Eine Kleine

 風が止んでいた。
 季節外れの鈴蘭の花だけが、風もないのにかすかに震えていた。
 その静寂の中で、白銀聖闘士ミスティは足を止めた。
 地面に倒れた二つの影。
 一人は血に染まった青年――その姿から、もう息がないことは遠目でも分かった。
 そして、もう一人。
「おい!君……!」
 駆け寄ると、少女の身体は冷え切っていた。
 土と涙で汚れた頬、泥にまみれた栗色の髪。着衣は無惨に裂け、露わになった白い柔肌には赤い痕が何か所も散らされている。
 この場で何が行われたのか、少女の身に何が起きたのか、状況が明白に語っていた。
 彼女の胸がわずかに上下しているのを見て、ミスティは息を呑んだ。
「生きている……」
 震える声が漏れた。
 それは安堵か、それとも怒りの余韻か、自分でも分からなかった。
 周囲には、争いの痕跡がいくつも残っていた。
 複数の人物の足跡、地面に散った血、そして――小さな鈴蘭の花。
 不毛と呼ばれるこの地に咲くはずのない花が、彼女の傍らで静かに揺れていた。
 その白さが、痛ましいほどに清らかだった。
 ミスティは歯を食いしばった。
「誰が……誰がこんな真似を……」
 怒りに震える手で、背からマントを外す。
 柔らかな布で少女の身体を包み込みながら、そっと抱き上げた。その体は羽のように軽く、だがその軽さが、失われたものの大きさを雄弁に物語っていた。
 少女の瞼は閉じたまま。
 口元に浮かぶのは、微かにこぼれた血と、乾いた涙の跡。
 ミスティは空を仰いだ。
 風が戻り、鈴蘭の花を揺らす。その香りは、哀しみと祈りのように、静かに辺りを包んでいった。

 熱を失った真夏の太陽が、白く聖域を照らしていた。その光の下を、ミスティはただ走った。腕の中の少女は軽く、かすかに息づいている。それだけが、彼を支える唯一の現実だった。
「しっかりしろ……もう少しで着く……」
 己に言い聞かせるように、歯を食いしばる。
 胸の奥に渦巻くのは、怒りでも哀しみでもなく、ただひとつ――救いたいという衝動。
 医療区画へ駆け込むと、女官と医師たちが慌ただしく動いた。
「負傷者だ!至急治療を!」
 ミスティの声は震えていた。
 滅多に取り乱さぬ白銀聖闘士のその姿に、周囲の者たちは息を呑む。
 医師が少女の身体を受け取った瞬間、裂けた衣の隙間から覗く紅い傷痕を見て、誰もが言葉を失った。
 空気が凍りつく。
「この子は……」
「余計な詮索をするな!」
 ミスティの声が鋭く響いた。いつもの柔らかな響きを失った声。彼は拳を握り、震える指で顔を覆った。

 ――鈴蘭の花。
 ――血に染まった白。

 閉じた瞼の向こうで、まだあの光景がちらついて離れない。あれほど美しい花を、こんな絶望の中で見つけるとは。
「……教皇猊下に報告を」
 低く、押し殺した声で命じた。女官が頷き、走り去る。やがて、少女の小さな手がかすかに動いた。指先が、空を探すように震えた。ミスティはその手を包み込む。
「もう大丈夫だ。君は――生きている」
 そう呟いたとき、涙が彼の頬を伝って落ちた。

