Eine Kleine

 ※文中にグロテスクな表現があります。苦手な方は御遠慮下さい。

 神聖衣を身に纏ったヘスティアは半身に構えた。腰を落とした状態から石畳を力一杯蹴り、リヴァイアサンに向けて一直線に翔んでいく。
 怪物は、攻撃対象を黄金聖闘士の二人からヘスティアへシフトした。
 襲撃して来る神の化身を蒸し殺そうと、怪物は鼻から煙を噴き出すが、ヘスティアが左手の短剣で十字を切り瞬時に消滅させた。
「こんなことするのは、気が進まないけど…」
 怪物の目の上に着地したヘスティアは、短剣を腰の鞘に納め、逆手に持ち直したレイピアを両手で握り締めた。
「ごめん!」
 一片の躊躇いもなく渾身の力で怪物の眼球にレイピアを突き立てると、それを導線にし一気に小宇宙を眼球内に放出した。バン!と大きな音がした。リヴァイアサンの眼球が破裂した音だ。

 グギャアアアアアア…!!

 目玉を潰された激痛に七転八倒するリヴァイアサンは、頭部を振り上げ未だ己の額付近にいるヘスティアを、頭上の海中に激しく叩きつけた。
「きゃあ!!」
 海中に押し込まれたヘスティアは激しく揺さぶられるうちに、その手からレイピアを放してしまった。いくら神といえども人間の体では海中での身動きは容易でない。その隙を狙って、リヴァイアサンは鋭利な歯牙が並び揃った頑強な顎を開くと、海水諸共、ヘスティアを腹の中に呑み込んだ。
「万里亜!!」
「ヘスティア様!!」
 敷かれた結界から出ないように言われたが、この緊急事態を看過する訳にはいかない。結界から飛び出したシュラとカミュは、それぞれに必殺技を次々と繰り出していく。しかし、それらは悉く跳ね返されリヴァイアサンにかすり傷程度も付ける事が出来ない。
「…くっ!一体どうすれば…!」
 呑み込まれたヘスティアを助けたいが、この巨大な怪物を前に打つ手が見当たらない。
「カミュよ、俺は奴の残っている目を潰す。援護してくれ。視覚を断てばこちらの動きを見切れなくなるはずだ」
「分かった。やってみよう」
 カミュが囮になり、その隙にシュラが死角へ回り込む。リヴァイアサンの火炎の息の攻撃を凍気でかわしながら注意を引き付ける。そしてシュラが地を蹴り頭上から攻撃を仕掛ける。カーブを描く様な剣筋は怪物に残されたもう片方の眼球を抉るように斬りつけた。

 グオオオオオオオオオン!
 残った片目も潰されたリヴァイアサンはさらにいきり立ち、猛然と暴れまわっている。天地を揺るがすような咆哮は海水を激しく波打たせ、海底神殿の脆弱化した地盤を激烈に揺るがす。
 完全に視界を断たれ怒りに打ち震えるリヴァイアサンは、その巨体を跳ね回らせ辺り構わず火炎や噴煙を噴き付ける。
「シュラ、まずいぞ!」
 カミュが叫んだ一瞬の出来事だった。リヴァイアサンの吐き出した高温の炎で周囲の海水が一気に蒸発し、激しい衝撃と熱風がシュラとカミュに襲いかかる。水蒸気爆発だ。周囲が見えなくなるほど、濛々と蒸気が立ち込める。爆発にまともに巻き込まれたはずのリヴァイアサンだが、まるでダメージを受けていない。それどころか、一層激しく体をうねらせ海中で暴れまわっている。時折その尻尾で海底を激しく打ち付け、海底神殿の石畳を破壊していく。
 一方、同じく爆発に巻き込まれた黄金聖闘士の二人は、カミュの張った氷の防御壁でかろうじて難を逃れた。
「危なかったな。あと一歩遅ければ命がなかっただろうよ。感謝するぞカミュ」
「いや、こちらが不利な状況は変わらん」
「確かにな」
 海底神殿の上で暴れまわるリヴァイアサンを見上げる二人に、焦りの色が見え始めた。呑まれたヘスティアの体力がそろそろ限界に達する頃だ。
「…俺も奴の腹に入ろう。内側から潰しに掛かる」
「しかし…!」
「万里亜を助け出さねばならんだろう。このままでは埒が明かん!」
「わかった。奴の炎は私が食い止めよう」
 天上の怪物を見据え、一か八かの攻撃を仕掛けようと二人が構えた時だった。

 ギャアアアアアアア!

