Eine Kleine

 階段を一段ずつ上るたびに、メリッサの体重と温もりがシオンの胸に確かに伝わる。腕を回す彼女の柔らかさ、髪の香り、吐息に混ざる微かな熱。それら全てが理性を揺さぶる。

 ――違う、これは…ただかかえているだけだ。

 理性は必死に叫ぶが、18歳の身体はかつての年齢を取り戻したことで、抑えきれぬ熱を伴っている。筋肉は力強く、血の巡りは若さに満ち、体内に渦巻く小宇宙の熱までが刺激となる。
 メリッサの細い腕や胸の柔らかさに触れるたび、胸奥にぎゅっと何かが締め付けられる。

 ――彼女に触れたい、抱きしめたい、守りたい。

 だが、同時に理性が警鐘を鳴らす。
 年齢の差、立場の違い、そして聖闘士と冥闘士。どれも超えてはならない壁。
 シオンは僅かに息を整え、体を微かに引きながらも、メリッサを安定させる。
「つらくないか…?」
 声は低く、平静を装う。だが、体内に渦巻く熱は、指先まで微かに震わせているのが自分でも分かる。
 メリッサは無意識にさらに腕を強く回し、安心感に浸るように顔を彼の肩へ埋める。その無防備な姿に、シオンの心は締めつけられる。守るべきだという理性と、近づきたいという衝動が同時に押し寄せ、熱を帯びた心臓の鼓動が耳に届きそうなほどになる。

 ――罪か…?ただ、彼女を守りたいだけなのに。

 理性と欲望の境界で揺れる胸を抑え、シオンはメリッサを腕の中にしっかりと固定しながら、階段を一段ずつ上り続ける。その一歩一歩に、責任と衝動が重なり、彼の熱はなおも増していく。

 階段の向こうに教皇宮の扉が見える。目指す先は安息の空間。
 そこでなら、触れずとも、傍にいることで十分に守れる――そう自分に言い聞かせながら、シオンは腕の中の柔らかさを感じ続けた。
 教皇宮の入口でメリッサを下ろすと、彼女は小さく頭を下げた。
「ありがとうございました」
「うむ……」
 彼女は真っ白な大きなシャツの袖を気にするようにまくり上げながら、歩を進める。膝上に届きそうな長さは、守られる存在としての幼さすら感じさせる。だが同時に、その姿は親密さを否応なく想起させ、傍目には格別の意味を帯びて映った。
 すれ違う衛兵や女官の視線が、ふと鋭くこちらをかすめる。決して言葉には出さぬが、胸中に去来する思惑は隠しきれぬ。
(……軽率だったか)
 スカートを穿いているため、露わな肌は少ない。だが、長すぎる袖、肩から落ちそうなほど大きな襟ぐりが、かえって彼女を一層か弱く見せていた。
「何故教皇陛下が、あの娘に衣を……」
 そんな声なき声を読み取るのは、シオンにとって容易いことだった。

 ――白羊宮に残しておけば良かったか。

 しかし、そこは己の宮。ムウもいるのに彼女を一人留めておけば、別の憶測が広まる危険もあった。結局どちらに転んでも波風は立つ。
 メリッサは気づいていないのか、あるいは気づかぬふりをしているのか、落ち着いた足取りでシオンの後ろをついてくる。その姿に、シオンはかえって胸の奥を締めつけられた。

