Eine Kleine
夏の終わりが、風の温度に混じっていた。
港の朝市はもう佳境を過ぎ、魚を捌く包丁の音と、果物を並べるざわめきが混ざり合っている。潮の香りの向こうに、秋の気配がかすかに忍び込んでいた。
セージは、一つ深く息を吐き、ゆっくりと市場の入り口をくぐった。手には一通の書簡。小さな封筒の重みが、なぜか指先を鈍らせている。歩幅は自然と小さくなり、足取りはやや重たかった。
「おや、セージじゃないか」
声をかけられ、振り向くと市場長が立っていた。日に焼けた額は汗に濡れ、薄く残る髪をヨレヨレのタオルで拭っている。その素朴な笑みに、セージも小さく頭を下げた。
「こんにちは」
以前なら言葉一つにぎこちなさが滲んだものだが、今は少しだけ違う。メリッサと交わした幾度もの会話が、彼に“若者”としての振る舞いを教えてくれていた。
「メリッサなら今日はいないぞ」
「え……?」
その一言に、胸の奥が小さく沈む。
「用事があってな。朝からアテネに出かけてる。夕方までは戻らんだろうよ。なんだ、お前、知らなかったのか?」
「ええ、知りませんでした……」
どうしたものか、とセージは内心で逡巡した。
この書簡は、薬師の島へ黄金聖闘士を派遣する件に関わるものだ。教皇の権限をもって命じることもできる。だが、それだけは避けたかった。彼女を苦しめてきた聖域の影を思い出させるような、強引なやり方はしたくない。
「残念だったな。会いたかったんだろ?」
「ええ、用があったので……」
市場長は顎に手をやり、何やら値踏みするようにセージを見つめた。
「しかしな……あの子は、お前みたいな男前にでも靡かないぞ」
「は……?」
不意を突かれ、菫色の瞳が大きく見開かれる。
「いや、私はそのような気持ちでは……」
慌てて否定する前に、がはは、と豪快な笑い声が響いた。市場長は豪放にセージの肩を叩く。潮風に混じって、魚の匂いと笑い声が弾ける。
「何を照れる!メリッサはあれだけの器量良しだ。大抵の男は放っておかん。実際、あいつを気にしてる男は多いし、観光客なんかにもしょっちゅう声をかけられてるぞ」
その言葉に、セージの眉間がきゅっと寄る。
「そうなのですか……知りませんでした」
「まぁな。だが、あの子を振り向かせるには骨が折れるだろう。精々頑張れ」
「ですから、私は……」
静かに否定を重ねても、市場長はすでににやにや笑いで聞き流していた。
「……まぁ、そういうことにしておいてやるさ」
その一言で会話は切り上げられる。
「とにかく、メリッサは今日は不在だ。また後日、出直してくれ」
「はい。承知しました。ありがとうございました」
セージは礼を尽くして会釈した。
陽はすでに高く、午前10時の光が石畳を眩しく照らしている。港を離れる背に、まだ人いきれと潮の匂いが絡みついていた。
彼は封筒を握り直し、深い吐息とともに歩を進める。足元に落ちた影は、思ったよりも長く、まだ揺らめいていた。
町の喧騒が遠のくと、途端に風の音が大きくなる。石畳の細い道は人影もなく、蝉の声だけが昼を告げていた。セージは立ち止まり、静かに目を閉じた。
意識を遠くへと伸ばす。アテネの雑踏の中――。
ふいに触れたのは、かすかな揺らぎ。聖戦を越え、今は一般人として暮らす彼女の小宇宙。それはもっと探しにくいはずだった。だが、思いのほか容易に見つかってしまった。
「これか……」
低く呟き、顎を撫でる。
「ふむ……存外、簡単に見つかったな」
次の瞬間、彼の姿は通りから掻き消え、アテネ市内の細い路地に現れた。
メリッサは街の大通りを歩いていた。夏の光が白く反射し、人々の話し声と車のクラクションが入り混じる。
その道を、影がふいに塞ぐ。
「ねぇねぇ、君、美人だね。一人?」
軽薄な声。若い男が前に立ちはだかり、にやけながら進路を塞ぐ。
メリッサは瞬き一つで相手を見返し、すぐに視線を逸らした。
「一人なんでしょ?今日はこんなにいい天気なんだし、折角だから俺と遊びに行かない?」
「……すみません。いきなり声をかけてきた人と遊びに行くような感性は持っていませんから」
努めて淡々と、視線を逸らす。そのまま通り過ぎようとした――腕を掴まれる。
「……っ!」
息が喉に詰まり、全身が硬直する。
心臓が耳の奥で鳴り、視界が急に狭まっていく。
二年前の記憶が、不意に甦る。
『メリッサちゃん…つーかまえたぁ』
耳元で囁かれた声。複数の影、押さえつけられた腕、動けない身体、下卑た笑い声――。
脇や背中に嫌な汗が滲む。血の気が引いていくのが自分でも分かった。胸の奥に、2年前の記憶の残滓がざわめき始める。
男はそれに気づかず、執拗に食い下がった。
「じゃあ、お茶でもどう?そこのカフェ。奢るよ」
「いや!離して!!」
掴まれた手を振り払う。だが、その拒絶は、相手の苛立ちを煽るだけだった。
「なんだ、この女……?ちょっと可愛い顔してるからってお高く止まりやがって」
声の調子が低く変わり、冷たい圧が空気を覆う。
「こっち来いよ」
再び手首を掴まれ、今度は力任せに引き寄せられる。
――やだ、やだ!助けて!誰か……!
