Eine Kleine
貴鬼から借りた洋服は少々だぶつくとは言え、一応体裁は整えられた。それでも、いつ元の姿に戻れるか分からないので、シオンに許可を取りアテネまで買い物に行く事にした。
サガは、教皇補佐役の正装である濃紺の法衣を暑い中でも真面目に着ているので、双児宮へ着替えに帰した。
貴鬼がカノンと遊んでやっているが、貴鬼も、あのカノンがこのような姿になってしまっている事に戸惑いを隠せない様子だ。
「カノンさん、何しに海底神殿に行ったのかしら…」
「アテナの壺の確認には、つい10日ほど前に行っておりましたが」
「ですよね」
監視業務以外に海底神殿へ赴く目的が今一つ見えてこない。元々口数も少ない方なので、正規の任務外の事は事後報告が多い。
最も、報告書はきちんと作成し一両日中には提出されるので、シオンも口喧しい事は言わないのだ。
「困ったわねえ…」
「困りましたな…」
困った困ったと言う割には、大して深刻な様子でもない二人は貴鬼が淹れてくれた茶を飲みながら、戯れている子供達を眺めていた。
白羊宮へ再び現れたサガは、ボーダーカットソーにネイビーシャツを羽織り、白のアンクルパンツという出で立ちだった。彼にしては珍しく、大分カジュアルな服装だが、とても良く似合っていた。
ヘスティアとカノンの服装に合わせたようだが、こういう格好をしているとカノンと見間違えそうになってしまう。
「大変お待たせ致しまして、申し訳ございませんでした」
「いえいえ、そんなに待ってないですよ。じゃあ、行きましょうか。教皇様は、ちゃんとお仕事なさって下さいね」
ソファから立ち上がったヘスティアは、このまま放っておくと自主欠勤しそうなシオンに釘を刺し、貴鬼に礼を言ってから、サガとカノンと一緒に白羊宮を立ち去った。
聖域の外からバスとトラムを乗り継いでアテネ市街へ出た。子供服を買える店をスマートフォンで検索し、とりあえず、最近出来たと話題の大型ショッピングモールに行ってみる事にした。
「こういう所なら大体揃うと思うんですけど…」
ヘスティアは、館内の案内図を見ながら子供服の店を探している。肌着なども買わないといけないが、そういう店はあるのだろうか。
ヘスティアが案内図のパンフレットを広げて「ここと、ここに行ってみましょう」と先導する。カノンは並んでいる店が気になるのか、サガの手を引っ張って「あっちー」とか「こっちー」とか言っている。
それでも大人のサガを動かせるほどの力があるわけでもなく、簡単に抱き上げられてしまう。
「パパー!おろしてよー!」
カノンの叫びにヘスティアとサガの動きが止まった。
前を歩いていたヘスティアがゆっくりと振り返る。サガとカノンを見るその顔は、明らかに引き攣っている。
「…今、パパって?」
「え、いや…その…」
サガも状況が呑み込めないようで、明らかに動揺している。
「サガさん、その子本当にカノンさんですか?」
疑いの眼差しが向けられ、一層困惑するサガに、カノンがさらに続ける。
「パパ、ぼくあるけるよ!」
ヘスティアは額に右手を当て大きな溜息をつくと、近くにあったベンチを指し「座れ」と目で合図する。
「…どういう事ですか、サガさん」
「どうもこうも…」
無言で座っている二人を、カノンはきょとんとした顔で見上げている。
「ねえ、パパぁ。ママと『にいに』はどこ?」
サガの膝の間に立って、甘えるように抱きつくカノンを見て、サガは何かに気づいたようだ。
「ああ、分かりました」
「何が」
「私達は父親似なのです。だから、カノンには私が父に見えるのでしょう」
「なるほどね…。で、サガさんは『にいに』って呼ばれていたわけですね」
サガを見てニヤつくヘスティア。
全く厄介な事に巻き込まれてしまった。先を考えると思いやられるが、サガを父親と勘違いしているカノンに、ヘスティアは優しく話しかけていた。
「ねえ、カノン君。今日はね、ママと『にいに』はお留守番なの」
「どうして?」
「ご用事があるんだって。だからね、パパとカノン君とお姉ちゃんの三人でお買い物に来たんだよ。お姉ちゃんとお買い物してくれるかな?」
「うん、いいよ。おねえちゃんかわいいし、ママにちょっとにてるもん」
「ありがとう」
笑顔でカノンの頭を撫でるヘスティアは、確かに彼らの母親にどことなく雰囲気が似ている。姿形が似ているのではない。幼い子供に傾ける慈愛の心が、そう見せているのだろうか。
孤児の守り神でもあるヘスティア神は、元来愛情深い女神だ。その化身である万里亜も、日本では児童養護施設に勤務をしていた。彼女の持つ魂は、常に『守る』事を業としているのだろう。
聖域でも、自分達の前でも、決して見せた事のない女神の微笑みだった。
日常では、時々言葉遣いが雑だったり、少々お転婆な面が見えるヘスティアだが、このような場面を見ると、否応なく彼女の母性を認識させられる。
子供と仲良くなるのも才能や適性が必要だが、さすがにヘスティアはその辺りには長けている。
人見知りが激しいはずの幼いカノンと、すっかり仲良くなり手を繋いで歩いている。
子供服の店に着くと、手早くあれこれ必要なものをカゴに入れていく。どうやら買物は即断即決出来るタイプのようだ。
以前、沙織の買物に護衛で付いた時などは、とにかく彼女が決められない事にうんざりした記憶がある。
あれもこれも可愛い、それも素敵と言いながら、結局それらを全てお買い上げしたのだ。
彼女の育った環境ならそれでも全く問題はないのだろうし、グラード財団の総帥として敏腕経営者である事も知っている。
それでもサガとしては、ヘスティアのような無駄のない買物の仕方を好ましく感じるのも事実だ。
下着やパジャマも買い揃えたヘスティアは、次に靴を買いたいと言って、手元のパンフレットでシューズショップの場所を確認していた。
「靴も買うのですか?」
「ええ、貴鬼君の靴では大きいでしょ?カノンさん、歩きづらそうなんですよね」
「しかし、いずれ元に戻るでしょうから、そこまでせずとも良いのではないでしょうか?」
そう異議を唱えるサガに、ヘスティアは首を振って答えた。
「サガさん、足に合わない靴を履いていては、子供の成長に良くないんです。確かに、いずれ元のカノンさんに戻るでしょう。でも、それがいつになるか分からないんです。今歩きづらいんだから、今必要なんです」
ヘスティアの言う通り、カノンは歩きづらそうにしている。面ファスナーを一番きつく止めても、度々踵が抜けて転びそうになるのだ。それを確かに可哀想だと思う。
「承知しました。では、シューズショップに行きましょう」
弟が幼児になったのを受け入れたつもりでいたサガだが、ヘスティアの方が、よほどこの事実を冷静に受け止めている事に気が付いた。
サガはヘスティアの心遣いに感謝した。
「パパー、ぼくおなかしゅいたー」
新品の靴を履いたカノンが駆け寄ってきた。買物に夢中になっているうちに、昼の時間を大分過ぎていた。
「ああ、そうだな。食事にしないといけないな」
「やったー」
空腹の割に元気なカノンは、ヘスティアとサガの手を引っ張り「はやくはやく」と急かす。
「ヘスティア様、何かお召し上がりになりたい物はございますか」
「向こうに美味しそうなイタリアンのお店がありました。そこが良いです」
やはり彼女は優柔不断とは無縁らしい。恐らく店の前を通った時に、そこでランチをしようと決めていたのだろう。
「では、そこにしましょう」
三人はまるで親子のように仲良く手を繋ぐと、レストランへ向かって歩き出した。
ランチタイムはピークを過ぎていたため、店内の人影はまばらだった。
サガとヘスティアはそれぞれランチのパスタを、カノンには子供向けのメニューをオーダーした。
セットのサラダの後、しばらくするとメインのパスタが運ばれてきた。
「お待たせいたしました。サーモンのクリームパスタのお客様は?」
「え、クリームパスタ?」
サガとヘスティアは顔を見合わせた。どちらもクリームパスタは頼んでいない。
「申し訳ない、私達はクリームパスタを頼んでいないのだが」
サガにそう言われた店員は、伝票を確認すると『しまった』という表情を見せた。どうやら、間違えてオーダーを入力したようだ。
「失礼しました。すぐにお作り直しいたします」
「済まないがそうしてくれ」
「あ、待って」
ヘスティアは、パスタの皿を持って厨房に戻ろうとする店員を呼び止めた。
「ランチメニューだから、クリームパスタも金額は変わらないですよね?」
「え、はい」
ヘスティアは店員の返答にニッコリした。
「じゃあ、私がそのパスタいただきます」
「ですが、良いんですか?」
