Eine Kleine
聖域近郊の港から連絡船を使い、およそ三十分。
今は無人島になっている薬師の島は、過去に天立星の冥闘士と魚座の黄金聖闘士が交戦した場所だ。
その名残りで数多の薬草が現在も自生している。その中に、シーブ・イッサヒル・アメルの毒に拮抗作用のある植物を探さなければならない。特に手掛かりがあるわけでもないのに、どうしたら良いのだろうか。
だからこそ、植物への感応能力があるアフロディーテが派遣されるのだが。
そして、今回の任務には水瓶座のカミュも派遣される。
隣の宮殿の守護者のカミュとは比較的顔を合わせる機会が多いものの、口数少なく表情も乏しい彼はアフロディーテにとって、少々やりづらい相手だ。
「港に案内人がいるらしい」
アフロディーテが言うと、カミュは「ああ」とだけ答えた。
指示された港には、多くの船が係留されている。この中の一隻に案内人がいるはずだ。それらしき人物を探しながら歩いていると、一隻の真っ白なボートから声が聞こえた。
「おはよーございまーす!」
声の方を見ると、甲板に一人の少女が、笑顔で立っていた。
「聖闘士様ですよね?あたし、案内人のメリッサ・ドラコペトラです。よろしくお願いします」
案内人と言うには、随分年若い。教皇は何を考えておられるのだろう。
「君が、案内人?」
「はい、そうです!身元確認書、貰っても良いですか?」
二人は事前に記入した身元確認書をメリッサに手渡した。彼女はそれに目を通す。
「えっと……魚座様と水瓶座様ですね?」
「そうだ。よろしく頼む」
二人が頷くと、メリッサはぱっと表情を明るくした。港に吹き込む潮風をものともせず、白いボートの上から身を乗り出すようにして声を弾ませる。
「任せてください。ちゃんと、教皇様のお名前で申請書いただいてる以上、きっちり仕事します!」
これ、と彼女が見せたのは、間違いなく聖域の公印が押されている文書だった。
「じゃあ、乗ってください。すぐに船、出します。あ、ちゃんと操縦免許あります!」
免許証を片手に、メリッサはにっこり笑った。
目的の薬師の島は、ここからおよそ三十分ほど航行した先にある。数百年前からここでは多くの薬草が栽培され、数多くの薬師が聖域や近隣の村々の住民の健康を支えていた。そして、現代医学の発展と共にこの島は衰退していき、今では無人島になっている。
その薬師の島を管理しているのが、メリッサという少女だった。
「あたし?十八歳。高校卒業したばっかりです」
「島の管理してたのはお父さんとお兄ちゃんだったんだけど、二人とも死んじゃったから。今は、あたしが管理してます」
「聖域からの命令ってこともあるんですけど」
「え、お母さん?体調不良で入院中」
はきはきとした口調の、明るく元気な少女だ。栗色の髪に蜂蜜色の瞳。健康的に日焼けた肌は、恐らく元はかなり色白なのだろう。男女問わず、周囲に整った容姿の者が多い環境にあるアフロディーテが見ても、メリッサは間違いなく美少女だった。
「もうすぐ着きますよ。あれが薬師の島です」
メリッサが指した先に見える島影。昔は住民がいたという島は、想像していたより大きい。あの島のどこかに、解毒作用を持つ植物があるのだろうか。
波に侵食された船着き場に接岸する。
「今、係留するから待っててくださいね」
足場の悪い岩場に飛び移ろうとするメリッサを、アフロディーテが制止した。
「ちょっと待った」
「はい?」
「危ないから私がやるよ。君こそ待ってて」
「え?でも……」
メリッサが困惑しているのがわかる。だが、黄金聖闘士が2人揃っていながら、民間人の、それも少女に多少なりとも危険を伴う力仕事をさせられるはずがない。
「アフロディーテの言う通りだ。ここは私たちに任せてくれ」
カミュはメリッサに下がっているよう指示をする。
「このロープで良いのだな?」
「あ、はい……」
足元に積み上げられているロープを手にすると、先に岸に降りているアフロディーテへ投げた。メリッサが見守る中、アフロディーテは手早くロープをクリートに結びつける。
「これで良いかな?」
「すごい!聖闘士様って、こんなこともできるんだ!」
メリッサが小さく拍手をする。何とも無邪気な少女だ。
「手を貸して」
アフロディーテが手を引こうとすると、メリッサは慌てて首を横に振る。
「大丈夫。自分で行けるから」
そう言うと、彼女は躊躇いもなく軽々と岸へ飛び移った。何と鮮やかな身のこなしだ。彼女曰く、小さい頃から島には何度も来ているから、慣れているのだそうだ。
