Eine Kleine Ⅱ

 レオン・カヴァリエ。
 その名前を初めて耳にしたとき、私はどこか胸の奥がざわつくのを感じた。
 彼の立ち居振る舞いは、どこまでも穏やかで、品がある。けれど、ただの学生というには――少し、洗練されすぎている気がした。
 “カヴァリエ”という響き。
 ギリシャではあまり聞かない姓だ。どちらかといえばイタリア語圏の匂いがする。
 確かめようと、週末に父にそれとなく尋ねてみた。
 実業家として多くの人脈を持つ父なら、何かしら知っているはずだと思ったのだ。
 案の定、父はその名を知っていた。
 「カヴァリエ家か。あそこは由緒ある一族だよ。数世紀前から欧州各地で貿易を手がけていて、今もグループ企業を複数抱えている。国内にも関連会社がいくつかあるよ」
 思わず息をのむ。
 由緒ある血筋――それは、聖域に何らかの形で関与していても不思議ではない。
 実際、過去に外部支援の名目で寄付や資本提供を行った家は少なくない。だが、真相を確かめる術を私は持たない。サガ様に報告すれば調査は可能だろうが、それが必要な案件かどうか、まだ判断できなかった。
 彼に邪悪な小宇宙は感じない。
 むしろ、清らかで透明な気配すらある。
 それなのに、どこか引っかかる。
 その違和感を拭えないまま、私は次第に、彼を観察するようになっていた。
 メリッサと話すときの、柔らかな声。
 誰に対しても分け隔てない態度。
 けれど、ふとした瞬間に見せる沈黙。
 あの空白のような間が、気になって仕方がなかった。
 報告は必要かもしれない。軽いものでも構わない。ただ経過として。
 そう思って、私はスマートフォンを手に取る。だが、すぐに指が止まった。
 画像を添えるべきか。顔を知らねば、聖域の情報部が照会できないだろう。けれど、盗撮のような真似はしたくなかった。たとえ任務であっても、友人の信頼を裏切るような行為は好きではない。
 「……自然な形、ね」
 小さく呟いて、私は食堂の窓から外を見た。ちょうど中庭を歩く学生たちの姿が見える。その中に、明るい髪が風に揺れるのが見えた。レオンだ。
 彼の視線の先には、いつもと同じように、木陰のベンチで弁当を広げるメリッサの姿がある。
 彼は距離を取り、彼女の静けさを乱さないように座る。その慎ましさすら、計算されたもののように見えるのは、私の職業病だろうか。
 自然な写真――例えばサークルの集合写真や授業風景の記録。そうした機会を装えば、無理なく撮れるはずだ。
 カメラアプリを閉じ、私は心の中で小さく溜息をついた。
 優しげな青年。その微笑の裏に、何が潜んでいるのか。この国に生まれ、この大学で過ごしていれば、彼のような人間がいてもおかしくない。けれど、私の本能は、それだけでは済まされないと告げている。

 午後の講義のチャイムが鳴る。
 私はペンを手に取り、黒板を見つめながら、心の中で一つの決意を固めた。
 レオン・カヴァリエ。
 報告対象として記録することに決めた。『観察継続』の項目にチェックを入れる手が、何となく重たい気がした。

 レオンの写真入手の好機は、思いがけず訪れた。
 大学の広報課が、公式ホームページの特集企画として『新入生の声』を掲載するという。
 取材対象に選ばれた数人の中に、レオン・カヴァリエの名があった。
 理由は明白だ。
 整った容姿に、穏やかな物腰。青空の下に立てば、それだけで絵になる。広報担当が彼を選んだのも納得だった。
 私にも打診があったが、丁重にお断りした。誉れよりも面倒臭さが勝ってしまったのだ。その代わりに、別の女子学生が取材を受けることになった。
 撮影現場には学生が自由に出入りできる。
 これほど自然に接近できる機会は、そうそうない。
 私は、肩に掛けた鞄の中のスマートフォンを確かめ、静かに息を整えた。