ヘスティアの申し出に初めは戸惑っていた店員だが、『クリームとトマトで迷っていたから、問題ない』と言う彼女の言葉に恐縮しながら、クリームパスタをテーブルに置いた。
店員が下がったのを見計らって、サガが口を開いた。
「ヘスティア様、本当に宜しかったんですか?」
彼女がランチメニューを見てすぐ、トマトソースパスタに決めたのをサガは見ていたのだ。
「ええ、問題ありません。クリームソースも大好きです」
ヘスティアはにっこり笑った。
聖域へ戻ったのは夕暮れ時だった。カノンはバスに揺られている間に、すっかり熟睡してしまった。あどけない寝顔はまさに天使そのもので、あのカノンと同一人物とはとても思えない。
「サガさん、海底神殿に行くのって難しいんですか?」
「いえ、スニオン岬からなら比較的容易に行けますが…」
「行ってみませんか?」
「本気で仰っていますか」
サガとしては、そのような提案に賛同できるはずもない。
「宜しいですか、ヘスティア様…」
一旦言い出すと聞かない性格の女神を、どうにか思い止まらせようと説得を試みるがそれで彼女が納得するはずもない。
「海底神殿に行きたいんです!」
そこへ行けばカノンを元に戻すカギが見つかるかもしれない。今はポセイドンは封じられているから障壁となるものはないだろう。そうヘスティアは思ったのだが、当然サガが了承するはずもない。
「それはなりません」
「何か分かるかもしれないんですよ」
「『かもしれない』でヘスティア様を危険に晒すことなどできるはずありません」
「ちっ」
とことん反論されるのが悔しくて、ヘスティアは小さく舌打ちした。
「舌打ちなど、女性がするものではありません」
おまけに、その舌打ちも窘められヘスティアは嘆息した。しかし、サガはそれに構わず真剣な面持ちで続けた。
「とにかく、海底神殿へ行くなど危険な真似はお止め下さい」
「危険って…、何もないでしょ?」
「何かあってからでは遅いのです。海底には黄金の誰かを派遣しますので、ヘスティア様はお気になさらぬようお願い申し上げます」
頑固で心配症のサガが、ヘスティアの海底神殿行きを了解するなどとは思っていない。黄金を派遣するというが、自分の目で確かめたい気持ちはある。
(スニオン岬で待ち伏せるか…)
そこで任務にやってきた黄金を言い包めて、共に海底へ降りれば良い。
「それから、くれぐれもスニオン岬で黄金を待ち伏せするなどの愚行はお控え下さい」
「ぐっ…」
彼女の考えなどお見通しというように、サガはきっぱりとした口調で釘を刺した。
十二宮の入口に人影が見えた。薄闇でもそれが誰なのかはすぐに分かった。鼻腔を優しく擽る薔薇の芳香に、ヘスティアは笑顔になる。
「アフロディーテさん!」
今日はディナーを一緒にすると、朝約束したのだ。終業時間になっても帰ってこなかったので、下で待っていてくれたようだ。
「お帰り」
駆け寄ったヘスティアの頭を優しく撫でる。
「サガ、万里亜は借りて行くよ」
「くれぐれも粗相のない様にな」
「分かっているよ」
疲れた様子のサガにアフロディーテはクスクスと笑う。ヘスティアに振り回されたのだろうと想像できたのだ。
「約束通り執務は早めに終わらせたよ。さ、ディナーに行こう」
「はい。あ、でもその前に荷物を双児宮に運ばないと」
ヘスティアは両手のショッピングバッグを少し持ち上げて、「これ」とアフロディーテに見せる。すると、彼はそれらの荷物を優しく取り上げてからサガの方へ差し出した。
「サガ、持っていけるだろ?」
「アフロディーテさん、それは無茶よ。サガさんは子供連れなのよ?」
驚いて抗議の声をあげるヘスティアだが、アフロディーテはさして気にも留めない。
何せ一日中ヤキモキさせられていたのだ。寧ろ、この程度のささやかな仕返しくらいしてやらなければ気が済まない。
「大丈夫だよ。彼も聖闘士なんだから。な、サガ」
「…ああ、問題ない」
そう言って荷物を受け取ったサガは、軽くアフロディーテを睨んだ。それを見てアフロディーテは満足そうに微笑むと、踵を返してヘスティアの手を取り、聖域の出口方面へと歩き出した。
普段よりも強い力で引かれる腕が痛い。
一緒に歩く時は必ず彼女の歩調に合わせてくれるのに、今は広い歩幅で歩くアフロディーテに付いて行こうと、彼女は小走りになっていた。薄闇の中で長い髪の毛に隠されて彼の表情が見えない。
「アフロディーテさん、腕痛いわ」
やや遠慮がちに言ってみると、アフロディーテは、はっとしたように歩調を緩めヘスティアの腕を見た。
「…ごめん」
そう言って手を離した。ヘスティアは、掴まれていた部分の痛みを和らげるようにそっと腕を擦った。それに気付いたアフロディーテは、その整い過ぎた顔を曇らせた。
「痛かったろ?」
痛む個所を擦る彼女の手に、アフロディーテは自分の手を重ねた。
「ううん、大丈夫」
心配をかけまいと笑顔で返すヘスティアに、アフロディーテの胸がジクリと痛む。
つまらない嫉妬だった。
子供になったカノンの洋服などを買いにアテネへ行った、とシオンから聞かされた時、恐らくオープンしたばかりのショッピングモールに行くだろうと想像できた。
幼い子連れの若い男女。しかも子供は男と良く似た顔立ちとなれば、周囲からは当然家族連れと見られるはずだ。まさか、誰もその幼児が突発的に幼児化してしまった28歳の大人だとは想像もしないだろう。
次の休日にモールへ誘ってみようと計画していたのに、思わぬ形でサガに先を越されてしまった。別に、今日行ったからという理由で、休日の誘いを断るような真似をヘスティアが絶対にしないのは分かっているし、サガが忠誠心以上の気持ちを持っていないのも知っている。
それでも、サガに先を越されたのが悔しくて仕方なかった。そのシチュエーションも含めて。
「…今日は、楽しかった?」
上機嫌で帰ってきた彼女を見ればこんなのは愚問でしかないが、彼女に思いやりのない態度を取ってしまった後なので、何を話して良いのか思い付かず、つい口走ってしまった。
そんなアフロディーテの気持ちを知ってか知らずか、ヘスティアは少し困ったように笑って言った。
「モールでのお買い物はすごく楽しかったんだけどね、若い女性やママさんからの視線が痛すぎたわ…ははは」
やはり、家族連れと認識されていた様子だ。改めて本人の口から聞かされるとショックは大きい。だが、次の言葉はアフロディーテの心に落とした影を払拭するには十分すぎる程だった。
「今度の休日、一緒に行かない?モール」
驚いた表情をしたアフロディーテを見て、彼女は自分が失言をしたと思ったのか、「アフロディーテさんの気が向いたら…」と付け足して視線を足元に落としてしまった。
「ふふっ、先を越されてしまったな」
「え?」
きょとんとして見上げてくるヘスティアに、アフロディーテは自然と笑顔になる。
「私もね、君を誘おうと思っていたんだよ」
――私が君に似合う素敵な洋服を見つけてあげるよ。
耳元でそう囁かれたヘスティアは、薄闇の中でもはっきりと見て取れるほど顔を赤らめていた。
アフロディーテは近くの街に美味しいビストロがあるからと、そこに連れて行ってくれた。オーガニックの野菜と新鮮な魚介類を使っていて、どれもヘスティアの口に良く合った。
「私、海底神殿に行ってみようかと思っているの」
「海底神殿?」
怪訝そうな表情で首を傾げるアフロディーテを見て、ヘスティアは小さく頷いた。
「カノンさんが子供になった原因が海底にあるかもしれないの。だから…」
「…それは、君がするべき事なのか?」
アフロディーテの声がワントーン低くなって、視線がテーブルの上に落ちた。機嫌を損ねたときの彼の態度だ。
「私のするべき事かもしれないし、そうでないかもしれない。でも、このままにもしておけないから…」
「私は賛成できないな。君は、世界の安定に必要な唯一無二の存在だ。危険があるかもしれない場所へ、無闇に近づけるわけにはいかない。替えの利く我々とは違うんだ」
――替えの利く我々とは違う
その言葉が胸に突き刺さり、一瞬心臓も呼吸も止まった気がした。カトラリーを持つ両手が小刻みに震えるのを自覚する。
目の前のプレートに載っている料理が涙で滲む。
「私…、誰も誰かの代わりになれるなんて思っていない。…私だけが尊い存在なんて、そんな事…」
厳密に言えばアフロディーテの言葉は正しい。だが、それを彼の口から聞きたくなかった。言ってほしくはなかったのだ。
ヘスティアは、その後の事はよく覚えていない。ただ運ばれてきた料理を食べ、当たり障りのない会話をし聖域へ帰った。
アフロディーテが自分を心配してくれている事は痛いほど分かる。その理由が、アテナと共闘する女神ヘスティアへの義だけでないとも分かっている。