 無敵とも思えた怪物は、それまでとは異なる断末魔の叫びを上げた。何事かと瞠目する二人の目の前で、怪物の胴の内から強烈な攻撃的小宇宙と眩い光が発せられた。ブチブチ…と鈍い音を上げながら巨大な体が千切れ始めた。次々に落ちてくる肉塊は、ドズン…ドズン…と重々しい音をたて海底の石畳に積み重なり、引き裂かれた胴からは赤黒い内腑がズルリとはみ出していた。ボタボタと降りかかる血の雨のせいで、辺りには錆びた鉄のような不快な匂いが充満してきた。その光景に二人は吐き気を覚える。
 強大な力で胴を引き裂かれた怪物は、ビクンビクンと全身を痙攣させている。その衝撃は、整然と敷き詰められた石畳を破壊させるほど激しかった。
 シュラとカミュが余りに凄惨なその光景に呆然となっていると、一つの肉塊から天に向かって閃光が鋭く走った。
 ズブズブと崩れ落ちる鮮紅色の塊の中に、白金の光が見えた。
「…ヘスティア、様」
「どうやら無事のようだな…」
 細い脚が敷石に散らばった肉や腑をビチャリビチャリと踏み潰し嫌な音をたてる。血だまりを歩いてくるヘスティアは、全身血塗れだ。歩く度に跳ね上がる血液が、さらに白金の鎧を汚染していく。
「二人とも…、結界から出ないよう言ったはずですが?」
 普段より低い声だ。
 全身をべったりと血に染め、黒く艶やかな長い髪からポタリポタリと赤黒い雫を滴らせ厳しい表情を見せるヘスティアの姿に、シュラとカミュの背筋を寒いものが駆け上がった。
「…まあ、良いわ。先にあれを封じてしまいましょう」
 ヘスティアは、額から鼻筋を伝う赤い液体を掌で鬱陶しそうに拭いながら、シュラとカミュに命じた。
「ポセイドン神殿の最深部に宝珠が置いてあります。それを取ってきて下さい」
「はっ」
 二人は一礼し、ポセイドン神殿へ走って行った。
 その後ろ姿を見送ったヘスティアは、辺りをぐるりと見回した。殆どがリヴァイアサンの火炎で焼かれてしまったが、僅かに生え残っている海草に顔を顰めた。
「シーブ・イッサヒル・アメル…。やっぱり、ね…」
 忌々しげに呟いたヘスティアの声は、誰の耳にも届く事はなかった。
 ポセイドン神殿の最深部─玉座の間よりもさらに奥にある祭壇の間に祀られている宝珠。これを取りに行けと万里亜に命じられたシュラとカミュ。無人の神殿で行く手を阻むものは何もなく、二人は回廊を駆け抜けて行った。
 玉座の間を抜け回廊の付き当たりに石造りの扉を見つけた。
「ここか…」
 屈まないと長身の二人は頭をぶつけてしまうくらい背の低い入口だった。
 扉を押し開けると、部屋の中は深海を思わせる円形の高い天井に、たゆたう光を周囲に乱反射させた巨大な万華鏡を連想させる何とも幻想的な空間だった。光の反射加減なのか、本当に海水が満ちているのか分からなくなる。しかし、部屋に足を踏み入れればそこに水がないと分かる。
「不思議な空間だな…」
 シュラが感心したような口調で室内をぐるりと見渡した。
「…ああ」
 同調したカミュは、中央の台座に置かれている宝珠を見つけ手に取った。
「これを使ってリヴァイアサンを封じ込めると言う訳か」
「ただ討っただけでは足りないと言う事か…」
 シュラはリヴァイアサンの腹の中から生還した時のヘスティアの姿を思い出し、顔を顰めた。そしてここに来たのが魚座の親友でなくて良かったと心の底から思った。
 宝珠を手に入れた二人はヘスティアの下へ戻った。
 降り続く海水の雨に打たれ、血肉に塗れた彼女の体は少しずつ本来の色を取り戻そうとしていた。
「ヘスティア様、神殿の奥より宝珠を持って参りました」
 二人の男はヘスティアの足元に膝を着くと、深い海の色に輝く珠を差し出した。
「御苦労でしたね」
 足元の二人を見て微笑んだ彼女は両手で包むように宝珠を持ち、それに向かって祈りを捧げた。
 すると四散していたリヴァイアサンの肉片や肉塊が、光の中に溶けるように輝きを放ち始めた。
 光の筋となったリヴァイアサンの体は見る間に宝珠に吸収されていき、後には一片の肉も一滴の血も残らなかった。ヘスティアの体に付着していた血液に至るまで、微塵の痕跡も残さず全て珠に納められた。
「カミュさん、これを元の場所に納めてきて下さい」
 そう言って宝珠をカミュに手渡したヘスティアは、聖域で見る普段通りの姿だった。
「御意」
 カミュは恭しく頭を垂れると、マントを翻して再びポセイドン神殿へ入って行った。
 カミュの後ろ姿を見送りながら、シュラが口を開いた。
「万里亜よ。それがヘスティアの神聖衣なのか」
「ええ、そうです。見た目は重装備ですけど、軽くて動きやすいですよ」
 少し気恥ずかしそうに話す彼女の一体どこに、あの怪物をたった一人で倒せるだけの圧倒的な力が眠っていたというのか。シュラは空恐ろしくなった。
「あの、シュラさん…」
 おずおずと遠慮がちにシュラを見上げたヘスティアは、何かを言いたそうな様子で、もじもじしている。
「…アフロディーテか?」
 何気なくそう言ったのだが、彼女は途端に驚いた表情になって何度も大きく頷いた。
「実は、ここに来るのを止められたんです」
「そうだろうな」
 ヘスティアは俯きがちに視線を足元にさまよわせ、両手を胸の前に組んで親指を擦りあわせている。
 デスマスクほど女心の機微に聡い訳ではないが、全くの朴念仁という訳でもないシュラは、彼女が何を言いたいのか大方察しがつく。
「さっきの件については、アイツに話すつもりなどない。俺達は任務内容の守秘義務がある。仲間内でも特段の事情がなければ話すことはしない。だが、お前の小宇宙は聖域の連中にもはっきりと感じ取れたはずだ。もし何か訊かれれば適当に言い繕ってやるが、それ以上の事は出来んぞ」
 ぶっきらぼうな言い方だが、シュラが心優しい男である事は先刻承知済みだ。ヘスティアはホッと息をつくと安心した様に笑顔を見せた。
「ありがとうございます」
「礼には及ばん」
「はい!」
 いつもと変わらない笑顔を向けたヘスティアからは、既にあの圧倒的小宇宙を感じ取れなくなっていた。
「お前は不思議な奴だ」
「え?」
「いや、何でもない。それより、それを着たまま聖域に戻るつもりか」
「あっ…」
 自分の姿を改めて見回したヘスティアは苦笑をしながら、「これじゃあ、バレバレですよね」と小さく舌を出し肩を竦めた。

