Eine Kleine

 港町の午後は、陽射しの粒が海面に溢れ落ちていた。潮風がメリッサの髪をほどき、遠くではカモメが声を上げている。
 玄関先に立つカノンを見て、彼女は瞬きをした。
「カノン様?どうしたんですか?」
 いつもなら、彼の眼差しにはどこか張り詰めた光が宿っている。だが今日のそれは、少しだけ穏やかだった。
「お前、船舶免許あるんだってな。釣りがしたい。船を出してくれ」
「……うわぁ。人に物を頼むのにその言い方ですか?」
 メリッサが肩をすくめると、カノンは僅かに視線を逸らした。
「……すまん。船を出してもらえませんか?」
 その言葉の端に、彼なりの気遣いが滲む。
 それに気づかないふりをして、メリッサは笑った。
「ふふっ、良いですよ。あたしも気晴らしに釣りしたかったし」
 桟橋の方へ歩き出す彼女の背中を、カノンは暫く無言で見つめていた。
 潮の匂いとともに、胸の奥に小さな安堵が広がる。

 ――もう、彼女の笑顔を遠くから見るだけの時間ではないのだ。

 釣竿と海風。
 それは、戦いや悲しみとは無縁の、静かな午後の始まりだった。

 海は午後の光を照り返して、ゆるやかに揺れていた。青と銀の粒子がきらめき、船の腹を撫でるたびに柔らかな音を立てる。
 メリッサは釣竿を握りしめたまま、微動だにしない浮きを見つめていた。一方で、隣のカノンはというと、既に三匹目を釣り上げている。
「ちょっと、カノン様ズルしてないですか?」
 頬を膨らませて言うメリッサの声は、潮風に乗って波間へ消えていく。
「そんなことするわけないだろ」
 淡々と返しながらも、カノンの口元がわずかに緩む。
「だって、ここはあたしのホームですよ!?子どもの頃から釣りしてるのに!」
「知るか。魚に聞け。ビジターに配慮してるんだろ?」
 さらりとした言葉に、メリッサは思わず竿を掲げて抗議する。
「あーもー!!魚にまで忖度されるなんて!腹立つわぁ」
 その声に、カノンが低く笑った。
 他人の前で笑うのは、いつ以来だろう。
 聖戦が終わったとは言え、地上の脅威は冥王軍だけではない。海将軍としての役割を担いながら、世界各地を調査して回り知るのは、覇権を虎視眈々と狙う勢力の存在だった。
 神経をすり減らしながらも、本来の任務に集中できるのは喜びだった。それでも、日々、眉間に刻まれる皺が深くなるのは否定しようがなかった。
 だが、今この時間はどうだ。陽光のように穏やかで、海の色と溶け合うように優しかった。
「お前、そういう性格だったんだな」
「……どういう意味ですか?」
 不服そうに眉を寄せる彼女を見て、カノンは小さく首を振った。
「いや、年相応で安心した」
 その言葉に、メリッサは一瞬、返す言葉を失った。
 波の音だけが二人の間を埋める。
 自分の中で、過ぎ去った年月がふと蘇る。
 血と涙に塗れた記憶。
 それでも今、こうして彼と笑っていられることが――ただ、嬉しかった。

 右手に残る痺れを、そっと風が撫でていく。
 ふいにカノンの視線がそちらへ流れたが、彼は何も言わなかった。その沈黙が、彼なりの優しさであることを、メリッサは知っている。

