった。
他人のマイナスの感情に敏感なメリッサ。人の感情の移ろいに、神経を撫でられたくないのだ。
こうして人混みの中に身を置いていると、通りすがる人々の感情が、まるで色や温度を持つように、肌にまとわりついてくる。
苛立ち、倦怠、焦り、羨望。そうした雑多な感情が、冥闘士としての感応力を通して微弱な痛みとなって胸を刺す。
(人混み、やっぱり苦手だな)
メリッサは目線を落とし、ブラウスのリボンを指先で弄んだ。
広場の中央には、白い大理石の噴水が陽光を跳ね返している。観光客が写真を撮るたびに、噴水の水しぶきがきらめいて弾けた。
約束の時間まで、まだ十五分以上ある。
まだ待ち合わせ場所にレオンは到着していなかった。早く着いてしまったことを少し悔やみながら、噴水の縁に腰を下ろす。
小鳥の群れが近くの樹木にとまって、羽を休めていた。メリッサは鞄から水筒を取り出し、一口だけ喉を潤す。街の音が、遠くでゆらめく蜃気楼のようにぼやけていく。
(こんなに人が多い場所に来たの、いつぶりだろう…)
あの頃のあたしは、まだ何も知らなかった。
自分の身に起こることも、誰かの想いも、そして、背負わされる運命も。
胸の奥で淡く疼く記憶を振り払うように、メリッサは顔を上げた。その瞬間、雑踏の向こうに、金色の髪が陽に揺れた。
レオン・カヴァリエだった。
手を軽く振りながら、笑顔でこちらへ歩いてくる。
人混みの中でも彼だけが、奇妙に浮かび上がって見えた。彼の姿が近づくたび、周囲のざわめきが遠のいていくような錯覚を覚える。
(やっぱり、似てる)
胸の奥が静かに震えた。
シオンの面影を、彼の仕草の一つ一つに見つけてしまう。
それでも今日は、彼と向き合う日だ。学問のための、たった一度の外出のはず。
メリッサはそう自分に言い聞かせながら、微笑みを返した。
アテネの街路を歩くたび、午後の陽射しが白い石壁を反射して眩しいほどだった。書店街へ向かう途中、古い建物の壁面に咲く蔦の緑が風に揺れ、香ばしいコーヒーの匂いがカフェから漂ってくる。
「この通りを抜けた先に、大きな本屋があるんだ」
レオンがそう言って指さした先には、二階建ての歴史を感じさせる書店があった。
木製の扉を開けた瞬間、紙とインクの匂いがふわりと鼻をくすぐる。
メリッサは思わず深呼吸をした。
「落ち着くね、こういう匂い」
「わかる。僕も好きなんだ。静かで、ちゃんと時間が流れてる感じがする」
彼の声は穏やかで、騒がしい外の世界から一歩だけ切り離されたように響いた。
店内にはクラシックが小さく流れ、古書と新刊が入り混じった棚が迷路のように並んでいる。
二人は薬学と生物学関連の専門書コーナーへ向かった。課題に関連する文献は思っていた以上に多く、どれも有用そうだ。けれど、値札を見てメリッサの手が止まった。
「……高い」
思わず零したその呟きに、レオンが横から覗き込む。
「確かに、学生の財布にはきついね」
「この数だと、全部は無理かな。図書館に入ってるといいんだけど」
メリッサは計算するように眉を寄せた。
今月の生活費、光熱費、交際費……書籍代を加えるとギリギリだ。聖域が必要なお金は出してくれるというが、いちいち請求するのも手間だし、そもそも賠償金として多額の金銭を受け取っているのだ。余分に出してもらうのもあまり気分が良くない。それは、聖域の財政がどうというより、メリッサ自身の気持ちの問題だった。
元々質素な暮らしに慣れているが、必要経費となると心が揺れる。聖域に請求すべきか、悩む。
