Eine Kleine

 冥界の空は、光を知らない。見上げてもただ、黒の奥に黒が重なるだけだった。それでも、シオンには“風”の流れがわかった。魂のざわめきが、微かな鼓動のように空気を震わせていた。
 彼は静かに歩を進めていた。
 長く眠っていた肉体は、18の若さを宿して蘇っていた。その姿は、生前の黄金聖衣ではなく、漆黒の冥衣を纏っている。胸元を覆う鋭い装飾が、歩むたび鈍く光を返す。
「……これが、冥界の息か」
 吐いた息が白にもならないまま、虚空に溶けた。
 ハーデスの力によって再び与えられた生。それは祝福ではなく、鎖だった。
 アテナを討て――その言葉が脳裏に残響している。
だが、シオンはまだその命を、心の奥底で拒み続けていた。

 ――その時。

 風が止んだ。
 闇が揺れた。
 彼の視界の端に、白い影が揺らめいた。
 見間違いだと思った。
 冥界に白はない。
 だが、確かにそこに“白”が在った。
 近づく。
 月なき空の下、黒い大地に一人の少女が立っていた。
 肩まで届く栗色の髪。
 全身を包む漆黒の冥衣――その形を、シオンは知っていた。
「……ドリュアスの冥衣」
 思わず、息を呑む。
 森の精霊を象徴するその冥衣は、かつて冥闘士の中でも異彩を放った。生命の気配を宿しながら、死を纏う装束。その矛盾を、彼女は纏っていた。
 少女は、振り返った。
 光のない瞳。
 しかし、その奥にかすかに揺れる色を、シオンは見た。
 蜂蜜のような、温かな金の光。
 心臓が一度強く跳ね、鼓動の音が耳の奥で炸裂する。
(まさか……)
 11年前。
 聖域に連れてこられた幼い少女。自分を見上げたあの小さな顔。無垢な瞳。
「きょおこおさまは、おじいちゃんなんですか?」
 無邪気に問うて、皆を慌てさせたあの声。

 ――メリッサ。

 名前が、唇から零れた。
 信じられない思いで、彼はその名を呟いた。
「なぜ……そなたが冥闘士に……」
 だが、少女――メリッサは何も答えなかった。
 代わりに、静かに微笑んだ。
 その笑みは、かつての彼女のものではなかった。美しく、そして深い絶望を湛えた微笑。
「……冥界に光をもたらす者など、いないと思っていたが」
 シオンの言葉は、自らにも向けられていた。
 それでも、胸の奥で何かが崩れる音を聞いた。
 闇が二人を包む。
 けれどその闇の中で、シオンは確かに“見て”いた。
 少女の存在が、彼の心を波打たせる。それが絶望なのか、救いなのか――まだ彼にはわからなかった。
 ただ、彼は気づいていた。
 彼女はもう、手の届かない場所へ行ってしまったのだと。


 眩しいほどの光の中で、シオンは息を吹き返した。
 聖戦の記憶がまだ瞼の裏で燻っている。
 無数の魂が砕け散り、光へと還っていく瞬間。
 アテナの祈りが天を貫いたあの最期の光。

 ――そして今、再び世界が息をしている。

 目を開けた瞬間、胸の奥に微かな違和感が走った。
 腕を見下ろす。滑らかな肌。指を動かせば、かつての老いも、戦いに刻まれた皺も消えていた。
 若返った、というより――戻されたのだ。
 18歳に。
 自らの記憶の中でもっとも輝かしかった年齢に。だが、目の前に立つ者たちは違う。双子座のサガ。聖戦が始まるより前に自分を手にかけた男は、今や28歳。黄金聖闘士達は揃って成年を迎えており、弟子のムウでさえ20歳を迎えていた。
 シオンは静かに息を吐いた。
 光を宿した掌を見つめながら、乾いた笑みをこぼす。
「ムウよりも若くなってしまったのか……」
 奇妙な感覚だった。時間は巡り戻ったはずなのに、心だけが取り残されている。
 神々の気まぐれは、いつだって人の理を超えている。再び与えられた若さは祝福なのか、それとも――罰なのか。

