Eine Kleine
会計を終えると、店員が紙袋を差し出した。
「ありがとうございます」
メリッサが受け取ろうとした瞬間、その手より早くセージが袋を取った。自然で当たり前の動作のように片手に提げ、軽くうなずいてみせる。
「……セージくん、ありがとう」
思わず動きを止めたメリッサが小さな声で礼を言うと、彼は『気にするな』とでも言いたげに歩き出した。
モールの外では、夏の名残りの光がアスファルトに反射し、通りの建物や歩行者を柔らかく包む。小さなカフェや雑貨店の軒先から漂う香りが、買い物の余韻に色を添える。
「ふふ、やっぱり青にしてよかった!」
嬉しそうに笑うメリッサを横目に、セージは袋をしっかりと持ち直し、静かに言葉を添えた。
「よく似合っていた」
返す言葉は短くとも、胸の奥のざわめきは、先ほど鏡の前での彼女の仕草を思い出すたびに大きくなる。
「セージくんの好みに合ってた?どういう服装の女の子が好きなの?」
軽い問いかけに、メリッサは楽しそうに横目で彼を見上げる。
「服の好みはあるが……本人が良いと思うものを着れば良いのではないか?」
彼の声は落ち着いているが、その眼差しは、自然に彼女の細やかな仕草や笑顔を追っていた。
「ふーん、なるほど。でも、試着の時、綺麗って言ってくれたよね」
「そう思った」
「えへへ、嬉しかったよ」
メリッサの声は弾んで、肩の力が抜けているようだった。
けれど、無邪気な笑顔の裏で、彼女の胸は少しばかり緊張していた。まだ誰かに気づかれると不安になる癖――過去の影は、微かに今も残っているのだ。
通りの向こうから、子供たちのはしゃぐ声や自転車のベルの音が届く。夏の午後特有の空気の熱気に混じって、街は穏やかに、しかし確かに生きている。
「あたしね、夏が好きなんだ。暑いのは大変だけど、なんか、太陽からエネルギーを貰える感じ。セージくんは?」
メリッサは軽く首を傾げ、陽射しに映える髪をかき上げる。
「嫌いではない。光も、風も、悪くはない」
言葉は淡白だが、内心では、メリッサとこうして歩く時間が、何よりも心地よいと感じていた。
「じゃあ、今日は良い日だね!」
無邪気に笑いながら、メリッサは前を歩く。セージは少し距離を置き、彼女の背中を追うように歩いた。街のざわめきの中で、二人の時間だけが、柔らかく、静かに流れていた。
通りの角にある小さな噴水の前で、メリッサは立ち止まった。水面に映る光が小さくきらめき、微かに涼しさを運んでくる。
「ねえ、ちょっと休もうよ」
笑顔で振り返るメリッサに、セージは頷いた。
彼女の体調や疲れを気遣うと同時に、単純に、この瞬間をもう少し長く共有したいと思ったのだ。
二人は噴水の縁に腰を下ろす。メリッサは無邪気に手を伸ばし、水面に指を触れて小さく波紋を作る。
「水って、見ているだけで涼しくなるね」
その声には、軽やかな響きがあり、街の喧騒を一瞬だけ遠くに感じさせるようだった。
セージは、そんな彼女の指先に目を落とす。細やかに震える手の動きに、過去の影を隠すかのような慎重さを感じる。無邪気な表情の裏で、心の奥底にまだ恐怖や警戒が潜んでいる――それに気づいた瞬間、胸の奥が締め付けられた。
「……メリッサ、大丈夫か?」
自然に口を開いた言葉に、彼の心の揺らぎが滲む。無邪気な笑顔に隠された微かな緊張を、無意識に察してしまったのだ。
「え?あ、うん、大丈夫だよ」
メリッサはぱっと目を輝かせ、笑顔で返す。しかしその笑顔の端に、わずかに息を整える仕草が見える。無理をして明るく振る舞っていることを、セージは気づかないわけにはいかなかった。
噴水の水音、遠くで響く子供たちの声、路地を通り抜ける風――日常の光景の中に、彼女の小さな不安と、それを包み込むような明るさが混ざる。セージはその場に座り、静かに彼女を見守る。
「……セージくん、なんでそんな難しい顔してるの?」
メリッサは無邪気に首を傾げる。
「いや…何でもない」
答えは淡白だ。しかし心の中では、彼女の無邪気さと過去の影とのギャップに、深く考え込まずにはいられなかった。
「じゃあ、そろそろ行こうか」
メリッサは相変わらず鮮やかな笑顔を見せる。セージは軽く頷き、立ち上がる。噴水の水面が光を反射して揺れ、二人の影を少しだけ伸ばしていた。
二人は再び歩き出す。街のざわめきの中、彼女の明るさに、セージの心は少しずつ引き寄せられていく――その揺らぎを、自分自身でもまだ整理できないままだった。
夕方に差し掛かり、街の光はやや柔らかく、影が長く伸び始めていた。夏の余韻を残す空気が、通りを淡く赤く染める。メリッサは軽やかな足取りで楽しそうに歩いているが、時折小さく息を整える仕草が見える。まだ無理をしているのだと、セージは気づいた。
「港町までは一本道だから、迷う心配はないな」
セージは軽く声をかけ、彼女の隣を歩く。足取りは落ち着いているが、目は時折メリッサの表情に向けられ、微かな不安の影を探すように見ていた。
「うん、ありがと。セージくんと一緒だから、安心だよ」
明るく微笑む彼女の声に、セージは心を少し緩める。しかし、その笑顔の裏で息をひそめる小さな緊張も感じ取れる。