 遠く、陽光を裂くようにカモメが飛んだ。
 釣竿の先の浮きは、依然として静かなままだ。けれど、胸の中の何かが、確かに少しずつ動き出していた。
 ふいに、海面の浮きが大きく沈んだ。それは、これまでの静寂を破るような鋭い動きだった。
「……あっ!」
 メリッサの指先に、強い引きが伝わる。
 思わず体が前のめりになり、バランスを崩しかけた。
「ちょ、ちょっと待って……重いっ!」
 竿がしなり、今にも海に引き込まれそうになる。
 その瞬間、背後から大きな手が彼女の右手を包んだ。
「離すな」
 低い声が耳元で響く。
 海の音よりも近く、心臓の鼓動よりも確かに。
 カノンの身体がぴたりと背中に重なり、彼の腕が自分の両腕を支えるように回り込む。その体温は、太陽に焼けた海風よりも熱く、呼吸のたびに潮の香りが混ざった。
「……力を抜け。焦るな」
 囁くような声に導かれ、メリッサは小さく息を整える。
 右手の力が一瞬ゆるみ、左手で重みを支える。
 カノンの手がその動きを見計らって添え、糸を慎重に巻き取っていく。
 やがて、水面がざわめき、銀色の魚影が跳ねた。
「――やった!」
 竿を持ち直した瞬間、メリッサの頬に笑みが戻る。
 カノンはその横顔を見つめたまま、何も言わなかった。光を反射した海が、二人の影を一つに溶かしていく。ただ、風と波音だけが、時間を緩やかに運んでいた。
 ようやく手を離したカノンが、僅かに息をつく。
「……右手、大丈夫か」
 その問いに、メリッサは笑って頷いた。
「平気です。――ほら、見てください。結構大きいですよ!」
 嬉しそうに魚を掲げる彼女の声が、青空に弾けた。
 カノンの唇の端が、ふっと柔らかく綻ぶ。
 その笑みを見て、メリッサの胸に小さな波紋が広がった。
 彼を戻すために痛くて苦しい経験をしたけれど、それは決して無駄ではなかった。今は心からそう思えた。

夕暮れが港を包み始めた頃、二人は釣った魚を抱えてメリッサの家へ戻った。
 潮の香りを含んだ風が玄関先まで追いかけてきて、戸を閉めてもなお、外のざわめきが耳の奥に残っている。
「……さて、どう調理します?」
 エプロンをつけながらメリッサが振り返ると、カノンは勝手が分からない様子で台所を見回していた。
「任せる。たまにはサガ以外のヤツが作る料理を食べたい」
「良いですよ。あたしも、たまには誰かのために作りたいんで」
 くすりと笑い、メリッサは魚をまな板に置いた。
 包丁を握る右手に、少しだけ力を込める。
 まだ痺れは残っているが、痛みはもうない。
 刃を入れるたび、カノンの視線がそっと手元に落ちるのを感じた。
「大丈夫ですよ。ね、こう見えて手際はいいんです」
「……そうだな」
 その返事は短く、それでいてどこか柔らかい。
 やがて香ばしい匂いが部屋に満ちた。
 オリーブオイルとレモンの香りが混ざり合い、夕陽の名残を受けたガラス窓が、薄く金色に光っている。
「できました。塩焼きとアクアパッツァ風、どっちがいいです?」
「両方だ」
「欲張りですね」
 笑いながら皿を並べる。
 木のテーブルの上に並んだ料理は、どれも素朴で、けれど不思議な温かさがあった。
 食卓を挟んで座ると、ふと沈黙が訪れる。
 その沈黙は気まずくもなく、言葉にしなくても分かる穏やかなものだった。
「……美味いな」
 ぽつりとカノンが言う。
「それは何よりです。カノン様が釣ってくれたおかげですよ」
「お前がいなければ、魚は逃げていた」
「ふふ、それじゃあお互い様ですね」
 小さく笑い合う。
 その音が、夜の始まりに溶けていった。
 外では、波が穏やかに岸を撫でている。
 食器の触れ合う音、湯気、灯り。
 それらがまるで小さな祝福のように、二人を包んでいた。

 カノンがグラスの水を手に取り、ふと視線を上げた。
「……こうして、お前が笑っているのを見られるのは、悪くない」
 メリッサは驚いたように瞬きをし、すぐに笑みを返した。
「……そう言ってもらえるのも、悪くないですね」
 外の海が、緩やかに夜を受け入れていく。
 二人の間に漂うのは、言葉にしない安堵と、ほんの少しの温もりだった。