そんな彼女の表情を、レオンはしばらく黙って見ていた。そして、何かを思いついたように、静かに言った。
「じゃあ、こうしよう。僕がこのうちの半分を買う。ドラコペトラさんは残りの半分を。手分けして、後でまとめて読めばいい」
「……え?」
「レポート、一緒に作ろうよ。どうせ同じ課題なんだし」
メリッサは目を瞬かせた。
軽率な提案ではないことは、彼の真剣な眼差しから分かる。だが、迷いはあった。人に負担をかけるのは好きではない。
「でも、それじゃ……悪いよ」
「悪くないよ。勉強仲間になるだけさ」
柔らかな笑み。
それがあまりにも自然で、気取ったところがなくて、彼女の警戒を少しずつ解かしていく。
「……わかった。じゃあ、お言葉に甘えようかな」
「うん。いいチームになりそうだね」
そう言って、レオンは一冊の本を差し出した。
厚い学術書の表紙には金の箔押しで題名が刻まれている。
「これ、序文が面白いって教授が言ってたよ。先に読む?」
「ありがとう。……ほんとに、よく気がつくね」
「癖みたいなものかな。僕の祖父がよく言ってたんだ――“相手の手の届かないものを、自然に渡せる人間になれ”って」
メリッサは、ふっと笑みを漏らした。
不思議な人だ。優しいけれど、どこか古風で、まるで時代の向こうから来た人のよう。
やっぱり、似ている。
ふとした仕草に、目の奥に、彼女はあの人の面影を見た。
聖域の一日は、鐘の音とともに始まる。だがこの朝、サガはその鐘が鳴るより早く、教皇執務室の前に立っていた。
扉の向こうから低く「入れ」と声がする。
重たい足取りで執務室へ入る。シオンが座っている執務机の前まで進むと、サガは深く頭を垂れ、封筒を両手で差し出した。
「急ぎの報告です。メリッサ嬢の通う大学で確認された人物について——」
シオンは静かに視線を上げた。
卓上の薄紙を透かす朝日が、彼の頬を柔らかく照らしている。
報告書を受け取ると、シオンは封を切り、一枚一枚目を通していった。その指が微かに震えていることに、サガは気づく。
「……これは…誰だ?」
薄く息を吐き、シオンの瞳がわずかに揺れる。
報告書の中ほどには、一枚の写真が貼られていた。
大学の広報ページに掲載されたという青年の顔。
金髪、紫の瞳、整った面差し。
まるで、若き日の己がそこに映っているかのようだった。
「レオン・カヴァリエ。薬学部薬学科一年生。メリッサ嬢の同級生です」
サガは必要最低限の説明だけを述べ、沈黙した。
シオンの表情を読み取ることが、今は無作法のように思えた。
「なぜ……私と、こんなにも似ているのだ」
その声は呟きに近かった。
己の存在が誰かの手で複製されたような、不気味な感覚。しかし、サガの報告書には作為の痕跡は見られないとある。彼はただの学生であり、善良で、学業にも真面目な青年だという。
「作為的な気配は今のところ確認できていません。現在、当該人物の調査を継続しております」
「そうか……」
シオンは報告書を閉じ、長い沈黙ののち、視線を宙に彷徨わせた。開け放たれた窓から吹き込む朝の風が、書類の端をめくる。
静寂が二人を包み込む。
「引き続き、情報収集をしてくれ」
低く、抑えた声。
「承知しました」
報告を終えると、サガは一礼して執務室を後にした。
扉が閉じられた瞬間、シオンは背凭れに身を沈め、額に手を当てた。
サガが退室し、一人きりになった執務室でシオンは深く息を吐いた。報告書を見返す。眉間に皺を寄せ、紙面を強くなぞる。
「私に……似ている。だが、私ではない」