 万里亜が神の化身で強大無比の力を持っているのは間違いないのだが、それが発動されるのは何か危機的状況が起こった時に限定されるようだ。
 頻繁に起こる事でなくとも、これが繰り返される事で万里亜の人格がヘスティアに取って変わられるのでは、とシュラは危惧していた。アフロディーテのためにも、彼女を神の領域へ近付けたくなかった。
 万里亜が、装備を解除しようと小宇宙を抑えはじめた。白金色の輝きが少しずつ薄れていくに従い、彼女の華奢な体を覆っていた神聖衣も次第に消えていく。
 装着した時よりも時間がかかるのは、まだ小宇宙の制御に不慣れだからだろう。
 神聖衣が全て収まる頃にカミュが戻ってきた。
「お帰りなさい。どうもありがとうございました」
 装備を介助し終え笑顔を向けるヘスティアの姿を目にしたカミュは、深く一礼した。

 それからヘスティアの瞬間移動で三人はアテナ神殿へと戻ってきた。
「カミュは万里亜を部屋へ送ってやれ。報告は俺一人で十分だ」
 ヘスティアをカミュへ託したシュラは、マントを翻しながら教皇宮へ下る石段の方へ歩いて行った。
 ヘスティアは、天を仰いで結界の破れ目を確認していた。さすが神話の時代から聖域を守り続けている結界だけあって、行く時に開けた亀裂は全く広がっていなかった。
(これならすぐに閉じられるわ)
 小さく頷くとカミュに下がるように命じた。
「破った結界を修復します。少し待っていて下さい」
「はっ」
 アテナ神像に手を当てると、そこから戦女神の強い小宇宙を感じる。伯母と姪の関係にあるヘスティアとアテナの小宇宙には多少なりとも似通った部分がある。そこへ慎重に波長を合わせて行く。
(ここだわ)
 小宇宙を同調させる事に成功したヘスティアは、次に結界の破れ目に向けて小宇宙を放出し始めた。