雑踏の中なのに、世界が無音になる。喉は凍りついたようで声が出ない。
「失礼、私の連れに何か用でも?」
凛とした声が、その恐怖を断ち切った。
振り向けば、長い金髪を一つに束ねた青年が立っていた。菫色の瞳が冷たく光り、静かに男を睨みつける。
「セージくん!?」
驚きに声を上げるメリッサの傍らで、男は苛立たしげに舌打ちした。
「ちっ!男連れかよ!」
掴んでいた手首を乱暴に振り捨てると、男は足早に人波へ紛れていった。
残された静けさのなかで、メリッサは大きく息を吐き、かすかに震える声で言った。
「……良かった。ありがとう、セージくん。助かった……」
「いや。それより、怪我はないか?」
掴まれた手首を擦る仕草に、菫色の瞳が深い憂いを宿す。
「あ、うん……大丈夫」
声は小さく、それでも微笑んだ。
「ならば良い」
安堵の笑みを見せる彼を見た瞬間、メリッサの胸が大きく跳ねた。恐怖の余韻と安堵が入り混じり、身体の奥から熱がこみ上げる。
「と、ところで、セージくんはこんな所で何してたの?買物?」
声が裏返り、自分でも戸惑う。だが、話題を変えたくて仕方なかった。動揺を悟られたくなかった。
「……まあ、そんなところだ。探し物をしていた」
「探し物?見つかった?」
「ああ。見つかった」
「そう。よかったね」
彼女の笑顔は、さっきまでの恐怖を微塵も感じさせなかった。その眩しさに、セージは一瞬、言葉を失う。
「手遅れになる前に見つかって良かった」
「それ、売り切れ寸前だったの?」
思わず吹き出しそうになり、彼は小さく笑った。
「まあ……売り切れにはならなかっただろうが、早く見つけておくに越したことはない。メリッサは、どうしてアテネに?」
一瞬、彼女の表情が翳った。だが、すぐに明るさを取り戻す。
「入院中の母親に会いに来たの」
「ご病気だったのか……」
「うん」
それきり彼女は黙り、二人は並んで歩いた。雑踏の中をすり抜けるその沈黙は、重たくも、どこか心地よかった。
「あの病院。じゃ、あたしはここで」
白い建物を前に足を止める。セージは即座に言った。
「待っていても良いか?」
「どうして?」
首を傾げる彼女に、彼は真顔で答えた。
「また、先ほどのような不心得者に遭遇しないとも限らぬ」
「ぷっ……不心得者って。まぁ、確かにね」
笑いが零れる。彼の言葉の古風さが、妙におかしい。
「じゃあ、セージくんは心得者だろうから、待ってても良いよ。そこにカフェがあるから、あそこで待ってて。終わったら行くから」
メリッサが指さした先には、どこにでもあるチェーン店の看板が、真昼の光を白く照り返していた。ランチタイムにはまだ早い。店のガラス越しに見える店内には、ちらほらと客の背中が見えるだけだった。
「分かった。では、そこで待っている」
「うん。じゃあ、また後でね」
笑顔で手を振ったメリッサの背が病院へ吸い込まれていく。入口に掲げられた“精神科”の文字を目にした瞬間、セージの胸に小さな棘が刺さった。何も言わない。ただ、その背中が扉の向こうに消えるまで見送った。
セージがカフェに足を踏み入れると、空気がざわめいた。
高貴な風貌と威厳に満ちた気配――その場に似つかわしくない青年の出現に、店内の視線が一斉に彼へ集まる。
制服姿のアルバイト店員は、慄いたように背筋を伸ばし、たどたどしく声を発した。
「お、お席へご案内いたします……」
「人と待ち合わせをしている。二人用の席があればそちらを頼みたいのだが」
「はい、かしこまりました」
案内されたのはテラス席だった。目の前の通りを挟んで、病院の出入口が真正面に見える。ここならすぐに彼女を見つけられるだろう。
「ありがとう」
セージは簡潔に礼を述べ、ブラックコーヒーを頼んだ。
カップが届くまでの間、彼はただ空を仰いだ。青はどこまでも深く、そこに白い雲が浮かんでいる。陽光を弾くその輪郭は眩しすぎて、眼を細めるしかなかった。
メリッサの母がこの病院にいる理由を、セージは知っていた。聖域に端を発する影――その影が、彼女の日常をいまだ覆っていることも。
時がゆっくりと過ぎていった。やがて、病院の自動扉が開き、彼女が小走りで出てくるのが見えた。
向こうもこちらに気づいたらしい。道路の向こう側で、ぴょんぴょんと跳ねながら大きく手を振る。その動作が子供のようで、セージは思わず口元を和らげる。軽く片手を挙げると、彼女はぱっと花が咲いたような笑顔を見せ、テラス席へ駆け寄ってきた。
「セージくん、お待たせ!入口から回ってくるからちょっと待っててね!」
身軽な脚さばきで入口へ走っていく姿は、風を切るようにしなやかで、どこか凛々しかった。セージはその後ろ姿を目で追っていたことに気づかずにいた。
やがて彼女は駆け戻り、少し息を弾ませながら席に腰を下ろした。
「ごめんね、だいぶ待たせちゃった」
「いや、構わぬ。御母堂のご体調はいかがだった?」
「ん?ごぼう……?」
聞き慣れぬ言葉に首を傾げ、すぐに意図を察して笑顔を返す。
「ああ!うん、良くも悪くも変わらないって言われた」
「そうか……」
短い応答の後に訪れた沈黙は、柔らかい風にさらわれていった。
届いたアイスティーをメリッサが一気に飲み干す。その喉の動きを、セージは黙って見守った。
彼女の言葉の裏に、どれほどの重さが隠されているのか――自分には何ひとつ分からない。ただ、雲間から差し込む光が二人の間に落ちて、その瞬間だけ、静かに時が止まっているように感じられた。