 教皇宮の奥、薄明の光が届かぬ謁見の間。
 香の煙が静かに揺れ、金の装飾が微かに燻っている。白銀聖闘士・ミスティは片膝をつき、深く頭を垂れた。その正面には、黄金の皇冠をかぶり、沈黙のまま佇む“教皇”の影。
 だが、その中にいるのはすでにシオンではなかった。
「……状況を、報告いたします」
 ミスティの声はかすかに掠れていた。口にするのも辛い言葉だった。
「被害者は当主デメトリウス・ドラコペトロス。死亡を確認。同行していた妹、メリッサ・ドラコペトラは性的暴行を受けた状態で発見しました。犯人は……おそらく聖域内部の兵。人数は不明ですが、現場に残された足跡の数から複数名なのは間違いありません。既に逃走しております」
 沈黙。
 奥の玉座に座る教皇は、指先をわずかに動かしただけで、何も言わなかった。その一瞬、ミスティの背を冷たいものが走る。
「……聖域の兵が、民を襲ったと?」
 低い声が、黄金の皇冠の奥から響いた。静かに、しかし刃のように鋭く。
「はい。確証はまだ……ですが」
「確証など要らぬ」
 玉座の男がゆっくりと立ち上がる。
 ローブの裾が石床を擦る音が、異様に長く響いた。ミスティは知らなかった。その声に宿るのが、かつての教皇の慈悲ではなく――怒りを抑え込む獣の呼吸であることを。
「直ちに其奴らを探し出せ。逃がすな。死体でも構わぬ」
「は……!」
 ミスティが立ち上がる。しかし、その背を追うように、仮面の奥から低く押し殺した声が響いた。
「――この件、外には漏らすな。聖域の名誉に関わる」
「承知しました」
 ミスティが去り、扉が閉じる。
 重い静寂が戻った。
 サガはしばらく動けなかった。薄闇の中で、黄金の皇冠の裏に隠された顔が歪む。

 ――何をしている。
 ――お前は、何のためにシオンを殺した。

 聖域を統べる力。秩序。理想。
 そのどれもが、血にまみれた少女一人の犠牲の前で、あまりに脆く崩れ去る。
 拳を握る。爪が掌を裂き、赤い滴が法衣を染めた。
「……メリッサ・ドラコペトラ、か」
 呟きが、誰もいない広間に溶けた。彼の胸の奥で、確かに何かが崩れる音がした。


 夕暮れの光が、リビングの木製の床に長く伸びていた。
 子どもたちが帰宅する時間まで、あとわずか。
 母はいつも通り、茶を淹れ、窓の外の通りをぼんやりと眺めていた。風は柔らかく、木々を揺らす。日常は、何事もなかったかのように、静かに息をしている。
 その時だった。

 ――鳴り響く電話機のベル。

 母は手を伸ばし、受話器を取った。
「ドラコペトロス家、奥様でしょうか。失礼いたします、聖域の者です。ご子息デメトリウス様ですが、帰路の途中、事故に遭われ……お亡くなりになったことをご報告申し上げます。また、ご息女メリッサ様も負傷されており、現在は聖域内にて手当を受けております。状況は深刻ですが、生命には問題ございません」
 言葉は丁寧で、淡々としていた。
 しかしその淡々とした調子が、かえって母の胸に重くのしかかる。
「……な、なに……?」
 受話器を握る手に力が入らず、膝から力が抜けた。
目の前の居間が揺れ、世界が音もなく歪む。
 子どもたちは、朝も笑っていたはずだった。
 窓辺で見た花も、声も、香りも、全てが記憶の中で光を失う。
「いや……いや……いや……」
 声は小さく、だがリビングを満たして止まらなかった。
 受話器の向こうの淡々とした声と、母の震える心の波が、同時に空間を支配していった。


 白い天井。
 見覚えのない部屋。
 香の匂い。
 どこかで水の音がしていた。
 目を開けた瞬間、全ての音が一気に押し寄せた。
声。誰かの足音。そして、遠くから聞こえる泣き声。

 ――誰が泣いているの?

 身体を起こそうとしたが、腕が震えた。
 痛み。
 熱。
 何かが軋む音。
「動かないでください」
 傍にいた女官の声が、やわらかく響く。けれど、その言葉の裏に滲むもの――憐れみ。
 それだけは、子どもの頃から聴き分けることができた。
「……お兄ちゃんは?」
 女官の手が、一瞬だけ止まる。その沈黙が全てを語っていた。
 メリッサの中で、何かが音を立てて崩れた。
「うそ……だって、だって、さっきまで……」
 声が掠れ、喉の奥から息が洩れる。手を伸ばそうとしても、届かない。兄の声も、温もりも、もうどこにもなかった。
 その瞬間、何かが砕けた。
 記憶の奥から、黒い影が滲み出してくる。
 誰かの笑い声。
 耳元の呼気。
 乾いた地面の感触。
 押し寄せる映像を拒むように、頭を抱えた。
「や!!……いや……いやああぁっ!!!」
 女官たちの声が飛ぶ。
「抑えて!」 
「暴れないで!」
 けれど、その声も、遠い。何も届かない。
 涙は出なかった。泣くという行為さえ、身体が忘れてしまったようだった。
 やがて、薬の匂いが鼻を刺した。
 意識が遠のく。
 光が滲み、白がぼやけていく。