 黄金色に近い白金色の小宇宙がゆっくりと結界の亀裂箇所を繕っていく。

 海底で見せた攻撃的小宇宙とは異なり、雄大で慈愛に満ちた小宇宙は、アテナと酷似している。しかし、アテナよりも更に深い包容力を持っているようにカミュは感じた。
 黒髪の先から海水の雫を落としつつ祈りを捧げる女神。眩いほどに煌めく小宇宙は、徐々にアテナの結界を修復していく。
 その神秘的な美しさからカミュは瞠目した。
 結界の修復に成功したヘスティアは、大きく息をついてその場にヘタヘタと崩れ落ちた。
「ヘスティア様!大丈夫ですか」
「…ええ、大丈夫です。心配しないで」
 駆け寄ってきたカミュに笑顔を見せるが、疲労の色は隠せない。
「さ、戻りましょうか」
 膝に手をついて立ち上がろうとするが、足がふらついてよろりと体が傾いた。短時間で小宇宙を大量放出したため、かなりの体力を消耗したようだ。
「…私がお運び致します。お体に触れる事、ご容赦願います」
 眉根を寄せたカミュは、背と膝裏に腕を回しそのままヘスティアを抱き上げた。

 カミュはヘスティアの私室に到着すると、漸く腕の力を緩め彼女を解放した。
「ヘスティア様、何卒ご無礼をお許し下さい」
 跪き頭を垂れるカミュ。
「私は構わないのですが…それよりも、カミュさんはお怪我しなかったですか?」
「はい。私もシュラもヘスティア様のお陰で無事にございます」
「そうですか。それは良かった」
 ヘスティアはホッと息をついて安心した笑顔を浮かべた。

 玉座まで伸びた真紅の絨毯を、黄金の踵が音も無く踏み締めていく。
「山羊座のシュラ、ただいま任務より戻りました」
 シュラは背のマントをバサリと捌き、教皇の前に跪いた。
「今回の任務、大儀だったな。リヴァイアサンの退治も、ご苦労だった」
「やはり、ご存知でしたか」
「あれだけ派手に小宇宙を燃やしておれば嫌でも気付くわ。ヘスティア様もだ。全くあの方は大層なお転婆娘だ」
 愉快そうに笑ったシオンは、しかし直ぐに表情を正した。
「で、目的のものは見付かったか?」
「は、恐らくこちらかと…」
 シュラはガラス瓶に入った植物を取り出した。広幅の長い葉と太くしっかりした茎を持つその植物は、外敵から身を守るためなのだろうか、硬く鋭利な棘がその茎全体に生えていた。
 シュラから受け取った植物を見たシオンは、その表情を強張らせた。
「やはり…」
「教皇、その植物は一体?」
「シーブ・イッサヒル・アメルだ」
「シーブ・イッサヒル・アメル?」
 初めて聞く植物の名前にシュラは首を傾げた。
「お前たち、この草の棘で怪我をしなかったか?その顔の傷は?」
 シオンはその端正な顔立ちにはおよそ似つかわしくない、険しい表情を浮かべていた。
「これはリヴァイアサンにやられたもので、その棘については聖衣を装着していたので恐らく大丈夫かと」
「そうか…。ならば良い。体も冷えているであろう。もう下がって良いぞ」
 シオンはそれだけ言うとシュラに退室を命じた。

「シュラ!」
 教皇の間を出たところで背後から声を掛けられた。振り替えると、先程一旦別れたカミュが歩いてくる。
「カミュか…万里亜は?」
「今、部屋へお送りしてきた。それより報告は済んだのか?」
「ああ」
 済まなかった、と小さく頭を下げたカミュを軽く手で制したシュラは、腕組みをしながら先刻のシオンとの遣り取りをカミュに話した。
「…シーブ・イッサヒル・アメル?どこかで聞いた事がある名前だが…。他に何か仰っていたか」
「俺たちが、あの植物の棘で怪我をしなかったか訊かれた」
「棘で怪我を?」
「ああ。俺は大丈夫だと思うが、お前はどうだ?」
「そうだな…」
 カミュは腕組みをし、指を顎に当て記憶を辿ってみる。リヴァイアサンに吹き飛ばされた時に、もしかしたら傷を負ったかもしれない。しかし、あの時は戦闘に集中していて、そこまではっきり覚えていなかった。
「もしかしたらその棘で傷を作ったかもしれんが、はっきりとした事は言えないな」
 確かに、彼らはリヴァイアサンの強烈な破壊力で何度か海底に叩きつけられている。その時にあの有棘植物の繁茂する辺りにも吹き飛ばされたのは確かだった。
「教皇が何を危惧されているか分からんが、これ以上妙な事が起こらねばよいのだか…」
 カミュの言葉にシュラも頷いた。
「同感だ」
 海底に異変が起こり、単身極秘調査を行っていたカノンも影響を受けた。シオンの様子からも、一連の出来事がただ事でないと推察できる。
 男達は互いに顔を見合わせる。
 そこはかとない不安を感じつつも自宮へ帰るため、教皇宮を後にした。
 まだ海水浴を十分に楽しめる季節だったが、海水に濡れた体は随分冷えてしまっていた。それに、残痕は全て宝珠に吸収されたとはいえ、彼ら二人もリヴァイアサンの返り血を被っていた。その感触や臭いも早々に洗い流してしまいたかった。
 
