Eine Kleine

 薬師の島――そこは前聖戦時代に、冥闘士天立星ドリュアスのルコが支配していた、スケルトン生産のための島だった。様々な薬草が栽培され、今でも島全体が貴重な薬草の宝庫である。
 幼児化したカノンを元の姿に戻すために、シーブ・イッサヒル・アメルの解毒作用がある植物を探したい。薬師の島なら、何か掴めるかもしれないのだ。
 メリッサは、薬師の島へ渡航するにあたっての注意事項と申請書の用紙を提示した。
「この書類、ちゃんと読んでチェック入れてもらってね。申請書も。こっちの身元確認書は渡航する本人が書いて当日持ってきてくれればいいよ。それと、一番大事なのがこれ」
 メリッサは形式の違う書面を一枚差し出した。
「島はうちが管理してるけど、実際は聖域……っていうか、教皇様からの命令でやってることなんだって。だから、聖域の許可が必要なの。聖域の関係者が立ち入る場合でも例外なくね」
 これは知っている。シオンが教皇になってから策定した規則の一つだからだ。
「あそこは毒草も多くて、誰彼構わず入られちゃ困るんだよね。嘘言って行きたがる人も、昔はいたみたいだし。筆頭文官様っているでしょ?その人に書いてもらってね。一番は教皇様だけどさ。きっと難しいだろうから。そこは上の人に判断してもらって。それで、ちゃんと教皇様の署名と印章もらってね」
 差し出された書面を、セージは静かに受け取った。上質紙の縁に軽く指先を沿わせながら、視線は字面を追うふりをしている。だが耳に残るのは、メリッサの軽やかな声で繰り返される言葉――「教皇様」。
 その響きに、胸の奥がきりりと締め付けられる。
 本来ならば、彼が署名すれば一瞬で済むことだ。教皇の印章があれば、この島への門はすぐに開かれる。だが、今の自分は“セージ”として彼女の傍らにいる。正体を明かせば、この日常は儚い幻のように崩れ去るだろう。

 ――そなたが向ける、穏やかな眼差しを失いたくはない。

 その一念が、言葉を封じていた。
「筆頭文官様か、上の方にお願いしてみてね。渡航予定日の三日前までに出してね。こっちも準備の都合があるから」
 メリッサは何気ない調子で続ける。丁寧な仕草で紙を揃え、手渡してくる。その無垢な笑みの奥に、過去の記憶が残存していることをセージは知っている。
 もし彼女が気付いてしまえば、自分をどう見つめるのか――恐れにも似た予感が胸をかすめた。
 指先に残る上質紙の滑らかな手触りが、いっそう現実を際立たせる。
 彼は、教皇として人々を導く者でありながら、一人の女性の前では真実を隠し、己の名すら告げられぬ卑怯者だった。
 それでも、メリッサが自分に向ける信頼と安らぎを守りたかった。聖域の象徴ではなく、ただの一人の男として傍にいることを、何よりも望んでしまう。
「……そうだな。きちんと、手続きをしよう」
 わずかに笑みをつくり、彼は答える。その声音には揺らぎを悟らせまいとする静かな決意が滲む。
 上質紙を抱えながら、セージは胸の内で言葉にならぬ祈りを繰り返していた。

 ――どうか、この束の間の仮面を、彼女が剥がさずにいてくれるように。

 メリッサは、セージから受け取った依頼状の封を開ける。上質な紙に押された金色の封蝋が、いつもの聖域からの連絡書とは一線を画していることを示していた。
「……うわ!教皇様直々の依頼状じゃん!」
 思わず声が弾む。
「すごーい!激レア!これはもう、ある意味家宝!」
 向かいに座るセージは、眉を僅かに動かした。
「そこまで貴重でもないと思うが……」
「そりゃ、セージくんは聖域の人だからそう思うんだろうけどさぁ。あたしみたいな一般人からしたら、聖域の教皇様なんて雲の上の人だよ?最早、神!あ、でもね、あたし5歳の頃に教皇様に会ってるんだよ」
 その言葉に、セージは小さく息を呑む。

