Eine Kleine
シオンは一通の封筒を手に、メリッサの自宅を訪れた。
聖域の紋章が押されたその封書は、彼の自筆署名を伴う正式な通知だ。しかし、メリッサとシオンにとってはそれ以上の意味を持っていた。
玄関の扉を叩く音が、やけに遠くから聞こえた気がする。
「どなたですか?」
扉越しに尋ねる。
「聖域教皇シオンだ」
「……何しに来たんですか?」
短い問いだった。
けれど、その声には、深い痛みが滲んでいた。
「メリッサ……そなたに、会いに来たのだ」
穏やかな声だった。なのに、その響きは胸の奥を静かに掻きむしる。
メリッサは躊躇いながらドアチェーンを外し、扉をそっと開けた。夜気が流れ込み、彼の姿を包む。
スーツの襟元に落ちる光、手にした封筒――そのどれもが現実の輪郭を持ちながら、どこか遠い夢の断片のように見えた。
「……シオン様、これ以上あたしに関わらない方がいいですよ?」
かろうじて言葉にした声は、自分のものとは思えないほど掠れていた。その一言が、沈んだ石のように心の底へ落ちていく。
「また……またシオン様のこと、傷付けますよ。きっと」
声が震えた。
けれど、その震えは恐れではなく――痛みだった。
自分の手で彼を傷付けたこと。
そのことを、今もなお赦せない。赦せないまま、生きている。
彼を見つめられない。目を合わせれば、きっと泣いてしまうから。
だから、視線を逸らした。それでも、彼の気配は確かにそこにあった。温度を持ち、呼吸をしていた。
沈黙が、二人の間に降りてくる。
その沈黙こそが、かつて分かち合った全ての言葉の残響のように思えた。
シオンの菫色の双眸が、微かに揺れる。
そこに宿るのは、痛みの果てに辿り着いた一つの決意。
「それでも……そなたを放ってはおけぬ。メリッサ。私は――そなたに償いたいのだ」
「償いたい?」
思わず、彼を見上げる。
涙に滲んだ景色の向こうで、彼は確かに自分を見つめていた。
その眼差しの深さに、胸が痛む。
「シオン様は、悪くないです……」
声が震えた。
自分でも気づかないうちに、そう言っていた。
彼の表情がわずかに揺らぐ。
けれど、メリッサはそれ以上見ていられなくて、そっと視線を外した。
静寂が降りる。
呼吸の音がやけに近く、遠い。
それだけで、胸の奥が締めつけられる。
ほんの一歩。
手を伸ばせば触れられる距離。
なのに、その一歩が踏み出せない。
「ごめんなさい…お引き取りください」
目の前で扉が閉ざされた。
シオンは次の行動に移せず、ただ、立ち尽くす。
――どうして、わかってくれないのだろう。
目の前にいた少女の細い肩が、かすかに震えていたことに気づいていた。
話だけは聞いてくれるかもしれない――そう思っていた。
けれど、その願いは無情にも届かなかった。
想いが重なれば、きっと救える。
そう信じていた。
けれど、それは傲りだったのかもしれない。
自分は、彼女の悲しみの全てを知っているわけではない。わかっている“つもり”で、手を差し伸べただけなのではないか。
「……私では、だめなのか……」
紫水晶のような瞳を伏せ、シオンは一人、痛みに似た言葉を胸の奥で零した。
――わかってるよ、そんなこと。
自室に駆け込んだメリッサは、ベッドに倒れ込み、声を殺して泣いた。鼻が詰まって、うまく呼吸ができない。
喉の奥が熱く、胸が痛い。
“また会いに来てくれた”
“シオン様は、あたしのことを気にかけてくれている”
それが、嬉しくないわけじゃなかった。
嬉しくて、苦しくて――どうしようもなく、泣きたかった。
けれど
『これ以上あたしに関わらないで』
そう言わなければ、自分の方が壊れてしまう。
“優しさ”は、いちばん残酷だ。
傷口に触れ、何も知らない顔で「大丈夫だ」と言われるのが、いちばん怖い。
シオンのことが、嫌いなわけじゃない。
寧ろ、きっと――とてもとても、好きだった。
でも、そんな想いすら、自分には持つ資格がない。
だって、自分はあの人を殺そうとしたのだから。
この手は、あの人の血に染まりかけていたのだから。
「……どうして、こんなふうになっちゃったのかな……」