 ヘスティアはカミュに部屋まで送られた後、すっかり冷え切った体を温めるため、熱い湯を張った湯船に浸っていた。浴槽の縁に頭を載せてぼんやりと天井を見上げながら、頭の片隅で今日の出来事を反芻する。
 海底に降りる事をサガに引き留められ、一時の感情に任せて彼の頬を打った事。心ならずもアフロディーテに狼藉を働いてしまった事。リヴァイアサン討伐の際に醜穢な場面をシュラとカミュに見せてしまった事。
 一人の人間としては勿論、神としても未熟で、精神も小宇宙も制御しきれていないが故の醜態だった。
 リヴァイアサンの凶悪性は、ヘスティアの記憶で知り過ぎる程に知っていた。あの怪物と対等に渡り合うためには海将軍の力が必要で、例え黄金位であっても聖闘士には極めて困難だったのだ。
 海将軍もポセイドンもいない。アテナは非力な少女になっている。この状況では、どうしても彼女が出撃するより他に方法はなかった。 
 しかも、海底では既にリヴァイアサンがシュラとカミュを攻撃対象とみなし、戦闘が開始されていた。あの攻撃を回避しつつ二人を聖域に瞬間移動させるだけの力を、今のヘスティアは身に付けていなかった。
 全て仕方なかった事だ。いくら己にそう言い聞かせてみても、一連の出来事は彼女を自己嫌悪に陥らせるには十分だった。
 一方で、カノンの件も気になる。海底神殿に繁茂していた植物は、間違いなくシーブ・イッサヒル・アメルだった。
 それは古代から伝わる若返りの植物で、本来なら中東にごく近い海底にしか生えていない海草だ。
 恐らくリヴァイアサンが近海を回遊するうちに種子が運ばれてきたのだろう。さほど繁殖力の強い植物ではないので、限られた地域でしか生息出来ないはず。
 もしかしたらポセイドンの結界内に入った事で、繁殖が可能になったのかもしれない。
「そうだと分かっても、一体どうすれば元に戻せるのかしら…」
 ひとまず、カノンの幼児化が作為的なものでない事は分かった。次はその先だ。一旦若返った体を戻す方法を探し出さなければならない。
 風呂から上がったヘスティアは、シオンに会う為に教皇の間へ向かった。既に任務完了報告は既に受けているはずで、リヴァイアサンの事もシーブの事も彼は承知しているだろう。
 キトンに着替え髪を結い上げると、自然と自身の中に女神ヘスティアの自我が芽生えてくるのを感じる。
「あぁ、また女神の人格になってしまう…」
 暫く目を閉じ呼吸を整える。
 次に目を開けた時、鏡に映る顔には女神としての威厳が宿っていた。

 教皇の間では、シオンが険しい表情でシーブの入ったガラス瓶を見つめていた。ヘスティアが入室すると玉座から降り、真紅の絨毯に跪くと深々と頭を垂れた。
「シオン、少し時間を頂けるかしら?」
「は、無論にございます」
「どうもありがとう」
 万里亜は、ヘスティアによる精神支配が強い時は自然と口調が変わる。それはシオンも良く理解していて、そのような時はいつも以上に恭しい態度で彼女に接するのだ。
 そんなシオンの態度に当初は戸惑ったものだが、最近はすっかり慣れてしまい、それが当たり前と感じるようになってきていた。
 自分の高慢さに少々嫌気を感じる。それが未だ聖域を出たいと考えてしまう原因でもあった。勿論アテナにもシオンにもそんな事を話すつもりは毛頭ないのだが。

