Eine Kleine

 アテナ軍は焦燥の只中にあった。
 メリッサを奪還する手立ては見えず、時間の経過とともに彼女の冥闘士としての色は濃くなっていく。戦場で見せた冷徹さは、教皇宮にまで暗い影を落とした。
 そんな折、かねてよりメリッサを快く思わない官吏たちが、次々と不審な死を遂げ始めた。
 そして、遺体には奇妙な共通点があった。
 体のどこにも傷は見当たらない。なのに、倒れている姿はまるで心臓だけを貫かれたかのようだった。
 実行犯は冥闘士が密かに放った影――式神のような存在だと推測された。しかし目撃者はなく、誰もその正体を捉えることはできない。残るのは、冷たい死体と、周囲に漂う薄暗い気配のみ。
 その気配こそ、確かに冥闘士の存在を示していた。
「いつか……教皇様が狙われるのでは……」
 教皇宮は戦慄に包まれ、警戒態勢を一気に強めた。しかし奇妙なことに、シオンには何の害も及ばなかった。彼はいつも通り、静かに教皇宮に留まり、粛々と命令を下し続けていた。
 その静けさが、逆に不気味だった。
「――なぜ教皇様だけ、無傷なのだ?」
 疑問が、やがて不安となる。
 不安は疑念となり、聖域の空気をじわりと蝕んでいく。影が囁く。

 ――恋に盲目になり、己の立場を弁えなかった愚かな教皇。
 ――聖域を乱す元凶。

 それこそが、冥王軍の狙ったシナリオだった。静かに、しかし確実に。
 メリッサの手で、かつて愛された教皇に引導を渡す。その醜態を、聖域の兵たちに、信仰を寄せる民たちに、全て晒し出す。尊敬と信頼を集めていた教皇という存在を、文字通り瓦解させる。そうすれば、聖域の統制は崩壊し、アテナ軍の士気は地に落ちる。
 冥王軍は、ただ力で押し潰すだけではない。
 心を、信仰を、希望を――根こそぎ奪うつもりだった。
 それを達成するための駒として、教皇が最も愛した存在――メリッサを用いる。
 シオンは全てを悟っていた。冥王軍の狙いが、自らの命であることを。そして、その刃を握らされているのが、彼女自身であることも。
 もし、彼女がシオンを仕留め損ねたなら、待ち受けるのは、冷酷無比な粛清だ。
 ミーノスが、容赦なくメリッサの命を奪うだろう。
 それが、冥王軍のやり方だった。
 情けも、慈悲も、ない。
 ただ冷たい論理と力だけが、世界を支配していた。
 シオンは胸の奥で、一つだけ確かな思いを抱いた。

 ――例えどれほど絶望が深くとも、彼女を、メリッサを、あの闇から取り戻す。

 世界がどうなろうと、冥王軍の策略がどれほど残酷でも、彼の心は、その一点にだけ、強く、揺るぎなく向かっていた。
 今の彼女を救うには、もはや正面から叩き伏せ、正気を取り戻させるほかない。
 だが果たして、自分にその力が残っているのか。メリッサに拳を向ける覚悟が、自分にあるのか。
 心は、ずたずたに引き裂かれていた。
 冷静な判断と、個人的な感情。その間で揺れに揺れて、シオンの内側は苛まれ続ける。
 不意に届いた、冥王軍からの襲撃予告。
『次の満月の夜、聖域を再び襲う』とだけ記された、冷たく乾いた宣戦布告。

 ――時は、もう待ってはくれない。

 誰もが不安に駆られ、教皇宮は沈痛な空気に包まれた。その中心で、シオンは静かに、決意を固める。
「……迎え撃つ。私自ら」
 側近たちは色を失った。
 だが、シオンの表情には一切の迷いがなかった。
全てを知った上で、それでもなお、彼は立ち上がったのだ。
 かつて、星々に誓った信念。人を守るために、命を懸ける覚悟。

 ――それは今、ただ一人の女性のために捧げられる。

 教皇の聖衣を纏うシオンの姿は、悲しみと覚悟を滲ませながら、凛と輝いていた。
 砕けた希望の欠片を、再び両手で掬い上げるかのように。
 夜空を見上げ、彼は祈る。
 今もメリッサの中に、あの日の光がほんの僅かでも残っていることを。
「メリッサ……私はそなたを諦めない。絶対にだ!」
 静かな誓いは、満天の星の下に揺れながら消えた。