だが、ヘスティア自身、アテナも聖闘士も大切に想っているし、己に備わった神の力で彼らを守りたいと思っているのだ。なのに、それが伝わらない事が歯痒くて仕方なかった。
翌日、サガの指示で山羊座のシュラと水瓶座のカミュが海底神殿へと赴いた。
とりあえずは海底神殿内の調査をし、そこに不穏な動きがないかを確認するものだった。
通常任務は二人一組で行動するのが原則で、その組み合わせは任務の内容と各々の特技性質を考慮して決定される。
水と氷の魔術師と呼ばれるカミュと、いかなる物をも切り裂く聖剣を腕に宿したシュラ。この二人であれば、万が一にも敵に後れを取る事はあるまい。
サガとアフロディーテから海底神殿行きを窘められたヘスティアは、昨日一日外出していた事で溜めこんでしまった執務を行っていた。
サガは今日も子連れ出勤だった。カノンはまだ一人で留守番できるほどではなく、部下達もそれぞれ忙しく預け先がなかったのだ。
執務室に連れてきた事は良いが、人見知りの激しいカノンは黄金達に囲まれた状況に落ち着かない様子で、サガの膝の上から全く動こうとしなかった。離席する度、いちいちカノンを抱っこするのも面倒なのだが、致し方ない。
「これはヘスティア様に御頼みしなければな」
急ぎの書類の中に、ヘスティアの決裁が必要な物が何通かあった。サガはカノンを抱き上げると書類を手にし、彼女の執務室へ向かった。
ノックをすると、いつもよりも事務的で抑揚のない声で「どうぞ」と返事があった。
(珍しく機嫌が悪いな)
ヘスティアが苛立ちの感情を表出する事は珍しい。だから、余計にその感情の機微が目立ってしまう。
「失礼します」
昨日、海底神殿へ行きたいと言った彼女を咎めた事が原因だろうと容易に想像できるが、サガとしてもそこは譲れなかった。
白塗りの扉を開けると、正面の机ではヘスティアが不機嫌そうな顔をして書類と格闘していた。
「あ、きのうのおねえちゃん!」
サガの腕から抜け出したカノンがヘスティアに走り寄った。
「あら、カノン君。いらっしゃい」
先程までは不機嫌そうな気配を漂わせていたのが、ニコニコと可愛らしい笑顔を浮かべるカノンを見た途端に相好を崩した。
デスクから立ち上がると、腰に纏わりついてくるカノンを「よっこいしょ」と抱き上げる。
「どこにいたの?」
「うんとね、パパのおしごとばー」
「そう、いい子にしてた?」
「うーん…」
目を細めながらカノンの柔らかな髪の毛に頬を当てるヘスティアに、サガの胸中は穏やかでない。
「カノン、こっちに来なさい」
自分で思っていた以上にキツイ言い方になってしまった。相手が幼児であるにも拘らず、余裕のない己に自嘲する。
「ヘスティア様、こちらの書類をお願いします。急ぎではございませんので」
デスクの上に何通かの書類を置くと、カノンを連れ退室しようとする。が、そのカノンがヘスティアから離れようとしない。
「おねえちゃんはひとりでおしごとしてるの?」
「そうよ。ここがお仕事部屋なの」
「パパたちとおしごとしたら?あっちのおへや、あいてるつくえあったよ」
子供らしい無邪気さで誘ってくるカノンに、ヘスティア少し困った表情を浮かべる。断る明確な理由はないが、かと言って補佐官執務室で聖闘士達と共に執務をするのも立場上どうなのかと思う。
「うーん、空いてる机は他のお兄さんの机だから、勝手に使えないの。ごめんね」
「そっか…」
シュンとうなだれるカノンの姿が可愛らしくて、一層罪悪感を感じてしまう。目線が合うようにしゃがんだヘスティアは、カノンの頭をよしよしと撫でる。
「…構わないでしょう。カミュとシュラのデスクでしたら片付いていますし、特に支障はないかと」
サガも特段拒む理由もないと判断したのだろう。そして、これに気を良くしたのはカノンだった。
「パパがいいっていってるよ。おいでよ」
結局、執務室は移動せずにカノンをヘスティアが預かる事で合意に達した。サガはしきりに恐縮していたが、元々子供相手に仕事をしていたヘスティアとしては大して気にもならない。
デスクで執務をするヘスティア。彼女の膝の上にはカノンが座って、用意された折り紙を小さな手で懸命に折っていた。
時々書き物の手を休めて折り方を教えたり、幼児の他愛ないお喋りに根気よく付き合う。
「おねえちゃん、どらごんもつくれる?」
「ドラゴン?それはちょっと難しいわねえ…。カノン君はドラゴン知ってるんだ」
この年齢でドラゴンを知っているとは絵本などをたくさん読んでもらっていたのだろう、と双子が本当に幼かった時分を想像し微笑ましく感じる。
「うん。ぼくね、どらごんみたことあるんだよ」
「へえ、本当にいるんだ。どこで見たの?」
書類にサインをしたり決裁印を押したりしながらも、ヘスティアはきちんと会話をこなしている。
「うみのなか。きのうのまえのひにみたよ」
「え?」
その言葉にヘスティアの手が止まった。
「昨日の前の日?」
要するに一昨日の事だ。恐らくカノンが海底神殿に無断で降りたと思われる日がそうだ。
ヘスティアの不安をよそに、カノンは身振り手振りを交えて一生懸命に説明をしている。
「ぼくね、うみのなかで、こーんなおおきなどらごんみたんだよ」
同じ年頃の子供と比べると、少し長めに感じる両腕を目一杯広げて「このぐらい」と示す。
「ぼくね、びっくりしてかくれようとしたらトゲトゲのくさでけがしちゃったの」
「で、そのドラゴンはどうしたの?」
「どっかいっちゃった」
海の中のドラゴン…。まさかタツノオトシゴというわけでもないだろう。大人のカノンであれば、クジラや大型魚と見間違えた可能性は限りなくゼロだ。
「まさか…リヴァイアサン…?」
補佐官執務室にカノンを抱えたヘスティアが血相を変えて飛び込んできた。
「サガさん、今すぐ海底神殿に向かいます!」
決しておっとりした性分ではなく、少々お転婆な面が見られるものの、ヘスティアは取り乱したり声を荒らげたりといった粗雑な行動をする事はない。聖闘士達もそのように承知している。それ故に、ただ事ではないと、その場にいた全員が瞬時に悟った。
「いかがなさいましたか」
落ち着いた声色で宥めるように話すサガに、ツカツカと歩み寄ったヘスティアの表情には、焦りの色が見てとれた。彼女は早口でサガにまくし立てた。
「リヴァイアサンが海底神殿付近にいる可能性があります。あれは凶暴過ぎて危険です。海底に行った二人を直ぐに退避させて下さい!」
有無を言わせぬ強い口調でサガに詰め寄るヘスティアに、執務室の誰もが唖然とする。
「…なぜ、リヴァイアサンがいると?」
「カノンさんが、一昨日海底で遭遇しています。海将軍を務めた方が、別の生物と見間違うとは考えられません」
海闘士はポセイドンを守護する戦士であると同時に、海洋の治安維持の役目も担っていた。リヴァイアサンを始めとした怪獣の討伐は彼らの業であったのだ。
しかし、先の戦で海の戦士達は命を落としている。即ち、海底は多くの異形の生物が跋扈する危険地帯となってしまったのだ。
「しかしヘスティア様、あの二人であればリヴァイアサンごとき、易々と退治できる力量を備えております」
「…あなたはあれの凶暴性を知らないのです。あれは神が創ったいわば神獣。討伐するには同等の力が必要です。過去の海将軍でさえ、最終的にはポセイドンの力を必要としていたのですよ。アテナの助力を得られない今、私が行くのが筋です」
そう言って踵を返そうとしたヘスティアの肩を掴み、サガが引き止める。
「ご無礼を承知で申し上げますが、アテナは闘いに特化した能力を備えた女神です。あなたとは元々の役割が違う。そもそも、あなたは闘い方を知らないではありませんか!」
パシン!
執務室内に乾いた音が響き、その場の誰もが目の前で起きた光景に瞠目した。
「馬鹿にしないで下さい!私とて神の端くれ。アテナ程ではなくとも闘い方は心得ています!」
ヘスティアが、サガの頬を平手で打ちつけたのだ。
「私も見縊られたものですね。…残念です。カノン君、あなたのパパを叩いてしまってごめんね」
傍で泣きそうな顔をしているカノンに謝ると、呆然とする聖闘士達には目もくれず、ヘスティアは急ぎ足で補佐官執務室を出ていった。
聖域から海底へ空間を移動するには、アテナの結界を破らなければならない。結界に綻びが生じるとそこから亀裂が広がり結界全体が脆弱化する。
そうなると聖域の守備力が著しく低下するため、破れ目が小さいうちにその箇所を修復する必要がある。
リヴァイアサンを討伐し、アテナの小宇宙と同調させ結界を敷き直す。
時間はあまりない。アテナ神殿へ足早に向かうヘスティア。その後ろからアフロディーテが追いかけてきた。
「万里亜、一人で行くつもりなのか?」
「当然よ」