メリッサは枕を抱え、じっと震えたまま目を閉じた。
遠く、海鳥の声が、空に溶けていく。
――想い合っているはずなのに、どうして届かないのだろう。ただ、そばにいたいだけなのに。
けれど、それはきっと“まだ”叶えられない願い。
互いの痛みを埋めるには、あまりにも深い傷が、そこにある。
だからこそ、二人の距離は今日も触れ合わないまま――静かに、交わらずに過ぎていく。
手を伸ばせば届く距離なのに、踏み出すことができずにいる。
どうしても、無理に触れようとは思えなかった。
彼女の痛みを、今すぐに拭えるわけではない。
手を差し伸べることさえ、時には重荷になるのだと、静かに理解した。
それでも、放っておけない。
痛みを抱えたその背中に、自分の想いをそっと重ねるしかできない。
紫水晶の瞳は、じっと、遠くの彼女の姿を見つめていた。その視線は、言葉にならず、音にならず――ただ存在だけが、彼女に届くことを願っていた。
赦しきれない過去と、まだ手放せない愛が、夜気のように二人の間に漂っていた。
風が、潮の匂いを含んで吹き抜けていく。初夏の空気のなかに、どこか冷たいものが混ざっていた。
小さな家の前に立つシオンは、ひとつ深く息を吐き、扉を叩く。
前回訪れたときと同じ静けさが、目の前に広がる。あの日、彼の声を拒んだまま扉を閉めた記憶が、空気に残っているかのようだった。
しばらくして開いた扉の奥、メリッサは無表情で立っていた。
目の奥には何も宿っていない。かつての快活な面影は、遠くに置き去りにされたままだ。
「……今日は何のご用ですか?」
感情を押し殺した声。
前回の訪問では、この声の奥に、ほんのわずかに恐怖や戸惑いが混ざっていた。
今は――冷たく、鋭い。
けれど、その冷たさの下に、わずかに揺れる心の欠片があることを、シオンは知っていた。
シオンは視線を逸らさず、静かに告げる。
「賠償金の支払いが決定した」
メリッサの眉がわずかに動く。予想もしなかった言葉だったのだろう。
「……賠償金?」
「そうだ。我々聖域は……そなたと、その家族の幸福を、無残に踏み躙った。その償いとしての賠償だ」
メリッサは扉の縁に手をかけ、小さく鼻で笑った。
「今更?」
「……」
「今更そんなの受け取っても、意味ないですよ。お母さんも、お兄ちゃんも、生き返らない。お金、貰ったって、何になるんですか?」
その声は冷たく、震えていた。
怒りでも皮肉でもなく、絶望が潜んでいた。
前回よりも、明確に自分を守ろうとする強さ――そして、孤独感が滲む。
「どうして、生き返らせてくれないんですか?神様にだって頼めたんじゃないんですか?シオン様だって、他の聖闘士様だって、あたしだって――生き返ったじゃないですか」
「……」
「なんで、あたしの家族は、死んだままなんですか?」
シオンは言葉を失ったまま、彼女の瞳を見つめる。胸の奥で、痛みがゆっくりと波紋を広げていく。
「メリッサ……」
その名を呼んだ声は、深く、静かで、揺れていた。
「私に、奇跡を語る資格はない。アテナ様がくださった命も……本来ならば、戻ってこられるはずのないものだった。理不尽に、選ばれてしまった命だ」
「……」
「そなたの言う通りだ。そなたの母も、兄も、誰よりも生きるべき人間だった。なのに、我々は……」
シオンはそっと胸元から一枚の封筒を取り出す。白地に金の紋章が押された、正式な聖域の公文書。
「これが、全ての代わりになるとは思っていない。ただ、そなたが少しでも、前を向く力になるのならと思った」
メリッサは受け取ろうとせず、ただ彼の手を見つめ、ふいに瞳を伏せる。
「……前なんか、向けるわけないじゃないですか。こんなに沢山、大事なものを失ったのに、どうやって」
「それでも……私が、そなたに願うのは、それだけだ」
答えはなかった。
メリッサは静かに扉を閉める。その音は小さく、それでいて確かな断絶のように響いた。
シオンはしばらくその場に立ち尽くす。海風が再び吹き、金の髪を揺らしていた。
「……そなたの悲しみを、私が全て背負うことはできない。だが、せめて、消えずにそばにいたい」