 満月が冷たく聖域を白銀に染めていた。石畳は淡く光をまとい、足音さえ吸い取られるように静かだ。
 夜風が渡るたび、遠くの木々の梢がざわめき、月光だけがここに残る——そんな時間の中に、メリッサは立っていた。漆黒の冥衣は月光を飲み込み、彼女自身を黒い花のように際立たせる。動くたび、冥衣の縁が銀の光を弾いていく。
「来たな、教皇」
 かつて甘く呼ばれた名は、今や嘲笑を含んだ刃となって投げられた。シオンはその声を聞きながら、胸の奥で何かがひび割れていくのを感じる。その痛みは、長年積み重ねてきた言葉や行為、微かな交流の一つ一つが、乱暴に奪い取られていくような痛みだ。それでも、彼は一歩、また一歩と進む。石畳の冷たさが足裏に伝わるたびに、自分を確かめるように。
「……私は、そなたを迎えに来た」
 言葉は簡潔で、それでいて全てを含んでいた。シオンの覚悟全てをこめた宣言。しかし、彼女は嘲るように笑った。
「迎えに?バカじゃないの?あたしはあんたを殺しに来たんだよ」
 短く、冷たく、刃のように放たれたその言葉が、シオンの胸を深く穿った。残酷なのは言葉だけではない。彼が差し伸べたはずの手がいつの間にか敵の標的へと変わっていたという事実が、さらに重くのしかかる。だが彼の表情は微動だにしない。もし隙を見せれば、全てが音を立てて瓦解することを、彼はよく知っていた。
 月光の下、二人の間には張り詰めた空気が広がっていた。風は止まり、葉擦れも音を潜める。メリッサの呼吸音がわずかに乱れる。冷えた空気に、その音だけが実体を持って響く。シオンは再び言葉を選んだ。その声は低く、しかし確かな暖かさを含んでいた。
「そなたの大切なものを奪ったのは、聖域の…長たる私の罪だ。だが、そなたをこのまま置いておくことなど私にはできぬ。私は――そなたを取り戻したい」
 彼の声は静寂の中、メリッサの耳へ届く。
「――来い、メリッサ」
 その声は、ただ一つの祈りのように夜空に溶けていった。

 一閃。
 黒の影が疾走する。石畳が砕け、石片が月光を散らす。風圧が二人の間を吹き抜け、遠くにある木の葉が一枚、舞い上がった。
 メリッサの蹴りが、鋭くシオンの頬をかすめる。かろうじて前腕で受け止めたものの、衝撃は骨の奥まで響いた。冷たい痛みの向こう側に、かつて小さな掌を取った感触が重なる。あの指先の温もりが、一瞬、脳裏を柔らかく満たす。しかし、それは蜃気楼のように頼りなく、すぐに夜の冷たさに溶けていった。
 拳と拳が交わる度、火花の如く何かが砕け飛び散る。音は硬質だが重く響く。鋭い蹴りを受け止めるたびに聖衣が軋む。メリッサの攻撃は躊躇いを知らず、そこには復讐と怒り、深い哀しみが混ざり合っていた。拳の先に、過去の傷と現在の怨念が滲み出ている。
「あんたの意思がどうでも、あたしは、あんたを殺す!」
 毒が混じった叫びが、石畳に跳ね返る。耳を刺すその声の奥行きに、シオンの胸はざわめいた。言葉という刃が、彼の心臓を直接抉る。
「――メリッサ……」
 呼びかけは痛いほど弱かった。拳を振り上げるべき場所までそれは届かず、行き場を失うシオンの手は重く沈む。彼は知っている。もしここで拳を放ち彼女に致命を与えれば、それは救済にはならない。だが、同時に分かっている。止めねばメリッサは冥王軍の駒として消える。二つの真実が、胸の内でせめぎ合う。
 その一瞬の逡巡を、メリッサは見逃さなかった。
 冷たい瞳が鋭く光り、彼女の動きはさらに加速する。刃のような蹴りが、今度は胸元を狙った。シオンは身を捩じってかわすが、重心の乱れは明白だ。彼の動きの隙間に、メリッサの影が滑り込む。鋭利な一撃が、聖衣の隙間を探るように襲いかかる。
 石畳に落ちる音が一つ。金属と布が擦れる嫌な音。刹那、シオンの体が後ろにのけ反り、膝が震えた。胸に走る痛みに、古い後悔が波のように押し寄せる。
 倒れそうになる身体を無理に支え、シオンは自分の内側を見つめる。怒りか、救いか、それともただの自己満足か——選ぶべき道はあまりにも残酷だ。けれど、選ばねばならぬ時が来ている。

