Eine Kleine

 双児宮の朝は早い。宮主は眉目秀麗な双子の兄弟で、兄をサガ、弟をカノンといった。
 サガは、彼らの仕える女神アテナを祀る聖域で教皇補佐の職に就いており、同時に双子座の黄金聖闘士としてアテナを守護する役割も担っていた。
 一方のカノンは、アテナの聖闘士の兄を持ちながらも、敵である海神ポセイドンの海闘士、海龍へと身をやつした。
 一度はアテナへ拳を向けたカノンであったが、かつてアテナから幾度となく命を救われた事を知り、双子座の影の聖闘士としてアテナへの忠誠を尽くす事を心に誓った。そして、彼に与えられた役割は、双子座の黄金聖闘士兼、海神ポセイドンを封じたアテナの壺の監視役だった。
 定期的に海底神殿へ赴き、異変の兆候がないかを確認している。
 一卵性双生児の彼らは見た目は瓜二つだが、その気質は全く異なっていた。
 生真面目なサガと奔放なカノン。
 対照的な性格の兄弟だったが、生活リズムの刻み方は、離れて生活していた時間が長いにもかかわらず、非常に似通っていた。
 鳥の囀りが聞こえる頃に起床し、身支度を整えた後に朝食を摂る。調理は週替わりの当番制にしている。
 今週はサガが当番だった。
 長く柔らかい金髪を、無造作に後ろで束ねて朝食を作るサガ。片手で器用に卵をフライパンに割り入れる。
 メニューは大抵、カリカリに焼いたベーコンと目玉焼きで、サガは半熟、カノンは固焼きが好みだ。それにサラダとパンを付け合わせたごく簡単なもので、食後のコーヒーは、二人ともブラックと決まっていた。
「…カノンはまだ起きないのか」
 いつもならとっくに起きている時間のはずなのに、カノンが起きてこない。朝食はもう出来あがっている。
 小さく溜息をつくと、サガはカノンの部屋へ向かった。
「カノン、朝だぞ」
 ドア越しに声を掛けるが返事がない。
「おいカノン」
 ノックをしてみるがやはり返事はない。
「入るぞ」
 部屋に入るとまだカーテンも閉められたままだが、東向きのカノンの部屋には朝日が差し込んできていて、既に明るい。
「…カノン?」
 弟のベッドに目を遣ったサガは訝しそうに声を掛ける。掛布団の膨らみがやけに小さいのだ。
 カーテンを開け朝日をたっぷりと部屋に入れてやると、サガは弟のベッドに近付いた。
 掛布団をはぐると、弟のベッドで子供が眠っている。しかもその子供は弟のパジャマを着ていて、弟そっくりの顔をしている。
「…これは、カノンなのか?」
 ゴクリと唾を飲み込んだサガは、眠っている子供の肩を小さく揺すった。
「おい、カノン…?」
 すると、子供が薄眼を開けた。その瞳を見てサガは確信した。この子供はやはりカノンなのだと。
 子供の瞳の色は、サガの瞳より少しだけ濃い色をしていた。
 カノンの宿命を忍ばせたかのような、オーシャンブルーの瞳。
「…サガか」
 どうやら、兄である自分の事は分かっているらしい。サガはホッと胸を撫で下ろした。
 カノンは布団の中で大きく伸びをすると、体を起こした。
 そして、己の身に起きた不可解な変化に気付く。
「なんだ!これは!!」
 極端に縮んでしまった体に大きすぎるパジャマ。舌足らずの喋り方と子供特有の高い声。
 子供は、間違いなくカノンだった。
 カノンはサガを睨みつけると、そのあどけない容姿には全く似つかわしくない言葉を投げつける。
「サガ、おまえ…。このおれにいったいなにをした!」
 凄んでみるものの、まだ上手に喋れない年齢に退行してしまったためか、全く効果は見られない。
 呆気にとられた後、サガは全身を小刻みに震わせ懸命に笑いを堪えた。
 それを見たカノンは怒りに震える。
「これは、おまえのしわざか!」
 笑いを堪えながら、『違う違う』と頭を振るサガ。
 サガは、カノンをベッドから抱き上げると、駄々をこねる子供を宥めるかのように、トントンと背中を軽く叩く。
「断っておくが、私は何もしていない。お前が起きてこないから来てみたら、子供になったお前がいた。驚いたぞ」
「おどろいたのはおれだ」
 頬をぷうっと膨らませて怒っているカノンは、どこからどう見ても愛らしい幼児そのものだった。