 ――そなたは何も悪くはない。ただ、私が……。

 堂々と振る舞わねばならないのは教皇の務め。しかし内心は悩みに苛まれ続け、歩を進めるごとにシオンの肩は重みを増してゆく。
やがて客間の扉が目前に迫る。そこで初めてシオンは、メリッサを振り返った。
 大きすぎる衣を持て余すようにして立つ彼女の姿は、危うくも愛らしく、視線を逸らすのが難しいほどだった。
「後ほど、今後のことを話し合いたい。まずは湯浴みでもして、疲れを取るが良い」
 その声は低く、落ち着いているのに、どこか揺らぎを帯びていた。
 メリッサはわずかに肩をすくめ、唇をかみしめる。
「……はい」
 小さな声が、広い回廊にぽつんとこだまする。口に出さぬほどではないが、その心細さは空気の隙間を伝わって、じわりと胸に重くのしかかった。
 シオンは一歩下がり、静かに扉へ手を伸ばす。
 重厚な扉が軋むような音を立てて開かれ、柔らかな灯りが差し込む。
 彼は軽く片手を差し出し、言葉少なに促した。
「……中へ」
 メリッサはその手を取らずに、けれど示された方へ小さく頷いて歩み入った。
 広い室内に足を踏み入れた瞬間、パンプスの踵が床を打つ音がやけに大きく響いた。
 シオンは彼女が部屋の中央に立つのを見届けてから、静かに扉を閉めた。
「困ったことがあれば、女官を呼べ。卓に呼び出しのベルがある。それを鳴らせば誰かがやって来る。案外大きな音がするから、無闇に鳴らさぬようにな」
 言葉は淡々としている。だが、そこにはメリッサを一人残すことへの気遣いが僅かに滲む。
「……はい」
 返事をしたものの、心は少し揺らいだ。
 広い客間の床、天井まで届く大きな窓、飴色の調度品――全てが普段の自宅よりも規模が大きく、そして無機質に感じられる。
 足音ひとつで空間が震くような錯覚さえあった。
 シオンは去り際、ふと振り返った。
 広間の中央で立ち尽くす彼女の肩が、僅かに震えているように見えた。
 声を掛けようと唇が小さく動く――しかし言葉にはならない。
 代わりに短く息を吐き、静かに扉を閉ざした。
 閉じた扉の向こう、胸の奥に残ったのは、言いようのない痛みと温もりだった。

 シオンの背中が扉の向こうに消える。残された静寂は、まるで時間が伸びたように、ゆっくりとメリッサの胸に押し寄せる。彼女は自然と、シャツの裾をぎゅっと握った。袖の大きさに指先を埋めると、確かな温もりを感じる。

 この広さの中で、あたしはどうすればいいのだろう。
 浴室は客間の奥にあり、床や壁のタイルが淡い色で統一されている。洗面台や浴槽は大理石製で、どこか冷たい。だがその冷たさは、メリッサの心の不安をやわらげるような、静かな安堵も孕んでいた。
 服を脱ぎながら、肩や腕の傷跡に目が行く。ムウのヒーリングで右腕の血色は戻っていたが、指先の動きはまだぎこちない。そっと指を曲げてみると、少しずつだが確かな感覚が返ってくる。
 湯を張った浴槽に手を浸す。水面が柔らかく揺れ、光を受けて微かにきらめく。肌に触れる水の感触に、体の緊張が少しずつ解けていく。息を吐くたびに、胸の奥のざわめきが溶けて、空間の静けさに馴染んでいく。

 ――教皇様は、きっとすぐには戻らない。

 広すぎる客間、淡い湯の香り、冷たく光る大理石……全てが、メリッサの疲れた体と心を包みこんでくれる。
 そして、少しずつだが、メリッサは湯の中で肩の力を抜き、呼吸を整える。疲れた体に、湯がゆっくりと染み渡る。

 ――この静かな時間が、少しだけあたしを守ってくれる。

 湯の温かさに包まれ、体の奥の緊張が少しずつ解けていく。肩の痛みも、腕のぎこちなさも、水面に指を滑らせるたびに、少しだけ緩む。でも、完全には消えない。右腕の傷跡が、ひりつく感覚を残している。指を曲げ伸ばしするたびに、痛みと共に、体がまだ完治していないことを知る。

 ふと、胸の奥に何か熱いものが広がるのに気づく。湯の温かさだけではない、心の奥底からゆっくりと流れ込む熱。
 教皇様。胸元に抱かれた時の感触、首に回した腕の温もり、吐息や胸の鼓動。全てが体に、心に刻まれている。理性では理解している。身分の差、立場の違い。それらは、あたしたちを許さない。
 それでも、心は否応なくあの人を思い出す。胸がぎゅっと熱くなる。背中に触れた指先の感触、耳に届いた低い声、穏やかで、それでいて確かに守られているという安心感。
 この気持ちは、罪なんだろうか。
 湯の中で指を絡めるように動かすと、湯が指の間から滑り抜け、微かな波紋を作る。目を閉じると、その波紋のように、思い出や感情が胸に広がる。震えそうな気持ちを、湯が優しく受け止めてくれる。
「……教皇様……」
 小さな声を、泡立つ湯が吸い込んでくれる。声にならなくても、心の中で何度も呼ぶ。心細さや不安を湯に溶かすように、静かに、静かに。
 しかし、思いは止まらない。