封筒を郵便受けにそっと差し入れる。
誰にも届かぬ祈りを胸に、彼は静かに歩き出す。
足取りは慎重で、しかし確かに、彼女の未来へ向かっていた。
港は朝の光に静かに照らされ、海面が金色にきらめいていた。潮の匂いが混じった冷たい空気が、漁船や木の桟橋を包む。波の音が低く、規則正しく岸に打ち寄せ、遠くのカモメたちの声が空に溶けていく。船に残された水滴が太陽を受けてきらきらと反射する。漁港の街並みは、まだ眠たげに朝霧に沈み、静けさと活気の境界が曖昧に溶け合っていた。
桟橋の先に、カノンの姿があった。
黒の軽装に、肩から釣り道具をかけ、波打ち際に立つその姿は、静かでありながら確かな存在感を放っていた。
「……よう、メリッサ」
視線の先に、メリッサが立っていた。
髪は潮風になびき、顔にはまだ朝の眠気と、漁港特有の湿った香りが混ざる。
「カノン様…釣り……行きますか?」
声は少し不安げで、けれど微かに期待を含んでいた。
カノンは小さく頷き、低く、穏やかに言った。
「そのつもりで来た」
ぽつりと返したその声に、メリッサはほっとしたように微笑む。
小さな船の舷に手をかけ、心の奥の緊張を少し解く。海風が、二人の間に柔らかく流れ込む。
「じゃあ、行きましょうか」
メリッサは舵を取り、漁船は静かに沖へ向かって動き出す。
水面に揺れる光の波紋が、船底を軽く撫でるように広がり、遠く水平線が、朝日に染まる。
カノンは舳先に立ち、海の匂いを吸い込みながら、言葉少なに視線を海に向けた。
「今日は、ゆっくりできるといいな」
メリッサは小さく笑い返す。
まだ、心の奥に残る悲しみや不安を、しばし忘れられるような、静かな時間が始まろうとしていた。
「……カノン様が来るなんて、思いませんでした」
「心配するな。別に教皇の回し者じゃない」
「そんなこと、思ってませんよ」
しばしの沈黙。
そして、カノンの声が、ふと変わった。
メリッサの視線をまっすぐ受け止め、低く、静かに言う。
「復学しろ、メリッサ」
「……え?」
「お前には、『普通』を知る権利がある」
メリッサの手が、ぴくりと揺れた。
頬を撫でる風。揺れる海。揺れる心。
「……あたしは、冥闘士ですよ?たくさん、酷いことをしたし、酷いこともされました……」
「知ってる。俺だって、聖域に背を向け、多くを裏切った人間だ。わかってるよ。お前の負い目も、痛みも、少しはな」
メリッサは言葉を失った。
沈黙の中、海風が二人を包む。光が水面を揺らし、波のさざめきが小さく耳をくすぐる。
「でもな、メリッサ。過去があるからって、未来まで捨てるな。償いたいなら、生きて償え。歩け。背負ったままでも、前に進めるんだ。そしていつか、自分の事を赦してやるんだ」
海の上の静けさに、カノンの言葉が沁みていく。どこまでも遠くへ、沈むように、深く。
「……赦せないです、自分のことなんて……。でも」
「でも?」
「……でも、あたし、またカノン様とミロさんと三人で、釣りがしたいです」
カノンは、微かに笑った。
「なら、まずそれでいい」
再び海の上に沈黙が落ちる。
朝陽が水面を染め始め、さざ波の上を鳥の影がかすめていく。
光と影の間に、静かな希望がゆっくりと差し込んだ。
風はまだ冷たく、けれどどこか、心の奥にそっと火を灯すようだった。
水面を照らす光が、ようやく金色を帯び始めた頃。
漁船の木の舷に手をかけ、波の揺れに身を委ねながら、メリッサは隣にいるカノンに視線を向け、ぽつりと口を開いた。
「……ありがとう、カノン様」
答えは返ってこない。
ただ、カノンの瞳が静かに、真っ直ぐに自分を見つめている。
「……あたし、大学に戻ります。戻って、勉強して…いつか、誰かの役に立てるようになる。薬剤師の資格取って……研究者に……なれるかはわからないけど……でも、頑張ってみようかなって」
言葉の一つ一つが、胸の奥に小さな火を灯す。
波の揺れと風の冷たさのなかで、震えと確かな意志が交じり合う声音。
水面が光を揺らし、波紋が船底に反射して小さな音を立てる。
そのささやかな音さえ、今のメリッサには、心を確かめる指標のように響いていた。