 ――お兄ちゃんが呼んでいる。青い海が見える。

 波の音のような鼓動が、耳の奥で静かに響いていた。けれど、その夢の中の鼓動が次第に掻き乱される。柔らかな波の感触が、突如、冷たい硬い床に置き換わる。耳に届くのは、現実の荒々しい呼吸、遠くで飛ぶ足音、淡い薬の匂い。

 次に目覚めた瞬間、今度は世界が揺れた。
 光はまぶしく、音は割れたガラスのように耳を突き刺す。身体が、思うように動かない。
「……いや……いやあああっ!」
 声が、喉から飛び出した。
 誰かに掴まれ、揺さぶられる。
 部屋の天井がぐにゃりと歪むようで、視界が乱れた。
 恐怖が全身を覆う。
 自分の身体に何が起こったのか、何をされたのか、理解しようとしても、脳が拒む。
 涙は止まらず、声は止まらず、思考は砂のように崩れ落ちた。
 傍にいた者たちはすぐさま反応した。
「抑えて!落ち着かせろ!」
 手際よく鎮静薬が投与され、メリッサの意識は波打つように遠ざかる。
 眠らせるしかなかった。
 心を守ることが、何よりも優先されたのだ。
 眠りに沈む間、意識の端に光の粒がちらついた。波の音のように心臓が脈打ち、過去の声と現在の痛みが絡み合う。
 時間は無慈悲に過ぎていく。
 そして、緊急の処置が間に合わないまま、日々だけが静かに過ぎていった。
 眠りの中で、メリッサの胸は小さく上下し、震える指が布を握る。守られていることは確かだが、心の深い奥に刻まれた傷は、まだ誰の手にも触れられず、静かに疼いていた。

 聖域の広間は、薄暗く静かだった。
 高い天井の窓から差し込む淡い光が、埃を帯びた空気をかすかに揺らす。母は一歩ずつ、確かめるように歩を進めた。胸の奥で、何かがぐしゃりと音を立てて崩れる感触があった。
 先に案内された部屋には、白布に包まれた息子の遺体が静かに横たわっていた。
 生気を失った姿に、母は息を詰めたまま立ち尽くす。手を伸ばそうとしても、指先は宙で止まった。

 ――生きているはずのものが、そこにいない。

 別室に導かれると、そこには薬で眠る娘の姿があった。栗色の髪は乱れ、顔色は薬のせいで青白く沈んでいる。
 呼吸だけがかすかに上下する。
 母の目は、混乱と恐怖で揺れる。
 近くに控える聖域の者が、静かに口を開いた。
「奥様、メリッサ様はご覧の通り、薬で眠っております。襲撃により、デメトリウス様は命を落とされました。ご息女は負傷されましたが、現在は手当を受け、生命には問題ございません」
 母は言葉を失った。
 耳に届く説明は、頭では理解できても心が拒否する。物語の中でしか見たことのない現実が、別々の部屋で、しかし同時に存在していた。
「……メリィ……?」
 呼びかける声はかすれ、震えていた。娘は微動だにせず、ただ眠ったまま。母の手は自然と伸び、栗色の髪をそっと撫でる。その手のひらに触れる感覚だけが、かすかな現実を伝える。
「……どうして……どうしてこんなことに……」
 言葉にならない叫びが、広間の静寂を破った。
 母の世界は、二つの部屋にまたがる悲しみで、静かにしかし確実に壊れ始めていた。

 聖域から帰った母の足取りは重かった。
 家のドアを開けると、夕暮れの柔らかな光が、いつも通りにリビングを満たしていた。
 茶の香り、窓の外の木々のざわめき、静かに軋む床板。全てが変わらずにそこにある。だが、母の心は、もうその日常を受け止めることができなかった。
 台所に立ち、手を動かそうとするも、指先は震え、皿が小刻みに揺れる。視界の端に、息子の横たわる姿や娘の寝顔がちらつくようで、胸の奥に冷たい痛みが走った。呼吸が乱れ、言葉が出ない。
 夜になっても、母は子どもたちの帰宅を待つふりをして、ただリビングの椅子に座っていた。
 時折、手元の布巾を握りしめ、ふと視線を窓の外に投げる。
 風が通り抜けるたび、空気が微かに揺れ、母の胸の中の緊張も揺れる。