 メリッサは冷笑を浮かべ、じりと距離を詰めた。その瞳の奥には、かつて見たことのない刃が燻っている。
「さあ、教皇。あんたの本当の選択を見せてみろ!」
 月は変わらず皓々として、二人を見下ろしていた。風は止み、世界はその瞬間を息を呑んで見守る。
 シオンはゆっくりと拳を握り直した。痛みを受け止めるためでも、答えを出すためでもない。彼が今、握るべきは――決意だけだった。
 メリッサの攻撃は途切れることがなかった。
彼女の華奢な身体のどこに、こんな力が潜んでいたのだろう。
 冥衣に覆われた膝が、正確に、深く、シオンの腹を抉る。肺の奥の空気が全て吐き出されるような衝撃に、彼は思わず膝をついた。
 その頭を、乱暴に掴む手。金の髪が夜の冷気に散り、無理やり顔を引き上げられる。
「情けないな。何だよ、そのザマは」
 冥闘士メリッサの声は冷え切っていた。
 夜の下、引き上げられたシオンの顔は、痛みよりも悲しみに沈んでいた。
「……メリッサ……本当に……そなたなのか……」
 かすれる声とともに、潤んだ瞳が彼女を映す。
 けれど、返ってきたのは冷酷な笑みだった。
「まだ言ってんの?女々しいな」
 短く、突き放すように。シオンの心を切り捨てるように。
 次の瞬間、振り下ろされた拳が、シオンの胸を狙った。
 避けようと思えば避けられた。
 防御することもできた。
 だが、シオンはそのまま受けた。
 重い衝撃が胸を貫き、体の奥を黒く汚していくような痛み。口の中に血の味が広がる。
 それでも彼は反撃しなかった。
 本当に彼女を傷つけることだけは、どうしてもできなかった。
 メリッサの瞳が一瞬、大きく見開かれる。
 揺らぎ。
 その表情にかすかに浮かんだものを、彼女自身が慌てて振り払う。すぐに、冷徹な冥闘士の貌が戻っていた。
「……なぜ、抵抗しない」
 声が震えていた。怒りか、哀しみか。判別できない、酷く不安定な声だった。
 シオンは、ふらつく足で立ち上がる。それでも姿勢は崩さない。
 満月に照らされたその目は、ひたすらに澄んでいた。
「私は……そなたを信じているからだ」
 その言葉は、血の味にまみれながらも、揺るぎなく夜空に放たれた。
「…面白い。どこまで耐えられるか試してやろう」
 そう言うと、メリッサの足が夜空を切った。蹴りは正確に、シオンの胸の中央を穿った。聖衣越しでも、どこか骨が砕けるような鈍い音が石畳に響いた。夜気がその音を拾い、白銀の広場は一瞬、静寂の中で震えた。
「っ……!」
 息が止まり声が詰まった。シオンはその場に膝をついた。やがてそのまま、ゆっくりと弧を描くように身体が崩れ落ちる。金色の髪が石の冷たさに触れ、咳込む音が小さく広がった。血の匂いが、月夜の清冽さに混じり、湿った空気を濃くする。
 メリッサはその上に立った。かつて彼が示してくれた笑顔、静かな温もり、数え切れぬほど交わした言葉の断片が、脳裡を過る。だが、それらは今、冥衣の暗闇の中で鳴り響く囁きに掻き消されていく。高揚と虚無が交互に胸を刺し、彼女は自分の手の冷たさを知る。

 ――殺せ。
 ――全てを終わらせろ。

 冥王軍の影は耳元で、穏やかな声で命令のように囁いた。背中を押す冷たい鼓動。メリッサは膝を折り、シオンの後ろへ回り込む。月の光が彼女の冥衣の縁を銀色に縁取り、その姿は夜の花のように不吉に美しかった。
 無造作に掴んだのは、血に濡れた金髪だ。指先に伝わる彼の熱は、まだメリッサに伝わらない。彼女の手がシオンの頭を軽く持ち上げる。菫色の瞳は揺らぎを見せまいと堅く閉ざされている。
「さようなら」
 言葉は平らで、氷のように冷たい。口元に微かに笑みを滲ませながら、メリッサは植物から錬成した細身の剣を取り出した。刃先は月光を吸い込み、黒い影と白い光が拮抗するようにきらめいた。刃がシオンの首筋に触れると、小さな震えが伝わる。皮膚の温度と刃の冷たさが、そこで交錯する。
「メリ…サ……」
 シオンの喉から呻くように声が絞り出された。
「私を殺して楽になるなら…この首、喜んで……そなたに差し出そう」
 その言葉にメリッサの唇は美しい弧を描き、白い歯が覗いた。
「とうとう観念したようだな」
 広場には、呆然とした静けさだけが残った。聖域を守る者たちの足音は遠く、月は何事もないかのように高く漂っている。
「言い残した事はあるか?」
「一つ……」
「聞いてやる」
 剣の刃先は微かに沈み、冷たい鋼の圧が喉元にかかる。メリッサの瞳がシオンを見下ろす。そこにはシオンへの恋慕の痕跡が薄く残る。夜風が二人の間を洗い、広場の石畳に影が長く伸びる。刃の先端が、ほんの少しだけ震えた。
「――一度で良い…そなたに…口付けをしたい」
 その言葉は、夜気の中でやけに鮮やかに響いた。