 撮影は午後の中庭で行われていた。
 秋の陽射しは柔らかく、黄金色のプラタナスの葉が風に揺れている。
 空は高く澄み渡り、地中海特有の乾いた風が肌を撫でた。
 レオン・カヴァリエはベージュのジャケットに白いシャツ、落ち着いたネイビーのパンツという装いだった。
 カメラマンに促されるまま、ベンチに腰掛け、静かに笑みを向けている。
 光を受けた金髪が淡く輝き、横顔の輪郭を一層際立たせていた。本当に、整った顔立ち。だが、彼の髪や瞳の色は異質でしかなかった。
 父がカヴァリエ家の事を教えてくれた時、私は同級生にカヴァリエ家の子息と思われる男子がいる事を伝えたのだ。そうしたら、父は書斎から小難しい経済誌を持ってきて、「この人がカヴァリエ家の現当主だよ。もしかしたら、そのレオン君のお父上かもしれないな」と、見せてくれたのだ。
 私は驚いた。
 カヴァリエ家の当主は、黒髪と濃い茶色の瞳の持ち主だったのだ。
 この人が親なら、あの色味が産まれてくることは有り得ない。例え母親が金髪に紫色の瞳だったとしてもだ。顔立ちも、種違いなのではないかと思うほど、似ていなかった。母親似の線も捨てられないが、とにかく、私には、彼がカヴァリエ氏の子息だとは信じ難かった。

「ねぇ、あれ、広報の撮影よね?」
 私は、そっとアリサに声をかけた。
「そうそう。うわぁ、レオンくん、やっぱりカメラ慣れしてる〜!あんなの、SNSでバズるに決まってるよ」
 アリサは半ば冗談めかして言いながら、スマートフォンを取り出した。
「ちょっと記念に撮っちゃおうかな。クロエも撮る?」
「ええ、せっかくだし」
 私は笑って応じ、スマートフォンを構えた。
 あくまで“野次馬の同級生”を装いながら、レオンの顔をフレームの端に収める。
 シャッター音が小さく響いた。画面を確認するまでもない。――撮れた。
 それは任務のための一枚にすぎないはずなのに、胸の奥がざわめく。
 風のせいか、身震いしてしまった。
「クロエ?どうしたの、寒い?」
「……ううん。風が冷たいだけ」
 そう答えながら、スマートフォンをポケットにしまう。
(あとで報告書に添付しよう)
 その前に、念のため画像を確認しておく必要がある。
 そう思った矢先、ふと、視線を感じた。
 レオンがこちらを見ていた。まっすぐに。
 秋の陽光を映したような、穏やかな瞳で。
 私は反射的に目を逸らす。
 背中に冷たいものが走った。

 ――いけない。気づかれたかもしれない。

 深呼吸をして、心を鎮める。
 彼から感じる気配は、どこまでも穏やかで、邪気など微塵もない。
 正直、彼の事がよくわからない。
 私は手帳を開き、短く記す。

  被監視対象:メリッサ・ドラコペトラ
  接触者:レオン・カヴァリエ(学籍番号不明)
  所感:小宇宙反応なし。性格温和。要観察。

 秋風がノートの端をめくった。
 私はそれを押さえながら、胸の奥で小さく呟いた。
(レオン・カヴァリエ…何者なの?)

 報告書は、昼下がりの静かな執務室に届いた。
 サガは机上の端末に届いた暗号化通信を開き、送信元を確認する。
 クロエ・アレクサンドラ・ヴァシリウ。
 内容はいつも通り、淡々としていた。言葉を選びながらも、観察対象の動向を的確にまとめた文章。その手際の良さから、サガは彼女の報告を信頼している。だが、この日添付されていたのは、一つの画像ファイルだった。

 《添付:観察対象関係者(推定)――レオン・カヴァリエ》

 軽くクリックする。そして、画面に映し出された瞬間、サガの動きが止まった。
 「……これは――」
 低く呟いた声が、室内の静寂に沈む。
 モニターの中には、秋の陽光の下、ベンチに腰掛ける若い青年の姿。
 風に揺れる金髪。
 透き通るような紫の瞳。
 すっきりとした鼻筋、穏やかな口元――その全てが、見覚えのある形をしていた。
 シオン。
 自らの上役、そして聖域の象徴たる男の顔。
 それが、そこにあった。
 「……どういう事だ?」
 サガは無意識に立ち上がっていた。冷静沈着なはずの思考が、一瞬で混乱に沈む。シオンは確かに教皇宮にいる。この世に“もう一人”存在するなど、ありえない。
 「偶然……では、ないな」
 唇の裏で呟きながら、画像を拡大する。細部まで検証しても、やはり似すぎている。髪の長さ以外、教皇シオンその人だ。
 サガは額を押さえ、椅子に深く身を預けた。まさか、とは思う。しかし、偶然にしては出来すぎている。メリッサ・ドラコペトラの周囲に現れた、この青年。その存在が、単なる学友だと片付けて良いのか?
 サガは再び端末に向かい、短く入力する。