街道沿いのカフェや小さな雑貨店が夕陽に照らされ、ガラス窓に光が反射して輝く。通りの向こうには、海からの風に揺れる樹木の影。港町に近づくにつれ、潮の香りが混ざり、夏の終わりをほのかに感じさせた。
「今日は、楽しかった。ありがとうね」
メリッサがふと小声で言う。その声には、無邪気な明るさの中に、微かに緊張を解く安堵も含まれていた。
「うむ、私も楽しめた」
セージは柔らかく返す。無邪気に見えるその背中に、過去の影がちらりと感じられることも、今の彼には守るべきものだと静かに思わせた。
港町の入口に差し掛かる。人々の往来が減り、街の明かりが早くも灯り始めている。セージは立ち止まり、メリッサを見下ろすように目を合わせた。
「ここまでだ」
短く告げる声に、メリッサは少し名残惜しそうに肩をすくめる。
「うん、ありがとう。セージくん、気をつけて帰ってね」
彼女の笑顔はいつもの明るさだが、目元にほんの少し疲れの影がある。セージはそれを見逃さず、胸の奥が切なさで熱を帯びるのを感じた。
「ああ。そなたも無理はするな。また……会おう」
静かに告げメリッサの洋服が入った紙袋を差し出す。メリッサは軽く頷きながら袋を受け取った。一瞬、二人の手が触れ合った。
「……ありがとう、セージくん」
彼女は照れくさそうに微笑み、そっと手を振る。
セージも手を上げ、メリッサを見送る。夏の夕陽が、二人の影を長く引き延ばし、街道に淡い光の線を描いていた。
メリッサがゆっくりと町へ入っていくのを確認した後、セージは小さく息を吐き、背すじを正した。彼女の明るさの裏にある影、そして自分の守るべきもの――その思いを胸に、静かに港町を後にした。
港町の喧騒が遠く後ろに消えた頃、セージは聖域教皇宮の石造りの広間に戻っていた。日差しは既に傾き、柔らかな夕光が高い窓から差し込み、室内の古い書棚や執務机の面に淡い光の帯を落としている。
セージは静かに私服を脱ぎ、整然とした法衣に着替え、教皇シオンへ戻る。いつもの威厳を取り戻した姿だが、心の奥底には港町で見たメリッサの笑顔と、無理をして明るく振る舞う様子がちらつき、どこか落ち着かない。
執務机に向かうと、今日のために持参した書簡がひとつ、机の端に置かれているのに気づいた。封を切られぬまま、白く凛とした紙面が静かに彼を見つめていた。
――次こそは……
そう呟く自分の声に、胸の奥がざわつく。書簡は、薬師の島へ黄金聖闘士を派遣するための正式な依頼状だ。教皇権限を発動すれば事は簡単に進む。しかし、メリッサの母親が精神科病院に入院していることを思うと、その手紙を今手渡すのは、どうしても躊躇われる。
机に肘をつき、顎に手を当て、シオンはしばし考え込む。目の前の白い紙は、理性では動かぬ時間の重みを示し、しかし心はそれに抗おうとする。
もし別の策があれば……
他に良い方法があれば、メリッサの笑顔を曇らせずに済むのに。だが現状では、先延ばしにすることも、案件の本質を変えることもできない。
窓外に目をやると、遠く山の稜線に夕陽が沈みかけている。光は橙色から淡い紫へと移ろい、宮殿の石壁に影を落とす。シオンはその移ろいに、時間の残酷さと、決断の重さを静かに感じた。
心の奥で揺れる迷いを、シオンは胸の内に封じ込め、再び書簡を見つめる。渡すか持ち越すか――選択は明白だ。しかし、目の前にあの快活さの裏に深い傷を抱えるメリッサを思い浮かべると、どうしても手が止まる。
「……次は、必ず……」
シオンは自分に言い聞かせるように、白い紙に視線を落とした。窓の外の光が、机上の封筒の白さをさらに際立たせ、静かに、しかし確かに時間の経過を告げていた。
翌朝。港町の市場は、夜明けの潮風をまだ色濃く残していた。魚を並べる木箱の匂い、青い帆布の日除けの下に並ぶ果物の甘やかな色彩、荷を担ぐ男たちの掛け声が混じり合い、雑多でどこか牧歌的なざわめきをつくり出している。
そんな喧噪の中で、メリッサは名を呼ばれた。
「おう、メリッサ!」
振り向けば、市場長の大きな手がひらひらと揺れていた。
「あ、おじさん。おはようございます」
屈託のない笑顔を浮かべながら歩み寄ると、彼は手にしていたタオルで汗を拭い、ふっと声を落とした。
「母さんの具合はどうだった?」
その問いは、彼がいつも口にする決まり文句のようでありながら、どこか胸の奥を刺す。
「変わりなかったです」
「そうか。少しでも良くなってくれりゃいいけどな」
笑ってみせる市場長の歯は白く、力強い。だがその笑みの奥に、彼だけが抱えている哀しみの影が確かに潜んでいるのを、メリッサは感じ取っていた。
「いつも気にかけていただいて、ありがとうございます」
「いや、昔、お前の父さんから、万が一自分に何かあったら家族を頼むって言われていたしな」
それだけではないことを、彼女は知っている。
若い頃、彼は母を巡って父と争った。選ばれなかったほうの男の眼差しは、時を経てもなお澄み切らぬ翳を宿している。
母は今、病に心を囚われている。けれどその姿にさえ、退廃的な美しさが漂うことを、娘である自分が一番よく知っていた。
「そういや、昨日セージがお前に会いに来たぞ」
「え、セージくんが?」
「ああ。お前に会いたかったみたいだけどな」