 弱り果て、血に濡れ、倒れ伏した男の願い。
 本来ならば嗤い飛ばすはずだった。
 こんな時に、何を言っているのかと。
 けれど、メリッサの手は確かに震えた。
 握る剣の刃先が、ほんのわずかにシオンの首元から逸れる。
 心臓を誰かに掴まれたような感覚があった。
 痛みでも、怒りでもない。
 もっと、ずっと厄介な――懐かしい温もりに似た感覚。
「……ふざけるなよ」
 吐き捨てるように言った声が、震えていた。喉の奥が熱く、うまく息ができない。
 シオンの瞳は、夢を見るように静かだった。
 その中に映る自分の姿が、どうしても冥闘士のままではいられなくする。
 彼は確かに、自分を見ていた。
 失われたメリッサではなく、今ここにいる自分を。

 剣を振り下ろせと、背後の闇が囁く。
 迷うなと、冷たい声が命じる。
 だが、メリッサの腕はもう動かなかった。
 胸の奥で、押し殺したはずの何かが軋み、崩れかけていた。
「……あんた、ほんとに……バカだな」
 小さく零れたその言葉には、もはや嘲りの響きはなかった。
 刃先は震え、そして――止まった。
 夜の冷気が、ひどく痛いほど肌を刺していた。けれど、それ以上に胸の奥が痛んでいた。
 腕の中で息をしている。
 掠れるほど弱い呼吸でも、確かに生きている。
 その当たり前のことが、どうしようもなく愛おしくて、切なかった。
「……ほら、立ちなよ」
 自分でも驚くくらい小さな声でそう呟いて、シオンの腕を強く引いた。
 その身体は思ったよりも重たくて、けれど同時に壊れものみたいに頼りなく感じられた。胸の奥で、何かがずくんと疼いた。

 ――こんなの、見たくなかった。

 誰よりも強く、誇らしく在ったはずの人が、こんな姿で膝をついているなんて。
 メリッサは奥歯を噛みしめ、乱暴に冥衣のマスクを外した。栗色の髪が夜風に解かれ、視界を遮る。
 一度、目を閉じた。
 いつか見上げた背中は、遠くて、触れることもできないと思っていた。なのに今は、自分の肩に縋り、立つことすらままならない。額を彼の胸に預けると、心臓の音が確かに響いてきた。
 指先が、無意識にシオンの頬をなぞった。
 そこに残っている体温を、消さないように確かめるように。かすかに震えていたのは、自分の指か、それとも彼の体か。

 ――この瞬間だけでいい。

 理性も、戦いも、全部忘れてしまいたかった。
 気づけば、顔を上げていた。
 血に濡れ、苦痛に歪んだ顔。
 それでも、変わらず自分を見つめてくる菫色の瞳。
 もう抗えなかった。
 メリッサは自分の唇を彼の唇へそっと重ねた。
 触れるだけの、短い口付け。
 でも、その一瞬に全てが溶け落ちてしまうようで、胸がひどく苦しかった。

 ――どうして。どうして、この人だけは、何をしても憎めないんだろう。

 唇を離してもなお、胸の奥の震えは止まらなかった。
 血の味がした。
 鉄のように、苦くて、重たい。
 それでも、離れることなんてできなかった。
 この温もりを、もう二度と手放したくなかった。
「……っ」
 堪えていたものが、唐突に決壊したように、目尻から涙が一筋流れ落ちる。止めようとしても止まらなくて、滲む景色の中でシオンの指先が触れた。
 あまりに優しくて、触れられた場所が熱を宿していく。
「すまぬ……嫌だったろう?」
 掠れた声が、胸の奥を揺さぶる。
 その声の底にある、どうしようもなく深い慈愛が、痛みのように胸に突き刺さった。
「……嫌じゃない」
 震える声で、やっとそれだけを返す。
 涙はもう、堰を切ったように溢れ続けていた。
 頬を伝って落ちていく涙の一粒一粒が、今この時しか確かめられない気持ちの証のようで、止めることなど、もうできなかった。