「ああ、頑張れ。お前なら、困難にも立ち向かえるだろうよ」
カノンの声は変わらず低く、静かだった。けれどその奥には、確かな温もりが漂っていた。
「聖域へは俺が言っておく。お前が復学する場合、学費も生活費も、研究に関わる経費も全額を聖域が負担する。安心して勉学に励め」
「……え、そうなの?」
「何だ、教皇から内訳書を受け取ったんだろ?見てないのか」
「……うん」
「お前な、そういうのはきちんと目を通す癖をつけろ。そうでないと、大人になってから困るぞ」
「分かってます」
頬を膨らませたメリッサの頭に、カノンの大きな手が伸びた。
くしゃ、と、乱暴なくらいに撫でる。
「お前は、お前のやり方でいい。ゆっくりでいいから、ちゃんと、自分の道を見つけろ」
あたたかい風が吹いた気がした。
海風の湿り気ではなく、カノンそのものから発せられるような、乾いたぬくもり。
「……はい、カノン様」
メリッサは、まるで幼い日に戻ったかのように、素直な声でそう返した。
このとき、彼女の目にはもう、涙はなかった。
海面に反射する光の揺らぎのように、静かに、心の奥に灯った小さな火が、確かに揺れていた。
メリッサ嬢が復学すると報告してきたのは、何故かカノンだった。
思わず「何故お前が」と問いたくなる衝動を抑え、私はただ頷いた。彼女がかつて命を賭してこの愚弟を元の姿に戻したのは記憶に新しいが、それ以降、特に交流があったとは聞いていなかった。
だが、今や彼は聖域においても独自の動きを許されている。私に逐一報告する義務もない。
……何より、詮索すれば、まるで彼を信じていないように聞こえてしまう。
信頼している。
信頼しているからこそ、余計な干渉はしない。それが私にできる、せめてもの誠意だった。
――この歳になってまで、私が兄風を吹かせるのもどうなのかと思う。
それに、彼の方が今の私よりずっと、“人の気持ち”に寄り添う言葉を持っていることを、痛感していた。
「復学の手続きに、大人の手伝いが必要なら、お前がサポートしてやってくれ」
ただ、それだけを、静かに言った。
聖域の紋章が押されたその封書は、彼の自筆署名を伴う正式な通知だ。しかし、メリッサとシオンにとってはそれ以上の意味を持っていた。
玄関の扉を叩く音が、やけに遠くから聞こえた気がする。
「どなたですか?」
扉越しに尋ねる。
「聖域教皇シオンだ」
「……何しに来たんですか?」
短い問いだった。
けれど、その声には、深い痛みが滲んでいた。
「メリッサ……そなたに、会いに来たのだ」
穏やかな声だった。なのに、その響きは胸の奥を静かに掻きむしる。
メリッサは躊躇いながらドアチェーンを外し、扉をそっと開けた。夜気が流れ込み、彼の姿を包む。
スーツの襟元に落ちる光、手にした封筒――そのどれもが現実の輪郭を持ちながら、どこか遠い夢の断片のように見えた。
「……シオン様、これ以上あたしに関わらない方がいいですよ?」
かろうじて言葉にした声は、自分のものとは思えないほど掠れていた。その一言が、沈んだ石のように心の底へ落ちていく。
「また……またシオン様のこと、傷付けますよ。きっと」
声が震えた。
けれど、その震えは恐れではなく――痛みだった。
自分の手で彼を傷付けたこと。
そのことを、今もなお赦せない。赦せないまま、生きている。
彼を見つめられない。目を合わせれば、きっと泣いてしまうから。
だから、視線を逸らした。それでも、彼の気配は確かにそこにあった。温度を持ち、呼吸をしていた。
沈黙が、二人の間に降りてくる。
その沈黙こそが、かつて分かち合った全ての言葉の残響のように思えた。
シオンの菫色の双眸が、微かに揺れる。
そこに宿るのは、痛みの果てに辿り着いた一つの決意。
「それでも……そなたを放ってはおけぬ。メリッサ。私は――そなたに償いたいのだ」
「償いたい?」
思わず、彼を見上げる。
涙に滲んだ景色の向こうで、彼は確かに自分を見つめていた。
その眼差しの深さに、胸が痛む。
「シオン様は、悪くないです……」
声が震えた。
自分でも気づかないうちに、そう言っていた。
