Eine Kleine

 執務室の窓辺に朝の光が差し込み、木製の机の上に淡い影を落としていた。
 書類の山に囲まれながらも、シオンの思考はただ一つの事柄に囚われていた。
 やがて控えていたサガが呼ばれ、再び部屋に姿を現す。
「先ほどの件だ」
 シオンは組んでいた指をほどき、机の上に静かに置いた。
「葬儀について、町長からは聖域の判断を仰ぐよう求められているのだろう」
「はい」
 サガは一歩前に進み、姿勢を正す。
「町長は強い聖域信仰を持つ人物。港町の住民もまた、保守的な気風を残しております。ゆえに、聖域が葬儀に関与する形を望む可能性は高いと存じます」
 シオンは瞼を伏せ、短く息を吐いた。
 近年、聖域の名を冠した儀式は、葬儀含め減少している。
 かつては威厳と格式を保っていた儀式も、時代の変化とともに“古めかしいもの”として避けられる傾向がある。だが、港町は例外だった。人々は伝統を守り続けており、町長の姿勢もそれを象徴している。
「……しかし」
 シオンは顔を上げ、低く言葉を継いだ。
「肝心なのは、メリッサの想いだ。町の慣習も、町長の意向も二の次でよい。私は、メリッサの希望を最優先したい」
 サガはその瞳をまっすぐに見つめ、深く頷いた。
「御意。メリッサ嬢の意思を確認し、それに従って進めましょう。教皇の御心、確かに承りました」
 室内を満たす沈黙は、決して重苦しいものではなかった。むしろその奥底に、確かな決意と慈しみが宿っていた。
 シオンは椅子に背を預けると、胸中でそっと願った。

 ――どうか、これ以上彼女を傷付けることがありませんように。

 港町の外れ、海風の通り抜ける路地にあるメリッサの家。朝の日差しは明るいのに、その小さな玄関先にはどこか沈鬱な空気が漂っていた。
 サガは深く息を吐き、呼び鈴を押した。
 数拍の間を置いて、扉の向こうから掠れた声が返る。
「どなたですか?」
 まるで夢の中から呼びかけるような、弱い声音だった。
「聖域教皇補佐官のサガだ。先日は愚弟の件で世話になった」
 そう名乗った瞬間、内側で小さく息を呑む気配がした。
 そして、おずおずとした声が返ってくる。
「あ…カノン様のお兄ちゃん?」
 思わぬ呼ばれ方に、サガの眉がかすかに揺れる。
「お兄ちゃん」――それは自分には決して似合わぬ、軽やかで柔らかな響きだった。だが、今は訂正をする場面ではない。咳払いを一つして、感情を押し隠す。
「……いかにも」
 そう返すと、ようやく玄関のドアが軋む音を立てて動いた。チェーンが掛かったまま、細い隙間から覗いた顔。それはひどく憔悴し、涙の跡がまだ頬に残っている。わずかに開いた隙間越しに見つめ合う二人の間を、潮の匂いを含んだ風が通り抜けた。
「こんにちは」
 メリッサはかろうじて笑みらしきものを作ろうとしたが、それは痛々しいほど弱々しかった。
 サガは無言でその顔を見つめ、胸の奥に生じた重みを飲み込んだ。右手の包帯も、やせ細った肩も、まだ何ひとつ解決していない。
「少し、話をさせてもらえないだろうか」
 低い声でそう告げると、メリッサはほんの一瞬躊躇ったのち、小さく頷いた。
 チェーンの外れる音が、どこか哀しく響いた。