そして、島に入る前に注意事項の説明をされる。
薬師の島は、長らく手入れがされておらず毒のある植物も放置されている。葉や茎、蔓に棘や毒のある植物、中には汁に触れると皮膚炎を起こすような種もあるのだと。
「だから、やたら植物に触らないでください。それと、あたしが歩いた後ろをちゃんと着いてきてください。良いですね?」
「わかったよ」
「承知した」
「はい、それじゃあ出発します!」
メリッサの先導で、植物が繁茂する島へ分け入って行く。船着き場を出ると、すでに蔓植物が侵食してきていて、かつての道路は、既に役割を果たせないまでになっている。
メリッサは、腰に差していたサバイバルナイフで
植物を払いながら道を拓いていく。
「これから向かうのは、ルコの家って所です。昔この島に住んでた薬師の家なんだけど、その周辺はルコが栽培してた、たくさんの薬草が野生化して残ってます。聖域が求めてる薬草も、そこならあるかもしれません。あ、桑の実だ」
甘いですよ、と渡されたのは熟した桑の実だった。小さな粒が密集する楕円形の果実。そう言えば、幼い頃は聖域の外れにある森で、仲間と食べていた。あの頃はまだ、教皇が存命だった。サガもアイオロスもいて、幼かった自分たちより更に幼いカミュたちがいて。聖戦の兆しもない穏やかな日常があった。
「あ、黄金聖闘士様はこういうの召し上がらないですよね?ごめんなさい。捨てちゃってください」
掌に乗せたままのアフロディーテを見て、察するものがあったのだろう。メリッサは済まなそうな顔をしていた。
「昔を思い出しただけだよ。私たちも桑の実はよく食べていた。カミュは、あまり覚えていないかもしれないけど」
「うっすらとは覚えている。桑の実食べたさに修行をサボって森へ行き、迷子になったことがある」
「迷子?君が?へぇ、それは面白いことを聞いた」
「まだ五歳か六歳の時だったと思う」
淡々と話すカミュ。だけど、それを主導したのは間違いなく、ミロだ。
「黄金聖闘士様も、普通の子だったんですね」
メリッサが楽しそうに笑った。
そう、黄金聖闘士たちにだって“普通”の子供時代があったのだ。殺伐とした戦場に立つ間に忘れてしまっていたが、穏やかで優しい日々が、確かにあった。
そして、桑の実の汁が指を赤黒く染めたのを見て、メリッサが「げ……」と小さく呟いたのを、アフロディーテは見逃さなかった。
ルコの家は坂を登りきった小高い丘の上にある。天才薬師でありながら魔星に囚われ冥界の戦士に堕ちたルコ。彼は天立星ドリュアスの冥闘士になった。
冥闘士討伐に派遣されたのが、魚座の黄金聖闘士アルバフィカ。そして、アルバフィカの師、ルゴニスはルコの実兄だ。
(そんな場所に魚座を寄越すなんて、ほんと、聖域ってのは…)
メリッサは心の中でため息をついた。
丘の中腹付近に差し掛かったとき、彼らの行く手を阻むように、無数の草木が道なき道を覆い尽くしていた。メリッサのサバイバルナイフだけでは太刀打ちできそうもない。
「ここから先は進めそうもないから、迂回します」
メリッサが踵を返そうとする。
「この程度なら問題ないよ。私に任せて。カミュ、彼女を安全な場所へ」
「わかった」
メリッサをカミュへ任せると、アフロディーテが一歩前に進み出た。
「ピラニアンローズ!」
アフロディーテの手から、幾本もの黒薔薇が放たれた。黒薔薇は一直線に茂みへ飛んでいき、障害となっている植物を一瞬で粉砕した。
「凄い……ですね……」
「これで進めるかい?」
「は、はい」
無数の植物に遮られていた道は、丘の上を目指して一直線に伸びている。拓かれた道の向こうは、明るい陽射しに満ちていた。
メリッサはその陽射しの奥を指差す。
「もうちょっと行くと、ルコの家があります」
「メリッサ、君は最近島へ来たの?」
「ここに?いいえ。最後に来たのって……いつだろ?確か、去年だと思います。国立大学の教授を案内したのが最後かな……どうしてですか?」
メリッサは小首を傾げてアフロディーテを見上げる。快活で可憐な美少女。その印象に間違いはないはずだ。だが、何か引っかかるのだ。
「いや、聞いてみただけだよ。ありがとう」
「そしたら、先に進みましょう!」
先導するメリッサの華奢な姿。まさか、と思う。植物達はメリッサが通ると、不穏なざわめきを発するのだ。最初は見知らぬ人間であるアフロディーテとカミュに警戒反応を示しているのかと思った。しかし、さっきアフロディーテがメリッサの前に進み出た時、植物は途端に静かになった。
(警戒していたのは彼女に対してなのか?)