 食卓の皿が空になる頃には、外の海はすっかり群青色に沈んでいた。港から届く灯りが波間に滲み、窓辺に柔らかな影を落としている。
 メリッサはカップを両手で包みながら、熱いハーブティーの香りを吸い込んだ。オレガノとミントが混じるその香りは、どこか懐かしい海辺の夜を思わせた。
「久しぶりに、こんなに穏やかな時間を過ごした気がします」
 ぽつりとこぼすと、カノンはグラスを置いたまま、ゆっくりと彼女を見た。
「……お前がそう言うなら、来てよかった」
 短い言葉だったが、それだけで十分だった。
 ふと、メリッサが右手をさすった。
 小さな仕草だったが、カノンの視線がそこに止まる。
「痛むのか?」
「いえ……もう平気です。少し動かしづらいだけで」
「嘘をつくな」
 静かに、しかし鋭い。
 メリッサは苦笑して、袖口から伸びる手を見下ろした。
「本当に、大したことないんです。ちゃんと、動きますよ」
 そう言って指を動かして見せる。だが、カノンの表情は変わらなかった。
「……もう無理はするな」
 低い声が、夜の空気を震わせた。叱るでもなく、慰めるでもない。ただ、彼女の身を案じる想いがそのまま言葉になっている。
 メリッサは少しだけ俯いて、頬にかかった髪を耳にかけた。目を上げると、カノンの青の瞳がまっすぐに自分を見ていた。
「……優しいですね、カノン様は」
「俺がか?」
「はい。知られたら評判、落ちますよ?」
「構わん。誰かに話すな」
「へへ……了解です」
 微笑み合うその瞬間、灯りがゆらめき、二人の影が壁に重なった。
 波の音が遠くで寄せては返す。
 その音に溶けるように、心の中の痛みが少しずつほどけていく。

 食後の余韻を残したまま、二人は浜辺へと出た。
 潮が引き始めていて、濡れた砂が月明かりを淡く映している。
 足音が砂に吸い込まれていく。
 波打ち際を歩きながら、メリッサはふと夜空を仰いだ。海の上には、数え切れないほどの星が散りばめられている。
 聖域で見た夜空よりも低く、やさしい光だった。
「気が向いたら、また遊びに来てください」
 静けさを破ったのは、メリッサの柔らかな声だった。
「ああ、気が向いたらな」
「カノン様なら歓迎しますよ」
「それはありがたいな」
 波が一つ、足元を洗う。
 二人の影が重なり、すぐにまた離れていく。
「他にも釣りしたい人がいたら、船出します。有料で」
「なんだ。ちゃっかりしてるな」
「当たり前じゃないですか。燃料代、ばかにならないんですよ」
「なら、今度は磯釣りだな」
「それもいいですね」
 笑い声が夜気の中でほどけていく。
 メリッサの笑顔を見るたび、カノンの胸の奥が少しだけ軽くなった。
 彼女に何もしてやれなかった痛みが、今はほんの少しずつ、別の形に変わっていくのを感じる。
「……俺の友人に釣り好きがいる。そいつも連れてきて良いか?」
「カノン様にもお友達いるんですね」
「どういう意味だ」
「いや、友達いなさそうだから」
「黄金聖闘士だぞ」
「……それは、同僚というやつでは?」
「……お前……可愛くないな……」
「えへへっ、冗談です。カノン様の紹介なら良いですよ。何座様ですか?」
「蠍座だ。蠍座のミロという男だ。きっと、お前と気が合う」
 その名を口にした瞬間、潮風が二人の間をすり抜けた。メリッサの頬を撫でる風は少し冷たく、しかし不思議と心地よかった。
「そうですか。楽しみにしてます」
 笑みとともに言いながらも、彼女の声の奥には小さな疲れが滲んでいた。それに気づいたカノンは、少しだけ歩調を緩めた。
「……寒くないか」
「平気ですよ」
「そうか」
 その短い会話の間にも、彼の視線は何度か彼女の右手へと落ちる。
 包帯はもう取れているが、まだ完全に回復したわけではない。
 けれど、メリッサはそれを隠すようにポケットへ入れ、何でもない顔で夜の海を見つめていた。