 家の中は、まだ昨夜の涙の痕跡をそのまま残していた。
 カーテンが閉ざされた薄暗いリビング、机の上には飲みかけの水のグラス、散らばったティッシュ。それらの全てが、まだ年若い彼女が母を失ったという残酷な事実を突きつけてくる。
 サガは無駄に視線を泳がせず、静かに椅子へ腰を下ろした。
「突然の訪問、許してほしい。……本題に入ろう」
 メリッサは黙って頷き、両手を膝に重ねる。その指先は小刻みに震えていた。
「母君の葬儀についてだ。聖域は、依頼があれば執り行う用意がある。ただ、近年は聖域が関与する葬儀は減っている。形式や慣習を重んじる者もいれば、敬遠する者もいる」
 サガの声音はあくまで事務的だったが、その目の奥に、彼女を気遣う影が差していた。
「……この町の人たちは、どう言ってるんですか」
 メリッサがか細く問う。
「町長は保守的だ。伝統的な葬儀を望むだろう。だが……私は、君の希望を最優先したい」
 サガは言葉を区切り、真っ直ぐに彼女を見た。
「どう送りたいか。それを聞かせてほしい」
 メリッサの喉がひくりと動く。唇を開きかけては閉じ、何度か躊躇したあと、ようやく声を絞り出した。
「……あたしは、静かに、母を送りたいんです。町長さんや、町の人にどう思われてもいい。ただ、誰にも邪魔されずに……最後くらい、安らかに眠らせてあげたい」
 その言葉は、震えてはいたが、確かな芯を持っていた。
 サガは目を細め、短く息を吐く。
「分かった。その願い、聖域が預かろう」
 彼の声は硬質で、だが確かに彼女を守る意思を含んでいた。
 メリッサの言葉が、室内に水のようにたゆたった。
「母は父と結婚式を挙げた、この町の教会が大好きな人でした。だから、最期も教会で送り出してあげたいです。あたし…そのくらいしか…できないから……」
 声は小さな震えを帯び、最後は嗚咽となって切れてしまう。袖口をぎゅっと握る手が、わずかに白くなるのをサガは見逃さなかった。メリッサの胸を抉るような、あの種類の痛みは、言葉で埋められるものではない。彼がどれほどの手配をしても、それは事務的な補填に過ぎないのだということも、彼はわかっていた。

 目の前の娘は、少し前まで自分の右腕を痛めてまで誰かのために尽くし、泣いたあとに淡い笑みを作る術を知っていた。今はそれさえ失われ、あるのはただ“母を教会で送りたい”というささやかな望みだけだ。聖域はその望みを叶えられるか。胸の奥の回答は曖昧だ。私たちが奪ったものを、私たちが還すなどということが、どれほど傲慢なことか。
 サガはゆっくりと椅子から立ち上がり、机の上の紙片に指先を這わせるようにしてから、メリッサの目を見据えた。
「聖域が奪ったものは、確かに大きい。私の言葉が、そのまま償いにはならないことも承知している」
 言い添える声に、平静を装った震えが滲む。彼の言葉は冷たく整った報告文とは違って、個人的な響きを持っていた。
「それでも――君の望みは私が預かろう。教会で静かに行えるよう、町と話を付け、聖域の関与は目立たぬようにしてやる。余計な詮索や圧力が入ることのないように、私が取り計らう」
 メリッサの顔に少しだけ光が差した。安堵と警戒が交差する複雑な表情だ。声にならない「ありがとう」の言葉が、瞳の奥に揺れるのをサガは見る。だが彼の胸には、別の重さもまた積もる。
(だが、それで償えるわけではない。奪った事実が消えるわけでもない)
 その自責は、口にする意味を持たないから彼は沈黙を選ぶ。代わりに、事務的な段取りを淡々と説明し始めた。町長とは既にやり取りを始めているが、メリッサの希望を最優先にすること。葬儀の日取り、霊安室からの遺体移送の手配、教会側との時間調整、参列者の最小化。具体的な項目を一つずつ、彼は列挙していく。
「参列者については、誰を呼びたい?市場長夫妻はどうしよう。町長側の公式の出席は、君が望まぬなら遠慮させるように手配する。葬儀の式次第も、君の意向に沿いたい。御祈祷の形式も簡素に、過度に聖域が表に出ぬようにしよう」
 メリッサは震える声で返す。
「……おじさんと、おかみさんだけでいいです。あとは、友達もいるなら……でも、たくさんはいらない。母を見に来てくれる人が一人か二人でいいの」
 サガは頷く。彼が受け止めるべきは、ただの業務連絡ではなく、この小さな願いの重さだ。
「分かった。そう手配する。町長には、君の意向を強く伝えておく。葬儀社には明日一番で連絡を入れる。必要ならば、私が教会へ行き、僧職側と直接話をつけよう」
 言葉を交わすうちに、部屋の空気は少しだけ軽くなった。物事は動き始める。だがサガの内側で、静かに燻るものは消えない。彼は机へ戻り、メモを取り出して必要な手配を書き込んでいく。ペン先が紙を刻む音が、妙に大きく聞こえた。
「……ありがとうございます」
 メリッサは小さく言った。その声はまだひどく弱く、しかし確かに誰かに向けられている。サガはそれを受け取ると、短く頭を下げた。
「私がやるから、君はまずゆっくり休め。手続きは私が全て引き受ける」
 玄関の外では、海の風が路地を抜けていった。窓から差し込む光はいつも通りだが、二人の間には、救いにも似た約束と、それを越えようとする自責の影が同居していた。どれほどの手を尽くしても消えないものがあることを知りながら、サガはただ、今できることを行う。それだけが、彼の責務であり、もしかしたら罪の一部を和らげる唯一の行為だと、自分に言い聞かせて。