 アテナは静かに彼を見上げていた。
 まだ幼い少女の姿。けれど、その瞳の奥に宿る光は、かつて戦場で幾千の命を導いた女神のものにほかならなかった。
「シオン。再び、教皇として聖域を導いてください」
 声は柔らかく、しかし揺るぎない。
 命令ではなく――懇願だった。
 聖戦ののち、命を落とした聖闘士を蘇らせるため、アテナは自らの神力を使い果たした。その身は14歳の少女へと戻り、今は神の加護の殆どを失っている。
 いずれ力は再び満ちるかもしれない。けれど、それがいつになるのかは誰にもわからなかった。
 神力なき今、聖域を包む結界は脆く、神々の残滓が漂う世界にあって、その崩壊は時間の問題だった。
 神の力でしか維持できぬはずの結界。それを人の知恵と経験で補うために、女神は彼を選んだのだ。
 シオンは静かに膝を折り、頭を垂れた。辞退という選択は、最初から存在しなかった。もはや彼が背を向ければ、聖域はたちまち無秩序の渦に沈むだろう。
「お任せください、アテナ」
 かつて幾度となく同じ言葉を口にした。だが今、その響きはどこか違って聞こえた。若き肉体の奥に眠る老教皇の魂が、静かに息をつく。

 ――また、この手で守るのだ。神なき世界で、聖域と人とを。

 大理石の床に、アテナの杖が突かれる音が静かに響いた。
 光が差し込む議場は荘厳でありながら、どこか冷え冷えとしていた。
 集ったのは、聖闘士すべてと聖域の高官たち。
 再建されたばかりの聖域で、最初の重大な布告がなされようとしていた。
「……射手座アイオロス、双子座サガ。あなたたちを教皇補佐官に任命します」
 アテナの言葉が響いた瞬間、議場がざわめきに揺れた。
 アイオロスの名が告げられた時には、歓声にも似た同意の声が上がった。
 誰もが彼の人望と献身を知っていたからだ。
 しかし――次の名が口にされた途端、空気は一変した。
「……サガ、だと?」
「冗談ではない! 教皇殺しを、補佐官に?」
「いかに赦されたとはいえ――」
 怒号にも似た反対の声があちこちで上がる。
 誰かが拳を叩きつけ、別の誰かが立ち上がる。
 秩序が崩れかけたその瞬間、アテナの細い手が、静かに掲げられた。
「静まりなさい」
 それだけで、議場の空気がぴたりと止まった。
 幼い肉体に宿る威光――それは確かに、神の気配を帯びていた。
「サガは過ちを犯しました。しかし、彼ほど自らの罪と向き合い、悔い改めた者を私は知りません。この者こそ、聖域の闇を知る者。だからこそ、光を導く力を持つのです」
 議場に沈黙が落ちた。反論しようと口を開いた者も、言葉を失っていく。
 サガは俯いたまま、一歩前に進み出た。
「アテナ……私は、その任に相応しくありません」
 低い声が震えていた。
「罪は消えません。補佐など、到底――」
「サガ」
 アテナは穏やかに首を振った。
「あなたが罪を抱えたまま歩むこと。それが贖いです。私は、あなたにこの道を歩んでほしい」
 誰も口を挟めなかった。
 サガは深く頭を垂れた。沈黙の中で、彼の肩がわずかに震えていた。
 その様子を、シオンはただ黙って見つめていた。
 アテナの判断が正しいことを、理では理解している。だが、教皇としての記憶の奥底で、いまだあの日の光景――自らの血で染まる地を思い出すたび、胸の奥で冷たい痛みが走るのだった。それでも、彼は言葉を飲み込んだ。
 神が選んだのなら、それが答えだ。
 老教皇の沈黙こそ、最大の同意。
 こうして、聖域の新たな秩序が始まった。脆く、しかし確かに――再生への一歩として。