声に出すことで、理性を保とうとする。冷静さを取り戻したい。だが、その努力は空しく、胸の奥に黒い感情が渦を巻いた。
「髪が短い。背丈も、少しだけ私より高いかもしれない。だが……私ではない。では、誰なのだ……」
それでも
――メリッサが、その男と並んでいる
その事実が、シオンの胸に鋭い刃を突き立てる。
嫌だ。
その感情が、はっきりと胸を貫いた。
メリッサが他の男に心を許すことが。
他の男の腕の中で微笑むことが。
他の男の腕の中で泣くことが。
他の男に恋されることが。
――そして、他の男を恋しく思うことが
「……認められない」
ポツリと漏れた声に、自分自身が驚いた。己の声がこんなにも低く、苦しげに震えるとは。
彼女の笑顔が、自分以外の男に向けられる未来。その未来を想像するだけで、心臓が締め付けられる。
「私は彼女を守りたいと思っていた。幸せでいてほしいと……相手が私でなくともと、そう思っていた……はずだ」
言葉にした瞬間、自らの偽善が砕けた。
違う。
私は、彼女を誰にも渡したくない。
彼女の瞳に映るのは、私でなければならない。
彼女の声で呼ばれる名は、私でなければならない。
彼女の隣に立つべきなのは、私でなければならない。
「……最低だな、私は」
そう呟いても、吐き出された独占欲と嫉妬は引っ込まない。それは、密かに隠し持っていた小さな炎が、今まさに息を吹き込まれたように燃え上がっている証。
だが。
(彼女を縛りつけたいのではない。ただ……他の者に、私と見紛うような顔で、彼女の心に触れてほしくないのだ)
それがどれほど身勝手な願いでも。
彼女が傷つくことだけは、どうしても、どうしても耐えられない。
報告書を閉じた手が、まだ微かに震えていた。
朝、窓の外では鳩がのんびりと屋根の上を歩いていた。
その日、メリッサの起床時刻はいつもより三十分も遅れていた。
どうしてアラームに気づかなかったのだろう。
昨夜、レポートを遅くまで直していたせいだろうか。
寝癖を直す余裕もなく、髪を一つに束ねて外へ出た。いつもより少し冷たい風が、頬を撫でていく。秋の朝の空気は透き通っていて、どこか寂しさのようなものを含んでいる。
駅までの道を早足で歩きながら、メリッサはふと背中に小さな違和感を覚えた。
リュックが、軽い。
けれど時間はない。
振り返ることもできず、彼女はそのまま電車に乗り込んだ。
大学に着いて、教室に入り、席に着く。
レジュメを出して、ノートを開いて、筆箱を置いて——その瞬間、ようやく気づいた。
「あっ……」
声にならない息が洩れた。
弁当。冷蔵庫の中だ。きっちり詰めて、包みまで用意してあったのに。
どうりで、リュックが軽いはずだ。
頭の中が一瞬、白くなる。けれど、隣のクロエやアリサに気づかれたくなくて、すぐに平静を装った。
ノートを開いたまま、ペンの先で同じ文字を何度もなぞっていた。
仕方ない。今日は学食に行くしかないか。
でも——。
彼女の胸の奥に、あの言葉が浮かぶ。
『一緒にランチしない?』と、何度も誘ってきたレオンの笑顔。何度も『また今度ね』と断ってきたのに、まさか、今日がその“今度”になろうとは。
小さく息をつきながら、窓の外を見た。
雲一つない青。穏やかで、どこまでも広がる秋の空。
こんな日には、何かが動き出す予感がする。
静かで、けれど確かに、運命の水面に小石が落ちたような——そんな朝だった。
昼休みのチャイムが鳴った瞬間、教室の空気が緩む。
椅子が引かれる音、笑い声、教科書を閉じるパタンという軽い音が重なって、朝から張りつめていた緊張がふっと溶けていく。