 昼に近い陽光が、港町の路地を柔らかく包んでいた。海から吹く風はまだ冷たさを含んでいるが、光はしっかりと部屋の奥まで届き、淡く白い影を床に落とす。開け放たれた窓辺のカーテンが、風に合わせて緩やかに揺れた。
 室内には、昨夜の涙の跡がまだ残っている。湿った空気の底に、沈黙がひっそりと積もっていた。
 テーブルには、香りの抜けた紅茶と、サガが並べた書類の束。
 メリッサは、手を膝の上で固く握りしめたまま、視線を落としていた。その向かいで、サガは書面を一枚ずつ確かめながら、静かに言葉を選んでいる。
 窓の外では、昼を告げる鐘の音が遠くかすかに響き、穏やかな光だけが、重たく閉ざされた空気を照らしていた。
 メリッサは小さく肩を揺らし、嗚咽をこらえながらも背筋を伸ばして言葉を紡いだ。
「あ…あの…一つだけ、どうしてもお願いがあります」
 震える声が覚悟と切実さを帯びていた。サガは、呼吸をひとつ整えて彼女の目をじっと見据える。
「聞こう」
 メリッサは深く息を吸い、胸の奥から絞り出すように言葉を続けた。
「御祈祷は…教皇様にお願いしたいです」
 その瞬間、サガの胸を鋭く衝く何かがあった。小さな言葉の背後に潜む強い意志。彼は一瞬息を飲み、目を瞬かせた。
「教皇に…?」
 メリッサは俯いたまま、手元で指を絡め、ぎゅっと握りしめる。その仕草が、彼女の不安と願いの混ざった感情をあますところなく伝えていた。
「母のために祈って欲しいんです。そして、忘れないで欲しい。聖域が正義の名の下に、あたしたち家族に何をしたのかを…」
 言葉の最後が震え、嗚咽を伴って途切れる。海風が微かにカーテンを揺らすたび、メリッサの声の余韻が室内に溶け込んでいった。
 サガは深く息を吐き、しばし黙って彼女を見守る。目の前の少女が抱える痛みと怒りを、形だけの手続きや儀式では到底埋められないことを知っている。それでも、彼女の願いを尊重することだけはできる。
「……分かった。君の気持ちを尊重する」
 その声は静かで、しかし確かな重みを持ってメリッサの胸に届く。彼女は目を細め、微かに唇を噛み締めた。震える肩が少しずつほぐれ、ひとつの希望の光が、深い影の中で僅かに揺れるのが見えた。
 外の光は変わらず淡く、海の匂いを運んでくる。部屋の中には少しだが、救いの匂いと誓いの重さが共存していた。

 眩しいくらいに白い陽射しが差し込む町役場の応接室。机の上には、今朝届いた書類の山が整然と並び、外の通りの喧騒とは対照的に、室内には重苦しい静けさが漂っていた。サガは足音を響かせながら扉を押し開け、応接室へ入ると背筋をまっすぐに伸ばし、椅子に腰掛ける町長を見下ろした。
 町長は机の向こうで小さく身を縮め、書類に目を落としたまま、手を震わせている。聖域の補佐官である彼を前にして、威圧感を覚えているのだろう。
「町長、端的に申し上げる」
 サガの声は低く、しかし冷たくもあり、命令するかのような力強さを帯びていた。言葉の一つ一つに、聖域の権威と威厳が宿る。
 町長は頭を下げ、緊張で唇を噛みしめる。
「は、はい……」
「メリッサ・ドラコペトラ嬢の母君の葬儀についてである」
 サガは視線を鋭く町長に向けた。
「葬儀は聖域が取り仕切る。町の教会は使用するが、参列者はメリッサ嬢の希望に従い、ごく近しい者に限ること。町長、あなたの出席は不要だ」
 町長の目が一瞬見開かれ、慌てた様子で口を開く。
「そ、そんな……町長の私が……!」
「不要だと言っている」
 サガの声に微塵の揺らぎもなく、机越しに圧が押し寄せる。町長は思わず身を後ろに引いた。
「聖域側からは教皇と補佐官2名が参列予定だ。出迎えや見送りも必要ない。余計な干渉は一切許さない」
 言葉は一気に放たれ、部屋の空気を支配した。町長は小さく息をつき、机に手をつきながら必死で平静を装う。 
「……そ、そうですか……」
 声は震え、頭を下げる姿勢はどこか萎縮している。サガの威圧に対抗できる余地など、微塵もない。
 サガは無言で町長を見据え、しばし沈黙を置く。その視線だけで、立場の差と命令の重みを思い知らされる町長。蚊の鳴くような声でしか返せない。
「し……承知いたしました……」
「良いな。聖域の意向に従え。それ以上の介入は一切不要だ」
 サガはゆっくりと立ち上がり、背筋を伸ばしたまま扉へ向かう。
 町長は机に両手をつき、心の中で小さくため息をついた。威圧されているのは分かっている、しかしここで何か言えば逆鱗に触れるのも分かっている。小者特有の焦燥が、胸の奥で燻り続けていた。
 扉が閉まる音と共に、応接室には再び静寂が戻った。しかし町長の心は、重く沈んだまま、サガの命令に縛られていた。