 《追加調査を命ず。レオン・カヴァリエの家系、出自、及び現住所を洗え。 情報は最優先で報告せよ。  
 サガ》

 送信を終えると、しばし無言のまま画面を見つめた。心の奥に小さな棘が刺さるような違和感が胸に残る。
 サガは瞼を閉じた。
 秋の聖域の風が、どこか遠くでざわめいているように感じられた。


 サガ様からの指令は簡潔だった。
 それでいて、重い。
 レオン・カヴァリエ。
 彼がただの学生なら、それでいい。けれどもし、彼が聖域に繋がる何かを背負っているのだとしたら。
 それは、メリッサにとって──いや、聖域全体にとっての“波紋”になり得る。

 報告書を送ってから三日が経った。
 昼休みの中庭。木漏れ日の下、レオンはいつものようにメリッサをランチに誘っていた。
 断られることを分かっていながら、それでも笑顔で声をかけ続ける。
 彼女が席を立つと、名残惜しげに見送る。
 まるで、ただの恋だ。だが、それが演技でないという保証は、どこにもない。
 私は鞄の中のスマートフォンを指先で軽く叩いた。位置情報、履歴、交友関係。聖域の情報網を通じれば、少なくとも基礎データは手に入るだろう。けれど、サガ様が求めているのは“表の情報”ではない。
 彼自身の意志。どんな言葉を使い、どんな目で人を見るのか。
 それを見極める必要がある。
 直接、話すしかない。
 中庭のベンチに一人腰を下ろすレオンに、私は迷いを押し殺して声をかけた。
「カヴァリエさん、少しお時間いい?」
 彼は振り返り、柔らかく笑った。
「ヴァシリウさん?もちろん。どうかした?」
 その笑顔に、私は思わず一瞬、言葉を詰まらせた。
 菫色の優しい眼差し。そこに宿る光は聖域に生きる者たちや、多くのものを背負いすぎているメリッサとはあまりに違う。あまりにも穏やかで、何の翳りもない。
「あなた、よくメリッサと話しているでしょう?彼女のこと、気になるの?」
 軽く探るように問う。すると、彼は頬を少し染め、困ったように視線を逸らした。
「……うん、まあ。そう見えるなら、否定はしないよ」
 その言い方が、あまりにも真っ直ぐで。私は一瞬、息を呑んだ。
(嘘は──ない?)
 だが、警戒を解くのは早計だ。
 人は、真実の中に嘘を織り交ぜることができる。
 私も、その一人だ。
「彼女、少し人付き合いが苦手みたいなの。悪く思わないでね」
「いや。無理に話したいわけじゃないんだ。ただ……もう少し笑ってほしいなって」
 その言葉に、心が小さくざわついた。
 それは、誰かを本気で想う人間のものだった。私は、笑顔を崩さぬまま軽く頷いた。
「あなた、優しいのね」
「そうかな?」
 彼は照れたように笑う。
 この青年が、何者であれ、この笑顔に闇は見えない。けれど、聖域に関わる血筋ならば、その微笑みの奥に、いずれ“宿命”が芽を出すかもしれない。
 私はベンチを離れながら、小さく息を吐いた。
 報告書には、こう記すしかないだろう。

《レオン・カヴァリエ。表向きは平凡な学生。感情表現は誠実で偽りの兆候なし。ただし、小宇宙の反応極めて微弱。検知困難なため、引き続き監視を継続する。メリッサへの接触意図、現時点では恋愛感情に起因する可能性が高い》

 指先が震える。

 ──恋愛感情。

 それが事実なら、彼もまた、知らぬうちに“禁忌”に足を踏み入れているのかもしれない。
 私はスマートフォンの送信ボタンを押した。
 宛先は、双子座の名を持つ男。
 報告のタイトルはただ一言──《進捗》。