 冷めた朝食を温め直すと、双子はいつもより遅めの食事を摂った。
 普段使っているダイニングテーブルは、カノンの大きさでは届かないため、今朝はリビングのローテーブルを使った。
 食後のコーヒーを小さめのマグカップに注いでカノンに渡す。
「…にが…」
 コーヒーに口を付けたカノンは、舌をべーと出して顔を顰めた。どうやら味覚も幼児化しているようだ。
 サガはカノンのマグを取り上げると、今度は別のマグにホットミルクを作ってきた。
「これなら飲めるだろう」
 幼い頃に、よく母親に作ってもらったものだ。蜂蜜が少し入ったホットミルクは優しい味がして、兄弟はこのミルクがことのほか好物だった。そして三十路手前になった今でも、時々それを飲んでいるのは同僚には内緒の話だ。
「すまんな…」
「何、構わん」
 背を向けてそう言ったサガの声と肩が不自然に震えていた。
「…わらうな」
 カノンは大きく溜息をついた。
「…悪い…」
 口ではそう言っているものの、そんなことは微塵も思っていないだろうと、カノンは心の中で兄に悪態をつく。

「着るものがない…」
 カノンは自室のクローゼットを漁りながら青ざめた。いくら子供の姿と言えど、サガではあるまいし、洋服を着ないという選択肢などカノンにはない。
 仕方なく、Tシャツを着てウエスト部分をベルトで締める。気に入っていたベルトだが、やむを得ず千枚通しで穴をあけてサイズ調節をした。
 本来ならジャストサイズのシャツはまるでワンピースだ。靴についてはどうにもならない。カノンは、仕方なく裸足で過ごす事に決めた。
 自分の格好を姿見に映して肩を落とす。こんな姿は他の誰にも見せられない。
 鏡の前でがっかりしていると、ドアが開いてサガが顔を覗かせた。
「カノン、そろそろ行くぞ」
「行くって…どこへ」
 怪訝な表情で尋ねるカノンをひょいと抱きあげたサガは、何を言っていると言いたげな表情をした。
「教皇宮に決まっているだろう」
「ちょ…こう…ちょう、きょう…」
 どうやら『教皇宮』と言えないらしい。
「どうして上に行かねばならんのだ!」
『教皇宮』と言うのは諦めたらしいカノンは、『上』という別の言い回しを使ってサガに抗議した。サガに抱っこされているのも気に入らなかった。姿形は幼児でも、中身は28歳の大人の男なのだ。それが、双子の兄に抱っこされているなどとは、考えただけでもカノンは眩暈がする思いだ。
「別に、お前を晒し者にしようと言う訳ではない。外敵が聖域の戦力を殺ぐために、我々を無力な幼児に変えてしまおうと画策しているのかもしれん。まずは教皇に事態を報告せねばならんだろう」
「…で、おれも行かねばだめなのか?」
 サガの腕から下りようともがくカノン。だが、非力な子供の姿ではそれも叶わない。
「当然だろう。証拠が必要だ」
「…しょうこ、ね」
 漸く観念したのか、カノンは大人しくなった。
 サガはカノンを抱き直すと「教皇宮まで抱っこだ」と楽しげな口調で言い、カノンの頭を大きな手でわしゃわしゃと撫でた。
 双児宮から教皇宮まで上がるのに9つの宮を通り抜けなければならない。どこかの宮主にこの姿を見られてしまっては立つ瀬がない。
(全員寝てろよ)
 カノンは祈る思いだが、サガはこの状況を楽しんでいるように見える。抱っこされているため、間近に端正な顔があるが、普段よりも穏やかな表情をしているように見える。
 過去の過ちを全て背負いこみ、それを当然の事と受け止め、常に苦悩の色を滲ませる兄を哀れに思う。
 だからこそ、たまに兄のこんな顔を見られるのも悪くはないかと、カノンも自然と表情が柔らかくなった。
 サガとカノンは、普段は派手に兄弟喧嘩をしていて仲が悪いと思われがちな双子だが、当の本人達はそれほど仲が悪いと思ってはいない。敢えてそれを周知しようとも考えない。兄弟間で分かり合えていれば良い。
 二人とも、そう考えていた。

 始動が早い為か、幸い巨蟹宮と獅子宮は宮主に会わずに通り抜けられた。
 第六宮、処女宮の宮主は自分達と同様に朝が早い。神に近い男とも評される彼は、恐らくカノンの小宇宙の変化も敏感に察知しているはずだ。
「シャカ、サガだ。通らせてもらうぞ」
 蓮の花を模した台座で瞑想中と思われるシャカに声を掛けた。
「サガか。今朝は随分早い登庁だな。…で、その子供は?」
 この状況にもさほど驚いた様子を見せない辺りは、さすがと言うべきなのだろうか。カノンは妙な所に感心した。
「カノンだ」
 サガの言葉に、シャカの細くて形の良い眉がピクリと動いた。
「…何と、どおりで微弱な小宇宙になってしまったわけだ。一体何があった」
「それが良く分からん。今朝からこうなってしまっていた。外敵が新手の策略を講じているのかもしれん。それで、まずは教皇へ上申をと思ってな」
「ふむ…なるほどな。しかし…ふっ、その姿、君達はまるで親子のようだな」
 その言葉にカノンが反応した。
「おのれ、シャカよ…。このカノンをぐろうしゅるか…」
 サガに抱っこされたままで怒りの小宇宙を燃やそうとしてみるが、幼い子供の姿ではそれも儘ならないようで、少しだけ燃えた小宇宙はすぐにしゅるしゅると鎮まってしまった。
「よせカノン。朝から済まなかったなシャカよ」
「いや、楽しませてもらった」
 傍に来てカノンの頭を撫でたシャカは、その顔を見てもう一度ふっと笑った。