 聖域の廊下は朝の光に満ち、静謐そのものだった。サガは足取りを揃え、教皇執務室の扉の前に立つ。扉に触れる前、彼は一度背筋を伸ばし、心を整える。報告の内容が教皇に与える影響を考えれば、慎重さは欠かせない。
「教皇、メリッサ嬢と会ってまいりました」
 サガの声は落ち着き払っていた。扉を開けると、すでに書類に目を通すシオンの姿があった。
「彼女の様子は?」
 机越しの声には、報告を待つ緊張と、心の奥に秘めた不安が混ざっていた。
「かなり憔悴していました。しかし、受け答えはしっかりしており、母君の葬儀についての希望も確認してまいりました」
 サガの声は平静を装っているが、その背後には、メリッサの悲痛な様子を目の当たりにした重みが滲んでいた。
「そうか。ご苦労だった。して、メリッサはどのようにしたいと?」
 シオンは書類から視線を上げ、慎重に問いかける。眉間にわずかな皺が寄る。
「町の教会で行いたいと。参列者はごく親しい者のみ。町長の関与は希望しておりません」
 サガは一拍置き、静かに続けた。
「それと…メリッサ嬢は、教皇に祈祷をしていただきたいと……」
 シオンの瞳が一瞬、大きく見開かれた。胸の奥に小さな動揺が走る。
「……私に?」
 言葉は低く、呟くように零れた。理性は冷静に保たれているものの、心の奥で複雑な思いが渦巻く。
「はい。それから、『聖域が正義の名の下に自分たち家族に何をしたのかを忘れないでほしい』とも…」
 サガは静かに頭を垂れた。言葉は簡潔だが、重みは十分に伝わる。
 シオンは机に手を置き、深く息を吸った。目の前にあるのは、メリッサの望み。彼女の最も切実な希望がそこにある。胸の奥に芽生えた微かな熱を抑えながら、彼は言葉を選ぶように静かに応じた。
「分かった。彼女の希望に従おう」
 サガの瞳に、微かに安堵の色が浮かぶ。教皇の了承。それだけで、メリッサの願いは少しだけ前へ進んだのだ。

 昼下がりの光が教皇宮の窓を通り抜け、執務室に穏やかな陰影を落としていた。シオンは書類を机の上に整え、深く息をつく。母親の祈祷――それはメリッサの願い、その全てを受け止めるための責務であり、同時に、彼自身の胸の奥に潜む複雑な思いと向き合う時間でもある。
 静かに立ち上がり、緋色の外套を肩に羽織る。袖口から伸びる腕の感触が、微かに緊張を伝える。思考は淡々としているつもりでも、胸の奥の熱は決して抑えられない。あの娘――メリッサの願いを裏切ることなどできはしない、と心の中で何度も反芻する。
 執務室の扉を開けると、通路はまだ静まり返っていた。歩みを進める足音が、重々しくも確かなリズムとなり、彼の覚悟を確かめるように響く。補佐官サガは一歩後ろに控え、何も言わず、ただ教皇の行動を見守る。
「今回の件、確実に執り行う」
 独り言のように呟き、唇を引き結ぶ。言葉には迷いも曖昧さもない。しかし、心の奥ではメリッサの母親に向けた思いが、静かに胸を押し潰そうとする。

 港町の教会。そこは母親が愛した場所。メリッサが望んだ場所。彼はその小さな町に思いを馳せる。自らの手で、あの娘の最も大切な人を祈るのだ。例え、それが聖域の名の下に行われるものであっても、今だけは、メリッサ個人の悲しみを慰めるために祈る。
 深く息を吸い、肩の力を抜く。祈祷の準備を整えるための一歩を踏み出す。重厚な扉を押し開ける瞬間、胸の奥にある複雑な熱。それは、責任、敬意、そして言葉にできない思い。それらが、静かに、しかし確実に彼を満たしていた。