カフェのテラス席に座っているセージとメリッサ。まだ午前の光は柔らかく、太陽は高く昇りきる前の、緩く温かい空気を運んでいた。街路を行き交う人々の足音、遠くで響くバイクの排気音、店内に漂うコーヒーの香り。それらが、穏やかなざわめきとなって午後前の時間を満たす。
メリッサは笑顔で、テーブルに置かれた二杯目のアイスティーをかき混ぜる。ひとつ、またひとつと氷がカラン、と音を立てるたび、柔らかく反射する日差しが彼女の栗色の髪で揺れる。表情は無邪気で、声も明るく、まるでさっきのトラブルなど、なかったかのように弾んでいる。
けれど、セージの心は、そこに座る彼女の光の奥に影を見つけてしまう。
母親が入院していること。しかもその原因の一端が、自らの属する聖域にあること。責任の重さ。
――今日、彼女にこの書簡を渡すべきか、あるいは延期するべきか。
胸の奥で、小さな葛藤がざわめいていた。
書簡は聖域の紋章が入った正式な封書で準備してある。だが、その存在を思うたび、心に鈍い痛みが走る。今、メリッサの無邪気な笑顔の前で、差し出すべきものではない。
彼女の手元を見つめる。笑顔の端に、ささやかな緊張が滲んでいるのが、かえって心を締め付ける。小さな肩の動き、指先の軽い震え。それは、先刻アテネの路地で見せた恐怖の残響のようでもあった。だが、メリッサは何事もなかったかのように振る舞い、楽しげに会話を続けている。
「セージくん、あのね、この前市場で見かけた魚、めっちゃ大きかったんだよ!あんなの、どうやって持って帰るんだろう、って思ってさ」
これくらい、と身振り手振りを交え喋る明るい声に、セージはわずかに息を呑む。こんなに無邪気で、朗らかな人間が、過去の痛みを抱えながら日常を生きている。彼女の笑顔に、罪悪感と敬慕が混じり、胸の奥で静かな嵐を巻き起こす。
テーブルの向こうで、氷の音が小さく響く。セージは、深く息を吸い込むと、書簡の入ったボディバッグを指先でそっと撫でる。言葉を選ぶようにゆっくりと視線をメリッサに戻す。
「そうか……それは見たかったな」
声は低く、抑えられた温度を帯びる。返答の明るさに合わせて微笑む彼女の姿を見ながら、セージは思う。今日この書簡を渡すのは、彼女の明るさの上に、過去の影を重ねてしまうことになる。まだ早いかもしれない。だから、ただ一緒に座り、日差しと街のざわめきに身を委ねる。それだけで十分だと、心のどこかで言い聞かせながら。
「セージくんそろそろお昼だけど、何か食べる?」
メニュー表を手に取ったメリッサが笑顔で尋ねる。
日差しに照らされたカフェのテラスには、午前の穏やかな空気がそのまま残っている。風に混ざって、コーヒーやパンの香りがふわりと漂い、街路を行き交う人々の足音や遠くの車の音が、やさしいリズムを作っていた。
「そうだな……」
セージはメニューを眺めながら、指先でページをなぞる。羊肉の料理を見て、眉をひそめた。
「羊肉は……あまり得意ではないのだ」
「そうなんだ。じゃあ、別のにしよっか」
メリッサはすぐに明るく提案する。彼女の声には、先刻までの母親の面会の影はなく、ただ好奇心と楽しさが混ざった軽やかさがあった。
「うむ。魚か、野菜の料理にしよう」
セージは少しだけ微笑む。その微笑みは控えめで、あくまで自然に、だが同時に心を通わせる温度を帯びていた。
二人が注文を決める間、メリッサは目を輝かせて街路の風景を眺める。青い空、白い雲、テラスの手すりに絡まる緑の蔦。通り過ぎる人々の会話や笑い声も、彼女の楽しげな視線に映えて、些細な光景さえ生き生きとして見えた。
注文が済むと、二人はしばし沈黙のまま、テラスの空気と向き合う。メリッサは無邪気に指先でグラスの表面で結露した水滴を触りながら、時折、中の氷をカランと鳴らす。セージは、その音と日差しの揺れを、彼女の笑顔の向こう側にある強さと、過去の影を思い起こさせながら見つめていた。
やがて運ばれてきた料理は、ハーブの爽やかな香りが食欲を刺激するような白身魚のグリルだった。
「セージくん、これ、美味しそうだね。ちょっと分けっこしようか?」
メリッサが笑顔で提案する。
セージは一瞬、ためらった。料理のシェアをするほどには気安くない自分たちだ。だが、彼女の楽しそうな顔を見ると、心のどこかで肩の力を抜き、自然に笑みを返してしまう。小さな皿を受け取り、魚と野菜を口に運ぶ。
「良い味だ」
「ほんと!美味しいね!」
二人は顔を見合わせ笑った。
カフェの柔らかな空気の中で、二人は言葉少なに、しかし確かに存在を共有していた。メリッサの明るさに触れながらも、セージは心の奥で思い悩む。書簡をいつ渡すべきか。今はまだ、ただこの時間を共にすることが、互いにとって最も自然な距離の取り方なのだと、静かに理解しているから。
アイスティーの氷がカラン、と鳴るたび、互いの呼吸や心拍の微かな揺れが、目に見えぬ形で重なり合う。メリッサの無邪気な笑顔と、セージの抑えた逡巡。それは、まだ言葉にならないまま、柔らかなランチの時間の中に、静かに溶け込んでいった。
昼下がりの光が、窓辺に置かれた植木鉢の葉を透かして揺らしていた。
カフェの空気は、食後特有のゆるやかな沈黙と、カップを置く小さな音や隣の席の笑い声で満ちている。テーブルの上には、食べ終えた皿の余韻と、二人分の水滴が残るグラス。
その中で、伝票の白い紙片だけがやけに際立っていた。セージの指が、ためらいもなくそこへ伸びる。
「ここは私に払わせてくれ」
低く響く声は、彼のいつもの調子ながら、どこかきっぱりと線を引く響きを帯びている。
メリッサは慌てて身を乗り出した。
「待って、あたしが誘ったんだからあたしが払うよ」
メリッサの抵抗にセージは少し目元を緩めて、淡々と告げる。