「それなら行かせる訳にはいかないな」
ヘスティアは手首を捕まえて引き止めるアフロディーテの手を振り解こうとするが、純粋に力だけでは男のアフロディーテに敵うはずがない。
「ほら、私の手を振り払うことすら出来ないじゃないか。これでどうして闘うというんだ」
「手を…離して」
「私も一緒に行く」
「だめよ」
「では、この手は離せない」
「邪魔をしないで!」
「万里亜!なぜ分からないんだ!?」
互いに睨み合い譲らない。アフロディーテが引き止める気持ちは分かるし、身を案じてくれるのは嬉しかった。だが、深刻な事態になりそうな中で、彼の優しさに甘える訳にはいかない。無闇にアテナの聖闘士を危険に晒す事は出来ない。
彼らは、ヘスティアの戦士ではないのだから。
「…もう一度だけ言うわ。この手を、離して」
「何度言われても私の答えは同じだ。『ノー』だよ」
これ以上の問答は時間の無駄だ。ヘスティアは掴まれている手首に小宇宙を集中させ、小爆発を起こした。「バン!」と破裂音が回廊に響き渡る。それと同時に手首を拘束していた力が緩んだ。その一瞬の隙にアフロディーテの手を振り解き、すかさず彼の胸の前に手を翳す。
ヘスティアの掌が眩く光った。
その直後、「ドン!」という鈍い音と共に、アフロディーテの体は後方に弾き飛ばされた。
「ぐっ…!」
思わず片膝を着いたアフロディーテは、驚愕の表情を浮かべてヘスティアを見た。
「万里亜…、君は…」
「…ごめんなさい」
ヘスティアは強く奥歯を噛み締めると、空色のフレアスカートを翻し、その場から走り去った。
シュラとカミュの二人は、廃墟と化した海底神殿内の探査をしていた。
メインブレドウィナを始めとして、各方面の柱は大部分が砕かれているものの、辛うじて残っている台座部分がある為に完全に海水に呑み込まれずに済んでいる。
水瓶座のカミュは北氷洋方面を臨み眉根を寄せて哀しげな表情を浮かべていた。
海神ポセイドンとの闘いで、二人の愛弟子が拳を交えた。そして激闘の末、兄弟子の立場にあったアイザックがその若い命を散らした。
アテナから再び命を与えられた後、生き残ったもう一人の弟子、白鳥座の氷河から涙ながらにその話を聞かされた。
修行時代に極寒の海底に沈んだと思っていたアイザックは、ポセイドンに仕える海将軍として氷河の前に立ちはだかったと言う。
一連の出来事は、繊細な氷河の心に大きな傷を残したであろう。それをどうしてやる事も出来なかった自分自身を不甲斐なく思う。この命に変えてアイザックを生き返らせる事が出来れば良かったのにと、夜毎に涙する日があった。
氷河もアイザックも、カミュにとって大切な愛弟子だった。
「カミュ、大丈夫か?」
少しばかり感傷に浸っていたカミュは、彼を気遣うシュラの声で現実に引き戻された。
「あ、ああ。済まなかった」
「構わん。我々にもそういう時間が必要だ」
喜怒哀楽の表現が薄い山羊座の同僚は、一つ下の宮を守護するいわば隣人の関係だ。幼い頃は、年上の先輩聖闘士に前後を挟まれて心細い思いをしないようにと、アフロディーテと共にさり気なく気に掛けてくれていた。今でもその事には感謝している。
「ところでカミュよ、気付いていたか?」
シュラが足元に目を遣る。そこには、近海では見かけないような植物が繁茂していた。見下ろした状態では、広がった大きな葉に隠れていて気付かないが、角度を変えてよく見ると、茎の部分に鋭利な棘が無数に生えていることに気付く。
「この辺りでは見ない植物だな。…棘も固い」
「訳の分からん植物だ。こいつが今回の騒動の元凶だろう。無闇に触るなよ」
そう言ってシュラは右の手刀を構えると、その手を横に払い見知らぬ植物を何本か刈り取った。棘に触らぬように葉の部分を持つと、ガラス瓶の中に詰め込んだ。
「とりあえず、見廻ってみるか」
「そうだな」
二人はポセイドン神殿を背にして、インド洋の柱へと向かった。
「特に異変はなさそうだが」
インド洋の柱周辺は、先程の植物が点々と生えている以外は目立って変化はない。
南氷洋、南大西洋の柱と順に回ってみるが、そこも変わった事は何もなかった。
カノンは、一体何の為に海底神殿へ無断で下りていたのだろう。
「どうも解せんな」
「ああ。だが、カノンが何の目的もなしに海底に来るとも思えぬ」
シュラとカミュは顔を見合わせ、その不可解さに首を捻るばかりだ。
それでも、一通りは見ておかねばなるまい。二人の足が北大西洋の柱方面に向いたとき、ゴポリゴポリと頭上から何かが蠢く水音が聞こえた。
「何の音だ?」
頭上に広がる海水の空を仰ぎ見る。霧雨の様に降り注ぐ海水に、シュラは細い眼を更に細めて音の聞こえた方に目を向けた。
「おいカミュ、あれを見ろ」
シュラが指差した方をカミュも見上げる。
「何だ、あれは…」
そこには、長い体をくねらせて海中を蠢く巨大な影が見えた。それは、周囲の海水を巻き込んで大きな渦を作っている。
「…鯨か?いや、違うな」
その体は巨大な海蛇のように細長く、尾にあたるであろう方は、彼方に煙って確認する事が出来ない。逆光でもはっきりと確認できる両翼のような胸鰭。
「あれは…リヴァイアサンだ…」
カミュが驚愕の表情でゴクリと唾を飲み込んだ。
「リヴァイアサン?だが、あれは…」
「ああ、ポセイドンに封じられていたはず…」
カミュの背筋に悪寒が走った。あれが復活したという事は、地上にも災厄がもたらされるのは間違いない。旧約聖書にも記される、神が創り出した不死身にして世界最強の怪物リヴァイアサン。
恐らく、カノンは『あれ』を発見したのだ。現役の海将軍がカノン一人しかいない今、リヴァイアサンの討伐は彼の双肩に掛かっていると言っても過言ではない。しかし、間の悪い事にそのカノンは戦闘力が皆無の幼子になってしまった。
怪物をこのままのさばらせておく事は出来ないが、リヴァイアサン討伐の命令は出ていない。十分に体勢を整えてから打って出なければ、却って怪物を刺激する事になり危険極まりない。
「シュラよ、ここは一旦退くぞ」
「ああ」
互いに見合って頷いた時だった、突然頭上のリヴァイアサンがその動きを速め身を捩った。ゴゴゴ…と不穏な水音が聞こえたかと思うと、耳を劈くような轟音が、海底神殿に残っている空気を激しく振動させた。
弾かれた様に上空を見上げると、リヴァイアサンがギラリと光る目で海底神殿の二人を睨んでいる。
鋭く巨大な牙が生えた口から発せられた咆哮は、地響きを伴い聴覚を麻痺させる程の凄まじさだった。
「ちいっ!気付かれたか!」
「やむを得ん!」
二人は小宇宙を全開にし臨戦態勢に入った。
リヴァイアサンは、海底神殿ごと飲みこんでしまいそうな巨大な口を開くと、マグマの塊のように燃え盛る火炎を勢いよく吐きだした。
「くっ!」
カミュの小宇宙は一瞬の内に分厚く巨大な氷壁を作りだし、火炎の息を押し止めた。
「シュラ、この隙に奴の体を切り裂けるか」
「ああ、任せろ」
右の手刀に小宇宙を集中させ、エクスカリバーを最大限まで研ぎ澄せる。リヴァイアサンが再び火炎を吐きだそうと大きく息を吸い込んだ瞬間、シュラは聳え立つ氷壁を足場にし怪物の頭部の高さまで跳躍した。
「受けよ!エクスカリバー!!」
振り下ろした右腕の聖剣が、急所である額の中央部にヒットする。
「やったか」
確実に捉えたと思った瞬間、リヴァイアサンが顔を左右に揺す振った。それはこの怪物にとっては、むず痒さを紛らわすための身じろぎに過ぎなかった。だが、その小さな動きですら人間にとっては脅威となる。
「うわあ!」
鼻先が僅かに掠っただけだが、弾き飛ばされたシュラの体は、ポセイドン神殿に激しく叩きつけられ、石造りの宮を破壊した。
「シュラ!」
グオオオオオ…!
救助に向かおうとするカミュを威嚇するように吠えるリヴァイアサン。こいつに背を向けたら確実に殺られる。シュラを助けるだけの僅かな時間を作る為、カミュは両手を組み合わせ頭上に構えた。
「オーロラエクスキューション!」
その拳から勢いよく放たれた凍気は、リヴァイアサンの顔面から頭部を一瞬で凍らせた。だがそれも、怪物が僅かに頭を振るっただけで粉々に砕けパラパラとカミュの頭上に降り注ぐだけだった。
「バ、バカな…」
黄金聖闘士二人がかりでも歯が立たないというのか。
呆然とするカミュに構わず、リヴァイアサンは再び火炎の息を吐き出した。ゴオオオオ…と旋風を巻き起こしながら周囲の空気を焼き付けると、灼熱がカミュに襲いかかる。
「また炎か!」
凍気の壁で炎を遮るが、強力な火炎放射の前に絶対零度の氷壁ですら見る間に溶解していく。
「くっ、このままでは…」
これ以上は防御しきれないというとき、突如火炎の攻撃が止んだ。
ギャアアア…!