 ――この手で誰かを助けられるなら、それでいい。

 そう思う彼女の強さを、カノンは誰よりも知っている。
「お前は、少し休んだほうがいい」
 唐突に告げられたその言葉に、メリッサは振り向いた。
 カノンの横顔は月光を受け、淡く光っている。
「無理をしても、誰も得はしない。……今は、ちゃんと生きてるだけでいい」
 その声音に、叱責でも慰めでもない温度があった。
 彼女の胸の奥に静かに沈み、波のように広がっていく。
「……ありがとう、カノン様」
 彼女の声は少し震えていた。
 カノンは何も言わず、ただ頷いた。

 遠く、港の灯りが瞬いている。
 海辺の空気は冷たく澄んで、夜は深まりつつあった。
 二人はそのまま、しばらく無言で波打ち際を歩いた。
 浜辺には、波が静かに寄せては返し、砂の上に白い泡の縁取りを残していく。潮の匂いが濃く、夜の帳が少しずつ世界を包み始めていた。

 二人は、足元の砂を踏みしめながら、並んで歩いた。言葉は多くなくても、不思議と居心地が悪くない。
「また連絡する」
 カノンが短く言う。その声音に、別れの寂しさよりも、確かな約束の響きがあった。
「はい。カノン様、インスタやってますか?」
 メリッサが笑みを含んで問いかけると、カノンは少し眉をひそめた。
「インスタはやってないな。登録するか」
「いえ、カノン様の使いやすいのでいいです」
「俺はどれでも大して変わらん。それにインスタなら、ミロもやっていたはずだ」
「すみません。気使ってもらって」
「気なんか使ってない」
 カノンはそう言って、海の方を振り返った。
 水平線の彼方に、名残惜しげな橙色の光がまだ滲んでいる。
 その横顔は、風にさらわれるように穏やかで、どこか遠い。

 ――この人は、あの海よりも深いところで生きてきたのだろう。
 メリッサはそう思った。どこか痛みに似たものが、胸の奥をかすめていく。

 やがて、風が冷たくなり、カノンが歩を止めた。
「そろそろ戻る。あまり遅くなると、妙な噂を立てられる」
「……そうですね」
「また連絡する」
 もう一度、そう言って彼はスマートフォンを取り出した。指先で不慣れな操作を繰り返しながら、
「……これでいいか?」と、どこか照れくさそうに笑う。メリッサは頷いて、自分の画面を見つめた。カノンの名前が、確かに登録されている。
 その事実が、胸の奥をほんの少し温かくした。

 カノンが去ったあと、メリッサはゆっくりと玄関を閉めた。扉の向こうに残る潮の匂いと、足元に溶けていく波音がまだ耳に残っている。
 ふと、スマートフォンが震えた。通知を開くと、カノンからのメッセージ。
《グループを作った。ミロも入ってる》
 その一文のそっけなさに、思わず微笑んでしまう。
「……仕事が早いなぁ」
 呟きながら、画面を開くと、三人のグループチャットが出来上がっていた。
 グループ名は《釣友会》。
 無骨な命名が、いかにもカノンらしい。
「ミロさん……蠍座の聖闘士様、だっけ」
 初めて見るその名前をタップして、アカウントを覗いてみる。
 そこには、海の写真や夜空の投稿が並んでいた。
 だが、人物の姿は一枚もない。顔どころか、影すら映らない。投稿文も簡潔で、季節の一言や短い引用ばかり。