彼の表情がわずかに揺らぐ。
けれど、メリッサはそれ以上見ていられなくて、そっと視線を外した。
静寂が降りる。
呼吸の音がやけに近く、遠い。
それだけで、胸の奥が締めつけられる。
ほんの一歩。
手を伸ばせば触れられる距離。
なのに、その一歩が踏み出せない。
「ごめんなさい…お引き取りください」
目の前で扉が閉ざされた。
シオンは次の行動に移せず、ただ、立ち尽くす。
――どうして、わかってくれないのだろう。
目の前にいた少女の細い肩が、かすかに震えていたことに気づいていた。
話だけは聞いてくれるかもしれない――そう思っていた。
けれど、その願いは無情にも届かなかった。
想いが重なれば、きっと救える。
そう信じていた。
けれど、それは傲りだったのかもしれない。
自分は、彼女の悲しみの全てを知っているわけではない。わかっている“つもり”で、手を差し伸べただけなのではないか。
「……私では、だめなのか……」
紫水晶のような瞳を伏せ、シオンは一人、痛みに似た言葉を胸の奥で零した。
――わかってるよ、そんなこと。
自室に駆け込んだメリッサは、ベッドに倒れ込み、声を殺して泣いた。鼻が詰まって、うまく呼吸ができない。
喉の奥が熱く、胸が痛い。
“また会いに来てくれた”
“シオン様は、あたしのことを気にかけてくれている”
それが、嬉しくないわけじゃなかった。
嬉しくて、苦しくて――どうしようもなく、泣きたかった。
けれど
『これ以上あたしに関わらないで』
そう言わなければ、自分の方が壊れてしまう。
“優しさ”は、いちばん残酷だ。
傷口に触れ、何も知らない顔で「大丈夫だ」と言われるのが、いちばん怖い。
シオンのことが、嫌いなわけじゃない。
寧ろ、きっと――とてもとても、好きだった。
でも、そんな想いすら、自分には持つ資格がない。
だって、自分はあの人を殺そうとしたのだから。
この手は、あの人の血に染まりかけていたのだから。
「……どうして、こんなふうになっちゃったのかな……」
メリッサは枕を抱え、じっと震えたまま目を閉じた。
遠く、海鳥の声が、空に溶けていく。
――想い合っているはずなのに、どうして届かないのだろう。ただ、そばにいたいだけなのに。
けれど、それはきっと“まだ”叶えられない願い。
互いの痛みを埋めるには、あまりにも深い傷が、そこにある。
だからこそ、二人の距離は今日も触れ合わないまま――静かに、交わらずに過ぎていく。
手を伸ばせば届く距離なのに、踏み出すことができずにいる。
どうしても、無理に触れようとは思えなかった。
彼女の痛みを、今すぐに拭えるわけではない。
手を差し伸べることさえ、時には重荷になるのだと、静かに理解した。
それでも、放っておけない。
痛みを抱えたその背中に、自分の想いをそっと重ねるしかできない。
紫水晶の瞳は、じっと、遠くの彼女の姿を見つめていた。その視線は、言葉にならず、音にならず――ただ存在だけが、彼女に届くことを願っていた。
赦しきれない過去と、まだ手放せない愛が、夜気のように二人の間に漂っていた。
風が、潮の匂いを含んで吹き抜けていく。初夏の空気のなかに、どこか冷たいものが混ざっていた。
小さな家の前に立つシオンは、ひとつ深く息を吐き、扉を叩く。
前回訪れたときと同じ静けさが、目の前に広がる。あの日、彼の声を拒んだまま扉を閉めた記憶が、空気に残っているかのようだった。
しばらくして開いた扉の奥、メリッサは無表情で立っていた。
目の奥には何も宿っていない。かつての快活な面影は、遠くに置き去りにされたままだ。
「……今日は何のご用ですか?」
感情を押し殺した声。
前回の訪問では、この声の奥に、ほんのわずかに恐怖や戸惑いが混ざっていた。
今は――冷たく、鋭い。
けれど、その冷たさの下に、わずかに揺れる心の欠片があることを、シオンは知っていた。
シオンは視線を逸らさず、静かに告げる。
「賠償金の支払いが決定した」
メリッサの眉がわずかに動く。予想もしなかった言葉だったのだろう。
「……賠償金?」
「そうだ。我々聖域は……そなたと、その家族の幸福を、無残に踏み躙った。その償いとしての賠償だ」