「私が勝手に待っていただけだ」
彼の整った顔立ちが、わずかに影を帯びる。
「せめて割り勘に…」
メリッサの声はどこか必死さを帯びていて、セージから視線を逸らさない。
「気にするな」
その一言はあまりにも簡潔で、切り返しの余地を与えない。彼の静かな強情さに、メリッサは小さく唇を尖らせた。
「むぅ……じゃあ、次の時はあたしに払わせてね」
「――ああ。次回、な」
セージの目元がやわらいで、かすかな笑みが浮かぶ。メリッサはその表情に胸の奥をくすぐられ、慌てて視線を逸らした。窓の外を行き交う人々の色とりどりの服が、やけに鮮やかに映った。
テーブルの上の食器は既に片付けられ、そこには水のグラスだけが残っていた。けれど、二人のあいだには“次回”という言葉だけが確かな約束として置かれていた。
カフェを出ると、昼下がりの光が街路に溢れていた。蝉の声が絶え間なく降り注ぎ、石畳に映る影は鮮明で、夏の輪郭を際立たせている。
「じゃあ、あたし、買い物してくからここでさよならしよう」
メリッサが肩にかけた小さなバッグをぎゅっと握りながら言う。その表情は笑顔なのに、どこか影が差している。
「何を買う予定なのだ?」
セージが歩調を緩め、彼女の顔を覗き込むように尋ねる。
「お洋服。夏物が安くなってるから」
軽い口調。だが、視線はほんの一瞬だけ泳いですぐに前方へ戻る。
「私も付き合おう」
「え、時間かかるからいいよ」
メリッサは驚いて首をブンブン振った。
「荷物持ちくらいにはなるぞ」
セージの淡々とした言い回しに、ふっと緊張がほどけた。
「ふふっ…ありがと。それじゃあ、お願い」
笑顔が零れる。歩調を揃えて並ぶと、まるでそれが自然な約束事であるかのように、人の流れに紛れて歩き出した。
ショッピングモールの店舗には、夏の終わりを惜しむように鮮やかな色彩のワンピースやサンダルが並んでいる。店先から流れる冷気が、熱を孕んだ通りに小さなオアシスのような涼を作っていた。
「どれが似合うかなぁ」
メリッサが店内に足を踏み入れると、目がきらきらと輝き出す。ラックを指先がそっと辿り、ハンガーを取り上げると鮮やかな布地を光に透かす。
セージは一歩後ろに下がって見守りながらも、時折視線が彼女の横顔に吸い寄せられる。楽しそうに服を選ぶその姿に、言葉以上の安堵が胸の内に広がっていく。
普通の若者が過ごす午後。けれども、彼女にとってはそれが奇跡のように尊いひとときなのだ、とセージは気づいていた。
セール期間中のモール内は赤いポップがあちらこちらに揺れ、行き交う人々の笑い声と軽やかな音楽が混ざり合って、夏らしいざわめきを織り上げている。
メリッサはその喧騒の中で、足取り軽く動き回っていた。ハンガーにかけられたワンピースを一枚、また一枚と手に取り、胸の前に当ててはくるりと身をひねり、鏡に映す。スカートの裾を指先でつまんで揺らす仕草に、18歳の少女らしいあどけなさと華やぎがあった。
「これ、可愛いと思わない?」
鮮やかな向日葵色のブラウスを掲げて、小首を傾げる。セージは少し遅れて近寄り、その明るさに圧倒されるようにして口を開いた。
「……似合うだろうな」
声がわずかに掠れたのを、自分でも意外に思った。
メリッサはぱっと笑みを浮かべる。その笑顔は、モールの喧騒の中でも不思議に際立って見える。陽射しをすくい取ったような笑み――彼女の明るさには、こちらを素直に引き込んでしまう力があった。
次の瞬間、彼女はまた別のラックへと走り、爽やかな青のスカートを広げてみせた。
「ねえ、これも可愛いよね。白いブラウスと合わせたら夏っぽいかな」
セージは頷きながらも、心の内に不意のざわめきを覚える。
――これが、普通の若者の時間というものか。
神に仕える戦士として過ごしてきた日々の中で、こんな柔らかな色彩に満ちた時間を味わうことがあろうとは思わなかった。彼女の無邪気な振る舞いのひとつひとつが、まるで自分の内に眠っていた感情を掘り起こしていくようだ。
「セージくん、聞いてる?」
呼びかけに我に返ると、メリッサが不満そうに唇を尖らせていた。
「……すまぬ。考え事をしていた」
「もう、ちゃんと見てくれなきゃ」
笑いながら言って、メリッサは腕にいくつもの服を掛ける。その姿は、ただ買い物を楽しんでいる少女に過ぎない。けれど彼女の無邪気な明るさの奥に、どこか切なく胸を締めつける何かを感じるのは、セージの思い過ごしなのだろうか。
――惹かれ始めている。
自分の身分や立場とは裏腹に、彼女の笑顔に心を奪われつつあるのだと、セージははっきりと悟った。
小さな試着室のカーテンが、柔らかに揺れた。
次の瞬間、メリッサが外へと現れた。新しいワンピースの薄く柔らかな生地が、肩から体の曲線を包んで膝下まで落ちている。
「どうかな……サイズは丁度だけど」
不安げに首を傾げ、しかし目には淡い期待が光っている。18歳らしい、無邪気さと少しの照れが混ざった微笑みだ。
セージは、彼女が視界に入った瞬間、思わず息を飲んだ。
――こんなにも、自然に美しい姿を見せられていいのか。
彼女の笑顔の向こうに、普段見せない柔らかな視線が揺れ、光が栗色の髪の毛に反射するたびに、その色彩は一層鮮やかに輝いた。
「――綺麗だ」
声が自然に漏れた。冷静であろうとする自分の理性を、軽やかに突破してしまうほどの魅力だった。
メリッサは笑顔を弾けさせ、くるりと一回転してみせる。その仕草は、買い物を楽しむ少女の純粋な躍動そのものだ。けれどセージの視線の奥には、ただの楽しげな買い物以上のものが映っていた。