足元に落ちた蔓植物には、比較的新しい切り口が残っていた。
ルコの家に近付くにつれて、甘い香りを感じるようになってきた。
(花が咲いているのか)
これだけはっきり感じるというのは、群生地域が近いと言うことだ。不快な香りではない。なのに、妙に不安になる香りだった。カミュは終始無言だが、この香りには気付いているようだ。
「カミュ、この甘い香り。気にならないか?」
「ああ、少し嫌な気配がするな」
カミュは何かを考えるように、長い睫毛の瞳を伏せた。
「聖闘士様!到着しましたよー!」
メリッサが向こうで手招きをしている。
「行こうか」
「ああ」
丘の上で二人を待っていたのは、ルコの家と呼ばれる小さな木造の家屋と、一面に広がる鈴蘭の花畑だった。風にそよぐ鈴蘭。花が揺れる度に芳香が強くなる。
アフロディーテは、不意に目の前の景色が大きく揺れるのを感じた。
(罠か?)
そう思った直後、彼の意識は途切れた。「魚座様!?」メリッサの鈴の音のような声を遠くに聞きながら、なぜか彼女が微笑む姿が見えた。
倒れたアフロディーテに駆け寄るメリッサとカミュ。
「アフロディーテ!どうした!?」
傍らに膝をつき手首を取り、額に手を当てる。熱はなく、脈も平静だ。少し呼吸が浅いだけか。
「大丈夫そう?」
メリッサが不安そうにカミュの顔を見る。
「ああ…」
「ルコの家に寝台があるから、そこに運びましょう」
「すまんな」
「とんでもないです」
メリッサが走っていく。腰に着けたポーチから鍵の束を取り出すと、施錠してあった南京錠を解除した。
古びた木戸がギィ、と軋みながら開く。
窓を閉め切った室内の空気は清浄ではないが、思ったほど淀んでもいなかった。しかし、木製の寝台は埃がうっすら積もっており、直接横たわらせるには些か抵抗がある。
「すまないが、私の荷物に掛けてある布を外して寝台に掛けてくれ」
「あ、わかりました。え、と…これ?」
カミュが背負っている大きな荷物。それを包んでいる白い布を剥がすと、その下からは黄金に輝く箱が現れた。
「これ……黄金聖衣?」
「ああ。念の為だ」
「じゃあ、魚座様のも?」
「魚座の聖衣だ」
「ふぅん……」
メリッサは僅かに瞳を伏せた。それから布を寝台へ広げた。掌で皺を伸ばす様子などは中々丁寧だ。
「すまない」
「いいえ、こっちこそ。魚座様は大丈夫そうですか?」
「呼吸も脈も落ち着いている。すぐに目を覚ますはずだ」
「じゃあ、外にいるから何かあったら声かけてください」
外へ出ていくメリッサの華奢な背中を見送りながら、カミュは拭いきれない違和感を覚えていた。何がそう感じさせるのか。
(あの娘に何かあるのか?)