メリッサは扉の縁に手をかけ、小さく鼻で笑った。
「今更?」
「……」
「今更そんなの受け取っても、意味ないですよ。お母さんも、お兄ちゃんも、生き返らない。お金、貰ったって、何になるんですか?」
その声は冷たく、震えていた。
怒りでも皮肉でもなく、絶望が潜んでいた。
前回よりも、明確に自分を守ろうとする強さ――そして、孤独感が滲む。
「どうして、生き返らせてくれないんですか?神様にだって頼めたんじゃないんですか?シオン様だって、他の聖闘士様だって、あたしだって――生き返ったじゃないですか」
「……」
「なんで、あたしの家族は、死んだままなんですか?」
シオンは言葉を失ったまま、彼女の瞳を見つめる。胸の奥で、痛みがゆっくりと波紋を広げていく。
「メリッサ……」
その名を呼んだ声は、深く、静かで、揺れていた。
「私に、奇跡を語る資格はない。アテナ様がくださった命も……本来ならば、戻ってこられるはずのないものだった。理不尽に、選ばれてしまった命だ」
「……」
「そなたの言う通りだ。そなたの母も、兄も、誰よりも生きるべき人間だった。なのに、我々は……」
シオンはそっと胸元から一枚の封筒を取り出す。白地に金の紋章が押された、正式な聖域の公文書。
「これが、全ての代わりになるとは思っていない。ただ、そなたが少しでも、前を向く力になるのならと思った」
メリッサは受け取ろうとせず、ただ彼の手を見つめ、ふいに瞳を伏せる。
「……前なんか、向けるわけないじゃないですか。こんなに沢山、大事なものを失ったのに、どうやって」
「それでも……私が、そなたに願うのは、それだけだ」
答えはなかった。
メリッサは静かに扉を閉める。その音は小さく、それでいて確かな断絶のように響いた。
シオンはしばらくその場に立ち尽くす。海風が再び吹き、金の髪を揺らしていた。
「……そなたの悲しみを、私が全て背負うことはできない。だが、せめて、消えずにそばにいたい」
封筒を郵便受けにそっと差し入れる。
誰にも届かぬ祈りを胸に、彼は静かに歩き出す。
足取りは慎重で、しかし確かに、彼女の未来へ向かっていた。
港は朝の光に静かに照らされ、海面が金色にきらめいていた。潮の匂いが混じった冷たい空気が、漁船や木の桟橋を包む。波の音が低く、規則正しく岸に打ち寄せ、遠くのカモメたちの声が空に溶けていく。船に残された水滴が太陽を受けてきらきらと反射する。漁港の街並みは、まだ眠たげに朝霧に沈み、静けさと活気の境界が曖昧に溶け合っていた。
桟橋の先に、カノンの姿があった。
黒の軽装に、肩から釣り道具をかけ、波打ち際に立つその姿は、静かでありながら確かな存在感を放っていた。
「……よう、メリッサ」
視線の先に、メリッサが立っていた。
髪は潮風になびき、顔にはまだ朝の眠気と、漁港特有の湿った香りが混ざる。
「カノン様…釣り……行きますか?」
声は少し不安げで、けれど微かに期待を含んでいた。
カノンは小さく頷き、低く、穏やかに言った。
「そのつもりで来た」
ぽつりと返したその声に、メリッサはほっとしたように微笑む。
小さな船の舷に手をかけ、心の奥の緊張を少し解く。海風が、二人の間に柔らかく流れ込む。
「じゃあ、行きましょうか」
メリッサは舵を取り、漁船は静かに沖へ向かって動き出す。
水面に揺れる光の波紋が、船底を軽く撫でるように広がり、遠く水平線が、朝日に染まる。
カノンは舳先に立ち、海の匂いを吸い込みながら、言葉少なに視線を海に向けた。
「今日は、ゆっくりできるといいな」
メリッサは小さく笑い返す。
まだ、心の奥に残る悲しみや不安を、しばし忘れられるような、静かな時間が始まろうとしていた。
「……カノン様が来るなんて、思いませんでした」
「心配するな。別に教皇の回し者じゃない」
「そんなこと、思ってませんよ」
しばしの沈黙。
そして、カノンの声が、ふと変わった。
メリッサの視線をまっすぐ受け止め、低く、静かに言う。
「復学しろ、メリッサ」
「……え?」
「お前には、『普通』を知る権利がある」
メリッサの手が、ぴくりと揺れた。