 ゆっくり話をしたいからと、場をヘスティアの執務室へ移した。
「今回の件、あなたはどう見ます?」
「…双子座のカノンにつきましては、ヘスティア様も御覧になられた通りシーブが原因であると考えております。シーブの棘で怪我をし、恐らくその際に草汁が傷に触れてしまったのではないかと」
「シーブが海底神殿で繁殖した事については?」
「これも私の想像に過ぎないのですが、リヴァイアサンが海水を広範囲に撹拌した事で、シーブの生息区域に変化があったのではと…」
 質問に対して淀みなく回答を寄越してくるシオンを、さすがだと思った。
「成程…、では双子座のカノンを元の姿に戻す為の妙案はありますか?」
 これが現在の最重要事項だ。正式に双子座を拝命していないとはいえ、兄のサガが教皇補佐官として多忙を極める中において、カノンは事実上の双子座だった。
 それに加え、海将軍の役割も兼務するカノンをどうにかして元に戻さなければ、海界は不安定な世界となり、余波が地上を浸食するのが目に見えている。
「それにつきましては、先例もございません故、何とも…。文官や司書に命じて文献を調べさせている所にございますが…」
「そうですか…、分かりました」
 一口に調べるとは言っても、聖域の書庫に収蔵されている書物は膨大な冊数だ。それらを調べ上げるのは、いかに有能な彼らであっても骨の折れる作業に間違いない。一体どれほどの時間と労力を必要とするのだろう。
 仮に全ての蔵書を虱潰しに調べ上げたとしても、何の手掛かりも得られない恐れもある。
「些細な事でも結構です。何か分ったら直ぐに知らせてちょうだい」
 額に手を当てたままで、ヘスティアは溜息と共に疲れた声を出した。
「承知致しました」
 立ち上がり一礼したシオンは、一旦は退室する素振りを見せたが、何か思い直した様子でヘスティアの横に来ると、そこに膝をついた。
「…シオン?」
 何か言いたげに自分を見上げてくる金茶色の瞳を見返して小首を傾げた。シオンの目尻が切れ上がった大きな瞳は、どことなく猫を思い起こさせる。
「あまり無茶な真似はなさらないで下さい。寿命の縮む思いはもう沢山です」
 苦しげに呟いた言葉は、海底での一連の出来事についてだと瞬時に理解出来た。
 無茶と言われれば無茶だったかもしれないが、ヘスティア自身はそう言われるのに些か納得できない部分がある。だが、シオンのその心情も理解できる。
「…気を付ける事にしましょう。貴方には長生きしてもらいたいものね」
 彼女は困った様な笑顔で返事をした。
 
 この心優しい教皇を、今までどれ程傷付けてきた事か。それこそ彼がまだ現役の牡羊座だった頃から数えれば、恐らく両手足の指を使っても足りないくらいなのだろう。
 シオンと話し終えたヘスティアは、次にサガを呼び出した。理由はどうあれ、心配をしてくれた相手を叩いてしまった事は詫びなければならない。本来なら自分から彼の下へ出向くのが筋なのだが、補佐官執務室には他の黄金聖闘士も詰めている。そこで自分が頭を下げる事になっては、あの生真面目なサガ相手では却って面倒な事になってしまう。
 もう少し楽に生きてほしいと願うのは、自分だけではないと思うのだが…。