 ――あたし、あの人に…守られたかったんだ。

 抱かれた時の温もり、無言の信頼、見つめられた時の熱。すべてが、胸の奥で小さく震える。理性ではなく、心が純粋に求めていたもの。
 湯に浸かりながら、メリッサはそっと手で胸元を押さえた。過ぎ去った出来事、右腕の痛み、疲労、そしてシオンへの思い。それらを一度に抱きしめ、受け入れる。
 浴室の静寂の中、温かな湯が包み込み、メリッサの呼吸はゆっくりと落ち着いていった。疲れた体と、抑えきれない心の熱も、水の中で静かに溶けていく。

 客間の扉を静かに押し開けると、そこにメリッサが立っていた。短い髪はまだ湿り気を帯び、肌は湯上がりの赤みを残している。羽織るようにしているのは、シオンのシャツ――大きすぎる布が、彼女の細い肩や腕を包み込み、裾は太腿の中ほどまでしか届かない。前のボタンは全て外れており、時折視界に入る柔らかな曲線と、繊細な刺繍が施された淡い色の下着がシオンの理性を揺さぶる。袖は折り返され、華奢な手首と前腕が露わになっていた。
 シオンは一歩足を踏み入れた瞬間、思わず息を呑んだ。理性と衝動の狭間で体が硬直する。自分のシャツを纏ったメリッサも驚きのあまり声も出せずにいる。
「すまぬ!」
 先に口を割ったのはシオンだ。声が出た瞬間、理性が最後の防波堤を超えないよう、彼は慌てて踵を返した。あまりの慌てぶりに自分で開けたドアに顔面を打ち付ける。
「うっ……」
 一瞬、視界で星が揺れた。額と頬に鈍い衝撃が走り、痛みに思わず眉を顰める。心臓は激しく鼓動し、額には冷や汗が滲む。理性では理解している――自分は248歳の教皇であり、彼女に抱く感情は抑えなければならない。しかし目の前にいるのは、裸同然の彼女を自分のシャツで包んだ、あまりに無防備な姿。理性は、ほんの一瞬にして揺らいだ。
 一方のメリッサは、湯上がりの余韻と羞恥で頬を赤く染め、シオンの慌てぶりを見て思わず小さく息を吐く。胸の奥で微かに高鳴る心臓の音が、彼女自身の体温と混ざり合って波打つ。
「……あの、教皇様……?」
 呼びかける声に、シオンはハッと我に返り、慌てて視線を逸らす。手で額を押さえ、ゆっくりと呼吸を整える。
「……す、すまぬ。わ、私が…一瞬、油断した……」
 言い訳のつもりで声を出すが、言葉は乱れ、口調も動揺に引きずられる。顔の痛みと心の動揺で、理性と感情が入り混じり、どう振る舞うべきか分からなくなっていた。
 メリッサはシャツの裾をぎゅっと握り、かすかに身体を小さくしている。羞恥心と湯上がりの心細さ、そしてシオンの視線を意識する心地が、胸の奥でじんわりと熱を帯びる。
 この瞬間、二人の間には言葉よりも濃密な沈黙が流れた。
 シオンは自分の慌てぶりに心底うんざりしつつも、胸の奥では抑えきれない感情が波打っていた。メリッサへ背を向けながらも、彼女の無防備な姿を視界の片隅に焼き付けずにはいられない。
 シオンは顔面の痛みを押さえつつ、深く息を吸い込む。胸の奥で荒ぶる感情を必死に抑え込み、理性を取り戻そうとする。ゆっくりと吐く息とともに、焦燥と羞恥が混ざった心の波を静めていく。
「……すまなかった。また出直してくる」
 低く絞り出す声に、言い訳の色はあるものの、自らを落ち着かせるための決意も滲む。額に手を置き、再び深呼吸を繰り返すシオン。その背後で、シオンのシャツを羽織ったままのメリッサが静かに立ち尽くしている。彼女は小さく肩をすくめ、目を伏せながら、どこか怯えたような空気を漂わせていた。
 自分の慌てぶりで、かえって彼女を動揺させたのではないか。その思いが胸に重くのしかかる。
 シオンは一歩後ずさり、再び深呼吸して心を整える。客間の空気は一瞬の緊張を残しながらも、穏やかに流れていた。
(落ち着け、シオン……今はまず、彼女を安全に休ませるのが先だ)
 心の中で自分にそう言い聞かせ、ゆっくりと扉に手をかける。肩に残る湯上がりの温もり、円やかに膨らむ胸の柔らかさ、その感触を想像しつつも、理性を絶対に崩してはならない――シオンの決意が、静かに室内に満ちていた。
 扉をそっと開けると、外の廊下に一歩踏み出す。心臓の高鳴りを抑えつつ、再び冷静さを取り戻すため、ゆっくりと足を進める。