ざわめく教室の中、いつもと同じ昼休みの風景。ただ一つ違っていたのは、メリッサのリュックの中に、弁当が入っていないこと。
メリッサは、机の上の筆記具を整えながら小さく息を吐いた。
今日に限って弁当がない。
学食に行くには少し勇気がいる。いつも一人で中庭の隅に座って食べていたせいで、ざわざわとした人混みが苦手なのだ。
どうしようかと迷っていた、そのときだった。
「ドラコペトラさん」
その声を聞いた瞬間、胸の奥がかすかに跳ねた。
振り返ると、レオン・カヴァリエが立っていた。光をはね返す金髪に、菫色の瞳。穏やかな笑みをたたえたその姿は、やはり何度見ても心臓が痛くなるほど、シオンに似ていた。
「良かったら一緒にランチどうかな?」
いつものように、柔らかな声。
その声を聞いた瞬間、胸の奥が小さく跳ねた。
今日も断るつもりだった。いつも通り、『ごめんなさい』と微笑んで終わるはずだった。
でも、頭の中に浮かぶのは冷蔵庫の中でぽつんと取り残された弁当箱の姿。
今日は、断る理由がない。
「……うん、いいよ」
その一言が、思いのほか自然に口をついて出た。
「え!?」
「うそ…!?」
隣のクロエとアリサが、声を揃えてこちらを見る。メリッサはほのかに頬に染めて、俯いた。誘ったレオン本人さえも、目を丸くしている。
「ほんとに…?」
「うん……今日はお弁当、忘れちゃって」
言ってしまってから、少し恥ずかしくなった。
レオンの顔がぱっと明るくなり、嬉しそうに笑う。その笑顔が眩しくて、思わず視線を逸らした。
——やっぱり似ている。
金色の髪、紫の瞳。微笑むときの唇の形まで。
胸の奥で、記憶と現実が静かに重なり合っていく。
「じゃあ、行こうか。食堂、混む前に」
穏やかに微笑むその声は、驚くほど自然に心の壁をほどいてくる。けれど、同時に——メリッサの胸には、警戒の棘のようなものが刺さったままだった。
(どうしてこんなに、似てるの……)
彼の瞳を見るたび、胸の奥のどこかがざわめく。
懐かしいような、切ないような、けれど決して口に出してはいけない感情。そんな思考を押し隠すように、メリッサは静かに頷いた。
「うん」
立ち上がるメリッサを見て、クロエは何か言いたげに唇を噛みしめた。
アリサは目を丸くしたまま、「写真撮りたいくらいの瞬間だね」と冗談めかして笑う。
メリッサは苦笑しながら、少しだけ肩を竦めてみせた。
窓の外からは、秋の日差しが柔らかく差し込んでいる。木々の葉が黄金色に揺れ、その間を二人の影が並んで伸びていく。
ほんの些細なきっかけ。
でも、その一歩が、彼女の心の風景をゆっくりと変えていくことを、まだ誰も知らなかった。
食堂は昼の光でいっぱいだった。
高い天井から降り注ぐ陽射しがテーブルにまだら模様を落とし、談笑する学生たちの声が幾重にも重なって響く。
レオンはそんな喧騒の中でも、不思議と穏やかにそこにいた。落ち着いた所作でトレーを取り、列の途中でも先にオーダーを決めた後ろの学生に先を譲る。席を探すときさえ、メリッサの歩調に自然と合わせ、無理にリードするようなことはしない。
紳士的、という言葉が、これほど似合う人がいるだろうか。
「ここでいいかな?」
「うん」
小さな二人掛けのテーブルに向かい合って座ると、レオンはナプキンを丁寧に膝の上に置き、にこりと笑った。その微笑みは、眩しいというよりも温かい。陽だまりのような優しさで、まっすぐに人を包み込む。
(この顔の人って、みんなこんな感じ?)