 外の光が差し込み、影と光が交錯する教会への道。そこに向かう歩みは、メリッサの願いを、そして母親への祈りを胸に抱いた、教皇としての重みと、人としての感情を抱えた歩みだった。
 晩秋の光が斜めに差し込む港町の教会。外の風は冷たく、乾いた葉の香りを運んでくる。教会の扉を押し開けると、淡く橙色に染まった木の椅子、祭壇の白い布、静かな空気に沈んだ香炉の煙が、訪れた人々を柔らかく包んでいた。
 シオンは儀式用の法衣に身を包み、黄金の皇冠を目深に被っていた。その姿は、港町の人々にとって、見慣れない異国の存在のようでもあり、ただ神聖なものとして畏怖されるものでもあった。補佐官サガ、アイオロスも静かに並び、教皇の名に連なる者として礼を整えている。
 葬儀は小規模で、参列者はメリッサの親しい知人に限られていた。だが、静寂の中でシオンが祈祷を始めると、言葉の一つ一つが教会内に澄んだ響きを落とす。
「……セージ?」
 囁く声が、隣の席から聞こえる。誰もが最初は気づかなかったが、黄金の皇冠と揺るぎない声色、そして儀式に流れる気配は、町の信心深い者たちの勘を刺激した。だが、確認する術はなく、ただ神に祈るように目を伏せるしかなかった。
 最前列で喪服に身を包み、静かに涙をこぼすメリッサ。肩を小さく震わせながらも、手を組み、母親への祈りを心の奥で紡ぐ。その姿はあまりに脆く、あまりに儚く、静かな祈りの空間に独特の緊張と哀しみの波紋を広げた。
 シオンの胸は痛んだ。
 黄金の皇冠の下で、目に映る光景を遮ることはできない。彼女の肩が震えるたび、息が止まるほどの切なさが胸を締めつける。教皇として、聖域の代表として祈りを行う彼の使命感は揺らがないが、それでも人として、彼女の悲しみに触れるたびに胸の奥に刺さる痛みは消えない。

 外では秋風が木々を揺らし、窓越しに射す日差しが祭壇の白布を淡く照らす。その光は穏やかでありながら、今日ここに生きている者と、もう二度と会えない者を静かに隔てる。シオンはその光景を一つ一つ胸に刻む。
 黄金の皇冠の下、彼の瞳は僅かに潤む。だが声は揺らがない。メリッサの母親に捧げる祈祷の言葉は、厳かで、深く、晩秋の教会に静かに、しかし確実に響き渡った。
 メリッサの肩の震えは続く。けれど、傍に立つシオンの存在は、少しだけ、彼女の孤独を和らげるものでもあった。黄金の皇冠の向こうで、彼は胸の奥の熱を抑え、静かに祈りを紡ぐ。
 祈りの儀式が終わり、母の出棺の準備が進められる間、メリッサは教会の外へ出た。涙の痕はまだ乾かず、頬を伝う湿り気が秋の風に冷たくなじむ。海を見つめる彼女の瞳は、どこか遠くを探すようで、しかし確かに今ここにある悲しみを映していた。

 港町の海は、高く澄み渡った秋の空を映し、波は柔らかく打ち寄せる。海鳥たちが遠く高く舞い上がり、大空を自由に滑空する。メリッサはそっと息を吐き、指先で落ち着かぬ髪を耳の後ろに押しやった。
「ママの魂を連れて行ってくれるのかな…」
 その声は、風に混じって震えていた。
「私の生まれ故郷では、かつて鳥葬の風習があったよ」
 背後で砂利を踏む音がした。振り返ると、そこにはシオンが立っていた。葬儀用の法衣は、装飾こそ控えめだが、聖域教皇の威厳を示すに十分な気高さを備えている。深く被った黄金の皇冠の奥、菫色の瞳は普段よりも切なく、静かに揺れていた。
「びっくりした…」
「驚かすつもりではなかった。すまぬ」
 メリッサは小さく首を振る。
「いいえ…今日は急なことなのに、受けてくれてありがとうございました」
「いや…この程度では償いにもならぬ」
 シオンの声は穏やかだが、どこか胸の奥で揺れる痛みが滲む。彼女の悲しみを前にしても、教皇としての役目は揺るがない。しかし、心の内では、ただ傍に居たいという思いが押し寄せる。
「メリッサ…」
「はい…」
「いや…日を改めて話そう」
 口を開くと、心の奥底で渦巻く思いが、まだ言葉にならない。聖域へ来ないか、と促したい自分を抑えながら、彼は静かに立っていた。潮の香りが、秋の冷気が、二人の間に静かに漂う。
 メリッサはそっと息を吐き、目に残る涙を拭うこともせず、ただ深く海を見つめ続けた。シオンはその後ろ姿を見つめながら、言葉にできぬ祈りを胸の奥に秘めた。