彼女の明るさの裏に、ほんの少しだけ、過去の影や無理を押し隠しているようなものを感じる。だからこそ、その笑顔はより愛おしく、守りたいと思わせる力を持っていた。
「どう?似合う?」
メリッサの声に、はっとして意識を引き戻す。セージは軽く頷き、口元にわずかに微笑みを浮かべた。
「とても良いと思う」
声に迷いはなく、しかし心は静かに揺れていた。
モールの午後の光が、二人の間を柔らかく包む。通路を行き交う人々の影と光が揺れる中で、二人だけの時間が永遠のように静かに流れていった。
港の朝市はもう佳境を過ぎ、魚を捌く包丁の音と、果物を並べるざわめきが混ざり合っている。潮の香りの向こうに、秋の気配がかすかに忍び込んでいた。
セージは、一つ深く息を吐き、ゆっくりと市場の入り口をくぐった。手には一通の書簡。小さな封筒の重みが、なぜか指先を鈍らせている。歩幅は自然と小さくなり、足取りはやや重たかった。
「おや、セージじゃないか」
声をかけられ、振り向くと市場長が立っていた。日に焼けた額は汗に濡れ、薄く残る髪をヨレヨレのタオルで拭っている。その素朴な笑みに、セージも小さく頭を下げた。
「こんにちは」
以前なら言葉一つにぎこちなさが滲んだものだが、今は少しだけ違う。メリッサと交わした幾度もの会話が、彼に“若者”としての振る舞いを教えてくれていた。
「メリッサなら今日はいないぞ」
「え……?」
その一言に、胸の奥が小さく沈む。
「用事があってな。朝からアテネに出かけてる。夕方までは戻らんだろうよ。なんだ、お前、知らなかったのか?」
「ええ、知りませんでした……」
どうしたものか、とセージは内心で逡巡した。
この書簡は、薬師の島へ黄金聖闘士を派遣する件に関わるものだ。教皇の権限をもって命じることもできる。だが、それだけは避けたかった。彼女を苦しめてきた聖域の影を思い出させるような、強引なやり方はしたくない。
「残念だったな。会いたかったんだろ?」
「ええ、用があったので……」
市場長は顎に手をやり、何やら値踏みするようにセージを見つめた。
「しかしな……あの子は、お前みたいな男前にでも靡かないぞ」
「は……?」
不意を突かれ、菫色の瞳が大きく見開かれる。
「いや、私はそのような気持ちでは……」
慌てて否定する前に、がはは、と豪快な笑い声が響いた。市場長は豪放にセージの肩を叩く。潮風に混じって、魚の匂いと笑い声が弾ける。
「何を照れる!メリッサはあれだけの器量良しだ。大抵の男は放っておかん。実際、あいつを気にしてる男は多いし、観光客なんかにもしょっちゅう声をかけられてるぞ」
その言葉に、セージの眉間がきゅっと寄る。
「そうなのですか……知りませんでした」
「まぁな。だが、あの子を振り向かせるには骨が折れるだろう。精々頑張れ」
「ですから、私は……」
静かに否定を重ねても、市場長はすでににやにや笑いで聞き流していた。
「……まぁ、そういうことにしておいてやるさ」
その一言で会話は切り上げられる。
「とにかく、メリッサは今日は不在だ。また後日、出直してくれ」
「はい。承知しました。ありがとうございました」
セージは礼を尽くして会釈した。
陽はすでに高く、午前10時の光が石畳を眩しく照らしている。港を離れる背に、まだ人いきれと潮の匂いが絡みついていた。
彼は封筒を握り直し、深い吐息とともに歩を進める。足元に落ちた影は、思ったよりも長く、まだ揺らめいていた。
町の喧騒が遠のくと、途端に風の音が大きくなる。石畳の細い道は人影もなく、蝉の声だけが昼を告げていた。セージは立ち止まり、静かに目を閉じた。
意識を遠くへと伸ばす。アテネの雑踏の中――。
ふいに触れたのは、かすかな揺らぎ。聖戦を越え、今は一般人として暮らす彼女の小宇宙。それはもっと探しにくいはずだった。だが、思いのほか容易に見つかってしまった。
「これか……」
低く呟き、顎を撫でる。
「ふむ……存外、簡単に見つかったな」
次の瞬間、彼の姿は通りから掻き消え、アテネ市内の細い路地に現れた。
メリッサは街の大通りを歩いていた。夏の光が白く反射し、人々の話し声と車のクラクションが入り混じる。
その道を、影がふいに塞ぐ。
「ねぇねぇ、君、美人だね。一人?」
軽薄な声。若い男が前に立ちはだかり、にやけながら進路を塞ぐ。
メリッサは瞬き一つで相手を見返し、すぐに視線を逸らした。
「一人なんでしょ?今日はこんなにいい天気なんだし、折角だから俺と遊びに行かない?」
「……すみません。いきなり声をかけてきた人と遊びに行くような感性は持っていませんから」
努めて淡々と、視線を逸らす。そのまま通り過ぎようとした――腕を掴まれる。
「……っ!」
息が喉に詰まり、全身が硬直する。
心臓が耳の奥で鳴り、視界が急に狭まっていく。
二年前の記憶が、不意に甦る。
『メリッサちゃん…つーかまえたぁ』
耳元で囁かれた声。複数の影、押さえつけられた腕、動けない身体、下卑た笑い声――。
脇や背中に嫌な汗が滲む。血の気が引いていくのが自分でも分かった。胸の奥に、2年前の記憶の残滓がざわめき始める。
男はそれに気づかず、執拗に食い下がった。
「じゃあ、お茶でもどう?そこのカフェ。奢るよ」
「いや!離して!!」
掴まれた手を振り払う。だが、その拒絶は、相手の苛立ちを煽るだけだった。
「なんだ、この女……?ちょっと可愛い顔してるからってお高く止まりやがって」
声の調子が低く変わり、冷たい圧が空気を覆う。
「こっち来いよ」
再び手首を掴まれ、今度は力任せに引き寄せられる。
――やだ、やだ!助けて!誰か……!