胸の奥で、ふとそんな思いがよぎる。
もし、シオン様から“高貴さ”と“威厳”を取り除いて、代わりに“親しみやすさ”を加えたら、きっとこうなるのだろう。
そう思うと、どこか現実感がなくて、目の前のレオンが夢の中の誰かに見えてくる。
「ドラコペトラさんは、普段はお弁当なんだね」
「うん。少しでも節約したくて。……それに、自分で作るの、好きだから」
「すごいな。僕なんて、料理は全然。パスタを茹でるだけでも大騒ぎだよ」
「パスタなら、あんまり失敗しないでしょ?」
「うん、でも僕がやると、鍋が大変なことになるんだ」
レオンが少し照れたように笑うと、周囲のざわめきがふっと遠のいた。冗談めかした会話が、妙に新鮮に響く。久しく、誰かとこんな風に笑いながら食事をした記憶がなかった。
(……カヴァリエくんも、育ちが良いんだろうな)
仕草も言葉も穏やかで丁寧で、どこにも隙がない。そして、それは作られたものではなく、自然に身についている優しさのように思えた。
(で、なんであたし?)
レオンは、目の前の彼女以外、誰も見ていないようだった。
視線が合うたび、あたたかく笑いかけてくる。
その純粋さが、逆に怖い。
誰かに似ているという理由だけで、心が波立つ自分を、メリッサはどうにも持て余していた。
窓の外では、秋の光がオリーブの葉を透かしている。その穏やかな時間の中で、メリッサは静かにスプーンを置き、ほんの少し息をついた。
(この系統の顔に、あたしは弱いのかもしれない)
クロエは、ふとした瞬間に感じる違和感の正体をつかみかねていた。
レオン・カヴァリエという青年は、言葉づかいも穏やかで、笑うときの目尻の下がり方も自然だ。
けれど、その立ち居振る舞いの底には、日常の延長だけでは説明しきれないものが沈んでいる。
たとえば、人のために扉を押さえるとき。
彼は相手が完全に通り切るまで、決して手を離さない。その手には力が入りすぎることも、抜けることもなく、まるで「役目」を果たすことだけを身体が知っているかのようだった。
あるいは、席を譲るとき。
声をかける前に、ほんの一拍、呼吸が置かれる。その間は短いのに、妙に正確で、頭を下げる角度も、視線を外すタイミングも、どこか訓練されたものに見える。
どれも些細な所作に過ぎない。
だがそれらが積み重なると、レオンは“普通の大学生”という枠の中に、きれいには収まらなくなる。
本人が意識している様子もなく、誇示する気配もないからこそ、そのずれは静かで、否応なく目に残った。
(何がどう、とは言えないけど……聖域の空気に似てる)
そう思ってしまった瞬間、クロエは自分の思考を打ち消すように強く瞼を閉じた。
論理的であることを信条としている。勘や感覚に頼るのは好きではない。けれど、理屈では説明できない“気配”というものが、世の中には確かにある。そして、それが今、目の前の青年から微かに漂っている気がしてならなかった。
昼食後、彼女らと合流し中庭へ出る。
メリッサとレオンが並んで座るベンチのそばで、クロエは紙コップのコーヒーを手に立っていた。遠くから見れば、ただの友人グループ。けれど、クロエの胸の奥には小さな警鐘が鳴り続けていた。
(この距離感……早すぎない?)