 夕暮れの光が、教皇宮の高窓を透かして斜めに差し込んでいた。
 金の粉を散らしたようなその光は、長い時を経て蘇った若き教皇の姿を、どこか現実離れした幻想のように照らしている。
 執務机の前に立つシオンは、書類の束を閉じ、ゆるやかに顔を上げた。
「サガ――」
 その声に、入り口で控えていた男が静かに膝をつく。黄金聖衣の擦れる微かな音が、沈黙の中に吸い込まれていく。
 双子座の聖闘士は、かつて自らの手でシオンの命を奪った。それでも今、再びその前に立っている。生きていてはならぬはずの者たちが、神の奇跡によってもう一度生を与えられた――そのこと自体が、奇妙な赦しのようでもあり、試練のようでもあった。
「サガ。思うところはあるだろうが、アテナのご判断だ。アイオロスと協力し、聖域の再建に尽くしてほしい」
 シオンの声音は穏やかであったが、その奥には聖域を背負う者の重さが滲んでいた。
 対するサガは、深く俯いたまま微動だにしない。床に落ちる彼の影は、まるで過去の罪を抱えるその心の形を映しているかのようだった。
「お言葉ですが教皇……私のような者が補佐官など……」
 弱々しく掠れた声だった。言葉に宿るのは卑下ではなく、絶望に近い自嘲。自らの手を高貴な血で汚したあの日、彼は全てを失った。
 アテナの慈悲が与えた再生も、彼にとってはなお、痛みの延長に過ぎなかった。
 シオンはゆっくりと椅子を立ち、窓辺へ歩み寄った。
 外では、陽が山の端に沈みかけている。聖域の白い石畳が夕焼けに染まり、血のような朱が壁を撫でていた。
「ふむ……そう思うのも無理ないことだ」
 柔らかな声が背を向けたまま落ちる。
「しかし、今の私はお前より10も若いのだ。次に謀叛を起こそうとしても、簡単に討ち取られぬくらいの自信はあるぞ」
 言葉の端に、僅かに笑みが滲んだ。
 それは冗談とも慰めともつかぬ、老教皇の軽やかな諧謔。だが、その一言がサガの胸の奥に突き刺さる。
 赦されている。
 その事実を、ようやく理解した瞬間だった。神ではなく、人が、自分を赦してくれた。教皇の笑みの裏にあるのは、嘲りではなく、希望だった。
「……教皇……」
 力が抜けた。サガは床に手をつき、そのまま頭を垂れる。肩が震え、堪えていた涙が床に落ちた。それは、懺悔の涙であり、生きている事の痛みでもあった。
 シオンは静かに振り返ると、机の端に手を置いたまま彼を見下ろした。その瞳には、過去の痛みも、怒りも、最早なかった。ただ一つの願いだけが、そこにあった。

 ――どうか、この世界を再び壊さぬように。

 長い沈黙ののち、シオンはそっと目を閉じた。
 外では、最後の陽光が山の端を沈みきろうとしていた。その色は、赦しにも似た深い茜に染まっていた。

 教皇宮を出ると、空は既に茜から群青へと移ろいかけていた。風が高く、白い石畳の上を乾いた砂が滑っていく。
 サガはしばらく足を止め、胸の奥に残るざらついた呼吸を整えた。
 赦された。
 それは、あの男の言葉の端にあった。だが同時に、それは“試されている”ということでもあった。自分の中の闇が、再び牙を剥くことのないように。その試練は、死よりも重い。
「……やあ、サガ」
 背後から聞こえた声に、肩が僅かに震えた。
 振り返れば、射手座の黄金聖闘士――アイオロスが、夕暮れの残光を背に立っていた。
 いつもと変わらぬ穏やかな微笑。だがその奥に、計り知れぬ覚悟のようなものが宿っている。
「補佐官として共に務めることになったな」
 淡い声だった。糾弾でも嘲りでもない。ただ、事実を述べるだけの声音。
「……そうだな。アテナのご意思だ。すまん」
 言葉が喉で絡む。
 この男こそ、かつて自分が最も羨み、そして最も深く傷つけた相手。
 目の前の存在は、生涯消えぬ罪そのもののようだった。
 アイオロスは一歩、静かに近づいた。
「昔から、アテナは人の中にある善を信じる方だ。お前を選ばれたのも、きっと理由がある」
「善……か。私は自分の中に、そんなものがまだ残っているとは思えない」
「それでも――」
 アイオロスの瞳が、薄闇の中でやわらかく光る。
「信じるのが、アテナの意志だ。そして、それを支えるのが私たちの務めだろう?」
 言葉が胸の奥に染み渡る。
 赦しではなく、ただ静かな受容。敵でも味方でもなく、同じ場所に立つ者としての温度。
 沈黙が二人の間を満たした。遠くで聖域の鐘が鳴る。風に乗って、どこか懐かしい香りが漂った。
「……ありがとう、アイオロス」
 サガの声は、掠れていた。それでも、確かに笑みが浮かんだ。
「一つ、約束してくれ」
 アイオロスは夕暮れの空を見上げながら言った。
「もう、あのときのように自分を憎まないでくれ。私たちは、過去ではなく今を背負うために生き返ったのだから」
 サガは小さく息を呑んだ。その言葉は赦しではなく、共に背負う者の覚悟だった。

 ――ああ、やはり彼は彼だ。太陽のように眩しい。

 そのとき、聖域の灯が一つ、二つ灯り始めた。
 新しい夜が、静かに幕を開ける。
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