 ――さすがに、聖闘士という立場上、身元が割れないようにしているのだろう。

「なるほど……慎重なんだ」
 小さく呟いて、メリッサはスマートフォンをテーブルに置いた。
 港の灯が窓の外で瞬き、潮風がカーテンを揺らす。
その光と風の狭間で、彼女はふと、見えない糸がまたひとつ、自分の世界に結ばれたような気がした。
 スマートフォンがまた震えた。
 画面を見ると、今度は見慣れない名前――
『蠍座のミロだ。よろしく』
 思わず小さく声が漏れた。
「お、フレンドリーな感じ?」
 指先で素早く返信を打つ。
「――初めまして、メリッサ・ドラコペトラです。よろしくお願いします…っと」
 送信して間もなく、また通知音が鳴った。返信が早い。
『カミュからお前の話を聞いて、一度会いたいと思っていた。今度ぜひ釣りに行こう』
「カミュ……?」
 メリッサは目を瞬かせた。
「水瓶座様?うわ……まさか友達?気まずっ!」
 思わず独り言がこぼれる。
 聖域での顔ぶれが頭に浮かぶ。
 水瓶座の聖闘士――あの冷静沈着な人物と、蠍座のミロが友人だというのは、少し意外で、少し納得でもあった。
 その時、グループチャットにカノンのメッセージが入った。
《ミロ、あまりはしゃぐな。メリッサが引く》
 続いて、すぐに返ってきたミロのスタンプ――
 笑っている蠍の絵文字が、夜の静けさの中で妙に愉快に見えた。
メリッサは小さく吹き出してしまう。
「……なんだか、楽しくなりそう」
 窓の外では、月が海面に銀の道を描いていた。その光が、スマートフォンの画面にもやわらかく反射して、小さな新しいつながりを、静かに照らしていた。

 夜明け前の港町は、まだ眠りの気配を残していた。
 東の空がわずかに白みはじめ、海面の向こうに一筋の光が差す。潮の香りと、濡れた岩肌の冷たい匂いが入り混じって、新しい一日の匂いがした。

 玄関の呼び鈴が鳴る。
 メリッサは厚手のパーカーを羽織って外に出た。
そこには、朝靄の中に立つカノンと、少し人懐こい笑みを浮かべた青年がいた。
「おはようございます!」
「ああ、おはよう。メリッサ、こいつがミロだ」
「蠍座のミロだ。よろしくな」
「メリッサ・ドラコペトラです。よろしくお願いします」
 陽の気配がまだ淡い中、ミロの笑顔は不思議と明るかった。その第一声が、潮風を和らげた。
「……噂には聞いていたけど、こんなに可愛い子だったのか」
「え、あたし噂になってたんですか?」
「ああ。な、カノン」
「まぁ、そういう話が一部で言われているのは確かだ。だが、ミロ、そういう話はやめろ。セクハラだぞ」
「おっと、悪い。ごめんな、メリッサ。無神経だった」
「いえ、可愛いって言われるのは悪い気しません。蠍座様だってイケメンですね」
「だろ?分かってるけど、女の子からそう言われると嬉しいな!」
「ミロ!」
「あーごめんごめん!」
 笑い声が、まだ冷たい朝の空気に柔らかく響く。
その音が潮騒と混ざり合い、港の一角だけが少しだけ春めいて見えた。

「それじゃ、行きましょうか。今日はあたしの秘密のポイント、教えてあげます」
「ほう、秘密とはそそるな」
「カノン様、楽しみにしててくださいね。滅多に人には教えないんです」
「ふん、釣れなかったらどうする気だ」
「そのときは――責任取って、あたしが市場で買った魚でお料理作りまーす!」
 軽口を交わしながら、三人は海岸沿いの岩場へ向かう。朝日がようやく昇り、光の筋が波間に踊った。
その道すがら、メリッサはふと、背後を歩く二人の黄金聖闘士の姿を見て思う。