レオンが笑うと、メリッサもつられて笑う。彼女が話しながら首を傾げると、レオンはほんの少し身体を寄せて耳を傾ける。
その仕草があまりに自然で、見ているこちらの心が落ち着かないほどだった。
まるで、以前からそうしてきた二人みたいに。
クロエは唇を噛んだ。
諜報員としての直感が、何かを告げようとしている。だが、メリッサを見つめるその横顔には、一片の打算も見えない。レオンは本当に優しいのだ。彼の言葉も、笑い方も、すべてがまっすぐで、偽りがない。
それでも思うのだ。
(おかしい。何かが、どこかが)
大学の人間には珍しい“規律”の匂い。
言葉の端々に滲む“伝統”の影。
どれも、かつて聖域で身につけた感覚が覚えているものだ。
クロエは視線を落とし、紙コップの縁を指でなぞった。
もし彼が“そちら側”の人間だとしたら。
もし彼が、知らず知らずのうちに、メリッサを再び聖域へと引き寄せているとしたら。
その考えを最後まで言葉にするのが怖かった。
風が吹いて、メリッサの髪がふわりと揺れる。レオンの視線が、優しくその動きを追っていた。
クロエは目を細める。
(……まさか、ね)
そう呟きながら、胸の中の不安が消えないままコーヒーを飲み干した。
レオンは、ずっとあの言葉の意味を考えていた。
「十八歳になったら、一人の娘に出会う。その子は世界の命運を握る。命を懸けて守りなさい」――そう祖父に言われ続けてきた。
まるでお伽話みたいなその言葉を、幼い頃は半分冗談だと思っていた。
けれど、入学式の日。
初めてメリッサ・ドラコペトラを見た瞬間、胸の奥で何かが強く鳴った。その音は、驚くほど鮮明で、怖いくらいに確信に満ちていた。
――ああ、この子だ。
なぜそう思ったのかは分からない。ただ、そうとしか言いようがなかった。まるで、心の奥にあらかじめ埋め込まれていた何かが、彼女を見た瞬間に目を覚ましたようだった。
それからのレオンは、できるだけ自然に、彼女に近づこうとした。
命を懸けて守る、なんて言われても、どうすればいいかなんて分からない。だからまずは、友達になろう。隣で笑っていてもらえるようにしよう。
それが一番自然な“守り方”だと思った。
ただ、戸惑ったことが一つだけある。
思っていた以上に、彼女は綺麗だった。
笑うと、胸の奥がくすぐったくなるような声を出すし、時々見せる寂しげな横顔は、なぜだか放っておけない。
(こんなに綺麗な子なら……命、懸けられるかもな)
冗談めかしてそう心の中で呟いたけれど、言葉の端には少しだけ真実が混じっていた。
祖父の言葉が運命だったのか、それとも偶然なのか。それはまだ分からない。ただ、彼女を守りたいという気持ちだけは、確かに本物だった。
この日を境に、レオンは以前よりも自然に、そして確実に、メリッサの傍にいるようになった。けれど、それは決して押しつけがましいものではなかった。
彼には彼の友人たちがいて、授業の合間には気さくに談笑し、誰かの相談にも耳を傾ける。その輪の中で、レオンは誰よりも穏やかで、他人の時間を尊重する人間だった。だからこそ、彼の優しさは、時にじんわりと沁みてくる。
昼休みの中庭、ふと視線を感じて顔を上げると、レオンがこちらを見ていた。目が合うと、彼は少しだけ目尻を緩めて、すぐに視線を逸らす。それだけのことなのに、胸の奥が少しだけ温かくなる。
たぶん、彼は気づいていない。
その目が、どれほどまっすぐで、どれほど熱を帯びているのかを。
最初の頃は、ただの偶然だと思っていた。
同じ授業を取っているのだから、何度か顔を合わせるのも当然。けれど、気づけばいつも彼がいる。
講義室の入り口で、何気なく待っているような姿。
図書館の窓際で、偶然隣の席に座るあの自然さ。