 次の天秤宮の宮主は、先日、東にある故郷へ帰ったばかりだ。無人の宮を二人は通り抜ける。
「老師がいらっしゃれば、何か御存知だったかも知れんが…。致し方あるまい」
「…しょうだな」
 はあ、と溜息をついたカノンを見てサガがまた吹き出した。
「いちいちわらうな」
 むっとした様子のカノンとは対照的に、サガは機嫌が良かった。
 さ行が上手く言えていないカノンが可愛らしくて仕方がないのだ。カノンは、まだその事に気付いていない。

 天蠍宮の主は宵っ張りタイプだが、さすがにもう起きている時間だろう。
「ミロ、サガだ。通らせてもらうぞ」
 返事はなかった。まだ主は眠っているのだろうか。であれば幸いだ。
「ミロ!」
 カノンは、私室へ向かおうとするサガの肩を叩いて慌てて引き止める。
「サガ!はやくいかないと!」
「しかし、まだ起きていないなら、起こしてやらねばならんだろう」
「そんなことしなくたって、だいじょうぶだろ。こどもじゃあるまいし」
 子供姿のカノンが言っても些か説得力に欠けるが、─現に彼もサガに起こされたクチなのだから─サガは弟の気持ちを汲んで、天蠍宮の主を起こさずに通過する事にした。

 人馬宮が見えてきた。宮の入口には主である射手座のアイオロスが出迎えに立っていた。
 アイオロスはサガの姿を認めると、階段を駆け下りてきた。
「おはようサガ。…お前、子供がいたのか?」
 サガと、抱っこされている幼児を見比べアイオロスは目を丸くした。
「いや、違うんだアイオロス。これはカノンだ」
「カノン!?」
 驚愕の事実を聞かされ更に目を丸くしたアイオロスは、まじまじとカノンの顔を覗きこんだ。
「じろじろみるな!」
 近付き過ぎのアイオロスの顔をペチペチと叩く。
「いてて、叩くな」
 叩かれない程度に距離をとったアイオロスは、もう一度カノンの顔を見た。
「何か拾って食ったか?」
「ひろいぐいなどしゅるか!」
 もう一度叩いてやろうかと抱っこされている腕から身を乗り出すカノンを押さえながら、サガはアイオロスに今朝の出来事を説明した。
「…そんな事もあるのか。まあ、確かに俺達がこの姿になっては、闘うどころの話ではなくなってしまうしなあ」
 腕を組んで話を聞いていたアイオロスだが、破顔するとカノンの頭をぐりぐりと撫で回した。
「まあ、そのうち元に戻るだろう。頑張れよ」
 頑張れと言われても、この事象の原因も理由もわからないので頑張りようがないし、元の体に戻る方法もわからない。
 一体どうしたものかと、カノンは項垂れた。
 第十宮の磨羯宮にはシュラがいる。寡黙な男だから、素通りとまではいかなくとも、あれこれと詮索されたり構われたりと面倒なことはないだろう。
「シュラ、サガだ。通らせてもらうぞ」
 声を掛けると、靴音が奥の方から聞こえてきた。主の靴音だ。
 姿を現したシュラは、サガとカノンを見てその場で固まってしまった。
「……」
 口をポカンと開けて二人の顔を見比べる。
 しばしの沈黙の後、シュラは徐に口を開いた。
「サガ…、まさかお前…」
「私の子ではないぞ」
 その返答に、シュラが三白眼の目をカッと見開いた。
「貴様…!認知をしないつもりか!それでも男か!聖闘士か!これだけそっくりであればそのような言い訳が通らないことぐらいわかるだろう!」
 その腕に宿る聖剣で、不埒者をぶったぎろうという勢いだ。
「お、落ち着け、シュラ。これはカノンだ」
 慌てて言い逃れようとするサガに、シュラの目が一層厳しくなる。
「見苦しいぞサガ!この期に及んでそのような嘘を!」
 本気で聖剣を見舞われそうな雰囲気だ。
 磨羯宮は穏便に通り抜けられると思っていたのに、とんでもない方向へ事態は進んでしまいそうだ。
「まてシュラ!ほんとうにおれはカノンだ!」
 仕方なくカノンは自ら名乗り出た。