その問いに、答えはまだない。
「はぁ…やっぱり冥衣ないと難しいなぁ」
鈴蘭畑の真ん中に立つメリッサは、白と緑に覆われた地面を見渡しながら呟いた。鈴蘭の香気は魚座にしか影響を及ぼさなかった。魚座の方が、聖衣の記憶に強く触れたからかもしれない。植物の毒素に耐性があるのは魚座の方かと思っていたが。
「どうしよ……」
冥衣を纏えば黄金聖闘士とも対等に戦える。だが、二人を相手にしなければならないとしたら、それはさすがに無理が過ぎる。香気での弱体化が難しいなら、鈴蘭が持つ毒を精製し、より濃度を高める方法がある。
その場にしゃがんで、鈴蘭の花に手を翳す。メリッサの小さな手が淡い紫色に光る。釣り鐘型の花弁から透明な液体が滲み出てくる。それを掌で受け止め息を吹きかけると、液体は鮮やかな色彩を放ちながら空中へ溶けていく。
それを何度も繰り返す。
そのうちに、濃縮された鈴蘭の毒素が辺り一面へ拡散されていく。耐毒性のない通常の人間なら、この花畑へ踏み込んで数十秒で命を落とす。あとは、二人の黄金聖闘士を誘き出すだけだった。
「何をしている」
冷えた声が背後からメリッサを貫く。振り返ると、水瓶座のカミュがメリッサへ鋭い視線を送っていた。
「何って……」
「周辺に毒の香気をまき散らして、どういうつもりだ?」
カミュの声はただ、冷たかった。
「……あたし、天立星ドリュアスのメリッサです」
メリッサは振り返りざま、鮮やかな笑顔で名乗った。その声は透き通るように凛としていた。
「黄金聖闘士様、ここで死んでください」
鈴蘭畑が渡る風にざわめく。甘い香気は次第に鋭い毒気へと変わり、空気をじわじわと濃く染めていった。白い小花が揺れるたびに、目に見えぬ死が辺りへと広がっていく。
だが。
「子どもの悪戯にしては、危険すぎる」
カミュの冷ややかな声が空気を凍らせた。次の瞬間、彼の纏う冷気が周囲を一気に支配し、鈴蘭の香気を覆い尽くしていく。毒の粒子は凍結し、氷の結晶となって光を反射した。
「……っ!」
メリッサは思わず後ずさった。掌に集めていた紫色の毒液までもが凍りつき、ぱきん、と音を立てて砕け散る。
カミュの紅い瞳が、鋭く彼女を射抜いた。
「冥闘士か。子どもの姿に似合わぬ毒を使い、命を弄ぶとはな」
「失礼だな!あたしは子どもじゃない!」
メリッサは叫んだ。花畑の毒をさらに濃くしようと両手を広げる。紫の光が再び迸るが、空気はすぐさま冷気に閉ざされ、拡散する前に凍りついていく。
「効かない……」
唇を噛むメリッサ。整った顔からは無邪気な笑顔が消え、代わりに焦りと苛立ちが覆った。
カミュは一歩踏み出した。その足取りは揺らがず、ただ静かに迫ってくる。
「冥闘士であるならば、覚悟はあるはずだ。メリッサ――」
氷の気配がさらに濃くなり、鈴蘭畑そのものが白く凍りついていく。
「命を落とすのは、君の方だ」
冷気が鋭い刃のように迫り、メリッサの喉を凍らせる寸前――
「……あたしを殺したら、シーブの毒に中った聖闘士様、元に戻りませんよ。良いんですか?」
カミュの放った氷の刃が止まった。
「困りますよねぇ?」
声は明るく、しかしその裏には計算された冷静さが潜む。メリッサの肩に緊張は見えず、むしろ覚悟のようなものが漂っていた。
「アフロディーテが目覚めれば、解毒効果のある植物は見つけられる」
カミュの声は静かだが、氷の刃のように硬質な響きを帯びている。
「あはっ!そんな簡単にいくわけないじゃないですか」
メリッサは笑う。けれどその笑みは、茶化すためのものではなく、相手を見極め揺さぶるためのものだった。
「なんだと?」
カミュの眉が僅かに上がる。
「解毒効果がある植物を見つけたとして、どうやって有効成分を抽出精製するつもりですか?そもそも成分は?濃度は?投与量は?投与方法は?聖域に能力者いるんですか?」
口調は軽く、しかし一言一言が理路整然としており、まるで彼の論理に挑戦するかのようだ。
「聖域にも医療チームはある」
氷のように冷たい声。カミュは動じない。だが、紅色の瞳の奥には、メリッサの才能を測りかねる迷いが一瞬だけ滲む。
「そりゃ、聖域でもできるでしょうけど、どんだけ時間かかると思ってるんですか?あたしなら、二日でできますよ」
メリッサの言葉には揺るぎない自信が宿る。それは、年若く見える体躯の中に秘められた強さの証だった。
「……そもそも我々に協力する気はないのだろ?」
カミュの声は低く、冷淡でありながら、どこか問いかけの色を帯びる。
「さあ?どうでしょう」
メリッサは肩を軽くすくめ、瞳をカミュからそらさない。鈴蘭の花が風に揺れ、ふわりと香気が二人の間に漂う。その香りが、一層緊張感を増幅させていた。