 次の瞬間――
 どちらが先に動いたのかもわからなかった。
 ただ自然に、呼吸を重ねるように、二人の唇は再び触れ合った。
 今度は深く、長く、角度を変えながら。互いを確かめ合うように、静かに、けれど切実に。
 唇がわずかに離れたとき、メリッサの声が震えながら零れ落ちた。
「……シオン様……シオン様……」
 その響きは温かく優しく、儚かった。傷だらけの体も、折れそうな心も、ただその声ひとつで許されてしまう。
 どんなに引き裂かれても、何を失っても、

 ――それでも私はあなたを愛している。

 そう訴えかけているように、彼女の声は胸の奥で反響していた。
 シオンはそっと目を閉じる。
細い腕が自分を支えている、その温もりにすべてを委ねるように。

 ――たとえ、全てを失っても。
 ――この心だけは、最後まで、あなたと共に。

 耳の奥で、そんな声が確かに響いた。
 それが彼女のものなのか、自分自身のものなのかもわからないままに。

 血の味を分け合った唇を離すと、メリッサの瞳には、深く澄んだ哀しみが宿っていた。震える手が、シオンの頬を撫でる。
「シオン様……どうして……どうして、こんなに優しいの……」
 涙に震える声は、夜の冷気の中にかすかに響き、そしてすぐに沈黙に吸い込まれた。
 メリッサは、思わず胸元に顔を押し付ける。嗚咽がもれる。熱い涙が、傷ついた聖衣を濡らし、夜風に冷たく揺れる。
「こんなこと、したくなかった……こんなこと、望んでなかったのに……!」
 縋るように抱きつくその背を、シオンはただ静かに受け止める。腕を回し、そっと撫でる。落ち着かせるように、ただ、互いの存在を確かめるように。

 しかし、その穏やかな間を破ったのは、鋭く胸を締めつける痛みだった。
 メリッサの体が、びくりと震える。
 紫黒の冥衣が、かすかに光を帯び、彼女の体に絡みつく。
「……ぁ……あ……」
 見えぬ鎖が手足に絡みつき、抗えぬ力で動きを支配する。

 ――ミーノス。

 冥王軍の司令官が、最後の一撃を強制しようと手を伸ばしていた。
「やめて……やめて、いやーッ!」
 絶叫とともに生まれる闇の刃。
 自然に、しかし意志とは裏腹に、シオンの心臓を貫こうとする。
 その刹那、メリッサの瞳に浮かんだのは、恐怖と、懊悩と、そして──わずかな抵抗の光。
 シオンは苦しげに、しかし静かに笑った。
その刃を受け止めるように、そっとメリッサの手を自分の胸に押し当てる。
「良いのだ、メリッサ。私の命など……そなたの自由にすればいい」
 彼の声はただ温かく、心の奥まで届くようだった。
メリッサの瞳が、悲しみと恐怖に揺れる。
「……いや……いや……!」
 必死に抗おうとする細い身体を、シオンはそっと引き寄せた。まるで壊れやすいものを扱うように、優しく、どこまでも慈しみ深く。
「もう、そなたを苦しめたくない。私を殺して楽になればいい――」
 その瞬間だった。

 メリッサの胸に、何かがぷつりと音を立てて切れた。
「――ッあああああああああ!!」
 その声は、夜風に震えながら広がり、石畳に反響する。
 絶叫とともに、彼女は闇の刃を振り払った。冥衣の呪縛が、光に押し流されてぎしぎしと音を立てながら崩れ去る。

 そして――

 メリッサの両腕が、自然に、しかし力強く、シオンを抱きしめた。
 その胸の鼓動と温もりに、彼女の全身が、心が、わずかながらも安らぎを取り戻す。悲しみと怒りの影は、光の中で少しずつ融けていった。まるで世界の時間が全て止まったかのようだった。
 メリッサの細い手が、シオンの背にしがみつき、震える。涙が頬を伝い、聖衣を濡らしていく。
その体温の全てが、彼女の心を静かに、しかし確かに揺さぶった。
「……だめだよ……シオン様……あたし、シオン様を傷つけたくない……!」
 声は掠れ、途切れ途切れで、しかし切実だった。過去の痛み、怒り、復讐心。全てがそこに混ざり、震える言葉となって紡がれる。
 シオンは、メリッサの額にそっと唇を寄せた。
 熱く、けれども穏やかな温もり。
 胸に伝わる鼓動が、揺らぐ彼女の心をそっと抱きとめる。
「どれほどそなたを憎もうとしたか……どれほど殺してしまいたかったか……。だが、結局、私が愛しているのは――」
 言葉は途切れ、夜の静寂に吸い込まれるようだった。
 その沈黙の先に、彼は小さく、しかし確かに告げた。
「そなた、ただ一人だ。メリッサ」
 その声は、夜空に溶け、広がる星々さえも優しく抱き込むようだった。
 二人だけの世界――痛みも哀しみも、闇も、全てが溶けて、ただ温かさだけが残った。