「…本当にカノンなのか」
「ああ」
「なぜ、こんなに縮んでいる」
「しらん。むしろ、おれがしりたい」
 今度はカノンが今朝の出来事を説明をする。
 それを聞き漸く納得したのか、シュラの目つきが幾分穏やかになった。
「そうか…。何と言ったら良いのか…」
「いや、なにもいってくれるな」
 溜息交じりに呟く。その様子を見て、気の毒そうな顔でシュラが頭を撫でてきた。
「早く元に戻れるといいな」
 なぜ揃いも揃って頭を撫で回してくるのか、カノンは不愉快になる。
「済まなかったなサガ。俺の早とちりで迷惑をかけた」
 潔く頭を下げてくるシュラに「気にするな」と声を掛け、カノンを抱っこしなおしたサガは磨羯宮を後にした。
「もういやだ」
「まあそう言うな」
 宝瓶宮へと向かう階段を上がっていると、カノンがべそをかき始めた。これにはサガが驚いた。
「カノン、どうしたのだ!」
「…なきたくなった」
 と言うや否や、カノンは声を上げて泣き出したのだ。まるで本当の子供のように。「ふえ~ん、ふえ~ん」と泣くカノンの背中をトントンと叩きながらサガは考えていた。あの傍若無人さと不遜さを併せ持った不肖の弟が、この程度の事で泣くとは到底考えられない。
『体だけでなく、精神も幼児化しているのか?』
 もしこれが敵からの攻撃だとすれば、非常に厄介だ。完全に子供になってしまえば、聖域は内側から崩壊してしまう。
(早急に手を打たねば…)

 宝瓶宮に着いた頃には、カノンの顔は涙と鼻水でぐしゃぐしゃになっていた。
「…随分な顔になってしまったな。カミュに厄介になるとするか」
「…うん」
 未だ涙をぽろぽろと零しながらカノンはこくんと頷いた。
 カミュの私室のドアをノックした。
「カミュ、サガだ。済まないが開けてくれないか」
 少しの間があってから、ドアが開いてカミュが顔を出した。
 今日から外勤のカミュは、出勤準備をしていたのだろう。ワイシャツを着てネクタイを首から下げた状態のカミュは、やはりサガとカノンを交互に見比べて目を見張った。
「…サガ…」
「済まないが、ティッシュを貰えないだろうか。こいつの顔をどうにかしたい」
「あ、ああ…、構わないが…」
 どう見ても幼児連れの若い父親といった風情のサガを部屋へと通す。カミュはティッシュを箱ごとサガへ渡した。
「ほら、カノン。チーンて出来るか?」
 カノンの鼻にティッシュを当てて鼻をかませる。二度三度と繰り返した後、涙も拭いてやった。
「ありがとう、助かった」
 サガはカミュに礼を言う。
「いや…。それよりも…、カノンなのか?その子供は…」
 ソファに座ってしゃくりあげている子供を、信じられないと言いたそうな顔で見る。
「ああ。驚いただろう?今朝方からこうなってしまった。原因は不明だ」
「そうか…。気の毒にな…」
 金色の髪を揺らして泣いているカノンを見ていると、幼い頃の氷河を思い出す。
 目の前で母親を亡くすという壮絶な体験をした当時7歳の氷河は、聖闘士になるための修行に来たというのに母親を恋しがって毎日泣いてばかりだった。
 肉親への情を断ち切り「いかなるときにもクールであれ」と教えてきたカミュだったが、年端もいかない幼子にとっていかに酷な要求であるかは十分に分かっていた。
『あの時の氷河の様だな…』
 カミュは小さな体を更に小さくして泣いているカノンを抱きあげる。
「大丈夫だカノン。必ず元に戻るからな。そう泣くな」
 かつて氷河にしたように、優しくカノンの背中を擦ってやる。人というのは不思議なもので、泣いているときに慰められると更に泣きたくなってしまう。子供の場合はこれが特に顕著だ。
「うう…うわーん!」
 一旦落ち着いたカノンだったが、またもや盛大に泣き出してしまった。
「ほらカノン、こっちに来い。カミュはこれから仕事だ。服が汚れてはいけないだろ?」
 手を伸ばすサガの方へと身を乗り出して、今度は兄に抱っこされその胸に顔を押しつけてしゃくりあげながら泣く。その姿は、まさに幼児そのものだった。
「余計な事をしてしまったな…」
「気にするな。体が小さくなって涙腺も緩くなってしまったのだろう?」
 困ったように頭を掻くカミュに、サガは苦笑いで答えた。
「とにかくヘスティア様と教皇へ報告せねばなるまい。忙しい時間に邪魔したな」
 サガはもう一度カノンに鼻をかませると、再び抱っこをしてカミュの私室を出て行った。
 双魚宮へと差し掛かろうかというところで、アフロディーテの姿が見えた。下での騒動を誰かからテレパスで聞いたのだろう。カノンの姿を見ても、さして驚いた風でもなかった。
「おはようサガ、カノン」
「そうか、お前には既に情報が届いているのだな」
「まあね」
 肩を軽く竦めたアフロディーテはサガと並んで歩き始めた。
「今日は私も上で仕事だから」
「そうか」
 じっと自分の顔を見ているカノンに気付いたアフロディーテは、くすりと小さく笑った。
「そんなに改めてじっくり見るほどでもないだろう?」
 オーシャンブルーの瞳がアフロディーテを不思議そうに見つめる。
「…おにいしゃん?おねえしゃん?」
 その言葉に、男二人の階段を上る足がぴたりと同時に止まった。
「…私に対しての質問か?今のは…」
 明らかに気分を害したアフロディーテの口調にサガは慌ててカノンを窘めた。
「カノン、お前それはだな…」
 渋い顔でカノンを見ると、カノンは泣きそうな顔で俯いてしまった。
 そのカノンの様子を見た二人は、これは決して冗談や冷やかしではないとわかり、改めて事の重大性を認識した。
 途中予想外のトラブルがあったが、漸く教皇宮に到着した。いつもの出勤より些か疲労感が残るが、上役二人への報告が残っている。
 但し、大抵重役出勤のシオンはまだ登庁していない。先にヘスティアへ報告しておいた方が良いだろう。そう判断したサガは、ヘスティアの執務室へカノンを連れて向かった。
「まずはヘスティア様に報告をせねばなるまい。…カノン、ヘスティア様のところへ伺うぞ?」
「…ヘシュ…?だれ?」
 きょとんとした顔でサガを見るカノンに愕然とする。
「…ああ、阿倍万里亜嬢と言えば分かるか?」
「ううん。ぼく、しらない」
 ぷるぷると顔を振るカノンは嘘をついているようには見えない。サガは眉間にしわを寄せ、ギュッと目を瞑った。一つ二つと呼吸をして、一旦カノンを床に下ろした。
 カノンの両肩に手を置き、目線を合わせてゆっくりと話す。
「お前、名前は?」
「…カノン」
「今、何歳だ?」
「しゃんしゃい」
 そう言って不器用に指を折り、3を作ってサガに見せた。
「…そうか…。ありがとう」
 柔らかい金髪頭を大きな手でクシャリと撫でると、カノンは嬉しそうな笑顔を見せた。
 