静寂の中、足元の鈴蘭は微かに揺れる。メリッサの冷静な瞳と、カミュの氷の如き視線。互いに一歩も引かないまま、時間だけがゆっくりと流れた。
海風に混ざる花の香りは、命の脆さと、決意の鋭さを同時に映し出す。
今は無人島になっている薬師の島は、過去に天立星の冥闘士と魚座の黄金聖闘士が交戦した場所だ。
その名残りで数多の薬草が現在も自生している。その中に、シーブ・イッサヒル・アメルの毒に拮抗作用のある植物を探さなければならない。特に手掛かりがあるわけでもないのに、どうしたら良いのだろうか。
だからこそ、植物への感応能力があるアフロディーテが派遣されるのだが。
そして、今回の任務には水瓶座のカミュも派遣される。
隣の宮殿の守護者のカミュとは比較的顔を合わせる機会が多いものの、口数少なく表情も乏しい彼はアフロディーテにとって、少々やりづらい相手だ。
「港に案内人がいるらしい」
アフロディーテが言うと、カミュは「ああ」とだけ答えた。
指示された港には、多くの船が係留されている。この中の一隻に案内人がいるはずだ。それらしき人物を探しながら歩いていると、一隻の真っ白なボートから声が聞こえた。
「おはよーございまーす!」
声の方を見ると、甲板に一人の少女が、笑顔で立っていた。
「聖闘士様ですよね?あたし、案内人のメリッサ・ドラコペトラです。よろしくお願いします」
案内人と言うには、随分年若い。教皇は何を考えておられるのだろう。
「君が、案内人?」
「はい、そうです!身元確認書、貰っても良いですか?」
二人は事前に記入した身元確認書をメリッサに手渡した。彼女はそれに目を通す。
「えっと……魚座様と水瓶座様ですね?」
「そうだ。よろしく頼む」
二人が頷くと、メリッサはぱっと表情を明るくした。港に吹き込む潮風をものともせず、白いボートの上から身を乗り出すようにして声を弾ませる。
「任せてください。ちゃんと、教皇様のお名前で申請書いただいてる以上、きっちり仕事します!」
これ、と彼女が見せたのは、間違いなく聖域の公印が押されている文書だった。
「じゃあ、乗ってください。すぐに船、出します。あ、ちゃんと操縦免許あります!」
免許証を片手に、メリッサはにっこり笑った。
目的の薬師の島は、ここからおよそ三十分ほど航行した先にある。数百年前からここでは多くの薬草が栽培され、数多くの薬師が聖域や近隣の村々の住民の健康を支えていた。そして、現代医学の発展と共にこの島は衰退していき、今では無人島になっている。
その薬師の島を管理しているのが、メリッサという少女だった。
「あたし?十八歳。高校卒業したばっかりです」
「島の管理してたのはお父さんとお兄ちゃんだったんだけど、二人とも死んじゃったから。今は、あたしが管理してます」
「聖域からの命令ってこともあるんですけど」
「え、お母さん?体調不良で入院中」
はきはきとした口調の、明るく元気な少女だ。栗色の髪に蜂蜜色の瞳。健康的に日焼けた肌は、恐らく元はかなり色白なのだろう。男女問わず、周囲に整った容姿の者が多い環境にあるアフロディーテが見ても、メリッサは間違いなく美少女だった。
「もうすぐ着きますよ。あれが薬師の島です」
メリッサが指した先に見える島影。昔は住民がいたという島は、想像していたより大きい。あの島のどこかに、解毒作用を持つ植物があるのだろうか。
波に侵食された船着き場に接岸する。
「今、係留するから待っててくださいね」
足場の悪い岩場に飛び移ろうとするメリッサを、アフロディーテが制止した。
「ちょっと待った」
「はい?」
「危ないから私がやるよ。君こそ待ってて」
「え?でも……」
メリッサが困惑しているのがわかる。だが、黄金聖闘士が2人揃っていながら、民間人の、それも少女に多少なりとも危険を伴う力仕事をさせられるはずがない。
「アフロディーテの言う通りだ。ここは私たちに任せてくれ」
カミュはメリッサに下がっているよう指示をする。
「このロープで良いのだな?」
「あ、はい……」
足元に積み上げられているロープを手にすると、先に岸に降りているアフロディーテへ投げた。メリッサが見守る中、アフロディーテは手早くロープをクリートに結びつける。
「これで良いかな?」
「すごい!聖闘士様って、こんなこともできるんだ!」
メリッサが小さく拍手をする。何とも無邪気な少女だ。
「手を貸して」
アフロディーテが手を引こうとすると、メリッサは慌てて首を横に振る。
「大丈夫。自分で行けるから」
そう言うと、彼女は躊躇いもなく軽々と岸へ飛び移った。何と鮮やかな身のこなしだ。彼女曰く、小さい頃から島には何度も来ているから、慣れているのだそうだ。