 ――あの聖域の空気をまとった人たちが、こうして笑っているなんて。

 不思議な幸福感が胸の奥をあたためた。
 磯に着くと、潮の香りがいっそう濃くなった。波が岩肌に砕け、霧のような飛沫が陽の光を受けてきらめく。空はまだ薄青く、遠くでカモメの鳴き声が響いていた。
「ここが――あたしの秘密のポイントです」
 メリッサは岩の上でバランスを取りながら振り返った。潮風に髪が揺れる。その笑顔に、海の朝がまるごと映っているようだった。
「確かに、良い場所だな。波の返しも安定してる」
 カノンが静かに頷き、足場を確かめる。対照的に、ミロは早くも竿を持ってはしゃいでいた。
「おいおい、ここ絶対釣れるだろ! もう魚影見えてる気がする!」
「気のせいです」
 メリッサが笑いながら答えると、ミロは子どものように肩をすくめた。

 三人で竿を出すと、潮の音が一段と大きくなる。
 水面を覗くと、陽が差し込み、海藻の間を銀色の影が横切った。
 メリッサは慣れた手つきで仕掛けを整える。
糸を放つ瞬間の腕の動きは、しなやかで正確だった。

 ――右手を少し庇っている。

 カノンはふと気づいたが、何も言わなかった。
 彼女がそれを気にしていないのを知っているから。

 やがて最初に竿をしならせたのはミロだった。
「来た来た来た!見ろ、これが黄金の腕ってやつだ!」
「……黄金聖闘士が言うセリフじゃないですね」
 メリッサの冷静なツッコミに、ミロは大笑いした。
「お前、いいセンスしてるな!」
 カノンは少し離れた岩に腰を下ろし、二人のやり取りを見守っていた。陽光が彼の横顔を照らし、瞳の奥に海の色が宿る。その眼差しの奥には、穏やかな安堵があった。

 ――笑っている。

 あの時、痛みに沈んでいたメリッサが、潮風の中でこうして笑っている。そのことが、カノンには何より救いだった。
「ほら、カノン様も。せっかく来たんだから、楽しんでください」
 振り返るメリッサの声に、カノンは小さく息をつき、立ち上がる。
「……そうだな。今日の俺は、釣り人だ」
 彼の声に、ミロが「そう来なくちゃな!」と叫び、
 波しぶきの中で笑い声が響いた。
 朝の海は、もう完全に目を覚ましていた。陽はすでに高く、岩肌を白く照らしていた。波はゆるやかに満ちては引き、三人の足元で透明な泡を散らす。