 母の出棺の時刻を告げる鐘が、港町の静かな街並みに低く、重く、鳴り響く。澄んだ秋の空気に、その音がゆっくりと染み渡った。
「…時間だ。行きなさい」
「はい…ありがとうございました」
 メリッサは深く頭を下げ、教会の前に待つ黒塗りの迎えの車に、静かに乗り込む。車のドアが閉まると、走り去るタイヤの音が石畳に反響する。その背中を、シオンは言葉少なに見送った。
 離れた場所で、サガとアイオロスも礼を返す。秋の風に靡く衣の裾が、二人の足元で微かに揺れた。
「教皇、そろそろ我々も…」
「そうだな」
 三人が公用車へ向かおうとした瞬間、肩に力強く触れられる。
「教皇様よ」
 振り返ると、市場長が険しい目でシオンを睨んでいた。顔の前で拳を握り、言葉の端々に怒気が滲む。
「私に何か用が?」
「用なら大有りだ。あんたのそのマスク、脱いで顔を見せちゃくれませんか?」
 突然の要求に、周囲の空気が緊張で凍る。葬儀の様子を見守っていた町長が慌てて市場長を制す。
「市場長!あなた何を言ってるんですか!」
「無礼は承知の上だ!」
「市場長!」
 町長は市場長の腕を掴み、引き剥がそうとする。だが、シオンの声が静かに、しかし確実に響いた。
「構わぬ、町長よ」
その低く穏やかな声に、町長は咄嗟に呼吸を止め、反論の言葉を失った。
「は…しかし…」
「よい」
 シオンは黄金の皇冠に手をかけ、ゆっくりとその重みを外す。
 秋の光に照らされて現れた顔は、静かで、しかし圧倒的な存在感を放っていた。マスクの下に隠されていた菫色の瞳が、厳かに街の人々を見据える。
 その場にいた町の住民たちは、誰一人として言葉を発することができず、息を飲むだけだった。
「やっぱりお前か…一体どういうつもりだ!セージ!!」
 市場長の声は震え、怒りと驚愕が交錯していた。秋の風が、一瞬、町全体を静止させたかのように感じられた。
 市場長の指先がシオンの胸衣を握る。力強く、怒りに震えた手。秋風が港町の石畳を吹き抜け、二人の周囲の空気まで冷たく引き締める。
「騙すつもりではなかったのだが、結果的にそうなってしまった事は謝罪する」
 シオンの声は低く、平静そのものだった。
「セージ…いや、教皇……どういうつもりでメリッサに近付いた……」
 市場長の声は次第に嗄れ、言葉の端々に憤りと戸惑いが混じる。背後では町長が必死に制止しようと手を伸ばすが、市場長は振りほどき、シオンに迫る。
「メリッサ嬢には仕事を依頼しただけだ」
 シオンの言葉は簡潔で、揺るがない。
 胸ぐらを掴んでいる市場長の手は力強く、怯む様子はまるで見えない。怒りに燃える瞳でシオンを見据える。
「何の仕事だ?右手が動かなくなるような、そんな仕事を、あんなか弱い娘っ子にさせるのか!?それが聖域の流儀か!?監視対象なら何をしても構わないってか!?ああ!?」
 怒りが、港町の秋の空にまで震えるように響く。声には涙の影すら滲み、憎悪と嫌悪が入り交じる。
 市場長の手が力強くシオンを押す。しかし、シオンは微動だにせず、胸ぐらを握られてもなお、落ち着いたまま立ち続ける。秋風に揺れる衣の裾は、毅然とした存在感を際立たせ、港町の人々の視線を自然と集めた。
 シオンの瞳の奥に、ほんの僅か、息を呑む人々には見えない切なさが宿る。それはメリッサの身を案じる心。しかし、表情にそれを露わにせず、あくまで理性のまま、怒りに駆られる市場長を静かに制していた。
 二人の間を冷たい風が吹き抜ける。鐘楼の鐘がまだ余韻を残す中、声が重く響く。市場長の怒声は海の波音に似たざわめきとなり、聴く者の胸を揺さぶる。
「メリッサ嬢の右手は不慮の事故によるもの。こちらは治療の継続を提案したが、彼女が希望しなかった」