そして、島に入る前に注意事項の説明をされる。
薬師の島は、長らく手入れがされておらず毒のある植物も放置されている。葉や茎、蔓に棘や毒のある植物、中には汁に触れると皮膚炎を起こすような種もあるのだと。
「だから、やたら植物に触らないでください。それと、あたしが歩いた後ろをちゃんと着いてきてください。良いですね?」
「わかったよ」
「承知した」
「はい、それじゃあ出発します!」
メリッサの先導で、植物が繁茂する島へ分け入って行く。船着き場を出ると、すでに蔓植物が侵食してきていて、かつての道路は、既に役割を果たせないまでになっている。
メリッサは、腰に差していたサバイバルナイフで
植物を払いながら道を拓いていく。
「これから向かうのは、ルコの家って所です。昔この島に住んでた薬師の家なんだけど、その周辺はルコが栽培してた、たくさんの薬草が野生化して残ってます。聖域が求めてる薬草も、そこならあるかもしれません。あ、桑の実だ」
甘いですよ、と渡されたのは熟した桑の実だった。小さな粒が密集する楕円形の果実。そう言えば、幼い頃は聖域の外れにある森で、仲間と食べていた。あの頃はまだ、教皇が存命だった。サガもアイオロスもいて、幼かった自分たちより更に幼いカミュたちがいて。聖戦の兆しもない穏やかな日常があった。
「あ、黄金聖闘士様はこういうの召し上がらないですよね?ごめんなさい。捨てちゃってください」
掌に乗せたままのアフロディーテを見て、察するものがあったのだろう。メリッサは済まなそうな顔をしていた。
「昔を思い出しただけだよ。私たちも桑の実はよく食べていた。カミュは、あまり覚えていないかもしれないけど」
「うっすらとは覚えている。桑の実食べたさに修行をサボって森へ行き、迷子になったことがある」
「迷子?君が?へぇ、それは面白いことを聞いた」
「まだ五歳か六歳の時だったと思う」
淡々と話すカミュ。だけど、それを主導したのは間違いなく、ミロだ。
「黄金聖闘士様も、普通の子だったんですね」
メリッサが楽しそうに笑った。
そう、黄金聖闘士たちにだって“普通”の子供時代があったのだ。殺伐とした戦場に立つ間に忘れてしまっていたが、穏やかで優しい日々が、確かにあった。
そして、桑の実の汁が指を赤黒く染めたのを見て、メリッサが「げ……」と小さく呟いたのを、アフロディーテは見逃さなかった。
ルコの家は坂を登りきった小高い丘の上にある。天才薬師でありながら魔星に囚われ冥界の戦士に堕ちたルコ。彼は天立星ドリュアスの冥闘士になった。
冥闘士討伐に派遣されたのが、魚座の黄金聖闘士アルバフィカ。そして、アルバフィカの師、ルゴニスはルコの実兄だ。
(そんな場所に魚座を寄越すなんて、ほんと、聖域ってのは…)
メリッサは心の中でため息をついた。
丘の中腹付近に差し掛かったとき、彼らの行く手を阻むように、無数の草木が道なき道を覆い尽くしていた。メリッサのサバイバルナイフだけでは太刀打ちできそうもない。
「ここから先は進めそうもないから、迂回します」
メリッサが踵を返そうとする。
「この程度なら問題ないよ。私に任せて。カミュ、彼女を安全な場所へ」
「わかった」
メリッサをカミュへ任せると、アフロディーテが一歩前に進み出た。
「ピラニアンローズ!」
アフロディーテの手から、幾本もの黒薔薇が放たれた。黒薔薇は一直線に茂みへ飛んでいき、障害となっている植物を一瞬で粉砕した。
「凄い……ですね……」
「これで進めるかい?」
「は、はい」
無数の植物に遮られていた道は、丘の上を目指して一直線に伸びている。拓かれた道の向こうは、明るい陽射しに満ちていた。
メリッサはその陽射しの奥を指差す。
「もうちょっと行くと、ルコの家があります」
「メリッサ、君は最近島へ来たの?」
「ここに?いいえ。最後に来たのって……いつだろ?確か、去年だと思います。国立大学の教授を案内したのが最後かな……どうしてですか?」
メリッサは小首を傾げてアフロディーテを見上げる。快活で可憐な美少女。その印象に間違いはないはずだ。だが、何か引っかかるのだ。
「いや、聞いてみただけだよ。ありがとう」
「そしたら、先に進みましょう!」
先導するメリッサの華奢な姿。まさか、と思う。植物達はメリッサが通ると、不穏なざわめきを発するのだ。最初は見知らぬ人間であるアフロディーテとカミュに警戒反応を示しているのかと思った。しかし、さっきアフロディーテがメリッサの前に進み出た時、植物は途端に静かになった。
(警戒していたのは彼女に対してなのか?)