 午前の潮が良いのか、魚の反応は上々だった。
 ミロが二匹目を釣り上げたとき、メリッサの浮きも沈み、カノンの竿もしなった。銀の閃光がいくつも空を切り、バケツの中には次々と魚が増えていく。
「今日、当たり日じゃないですか!」
「いや、俺がいるからだ」
 ミロの胸を張った発言に、メリッサが苦笑する。
「出ました、根拠のない自信」
「信じる者は釣れるんだよ」
「じゃあ、信じる力比べでもしてみます?」
 その一言で、場の空気がぱっと明るくなった。
「面白い。誰が一番大物を釣るか、勝負だ」
 カノンの声には、珍しく少年めいた響きがあった。
「よっしゃ、望むところだ!」
「……え、じゃあ負けたらどうするんですか?」
「勝った奴の言うことを一つ聞く、でいいだろ」
「えぇっ!? なんか怖い!」
「安心しろ。命までは取らん」
 そんな軽口を交わしながら、三人の竿先が再び海に向いた。
 最初に竿をしならせたのはミロだった。
「来た!これは大物だ!」
 岩の上で踏ん張るその姿に、メリッサが声を上げる。
「頑張って!糸切られないように!」
「任せろ、黄金の名に懸けて――!」
 だが上がってきたのは、やや立派な鯛。悪くないが、決め手には欠ける。
 次に当たりがあったのはメリッサだった。
慎重にリールを巻き上げ――しかし、水面に躍り出たのは、掌ほどの小魚だった。
「……あ」
「ははっ、可愛いのが釣れたな」
 ミロが笑い、カノンもわずかに口元を緩める。
「く…こんなはずじゃ……」
「まぁ、釣果も人生も、大小いろいろってことだ」
 カノンの淡々とした言葉に、メリッサは唇を尖らせた。
 次の瞬間――カノンの竿が大きく弧を描いた。海面が激しく跳ね、水しぶきが飛び散る。
「……来たな」
 彼は腰を落とし、腕の力で竿を支える。波がひときわ高く砕け、陽光を反射した。しばらくの格闘ののち、海から姿を現したのは、堂々たる鰤(ブリ)だった。
「すご……!」
「やったな、カノン!」
 ミロが歓声を上げ、メリッサも目を輝かせる。
「どうやら、勝者は俺のようだ」
 静かに言うその声には、誇示よりも達成の余韻があった。潮風が髪を撫で、濡れた岩の上に影が三つ並ぶ。
「さぁ、約束通り――言うことを聞いてもらおうか」
「えっ、冗談じゃ……」
「冗談じゃない」
「……まさか、ブリを捌けとか言いませんよね?」
「それだ」
「うわぁ…マジですか…」
 笑い声が波に混じって、磯の空に溶けていった。
 海は青く、風はやわらかく、その日、三人は本当に久しぶりに“普通の休日”を過ごしていた。
 釣りのあとは、三人で港近くの浜小屋に戻り、獲れた魚を手際よく捌く。包丁を握るメリッサの動きは迷いがなく、力強く、それでいて丁寧だった。
「へぇ、意外に力あるんだな」
 ミロが感心したように顎を撫でる。
「そりゃ、漁の手伝いとかしてましたからね。魚料理は一番得意ですよ」
 メリッサが得意げに笑うと、ミロはぱっと目を輝かせた。
「そりゃいい!なぁメリッサ、俺と結婚しようぜ」
「なんでいきなりプロポーズしてるんですか。さては、蠍座様アホですね?」
「なんだとー!」
 顔を真っ赤にして反論するミロに、カノンが呆れたように笑う。
「こら、ミロ。よせ。アホはホントのことだろ」
「お前まで言うか!」
 三人の笑い声が潮風に溶けていく。
 ミロは社交的で憎めない男だった。明るく、裏表がない。彼と話していると、メリッサは自然と肩の力が抜けた。年相応に笑っていられる――そんな時間が、今の彼女には心地よかった。
 一方のカノンは、二人のやり取りを静かに眺めている。その眼差しは穏やかで、どこか兄のようでもあった。

 浜小屋の外では、波が穏やかに寄せては返している。三人で釣った魚を焼き、煮込み、香草を添えて皿に盛りつけると、潮の香りとともに食卓がにぎわった。
「うまいな、これ。さすが市場勤務」
 カノンが感心したように言うと、メリッサは笑いながらスープをかき混ぜた。
「でしょう?魚の鮮度が命ですからね。包丁の入れ方にもコツがあるんですよ」
「ほう、勉強になるな」
 ミロが頷き、グラスを手に取る。
 潮風を受けながら飲む白ワインは、まるで海のきらめきを閉じ込めたように爽やかだった。
「なぁメリッサ、俺のことは“ミロ”でいいぞ。蠍座様とか、堅苦しいのはやめてくれ」
「でも、聖域ではそう呼ばれてるんじゃないですか?」
「そりゃ職場の上下関係ってやつだろ?けど、俺たちは友人だ。そんなふうに畏まらないでほしい。な、カノン」
「あぁ。ミロの言う通りだ」
 ミロが笑い、カノンも穏やかに頷く。メリッサは少し驚いたように二人を見つめたが、やがて柔らかく微笑んだ。
「じゃあ……ミロさん、カノン様」
「おいおい、カノンは“様”のままか?」
「そこは譲れないみたいだぞ」
 カノンが苦笑する。
 ミロは腹を抱えて笑い出し、メリッサもつられて声を立てた。
 小屋の中は、潮風と笑い声に包まれていた。
 気取らない会話、素朴な食卓。
 そのひとときは、三人の間に静かで確かな絆を生みつつあった。