 シオンの声は穏やかだ。しかし、それで市場長の怒りが収まるはずもない。
「だから放置か?あんたらには人の心が無いのか!」
 市場長の拳が固まり、顔には赤みがさす。痛みと怒りが入り交じり、言葉の端に震えが宿る。町長が慌てて手を伸ばすが、体格差は歴然で、力では押さえ込めない。
「お怒りはご尤もだ。聖域を束ねる者として、どのようなお叱りも甘受しよう」
 シオンの声は低く響き渡るが、決して高圧的ではない。目の奥にあるのは、憤怒ではなく、沈着と覚悟。自らの身を晒し、相手の感情を受け止める覚悟だった。
「俺はなぁ…お前のその澄ましきったツラを、一発殴ってやらなきゃ気が済まねぇ!」
 市場長の腕が振り上げられる。周囲の空気は張り詰め、海風の冷たささえ温度を帯びるかのようだ。アイオロスが間に入ろうとするが、シオンが静かに制する。
「構わぬ。市場長殿。私を殴って気が済むのであれば、どうぞ殴るが良い」
 その瞬間、町長もアイオロスも息を呑んだ。教皇としての威厳と、覚悟が同時に空気を押し固める。
「さすが聖域教皇様だ。それじゃあ、手加減なしだ!」
 拳が振り下ろされようとした瞬間、割れるような悲鳴が響いた。
「おじさん!やめて!!」
 メリッサだった。喪服に包まれた華奢な身体がシオンと市場長の間に割り込む。涙で頬が濡れ、声は震える。
「メリッサ…どうしてここに…?」
「副葬品を忘れたから取りに戻ってきたんです。そしたらこんな騒ぎになっていて……おじさん、お願い…教皇様から手を離して……」
 小さな手が必死に市場長の腕を引く。力任せに握る市場長の手と、彼女の震える指先。その力の差は歴然でありながら、そこに潜む必死さが状況を止めた。
「お願い…教皇様に…乱暴なことしないで……」
 声が震え嗚咽が混じる。市場長の目にメリッサの涙が映る。その瞬間、怒りや恐怖、哀しみが彼の胸に直接刺さるように響いた。
「メリッサ……お前……」
 言葉は続かない。法衣の裾を揺らす秋風が、二人の間に静かに流れる。怒りが、悲しみが、そして守りたいという思いが、街の空気に凝縮された瞬間だった。
 法衣を掴んでいた市場長の手が、重力に従うように力無く落ちた。肩を落とし、項垂れる姿は、先程までの怒りが嘘のように沈静化していた。
「おじさん…誤解しないでください。教皇様はいつもあたしに寄り添おうとしてくれてました。手を差し伸べてくれてました。でも…あたしがその手を取らなかったんです…」
 メリッサの声は震えていたが、揺るぎない意思がその言葉の底にあった。市場長の目が、じんわりと赤く染まる。
「メリッサ…お前、やっぱりセージの事を……」
 市場長の言葉は途切れ、胸の奥で何かが崩れる音がしたかのようだった。
 メリッサは小さく首を振る。
「おじさんが思ってるようなことではないです。…教皇様、ごめんなさい。こんなことになってしまって…」
 その言葉の端々に、深い悲しみと自責の色が滲む。シオンは静かに彼女を見つめ、答える。
「いや、そなたが気に病む必要はない。私のことは構わず、御母堂の埋葬へ行きなさい。そなたがおらねば始まらぬだろう?」
 メリッサは、自分を落ち着かせるように小さく息を吐く。副葬品の入った包みを抱き締め、深く頭を下げた。
「…はい」
 風に揺れる栗色の髪が、秋の陽光に淡く輝く。彼女の背中に、これまでの苦悩や痛み、そして決意が重なって見えた。
 走り去るメリッサの背を見つめる市場長の目から、静かに涙が一筋落ちた。こらえきれぬ悔恨と哀惜が、肩の力を抜かせる。
 静まり返った港町の路地には、秋の冷たい風だけが、全てを包むように吹き抜けていった。