彼の存在は、少しずつ日常の景色の中に溶け込み、いつの間にか当たり前になっていた。けれど、彼の視線だけは、どこか特別だった。柔らかく、けれど確かに熱を帯びていて、まるで言葉にならない想いが、そこに滲んでいるようだった。
(……どうして、そんな目で見るの)
問いかけるように視線を返すと、彼は小さく笑った。何も言わないその笑みが、メリッサの心の奥で、静かに波紋を広げていく。
図書館の午後は、いつも静かで冷たい。
高い天窓から差し込む光は淡く、棚に並ぶ書籍の背表紙を鈍く照らしていた。
メリッサはページをめくりながら、ため息をひとつこぼした。
――これも、違う。
探している資料は、どの書架を巡っても見つからなかった。
講義のテーマは『古代薬学と神話体系の関係性』。参考文献の指定はあったが、大学の図書館には古いギリシャ語の資料しか残っていない。翻訳版はすべて貸出中だった。
仕方なく、別の資料で代用できないかと目を走らせていたとき。
「ドラコペトラさん?」
振り返ると、レオンが立っていた。
彼は両手に数冊の本を抱え、少し困ったような笑みを浮かべている。
「もしかして、君も例の課題の資料探してる?」
「うん……でも、全然なくて」
「僕も困ってたところ。あの講義、地獄だよね」
彼が笑うと、図書館の空気がほんの少し柔らぐ気がした。その笑顔が自然すぎて、まるで以前から知っている人のように錯覚してしまう。
二人並んで検索端末を覗き込み、在庫情報を確認する。『貸出中』の文字がずらりと並ぶ画面を目にした途端、同時にため息が出た。
「……こうなったら、もうアテネで探すしかないかも」
「アテネ?」
「うん。中心街の大型書店なら、専門書のコーナーがあるはずだよ。週末、行ってみようか?」
レオンの提案は軽やかで、その言葉に迷いはなかった。メリッサは一瞬だけ躊躇った。だが、他に手立てもない。
「……わかった。じゃあ、土曜の午後に」
「了解。待ち合わせは、午後1時にシンタグマ広場の噴水前で」
そう言って彼は、笑顔で親指を立てた。
小さな約束なのに、胸の奥がふわりと浮き上がるような感覚がした。
こんな気持ちは、いけないのに。
レオンは最後にもう一度「じゃあね」と言って、資料室の奥へ消えていった。その背中を見送りながら、メリッサはしばらくページの文字を追えなかった。
週末のアテネの街は、昼を過ぎてもざわめきを止めない。バスを降りた瞬間、メリッサは少しだけ息を詰めた。石畳の道を踏みしめるたびに、観光客の笑い声や露店の呼び声が耳を打つ。
ここへ来るのは、本当に久しぶりだった。中学生のときの校外学習以来だ。前は母の面会でアテネへ来ても、入院していた病院はシンタグマ広場とは方向が違っていた。わざわざこちらまで足を伸ばすことはしなかった。
他人のマイナスの感情に敏感なメリッサ。人の感情の移ろいに、神経を撫でられたくないのだ。
こうして人混みの中に身を置いていると、通りすがる人々の感情が、まるで色や温度を持つように、肌にまとわりついてくる。
苛立ち、倦怠、焦り、羨望。そうした雑多な感情が、冥闘士としての感応力を通して微弱な痛みとなって胸を刺す。
(人混み、やっぱり苦手だな)
メリッサは目線を落とし、ブラウスのリボンを指先で弄んだ。
広場の中央には、白い大理石の噴水が陽光を跳ね返している。観光客が写真を撮るたびに、噴水の水しぶきがきらめいて弾けた。
約束の時間まで、まだ十五分以上ある。
まだ待ち合わせ場所にレオンは到着していなかった。早く着いてしまったことを少し悔やみながら、噴水の縁に腰を下ろす。
小鳥の群れが近くの樹木にとまって、羽を休めていた。メリッサは鞄から水筒を取り出し、一口だけ喉を潤す。街の音が、遠くでゆらめく蜃気楼のようにぼやけていく。
(こんなに人が多い場所に来たの、いつぶりだろう…)
あの頃のあたしは、まだ何も知らなかった。