「それ、何時頃の話ですか?」
問いかける声がわずかに硬くなるのを、自分でも制御できなかった。市場長は空を睨み、手を腰に当て記憶を探る。
「ありゃあ、確か10時過ぎだな。何でだ?」
「……いえ、あたしその時間帯にアテネでセージくんに似た人見かけたから…で、でも、見間違えですね。こっちにその時間いたなら、アテネで見かけるはずないし。えへへ」
声が裏返る。ごまかすために笑った。だが笑顔は引き攣り、胸の奥では冷たい違和感がじわじわと広がっていく。
おかしい。どう考えてもおかしい。
10時過ぎに市場長はこの町でセージに会っている。
メリッサが彼と言葉を交わしカフェに入ったのは11時前、アテネでだった。
港町からアテネまでは、どれほど急いでも1時間以上かかる。車を使ったとしても、平日の道路だ。高速道路のように突っ走れるはずもない。
なのに――確かに、彼はそこにいた。
市場とアテネ、その両方に。
メリッサの胸の奥に、言葉にならないざわめきが渦を巻く。
「メリッサ……お前、もしかしてあいつのことが気になるのか?そうなんだな?」
「へ……?」
市場長がずい、と体ごと迫ってきた。威圧感のある大柄な体躯に、日々の労働で鍛えられた腕。その影が差し掛かるだけで、ぎくりと心臓が痛む。
「どうしてそんな話に…?」
無意識に一歩さがった自分に気づき、メリッサは咄嗟に微笑みを作った。頬が引き攣る。笑顔という薄い仮面を必死に貼りつける。
「だって、そうだろ。あいつに似た奴を無意識に探してたんじゃないのか?あれだけの男は滅多にいないだろうに」
市場長の声は悪気のない響きをもっていた。けれど、その無遠慮な言葉は、メリッサの胸の奥の繊細な部分を容赦なく逆撫でてくる。
「まぁ、確かに、滅多にはいないでしょうけどね」
努めて軽やかに言葉を返した。けれど、自分でもわかっている。その声音がどこか上ずっていることを。
「うん、うん。良いじゃないか。ちょいと変わり者だが、あいつは真面目で良い奴だ。市場でも評判が良くてな、特にかみさん連中には頗る人気があるんだぞ」
市場長の豪快な笑いが、活気ある午後の市場の喧噪に溶け込む。魚をさばく包丁の音、果物を売る声、子供の笑い声。それらのざわめきが一層鮮やかに響いてくるほど、メリッサの心は逆に静まり返っていった。
――分かる気がする。
セージは美形だ。淡く緑がかった金髪に菫色の瞳。長身で手足の均整も美しい。服の上からでもわかる、しなやかな筋肉。品のある所作、控えめな声の調子。誰もが彼を好意的に見るのは当然だろう。
けれど。
メリッサの胸を占めるのは“美しい”や“評判が良い”といった形容ではなかった。
彼と接するとき、自分は確かに緊張が少ない。あの日以来、異性と向き合うときに必ず生まれる、喉を締めつけるような不安が、彼にだけは薄いのだ。それは安堵と同時に、不気味でもあった。
心は、すぐに問いかけてくる。
――どうして、彼の前では怖くないの?気になるというのは、つまりそういうことなの?
答えはまだ、霧の中にある。メリッサはただ曖昧な笑みを市場長へ向けた。
「それで、セージくん、何の用事なのか言ってましたか?」
市場長の声は朗らかで大きい。耳に届く度に、通りの空気が一瞬、震えるように揺れる。メリッサは視線を下げ、胸の奥で小さな違和感を抱えながら笑みを作 っていた。
「いや?だけど、何か封筒持ってたぞ。真っ白の。お前にラブレター渡すつもりだったのかもな!はははは!」
笑い声が、魚の匂いと混じり合い、湿った空気に溶けて広がる。口元の笑みは自然に見えるが、内心では、セージのことを軽々しく語られる不快さが、じんわりと胸を締め付ける。
「ま、近い内にまた顔を出すだろうさ。もしも交際を申し込まれたら受けておけよ。あいつなら大丈夫だ」
市場長の豪快な声は、木箱や石畳に反響し、目の前の景色がわずかに揺れたように見えた。けれど、メリッサの視界にはその景色の奥で、心の奥底に残る微かな緊張がちらちらと光って見える。セージに対する安堵と、彼女自身の恐怖の境界が、まだぼやけている。
「はは……そうなったら、前向きに検討します」
言葉は軽やかに、笑顔と共に吐き出す。だが息を吸い込むと、胸の奥に残った小さな緊張が、ほんの少しだけ、呼吸に触れる。
「応援してるぞ!じゃあな!」
市場長の背中が、日差しに透ける帆布や荷車の影に溶けて遠ざかる。魚の匂い、石畳に反射する光、子供の声――ざわめきは変わらず、市場全体がいつもの息遣いを取り戻す。
やれやれ、めんどくさい。人のことなど、ほっといてほしい。セージ君も、こんな騒動に巻き込まれて気の毒だ。
メリッサは小さくため息をついた。
翌日、港町の市場はいつもより人通りが少なかった。夏の終わりを思わせる日差しが石畳に反射して白く眩しく、空気には海塩の匂いが濃く漂っていた。
メリッサは籠を抱えて市場を歩いていたが、ふと視線を前方にやると、通りの先に見慣れた背の高い人影を見つけた。
――セージ。
白いリネンのシャツ、足元にはキャンバス地のスニーカー。普通の若者の穏やかな休日の服装だが、その雰囲気は町に紛れていてもどこか際立っていた。姿勢よく歩く姿一つで、人目を引いてしまうのだ。