 扉が静かに閉まる音がしたとき、メリッサはようやく小さく息を吐いた。胸の奥に溜まっていた緊張がほどけ、心臓の鼓動が落ち着きを取り戻す。

 ――このままでは、さすがにまずい。

 頬に火照りを残しながら、浴室の棚に置かれていたドライヤーを手に取り、まだ濡れている髪を丁寧に乾かしていく。温かな風が耳を撫で、しだいに艶を取り戻す髪に指を滑らせるたび、少しずつ気持ちも整ってゆく。
 化粧水を顔に馴染ませ、乳液を重ねてゆっくりと肌を整える。ボストンバッグから取り出したのは、きちんと畳まれたシャツワンピース。ウエストベルトで形を整えれば、きゅっと女性らしいシルエットになる。パフスリーブが肩先を柔らかく包み、レースのついた襟が落ち着いた可憐さを添えていた。
 一人、姿見の前で軽く裾を整える。胸元のボタンを留め直すと、不思議と心までしゃんと伸びる。シオンに見られたあの無防備な姿を思い返すと、耳の奥が熱くなるが、今はもう羞恥よりも、きちんと向き合いたいという想いが勝っていた。
 支度を終えたメリッサは、広すぎる客間のソファに腰を下ろす。背もたれに預けた背筋はすっと伸び、膝の上で両手を組む。

 ――すぐに、また来るはず。

 扉の向こうから響くかもしれない足音を待ちわびる自分の胸の内を、静かに受け入れる。室内には静謐な空気が満ちていた。

 扉の外で僅かな気配が動いた。足音は控えめで、しかし重みのあるものだった。シオンだと分かる。
 メリッサはとっさに膝の上の手を握りしめる。心臓がまた落ち着かない速さで鳴り始めた。
 扉が二度、軽く叩かれた。
「……メリッサ、入ってもよいか?」
 低く落ち着いた声。しかし、その奥に微かな逡巡が滲んでいるのが彼女には分かった。さっきの気まずさを、互いにまだ引きずっているのだ。
「どうぞ」
 努めて平静を装って返すと、扉が静かに開かれた。
現れたのは、いつもの教皇の威厳を纏ったシオンであった。その眼差しは彼女の姿を確認した瞬間、わずかに安堵の色を帯びた。フェミニンなシャツワンピースを纏い、きちんと身なりを整えてソファに腰掛けるメリッサの姿は、もう先ほどの無防備な影などどこにもない。
「……先程は、失礼した」
 シオンは扉を閉めながら、言葉を絞り出すように謝意を述べる。その声音には、普段の冷静沈着さでは隠しきれない不器用な誠実さがあった。
「いえ、こちらこそ……」
 メリッサは微笑もうとしたが、頬がまだ熱を帯びているのを自覚していた。

 沈黙が短く落ちる。照明で作られた互いの影が壁に柔らかく伸びる。

 シオンはソファの向かいに腰を下ろすと、僅かに姿勢を正した。
「今後のことを話し合うと約束したな。……それを、今ここで果たそう」
 そうして、二人はようやく真正面から向き合うことになる。