 食後の食器を片づける頃には、空が淡く茜に染まりはじめていた。潮の匂いを運ぶ風が吹き抜け、浜辺の砂をさらりと巻き上げる。
「……きれいだな」
 ミロが遠くの水平線を眺めて呟いた。
 太陽が海に沈む瞬間、金と朱の境目が揺らぎ、波がまるで光の粒をまとっていた。
「でしょ?毎日見てるのに、飽きないんです」
 メリッサがそう言って微笑む。
 頬にかかる髪を風が揺らし、橙色の光がその横顔を優しく照らした。カノンはそんな彼女を横目で見ながら、何か言いかけてやめた。
 代わりにポケットから小石を取り出して、海へ放る。弧を描いて飛んだ石は、ぽちゃん、と静かに沈んだ。
「なぁ、今度は夜釣りってのもいいんじゃないか?」
 ミロが唐突に言い出した。
「月明かりの下で釣るのも風情があるぞ」
「夜釣り……」
 メリッサは一瞬考え、目を輝かせた。
「いいですね!満月の夜なら明るいし、アジとかスズキも釣れるかも」
「決まりだな。予定は俺が調整しておく」
 カノンが短く言い、二人が顔を見合わせて笑う。

 それからしばらく、三人は並んで浜辺を歩いた。
 沈みきった太陽の残光が、海面を薄紫に染めている。
 遠くで船の汽笛が鳴った。
「……なぁ、メリッサ」
「はい?」
「お前、いい友達ができたな」
「え?」
 不意に言われて、メリッサは目を瞬かせた。
「ミロのことだ。あいつ、うるさいが悪い奴じゃない」
「ふふ、ありがとうございます。わかってますよ」
「おいカノン、聞こえてるぞ」
「わざと聞かせてる」
「この野郎!」
 三人の笑い声が、静かな浜辺に響いた。
 日が沈み、群青の空に一番星が光りはじめる。
 潮風の冷たさの中に、確かな温もりが残っていた。
笑い声がひとしきり潮風に流れたあと、三人のあいだに穏やかな沈黙が訪れた。
 波が足元まで寄せては返し、砂の上に淡い泡の跡を残す。
「……そろそろ帰るか」
 カノンがぽつりと呟いた。
 浜辺の向こうには、街の灯が瞬きはじめている。
「そうですね。あんまり遅くなると、冷えちゃいますし」
 メリッサが頷いて笑う。
 その笑みの奥に、どこか寂しさが滲んで見えた。
 ミロもその表情に気づいたのか、わざと明るい声を出した。
「今度は俺が勝つからな、メリッサ!」
「ふふ、そう簡単には負けませんよ」
「言ったな!」
 軽口を交わしながら、三人は港へと戻る。
 灯台の白い明かりが、遠くで緩やかに回転していた。
 桟橋の手前で、ミロがふと立ち止まる。
「今日は楽しかった。お前といると退屈しないな」
「ありがとうございます。あたしもです」
 その返事に、彼は少年のような笑顔を見せた。
 そして、少し離れた位置にいたカノンが小さく息をつく。
「……また連絡する」
「はい。お疲れさまでした」

 夜気がひんやりと肌を撫でた。
 メリッサが手を振ると、二人の黄金聖闘士は背を向け、港の道をゆっくりと歩き出す。
 その背中を見送りながら、メリッサは胸の奥に小さな灯がともるのを感じた。
 誰かと笑い合い、同じ景色を見られる――それだけで、心が少しずつ回復していくのを実感していた。

 潮騒が静かに響く。
 夜の海は群青から墨へと変わり、空には星が滲んでいた。
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