自分の身に起こることも、誰かの想いも、そして、背負わされる運命も。
胸の奥で淡く疼く記憶を振り払うように、メリッサは顔を上げた。その瞬間、雑踏の向こうに、金色の髪が陽に揺れた。
レオン・カヴァリエだった。
手を軽く振りながら、笑顔でこちらへ歩いてくる。
人混みの中でも彼だけが、奇妙に浮かび上がって見えた。彼の姿が近づくたび、周囲のざわめきが遠のいていくような錯覚を覚える。
(やっぱり、似てる)
胸の奥が静かに震えた。
シオンの面影を、彼の仕草の一つ一つに見つけてしまう。
それでも今日は、彼と向き合う日だ。学問のための、たった一度の外出のはず。
メリッサはそう自分に言い聞かせながら、微笑みを返した。
アテネの街路を歩くたび、午後の陽射しが白い石壁を反射して眩しいほどだった。書店街へ向かう途中、古い建物の壁面に咲く蔦の緑が風に揺れ、香ばしいコーヒーの匂いがカフェから漂ってくる。
「この通りを抜けた先に、大きな本屋があるんだ」
レオンがそう言って指さした先には、二階建ての歴史を感じさせる書店があった。
木製の扉を開けた瞬間、紙とインクの匂いがふわりと鼻をくすぐる。
メリッサは思わず深呼吸をした。
「落ち着くね、こういう匂い」
「わかる。僕も好きなんだ。静かで、ちゃんと時間が流れてる感じがする」
彼の声は穏やかで、騒がしい外の世界から一歩だけ切り離されたように響いた。
店内にはクラシックが小さく流れ、古書と新刊が入り混じった棚が迷路のように並んでいる。
二人は薬学と生物学関連の専門書コーナーへ向かった。課題に関連する文献は思っていた以上に多く、どれも有用そうだ。けれど、値札を見てメリッサの手が止まった。
「……高い」
思わず零したその呟きに、レオンが横から覗き込む。
「確かに、学生の財布にはきついね」
「この数だと、全部は無理かな。図書館に入ってるといいんだけど」
メリッサは計算するように眉を寄せた。
今月の生活費、光熱費、交際費……書籍代を加えるとギリギリだ。聖域が必要なお金は出してくれるというが、いちいち請求するのも手間だし、そもそも賠償金として多額の金銭を受け取っているのだ。余分に出してもらうのもあまり気分が良くない。それは、聖域の財政がどうというより、メリッサ自身の気持ちの問題だった。
元々質素な暮らしに慣れているが、必要経費となると心が揺れる。聖域に請求すべきか、悩む。
そんな彼女の表情を、レオンはしばらく黙って見ていた。そして、何かを思いついたように、静かに言った。
「じゃあ、こうしよう。僕がこのうちの半分を買う。ドラコペトラさんは残りの半分を。手分けして、後でまとめて読めばいい」
「……え?」
「レポート、一緒に作ろうよ。どうせ同じ課題なんだし」
メリッサは目を瞬かせた。
軽率な提案ではないことは、彼の真剣な眼差しから分かる。だが、迷いはあった。人に負担をかけるのは好きではない。
「でも、それじゃ……悪いよ」
「悪くないよ。勉強仲間になるだけさ」
柔らかな笑み。
それがあまりにも自然で、気取ったところがなくて、彼女の警戒を少しずつ解かしていく。
「……わかった。じゃあ、お言葉に甘えようかな」
「うん。いいチームになりそうだね」
そう言って、レオンは一冊の本を差し出した。
厚い学術書の表紙には金の箔押しで題名が刻まれている。
「これ、序文が面白いって教授が言ってたよ。先に読む?」
「ありがとう。……ほんとに、よく気がつくね」
「癖みたいなものかな。僕の祖父がよく言ってたんだ――“相手の手の届かないものを、自然に渡せる人間になれ”って」
メリッサは、ふっと笑みを漏らした。
不思議な人だ。優しいけれど、どこか古風で、まるで時代の向こうから来た人のよう。
やっぱり、似ている。
ふとした仕草に、目の奥に、彼女はあの人の面影を見た。