 ――教皇と、元冥闘士。
 ――男と、女。

 互いの間に横たわる深い隔たりを、言葉にして確かめなければならない。
 シオンはしばし口を閉ざし、視線を落として言葉を選んでいた。やがてゆっくりと、メリッサを真っ直ぐに見つめて口を開く。
「……白羊宮でも申したが、そなたの右手のことだ」
 その声音は、静けさの奥に強い思いを秘めていた。
「聖域に滞在し、毎日ヒーリングを施させてほしい。神経の損傷は時間をかけねば癒えぬ。完治を約束はできぬが……少しでも回復する余地はある。生活に、仕事に……これからの人生に支障を残したくはない。任せてはもらえぬか?」
 真摯な眼差し。彼の金色の髪が照明に照らされ、影が頬を縁取る。
 メリッサは唇を結び、視線を膝の上へ落とした。白いワンピースの布地を指先で摘みながら、胸の内に去来する思いを整理しようとする。
 彼の厚意も、真剣さも、十分すぎるほど分かっている。
 けれど、ここに留まるということは、聖域の庇護のもとに身を置くということ。冥闘士としての過去を持つ自分には、あまりに重い。
「……ありがとうございます。でも……帰らせてください」
 囁くように告げた声は、かすかに震えていた。
 シオンは眉を寄せる。
「何故だ?ここなら、そなたは安全だ。治療もできる」
 メリッサは首を振った。
「……聖域に留まれば、きっと……あたしは、また周りの人の視線に怯えることになります。冥闘士だった過去を、隠し通せる自信がない。教皇様に迷惑をかけたくもない……」
 言いながら胸が詰まり、最後は言葉が途切れた。
 静寂の中、シオンは深く息を吐く。彼女の弱さも、強さも理解しているだけに、否定できない。だが、それでも守りたいという思いが胸を焦がす。
 シオンは腕を組んだまま、静かに彼女を見ていた。照明に照らされたその瞳の奥の紫が柔らかく、しかし決して揺らがぬ決意を帯びて光る。
「……メリッサ。そなたの気持ちは理解しているつもりだ」
 声は低く穏やかだが、底に硬い響きを含んでいる。
「冥闘士として過ごした過去も、ここで背負わされる視線も、そなたにとっては耐え難いものであろう」
 メリッサは唇を噛み、胸の奥で小さなざわめきが起こるのを感じた。どうして彼はこんなにも分かってしまうのだろう。言葉にせずとも、痛みをなぞられるようで、目を合わせるのが苦しかった。
「だがな――」
 シオンはメリッサを正面から見据えた。その仕草には、威厳よりもむしろ誠意が滲んでいた。
「その右手は、放置してよいものではない。日々の生活にも、そなたの未来にも関わる。……聖域に滞在し、治療を受けることは、そなた自身のためだけではないのだ。そなたのこれからを大切に思う者たちのためでもある」
 メリッサは小さく肩を震わせた。
「……でも……」
「私に任せてはくれぬか」
 シオンの声は、淡々とした調子を崩さぬまま、それでもどこか切実な響きを帯びていた。
「私は決して、そなたを傷付けぬ。……何者にも触れさせぬ」
 胸が締め付けられるような沈黙が落ちる。
 メリッサは膝の上の指を絡めながら、俯いた。