雑踏の中なのに、世界が無音になる。喉は凍りついたようで声が出ない。
「失礼、私の連れに何か用でも?」
凛とした声が、その恐怖を断ち切った。
振り向けば、長い金髪を一つに束ねた青年が立っていた。菫色の瞳が冷たく光り、静かに男を睨みつける。
「セージくん!?」
驚きに声を上げるメリッサの傍らで、男は苛立たしげに舌打ちした。
「ちっ!男連れかよ!」
掴んでいた手首を乱暴に振り捨てると、男は足早に人波へ紛れていった。
残された静けさのなかで、メリッサは大きく息を吐き、かすかに震える声で言った。
「……良かった。ありがとう、セージくん。助かった……」
「いや。それより、怪我はないか?」
掴まれた手首を擦る仕草に、菫色の瞳が深い憂いを宿す。
「あ、うん……大丈夫」
声は小さく、それでも微笑んだ。
「ならば良い」
安堵の笑みを見せる彼を見た瞬間、メリッサの胸が大きく跳ねた。恐怖の余韻と安堵が入り混じり、身体の奥から熱がこみ上げる。
「と、ところで、セージくんはこんな所で何してたの?買物?」
声が裏返り、自分でも戸惑う。だが、話題を変えたくて仕方なかった。動揺を悟られたくなかった。
「……まあ、そんなところだ。探し物をしていた」
「探し物?見つかった?」
「ああ。見つかった」
「そう。よかったね」
彼女の笑顔は、さっきまでの恐怖を微塵も感じさせなかった。その眩しさに、セージは一瞬、言葉を失う。
「手遅れになる前に見つかって良かった」
「それ、売り切れ寸前だったの?」
思わず吹き出しそうになり、彼は小さく笑った。
「まあ……売り切れにはならなかっただろうが、早く見つけておくに越したことはない。メリッサは、どうしてアテネに?」
一瞬、彼女の表情が翳った。だが、すぐに明るさを取り戻す。
「入院中の母親に会いに来たの」
「ご病気だったのか……」
「うん」
それきり彼女は黙り、二人は並んで歩いた。雑踏の中をすり抜けるその沈黙は、重たくも、どこか心地よかった。
「あの病院。じゃ、あたしはここで」
白い建物を前に足を止める。セージは即座に言った。
「待っていても良いか?」
「どうして?」
首を傾げる彼女に、彼は真顔で答えた。
「また、先ほどのような不心得者に遭遇しないとも限らぬ」
「ぷっ……不心得者って。まぁ、確かにね」
笑いが零れる。彼の言葉の古風さが、妙におかしい。
「じゃあ、セージくんは心得者だろうから、待ってても良いよ。そこにカフェがあるから、あそこで待ってて。終わったら行くから」
メリッサが指さした先には、どこにでもあるチェーン店の看板が、真昼の光を白く照り返していた。ランチタイムにはまだ早い。店のガラス越しに見える店内には、ちらほらと客の背中が見えるだけだった。
「分かった。では、そこで待っている」
「うん。じゃあ、また後でね」
笑顔で手を振ったメリッサの背が病院へ吸い込まれていく。入口に掲げられた“精神科”の文字を目にした瞬間、セージの胸に小さな棘が刺さった。何も言わない。ただ、その背中が扉の向こうに消えるまで見送った。
セージがカフェに足を踏み入れると、空気がざわめいた。
高貴な風貌と威厳に満ちた気配――その場に似つかわしくない青年の出現に、店内の視線が一斉に彼へ集まる。
制服姿のアルバイト店員は、慄いたように背筋を伸ばし、たどたどしく声を発した。
「お、お席へご案内いたします……」
「人と待ち合わせをしている。二人用の席があればそちらを頼みたいのだが」
「はい、かしこまりました」
案内されたのはテラス席だった。目の前の通りを挟んで、病院の出入口が真正面に見える。ここならすぐに彼女を見つけられるだろう。
「ありがとう」
セージは簡潔に礼を述べ、ブラックコーヒーを頼んだ。
カップが届くまでの間、彼はただ空を仰いだ。青はどこまでも深く、そこに白い雲が浮かんでいる。陽光を弾くその輪郭は眩しすぎて、眼を細めるしかなかった。
メリッサの母がこの病院にいる理由を、セージは知っていた。聖域に端を発する影――その影が、彼女の日常をいまだ覆っていることも。
時がゆっくりと過ぎていった。やがて、病院の自動扉が開き、彼女が小走りで出てくるのが見えた。
向こうもこちらに気づいたらしい。道路の向こう側で、ぴょんぴょんと跳ねながら大きく手を振る。その動作が子供のようで、セージは思わず口元を和らげる。軽く片手を挙げると、彼女はぱっと花が咲いたような笑顔を見せ、テラス席へ駆け寄ってきた。
「セージくん、お待たせ!入口から回ってくるからちょっと待っててね!」
身軽な脚さばきで入口へ走っていく姿は、風を切るようにしなやかで、どこか凛々しかった。セージはその後ろ姿を目で追っていたことに気づかずにいた。
やがて彼女は駆け戻り、少し息を弾ませながら席に腰を下ろした。
「ごめんね、だいぶ待たせちゃった」
「いや、構わぬ。御母堂のご体調はいかがだった?」
「ん?ごぼう……?」
聞き慣れぬ言葉に首を傾げ、すぐに意図を察して笑顔を返す。
「ああ!うん、良くも悪くも変わらないって言われた」
「そうか……」
短い応答の後に訪れた沈黙は、柔らかい風にさらわれていった。
届いたアイスティーをメリッサが一気に飲み干す。その喉の動きを、セージは黙って見守った。
彼女の言葉の裏に、どれほどの重さが隠されているのか――自分には何ひとつ分からない。ただ、雲間から差し込む光が二人の間に落ちて、その瞬間だけ、静かに時が止まっているように感じられた。
カフェのテラス席に座っているセージとメリッサ。まだ午前の光は柔らかく、太陽は高く昇りきる前の、緩く温かい空気を運んでいた。街路を行き交う人々の足音、遠くで響くバイクの排気音、店内に漂うコーヒーの香り。それらが、穏やかなざわめきとなって午後前の時間を満たす。
