Eine Kleine
月日は流れ、メリッサ・ドラコペトラは16歳になっていた。
初めて聖域へ接見に訪れてから、11年という歳月が静かに過ぎていた。
“定期招集”という名の監視は、いつしか通知が途絶えがちになっていた。届く日もあれば、何週間も音沙汰がない日もあり、規則正しかった日々は遠い記憶となっている。
当主だった父は6年前、海難事故に遭い、いまだ行方は知れなかった。
父の不在は、家の中の空気に静かな影を落としていた。
ある日、メリッサが学校から帰宅すると、兄が不機嫌そうに白い封筒を差し出してきた。
「何これ?」
「聖域からだ。来週の水曜日に来いとさ。メリィ、学校休めよ」
「え〜…テスト近いのにぃ」
「仕方ないだろ。お前も来るように指示されてんだから」
「むぅ…」
抗議は、何の効力も持たないと分かっている。けれど、口をついて出る。定期的に呼び出されるなら、それなりに心構えもできるのに、今やその召喚は不定期招集となってしまった。
前回の接見はいつだったろう。もう、遠い記憶の彼方だ。
思い返すのは、5歳のあの時のこと。
門前の空気、岩山の道、父の手にぎゅっとしがみついた小さな体。
教皇の顔は、仮面で隠されてはいたが、わずかに見えた口元や仕草、声の響きが胸に刻まれていた。
そして、交わした視線。
ほんの一瞬、目と目が合ったあの瞬間の感覚。
美しい菫色の瞳。
心臓が弾んだと思った。
幼い心に、確かに深く焼き付いた光。
封筒を握る手に、少女は無意識に力が入り、指先の紙がかすかにしわが寄る。11年という時間の隔たりも、あの瞬間の印象の鮮やかさを曇らせることはできなかった。
――また、あの場所へ行くのか。
胸の奥に、淡い緊張がふわりと広がった。
メリッサの家の現当主は、10歳年上の兄、デメトリウスだった。
聖域へ向かう際の服装は、いつも白と決まっている。メリッサは純白のワンピースを纏い、兄も白いシャツに淡い色のスラックス。シンプルな色の統一が、二人の存在を空気に溶け込ませる。
いつものように公共交通機関を乗り継ぎ、駅からバスに揺られ、さらに未舗装の乾いた山道を歩く。
幼い頃は、岩の間を縫う道は足取りが不安定で、時折、石につまずきそうになりながら進んでいた。だが今は、特別に注意を払うこともなく自然に一歩一歩を踏みしめることができる。
乾いた砂利の感触、風が岩肌に当たる音、遠くで小さく揺れる葉の影――
全てが体に馴染み、歩くことが当たり前のリズムになっていた。
メリッサはふと、幼い日の自分を思いだす。息遣い、肌に触れた光、胸をいっぱいに満たした緊張と期待。今の自分の歩みは、あの頃の記憶に寄り添いながらも、恐怖や不安はない。自然に、静かに、聖域への道を踏みしめていく。
乾いた道の先には、変わらぬ石の祭祀場が待っている。かつて幼い瞳に焼き付いた光景が、今は少し大きく、少し遠く、しかし確かに現実として立ち現れるのだった。
祭祀場には、既に神官たちが整然と並んでいた。白い法衣を身に纏い、静かに待つ彼らの姿は、時間の流れを止めたかのような厳かさを湛えている。
しかし、菫色の瞳――あの教皇の姿は、今日も見えなかった。
メリッサはその不在を、胸の奥でひっそりと受け止めた。
――もう、存命ではないのかもしれない。
11年という歳月は、あまりにも長い。
あの時、教皇はすでに高齢だったのだ。
今の自分がここに立っていることと、あの幼い日の出会いとを重ねれば、そう考えるのが妥当に思えた。
メリッサは、神官に向かって近況を報告する。
学校での学び、日常の些細な出来事、家族のこと、そして自身の成長。
声に出して言葉を紡ぐたび、祭祀場の空気が静かに揺れる。
報告の後、聖域への忠誠を誓う詞を唱える。
声はかすかに震えながらも、確かに祭祀場の石の床に響き渡る。
その声に、幼い頃の自分の記憶が重なる。
初めて見たあの威厳、あの優しさの残響が、胸に微かに甦った。
接見は、静かに終了した。
菫色の瞳はもう見えない。
けれど、教皇が残した記憶と、聖域に宿る時間は、確かにここに息づいていた。
メリッサは深く息をつき、白いワンピースの裾を整えながら、祭祀場を後にした。