「……やっぱり来たんだ」
思わず零れたメリッサの言葉に、セージは彼女を見つけ、微かに目元を和らげた。
しばし挨拶を交わした後、二人は市場から少し離れた石段へと歩いていった。街の喧騒が遠ざかり、潮騒だけが近くにある。
木陰には薄紫の花が群れて咲き、風に揺れては淡い香りを漂わせていた。
セージはその石段に腰を下ろし、視線を遠い水平線へ向ける。メリッサも隣に座ったが、胸の奥に引っかかっていた問いがどうしても口から漏れてしまった。
「ねえ、セージくん」
「……ん?」
「昨日ね、市場長と会ったでしょ。午前10時過ぎに」
セージの横顔がわずかに強張る。
メリッサは彼の視線を探るように覗き込みながら続けた。
「なのに、あたし達は同じ時間帯にアテネで会った。……どういうこと?」
風が止まり、波音だけが石段を叩いた。
問い詰めるというより、ただ目の前の不可解さを確かめたい。そんな声音だった。それがかえって、セージの心に鋭く響いた。
しばらくの沈黙。
やがて、セージは遠くの海へ視線を戻したまま、低く静かに口を開いた。
「……メリッサ。そなたは、私がただの一市民だと、本気で思っていたのか?」
彼の声に、メリッサの胸が一瞬跳ねた。
疑っていたはずなのに、心のどこかで「普通の人であってほしい」と願っていた自分に気づき、唇を噛む。そして、潮風に混じるように自然な調子で、彼女は問いを投げた。
「……じゃあ、セージくんって、ほんとは何者なの?」
メリッサの問いは、どこか潮風と同じように自然だった。問い詰めるでもなく、ただそこに漂うように口をついて出た言葉だった。
しばらく沈黙が流れた。
波の音が、足元の石段に当たっては砕け、また戻っていく。その音が三度目を数えたところで、セージは静かに答えた。
「私は……聖域の者だ」
風が止まり、時間が一瞬だけ凍りついたようだった。
「……やっぱり」
メリッサはそう言って、苦笑した。
「うすうす、そんな気がしてた。なんか、普通じゃないもん。言葉遣いもそうだし、話すことも、所作とかさ……全部、あたしなんかとは違う。不思議な力、あるんでしょ。この町とアテネを短時間で行き来できちゃうような」
その率直さが眩しかった。
セージは口元に笑みを浮かべた。自嘲にも似たそれは、どこか憂いを含んでいた。
「で、聖域の人があたしに近づいてきた理由は、島…で良いんだよね?」
それはまっすぐな問いだった。
セージは、はっきりと頷いた。
「そうだ。私は……かつて聖域と深い縁のあったその島に、どうしても知りたいことがある」
セージは肩に掛けたボディバッグの中から一通の書簡を取り出し、メリッサへ差し出した。
「依頼状だ」
メリッサは純白の封書を一瞥すると、黙ったまま海の向こうを見つめていた。
潮風が二人の間を通り過ぎる。セージの白いシャツの裾がはためき、彼女の髪がやわらかく舞い上がった。
――いつかは向き合わなくてはいけなかったのは知っていた。島とも、聖域とも。
「……わかった」
しばらくの沈黙の後、メリッサは何かを決断したように頷いた。セージが差し出したままの封書を受け取った。
「今からうちに来れる?手続きの説明するから」
メリッサの家は、港から高台へ向かう長い坂道の中腹にあった。
白漆喰の壁に茶色い瓦屋根の、この辺りではごく一般的な佇まいの一軒家だった。家族四人で暮らしていた頃は、丁度よい広さだったのだろう。
今は、メリッサ一人がここに住んでいる。
リビングへ通された。
家族四人で囲んでいただろうダイニングテーブルは、椅子が一脚あるだけだ。残り三脚はリビングの隅に重ねて置かれている。
「一人で暮らしていて不安や寂しさはないのか?」
若い娘の家にしては、随分シンプルな印象だ。
「うーん、初めはそう思ったけど、もう慣れたよ」
メリッサは重ねられていた椅子を一脚、運んできた。固く絞った濡れ布巾で丁寧に埃を拭う姿はテキパキとしていて、彼女が働き者なのだと示していた。
「あたしのこと、心配してくれてるの?」
「普通は心配するものではないのか?そなたのような若い娘が一人暮らしなど……」
「……なんか、セージくんて、おじいちゃんみたい」
メリッサがぽかんとした顔で言うので、セージはそれ以上、何も言えなくなってしまった。
おじいちゃんみたい……少なからずその言葉に衝撃を受けた。
そうだ。今、自分は18歳なのだ。よくよく言葉には気をつけなければ。
「もしかしてセージくんてさ……」
何かを探るようなメリッサの表情や口調に、一瞬警戒する。さすがに正体に勘づくとは思わないが、怪しまれるのは間違いない。
「聖域でお年寄りに囲まれて育った人なの?」
「お年寄りに?」
「そう」
メリッサが大きく頷く。
「む……当たらずと言えど遠からず、だな」
「そっか、それなら納得。あたしの友達でも、おじいちゃん、おばあちゃんと暮らしてる子なんて、普通にお年寄り言葉使うもん。やっぱりみんなそうなっちゃうんだね」
メリッサは愉快そうに笑った。
セージの心は複雑だ。まさか、自分がそのお年寄り筆頭だとは、口が裂けても言えない。
「さて、セージくん。本題に入ろうか」
ひとしきり笑ったメリッサは、椅子に座り直してセージを正面から見据えた。