 朝起きてから教皇宮へ来るまでの、そう長くもない時間に一体カノンに何が起きたのだ。体だけでなく、記憶も子供に戻ってしまったというのだろうか。
(では、私の事を何なぜ警戒しないのだ…)
 母親が兄弟の幼少時代の話をした際、サガは比較的人懐こく、カノンは人見知りが激しかったと訊いた事がある。
 その話が本当で、カノンが退行現象を起こしてるのだとすれば、カノンにとって大人のサガは見知らぬ人間で、脅威以外の何物でもないはずだ。
 これをどう説明すれば良いのか全く分からないまま、ヘスティアの執務室に辿り着いてしまった。溜息とも深呼吸ともつかない呼吸をしたサガは、自分の法衣をギュッと握りしめているカノンをちらりと見てから、扉をノックした。
「はい」
 予想通りヘスティアは執務室にいた。
「双子座のサガです」
「…サガさん?どうぞ」
 失礼します、と言うとサガは執務室へカノンと入った。
「始業時間前に申し訳ございません。取り急ぎ御報告が…」
「あ、あの…とりあえずソファに…」
 突然のサガの訪問に幾分の動揺を感じつつも、ヘスティアはサガを室内に招き入れた。
 サガは後ろに隠れてしまったカノンを抱きあげて、柔らかいソファにぽすんと座らせた。それを見たヘスティアは、大きな瞳を更に大きく見開いてポカンと口を開けている。
「…サ、サガさん…」
「ヘスティア様、実は…」
「お子さんなの!?ええー!!でも、結婚してませんよね。もしかして、内縁関係って事!?いやいや、それにしても、激カワですねえ…。サガさんそっくり!サガさんの幼少時代を垣間見た感がします!」
 元々、児童福祉施設に勤務していただけあって子供好きなヘスティアは、目の前に座っている金髪に青い瞳の幼児を見てキャイキャイ喜んでいる。
 一方のカノンは、ヘスティアのテンションに気圧されてやや怯え気味なのか、サガに体を寄せて、法衣の袖を両手で握りしめている。その様子に気が付いたヘスティアは『しまった』という様な顔をして、今度は声のトーンを抑え気味にして優しく話しかける。
「ねえ、僕、お名前は?」
「……」
「ありゃりゃ…驚かせちゃったねえ。ごめんね…。あれ?ってか日本語分からないよね。Συγγνώμη που σε εκπλήσσω. Πώς σε λένε;」
 ギリシャ語で名前を尋ねてみるが、目の前の子供は俯いて無言のままだ。
「あの、ヘスティア様…。これはカノンなのです。」
「……はあ!?」
 女神にあるまじき素っ頓狂な声を上げたヘスティアは、サガの顔をまじまじと見つめた。
「…カノン、さん?」
「…はい」
「この子が?」
「…はい」
「え…!だって、カノンさんですよね?」
「…はい」
「この、大人しくて可愛らしい天使然としたの男の子が、傍若無人で俺様全開で口が悪くて面倒くさがりのくせに何気に世話焼き体質の、あのカノンさん!?」
「……はい」
 随分と的を射た、適切極まりない表現で弟を評するヘスティアに、サガは頷くしかできなかった。
 白磁の頬に、質の良い硝子玉のような青く濁りのない瞳。緩く癖のある、絹糸のように繊細な金色の髪が、さらりと額を覆っている。形の良い眉、子供らしくふっくらとした、いかにも柔らかそうな紅い唇。小さな鼻はまだ丸みを帯びていて、愛くるしい顔立ちをより一層強調している。
 幼いカノンは、見れば見るほど可愛らしい顔をしている。きっと天使というのはこんな顔をしているのだろう、と妄想してしまうほどの完成度に、ヘスティアは溜息しか出てこない。
 こうなると、サガが大人の姿である事が恨めしくなる。こんなにも愛らしい子供が二人並んで手を繋いでいたら、それこそ悶絶死しそうなくらい可愛いだろうに。
 それでも、可愛い可愛いだけで済まないのはカノンが幼児化してしまった原因が分からないからだ。まずは、そこを究明しなければならない。
「今までに聖域でこういう事ってあったんでしょうか?」
 その問いにサガは顎に手を当てて考え込む。しかし、自分達が聖域に来てからの20年ほどは、そのような話など聞いた記憶がない。
「私の知る限りではないように思いますが、それ以前となると、教皇に伺ってみないと何とも…」
「教皇様、昨夜は白羊宮に戻ったんです。ムウさんが不在で、貴鬼くん一人置いておくのは心配だからって。まだいらしてませんからとりあえず、白羊宮に行きましょうか」
「そうでしたか」
「急なことでしたから、補佐官のお二人にも連絡が行き届かなかったんですね。次からは気を付けます」
 ヘスティアが頭を下げた。
「いえ、ヘスティア様にもお知らせしなければいけませんでしたので。それに、ここで待っていれば教皇もいらっしゃるでしょう」
 変なところで遠慮深いサガにヘスティアはぴしゃりと言い放った。
「何を悠長なことを仰るんですか。こんな状態なんですよ。早く報告しないと」
 それに、と相変わらずサガにひっついて、心許なさそうな表情を浮かべているカノンをちらりと見た。
「白羊宮に行けば、貴鬼君の服を借りられるでしょう?そんなにダボダボのお洋服を着ているんじゃ、カノンさん可哀相ですよ」
 確かにその通りだ。大人のカノンの服を子供にあてがうのは、幾ら本人の物といえども気の毒な事この上ない。
 サガは「畏まりました」と言うと、カノンを抱きあげる。その景色を見ていたヘスティアは、一層表情を緩めた。
「もうっ!尊すぎます!!」
 完全にうっとりと妄想スイッチが入ってしまった。
 何とも厄介な事だ。
 ヘスティアに気付かれないよう、サガはそっと溜息をついた。
 既に執務室で早出残業を始めていたアフロディーテに、白羊宮まで下りる旨を説明する。
「アフロディーテさん、早出した分、終業時間は繰り上げてね」
「それは君もだよ、万里亜」
「…はーい」
 釘を刺したつもりが、あっさりと返されてしまい面白くない顔をするヘスティアを見て、アフロディーテはくっと笑った。
「じゃあ、今日は一緒にディナーをしよう。それなら文句はないだろ?」
 その言葉を聞いてヘスティアの顔が途端に明るくなる。嬉しそうに大きく頷くと「行ってきます」とアフロディーテに小さく手を振って、執務室を出た。

