Eine Kleine

 書庫の奥、埃に沈む古文書の山を前に、シオンは、比較的新しい一冊を取り上げた。
 封印された分厚い書物は、かすれた革の匂いを放ち、触れるだけで時の重みを伝えてくる。
 ページをめくると、整然とした文字が並ぶ。
 日付、氏名、事件の概要――簡素に、余計な装飾も感情も排された記録。
〈定期招集の接見終了。帰路において雑兵4名による襲撃発生〉
 文字だけが淡々と事実を告げている。
 次の行に、彼の視線は止まった。
〈監視対象 デメトリウス・ドラコペトロス(26)――死亡。メリッサ・ドラコペトラ(16)――全治1カ月、心的外傷については完治不能と判断〉
 簡潔すぎる文章の中に、一つ一つの命が崩れ落ちた現実が、静かに、しかし逃げ場のない形で刻まれていた。
 兄の死、若い娘の受けた惨劇――数字と文字だけの報告でありながら、胸の奥で鈍い痛みがぐっと押し寄せる。
 シオンは長く息をついた。
 文字を追うたびに、淡々とした記録の隙間から、絶望が滴り落ちるように感じられた。言葉にできぬ恐怖と悲哀が、資料の紙面の裏側に滲んでいる。
 視線を閉じると、五感に甦るのは、あの古びた祭祀場へ続く光も音も少ない、乾いた道の情景だ。
 幼いメリッサが、父と兄と共に歩いたはずの道。そして、もう二度と戻らぬ命と、壊れた日常。
 書物は冷たく、しかし残酷な真実を伝える。
「絶望か――」
 そう一つだけ、胸の奥で囁く声があった。
 記録は簡素でも、そこに宿る痛みは、あまりにも深かった。
 更に記録の頁を繰る。
 数字と文字が整然と並ぶだけの報告書に、日々の営みが淡々と記されていた。だが、ページを追う手は自然と止まる。
 監視対象者、メリッサ・ドラコペトラ。
 高校卒業の記録には、欠席や停学の記録もほとんどなく、日常生活に大きな乱れはなかったように見える。だが、記録物の行間には何も書かれていない。
 国立大学薬学部へは中位よりやや下の成績で入学している。しかし、入学直後からの休学理由、身体や精神の状態――それらは一切記されていない。
 あたかも、誰も気付かぬまま、あるいは記録する者に理解の手段がなかったかのように。
 さらに目を凝らす。
 冥闘士としての覚醒。
 ドリュアスの冥衣を纏い、聖域を欺くほどの力を手にしたこと――その痕跡もまた、資料には残されていなかった。
 数字と文字の静謐さが、逆に異様な影を生む。平穏の裏側で、何が蠢いていたのか。何を隠し、何を知覚していたのか。
 シオンは指先で頁を押さえながら、胸の奥で冷たい風が通り抜けるのを感じた。
 記録は淡々としている。しかしその余白に、計り知れぬ異変と、誰も触れられぬ真実が静かに横たわっているのだった。

 分厚い記録書を、シオンはそっと閉じた。
 革の表紙がやけに冷え冷えと感じる。指先に残る紙の感触は、過去の重さそのものだった。
 あの聖戦で、アテナ軍は冥闘士を容赦なく殲滅した。即ち、メリッサも聖闘士の誰かに討たれ、命を失ったはずなのだ。だが記録には、いつ、どこで、誰に討たれたのかの詳細はない。その欠落の奥に、彼女の死の痕跡は影のように潜んでいる。そして彼女は、仕える冥王ハーデスの恩寵を受け、再びの命を与えられた一人である。
 死を越え、なお、闇の力とともに在る者。
 シオンは深く息をつき、机の端に額を寄せた。
 静寂が、広間に張りつめる。
 メリッサを、引き続き監視対象とすべきか――その問いが、胸の奥で重くのしかかる。
 彼女の力は、常人では計り知れない。しかし、守るべき存在でもある。
 目を閉じると、幼き日の面影が脳裏をかすめた――まだ5歳の彼女が、父の手を握り、教皇の前でひたむきに頭を下げていたあの姿。
 その記憶は、冷静な判断と、守護者としての責務の間で、揺れる心をさらに締めつける。
 絶望と恐怖の記録の後に残ったものは、守るべき存在への深い責任感だけだった。
 やがてシオンは顔を上げ、窓の外に広がる聖域の景色を見渡す。夕暮れに染まる白亜の石造建築は、まるで静かに答えを待っているかのようだった。
 彼女を――メリッサを、監視するのか、否か。
 決断は、まだ先のことだった。
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