 世界の終わりのような、静かで深く、温かな夜。
 その一瞬に、二人の心は完全に重なり合った。

 空は、重く沈んでいた。低く、冷酷な声が、夜風を震わせて響く。
「メリッサ……貴様……」
 それは、天地を貫くような響きだった。
 闇の中、グリフォンの冥衣を纏った男――ミーノスが、上空から二人を見下ろしていた。
 顔には興味も情もなく、ただ、期待を裏切った駒に下す処罰の冷酷な意志だけがあった。
「何とくだらない。己の役目も果たせぬ半端者など、冥王軍には不要です」
 黒い翼が、ざあっと夜風を巻き起こす。ミーノスの指先が一つ弾かれると、暗黒が波打った。
「全軍、突撃しなさい。教皇シオン、メリッサ――どちらも纏めて討ち取れ」
 その声と同時に、闇の大地が生き物のように震え、冥闘士たちが一斉に押し寄せた。異形の冥衣に包まれた黒い波は、満身創痍のシオンと、力尽きかけたメリッサへと襲いかかる。
 シオンは、立っているだけで精一杯の身体を震わせながらも、一歩、前へ踏み出した。
「……来るがいい……!」
 喉を焼く痛みを押し殺し、菫色の瞳で冥闘士たちを射抜く。
 その時だった。
「シオン様に手を出さないで!!」
 叫び声と共に、メリッサが彼を庇うように立ちはだかる。冥衣の残滓が揺れる背中は、震えている。
 そして、空気を切り裂く轟音と、火花のような閃光が広場を包んだ。
 冥闘士の群れに、金色の流星が突っ込む。
「教皇様を守れ!!」
「アテナのために、教皇のために、命を捨てても戦え!!」
 聖域の白銀聖闘士たちが、血路を開くように現れたのだ。その後ろには、黄金聖闘士たちの姿もある。怒りに燃えた瞳が、黒い波に立ち向かう。
 夜は、嵐のようにざわめき始めた。
絶望の淵に立つ二人を、希望の光が包み込むように――。

 白刃が交わり、雷鳴のような爆音が夜空を震わせた。大地は混戦の渦に呑み込まれ、蹴撃と拳撃、光撃と血飛沫が入り乱れる。叫びと怒号、祈りと断末魔の声が、空を埋め尽くした。
 その中心に、シオンは立っていた。
 教皇の剣を大地に突き立て、膝が折れそうになりながらも、必死に身体を支える。
 そのすぐ傍らには、メリッサがいる。
 冥衣に残る呪縛に抗いながら、震える拳を握り、闇に抗う彼女の姿があった。
「……大丈夫だ、メリッサ。私は、そなたを絶対に離さぬ。この命に代えても」
 闇の渦中で、二人は互いを見つめ合う。
 言葉にせずとも交わされた誓いは、周囲の狂騒を凌駕するほど、強く、温かく光った。
「……シオン様」
 メリッサは、涙に濡れた声で名を呼んだ。
 その声は、破滅の闇に飲まれそうになりながらも、確かに存在を主張していた。