頬を撫でる風。揺れる海。揺れる心。
「……あたしは、冥闘士ですよ?たくさん、酷いことをしたし、酷いこともされました……」
「知ってる。俺だって、聖域に背を向け、多くを裏切った人間だ。わかってるよ。お前の負い目も、痛みも、少しはな」
メリッサは言葉を失った。
沈黙の中、海風が二人を包む。光が水面を揺らし、波のさざめきが小さく耳をくすぐる。
「でもな、メリッサ。過去があるからって、未来まで捨てるな。償いたいなら、生きて償え。歩け。背負ったままでも、前に進めるんだ。そしていつか、自分の事を赦してやるんだ」
海の上の静けさに、カノンの言葉が沁みていく。どこまでも遠くへ、沈むように、深く。
「……赦せないです、自分のことなんて……。でも」
「でも?」
「……でも、あたし、またカノン様とミロさんと三人で、釣りがしたいです」
カノンは、微かに笑った。
「なら、まずそれでいい」
再び海の上に沈黙が落ちる。
朝陽が水面を染め始め、さざ波の上を鳥の影がかすめていく。
光と影の間に、静かな希望がゆっくりと差し込んだ。
風はまだ冷たく、けれどどこか、心の奥にそっと火を灯すようだった。
水面を照らす光が、ようやく金色を帯び始めた頃。
漁船の木の舷に手をかけ、波の揺れに身を委ねながら、メリッサは隣にいるカノンに視線を向け、ぽつりと口を開いた。
「……ありがとう、カノン様」
答えは返ってこない。
ただ、カノンの瞳が静かに、真っ直ぐに自分を見つめている。
「……あたし、大学に戻ります。戻って、勉強して…いつか、誰かの役に立てるようになる。薬剤師の資格取って……研究者に……なれるかはわからないけど……でも、頑張ってみようかなって」
言葉の一つ一つが、胸の奥に小さな火を灯す。
波の揺れと風の冷たさのなかで、震えと確かな意志が交じり合う声音。
水面が光を揺らし、波紋が船底に反射して小さな音を立てる。
そのささやかな音さえ、今のメリッサには、心を確かめる指標のように響いていた。
「ああ、頑張れ。お前なら、困難にも立ち向かえるだろうよ」
カノンの声は変わらず低く、静かだった。けれどその奥には、確かな温もりが漂っていた。
「聖域へは俺が言っておく。お前が復学する場合、学費も生活費も、研究に関わる経費も全額を聖域が負担する。安心して勉学に励め」
「……え、そうなの?」
「何だ、教皇から内訳書を受け取ったんだろ?見てないのか」
「……うん」
「お前な、そういうのはきちんと目を通す癖をつけろ。そうでないと、大人になってから困るぞ」
「分かってます」
頬を膨らませたメリッサの頭に、カノンの大きな手が伸びた。
くしゃ、と、乱暴なくらいに撫でる。
「お前は、お前のやり方でいい。ゆっくりでいいから、ちゃんと、自分の道を見つけろ」
あたたかい風が吹いた気がした。
海風の湿り気ではなく、カノンそのものから発せられるような、乾いたぬくもり。
「……はい、カノン様」
メリッサは、まるで幼い日に戻ったかのように、素直な声でそう返した。
このとき、彼女の目にはもう、涙はなかった。
海面に反射する光の揺らぎのように、静かに、心の奥に灯った小さな火が、確かに揺れていた。
メリッサ嬢が復学すると報告してきたのは、何故かカノンだった。
思わず「何故お前が」と問いたくなる衝動を抑え、私はただ頷いた。彼女がかつて命を賭してこの愚弟を元の姿に戻したのは記憶に新しいが、それ以降、特に交流があったとは聞いていなかった。
だが、今や彼は聖域においても独自の動きを許されている。私に逐一報告する義務もない。
……何より、詮索すれば、まるで彼を信じていないように聞こえてしまう。
信頼している。
信頼しているからこそ、余計な干渉はしない。それが私にできる、せめてもの誠意だった。
――この歳になってまで、私が兄風を吹かせるのもどうなのかと思う。
それに、彼の方が今の私よりずっと、“人の気持ち”に寄り添う言葉を持っていることを、痛感していた。
「復学の手続きに、大人の手伝いが必要なら、お前がサポートしてやってくれ」
ただ、それだけを、静かに言った。