メリッサは笑顔で、テーブルに置かれた二杯目のアイスティーをかき混ぜる。ひとつ、またひとつと氷がカラン、と音を立てるたび、柔らかく反射する日差しが彼女の栗色の髪で揺れる。表情は無邪気で、声も明るく、まるでさっきのトラブルなど、なかったかのように弾んでいる。
けれど、セージの心は、そこに座る彼女の光の奥に影を見つけてしまう。
母親が入院していること。しかもその原因の一端が、自らの属する聖域にあること。責任の重さ。
――今日、彼女にこの書簡を渡すべきか、あるいは延期するべきか。
胸の奥で、小さな葛藤がざわめいていた。
書簡は聖域の紋章が入った正式な封書で準備してある。だが、その存在を思うたび、心に鈍い痛みが走る。今、メリッサの無邪気な笑顔の前で、差し出すべきものではない。
彼女の手元を見つめる。笑顔の端に、ささやかな緊張が滲んでいるのが、かえって心を締め付ける。小さな肩の動き、指先の軽い震え。それは、先刻アテネの路地で見せた恐怖の残響のようでもあった。だが、メリッサは何事もなかったかのように振る舞い、楽しげに会話を続けている。
「セージくん、あのね、この前市場で見かけた魚、めっちゃ大きかったんだよ!あんなの、どうやって持って帰るんだろう、って思ってさ」
これくらい、と身振り手振りを交え喋る明るい声に、セージはわずかに息を呑む。こんなに無邪気で、朗らかな人間が、過去の痛みを抱えながら日常を生きている。彼女の笑顔に、罪悪感と敬慕が混じり、胸の奥で静かな嵐を巻き起こす。
テーブルの向こうで、氷の音が小さく響く。セージは、深く息を吸い込むと、書簡の入ったボディバッグを指先でそっと撫でる。言葉を選ぶようにゆっくりと視線をメリッサに戻す。
「そうか……それは見たかったな」
声は低く、抑えられた温度を帯びる。返答の明るさに合わせて微笑む彼女の姿を見ながら、セージは思う。今日この書簡を渡すのは、彼女の明るさの上に、過去の影を重ねてしまうことになる。まだ早いかもしれない。だから、ただ一緒に座り、日差しと街のざわめきに身を委ねる。それだけで十分だと、心のどこかで言い聞かせながら。
「セージくんそろそろお昼だけど、何か食べる?」
メニュー表を手に取ったメリッサが笑顔で尋ねる。
日差しに照らされたカフェのテラスには、午前の穏やかな空気がそのまま残っている。風に混ざって、コーヒーやパンの香りがふわりと漂い、街路を行き交う人々の足音や遠くの車の音が、やさしいリズムを作っていた。
「そうだな……」
セージはメニューを眺めながら、指先でページをなぞる。羊肉の料理を見て、眉をひそめた。
「羊肉は……あまり得意ではないのだ」
「そうなんだ。じゃあ、別のにしよっか」
メリッサはすぐに明るく提案する。彼女の声には、先刻までの母親の面会の影はなく、ただ好奇心と楽しさが混ざった軽やかさがあった。
「うむ。魚か、野菜の料理にしよう」
セージは少しだけ微笑む。その微笑みは控えめで、あくまで自然に、だが同時に心を通わせる温度を帯びていた。
二人が注文を決める間、メリッサは目を輝かせて街路の風景を眺める。青い空、白い雲、テラスの手すりに絡まる緑の蔦。通り過ぎる人々の会話や笑い声も、彼女の楽しげな視線に映えて、些細な光景さえ生き生きとして見えた。
注文が済むと、二人はしばし沈黙のまま、テラスの空気と向き合う。メリッサは無邪気に指先でグラスの表面で結露した水滴を触りながら、時折、中の氷をカランと鳴らす。セージは、その音と日差しの揺れを、彼女の笑顔の向こう側にある強さと、過去の影を思い起こさせながら見つめていた。
やがて運ばれてきた料理は、ハーブの爽やかな香りが食欲を刺激するような白身魚のグリルだった。
「セージくん、これ、美味しそうだね。ちょっと分けっこしようか?」
メリッサが笑顔で提案する。
セージは一瞬、ためらった。料理のシェアをするほどには気安くない自分たちだ。だが、彼女の楽しそうな顔を見ると、心のどこかで肩の力を抜き、自然に笑みを返してしまう。小さな皿を受け取り、魚と野菜を口に運ぶ。
「良い味だ」
「ほんと!美味しいね!」
二人は顔を見合わせ笑った。
カフェの柔らかな空気の中で、二人は言葉少なに、しかし確かに存在を共有していた。メリッサの明るさに触れながらも、セージは心の奥で思い悩む。書簡をいつ渡すべきか。今はまだ、ただこの時間を共にすることが、互いにとって最も自然な距離の取り方なのだと、静かに理解しているから。
アイスティーの氷がカラン、と鳴るたび、互いの呼吸や心拍の微かな揺れが、目に見えぬ形で重なり合う。メリッサの無邪気な笑顔と、セージの抑えた逡巡。それは、まだ言葉にならないまま、柔らかなランチの時間の中に、静かに溶け込んでいった。
昼下がりの光が、窓辺に置かれた植木鉢の葉を透かして揺らしていた。
カフェの空気は、食後特有のゆるやかな沈黙と、カップを置く小さな音や隣の席の笑い声で満ちている。テーブルの上には、食べ終えた皿の余韻と、二人分の水滴が残るグラス。
その中で、伝票の白い紙片だけがやけに際立っていた。セージの指が、ためらいもなくそこへ伸びる。
「ここは私に払わせてくれ」
低く響く声は、彼のいつもの調子ながら、どこかきっぱりと線を引く響きを帯びている。
メリッサは慌てて身を乗り出した。
「待って、あたしが誘ったんだからあたしが払うよ」
メリッサの抵抗にセージは少し目元を緩めて、淡々と告げる。
「私が勝手に待っていただけだ」
彼の整った顔立ちが、わずかに影を帯びる。
「せめて割り勘に…」
メリッサの声はどこか必死さを帯びていて、セージから視線を逸らさない。
「気にするな」
その一言はあまりにも簡潔で、切り返しの余地を与えない。彼の静かな強情さに、メリッサは小さく唇を尖らせた。