 二人は、背中を合わせた。
互いの温もりを確かめ合い、迫り来る冥闘士たちに向かって立ち向かうために――。
 夜は深く、戦場は凄絶で、しかし、その背中には希望が灯っていた。
 漆黒の空の下、グリフォンの翼が広がった。
ミーノスは、ゆったりと指先を揺らす。そのわずかな動きだけで、空気がざらりと震えた。
「……ああ、困りましたねえ、メリッサ。せっかく手塩にかけて育てたというのに。このような醜態をさらしては、冥王様に顔向けもできません」
 その声は、優雅で、しかし冷たく、背筋を凍らせるほどだった。
「仕方ありません。私の手で……始末させていただきますよ」
 言葉と同時に、冥闘士たちが怒涛の勢いで襲い掛かる。黒い咆哮が戦場を満たし、聖域の石畳が踏み鳴らされる。狂気の渦が、そこに立ち込めた。
「くっ……!!」
 シオンは身体を震わせながらも、剣を握り締め、立ち向かう。
 同時に、黄金の光が戦場へ飛び込む。
「教皇様を死なせるな!!」
「聖闘士の誇りにかけて、必ず護り抜け!!」
 アイオロス、サガをはじめとする黄金聖闘士たちが 次々と冥闘士に挑む。拳が、剣が、聖衣の光が、闇を切り裂く。一瞬の油断も許されず、殺意の渦が戦場を支配する。
 光と闇がぶつかり合う混沌の中で、二人の背中は互いを支え合い、闇に抗って立っていた。
 怒号と金属の衝突音、血の匂い。
 全てが混ざり合い、世界は混沌に沈んでいた。
「メリッサ!下がれ!」
シオンの声は、戦場の喧騒を裂いて届く。
 しかし、メリッサは微動だにせず立っていた。
その細い体から放たれる小宇宙は、これまでにない強さで光を増していく。
「……あたしが守る!もう、誰の命令にも従わない!」
 その瞬間、漆黒の冥衣の奥から、純白の小宇宙が迸る。闇を裂く光が冥衣を塗り替え、まるで漆黒の夜に白い稲妻が走ったかのようだった。
「メリッサ……!?」
 シオンの目が大きく見開かれる。
 彼女は、冥府の呪縛から自らの意志で脱け出したのだ。
 その光の中で、二人の視線がぶつかる。
 戦場の轟音も、血の匂いも、全て遠くなる。残ったのは、決意と互いを信じる心だけだった。
「ふふ……これは、ますます始末しがいがありますね」
 ミーノスの声は、夜空に浮かぶ月光のように冷たく、まるで遊ぶかのように優雅だった。
 だが、その動きは容赦なく、空気を切り裂き、重力さえ歪めるほどの一撃で迫ってくる。目にも留まらぬ速度で、シオンとメリッサに迫った。
「ぐっ!」
 シオンの身体が微かに揺れる。その寸前、黄金の光が割り込む。
 サガの拳だった。
 だが、ミーノスは冷ややかな笑みを浮かべ、容易くそれを受け流す。
「やれやれ……この程度の黄金では、私の相手にはなりませんよ?」
「黙れ、冥界の犬どもが!!」
 アイオロスの声が、空気を震わせ、弓の弦が閃光の矢を放つ。
 しかし、それもまた、ミーノスの掌一つで簡単に弾かれた。微かに首をかしげるその姿は、恐ろしくさえ優雅だった。
「……もっと必死に抗ってください。そのほうが――絶望させがいがある」
 そして、刹那。
 ミーノスの加速が、一瞬にしてシオンの喉元を襲った。
 空気が裂け、時間がゆがむような感覚。
 シオンの目に、覚悟と祈りが交錯する。
 夜の戦場は、静かに凍りついたように見えた。
その刹那の沈黙の中で、運命の一撃が、すぐそこまで迫っていた。
「シオン様!!」
 メリッサの叫びが、戦場の轟音を貫いた。
 彼女は躊躇なく飛び込み、シオンの身体を突き飛ばし、自らを盾としてその刹那の攻撃を受け止める。
 爆発音。轟く衝撃波。
 弾き飛ばされた細い身体が石畳の上を転がり、埃と血の匂いが空気を満たす。
「メリッサ!!」
 シオンは、血を吐きながらも立ち上がった。
 全身の関節と筋肉が悲鳴を上げる。それでも、彼は剣を握りしめ、戦場へと駆ける。

 ――守らねば。
 ――どんな代償を払っても。

 剣閃が闇を裂き、拳が地を打つ。
 光と闇の爆ぜる音が、天と地を揺さぶる。
 戦場は、もはや地獄そのものだった。
 それでも、聖闘士たちは叫び、踏み出し、立ち向かう。血と汗、絶望と希望が渦巻く中で、ただ一つ、強く、揺るがぬ意思があった。