 メリッサを乗せた葬儀社の車が、砂利道を音を立てて遠ざかっていった。残された空気には、少女の涙の余韻がまだ漂っているようで、シオンはしばしその背を静かに見送っていた。
「教皇様、町民が大変無礼な真似をし、誠に申し訳ございません。市場長も突然の出来事で混乱しておりまして…」
 町長は額が地につくのではないかと思うほどに頭を下げ続ける。その隣で市場長は悔しさと羞恥に口を閉ざし、拳を固めたまま俯いていた。
「市場長!あなたも謝ってください!」
 町長が横から叱りつけるように声を張る。
「そもそも、メリッサは聖域に仇をなした者の末裔なんですよ。謂わば、穢れた血筋です。聖域に葬儀を引き受けていただけただけでも、ありがたいと思いなさい!」
 その一言がシオンの心に冷たい刃を突き刺さした。

 ――穢れた血筋。

 あまりに浅はかで、あまりに無遠慮な言葉。
 シオンは一瞬、目眩を覚えた。
(落ち着け。相手は一般人だ。ここで声を荒げてはならぬ)
 そう自らを叱咤する。しかし、町長は追い打ちをかけるように、さらに言葉を吐いた。
「親が精神を病んでいた時点で、娘もまともじゃないでしょう。そんな者を抱え込むなど、町だけでなく聖域にとっても不利益でしかありません」

 ――その瞬間だった。

 シオンの中に、深く沈めていた怒りが鋭い閃光のように弾けた。刹那、シオンの世界が静まり返った。喉の奥で音が凍りつき、次に鳴ったのは自分の心臓の強烈な鼓動だった。
 黄金の皇冠を手にしたままの指先が震え、紫紺の瞳が暗く光を帯びる。
「……口を、慎め」
 低く、しかし確実に怒気を孕んだ声が落ちた。
 風が一瞬、ざわめきを孕み、場にいた者全ての背筋を凍りつかせる。市場長ははっとして顔を上げ、町長は蒼白になりながら言葉を飲み込んだ。
「たとえ誰の血を継ごうと、人の命と尊厳は穢れることなどない。ましてや、病に苦しむ者を口汚く罵るとは――」
 言葉を切ったシオンの気配に、周囲の空気は重苦しい沈黙で満たされた。
「それ以上、貴殿の口からメリッサ嬢を貶める言葉を聞きたくはない」
 吐き出されるような一言に、町長の顔から血の気が引き、喉がひくつくように動いた。
 ただの叱責ではなかった。教皇としての威厳に、一人の男としての怒りが宿った声音だった。

 秋の午後の光は、既に傾きかけていた。墓地へと向かう葬列を見送った後の港町の広場には、まだ葬儀の余韻が張りつめていた。空気の中に混じる潮の匂いさえ、重く沈殿しているようだった。
 町長が繰り返す謝罪の言葉は、どこか表面だけを撫でるようで、シオンの胸に響くことはなかった。寧ろ、彼の口から発せられた「穢れた血筋」という冷たい言葉が、刃のようにメリッサを傷つけるのを、目の前で見せつけられたようで胸が灼かれる。
 落ち着け。
 そう自らに言い聞かせる。相手はただの民間人、聖戦を知らぬ、地上の脆弱な日常に生きる者だ。それでも、彼女を穢れと呼ぶ口ぶりに、心の奥底に封じていた苛烈な炎が立ち上がるのを止められない。
 メリッサの母をも汚したその言葉。亡骸の上に降り積もる冷たい土よりも、なお冷ややかな蔑み。彼女の涙と、あの細い肩に背負わせた喪失を知るシオンにとって、それは許し難い冒涜だった。
「この場で明確にしておく」
 声は低く、だが揺らぎのない力を帯びていた。
 秋風に乗って広場全体に行き渡り、人々が一斉に息を呑む。
「メリッサ・ドラコペトラ嬢は、聖域に訪れた想定外の危機、それは放置すれば世界の安寧をも揺るがす事象を、己の命を賭して救った。彼女にしか成し得ぬ偉業だ」
 シオンの言葉は宣言であり、祈りにも似ていた。彼女の右手に障がいを残した代償を、世界に知らしめるための誓い。
「彼女は救国の乙女。そして、私にとっても唯一無二の乙女だ」
 シオンのよく通る声で放たれる言葉には、静かな熱が宿っていた。抑え込んでなお溢れ出す想いに、人々はただ圧され、立ち尽くすしかなかった。
「今後、彼女を貶めることは――この教皇シオンが赦さぬ」
 秋の木立を揺らす風さえ、その一言の前に沈黙した。
 町長の顔は蒼白に染まり、誰もが言葉を失った。シオンの胸の奥ではまだ炎が燻っていたが、その外側に現れていたのは、凛として揺るぎない決意だけだった。

 ――メリッサを守る。彼女の涙も、記憶も、存在の全てを。

 その誓いを胸に、シオンは広場に立ち、揺るぎない眼差しで人々を見渡した。
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