「ありがとうございます」
メリッサが受け取ろうとした瞬間、その手より早くセージが袋を取った。自然で当たり前の動作のように片手に提げ、軽くうなずいてみせる。
「……セージくん、ありがとう」
思わず動きを止めたメリッサが小さな声で礼を言うと、彼は『気にするな』とでも言いたげに歩き出した。
モールの外では、夏の名残りの光がアスファルトに反射し、通りの建物や歩行者を柔らかく包む。小さなカフェや雑貨店の軒先から漂う香りが、買い物の余韻に色を添える。
「ふふ、やっぱり青にしてよかった!」
嬉しそうに笑うメリッサを横目に、セージは袋をしっかりと持ち直し、静かに言葉を添えた。
「よく似合っていた」
返す言葉は短くとも、胸の奥のざわめきは、先ほど鏡の前での彼女の仕草を思い出すたびに大きくなる。
「セージくんの好みに合ってた?どういう服装の女の子が好きなの?」
軽い問いかけに、メリッサは楽しそうに横目で彼を見上げる。
「服の好みはあるが……本人が良いと思うものを着れば良いのではないか?」
彼の声は落ち着いているが、その眼差しは、自然に彼女の細やかな仕草や笑顔を追っていた。
「ふーん、なるほど。でも、試着の時、綺麗って言ってくれたよね」
「そう思った」
「えへへ、嬉しかったよ」
メリッサの声は弾んで、肩の力が抜けているようだった。
けれど、無邪気な笑顔の裏で、彼女の胸は少しばかり緊張していた。まだ誰かに気づかれると不安になる癖――過去の影は、微かに今も残っているのだ。
通りの向こうから、子供たちのはしゃぐ声や自転車のベルの音が届く。夏の午後特有の空気の熱気に混じって、街は穏やかに、しかし確かに生きている。
「あたしね、夏が好きなんだ。暑いのは大変だけど、なんか、太陽からエネルギーを貰える感じ。セージくんは?」
メリッサは軽く首を傾げ、陽射しに映える髪をかき上げる。
「嫌いではない。光も、風も、悪くはない」
言葉は淡白だが、内心では、メリッサとこうして歩く時間が、何よりも心地よいと感じていた。
「じゃあ、今日は良い日だね!」
無邪気に笑いながら、メリッサは前を歩く。セージは少し距離を置き、彼女の背中を追うように歩いた。街のざわめきの中で、二人の時間だけが、柔らかく、静かに流れていた。
通りの角にある小さな噴水の前で、メリッサは立ち止まった。水面に映る光が小さくきらめき、微かに涼しさを運んでくる。
「ねえ、ちょっと休もうよ」
笑顔で振り返るメリッサに、セージは頷いた。
彼女の体調や疲れを気遣うと同時に、単純に、この瞬間をもう少し長く共有したいと思ったのだ。
二人は噴水の縁に腰を下ろす。メリッサは無邪気に手を伸ばし、水面に指を触れて小さく波紋を作る。
「水って、見ているだけで涼しくなるね」
その声には、軽やかな響きがあり、街の喧騒を一瞬だけ遠くに感じさせるようだった。
セージは、そんな彼女の指先に目を落とす。細やかに震える手の動きに、過去の影を隠すかのような慎重さを感じる。無邪気な表情の裏で、心の奥底にまだ恐怖や警戒が潜んでいる――それに気づいた瞬間、胸の奥が締め付けられた。
「……メリッサ、大丈夫か?」
自然に口を開いた言葉に、彼の心の揺らぎが滲む。無邪気な笑顔に隠された微かな緊張を、無意識に察してしまったのだ。
「え?あ、うん、大丈夫だよ」
メリッサはぱっと目を輝かせ、笑顔で返す。しかしその笑顔の端に、わずかに息を整える仕草が見える。無理をして明るく振る舞っていることを、セージは気づかないわけにはいかなかった。
噴水の水音、遠くで響く子供たちの声、路地を通り抜ける風――日常の光景の中に、彼女の小さな不安と、それを包み込むような明るさが混ざる。セージはその場に座り、静かに彼女を見守る。
「……セージくん、なんでそんな難しい顔してるの?」
メリッサは無邪気に首を傾げる。
「いや…何でもない」
答えは淡白だ。しかし心の中では、彼女の無邪気さと過去の影とのギャップに、深く考え込まずにはいられなかった。
「じゃあ、そろそろ行こうか」
メリッサは相変わらず鮮やかな笑顔を見せる。セージは軽く頷き、立ち上がる。噴水の水面が光を反射して揺れ、二人の影を少しだけ伸ばしていた。
二人は再び歩き出す。街のざわめきの中、彼女の明るさに、セージの心は少しずつ引き寄せられていく――その揺らぎを、自分自身でもまだ整理できないままだった。
夕方に差し掛かり、街の光はやや柔らかく、影が長く伸び始めていた。夏の余韻を残す空気が、通りを淡く赤く染める。メリッサは軽やかな足取りで楽しそうに歩いているが、時折小さく息を整える仕草が見える。まだ無理をしているのだと、セージは気づいた。
「港町までは一本道だから、迷う心配はないな」
セージは軽く声をかけ、彼女の隣を歩く。足取りは落ち着いているが、目は時折メリッサの表情に向けられ、微かな不安の影を探すように見ていた。
「うん、ありがと。セージくんと一緒だから、安心だよ」
明るく微笑む彼女の声に、セージは心を少し緩める。しかし、その笑顔の裏で息をひそめる小さな緊張も感じ取れる。