 サガとヘスティアは十二宮の階段を下りていく。
「お二人の子供時代って、どんな感じだったんですか?」
 自分よりも20cmほど背が高いサガを見上げて尋ねてみる。ヘスティアから見たサガは、常に冷静で落ち着いた大人の男というイメージだ。出会った頃はとっつきにくそうな印象だったが、聖域で暮らしていく中で自然と会話をする機会も増えた。
 今では「とても繊細で優しい人」だと思っている。無論、それをサガが表に出さない事も、年齢の割に兄弟喧嘩が多く、デスマスクがしきりに迷惑がっているのも知っている。
 聖域でかつて起こった忌まわしい事件を、ヘスティアも耳にした事がある。内容が内容だけに、その噂の真偽を確かめる気には到底なれなかったが、男達の関係を間近で見ていて、その過去の出来事に自分は立ち入る必要がないと判断している。
 寧ろ、今気になるのは双子の幼少時代だ。少なくとも、子供のカノンはヘスティアの知っている彼とは別人のように大人しい。どちらかと言えば、サガを彷彿とさせる性格だと思った。
「昔は仲が良かったと思います。いつでもどこに行くのも一緒で、よく手を繋いでいた記憶があります」
 腕の中のカノンを優しく懐かしそうに見つめながら、サガは昔を語り始めた。

 兄弟の生家は由緒ある家柄で、彼らは周囲から大変な祝福を受けて誕生した。
 天使のように愛らしい容姿の双子は、家族から溢れるほどの愛情を受けすくすくと成長していく。