 夜の教皇宮は、いつになく静まり返っていた。
 書簡を整理し終えた机上に、開かれた報告書の画面がある。そこに添付された青年の写真を、サガは無言で見つめていた。
 この顔。
 冷たい月光が窓辺から差し込み、液晶の青白い光と溶け合う。
 まるで、見てはならないものを見てしまったかのように、サガはしばし動けなかった。そこに映る青年、レオン・カヴァリエは彼が忠誠を誓った教皇、シオンと瓜二つの容貌をしていたのだ。瞳の色も、髪の色も、骨格の線も、酷似している。もしこの姿で人前に立てば、誰もが「シオン教皇だ」と信じるだろう。
 サガは深く息を吐き、背凭れに身を預けた。黄金聖闘士として、彼は奇跡と呼ばれる現象を幾度も見てきた。しかし、この青年の存在は、そのどれとも異なる、説明のつかぬ不穏さを孕んでいた。
「……恋敵、か」
 自嘲気味に呟いた声が、広い室内に淡く響いた。
 報告によれば、レオンは同じ大学に通う学生であり、メリッサを日々ランチに誘い続けているという。
 しつこいが悪意はない。むしろ、好青年そのもの。クロエの観察眼は信頼できる。彼女が『小宇宙に邪悪な気配なし』と判断したなら、それは正しいのだろう。だが問題は、そこではない。
 “彼”が教皇と同じ顔を持ち、同じ時代に、同じ女性の傍らにいる。その事象が、果たしてただの偶然で済むだろうか。
 机上のワインに手を伸ばし、サガはグラスを傾けた。深紅の液体が灯りを受けて揺れる。舌先に触れるわずかな渋みが、思考を研ぎ澄ませるようだった。
(放置するべきか、介入するべきか……)
 補佐官として、彼の役目は教皇の政務を支えること。その範疇に“恋愛問題の処理”など含まれていない。寧ろ踏み込めば、教皇の尊厳を損なうおそれがある。
 シオンほどの人物が、恋敵の青年一人が現れたところで、取り乱すことなどないはず。そう信じたい。
 だが、もしレオン・カヴァリエが何らかの目的を持ち、意図的にメリッサへ近づいているのだとしたら?そしてその背後に、聖域を狙う影が潜んでいるとしたら?
 サガはグラスを置き、鋭い眼差しを宙に向けた。
 瞳の奥に、静かな決意の炎が宿る。
(ヘスティア様に……報告すべきかもしれぬ)
 教皇の恋慕をめぐる問題に、女神を煩わせるなど本来なら避けたい。しかしこれは、単なる恋の話では終わらない可能性がある。
 レオンという青年が“奇跡”でなく“企て”だとすれば、放置は聖域にとって致命となる。
 窓外に目をやると、遠いアテナ像の背後で、月が淡く霞んでいた。
 サガはゆるやかに立ち上がり、外套を羽織る。足音を殺しながら、夜の回廊を歩き出した。
 報告の言葉をどう選ぶか。
 その一言で、教皇とメリッサの運命が揺らぐかもしれない。深い夜の底で、双子座の黄金聖闘士は一人、思考の迷宮に沈んでいった。

 夜気が微かに冷たい。
 教皇宮の回廊を抜けた先、女神の居住区画へ続く扉前に立ち、サガはふっと息をついた。
 石畳の上に、彼の影が細長く伸びている。
 月光の下で、黄金聖闘士の姿はどこか場違いなほど荘厳だった。
 時刻は既に二十三時を回っている。
 ヘスティアは執務を終え、私室で過ごしている頃だ。この時間帯に補佐官が訪問するなど、よほどの急報でなければ許されない。それでも、報告を翌日に回すことだけはできなかった。
 「……致し方あるまい」
 小さく呟き、衛兵に身分証を提示する。やがて当直の女官が現れ、サガを控えの間へと案内した。
 彼女の白衣が歩みに合わせて静かに揺れ、絨毯の上に淡い影を落とす。絨毯が吸いきれなかった足音だけが、広い回廊に微かに響いた。