 日々は、静かに、しかし確実に変化していった。
 洗濯をする手が止まり、食卓に手をつく時間は増えた。台所の水音が、耳障りなほど大きく感じられる日もあった。外から聞こえる子どもたちの声や、近所の犬の鳴き声が、胸の奥でざわめきを起こす。
 そして、夜。
 母は一人、薄暗い寝室で、空の布団に向かってつぶやく。
「デメトリウス……メリィ……どうして……」
 声はかすれ、途切れ、しばらくすると息だけが残る。眠ることも忘れ、日常の音も匂いも、すべてが彼女の中で歪んでいった。

 ――毎日が、少しずつ壊れていく。

 母は、現実と幻の境界に揺れながら、子どもたちを取り戻せない絶望に沈んでいった。
 朝の光が差し込むリビングで、母はしばらく座ったまま、ぼんやりと窓の外を眺めていた。
 茶を淹れようとする手は震え、湯気を立てた湯呑みを差し出す動作も、いつもよりぎこちない。声をかける友人も、近所の人も、母の目には遠くの影のように見えた。

 ――誰も、私の子どもたちを守れなかった。

 台所では、洗い物を積み上げたまま、何時間も同じ姿勢で立っていることがあった。布巾を握りしめたり、手のひらの皺に視線を落とす。その指先に映る光や影を、まるで何かを確認するかのようにじっと見つめた。口を開いても、言葉は途切れ途切れで、意味をなさない。
 夜になると、子どもたちの部屋で空のベッドを前にして話しかける。
「デメトリウス……メリィ……帰っておいで……ね?」
 声は囁き、途切れ、繰り返される。
 その言葉に応える者はいない。だが、母はまるで聞こえているかのように、返事を待った。

 日常の些細な出来事にも過剰に反応する。
 扉のきしむ音、風に揺れる枝の影、遠くで笑う子どもたちの声。全てが胸に刺さり、手で耳を塞ぎたくなる。
 食事もままならず、台所に立つ時間が長くなると、鍋や皿を叩きつけることもあった。その音は、家の外まで響き、母の心の乱れを反映していた。やがて、母の視線は一点を凝視することが増えた。家具の隙間、窓の外、空のベッド。そこに、もう戻らないはずの子どもたちがいるかのように、母は目をこらす。
 そして、ひとり言を繰り返す。
「いや……いや……いや……帰ってきて……」
 日常の中に、狂気がゆっくりと侵食していった。
 台所で、リビングで、寝室で。母の存在は、かつての理性を帯びた女性の姿を留めながらも、次第に現実と幻想の境界を漂うものへと変わっていった。
 帰らぬ子どもたちの影が、母の世界を完全に満たすその日まで、狂気の波は静かに、しかし確実に押し寄せ続けるのだった。


 聖域の夜は、いつもより静かだった。月光は石畳に落ち、淡く白い影を作る。風もなく、空気は張り詰めていた。
 ベッドで目覚めたメリッサは、薬の余韻がまだ身体に残る中で、胸の奥に違和感を覚えた。それは、恐怖でも、痛みでも、悲しみでもない。それ以上に深く、冷たく、異質な感覚。

 ――胸の奥で何かがうねる。闇が、力に変わる。

 目を開けた瞬間、世界は静止し、彼女の意識は自分の中の深淵に引き込まれた。そこに在るのは、自分を守るために生まれた力、冥闘士ドリュアスの魔星。肉体を超え、精神を貫く力が全身を震わせた。
 聖域は気づかなかった。
 薬による眠りの余韻で、通常の警戒レベルでは微弱な闇の気配は検知されず、メリッサの魔星は“静かに潜む”形で発現したのだ。更に、長年にわたる聖域内部の秩序と、内部監視の網の盲点――未熟な少女の微細な動きや微弱な小宇宙は、単純に見逃される条件が重なっていた。
 聖域にとって、魔星の覚醒は、理論上あり得ても、現実には想定外だったのである。
 目の前に浮かぶ闇のような力に導かれるまま、メリッサは歩き出した。胸の奥で痛みと怒りが交錯する。