足元に落ちた蔓植物には、比較的新しい切り口が残っていた。
ルコの家に近付くにつれて、甘い香りを感じるようになってきた。
(花が咲いているのか)
これだけはっきり感じるというのは、群生地域が近いと言うことだ。不快な香りではない。なのに、妙に不安になる香りだった。カミュは終始無言だが、この香りには気付いているようだ。
「カミュ、この甘い香り。気にならないか?」
「ああ、少し嫌な気配がするな」
カミュは何かを考えるように、長い睫毛の瞳を伏せた。
「聖闘士様!到着しましたよー!」
メリッサが向こうで手招きをしている。
「行こうか」
「ああ」
丘の上で二人を待っていたのは、ルコの家と呼ばれる小さな木造の家屋と、一面に広がる鈴蘭の花畑だった。風にそよぐ鈴蘭。花が揺れる度に芳香が強くなる。
アフロディーテは、不意に目の前の景色が大きく揺れるのを感じた。
(罠か?)
そう思った直後、彼の意識は途切れた。「魚座様!?」メリッサの鈴の音のような声を遠くに聞きながら、なぜか彼女が微笑む姿が見えた。
倒れたアフロディーテに駆け寄るメリッサとカミュ。
「アフロディーテ!どうした!?」
傍らに膝をつき手首を取り、額に手を当てる。熱はなく、脈も平静だ。少し呼吸が浅いだけか。
「大丈夫そう?」
メリッサが不安そうにカミュの顔を見る。
「ああ…」
「ルコの家に寝台があるから、そこに運びましょう」
「すまんな」
「とんでもないです」
メリッサが走っていく。腰に着けたポーチから鍵の束を取り出すと、施錠してあった南京錠を解除した。
古びた木戸がギィ、と軋みながら開く。
窓を閉め切った室内の空気は清浄ではないが、思ったほど淀んでもいなかった。しかし、木製の寝台は埃がうっすら積もっており、直接横たわらせるには些か抵抗がある。
「すまないが、私の荷物に掛けてある布を外して寝台に掛けてくれ」
「あ、わかりました。え、と…これ?」
カミュが背負っている大きな荷物。それを包んでいる白い布を剥がすと、その下からは黄金に輝く箱が現れた。
「これ……黄金聖衣?」
「ああ。念の為だ」
「じゃあ、魚座様のも?」
「魚座の聖衣だ」
「ふぅん……」
メリッサは僅かに瞳を伏せた。それから布を寝台へ広げた。掌で皺を伸ばす様子などは中々丁寧だ。
「すまない」
「いいえ、こっちこそ。魚座様は大丈夫そうですか?」
「呼吸も脈も落ち着いている。すぐに目を覚ますはずだ」
「じゃあ、外にいるから何かあったら声かけてください」
外へ出ていくメリッサの華奢な背中を見送りながら、カミュは拭いきれない違和感を覚えていた。何がそう感じさせるのか。
(あの娘に何かあるのか?)