街道沿いのカフェや小さな雑貨店が夕陽に照らされ、ガラス窓に光が反射して輝く。通りの向こうには、海からの風に揺れる樹木の影。港町に近づくにつれ、潮の香りが混ざり、夏の終わりをほのかに感じさせた。
「今日は、楽しかった。ありがとうね」
メリッサがふと小声で言う。その声には、無邪気な明るさの中に、微かに緊張を解く安堵も含まれていた。
「うむ、私も楽しめた」
セージは柔らかく返す。無邪気に見えるその背中に、過去の影がちらりと感じられることも、今の彼には守るべきものだと静かに思わせた。
港町の入口に差し掛かる。人々の往来が減り、街の明かりが早くも灯り始めている。セージは立ち止まり、メリッサを見下ろすように目を合わせた。
「ここまでだ」
短く告げる声に、メリッサは少し名残惜しそうに肩をすくめる。
「うん、ありがとう。セージくん、気をつけて帰ってね」
彼女の笑顔はいつもの明るさだが、目元にほんの少し疲れの影がある。セージはそれを見逃さず、胸の奥が切なさで熱を帯びるのを感じた。
「ああ。そなたも無理はするな。また……会おう」
静かに告げメリッサの洋服が入った紙袋を差し出す。メリッサは軽く頷きながら袋を受け取った。一瞬、二人の手が触れ合った。
「……ありがとう、セージくん」
彼女は照れくさそうに微笑み、そっと手を振る。
セージも手を上げ、メリッサを見送る。夏の夕陽が、二人の影を長く引き延ばし、街道に淡い光の線を描いていた。
メリッサがゆっくりと町へ入っていくのを確認した後、セージは小さく息を吐き、背すじを正した。彼女の明るさの裏にある影、そして自分の守るべきもの――その思いを胸に、静かに港町を後にした。
港町の喧騒が遠く後ろに消えた頃、セージは聖域教皇宮の石造りの広間に戻っていた。日差しは既に傾き、柔らかな夕光が高い窓から差し込み、室内の古い書棚や執務机の面に淡い光の帯を落としている。
セージは静かに私服を脱ぎ、整然とした法衣に着替え、教皇シオンへ戻る。いつもの威厳を取り戻した姿だが、心の奥底には港町で見たメリッサの笑顔と、無理をして明るく振る舞う様子がちらつき、どこか落ち着かない。
執務机に向かうと、今日のために持参した書簡がひとつ、机の端に置かれているのに気づいた。封を切られぬまま、白く凛とした紙面が静かに彼を見つめていた。
――次こそは……
そう呟く自分の声に、胸の奥がざわつく。書簡は、薬師の島へ黄金聖闘士を派遣するための正式な依頼状だ。教皇権限を発動すれば事は簡単に進む。しかし、メリッサの母親が精神科病院に入院していることを思うと、その手紙を今手渡すのは、どうしても躊躇われる。
机に肘をつき、顎に手を当て、シオンはしばし考え込む。目の前の白い紙は、理性では動かぬ時間の重みを示し、しかし心はそれに抗おうとする。
もし別の策があれば……
他に良い方法があれば、メリッサの笑顔を曇らせずに済むのに。だが現状では、先延ばしにすることも、案件の本質を変えることもできない。
窓外に目をやると、遠く山の稜線に夕陽が沈みかけている。光は橙色から淡い紫へと移ろい、宮殿の石壁に影を落とす。シオンはその移ろいに、時間の残酷さと、決断の重さを静かに感じた。
心の奥で揺れる迷いを、シオンは胸の内に封じ込め、再び書簡を見つめる。渡すか持ち越すか――選択は明白だ。しかし、目の前にあの快活さの裏に深い傷を抱えるメリッサを思い浮かべると、どうしても手が止まる。
「……次は、必ず……」
シオンは自分に言い聞かせるように、白い紙に視線を落とした。窓の外の光が、机上の封筒の白さをさらに際立たせ、静かに、しかし確かに時間の経過を告げていた。
翌朝。港町の市場は、夜明けの潮風をまだ色濃く残していた。魚を並べる木箱の匂い、青い帆布の日除けの下に並ぶ果物の甘やかな色彩、荷を担ぐ男たちの掛け声が混じり合い、雑多でどこか牧歌的なざわめきをつくり出している。
そんな喧噪の中で、メリッサは名を呼ばれた。
「おう、メリッサ!」
振り向けば、市場長の大きな手がひらひらと揺れていた。
「あ、おじさん。おはようございます」
屈託のない笑顔を浮かべながら歩み寄ると、彼は手にしていたタオルで汗を拭い、ふっと声を落とした。
「母さんの具合はどうだった?」
その問いは、彼がいつも口にする決まり文句のようでありながら、どこか胸の奥を刺す。
「変わりなかったです」
「そうか。少しでも良くなってくれりゃいいけどな」
笑ってみせる市場長の歯は白く、力強い。だがその笑みの奥に、彼だけが抱えている哀しみの影が確かに潜んでいるのを、メリッサは感じ取っていた。
「いつも気にかけていただいて、ありがとうございます」
「いや、昔、お前の父さんから、万が一自分に何かあったら家族を頼むって言われていたしな」
それだけではないことを、彼女は知っている。
若い頃、彼は母を巡って父と争った。選ばれなかったほうの男の眼差しは、時を経てもなお澄み切らぬ翳を宿している。
母は今、病に心を囚われている。けれどその姿にさえ、退廃的な美しさが漂うことを、娘である自分が一番よく知っていた。
「そういや、昨日セージがお前に会いに来たぞ」
「え、セージくんが?」
「ああ。お前に会いたかったみたいだけどな」
「それ、何時頃の話ですか?」