 ――怖い。ここにいるのは怖い。けれど、その言葉をそのまま告げることはできない。

 あの日のことは、誰にも言えない。例え目の前の人が、全てを知っていたとしても。
「……教皇様」
 掠れた声で名を呼ぶ。
「どうして……そこまで……」
 シオンは答えなかった。ただその視線だけが、彼女の弱さも傷も全て包み込み、揺るぎなく「生かそう」と訴えていた。
 メリッサの言葉は静かだったが、その内には細くも強い芯が通っていた。彼女は自分の胸の内にある忌まわしい記憶を、どうしても公にしたくはなかったのだろう。聖域という名の器に再び身を置くことは、想像以上に深い傷を抉る行為であると、彼女は体の奥で知っている。
「ありがとうございます。でも、あたし……聖域とは極力関わりたくないんです」
 彼女の声が、客間の静けさに淡く溶ける。手元で指を絡めるその所作は、どこか幼さを残している。しかし、彼女の言葉は重たかった。
「今回のカノン様の件は、港町にとって死活問題でしたし、いずれは世界中の海洋環境に関わる事だと思ったからです。教皇様は、任務が完遂できたら監視対象から外してくれるって仰ってました。約束は守ってくれるんですよね?」
 シオンは一瞬、視線を逸らした。彼女の瞳が真っ直ぐに自分を見つめる。それは、頼みではなく確かめることだった。利害の取引ではない――約束を盾に、彼女は自分の生きる場所を選ぼうとしているのだと、シオンは理解した。
 彼の胸に、いくつもの思いが波打った。メリッサを聖域に留め置いて治療を行わせることは、間違いなく最短かつ確実なリカバリーへの道だ。だが、その「正しさ」が彼女の心をさらに蝕むならば、教皇として、それは許される判断ではない。何が最も彼女のためなのか。役職ではなく、人としての判断が問われている。

 長い間の沈黙の後、シオンはゆっくりと顔を上げ、静かに頷いた。言葉は落ち着いていて、それでいて揺るぎない。
「……分かった。そなたの希望通りにしよう」
 彼の声は、決意を含んでいた。教皇としてではなく、一人の人間としての約束だ。
「監視対象から外す件については、聖域議会での承認が必要だ。だが、これは形式的なものだ。覆ることはまずない。仮に覆りそうになったとしても、私が阻止する。案ずるな。」
 メリッサの肩が、少しだけ緩むのが見えた。小さな息が彼女の胸から洩れ、それが僅かな救いのように空気を震わせる。だが、彼女の表情にはまだ隠せない不安が残っていた。約束の重みを、過去の痛みが晒す影を、彼女は完全には拭い去れていない。
 シオンは言葉を続けなかった。ただ、その瞳の奥に在る約束の色を、ゆっくりと彼女に伝えた。彼にとって「阻止する」とは、単に手続きを踏むだけのことではない。必要ならば、己の権威を用い、議会の波を抑え、時には自らを晒してでも守るという覚悟である。
 メリッサは俯いたまま、しかし小さく頷いた。返事はそれだけで充分だった。二人の間に流れる時間は、言葉以上に重いものを運ぶ。約束は交わされた。しかし約束の行方は、これから、多くの人々の視線と手続きを経て、現実の形へと変わっていかなければならない。

 窓の外では、日差しが緩やかに傾き、教皇宮の石造りの壁に長い影を落としていた。二人の胸にある不確かさは消えない。しかし、少なくとも今、この部屋の中にだけは――小さな安寧が生まれていた。
 メリッサはソファに体を沈め、膝を抱えながら深く息を吐いた。
 胸の奥に重く沈む不安と、ほのかに灯る安堵の光が、微妙に絡み合っていた。自分の選択は正しかったのか――それを判断する基準も、今の自分には持ち合わせていない。ただ、怖さと恐れから逃げることだけは、間違いなく選んだ。

 聖域に留まることは、過去の事件を思い起こさせる。誰が知っているのか分からない、あの忌まわしい記憶の影に再び晒される可能性。胸の奥に渦巻く不安が、皮膚のすぐ下まで現実味を帯びて押し寄せてくる。
 その一方で、シオンへの思いは静かに、しかし確かに存在していた。彼の瞳に映る自分の姿、言葉に込められた揺るぎない温度、距離感を保とうとしながらも常に気遣う仕草。理性では抑えているが、心の奥底では彼を想う自分を否定できない。
「今なら……まだ、傷は浅くて済む……」
 自分自身にそう言い聞かせるように、メリッサは肩を小さく震わせた。悲しみでも、恐怖でも、愛しさでもない――ただ、現状を生き延びようとする、静かな覚悟の震え。
 夕日が差し込む窓の外では、教皇宮の石造りの廊下に長い影が落ちる。静寂の中で、部屋の温もりと孤独が入り混じる。ソファに沈むメリッサの体からは、小さな緊張の余韻がまだ抜けず、しかし僅かな安堵が彼女の胸を少しだけ解きほぐしていた。