 社交的で明るい兄と、人見知りで大人しい弟。
 どこにでもいそうな双子の兄弟だった。だが彼らは、自分達が人とは違う能力を有している事に気が付いてしまう。
 どんなに仲の良い兄弟でも、喧嘩をする事など珍しくない。サガとカノンも例外ではなかった。ただ、一点を除いては。
 それは、彼らの感情が著しく昂ると、手も触れていないのに周囲の物が壊れるのだ。
 最初は単なる偶然かと思っていた。それでも、兄弟が喧嘩をする度に同様の事が続くと、やがて周囲から訝しがられるようになる。
 両親は兄弟が喧嘩をしないよう極力配慮した。同じ洋服、同じ玩具、同じ食事。兄弟間での差異を排除することで喧嘩の芽を事前に摘み取る努力をした。

 それでも成長するにつれ、人外の能力は更に顕在化していく。当然本人達も戸惑いを隠せない。

 事の成り行きを知っている街の人間達は、徐々に兄弟やその家族から距離を置くようになる。不届きな輩が下衆な真似をしたり、野卑な言葉を浴びせかけてきたりするようになった。
 それでも、両親は双子に変わらぬ愛情を注いでくれていた。彼らが真っ直ぐに成長するようにと願いながら。

 そして7歳の誕生日を迎える直前、見知らぬ一人の老人が兄弟の住む屋敷を訪れた。

 この双子こそ、人類の未来を大きく左右する双子座の宿命を背負った兄弟─

 シオン自らが、兄弟を迎えるために出向いたのだった。

 驚き戸惑う両親に、シオンは丁寧に説明をした。聖域の役割、女神の存在、聖闘士と呼ばれる戦士の存在、そして双子座の宿星を持った兄弟の事。
 両親は当然拒絶をした。それでもシオンは幾度となく彼らの下を訪れ、説得を繰り返した。
 
 やがて、兄弟が聖域へ行く事になる決定的な事件が起こる。

 ある日、些細な言葉の行き違いから喧嘩を始めた兄弟。7歳を過ぎた頃から人外の能力は一層強くなっていた。
「カノン、いい加減にしろ!!」
 弟への怒りに声を荒らげたサガの体から金色の光が発せられ小さな爆発を起こす。これが屋外や兄弟の部屋であれば問題なかった。
 ところが、その日に限ってはリビングで喧嘩をしてしまった。そして、間の悪い事にそこへ妹が入ってきてしまった。

 最悪のタイミングだった。

 小さな爆発でも、兄弟よりも幼い妹の小さな体を弾き飛ばすには十分過ぎた。

 壁に叩きつけられた幼い妹は、重傷を負った。幸い命に別条はなかったが、これがきっかけとなり、兄弟は自ら聖域入りを両親へ嘆願するようになった。

 まともな思考の人間であれば、到底信じ難い荒唐無稽な話だが、思慮深い彼らの父親は、聖域や聖闘士について古い文献を紐解き、独自に調べ上げていた。
 兄弟の不思議な能力も聖闘士の資質に由来するものであるとすれば、神に選ばれた子らは神の下へお返ししなければならない。

 そして、双子は聖域へと還された。

 聖闘士の宿命がなければ、良家の子息として何不自由なく生活し、年齢的に考えても、恐らく今頃は幸せな家庭を築いていたに違いない。
 運命とはかくも残酷なものなのか。
 歴代の聖闘士たちも、平凡な幸せを手に入れた者がどれほどいるのだろうか。いや、彼らはそもそも『平凡な幸せ』がどのようなものなのか、それさえ知らないのだろう。
 それは、今こちらへ向かっている“彼”もそうだろう。

 階段の大分下の方から、シオンの小宇宙が近付いて来るのを感じる。
「やっと来ましたね」
「そのようですね」
 ヘスティアとサガは顔を見合わせて小さく笑った。
 教皇シオンは重役出勤、つまり遅刻が常態化している。ヘスティアが何度咎めても「私が不在でも聖域は回ります」と、まともに取り合って貰えない。シオンがそのように言う理由を知っているが、それなら教皇職をサガかアイオロスに譲れば良いのにと思う。