その問いに、答えはまだない。
「はぁ…やっぱり冥衣ないと難しいなぁ」
鈴蘭畑の真ん中に立つメリッサは、白と緑に覆われた地面を見渡しながら呟いた。鈴蘭の香気は魚座にしか影響を及ぼさなかった。魚座の方が、聖衣の記憶に強く触れたからかもしれない。植物の毒素に耐性があるのは魚座の方かと思っていたが。
「どうしよ……」
冥衣を纏えば黄金聖闘士とも対等に戦える。だが、二人を相手にしなければならないとしたら、それはさすがに無理が過ぎる。香気での弱体化が難しいなら、鈴蘭が持つ毒を精製し、より濃度を高める方法がある。
その場にしゃがんで、鈴蘭の花に手を翳す。メリッサの小さな手が淡い紫色に光る。釣り鐘型の花弁から透明な液体が滲み出てくる。それを掌で受け止め息を吹きかけると、液体は鮮やかな色彩を放ちながら空中へ溶けていく。
それを何度も繰り返す。
そのうちに、濃縮された鈴蘭の毒素が辺り一面へ拡散されていく。耐毒性のない通常の人間なら、この花畑へ踏み込んで数十秒で命を落とす。あとは、二人の黄金聖闘士を誘き出すだけだった。
「何をしている」
冷えた声が背後からメリッサを貫く。振り返ると、水瓶座のカミュがメリッサへ鋭い視線を送っていた。
「何って……」
「周辺に毒の香気をまき散らして、どういうつもりだ?」
カミュの声はただ、冷たかった。
「……あたし、天立星ドリュアスのメリッサです」
メリッサは振り返りざま、鮮やかな笑顔で名乗った。その声は透き通るように凛としていた。
「黄金聖闘士様、ここで死んでください」
鈴蘭畑が渡る風にざわめく。甘い香気は次第に鋭い毒気へと変わり、空気をじわじわと濃く染めていった。白い小花が揺れるたびに、目に見えぬ死が辺りへと広がっていく。
だが。
「子どもの悪戯にしては、危険すぎる」
カミュの冷ややかな声が空気を凍らせた。次の瞬間、彼の纏う冷気が周囲を一気に支配し、鈴蘭の香気を覆い尽くしていく。毒の粒子は凍結し、氷の結晶となって光を反射した。
「……っ!」
メリッサは思わず後ずさった。掌に集めていた紫色の毒液までもが凍りつき、ぱきん、と音を立てて砕け散る。
カミュの紅い瞳が、鋭く彼女を射抜いた。
「冥闘士か。子どもの姿に似合わぬ毒を使い、命を弄ぶとはな」
「失礼だな!あたしは子どもじゃない!」
メリッサは叫んだ。花畑の毒をさらに濃くしようと両手を広げる。紫の光が再び迸るが、空気はすぐさま冷気に閉ざされ、拡散する前に凍りついていく。
「効かない……」
唇を噛むメリッサ。整った顔からは無邪気な笑顔が消え、代わりに焦りと苛立ちが覆った。
カミュは一歩踏み出した。その足取りは揺らがず、ただ静かに迫ってくる。
「冥闘士であるならば、覚悟はあるはずだ。メリッサ――」
氷の気配がさらに濃くなり、鈴蘭畑そのものが白く凍りついていく。
「命を落とすのは、君の方だ」
冷気が鋭い刃のように迫り、メリッサの喉を凍らせる寸前――
「……あたしを殺したら、シーブの毒に中った聖闘士様、元に戻りませんよ。良いんですか?」
カミュの放った氷の刃が止まった。
「困りますよねぇ?」
声は明るく、しかしその裏には計算された冷静さが潜む。メリッサの肩に緊張は見えず、むしろ覚悟のようなものが漂っていた。
「アフロディーテが目覚めれば、解毒効果のある植物は見つけられる」
カミュの声は静かだが、氷の刃のように硬質な響きを帯びている。
「あはっ!そんな簡単にいくわけないじゃないですか」
メリッサは笑う。けれどその笑みは、茶化すためのものではなく、相手を見極め揺さぶるためのものだった。
「なんだと?」
カミュの眉が僅かに上がる。
「解毒効果がある植物を見つけたとして、どうやって有効成分を抽出精製するつもりですか?そもそも成分は?濃度は?投与量は?投与方法は?聖域に能力者いるんですか?」
口調は軽く、しかし一言一言が理路整然としており、まるで彼の論理に挑戦するかのようだ。
「聖域にも医療チームはある」
氷のように冷たい声。カミュは動じない。だが、紅色の瞳の奥には、メリッサの才能を測りかねる迷いが一瞬だけ滲む。
「そりゃ、聖域でもできるでしょうけど、どんだけ時間かかると思ってるんですか?あたしなら、二日でできますよ」
メリッサの言葉には揺るぎない自信が宿る。それは、年若く見える体躯の中に秘められた強さの証だった。
「……そもそも我々に協力する気はないのだろ?」
カミュの声は低く、冷淡でありながら、どこか問いかけの色を帯びる。
「さあ?どうでしょう」
メリッサは肩を軽くすくめ、瞳をカミュからそらさない。鈴蘭の花が風に揺れ、ふわりと香気が二人の間に漂う。その香りが、一層緊張感を増幅させていた。
静寂の中、足元の鈴蘭は微かに揺れる。メリッサの冷静な瞳と、カミュの氷の如き視線。互いに一歩も引かないまま、時間だけがゆっくりと流れた。
海風に混ざる花の香りは、命の脆さと、決意の鋭さを同時に映し出す。