 朝の光は柔らかく、しかし冷たさも含んで、教皇宮の客間を満たしていた。長いカーテンの隙間から差し込む光は、床の大理石に淡く反射し、冷たく静謐な空気を浮かび上がらせる。
 メリッサは、朝食の片付けに入っていた年若い女官に、少し躊躇いながら声をかけた。
「あの…」
 女官は振り返りもせず、無機質な声で答える。
「はい」
 その声の冷たさに、メリッサは一瞬、言葉を失った。ここでは、自分が客であろうと、招かれた客ではなく、ただの手間をかける存在でしかないのだ。そんな現実を、声だけで突き付けられるようだった。
「何でしょうか?」
 苛立ちを含む口調。メリッサは少し身を縮め、言葉を選びながら続ける。
「あの……教皇様からお借りしたシャツなんですけど、お洗濯してお返ししようと――」
 女官の眉根は少しも動かず、声も冷たいままだった。
「教皇様のお召し物ですか?それでしたら私共の方でお清めさせていただきますので、お預かり致します」
 その一言は、思いのほか心に刺さった。自分の善意や気遣いが、ここではまるで過剰で不必要なものだと示される。女官の態度も、無関心というより、どこか冷ややかで距離を置かれた扱い。その距離感が、メリッサの胸をひりつかせる。

 ――やっぱり、帰ることにして正解だ。もう、関わらない方がいいや。

 心の中でそう呟きながら、メリッサは視線を床に落とす。朝の光は優しいのに、自分の気持ちは不意に冷え込んでいた。教皇宮の広さや装飾の華美さは、今の心には何の慰めにもならない。寧ろ、自分がここにいる違和感や居心地の悪さを、余計に強く感じさせるだけだった。
 ソファの背にもたれ、手元のシャツの感触を確かめる。昨夜まで、あのシャツは安心や温もりを象徴していたはずなのに、今はそれも遠い記憶のように、重く胸にのしかかる。
 メリッサは一瞬、手が止まった。女官が自らの動作を止め、無言で手を差し出す。空気に漂うのは命令。言葉はなくとも、そこにあるのは「早く寄越せ」という圧力だけだった。
 メリッサは小さく息を飲み、両手でそっとシャツを差し出す。薄い布の感触が指先に残り、その温もりすら一瞬で女官の胸に吸い込まれる。女官は躊躇うことなく、奪うようにシャツを抱え込んだ。
 その所作を見て、メリッサは胸の奥に微かな理解が生まれる。――ああ、この女官は教皇様に対して好意を抱いているのだ、と。無言の命令と奪うような手つき、その全てから、彼女の感情の深さが透けて見える。
 同じ女として、メリッサにはその感情の真意が、瞬時に分かってしまった。恋心というものは、時に冷酷で、時に大胆で――自分以外の誰かが抱く情熱の存在を、否応なく理解させられる瞬間だった。
 胸の奥がざわつき、微かに痛む。けれど、それは嫉妬や羨望ではない。ただ、事実を知ってしまった、という静かな感情。教皇様に向けられた女官の想いを、自分もまた目の前で感じてしまったことに、メリッサは息を整えるしかなかった。
 シャツを抱えた女官と、視線を落とすメリッサ。その間に言葉はなくとも、互いの存在がはっきりと心に刻まれていた。
「それと、清掃の関係がありますから10時までにはお引き取りください」
 メリッサは短く息を吐いた。女官の言葉が静かに胸に響く。事務的で、情感のない告知。それでも心の中でどこか救われる感覚があった。
「10時チェックアウトね…」
 自分の荷物を見やる。必要なものは全て揃っている。思ったよりも軽く、心も少し軽くなる気がした。指定された時刻よりも前に出ても構わない。そう考えると、迷いはなかった。
 はぁ、と小さく吐息をもらす。
「さっさと帰ろ」
 浴室で歯磨きを済ませ、手早く荷物をまとめる。シャツワンピースの裾を整え、肩からバッグを掛けた瞬間、メリッサは気持ちを切り替え、静かに扉へ向かう。朝の光に照らされる室内は少し冷たくもあったが、それがかえって決意を固める助けになった。
 そして、最後に一度だけ客間を振り返る。誰もいない部屋に、静寂だけが残る。メリッサはそれを心の中で噛み締めるようにしながら、教皇宮を後にした。
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