 ――兄を奪った者たちを、自分を奪った者たちを、決して許しはしない。

 その足は、自然に道を選ぶ。
 迷うことなく、静かに、確実に、4人の雑兵がいる場所へと向かった。月光に照らされ、錆びた槍や鎧の影が揺れる。メリッサの目は、蜂蜜色の瞳の奥に冷たい光を宿していた。
 聖域は、やはり気づかない。
 少女の怒りと悲しみが形を取ったその力は、あまりにも微細で、あまりにも静かであったから。それが、静かに、しかし確実に、聖域の闇の片隅を揺るがせることを、誰も知らなかったのだ。
 夜の聖域に、風が戻ってきた。石壁の隙間を抜け、乾いた大地を撫でていく。その風の中に、ひとつの影があった。白衣の少女――いや、今やそれは少女ではなかった。
 栗色の髪が月光をはね返し、瞳は凍てつくように冷たい。その身を包むのは、漆黒の冥衣。胸元には、細やかな木の葉の紋が浮かび、まるで彼女の心臓の鼓動とともに脈打っているようだった。

 ――天立星ドリュアス。

 冥衣は、彼女が望むより先に、彼女の痛みに応じて現れた。呼吸のように自然で、血のように必然だった。金属の擦れる音もなく、ただ闇の奥から這い出るように、その衣はメリッサの身体に絡みつき、形を成していった。
「……お兄ちゃん」
 唇が、微かに震えた。
 声は涙を含んでいたが、涙そのものはもう出てこなかった。心が乾ききった砂漠のようで、悲しみの水分はとっくに失われていた。
 暗がりの中で、四つの灯が揺れた。
 松明の光に照らし出された、見覚えのある顔。兄の命を奪い、彼女の尊厳を踏みにじった者たち。
 彼らは笑い、酒をあおり、何もなかったように日常を過ごしていた。
 メリッサは音もなく歩み寄る。
 足音は砂の上に吸い込まれ、冥衣の軋みすら夜に溶けた。
 ひとりが気づき、顔を上げる。
 その瞬間、光のような影が走った。
 闇が裂け、紅が散る。
 叫びは上がらない。息をする間もなく、ひとり、またひとりと崩れ落ちる。
 その手に握られた武器は闇色に染まっていた。
 怒りでも、憎しみでもない。
 ただ、静かに――兄の声が、彼女を導いていた。
「もう、いいよ。もう、帰っておいで」
 その幻聴が聞こえたとき、最後の肉塊が地に崩れた。

 夜が、また静寂を取り戻す。
 血の匂いを、風が運び去る。
 メリッサは立ち尽くしていた。
 冥衣がまだ彼女を守ろうとしている。しかし、その中身である少女の心は、すでに崩れ落ちていた。
「お兄ちゃん……」
 彼女の声は、誰にも届かない。
 聖域の警備も、聖闘士たちの感知網も、この瞬間だけは沈黙していた。まるで、星々までもが、この惨劇から目を逸らすかのように。

 そして、ドリュアスの冥衣は、風に散る花弁のように静かに消えた。闇の力はその役目を終え、メリッサの心の奥深くに沈んでいった。

 残されたのは、月光の下で震えるひとりの少女。
 頬を撫でた風は、優しかった。けれど、その優しささえ、もう彼女には痛かった。


 静かな部屋だった。
 白い壁と、淡い光。
 それだけのはずなのに、息苦しいほどの圧迫感があった。
 季節は、もう春のはずだった。
 山から吹き下ろす風が柔らかくなり、聖域の庭園では、名も知らぬ白い花が揺れていた。けれど、メリッサの世界は、まだ冬のままだった。
 その日、医師が小さく息を呑んだのを、彼女は覚えている。
 淡々とした声で何かを告げる。だが、言葉の意味は、音としてしか頭に入ってこなかった。
「……妊娠しています」
 その一文だけが、鋭い刃のように脳裏に残った。
 メリッサは瞬きすら忘れていた。
 何かが、遠くで崩れる音がした気がした。
 自分の中で――いや、自分という存在そのものが、音を立てて瓦解していく。
 彼女は膝を抱えた。
 全身の血液が凍りついたかと思うほど、体温が奪われていくのを感じた。