 女官が伝令を送る。
 伝令は女官長、または副女官長に連絡を取る。
 彼女たちは内容を審査し、問題がなければヘスティアの侍女に取り次ぐ。そして女神本人が“許可”を出して初めて、補佐官は扉の向こうへ通されるのだ。
 待たされる。
 時間の経過とともに、壁にかかる燭台の炎がゆらゆらと傾く。その光を受けて、サガの表情が陰った。
(やれやれ……このシステムはどうにも骨が折れる)
 頭では理解している。
 女神を守るための多重防壁。女官たちが厳重な取り次ぎ手順を設けているのも、決して無意味ではない。だが、聖域の政務の中枢に女性がこれほど深く関わるようになって以降、サガはしばしばこの“時間の壁”に苛立たされてきた。
 神聖であるがゆえに、何事も慎重すぎる。
 時間外は緊急時を除けば、彼女たちの段階的承認を経なければ、女神に一言も伝えられないのだ。
 (……女神は寛容なお方だが、臣下の動きがここまで硬直的とは)
 椅子の背に体を預け、額を指で押さえる。
 胸の奥で、報告内容をもう一度整理する。
 “シオンに酷似した青年の出現”。
 “メリッサとの接近”。
 そして“悪意の兆候なし”。
 果たして、これをどこまで話すべきか。
 無用な憶測を生む可能性もある。だが、伏せておくにはあまりに異常な事案だ。
 沈黙の中、遠くで女官の靴音が響いた。扉の向こうから、柔らかな声が告げる。
「補佐官サガ様。女神がお会いになります」
 漸く、道が開かれた。
 サガは静かに立ち上がり、衣の裾を整える。
 長い待ち時間の間に、既に心の中では答えを出していた。
 報告すべきだ。
 例えそれが、教皇の心を揺らす事実であっても。
 扉が開かれる。
 甘い香木の香が漂い、柔らかな灯がサガの頬を照らした。女神ヘスティアが静かに佇むその私室へ、彼は一歩、足を踏み入れた。

 女神の私室は、夜の静けさをそのまま包み込んだような柔らかな空気に満ちていた。香炉から立ちのぼる白檀の香が、静かに揺らぐ灯の明かりと溶け合い、そこにいるだけで心を鎮める力を持っている。
 ヘスティアは既に就寝支度を整えていたが、報せを受けると寝衣のままでは出迎えられぬと考えたのだろう。簡素ながら気品ある生成りの部屋着に身を包み、髪を軽く結い直して、机の前に腰掛けていた。
 その穏やかな佇まいに、サガは一瞬だけ躊躇いを覚えた。だが、持参した報告書を思い出し、すぐに頭を垂れる。
「このような夜分に大変申し訳ありません。急ぎご報告したいことが…」
 その声音に、ヘスティアは微かに眉を寄せた。
 サガがこの時間に訪れるということは、ただ事ではない。けれど彼女は動揺を見せず、静かに頷く。
「聞きましょう」
 促され、サガは慎重な手つきで書類を差し出した。
 クロエ・アレクサンドラ・ヴァシリウからの報告書。そして添付されていた、レオン・カヴァリエの顔写真をプリントアウトしたもの。
 それを手に取ったヘスティアは、息を呑んだ。薄明のような光の中でその表情が変わる。
「これは……嘘でしょ…?」
 驚愕とも戸惑いともつかぬ声。
 写真に映る青年は、確かに教皇シオンと瓜二つだった。
 金色の髪、理知的な面差し、菫の瞳。
 あたかも、シオンが現代の大学生として生きているかのような、戸惑いと驚きを覚える。
 サガは静かに続けた。
「諜報員には、更に詳細な調査を命じております」
 ヘスティアはしばし無言で写真を見つめ、それから瞼を伏せた。その横顔には、深い思慮と、いくらか不安の影が混じっている。
「そうね……これは、捨て置けないわ」
 彼女は軽く息を整え、決断の色を帯びた瞳でサガを見た。
「カヴァリエ家については、財団にも調査を依頼しておきます。表の活動から辿れることもあるかもしれません」
「恐れ入ります」
 サガは深く頭を下げた。その声音には安堵と緊張が同居している。
 ヘスティアは視線を再び写真に戻し、ほんの一瞬、憂いを帯びたように唇を結ぶ。
「……シオンには?」
「まだ……」
「明日、朝一で報告して」
 その声には、迷いがなかった。
 事実を伏せておくことは、後により深い禍根を残す。それを理解しているからこその、神としての決断だった。
「御意」
 サガは再び深く頭を垂れる。
 その礼の姿には、忠誠と敬意のほかに、どこか重い予感のようなものが滲んでいた。

 ――この報告が、教皇の心をどれほど揺さぶることになるのか。

 それを思えば、彼の胸中に沈むのは、不安にも似た静かな波紋であった。
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