リヴァイアサンの視線がカミュから外され、黄金色に輝く目玉がギョロリと動いた。
「シュラ!」
先程撥ね飛ばされたシュラが、リヴァイアサンの胸鰭を聖剣で切り飛ばしたのだ。
片方の鰭を落とされ怒り狂うリヴァイアサンは、咆哮を上げ激しく頭を振り上げると、一気に海底を凪ぎ払いにかかった。
「危ない!」
二人は後方へ跳び退き辛うじて直接攻撃を避けた。リヴァイアサンの巨体に似合わぬ素早い動きも、光速を持つ黄金聖闘士になら、容易にかわす事はできる。しかし、続いて襲ってきた轟音を伴う衝撃波をまともに食らい、二人とも石畳に叩き付けられた。
「ぐあっ!」
「うぐっ!」
咆哮から発生する衝撃波に襲われ、二度三度と海底に吹き飛ばされ、叩きつけられる。
リヴァイアサンが大きく息を吸い込んだ一瞬に体勢を立て直そうとしたが、今度は間髪入れずに紅蓮の炎が襲いかかる。
「…間に合わん!」
そのまま火炎に巻き込まれそうになった瞬間、突如目の前に現れた白金色の光が盾となり、その燃え盛る炎を塞き止めた。
「二人共、無事でしたか!」
背を向けていて顔は見えないが、その声と小宇宙はあの女神の物に違いなかった。
「万里亜か!」
「はい!」
リヴァイアサンとの間に割って入ったのは、聖域にいるはずのヘスティアだった。
「ヘスティア様、何故ここに?」
「カノンさん情報です。私は『あれ』を討ちます!二人は下がって!」
火炎の息が止んだ隙にヘスティアは両掌を合わせ、そこに小宇宙を集中させる。掌から一気にレイピアを引き抜いくと、シュラとカミュを中心に、レイピアの剣先で海底の石畳に素早く円を描いた。
「この円から絶対に出ないで下さい。ここにいれば安全です」
そう言って怪物に向き直ると、ヘスティアは小宇宙を全開させた。
白金色の巨大な小宇宙は渦を巻きながら彼女の華奢な全身を包み込み、瞬く間に具現化されていった。
眩い光が拡散した後に立ち現われたのは、白い輝きを放つ一対の翼を背に戴いた鎧を身に纏い、右手にレイピア左手には同じ色の短剣がしっかりと握られたヘスティアの姿だった。
「成敗します」
レイピアを一振りしたヘスティアの顔付きが変わった。普段は穏やかな表情の濃茶色の瞳は、射竦められてしまう鋭さで怪物を睨み付け、全身から立ち上る攻撃的小宇宙は、黄金聖闘士の二人ですら近付く事が出来ない程の凄まじい熱を放っていた。
サガは、教皇補佐役の正装である濃紺の法衣を暑い中でも真面目に着ているので、双児宮へ着替えに帰した。
貴鬼がカノンと遊んでやっているが、貴鬼も、あのカノンがこのような姿になってしまっている事に戸惑いを隠せない様子だ。
「カノンさん、何しに海底神殿に行ったのかしら…」
「アテナの壺の確認には、つい10日ほど前に行っておりましたが」
「ですよね」
監視業務以外に海底神殿へ赴く目的が今一つ見えてこない。元々口数も少ない方なので、正規の任務外の事は事後報告が多い。
最も、報告書はきちんと作成し一両日中には提出されるので、シオンも口喧しい事は言わないのだ。
「困ったわねえ…」
「困りましたな…」
困った困ったと言う割には、大して深刻な様子でもない二人は貴鬼が淹れてくれた茶を飲みながら、戯れている子供達を眺めていた。
白羊宮へ再び現れたサガは、ボーダーカットソーにネイビーシャツを羽織り、白のアンクルパンツという出で立ちだった。彼にしては珍しく、大分カジュアルな服装だが、とても良く似合っていた。
ヘスティアとカノンの服装に合わせたようだが、こういう格好をしているとカノンと見間違えそうになってしまう。
「大変お待たせ致しまして、申し訳ございませんでした」
「いえいえ、そんなに待ってないですよ。じゃあ、行きましょうか。教皇様は、ちゃんとお仕事なさって下さいね」
ソファから立ち上がったヘスティアは、このまま放っておくと自主欠勤しそうなシオンに釘を刺し、貴鬼に礼を言ってから、サガとカノンと一緒に白羊宮を立ち去った。
聖域の外からバスとトラムを乗り継いでアテネ市街へ出た。子供服を買える店をスマートフォンで検索し、とりあえず、最近出来たと話題の大型ショッピングモールに行ってみる事にした。
「こういう所なら大体揃うと思うんですけど…」
ヘスティアは、館内の案内図を見ながら子供服の店を探している。肌着なども買わないといけないが、そういう店はあるのだろうか。
ヘスティアが案内図のパンフレットを広げて「ここと、ここに行ってみましょう」と先導する。カノンは並んでいる店が気になるのか、サガの手を引っ張って「あっちー」とか「こっちー」とか言っている。
それでも大人のサガを動かせるほどの力があるわけでもなく、簡単に抱き上げられてしまう。
「パパー!おろしてよー!」
カノンの叫びにヘスティアとサガの動きが止まった。
前を歩いていたヘスティアがゆっくりと振り返る。サガとカノンを見るその顔は、明らかに引き攣っている。
「…今、パパって?」
「え、いや…その…」
サガも状況が呑み込めないようで、明らかに動揺している。
「サガさん、その子本当にカノンさんですか?」
疑いの眼差しが向けられ、一層困惑するサガに、カノンがさらに続ける。
「パパ、ぼくあるけるよ!」
ヘスティアは額に右手を当て大きな溜息をつくと、近くにあったベンチを指し「座れ」と目で合図する。
「…どういう事ですか、サガさん」
「どうもこうも…」
無言で座っている二人を、カノンはきょとんとした顔で見上げている。
「ねえ、パパぁ。ママと『にいに』はどこ?」
サガの膝の間に立って、甘えるように抱きつくカノンを見て、サガは何かに気づいたようだ。
「ああ、分かりました」
「何が」
「私達は父親似なのです。だから、カノンには私が父に見えるのでしょう」
「なるほどね…。で、サガさんは『にいに』って呼ばれていたわけですね」
サガを見てニヤつくヘスティア。
全く厄介な事に巻き込まれてしまった。先を考えると思いやられるが、サガを父親と勘違いしているカノンに、ヘスティアは優しく話しかけていた。
「ねえ、カノン君。今日はね、ママと『にいに』はお留守番なの」
「どうして?」
「ご用事があるんだって。だからね、パパとカノン君とお姉ちゃんの三人でお買い物に来たんだよ。お姉ちゃんとお買い物してくれるかな?」
「うん、いいよ。おねえちゃんかわいいし、ママにちょっとにてるもん」
「ありがとう」
笑顔でカノンの頭を撫でるヘスティアは、確かに彼らの母親にどことなく雰囲気が似ている。姿形が似ているのではない。幼い子供に傾ける慈愛の心が、そう見せているのだろうか。
孤児の守り神でもあるヘスティア神は、元来愛情深い女神だ。その化身である万里亜も、日本では児童養護施設に勤務をしていた。彼女の持つ魂は、常に『守る』事を業としているのだろう。
聖域でも、自分達の前でも、決して見せた事のない女神の微笑みだった。
日常では、時々言葉遣いが雑だったり、少々お転婆な面が見えるヘスティアだが、このような場面を見ると、否応なく彼女の母性を認識させられる。
子供と仲良くなるのも才能や適性が必要だが、さすがにヘスティアはその辺りには長けている。
人見知りが激しいはずの幼いカノンと、すっかり仲良くなり手を繋いで歩いている。
子供服の店に着くと、手早くあれこれ必要なものをカゴに入れていく。どうやら買物は即断即決出来るタイプのようだ。
以前、沙織の買物に護衛で付いた時などは、とにかく彼女が決められない事にうんざりした記憶がある。
あれもこれも可愛い、それも素敵と言いながら、結局それらを全てお買い上げしたのだ。
彼女の育った環境ならそれでも全く問題はないのだろうし、グラード財団の総帥として敏腕経営者である事も知っている。
それでもサガとしては、ヘスティアのような無駄のない買物の仕方を好ましく感じるのも事実だ。
下着やパジャマも買い揃えたヘスティアは、次に靴を買いたいと言って、手元のパンフレットでシューズショップの場所を確認していた。
「靴も買うのですか?」
「ええ、貴鬼君の靴では大きいでしょ?カノンさん、歩きづらそうなんですよね」
「しかし、いずれ元に戻るでしょうから、そこまでせずとも良いのではないでしょうか?」
そう異議を唱えるサガに、ヘスティアは首を振って答えた。
「サガさん、足に合わない靴を履いていては、子供の成長に良くないんです。確かに、いずれ元のカノンさんに戻るでしょう。でも、それがいつになるか分からないんです。今歩きづらいんだから、今必要なんです」
ヘスティアの言う通り、カノンは歩きづらそうにしている。面ファスナーを一番きつく止めても、度々踵が抜けて転びそうになるのだ。それを確かに可哀想だと思う。
「承知しました。では、シューズショップに行きましょう」
弟が幼児になったのを受け入れたつもりでいたサガだが、ヘスティアの方が、よほどこの事実を冷静に受け止めている事に気が付いた。
サガはヘスティアの心遣いに感謝した。
「パパー、ぼくおなかしゅいたー」
新品の靴を履いたカノンが駆け寄ってきた。買物に夢中になっているうちに、昼の時間を大分過ぎていた。
「ああ、そうだな。食事にしないといけないな」
「やったー」
空腹の割に元気なカノンは、ヘスティアとサガの手を引っ張り「はやくはやく」と急かす。
「ヘスティア様、何かお召し上がりになりたい物はございますか」
「向こうに美味しそうなイタリアンのお店がありました。そこが良いです」
やはり彼女は優柔不断とは無縁らしい。恐らく店の前を通った時に、そこでランチをしようと決めていたのだろう。
「では、そこにしましょう」
三人はまるで親子のように仲良く手を繋ぐと、レストランへ向かって歩き出した。
ランチタイムはピークを過ぎていたため、店内の人影はまばらだった。
サガとヘスティアはそれぞれランチのパスタを、カノンには子供向けのメニューをオーダーした。