 ヘスティアの執務室にやってきたサガは、やはり子連れだった。
「申し訳ございません。カノンがどうしても離れてくれずに、やむを得ず…」
「謝る必要はありません。幼い子供が親から離れようとしないのは当然の事です。それだけ慕われていると思って、逆に感謝するべきですよ」
 恐縮しきりのサガに諭すように言ってはみたものの、カノンの様子を見ると、どうやらただのひっつき虫という訳ではなさそうだった。
 幼いながらも強い眼力を持つ青の瞳は、明らかにヘスティアへ怒りの感情を向けていた。
「二人ともお掛けなさい」
 そう言ってソファを勧めた瞬間、テーブルの上に置いてあったティーセットが『パンッ』と音を立てて砕けた。
「きゃ!」
 ヘスティアは思わず悲鳴を上げた。
「カノン!」
 サガが強い口調でカノンを窘めたが、当のカノンは全く怯む様子はなかった。
 手を触れずに物を壊せる。幼少時から見られた双子の異能とはこれの事か。
 小宇宙のコントロールができず周囲に害を与えてしまう。勿論、訓練をして小宇宙をコントロール出来るようになった大人のカノンであれば、怒りの感情を表出してもこのような事態にはならない。しかし、今のカノンにそれは無理な話だった。
 それに、ヘスティアはカノンの機嫌を損ねた原因が自分だという事も、再び自分がサガに乱暴を働くのではないかと疑われている事も理解していた。
「申し訳ございませんヘスティア様。お怪我はございませんでしたか!…カノン、ヘスティア様にお詫びをしないか!」
 ふくれっ面でプイとそっぽを向いたままのカノンを叱りつけるが、そのカノンは唇を噛み締めてだんまりを決め込んでいた。
「私なら大丈夫です。私があなたを叩いた事が余程気に入らなかったのでしょう。謝らなければならないのは私の方です。すみませんでした」
 ヘスティアが頭を下げると、サガは慌てふためいた。
「そのような事はお止め下さい!非は私にございました。決してヘスティア様が謝られるような事ではございません!」
「いいえ、あなたが引き止めたのは当然の事です。アフロディーテも私を海底に行かせまいとしました」
 ヘスティアは頭を振ると、アテナ神殿へ向かう回廊でのアフロディーテとの遣り取りを説明した。
「…そうでしたか。そのような事が…」
「全く乱暴者の女神だと呆れるでしょう?」
 話を聞き終えて神妙な面持ちで息をついたサガに、ヘスティアは自嘲気味に笑って言った。
 その後、カノンに視線を向けるとその前に膝をつき、ゆっくりと言い聞かせた。
「カノン君のパパを叩いたのはいけない事だったわ。とても嫌な気持ちにさせてごめんなさいね。ただ、お姉ちゃんには、どうしてもしなければならない事があったの。それはお姉ちゃんにしかできない事だったわ。それだけは分かってくれるかしら?」
 ヘスティアからの問いかけに、唇を噛み締めたままのカノンは小さく頷いた。
「…どうもありがとう。あなたは本当に良い子ね」
 そう言って頭を撫でてやると、カノンは途端に顔をくしゃりと歪めて涙をぽろぽろと零し始めた。
「…ごめんなしゃい…」
 消え入りそうな位の小さな声で言った後、カノンは声を上げて泣き出した。しゃくりあげて涙を流す幼子を抱き締めてやると、小さな手で懸命に抱き返してくる。その様子が非常に愛らしくて、暫くその小さな体を手放す事が出来なかった。

 ひとしきり泣いたら疲れてしまったのだろう。いつの間にやら、カノンは小さな寝息を立てヘスティアの膝で眠っていた。
「…全く、愚弟が無礼ばかり働き、お詫びの言葉もございません」
 サガは、眉間のしわを更に深くして疲れた口調で詫びた。
「あなたは、いちいち気にしすぎです。少しはカノンの奔放さを見習ってみてはどうなの?」
 それだけは明らかに無理だと分かっているし意地悪だと思うが、サガの過度の生真面目さを見ているとそんな無茶振りの一つもしてみたくなるのだ。
「私は弟のように自由に生きる事は出来ませんし、しようとも思いません」
「ふふっ…、でしょうね。まあ、それがあなたの長所であり短所でもあるんでしょうけど」
 そう言って、自分の膝を枕に気持ち良さそうに眠っているカノンの髪を撫でてやる。