 ――生き延びる、そして守る。

 シオンとメリッサ、互いに信じ合う者たちの小宇宙が、夜の帳に鮮やかな光を放った。

 誰一人、退く者はいなかった。

 立ち上がったメリッサの瞳には、迷いも絶望も宿っていない。
「シオン様……あたし、戦います」
 血と汗に濡れた顔に、かすかに微笑を浮かべて告げる。
 シオンも、深く頷いた。
「ともに行こう、メリッサ……!」
 息を合わせた二人は、ミーノスに向かって駆ける。
 閃光のような連携、黄金と白光が交差し、冥府の重力を裂く。
 だが、ミーノスは冷ややかに笑う。
「美しい――まるで、愚かな愛の讃歌だ」
 地を這う無数の糸――コズミックマリオネーションが、二人を捕えんと襲い掛かる。
 絡め取られれば、即座に動きを封じられる。
「させるか!」
 シオンの聖剣が閃き、メリッサの拳圧が炸裂する。
二人は一糸乱れぬ動きで糸を断ち切った。
 ミーノスの表情がわずかに歪む。
「ほう……なかなかやりますね。ですが――」
 指を軽く鳴らすと、空間が歪む。
重力波が爆発的に弾け、地面が裂ける。
 メリッサはよろめき、シオンも膝をついた。
 戦場の地鳴りが、二人を押し潰さんと迫る。
 それでも、互いを見つめる瞳は揺らがない。
 生き延び、守り抜く――その意志だけが、荒れ狂う世界で光を放っていた。
「下等な生物にふさわしい。這いつくばって、命乞いでもなさい」
 踏みつけるような声が、漆黒の空気を震わせる。
 ミーノスの掌に、黒い光が収束していく――その瞬間だった。
「まだだッ!」
 裂帛の気合とともに、サガが両手に小宇宙を集中させる。
「――ギャラクシアンエクスプロージョン!!」
 その一撃が、冥王軍の指揮官めがけて炸裂する。
爆風が夜空を裂き、漆黒の翼を押し戻す。
 すかさず、アイオロスの矢が閃光のように追撃をかける。
 ミーノスはわずかに後退した。
「……邪魔が、入りましたか」
 口調は悠然としている。しかし、今までの余裕とはどこか違う。警戒の色が、その瞳に淡く滲んでいた。
「教皇!今です!」
 アイオロスの声が戦場を貫く。
 ボロボロになった身体を、意志だけで支えながら、シオンとメリッサは再び立ち上がる。
「メリッサ、行くぞ!」
「はい!」
 二人の小宇宙が、光の奔流となって重なった。
黄金と白光――混ざり合うその輝きは、戦場の闇を切り裂く一筋の希望となる。
 夜空に舞う光の奔流は、二人の心の結び目を映すかのように、凛として、力強く――。

 メリッサの拳が、シオンの斬撃が、同時にミーノスへ叩き込まれた。
「甘い!」
 ミーノスが低く咆哮し、重力をねじ曲げて攻撃を弾こうとする。
 しかし――弾き切れなかった。
 怒涛の一撃。
 生きたい、守りたい、愛する人を護りたいという純粋な想いが、力を超えた。
「ぐっ……!」
 ミーノスの顔が歪む。
 その胸に、メリッサの拳が深く突き刺さった。
 同時に、シオンの剣が重力の歪を貫き、肩を冥衣ごと深く斬り裂く。
 鮮血が飛び散る。
「この…虫ケラがあああッ!!」
 ミーノスが叫ぶ。
 黒き嵐が、戦場を圧し、暗黒の波を巻き起こした。
凄まじい破壊の波が、聖域の大気を揺らした。
「皆、下がれッ!!」
 ムウが咄嗟に防壁を張り、アイオロスは庇うように聖闘士たちを守る。
 シオンとメリッサもまた、力を振り絞り、嵐の中に踏みとどまった。
 その時、ミーノスは重く息を吐いた。
「……面倒になりましたね。よろしい、今日のところはこれまでと致しましょう」
 軽く指を鳴らすと、闇に覆われた冥王軍が一斉に姿を消していく。
「逃がすか!」
 サガが追撃しようとしたが、ミーノスはわずかに冷たい微笑を浮かべた。
「またお目にかかりましょう。次は、もっと……無様に泣き叫ぶ姿を拝見できることを、楽しみにしておりますよ」
 そして彼もまた、闇の中へと溶けた。

 残されたのは、破壊され尽くした大地と、
 血に濡れた肩を寄せ合う、二人の姿だけだった。
「……終わった、のか」
 アイオロスが肩で荒い息をしながら、かすかに呟いた。
 重く、静寂が戦場を覆う。
 誰もが、限界まで戦い抜いたのだ。
 そんな中、シオンの口元に、かすかな笑みが浮かんだ。
「……メリッサ……よく、耐えたな」
「……シオン様も」
 メリッサは、泣き笑いのような、揺れる表情で応じた。
 血まみれの二人は、そっと額を寄せ合う。
 互いの体温を感じ、心を確かめ合うように。
 生きている。
 共に、今、この瞬間を――生きている。
 それだけで、涙が静かにあふれた。
 夜の冷気が、二人の頬を濡らす。
 そして、その涙は、戦いの果てに得た、かけがえのない希望の証だった。
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