問いかける声がわずかに硬くなるのを、自分でも制御できなかった。市場長は空を睨み、手を腰に当て記憶を探る。
「ありゃあ、確か10時過ぎだな。何でだ?」
「……いえ、あたしその時間帯にアテネでセージくんに似た人見かけたから…で、でも、見間違えですね。こっちにその時間いたなら、アテネで見かけるはずないし。えへへ」
声が裏返る。ごまかすために笑った。だが笑顔は引き攣り、胸の奥では冷たい違和感がじわじわと広がっていく。
おかしい。どう考えてもおかしい。
10時過ぎに市場長はこの町でセージに会っている。
メリッサが彼と言葉を交わしカフェに入ったのは11時前、アテネでだった。
港町からアテネまでは、どれほど急いでも1時間以上かかる。車を使ったとしても、平日の道路だ。高速道路のように突っ走れるはずもない。
なのに――確かに、彼はそこにいた。
市場とアテネ、その両方に。
メリッサの胸の奥に、言葉にならないざわめきが渦を巻く。
「メリッサ……お前、もしかしてあいつのことが気になるのか?そうなんだな?」
「へ……?」
市場長がずい、と体ごと迫ってきた。威圧感のある大柄な体躯に、日々の労働で鍛えられた腕。その影が差し掛かるだけで、ぎくりと心臓が痛む。
「どうしてそんな話に…?」
無意識に一歩さがった自分に気づき、メリッサは咄嗟に微笑みを作った。頬が引き攣る。笑顔という薄い仮面を必死に貼りつける。
「だって、そうだろ。あいつに似た奴を無意識に探してたんじゃないのか?あれだけの男は滅多にいないだろうに」
市場長の声は悪気のない響きをもっていた。けれど、その無遠慮な言葉は、メリッサの胸の奥の繊細な部分を容赦なく逆撫でてくる。
「まぁ、確かに、滅多にはいないでしょうけどね」
努めて軽やかに言葉を返した。けれど、自分でもわかっている。その声音がどこか上ずっていることを。
「うん、うん。良いじゃないか。ちょいと変わり者だが、あいつは真面目で良い奴だ。市場でも評判が良くてな、特にかみさん連中には頗る人気があるんだぞ」
市場長の豪快な笑いが、活気ある午後の市場の喧噪に溶け込む。魚をさばく包丁の音、果物を売る声、子供の笑い声。それらのざわめきが一層鮮やかに響いてくるほど、メリッサの心は逆に静まり返っていった。
――分かる気がする。
セージは美形だ。淡く緑がかった金髪に菫色の瞳。長身で手足の均整も美しい。服の上からでもわかる、しなやかな筋肉。品のある所作、控えめな声の調子。誰もが彼を好意的に見るのは当然だろう。
けれど。
メリッサの胸を占めるのは“美しい”や“評判が良い”といった形容ではなかった。
彼と接するとき、自分は確かに緊張が少ない。あの日以来、異性と向き合うときに必ず生まれる、喉を締めつけるような不安が、彼にだけは薄いのだ。それは安堵と同時に、不気味でもあった。
心は、すぐに問いかけてくる。
――どうして、彼の前では怖くないの?気になるというのは、つまりそういうことなの?
答えはまだ、霧の中にある。メリッサはただ曖昧な笑みを市場長へ向けた。
「それで、セージくん、何の用事なのか言ってましたか?」
市場長の声は朗らかで大きい。耳に届く度に、通りの空気が一瞬、震えるように揺れる。メリッサは視線を下げ、胸の奥で小さな違和感を抱えながら笑みを作 っていた。
「いや?だけど、何か封筒持ってたぞ。真っ白の。お前にラブレター渡すつもりだったのかもな!はははは!」
笑い声が、魚の匂いと混じり合い、湿った空気に溶けて広がる。口元の笑みは自然に見えるが、内心では、セージのことを軽々しく語られる不快さが、じんわりと胸を締め付ける。
「ま、近い内にまた顔を出すだろうさ。もしも交際を申し込まれたら受けておけよ。あいつなら大丈夫だ」
市場長の豪快な声は、木箱や石畳に反響し、目の前の景色がわずかに揺れたように見えた。けれど、メリッサの視界にはその景色の奥で、心の奥底に残る微かな緊張がちらちらと光って見える。セージに対する安堵と、彼女自身の恐怖の境界が、まだぼやけている。
「はは……そうなったら、前向きに検討します」
言葉は軽やかに、笑顔と共に吐き出す。だが息を吸い込むと、胸の奥に残った小さな緊張が、ほんの少しだけ、呼吸に触れる。
「応援してるぞ!じゃあな!」
市場長の背中が、日差しに透ける帆布や荷車の影に溶けて遠ざかる。魚の匂い、石畳に反射する光、子供の声――ざわめきは変わらず、市場全体がいつもの息遣いを取り戻す。
やれやれ、めんどくさい。人のことなど、ほっといてほしい。セージ君も、こんな騒動に巻き込まれて気の毒だ。
メリッサは小さくため息をついた。
翌日、港町の市場はいつもより人通りが少なかった。夏の終わりを思わせる日差しが石畳に反射して白く眩しく、空気には海塩の匂いが濃く漂っていた。
メリッサは籠を抱えて市場を歩いていたが、ふと視線を前方にやると、通りの先に見慣れた背の高い人影を見つけた。
――セージ。
白いリネンのシャツ、足元にはキャンバス地のスニーカー。普通の若者の穏やかな休日の服装だが、その雰囲気は町に紛れていてもどこか際立っていた。姿勢よく歩く姿一つで、人目を引いてしまうのだ。
「……やっぱり来たんだ」