 ――まさか。そんな幼い頃の記憶を持ち出すとは。

「覚えているのか?」
 低く問いかける声には、わずかな動揺が滲んでいた。
「うん。”定期招集“っていう制度があってね、父に連れて行かれたんだよ」
 メリッサは懐かしむように目を細め、封書を指先でなぞりながら記憶を辿る。
「教皇様のことは、もちろん覚えてるよ。すっごいおじいちゃんだったんだよね。怖い人かと思ってたけど、案外優しかったなぁ。……あたしが子供だったから、そう見えただけかもしれないけど」
 そして、ぽつりと続ける。
「それに、瞳の色が紫だったのを覚えてる。すごく印象に残ってて。……そう言えば、セージくんも紫色だよね」
 その瞬間、セージは言葉を失った。胸の奥で、遠い記憶と現在が重なり合う。彼女の無邪気な言葉は、鋭い刃のように、秘め続けてきた真実を抉り出しかけていた。
「紫の瞳って、すごく不思議だったなぁ。あの時、じーっと見ちゃったんだ。で、父にすごく怒られたの」
 セージの心臓が不意に強く脈打った。
「でもね、教皇様は笑ってたんだよ。“子供は好奇心のままに見るものだ”って。声も覚えてる。低いけど、柔らかくてね。うん…あれは忘れられない」
「……」
 セージは、返す言葉を失っていた。彼女が語るその“おじいちゃん教皇”とは、紛れもなく自分自身のこと。200年以上を背負い、老いた姿のまま生きていた、あの頃の自分だ。
「ねえ、セージくん」
「な、なんだ」
「教皇様って、代替わりしてるの?だって、あの時のおじいちゃんと、今の教皇様が同じ人ってことは、まさか、ないよね?」
「……」
 メリッサの無邪気な問いに、セージは一瞬、言葉を選ぶ時間を稼ぐように口をつぐんだ。
 彼女の中では、過去と現在がまだつながっていない。だが、その記憶は確かに自分を映している。
(そなたは、幼き日の出会いを覚えていたのか……メリッサ)
 胸の奥に名を呼ぶ声が甦る。あの日、幼い少女が紫の瞳を真っ直ぐに覗き込んできた時、自分は不思議と救われた気がした。
 その少女が、今こうして目の前で笑っている。
 セージは視線をそらし、無理に平静を装った。
「……教皇は、過去13年で二度変わっている」
「そっか。じゃあ、今の教皇様は、また別の方なんだね」
「……ああ」
 メリッサは、あっけらかんと笑って頷いた。
 その笑顔に、セージの胸は痛む。言えない。今の自分が、あの時の”おじいちゃん“だなんて。
 メリッサの無邪気な笑顔に、セージの胸は微かにざわめいた。だが同時に、喉の奥に重苦しい結論がこみ上げてくる。

 ――もう、これ以上話すべきではない。

 渡された書類をクリアファイルに挟んでバッグに丁寧にしまうと、椅子の背を引いて立ち上がる。
「今日は、このくらいで失礼しよう」
 その声には、微かに躊躇いが残っていたが、言葉を濁す余裕はなかった。席を離れドアの方へ向かう足取りは、外見以上に重く、慎重だった。
 まさか、あの幼い頃の出来事を覚えているとは、予想もしなかった。
 メリッサの瞳に映った紫の色は、単なる偶然ではない。過去と現在が交錯する視線が、自分の正体を明かす鍵になりかねない。それを知られたら、この静かな港町で過ごす日常も、ほんの一瞬で壊れてしまう。
(……これ以上は、近づきすぎない方が良い)
 心の中で繰り返すその言葉に、揺れる感情を押し込める。彼女の明るさと無邪気さに触れるほど、胸の奥の守りたい思いは強くなる。だが同時に、正体を知られる危険もまた、現実の重みとしてのしかかっていた。
 静かに呼吸を整え、セージは港町の路地を後にした。潮風に運ばれる微かな花の香りが、彼の背中をそっと撫でる。
 どこから真実が漏れるか分からない。今は、ただ静かに、距離を取るしかないのだ。
 渡航申請書を携え、セージは足早に聖域への帰路を辿った。

 聖域へ戻ったシオンは、机の前に腰を下ろし、淡く光を反射する書類の束を前にした。
 必要事項を記入する作業は、形式的で単調なはずだった。だが、頭の中は雑然として、文字の列を追う目は定まらない。
 届ける方法を考える。代理人を立てるか、郵送にするか。
 なるべく、メリッサとの接触は避けなければならない。
 頭では、これが最善の策だと理解している。しかし、心は違う方向へ揺れる。
「会いたい……」
 胸の奥で、抑えきれない思いがじわりと熱を帯びて膨らむ。理性と感情の衝突に、息苦しささえ覚える。
 ペンを置き、書類の上に両手を重ねる。
 目の前には、あの港町での光景が浮かぶ。木陰の石段に座るメリッサ、潮風に揺れる髪、薄紫の花の香り……。どんなに距離を置こうとしても、鮮明な記憶が胸の奥で静かに躍る。
「しかし……」
 理性は告げる。これ以上近づけば、彼女の知らない自分の正体が、思わぬ形で露呈しかねない。守るべき日常がひとたび壊れてしまえば、もう取り戻すことはできない。
 ペンを握り直し、深く息をつく。
 書類をどう届けるか、結論は決まっている。だが、心はまだ、あの笑顔を追い求め、港町へと戻りたがっている。
 冷静さと欲望、理性と感情――対極にある二つの思いを抱えたまま、シオンは書類に最後の記入を終えた。机上の書類は完璧に整った。だが、胸の奥に残る熱の余韻は、誰にも消せないままだった。