 最も、アテナがシオンを教皇に任命した理由を思えば、補佐官の二人が教皇の座を受け入れるとは到底考えられないのだが…。

 眼下に漸くシオンの姿を認めた。陽光を照り返す金髪は、やや淡い緑を帯びた不思議な色合いだ。当代の牡羊座で、シオンの弟子であるムウも金髪なのだが、ムウの場合は僅かに桃色が混ざっているように見え、彼の中性的な顔立ちを一層際立たせているように思える。
「教皇様、お早うございます」
 少しの嫌味を含めた口調でヘスティアが挨拶をすると、シオンは端麗な顔を少し顰めた。
「ヘスティア様、私の事は…」
「『シオンとお呼び下さい』でしょ?」
 シオンの言葉を遮って、次に発せられるいつもの台詞を言ってみる。それを聞いたシオンは微笑んだ。
「よくお分かりでいらっしゃいます」
 シオンの遅刻同様、ヘスティアがシオンに呼び方を注意されるのも毎度の事だ。
「教皇様の遅刻癖と同じです。中々直りません」
 わざとらしく満面の笑みを作ってみせる。二世紀半も人生経験を積んだ教皇に対してこうも無遠慮な態度をとれるのは、ヘスティアと、同じく二世紀半生きている天秤座の童虎くらいのものだ。
「私から呼び捨てにされたいと本気で思っておられるのでしたら、登庁時間は厳守下さい。他の者の士気に関わります」
 シオンは厳しい口調でぴしりと言い放つヘスティアに対して気分を害する風でもなく、寧ろ彼女とのこうした軽妙な遣り取りを楽しんでいるように見える。
「ふっ…では、した事のない努力というものをしてみましょう。ところで、カノンは何故そのような姿に?」
 サガに抱っこされているカノンを顎で指して尋ねる。
「まあ、さすがですね。よくカノンさんと分かりましたね」
「分からないはずはございません。双子の幼少時代はよく覚えております」
 さも当然といった様子で答えたシオンは、カノンの小さな頭をそっと撫でると、目尻が切れ上がった大きめの瞳を柔らかく細めた。
「懐かしい事です。聖域に来た時分より、幼い姿ではありますが…」
 18歳という、黄金聖闘士の誰よりも年若い姿になってしまったシオンからこのような言葉を聞くのは些か奇妙な感じがする。シオンがこの姿で蘇ったのは、200年以上聖域を治め続けてきた男への、アテナなりの敬意の形なのだ。
 結局、シオンは途上で会ったサガとヘスティアに連れられて、白羊宮へと逆戻りする羽目になった。
 ムウは任務で聖域を離れているが、貴鬼は宮で留守番をしているという。
 若返りといった意味では、シオンもその恩恵を受けているのだが、シオンの場合、肉体のみが若返っただけで、記憶までが肉体年齢に対応したわけではない。
「このような事は今までにありました?」
「…いえ、聞いたことはありませんな。仮に何者かの仕業としても、カノン一人を子供にするという意図が読めません」
「ですよね」
 三人は、とぼとぼと十二宮の階段を下りていく。
 抱っこされている事にすっかり飽きてしまったカノンは、自分で歩きだしていた。大人用の服を着ているので、時々裾を引き摺ってしまう。それをサガがいちいち直してやっているのが面白い。
 カノンもそうやって構われてるのが嬉しいのか、機嫌良さそうにニコニコとしている。
「カノンさんて、あんな風に笑う子だったんですね」
「昔は、二人とも良く笑う子でした」
 懐かしそうに、でもどこか寂しそうに微笑むシオンを、ヘスティアは複雑な気持ちで見ていた。

 白羊宮に到着すると、貴鬼が出迎えてくれた。途中でシオンが小宇宙を使って貴鬼に簡単に事情を説明していたようだ。
 貴鬼は、自分の洋服を何枚かカノンのために用意してくれていた。
 サガはシンプルにTシャツとハーフパンツを選び、カノンに着替えをさせる。
「ん?カノン、この足の傷はどうした」
 ハーフパンツを履かせようとしていたサガは、カノンの下肢にできている傷を見つけた。
「あら、カノンさん怪我してたんですか?」
 ヘスティアは「どれどれ」と言って、サガの後ろから覗き込んだ。傷は最近出来たような真新しいもので、場所によっては、刺し傷のように深さのある傷も認められる。
「カノンさん、怪我した事何か言ってました?」
「いえ、あまりそう言った事は話さないものですから。カノン、どこで怪我したんだ?」
 サガは、指で傷の辺りをちょんちょんと突っついてカノンに尋ねてみる。少し何かを考えるように顔を上に向けたカノンは、「えっとねえ、えっとねえ」と言いながら記憶を整理しているようだった。
「うみだよ」
 くりくりした青の瞳でサガを見ると、「うみのなかで、けがした」と答えた。
 カノンにとって海の中と言えば海底神殿だが、ここ暫くは海底神殿に行く予定はなかったはずだ。
 正式に双子座を拝命していないとはいえ、教皇宮付きである以上、休日以外に無断で聖域外へ出る事は許されていないはずだ。
「教皇様は何か御存知ですか?」
「いえ、何も報告は上がってきておりません」
 首を振るシオンに、サガは頭を下げた。
「教皇、カノンが無断で外出していたようで、誠に申し訳ございません」
「謝らずとも良い。お前のせいではないし、カノンにとっても、何か理由があってのことだったのだろう」
「そうですよ。海底神殿で遊ぶわけでもないでしょうから…」
 不肖の弟を咎めない二人に、サガは心の中で感謝した。しかし、規則を守らない弟を、兄として見逃す事も出来ない。
「カノンには、私から厳しく言っておきます」
「必要ない。それでまた派手に兄弟喧嘩などされては敵わぬ」
 シオンが迷惑そうに顔を顰めた。どうやら双子の喧嘩は、白羊宮にまで何かしらの影響を及ぼしているようだ。
 喧嘩するほど…とはよく言うが、この兄弟の喧嘩は文字通り次元が違うので、本気で喧嘩されてはシャレにならない。
 念動力の使い手である牡羊座の男達は、恐らく後始末も手伝わされるのだろう。
 ヘスティアは心の中でこっそり、シオンとムウに同情した。
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