セットのサラダの後、しばらくするとメインのパスタが運ばれてきた。
「お待たせいたしました。サーモンのクリームパスタのお客様は?」
「え、クリームパスタ?」
サガとヘスティアは顔を見合わせた。どちらもクリームパスタは頼んでいない。
「申し訳ない、私達はクリームパスタを頼んでいないのだが」
サガにそう言われた店員は、伝票を確認すると『しまった』という表情を見せた。どうやら、間違えてオーダーを入力したようだ。
「失礼しました。すぐにお作り直しいたします」
「済まないがそうしてくれ」
「あ、待って」
ヘスティアは、パスタの皿を持って厨房に戻ろうとする店員を呼び止めた。
「ランチメニューだから、クリームパスタも金額は変わらないですよね?」
「え、はい」
ヘスティアは店員の返答にニッコリした。
「じゃあ、私がそのパスタいただきます」
「ですが、良いんですか?」
ヘスティアの申し出に初めは戸惑っていた店員だが、『クリームとトマトで迷っていたから、問題ない』と言う彼女の言葉に恐縮しながら、クリームパスタをテーブルに置いた。
店員が下がったのを見計らって、サガが口を開いた。
「ヘスティア様、本当に宜しかったんですか?」
彼女がランチメニューを見てすぐ、トマトソースパスタに決めたのをサガは見ていたのだ。
「ええ、問題ありません。クリームソースも大好きです」
ヘスティアはにっこり笑った。
聖域へ戻ったのは夕暮れ時だった。カノンはバスに揺られている間に、すっかり熟睡してしまった。あどけない寝顔はまさに天使そのもので、あのカノンと同一人物とはとても思えない。
「サガさん、海底神殿に行くのって難しいんですか?」
「いえ、スニオン岬からなら比較的容易に行けますが…」
「行ってみませんか?」
「本気で仰っていますか」
サガとしては、そのような提案に賛同できるはずもない。
「宜しいですか、ヘスティア様…」
一旦言い出すと聞かない性格の女神を、どうにか思い止まらせようと説得を試みるがそれで彼女が納得するはずもない。
「海底神殿に行きたいんです!」
そこへ行けばカノンを元に戻すカギが見つかるかもしれない。今はポセイドンは封じられているから障壁となるものはないだろう。そうヘスティアは思ったのだが、当然サガが了承するはずもない。
「それはなりません」
「何か分かるかもしれないんですよ」
「『かもしれない』でヘスティア様を危険に晒すことなどできるはずありません」
「ちっ」
とことん反論されるのが悔しくて、ヘスティアは小さく舌打ちした。
「舌打ちなど、女性がするものではありません」
おまけに、その舌打ちも窘められヘスティアは嘆息した。しかし、サガはそれに構わず真剣な面持ちで続けた。
「とにかく、海底神殿へ行くなど危険な真似はお止め下さい」
「危険って…、何もないでしょ?」
「何かあってからでは遅いのです。海底には黄金の誰かを派遣しますので、ヘスティア様はお気になさらぬようお願い申し上げます」
頑固で心配症のサガが、ヘスティアの海底神殿行きを了解するなどとは思っていない。黄金を派遣するというが、自分の目で確かめたい気持ちはある。
(スニオン岬で待ち伏せるか…)
そこで任務にやってきた黄金を言い包めて、共に海底へ降りれば良い。
「それから、くれぐれもスニオン岬で黄金を待ち伏せするなどの愚行はお控え下さい」
「ぐっ…」
彼女の考えなどお見通しというように、サガはきっぱりとした口調で釘を刺した。
十二宮の入口に人影が見えた。薄闇でもそれが誰なのかはすぐに分かった。鼻腔を優しく擽る薔薇の芳香に、ヘスティアは笑顔になる。
「アフロディーテさん!」
今日はディナーを一緒にすると、朝約束したのだ。終業時間になっても帰ってこなかったので、下で待っていてくれたようだ。
「お帰り」
駆け寄ったヘスティアの頭を優しく撫でる。
「サガ、万里亜は借りて行くよ」
「くれぐれも粗相のない様にな」
「分かっているよ」
疲れた様子のサガにアフロディーテはクスクスと笑う。ヘスティアに振り回されたのだろうと想像できたのだ。
「約束通り執務は早めに終わらせたよ。さ、ディナーに行こう」
「はい。あ、でもその前に荷物を双児宮に運ばないと」
ヘスティアは両手のショッピングバッグを少し持ち上げて、「これ」とアフロディーテに見せる。すると、彼はそれらの荷物を優しく取り上げてからサガの方へ差し出した。
「サガ、持っていけるだろ?」
「アフロディーテさん、それは無茶よ。サガさんは子供連れなのよ?」
驚いて抗議の声をあげるヘスティアだが、アフロディーテはさして気にも留めない。
何せ一日中ヤキモキさせられていたのだ。寧ろ、この程度のささやかな仕返しくらいしてやらなければ気が済まない。
「大丈夫だよ。彼も聖闘士なんだから。な、サガ」
「…ああ、問題ない」
そう言って荷物を受け取ったサガは、軽くアフロディーテを睨んだ。それを見てアフロディーテは満足そうに微笑むと、踵を返してヘスティアの手を取り、聖域の出口方面へと歩き出した。
普段よりも強い力で引かれる腕が痛い。
一緒に歩く時は必ず彼女の歩調に合わせてくれるのに、今は広い歩幅で歩くアフロディーテに付いて行こうと、彼女は小走りになっていた。薄闇の中で長い髪の毛に隠されて彼の表情が見えない。
「アフロディーテさん、腕痛いわ」
やや遠慮がちに言ってみると、アフロディーテは、はっとしたように歩調を緩めヘスティアの腕を見た。
「…ごめん」
そう言って手を離した。ヘスティアは、掴まれていた部分の痛みを和らげるようにそっと腕を擦った。それに気付いたアフロディーテは、その整い過ぎた顔を曇らせた。
「痛かったろ?」
痛む個所を擦る彼女の手に、アフロディーテは自分の手を重ねた。
「ううん、大丈夫」
心配をかけまいと笑顔で返すヘスティアに、アフロディーテの胸がジクリと痛む。
つまらない嫉妬だった。
子供になったカノンの洋服などを買いにアテネへ行った、とシオンから聞かされた時、恐らくオープンしたばかりのショッピングモールに行くだろうと想像できた。
幼い子連れの若い男女。しかも子供は男と良く似た顔立ちとなれば、周囲からは当然家族連れと見られるはずだ。まさか、誰もその幼児が突発的に幼児化してしまった28歳の大人だとは想像もしないだろう。
次の休日にモールへ誘ってみようと計画していたのに、思わぬ形でサガに先を越されてしまった。別に、今日行ったからという理由で、休日の誘いを断るような真似をヘスティアが絶対にしないのは分かっているし、サガが忠誠心以上の気持ちを持っていないのも知っている。
それでも、サガに先を越されたのが悔しくて仕方なかった。そのシチュエーションも含めて。
「…今日は、楽しかった?」
上機嫌で帰ってきた彼女を見ればこんなのは愚問でしかないが、彼女に思いやりのない態度を取ってしまった後なので、何を話して良いのか思い付かず、つい口走ってしまった。
そんなアフロディーテの気持ちを知ってか知らずか、ヘスティアは少し困ったように笑って言った。
「モールでのお買い物はすごく楽しかったんだけどね、若い女性やママさんからの視線が痛すぎたわ…ははは」
やはり、家族連れと認識されていた様子だ。改めて本人の口から聞かされるとショックは大きい。だが、次の言葉はアフロディーテの心に落とした影を払拭するには十分すぎる程だった。
「今度の休日、一緒に行かない?モール」
驚いた表情をしたアフロディーテを見て、彼女は自分が失言をしたと思ったのか、「アフロディーテさんの気が向いたら…」と付け足して視線を足元に落としてしまった。
「ふふっ、先を越されてしまったな」
「え?」
きょとんとして見上げてくるヘスティアに、アフロディーテは自然と笑顔になる。
「私もね、君を誘おうと思っていたんだよ」
――私が君に似合う素敵な洋服を見つけてあげるよ。
耳元でそう囁かれたヘスティアは、薄闇の中でもはっきりと見て取れるほど顔を赤らめていた。
アフロディーテは近くの街に美味しいビストロがあるからと、そこに連れて行ってくれた。オーガニックの野菜と新鮮な魚介類を使っていて、どれもヘスティアの口に良く合った。
「私、海底神殿に行ってみようかと思っているの」
「海底神殿?」
怪訝そうな表情で首を傾げるアフロディーテを見て、ヘスティアは小さく頷いた。
「カノンさんが子供になった原因が海底にあるかもしれないの。だから…」
「…それは、君がするべき事なのか?」
アフロディーテの声がワントーン低くなって、視線がテーブルの上に落ちた。機嫌を損ねたときの彼の態度だ。
「私のするべき事かもしれないし、そうでないかもしれない。でも、このままにもしておけないから…」
「私は賛成できないな。君は、世界の安定に必要な唯一無二の存在だ。危険があるかもしれない場所へ、無闇に近づけるわけにはいかない。替えの利く我々とは違うんだ」
――替えの利く我々とは違う
その言葉が胸に突き刺さり、一瞬心臓も呼吸も止まった気がした。カトラリーを持つ両手が小刻みに震えるのを自覚する。
目の前のプレートに載っている料理が涙で滲む。
「私…、誰も誰かの代わりになれるなんて思っていない。…私だけが尊い存在なんて、そんな事…」
厳密に言えばアフロディーテの言葉は正しい。だが、それを彼の口から聞きたくなかった。言ってほしくはなかったのだ。
ヘスティアは、その後の事はよく覚えていない。ただ運ばれてきた料理を食べ、当たり障りのない会話をし聖域へ帰った。
アフロディーテが自分を心配してくれている事は痛いほど分かる。その理由が、アテナと共闘する女神ヘスティアへの義だけでないとも分かっている。
だが、ヘスティア自身、アテナも聖闘士も大切に想っているし、己に備わった神の力で彼らを守りたいと思っているのだ。なのに、それが伝わらない事が歯痒くて仕方なかった。