「むぅ……じゃあ、次の時はあたしに払わせてね」
「――ああ。次回、な」
セージの目元がやわらいで、かすかな笑みが浮かぶ。メリッサはその表情に胸の奥をくすぐられ、慌てて視線を逸らした。窓の外を行き交う人々の色とりどりの服が、やけに鮮やかに映った。
テーブルの上の食器は既に片付けられ、そこには水のグラスだけが残っていた。けれど、二人のあいだには“次回”という言葉だけが確かな約束として置かれていた。
カフェを出ると、昼下がりの光が街路に溢れていた。蝉の声が絶え間なく降り注ぎ、石畳に映る影は鮮明で、夏の輪郭を際立たせている。
「じゃあ、あたし、買い物してくからここでさよならしよう」
メリッサが肩にかけた小さなバッグをぎゅっと握りながら言う。その表情は笑顔なのに、どこか影が差している。
「何を買う予定なのだ?」
セージが歩調を緩め、彼女の顔を覗き込むように尋ねる。
「お洋服。夏物が安くなってるから」
軽い口調。だが、視線はほんの一瞬だけ泳いですぐに前方へ戻る。
「私も付き合おう」
「え、時間かかるからいいよ」
メリッサは驚いて首をブンブン振った。
「荷物持ちくらいにはなるぞ」
セージの淡々とした言い回しに、ふっと緊張がほどけた。
「ふふっ…ありがと。それじゃあ、お願い」
笑顔が零れる。歩調を揃えて並ぶと、まるでそれが自然な約束事であるかのように、人の流れに紛れて歩き出した。
ショッピングモールの店舗には、夏の終わりを惜しむように鮮やかな色彩のワンピースやサンダルが並んでいる。店先から流れる冷気が、熱を孕んだ通りに小さなオアシスのような涼を作っていた。
「どれが似合うかなぁ」
メリッサが店内に足を踏み入れると、目がきらきらと輝き出す。ラックを指先がそっと辿り、ハンガーを取り上げると鮮やかな布地を光に透かす。
セージは一歩後ろに下がって見守りながらも、時折視線が彼女の横顔に吸い寄せられる。楽しそうに服を選ぶその姿に、言葉以上の安堵が胸の内に広がっていく。
普通の若者が過ごす午後。けれども、彼女にとってはそれが奇跡のように尊いひとときなのだ、とセージは気づいていた。
セール期間中のモール内は赤いポップがあちらこちらに揺れ、行き交う人々の笑い声と軽やかな音楽が混ざり合って、夏らしいざわめきを織り上げている。
メリッサはその喧騒の中で、足取り軽く動き回っていた。ハンガーにかけられたワンピースを一枚、また一枚と手に取り、胸の前に当ててはくるりと身をひねり、鏡に映す。スカートの裾を指先でつまんで揺らす仕草に、18歳の少女らしいあどけなさと華やぎがあった。
「これ、可愛いと思わない?」
鮮やかな向日葵色のブラウスを掲げて、小首を傾げる。セージは少し遅れて近寄り、その明るさに圧倒されるようにして口を開いた。
「……似合うだろうな」
声がわずかに掠れたのを、自分でも意外に思った。
メリッサはぱっと笑みを浮かべる。その笑顔は、モールの喧騒の中でも不思議に際立って見える。陽射しをすくい取ったような笑み――彼女の明るさには、こちらを素直に引き込んでしまう力があった。
次の瞬間、彼女はまた別のラックへと走り、爽やかな青のスカートを広げてみせた。
「ねえ、これも可愛いよね。白いブラウスと合わせたら夏っぽいかな」
セージは頷きながらも、心の内に不意のざわめきを覚える。
――これが、普通の若者の時間というものか。
神に仕える戦士として過ごしてきた日々の中で、こんな柔らかな色彩に満ちた時間を味わうことがあろうとは思わなかった。彼女の無邪気な振る舞いのひとつひとつが、まるで自分の内に眠っていた感情を掘り起こしていくようだ。
「セージくん、聞いてる?」
呼びかけに我に返ると、メリッサが不満そうに唇を尖らせていた。
「……すまぬ。考え事をしていた」
「もう、ちゃんと見てくれなきゃ」
笑いながら言って、メリッサは腕にいくつもの服を掛ける。その姿は、ただ買い物を楽しんでいる少女に過ぎない。けれど彼女の無邪気な明るさの奥に、どこか切なく胸を締めつける何かを感じるのは、セージの思い過ごしなのだろうか。
――惹かれ始めている。
自分の身分や立場とは裏腹に、彼女の笑顔に心を奪われつつあるのだと、セージははっきりと悟った。
小さな試着室のカーテンが、柔らかに揺れた。
次の瞬間、メリッサが外へと現れた。新しいワンピースの薄く柔らかな生地が、肩から体の曲線を包んで膝下まで落ちている。
「どうかな……サイズは丁度だけど」
不安げに首を傾げ、しかし目には淡い期待が光っている。18歳らしい、無邪気さと少しの照れが混ざった微笑みだ。
セージは、彼女が視界に入った瞬間、思わず息を飲んだ。
――こんなにも、自然に美しい姿を見せられていいのか。
彼女の笑顔の向こうに、普段見せない柔らかな視線が揺れ、光が栗色の髪の毛に反射するたびに、その色彩は一層鮮やかに輝いた。
「――綺麗だ」
声が自然に漏れた。冷静であろうとする自分の理性を、軽やかに突破してしまうほどの魅力だった。
メリッサは笑顔を弾けさせ、くるりと一回転してみせる。その仕草は、買い物を楽しむ少女の純粋な躍動そのものだ。けれどセージの視線の奥には、ただの楽しげな買い物以上のものが映っていた。
彼女の明るさの裏に、ほんの少しだけ、過去の影や無理を押し隠しているようなものを感じる。だからこそ、その笑顔はより愛おしく、守りたいと思わせる力を持っていた。
「どう?似合う?」
メリッサの声に、はっとして意識を引き戻す。セージは軽く頷き、口元にわずかに微笑みを浮かべた。
「とても良いと思う」
声に迷いはなく、しかし心は静かに揺れていた。
モールの午後の光が、二人の間を柔らかく包む。通路を行き交う人々の影と光が揺れる中で、二人だけの時間が永遠のように静かに流れていった。