 ――早く元通りにしてやりたい。

 暇さえあれば喧嘩ばかりしているようなこの双子の兄弟は、それでも互いに必要としているのだ。


 ヘスティアが海底神殿でリヴァイアサンを討伐してから数週間が経過した。相変わらずカノンは幼児のままで、また、元の姿に戻す方法も分からないままだ。サガは毎日カノンを連れて出勤している。一時はヘスティアに警戒心を持ったカノンだったが、子供なりに考えた結果、害悪を及ぼす事のない相手と結論付けたようだ。その証拠に、カノンは毎日彼女の執務室に遊びにやって来る。
「おねえちゃん、おはようごじゃいましゅ」
 今日もカノンは顔を出す。
「おはよう、カノン君。今日は何して遊ぼうか?」
「たたかいごっこ!」
「え、戦いごっこ?」
 青い目をキラキラさせて、カノンはヘスティアに抱きついた。昨日、退屈しのぎに動画サイトで戦隊ヒーローの映像を見せていたのが原因だ。
「そうね、しばらく体を動かしてないし、そういうのもたまには良いわね」
「やった!」
『はやく、はやく』と急かすカノンを連れて、アテナ神殿へ行こうとした矢先、侍女が息を切らせてやって来た。
「ヘスティア様、教皇猊下がお目通り願いたいと…」
 シオンから目通りの願いがあるなど、滅多な事では有り得なかった。ヘスティアはそれがカノンに関する事だと直感した。
「分かりました。すぐに参りましょう。あなたはこの子の遊び相手をしてあげてください。戦いごっこをしたいそうなので」
「は、戦いごっこ…ですか?」
 ヘスティアより年若い侍女は、教皇の間からここまでの僅かな距離を走っただけで息切れしている。運動不足は明らかだ。
「少しは体を動かしなさいね。カノン君、こっちのお姉さんが今日は遊んでくれるから」
「おねえちゃんは?」
 悲しそうな表情をされると負けそうになるが、ヘスティアはカノンの頭を撫でて『急ぎのお仕事で、教皇様とお話ししなくちゃならないから』と言い聞かせた。
「お仕事終わったら遊ぼうね」
 そう言ってカノンの小さな体を抱きしめた。
 一旦執務室へ戻り、マホガニーの執務机でシオンの到着を待つ。
 あのシーブ・イッサヒル・アメルの薬効を相殺できる何かがあるのだろうか?ヘスティアは顎に指を当てて考え込む。その時部屋の扉がノックされた。シオンがやって来たのだ。
「どうぞ」
「失礼いたします」
 入室してきたシオンの表情を見て、やはり何かの情報を得たのだと確信した。
「待っていました。座って話しましょう」
 ヘスティアはソファへ座るよう促した。
「何か分かったの?」
 その問いに答える代わりに、シオンは一冊の古い文献をテーブルに置いた。
「これは?」
「覚えておいでですか?薬師の島の事を…」
 その羊皮紙の変色具合からかなり昔の書物だとわかる。しかし、シオンの言う『薬師の島』とやらが、一体どこの島を指すのかピンと来ない。
「そういう尋ね方をするという事は、アミリアなら知っているという事ですね?」
「…仰る通りです」
 今更、前時代の記憶で物を語れと言われるのは正直困惑する。それは、過去と現在の記憶の時間軸に捻れが生じ、万里亜のアイデンティティーが崩壊しそうになるのだ。その事は誰にも話していないが、シオンがわざわざ文献を持ち出してまでそう問いかけてくる意図が読めなかった。
「薬師の島は、かつて聖域近海にあった島です。そこには、あらゆる怪我や病気を癒すための薬草や薬師の技術がありました」
 シオンは文献をパラパラと捲りあるページを開くと、ヘスティアに向けて差し出した。それを受け取った彼女は、書かれてある文章を見た。古い言葉が使われていたり、ところどころ文字が滲んでいたりで読み取るのが難しく、眉間にしわを寄せた。
「読みづらいわね…。えっと、これは人の名前ね…。ル、コ?このルコという薬師が…ん、スペ?冥闘士!?ど、どういう事!?」
 震える指先で文字をたどり読み進める。
 前聖戦より少し前、薬師の島にはルコという名薬師がいた。彼の育てた薬草は、どんな怪我や病気にも大変に効果があった。ところがその薬草の多くは、事もあろうに冥界の植物だった。ルコはそれを患者に与え、意図的に冥闘士を作り上げていた。
「何と…そんなことがあったんですね」
 年代的にアミリアが聖域にいたのは間違いないが、その頃の記憶を掘り返すにはもっと情報が欲しかった。
 更に記録を読み進めると、薬師ルコは天立星ドリュアスの冥闘士だったことがわかった。また、誉れ高い薬師がなぜ冥闘士になったのかまで、文献には事細かに書かれていた。
 その記述の中に『Ἰχθύες』の文字を見つけた。
「あら?魚座って…もしかして、この件はアルバフィカが任務に当たったということ?」
 古い記録の中に過去の恋人の名を見つけ、胸が熱くなる。この頃には言葉を交わす事は勿論、顔を合わせる機会すら少なくなっていたから。聖闘士として立派に役目を果たしていたアルバフィカの姿が、一文字一文字の向こうに見えてくる。懐かしさに目を細め、自分でも知らずにアルバフィカの名を何度も指でなぞっていた。
 やがて、文献を読み進めるヘスティアの手が止まった。同じ箇所を何度も読み返している。
「…ルコは、先代魚座ルゴニスの実弟って…。何、これ…?」
「驚かれるのも無理はありません。…当時、私もその事実に強い衝撃を受けました」
 遥か昔の記憶だが、シオンはその事を鮮明に覚えていた。
「だけど、シオン…この事件と今回の事件に何か関係が?」
「…薬師の島に手掛かりがあるかもしれないと分かりました。薬師の島は既に無人の廃墟と化していますが、アフロディーテに調査を任せます」
「それは…それだけは止めてください。あそこに彼を行かせるのだけは…」
 ロトスの実を食べさせてまで封印した過去の記憶を、敢えて刺激するような真似はしたくない。文献を読む限り、アルバフィカが相当過酷な経験をしたのは想像に固くない。
「彼を、薬師の島で二度も傷付けたくないの。シオン、お願い…」
 ヘスティアの願いは、アミリアの願いでもあった。
8/34ページ
スキ