11年の歳月が、彼女の歩みを少し大人びたものに変えていたことを、自覚しながら。
帰路につくメリッサとデメトリウス。夕暮れの光が岩肌に落ち、乾いた砂利道が長く伸びていた。
突然、前方に四つの影が立ち塞がる。身に鎧と武具を纏うその姿は、明らかに雑兵だ。二人は足を止め、緊張が胸に重くのしかかる。
「逃げろ、メリィ!」
兄の声が震えた。しかし道は一本しかなく、後退できる余地はなかった。必死にメリッサを庇うデメトリウス。しかし、鋭い槍が兄の胸を貫く。声を上げる間もなく、兄は冷たくその場に倒れた。
逃げようとするメリッサの手を、四人の男が掴む。恐怖と絶望が全身を覆い、悲鳴を上げることさえできなかった。乾いた地面に、メリッサは引き倒された。腕を掴まれ、身体を抑えられ身動きできない。
「メリッサちゃん…つーかまえたー」
耳元に、生温かく湿った呼吸がかかる。
その瞬間、全身の血が凍るような感覚が走った。視界には乾いた砂利の道、岩肌、そして雑兵たちの影しか映らなかった。
声を出そうとしても、喉は強張り、何の音も出ない。助けを求めることもできない。そもそも、この道を人が通ることなど、これまで一度もなかったのだ。
誰にも出会ったことのない場所。
自分の恐怖と絶望だけが、冷たく、確かに存在している。
心臓がひっきりなしに跳ねる。
逃げようと力を振り絞るが、体は言うことを聞かず、四方を囲む影の前では無力だった。
馬乗りにされ、重みが胸を押しつぶす。
手足をもがくたび、地面の乾いた粒が痛く、砂利の感触が皮膚を刺す。
恐怖が全身を巡る。
息を吸おうとしても、胸が締めつけられ、空気は薄く、重く感じられた。
目の前に広がる絶望の景色――助けはない、声も届かない、誰も来ない――メリッサの心は押し潰されそうになる。
涙が自然と溢れ、乾いた頬を伝った。体の震えは止まらず、心は叫びを求めても、音にはならない。ただ、孤独と恐怖と痛みが無慈悲に襲いかかる。逃れる術のない現実だけが目の前にあった。
その瞬間、メリッサは理解した。
力の差、世界の無情、そして、絶望の深さ――。
メリッサを包んでいた温かく色鮮やかな世界は、この瞬間、冷たい闇色に塗り潰された。
初めて聖域へ接見に訪れてから、11年という歳月が静かに過ぎていた。
“定期招集”という名の監視は、いつしか通知が途絶えがちになっていた。届く日もあれば、何週間も音沙汰がない日もあり、規則正しかった日々は遠い記憶となっている。
当主だった父は6年前、海難事故に遭い、いまだ行方は知れなかった。
父の不在は、家の中の空気に静かな影を落としていた。
ある日、メリッサが学校から帰宅すると、兄が不機嫌そうに白い封筒を差し出してきた。
「何これ?」
「聖域からだ。来週の水曜日に来いとさ。メリィ、学校休めよ」
「え〜…テスト近いのにぃ」
「仕方ないだろ。お前も来るように指示されてんだから」
「むぅ…」
抗議は、何の効力も持たないと分かっている。けれど、口をついて出る。定期的に呼び出されるなら、それなりに心構えもできるのに、今やその召喚は不定期招集となってしまった。
前回の接見はいつだったろう。もう、遠い記憶の彼方だ。
思い返すのは、5歳のあの時のこと。
門前の空気、岩山の道、父の手にぎゅっとしがみついた小さな体。
教皇の顔は、仮面で隠されてはいたが、わずかに見えた口元や仕草、声の響きが胸に刻まれていた。
そして、交わした視線。
ほんの一瞬、目と目が合ったあの瞬間の感覚。
美しい菫色の瞳。
心臓が弾んだと思った。
幼い心に、確かに深く焼き付いた光。
封筒を握る手に、少女は無意識に力が入り、指先の紙がかすかにしわが寄る。11年という時間の隔たりも、あの瞬間の印象の鮮やかさを曇らせることはできなかった。
――また、あの場所へ行くのか。
胸の奥に、淡い緊張がふわりと広がった。
メリッサの家の現当主は、10歳年上の兄、デメトリウスだった。
聖域へ向かう際の服装は、いつも白と決まっている。メリッサは純白のワンピースを纏い、兄も白いシャツに淡い色のスラックス。シンプルな色の統一が、二人の存在を空気に溶け込ませる。
いつものように公共交通機関を乗り継ぎ、駅からバスに揺られ、さらに未舗装の乾いた山道を歩く。