 ――いらない。やめて。どうしてここに。

 心の中で、幾度も叫んだ。
 けれど声にはならなかった。
 喉が硬く、唇が動かない。
 まるで、身体の一部が誰かのものになってしまったように。

 医師の声も、神官の足音も、遠くに霞んでいった。
 彼女の世界には、もう音がなかった。あるのはただ、自分の中で鼓動を刻む何かの存在だけだった。
 憎悪は炎ではなかった。もっと静かで、冷たい。血の代わりに凍った水が流れるような感覚。それは彼女の体温を奪い、涙をも凍らせた。
 夜、一人きりになると、手のひらをお腹の上に置いた。そこに温もりを感じるたび、吐き気がこみ上げる。
「どうして……」
 震える声が、部屋の静けさに溶けていく。
 答えなど、どこにもない。

 この命は、生まれてはいけないもの。
 祝福ではなく、呪い。
 愛ではなく、暴力の残渣。

 ――神よ。あなたは本当に、見ていたのですか。どうして、あのとき目を閉じていたのですか。

 壁に掛けられた聖女の絵が、微笑んでいるように見えた。その笑みが、耐え難かった。
 メリッサは顔を背け、瞼をきつく閉じた。
 闇の中で、兄の声がした気がした。
「メリィ、――――」
 けれどその言葉も、どこか遠い。
 彼女の中には、もう兄の声さえ届かない深淵が広がっていた。
 自分の身体の中に、異物のように蠢く命がある。それを抱えたまま、メリッサはただ静かに息をしていた。生きていることそのものが、罰のように感じられながら。
 そして彼女は思った。 

 ――もし神が沈黙するなら、わたしは闇に祈ろう。

 せめて、この痛みを無に還す力を、と。
 白い部屋に、夜が落ちた。
 その闇は、優しくも冷たく、メリッサを包み込んだ。

 中絶の翌日、空はやけに青かった。
 どこまでも透き通っていて、残酷なほどに清らかだった。
 痛みはまだ、身体の奥に残っていた。歩くたび、鈍く疼く痛みが下腹に響く。それでも、彼女は帰らなければならなかった。
 医師の「しばらくは安静に」という言葉を背中に、無言で聖域を後にした。
 バスを乗り継ぎ、電車に揺られ、最後の坂を登る。
見慣れた道――けれど、どこか違って見えた。
 空気の色が変わったように、世界そのものが遠のいている。
 家の前に立ったとき、メリッサは一瞬、息を飲んだ。雨戸は固く閉ざされ、玄関前にはゴミ袋がいくつも積まれていた。郵便受けには手紙が溢れ、風に散ったチラシが足元にまとわりつく。
 鍵を差し込み、扉を開けた。
 生ぬるい空気と、かすかな腐臭が鼻を刺した。家の中は真っ暗で、開けた玄関ドアから入った光が埃を鈍く散らしている。机の上には、割れたコップと、古い食器。
 壁には、母が描いたままのカレンダー。
〈デメトリウス 誕生日〉の文字が、滲んで読めなかった。
「……ママ?」
 返事はない。
 家の中は、まるで時間が止まっていた。
 そのとき、背後から声がした。
「メリッサちゃんか?」
 振り向くと、隣家の主人が立っていた。無精ひげを撫でながら、気まずそうに目を逸らす。
「……お母さんなら、もういないよ」
「え?」
「奥さん、病院に入れられたんだ。精神の……そういう病院に」
 言葉の意味が、すぐには理解できなかった。
 風が吹いた。庭先のオリーブの枝が、ひとつ、折れた。
「最近は、ずっと泣いてばかりでね。夜中に叫んだり、デメトリウス君の名前を呼んだり……警察と保健所が来て、そのまま……」
 男の声は遠く、波の音のように揺れて聞こえた。
 メリッサの膝が、音もなく床についた。
 両手が震える。頬を伝うのが涙なのか、汗なのか分からなかった。
 帰る場所を探して帰ってきたのに。その“帰る場所”は、もうどこにもなかった。
 沈黙が、耳の奥で破裂する。
 鳥の声が遠のき、世界の色がゆっくりと褪せていく。
 そのとき、彼女は悟った。
 あの日、聖域で兄の命が消えた瞬間から、自分の世界はすでに終わっていたのだ、と。

 そして今、残ったのはただ、空っぽの家と、自分という抜け殻だけだった。
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