思わず零れたメリッサの言葉に、セージは彼女を見つけ、微かに目元を和らげた。
しばし挨拶を交わした後、二人は市場から少し離れた石段へと歩いていった。街の喧騒が遠ざかり、潮騒だけが近くにある。
木陰には薄紫の花が群れて咲き、風に揺れては淡い香りを漂わせていた。
セージはその石段に腰を下ろし、視線を遠い水平線へ向ける。メリッサも隣に座ったが、胸の奥に引っかかっていた問いがどうしても口から漏れてしまった。
「ねえ、セージくん」
「……ん?」
「昨日ね、市場長と会ったでしょ。午前10時過ぎに」
セージの横顔がわずかに強張る。
メリッサは彼の視線を探るように覗き込みながら続けた。
「なのに、あたし達は同じ時間帯にアテネで会った。……どういうこと?」
風が止まり、波音だけが石段を叩いた。
問い詰めるというより、ただ目の前の不可解さを確かめたい。そんな声音だった。それがかえって、セージの心に鋭く響いた。
しばらくの沈黙。
やがて、セージは遠くの海へ視線を戻したまま、低く静かに口を開いた。
「……メリッサ。そなたは、私がただの一市民だと、本気で思っていたのか?」
彼の声に、メリッサの胸が一瞬跳ねた。
疑っていたはずなのに、心のどこかで「普通の人であってほしい」と願っていた自分に気づき、唇を噛む。そして、潮風に混じるように自然な調子で、彼女は問いを投げた。
「……じゃあ、セージくんって、ほんとは何者なの?」
メリッサの問いは、どこか潮風と同じように自然だった。問い詰めるでもなく、ただそこに漂うように口をついて出た言葉だった。
しばらく沈黙が流れた。
波の音が、足元の石段に当たっては砕け、また戻っていく。その音が三度目を数えたところで、セージは静かに答えた。
「私は……聖域の者だ」
風が止まり、時間が一瞬だけ凍りついたようだった。
「……やっぱり」
メリッサはそう言って、苦笑した。
「うすうす、そんな気がしてた。なんか、普通じゃないもん。言葉遣いもそうだし、話すことも、所作とかさ……全部、あたしなんかとは違う。不思議な力、あるんでしょ。この町とアテネを短時間で行き来できちゃうような」
その率直さが眩しかった。
セージは口元に笑みを浮かべた。自嘲にも似たそれは、どこか憂いを含んでいた。
「で、聖域の人があたしに近づいてきた理由は、島…で良いんだよね?」
それはまっすぐな問いだった。
セージは、はっきりと頷いた。
「そうだ。私は……かつて聖域と深い縁のあったその島に、どうしても知りたいことがある」
セージは肩に掛けたボディバッグの中から一通の書簡を取り出し、メリッサへ差し出した。
「依頼状だ」
メリッサは純白の封書を一瞥すると、黙ったまま海の向こうを見つめていた。
潮風が二人の間を通り過ぎる。セージの白いシャツの裾がはためき、彼女の髪がやわらかく舞い上がった。
――いつかは向き合わなくてはいけなかったのは知っていた。島とも、聖域とも。
「……わかった」
しばらくの沈黙の後、メリッサは何かを決断したように頷いた。セージが差し出したままの封書を受け取った。
「今からうちに来れる?手続きの説明するから」
メリッサの家は、港から高台へ向かう長い坂道の中腹にあった。
白漆喰の壁に茶色い瓦屋根の、この辺りではごく一般的な佇まいの一軒家だった。家族四人で暮らしていた頃は、丁度よい広さだったのだろう。
今は、メリッサ一人がここに住んでいる。
リビングへ通された。
家族四人で囲んでいただろうダイニングテーブルは、椅子が一脚あるだけだ。残り三脚はリビングの隅に重ねて置かれている。
「一人で暮らしていて不安や寂しさはないのか?」
若い娘の家にしては、随分シンプルな印象だ。
「うーん、初めはそう思ったけど、もう慣れたよ」
メリッサは重ねられていた椅子を一脚、運んできた。固く絞った濡れ布巾で丁寧に埃を拭う姿はテキパキとしていて、彼女が働き者なのだと示していた。
「あたしのこと、心配してくれてるの?」
「普通は心配するものではないのか?そなたのような若い娘が一人暮らしなど……」
「……なんか、セージくんて、おじいちゃんみたい」
メリッサがぽかんとした顔で言うので、セージはそれ以上、何も言えなくなってしまった。
おじいちゃんみたい……少なからずその言葉に衝撃を受けた。
そうだ。今、自分は18歳なのだ。よくよく言葉には気をつけなければ。
「もしかしてセージくんてさ……」
何かを探るようなメリッサの表情や口調に、一瞬警戒する。さすがに正体に勘づくとは思わないが、怪しまれるのは間違いない。
「聖域でお年寄りに囲まれて育った人なの?」
「お年寄りに?」
「そう」
メリッサが大きく頷く。
「む……当たらずと言えど遠からず、だな」
「そっか、それなら納得。あたしの友達でも、おじいちゃん、おばあちゃんと暮らしてる子なんて、普通にお年寄り言葉使うもん。やっぱりみんなそうなっちゃうんだね」
メリッサは愉快そうに笑った。
セージの心は複雑だ。まさか、自分がそのお年寄り筆頭だとは、口が裂けても言えない。
「さて、セージくん。本題に入ろうか」
ひとしきり笑ったメリッサは、椅子に座り直してセージを正面から見据えた。