幼い頃は、岩の間を縫う道は足取りが不安定で、時折、石につまずきそうになりながら進んでいた。だが今は、特別に注意を払うこともなく自然に一歩一歩を踏みしめることができる。
乾いた砂利の感触、風が岩肌に当たる音、遠くで小さく揺れる葉の影――
全てが体に馴染み、歩くことが当たり前のリズムになっていた。
メリッサはふと、幼い日の自分を思いだす。息遣い、肌に触れた光、胸をいっぱいに満たした緊張と期待。今の自分の歩みは、あの頃の記憶に寄り添いながらも、恐怖や不安はない。自然に、静かに、聖域への道を踏みしめていく。
乾いた道の先には、変わらぬ石の祭祀場が待っている。かつて幼い瞳に焼き付いた光景が、今は少し大きく、少し遠く、しかし確かに現実として立ち現れるのだった。
祭祀場には、既に神官たちが整然と並んでいた。白い法衣を身に纏い、静かに待つ彼らの姿は、時間の流れを止めたかのような厳かさを湛えている。
しかし、菫色の瞳――あの教皇の姿は、今日も見えなかった。
メリッサはその不在を、胸の奥でひっそりと受け止めた。
――もう、存命ではないのかもしれない。
11年という歳月は、あまりにも長い。
あの時、教皇はすでに高齢だったのだ。
今の自分がここに立っていることと、あの幼い日の出会いとを重ねれば、そう考えるのが妥当に思えた。
メリッサは、神官に向かって近況を報告する。
学校での学び、日常の些細な出来事、家族のこと、そして自身の成長。
声に出して言葉を紡ぐたび、祭祀場の空気が静かに揺れる。
報告の後、聖域への忠誠を誓う詞を唱える。
声はかすかに震えながらも、確かに祭祀場の石の床に響き渡る。
その声に、幼い頃の自分の記憶が重なる。
初めて見たあの威厳、あの優しさの残響が、胸に微かに甦った。
接見は、静かに終了した。
菫色の瞳はもう見えない。
けれど、教皇が残した記憶と、聖域に宿る時間は、確かにここに息づいていた。
メリッサは深く息をつき、白いワンピースの裾を整えながら、祭祀場を後にした。
11年の歳月が、彼女の歩みを少し大人びたものに変えていたことを、自覚しながら。
帰路につくメリッサとデメトリウス。夕暮れの光が岩肌に落ち、乾いた砂利道が長く伸びていた。
突然、前方に四つの影が立ち塞がる。身に鎧と武具を纏うその姿は、明らかに雑兵だ。二人は足を止め、緊張が胸に重くのしかかる。
「逃げろ、メリィ!」
兄の声が震えた。しかし道は一本しかなく、後退できる余地はなかった。必死にメリッサを庇うデメトリウス。しかし、鋭い槍が兄の胸を貫く。声を上げる間もなく、兄は冷たくその場に倒れた。
逃げようとするメリッサの手を、四人の男が掴む。恐怖と絶望が全身を覆い、悲鳴を上げることさえできなかった。乾いた地面に、メリッサは引き倒された。腕を掴まれ、身体を抑えられ身動きできない。
「メリッサちゃん…つーかまえたー」
耳元に、生温かく湿った呼吸がかかる。
その瞬間、全身の血が凍るような感覚が走った。視界には乾いた砂利の道、岩肌、そして雑兵たちの影しか映らなかった。
声を出そうとしても、喉は強張り、何の音も出ない。助けを求めることもできない。そもそも、この道を人が通ることなど、これまで一度もなかったのだ。
誰にも出会ったことのない場所。
自分の恐怖と絶望だけが、冷たく、確かに存在している。
心臓がひっきりなしに跳ねる。
逃げようと力を振り絞るが、体は言うことを聞かず、四方を囲む影の前では無力だった。
馬乗りにされ、重みが胸を押しつぶす。
手足をもがくたび、地面の乾いた粒が痛く、砂利の感触が皮膚を刺す。
恐怖が全身を巡る。
息を吸おうとしても、胸が締めつけられ、空気は薄く、重く感じられた。
目の前に広がる絶望の景色――助けはない、声も届かない、誰も来ない――メリッサの心は押し潰されそうになる。
涙が自然と溢れ、乾いた頬を伝った。体の震えは止まらず、心は叫びを求めても、音にはならない。ただ、孤独と恐怖と痛みが無慈悲に襲いかかる。逃れる術のない現実だけが目の前にあった。
その瞬間、メリッサは理解した。
力の差、世界の無情、そして、絶望の深さ――。
メリッサを包んでいた温かく色鮮やかな世界は、この瞬間、冷たい闇色に塗り潰された。