翌日、サガの指示で山羊座のシュラと水瓶座のカミュが海底神殿へと赴いた。
とりあえずは海底神殿内の調査をし、そこに不穏な動きがないかを確認するものだった。
通常任務は二人一組で行動するのが原則で、その組み合わせは任務の内容と各々の特技性質を考慮して決定される。
水と氷の魔術師と呼ばれるカミュと、いかなる物をも切り裂く聖剣を腕に宿したシュラ。この二人であれば、万が一にも敵に後れを取る事はあるまい。
サガとアフロディーテから海底神殿行きを窘められたヘスティアは、昨日一日外出していた事で溜めこんでしまった執務を行っていた。
サガは今日も子連れ出勤だった。カノンはまだ一人で留守番できるほどではなく、部下達もそれぞれ忙しく預け先がなかったのだ。
執務室に連れてきた事は良いが、人見知りの激しいカノンは黄金達に囲まれた状況に落ち着かない様子で、サガの膝の上から全く動こうとしなかった。離席する度、いちいちカノンを抱っこするのも面倒なのだが、致し方ない。
「これはヘスティア様に御頼みしなければな」
急ぎの書類の中に、ヘスティアの決裁が必要な物が何通かあった。サガはカノンを抱き上げると書類を手にし、彼女の執務室へ向かった。
ノックをすると、いつもよりも事務的で抑揚のない声で「どうぞ」と返事があった。
(珍しく機嫌が悪いな)
ヘスティアが苛立ちの感情を表出する事は珍しい。だから、余計にその感情の機微が目立ってしまう。
「失礼します」
昨日、海底神殿へ行きたいと言った彼女を咎めた事が原因だろうと容易に想像できるが、サガとしてもそこは譲れなかった。
白塗りの扉を開けると、正面の机ではヘスティアが不機嫌そうな顔をして書類と格闘していた。
「あ、きのうのおねえちゃん!」
サガの腕から抜け出したカノンがヘスティアに走り寄った。
「あら、カノン君。いらっしゃい」
先程までは不機嫌そうな気配を漂わせていたのが、ニコニコと可愛らしい笑顔を浮かべるカノンを見た途端に相好を崩した。
デスクから立ち上がると、腰に纏わりついてくるカノンを「よっこいしょ」と抱き上げる。
「どこにいたの?」
「うんとね、パパのおしごとばー」
「そう、いい子にしてた?」
「うーん…」
目を細めながらカノンの柔らかな髪の毛に頬を当てるヘスティアに、サガの胸中は穏やかでない。
「カノン、こっちに来なさい」
自分で思っていた以上にキツイ言い方になってしまった。相手が幼児であるにも拘らず、余裕のない己に自嘲する。
「ヘスティア様、こちらの書類をお願いします。急ぎではございませんので」
デスクの上に何通かの書類を置くと、カノンを連れ退室しようとする。が、そのカノンがヘスティアから離れようとしない。
「おねえちゃんはひとりでおしごとしてるの?」
「そうよ。ここがお仕事部屋なの」
「パパたちとおしごとしたら?あっちのおへや、あいてるつくえあったよ」
子供らしい無邪気さで誘ってくるカノンに、ヘスティア少し困った表情を浮かべる。断る明確な理由はないが、かと言って補佐官執務室で聖闘士達と共に執務をするのも立場上どうなのかと思う。
「うーん、空いてる机は他のお兄さんの机だから、勝手に使えないの。ごめんね」
「そっか…」
シュンとうなだれるカノンの姿が可愛らしくて、一層罪悪感を感じてしまう。目線が合うようにしゃがんだヘスティアは、カノンの頭をよしよしと撫でる。
「…構わないでしょう。カミュとシュラのデスクでしたら片付いていますし、特に支障はないかと」
サガも特段拒む理由もないと判断したのだろう。そして、これに気を良くしたのはカノンだった。
「パパがいいっていってるよ。おいでよ」
結局、執務室は移動せずにカノンをヘスティアが預かる事で合意に達した。サガはしきりに恐縮していたが、元々子供相手に仕事をしていたヘスティアとしては大して気にもならない。
デスクで執務をするヘスティア。彼女の膝の上にはカノンが座って、用意された折り紙を小さな手で懸命に折っていた。
時々書き物の手を休めて折り方を教えたり、幼児の他愛ないお喋りに根気よく付き合う。
「おねえちゃん、どらごんもつくれる?」
「ドラゴン?それはちょっと難しいわねえ…。カノン君はドラゴン知ってるんだ」
この年齢でドラゴンを知っているとは絵本などをたくさん読んでもらっていたのだろう、と双子が本当に幼かった時分を想像し微笑ましく感じる。
「うん。ぼくね、どらごんみたことあるんだよ」
「へえ、本当にいるんだ。どこで見たの?」
書類にサインをしたり決裁印を押したりしながらも、ヘスティアはきちんと会話をこなしている。
「うみのなか。きのうのまえのひにみたよ」
「え?」
その言葉にヘスティアの手が止まった。
「昨日の前の日?」
要するに一昨日の事だ。恐らくカノンが海底神殿に無断で降りたと思われる日がそうだ。
ヘスティアの不安をよそに、カノンは身振り手振りを交えて一生懸命に説明をしている。
「ぼくね、うみのなかで、こーんなおおきなどらごんみたんだよ」
同じ年頃の子供と比べると、少し長めに感じる両腕を目一杯広げて「このぐらい」と示す。
「ぼくね、びっくりしてかくれようとしたらトゲトゲのくさでけがしちゃったの」
「で、そのドラゴンはどうしたの?」
「どっかいっちゃった」
海の中のドラゴン…。まさかタツノオトシゴというわけでもないだろう。大人のカノンであれば、クジラや大型魚と見間違えた可能性は限りなくゼロだ。
「まさか…リヴァイアサン…?」
補佐官執務室にカノンを抱えたヘスティアが血相を変えて飛び込んできた。
「サガさん、今すぐ海底神殿に向かいます!」
決しておっとりした性分ではなく、少々お転婆な面が見られるものの、ヘスティアは取り乱したり声を荒らげたりといった粗雑な行動をする事はない。聖闘士達もそのように承知している。それ故に、ただ事ではないと、その場にいた全員が瞬時に悟った。
「いかがなさいましたか」
落ち着いた声色で宥めるように話すサガに、ツカツカと歩み寄ったヘスティアの表情には、焦りの色が見てとれた。彼女は早口でサガにまくし立てた。
「リヴァイアサンが海底神殿付近にいる可能性があります。あれは凶暴過ぎて危険です。海底に行った二人を直ぐに退避させて下さい!」
有無を言わせぬ強い口調でサガに詰め寄るヘスティアに、執務室の誰もが唖然とする。
「…なぜ、リヴァイアサンがいると?」
「カノンさんが、一昨日海底で遭遇しています。海将軍を務めた方が、別の生物と見間違うとは考えられません」
海闘士はポセイドンを守護する戦士であると同時に、海洋の治安維持の役目も担っていた。リヴァイアサンを始めとした怪獣の討伐は彼らの業であったのだ。
しかし、先の戦で海の戦士達は命を落としている。即ち、海底は多くの異形の生物が跋扈する危険地帯となってしまったのだ。
「しかしヘスティア様、あの二人であればリヴァイアサンごとき、易々と退治できる力量を備えております」
「…あなたはあれの凶暴性を知らないのです。あれは神が創ったいわば神獣。討伐するには同等の力が必要です。過去の海将軍でさえ、最終的にはポセイドンの力を必要としていたのですよ。アテナの助力を得られない今、私が行くのが筋です」
そう言って踵を返そうとしたヘスティアの肩を掴み、サガが引き止める。
「ご無礼を承知で申し上げますが、アテナは闘いに特化した能力を備えた女神です。あなたとは元々の役割が違う。そもそも、あなたは闘い方を知らないではありませんか!」
パシン!
執務室内に乾いた音が響き、その場の誰もが目の前で起きた光景に瞠目した。
「馬鹿にしないで下さい!私とて神の端くれ。アテナ程ではなくとも闘い方は心得ています!」
ヘスティアが、サガの頬を平手で打ちつけたのだ。
「私も見縊られたものですね。…残念です。カノン君、あなたのパパを叩いてしまってごめんね」
傍で泣きそうな顔をしているカノンに謝ると、呆然とする聖闘士達には目もくれず、ヘスティアは急ぎ足で補佐官執務室を出ていった。
聖域から海底へ空間を移動するには、アテナの結界を破らなければならない。結界に綻びが生じるとそこから亀裂が広がり結界全体が脆弱化する。
そうなると聖域の守備力が著しく低下するため、破れ目が小さいうちにその箇所を修復する必要がある。
リヴァイアサンを討伐し、アテナの小宇宙と同調させ結界を敷き直す。
時間はあまりない。アテナ神殿へ足早に向かうヘスティア。その後ろからアフロディーテが追いかけてきた。
「万里亜、一人で行くつもりなのか?」
「当然よ」
「それなら行かせる訳にはいかないな」
ヘスティアは手首を捕まえて引き止めるアフロディーテの手を振り解こうとするが、純粋に力だけでは男のアフロディーテに敵うはずがない。
「ほら、私の手を振り払うことすら出来ないじゃないか。これでどうして闘うというんだ」
「手を…離して」
「私も一緒に行く」
「だめよ」
「では、この手は離せない」
「邪魔をしないで!」
「万里亜!なぜ分からないんだ!?」
互いに睨み合い譲らない。アフロディーテが引き止める気持ちは分かるし、身を案じてくれるのは嬉しかった。だが、深刻な事態になりそうな中で、彼の優しさに甘える訳にはいかない。無闇にアテナの聖闘士を危険に晒す事は出来ない。
彼らは、ヘスティアの戦士ではないのだから。
「…もう一度だけ言うわ。この手を、離して」
「何度言われても私の答えは同じだ。『ノー』だよ」
これ以上の問答は時間の無駄だ。ヘスティアは掴まれている手首に小宇宙を集中させ、小爆発を起こした。「バン!」と破裂音が回廊に響き渡る。それと同時に手首を拘束していた力が緩んだ。その一瞬の隙にアフロディーテの手を振り解き、すかさず彼の胸の前に手を翳す。
ヘスティアの掌が眩く光った。