 ペンを置き、最後の署名を終えたシオンは、書類を整えて軽く息をついた。机上には、すべてが完璧に揃っている。形式上は何の不備もない。だが、胸の奥に残る熱は、まるで微かに揺れる炎のように消えず、静かに疼き続けていた。
「……行けぬな」
 思考は明快だった。メリッサとの接触は、今は避けるべきだ。直接渡せば、あの港町でのひとときのように、心は容易く揺らされる。正体を知られるリスクも、彼女の無邪気な日常を壊す可能性も、あまりに大きい。理性は言う。郵送するしかない、と。だが、心は反発する。腕は、彼女が触れた書類でさえも抱き締めたくなる衝動に駆られ、目の奥には港町の光景が浮かぶ。石段に座る彼女、潮風に揺れる髪、淡い紫の花の香り、そして、あの微笑――。
 郵便で届けることは安全だ。間違いなく安全だ。しかし、胸にぽっかりと空いた虚ろは、理性だけでは塞げなかった。彼女の声、仕草、笑顔――それらは全て、直接会わなければ感じられないものだからだ。
 シオンは深く息を吸い、ゆっくりと吐き出す。理性は告げる。これで良いのだ、と。だが心はまだ、港町の石段で笑顔を見せるメリッサの側に立ちたいと訴え続けていた。
「この書類をメリッサ・ドラコペトラ嬢へ送れ。速達だ」
 側近へ渡してなお、手のひらに残る重みは、単なる書類の重さではなかった。距離を置くという決断の代償、そして、会えない時間の切なさが、静かに、しかし確実に心を締めつける。
 届くはずの先は、確かに彼女の手元だ。しかし、自分が直接渡せない――その事実が、無言の重さとして心にのしかかる。
 机に戻りしばらく静かに座っていた。周囲の聖域の音も、日常の忙しさも、今は遠く霞んで見える。
「会いたい……だが、近づいてはいけない」
 その二つの思いが交錯する中で、シオンは肩を少し落とし、窓の外の光を見つめた。胸の内の空虚は、誰にも見せられない秘密のままだった。

 市場での仕事を終え、日暮れ前に自宅へ戻ったメリッサ。郵便受けを覗くと、金の装飾が施された純白の封筒が入っていた。
 聖域からの封書だ。表には〈申請書在中〉と書かれており、中身が薬師の島への渡航申請書だと分かる。
「え……なんで郵送なの?」
 書類を手にしたメリッサは、ため息混じりに家に入り、リビングの椅子に深く腰掛けた。
 手元の電話機を前にして、少し眉を寄せる。
「うーん……どうやって話せばいいんだっけ」
 受話器の向こうには、申請窓口の声があるはずだ。 けれど、メリッサは電話の作法や言葉遣いに自信がなく、受話器を持つ手がわずかに震える。
「もう!セージくんが持ってきてくれたら楽だったのに!」
 小さく声に出して、ぷりぷりと頬を膨らませる。机の上に置いた書類の端を指で弾きながら、怒りを表す。その表情は、まるで子供が欲しいおもちゃを手に入れられずに拗ねるようだ。
 しかし、メリッサは真剣そのものだった。渡航申請が受理されるかどうか、島の管理者としての責任もある。
 手にした受話器をぎゅっと握り、深呼吸をひとつ。少しだけ心を落ち着け、窓口に向かって、声を整える。
「もしもし、あの、渡航申請の件で……」
 言葉が少し途切れる。頭の中では、セージがそばにいて、すべてを代わりに伝えてくれる様子が浮かぶ。だが現実には、彼はもう遠くにいる。
「……はぁ、やっぱり電話は苦手だなぁ」
 小さなため息をつき、手元の書類に視線を落とす。  
 彼女は知らない。遠く離れた場所で、セージが同じ書類を見つめながら、胸の奥で複雑な感情に葛藤していたことを――。

 受話器を置いた瞬間、メリッサは机に突っ伏すようにして小さく唸った。
「はぁぁ……疲れたぁ……」
 短いやり取りだったのに、電話というだけで一気に心身の力を吸い取られてしまう。
 声の調子や言葉遣い、沈黙の間合い──全部が手探りで、何をどう気をつければいいのか分からない。
 それでも、相手は窓口の担当者。向こうは慣れたもので、いくつかの必要事項を確認されただけで済んだ。
「聖域自身が渡航を希望しているんだから、内輪で処理してくれよ…」
 口を尖らせて一人ごちる。
「大体、セージくんが持ってこないとかさ、有り得なくない?」
 八つ当たり気味にぷりぷりと怒ってはみたものの、その胸の奥に微かな寂しさが残る。
 彼の姿を見られなかったこと。
 どこかでまた会えると思っていた期待が叶わず、霧散してしまったこと。
「……ちぇっ」
 机に肘をついたまま、メリッサは小さく唇を尖らせる。自分でも気づかぬうちに、心は彼を求めてしまっていた。それでも、そのことを口にすることなど、彼女にはまだできないのだった。
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