その直後、「ドン!」という鈍い音と共に、アフロディーテの体は後方に弾き飛ばされた。
「ぐっ…!」
思わず片膝を着いたアフロディーテは、驚愕の表情を浮かべてヘスティアを見た。
「万里亜…、君は…」
「…ごめんなさい」
ヘスティアは強く奥歯を噛み締めると、空色のフレアスカートを翻し、その場から走り去った。
シュラとカミュの二人は、廃墟と化した海底神殿内の探査をしていた。
メインブレドウィナを始めとして、各方面の柱は大部分が砕かれているものの、辛うじて残っている台座部分がある為に完全に海水に呑み込まれずに済んでいる。
水瓶座のカミュは北氷洋方面を臨み眉根を寄せて哀しげな表情を浮かべていた。
海神ポセイドンとの闘いで、二人の愛弟子が拳を交えた。そして激闘の末、兄弟子の立場にあったアイザックがその若い命を散らした。
アテナから再び命を与えられた後、生き残ったもう一人の弟子、白鳥座の氷河から涙ながらにその話を聞かされた。
修行時代に極寒の海底に沈んだと思っていたアイザックは、ポセイドンに仕える海将軍として氷河の前に立ちはだかったと言う。
一連の出来事は、繊細な氷河の心に大きな傷を残したであろう。それをどうしてやる事も出来なかった自分自身を不甲斐なく思う。この命に変えてアイザックを生き返らせる事が出来れば良かったのにと、夜毎に涙する日があった。
氷河もアイザックも、カミュにとって大切な愛弟子だった。
「カミュ、大丈夫か?」
少しばかり感傷に浸っていたカミュは、彼を気遣うシュラの声で現実に引き戻された。
「あ、ああ。済まなかった」
「構わん。我々にもそういう時間が必要だ」
喜怒哀楽の表現が薄い山羊座の同僚は、一つ下の宮を守護するいわば隣人の関係だ。幼い頃は、年上の先輩聖闘士に前後を挟まれて心細い思いをしないようにと、アフロディーテと共にさり気なく気に掛けてくれていた。今でもその事には感謝している。
「ところでカミュよ、気付いていたか?」
シュラが足元に目を遣る。そこには、近海では見かけないような植物が繁茂していた。見下ろした状態では、広がった大きな葉に隠れていて気付かないが、角度を変えてよく見ると、茎の部分に鋭利な棘が無数に生えていることに気付く。
「この辺りでは見ない植物だな。…棘も固い」
「訳の分からん植物だ。こいつが今回の騒動の元凶だろう。無闇に触るなよ」
そう言ってシュラは右の手刀を構えると、その手を横に払い見知らぬ植物を何本か刈り取った。棘に触らぬように葉の部分を持つと、ガラス瓶の中に詰め込んだ。
「とりあえず、見廻ってみるか」
「そうだな」
二人はポセイドン神殿を背にして、インド洋の柱へと向かった。
「特に異変はなさそうだが」
インド洋の柱周辺は、先程の植物が点々と生えている以外は目立って変化はない。
南氷洋、南大西洋の柱と順に回ってみるが、そこも変わった事は何もなかった。
カノンは、一体何の為に海底神殿へ無断で下りていたのだろう。
「どうも解せんな」
「ああ。だが、カノンが何の目的もなしに海底に来るとも思えぬ」
シュラとカミュは顔を見合わせ、その不可解さに首を捻るばかりだ。
それでも、一通りは見ておかねばなるまい。二人の足が北大西洋の柱方面に向いたとき、ゴポリゴポリと頭上から何かが蠢く水音が聞こえた。
「何の音だ?」
頭上に広がる海水の空を仰ぎ見る。霧雨の様に降り注ぐ海水に、シュラは細い眼を更に細めて音の聞こえた方に目を向けた。
「おいカミュ、あれを見ろ」
シュラが指差した方をカミュも見上げる。
「何だ、あれは…」
そこには、長い体をくねらせて海中を蠢く巨大な影が見えた。それは、周囲の海水を巻き込んで大きな渦を作っている。
「…鯨か?いや、違うな」
その体は巨大な海蛇のように細長く、尾にあたるであろう方は、彼方に煙って確認する事が出来ない。逆光でもはっきりと確認できる両翼のような胸鰭。
「あれは…リヴァイアサンだ…」
カミュが驚愕の表情でゴクリと唾を飲み込んだ。
「リヴァイアサン?だが、あれは…」
「ああ、ポセイドンに封じられていたはず…」
カミュの背筋に悪寒が走った。あれが復活したという事は、地上にも災厄がもたらされるのは間違いない。旧約聖書にも記される、神が創り出した不死身にして世界最強の怪物リヴァイアサン。
恐らく、カノンは『あれ』を発見したのだ。現役の海将軍がカノン一人しかいない今、リヴァイアサンの討伐は彼の双肩に掛かっていると言っても過言ではない。しかし、間の悪い事にそのカノンは戦闘力が皆無の幼子になってしまった。
怪物をこのままのさばらせておく事は出来ないが、リヴァイアサン討伐の命令は出ていない。十分に体勢を整えてから打って出なければ、却って怪物を刺激する事になり危険極まりない。
「シュラよ、ここは一旦退くぞ」
「ああ」
互いに見合って頷いた時だった、突然頭上のリヴァイアサンがその動きを速め身を捩った。ゴゴゴ…と不穏な水音が聞こえたかと思うと、耳を劈くような轟音が、海底神殿に残っている空気を激しく振動させた。
弾かれた様に上空を見上げると、リヴァイアサンがギラリと光る目で海底神殿の二人を睨んでいる。
鋭く巨大な牙が生えた口から発せられた咆哮は、地響きを伴い聴覚を麻痺させる程の凄まじさだった。
「ちいっ!気付かれたか!」
「やむを得ん!」
二人は小宇宙を全開にし臨戦態勢に入った。
リヴァイアサンは、海底神殿ごと飲みこんでしまいそうな巨大な口を開くと、マグマの塊のように燃え盛る火炎を勢いよく吐きだした。
「くっ!」
カミュの小宇宙は一瞬の内に分厚く巨大な氷壁を作りだし、火炎の息を押し止めた。
「シュラ、この隙に奴の体を切り裂けるか」
「ああ、任せろ」
右の手刀に小宇宙を集中させ、エクスカリバーを最大限まで研ぎ澄せる。リヴァイアサンが再び火炎を吐きだそうと大きく息を吸い込んだ瞬間、シュラは聳え立つ氷壁を足場にし怪物の頭部の高さまで跳躍した。
「受けよ!エクスカリバー!!」
振り下ろした右腕の聖剣が、急所である額の中央部にヒットする。
「やったか」
確実に捉えたと思った瞬間、リヴァイアサンが顔を左右に揺す振った。それはこの怪物にとっては、むず痒さを紛らわすための身じろぎに過ぎなかった。だが、その小さな動きですら人間にとっては脅威となる。
「うわあ!」
鼻先が僅かに掠っただけだが、弾き飛ばされたシュラの体は、ポセイドン神殿に激しく叩きつけられ、石造りの宮を破壊した。
「シュラ!」
グオオオオオ…!
救助に向かおうとするカミュを威嚇するように吠えるリヴァイアサン。こいつに背を向けたら確実に殺られる。シュラを助けるだけの僅かな時間を作る為、カミュは両手を組み合わせ頭上に構えた。
「オーロラエクスキューション!」
その拳から勢いよく放たれた凍気は、リヴァイアサンの顔面から頭部を一瞬で凍らせた。だがそれも、怪物が僅かに頭を振るっただけで粉々に砕けパラパラとカミュの頭上に降り注ぐだけだった。
「バ、バカな…」
黄金聖闘士二人がかりでも歯が立たないというのか。
呆然とするカミュに構わず、リヴァイアサンは再び火炎の息を吐き出した。ゴオオオオ…と旋風を巻き起こしながら周囲の空気を焼き付けると、灼熱がカミュに襲いかかる。
「また炎か!」
凍気の壁で炎を遮るが、強力な火炎放射の前に絶対零度の氷壁ですら見る間に溶解していく。
「くっ、このままでは…」
これ以上は防御しきれないというとき、突如火炎の攻撃が止んだ。
ギャアアア…!
リヴァイアサンの視線がカミュから外され、黄金色に輝く目玉がギョロリと動いた。
「シュラ!」
先程撥ね飛ばされたシュラが、リヴァイアサンの胸鰭を聖剣で切り飛ばしたのだ。
片方の鰭を落とされ怒り狂うリヴァイアサンは、咆哮を上げ激しく頭を振り上げると、一気に海底を凪ぎ払いにかかった。
「危ない!」
二人は後方へ跳び退き辛うじて直接攻撃を避けた。リヴァイアサンの巨体に似合わぬ素早い動きも、光速を持つ黄金聖闘士になら、容易にかわす事はできる。しかし、続いて襲ってきた轟音を伴う衝撃波をまともに食らい、二人とも石畳に叩き付けられた。
「ぐあっ!」
「うぐっ!」
咆哮から発生する衝撃波に襲われ、二度三度と海底に吹き飛ばされ、叩きつけられる。
リヴァイアサンが大きく息を吸い込んだ一瞬に体勢を立て直そうとしたが、今度は間髪入れずに紅蓮の炎が襲いかかる。
「…間に合わん!」
そのまま火炎に巻き込まれそうになった瞬間、突如目の前に現れた白金色の光が盾となり、その燃え盛る炎を塞き止めた。
「二人共、無事でしたか!」
背を向けていて顔は見えないが、その声と小宇宙はあの女神の物に違いなかった。
「万里亜か!」
「はい!」
リヴァイアサンとの間に割って入ったのは、聖域にいるはずのヘスティアだった。
「ヘスティア様、何故ここに?」
「カノンさん情報です。私は『あれ』を討ちます!二人は下がって!」
火炎の息が止んだ隙にヘスティアは両掌を合わせ、そこに小宇宙を集中させる。掌から一気にレイピアを引き抜いくと、シュラとカミュを中心に、レイピアの剣先で海底の石畳に素早く円を描いた。
「この円から絶対に出ないで下さい。ここにいれば安全です」
そう言って怪物に向き直ると、ヘスティアは小宇宙を全開させた。
白金色の巨大な小宇宙は渦を巻きながら彼女の華奢な全身を包み込み、瞬く間に具現化されていった。
眩い光が拡散した後に立ち現われたのは、白い輝きを放つ一対の翼を背に戴いた鎧を身に纏い、右手にレイピア左手には同じ色の短剣がしっかりと握られたヘスティアの姿だった。
「成敗します」
レイピアを一振りしたヘスティアの顔付きが変わった。普段は穏やかな表情の濃茶色の瞳は、射竦められてしまう鋭さで怪物を睨み付け、全身から立ち上る攻撃的小宇宙は、黄金聖闘士の二人ですら近付く事が出来ない程の凄まじい熱を放っていた。
