Eine Kleine

「あの……教皇様……」
 掠れるような声で呼びかけると、隣に座るシオンの紫の瞳が柔らかに揺れ、こちらを見つめ返してくる。
「ん?」
 喉の奥で言葉が絡まり、メリッサは一瞬躊躇した。胸の鼓動がやけに騒がしい。けれど、繋がれたままの右手が熱を帯びていることをどうしても意識してしまい、思わず口に出す。
「あの……そろそろ手を……」
 彼女の言葉に、シオンははっとしたように小さく瞬き、そして苦笑に似た微笑を洩らした。
「あぁ、そうだな。すまぬ」
 名残惜しげに指先が緩む。けれど、彼女の細い指を離す瞬間まで、その掌には確かな温もりが宿っていた。
 メリッサは自分の鼓動を悟られまいと、視線を伏せてシーツをぎゅっ、と握った。だが、心の奥底では――ずっとこのままでいたかったと囁く声が、消えてはくれなかった。
 シオンの視線が彼女を追う。穏やかな眼差しの奥に、隠しようのない愛情が滲んでいる。伸ばした手を放してなお、彼はその温もりを惜しむように目を細めた。
 けれど、己の理性がすぐさま戒めを告げる。

 ――節度を保たねばならぬ。

 彼女はまだ若く、未来は限りなく広がっている。己は二百年以上の時を背負った者であり、本来ならば伴侶など求める資格すらないのだ。立場や身分の隔たりよりも、その長大な年月の差こそが、彼の心に重くのしかかる。
 それでも――。
 静かに呼吸を整えながら、シオンはメリッサを見つめ続けた。淡い灯りに照らされる横顔は、これ以上ないほど愛おしい。触れることも抱き締めることも許されぬのなら、せめてこの眼差しに想いを託そう。
 彼女が気づかぬほどに密やかに、けれどひたむきに。
 そうして二人の間には、言葉にできぬ温度だけが満ちていった。

「そなたには、休養が必要だな」
 シオンの低く落ち着いた声が、静かな部屋に響いた。メリッサは思わず顔を上げる。紫の瞳はいつものように凛とした威厳を宿しているはずなのに、そこにはどこか柔らかな色が差していた。
「教皇宮の客間に移ろう。昨日そなたが泊まった部屋だ。あちらなら静かに休める」
 言われて頷こうとしたものの、メリッサはすぐに身を固くした。自分の服の状態に、今さらながら気づいてしまったのだ。
 ブラウスは血に染まり、右の袖は肩口から裂けている。布は無惨に垂れ下がり、とても人前に出られる姿ではない。
「……このままでは歩かせられぬな」
 シオンは一歩近づき、思案げに彼女を見下ろした。
次いで、衣装棚を開き、きちんと畳まれていた白い布を手に取る。
「これは予備に置いてある私のものだが――しばらく、これを着るがよい」
 差し出されたのは、彼自身のシャツだった。メリッサは目を瞬き、言葉を失う。
「え、えっ……!?あ、あたしが……そ、それを……?」
「他に用意がないのだ。気にすることはない」
 そう穏やかに告げる声はあくまで理路整然としていたが、実際にはシオンの胸もまた早鐘を打っていた。
 長き時を経て忘れていた感覚――恋というものが、唐突に蘇っていた。
 メリッサは真っ赤になりながら両手でシャツを受け取る。
 指先が触れただけで、全身が火照った。
 袖を通すと、布地は彼の匂いをほんのり含んでいる。落ち着いた香りに包まれ、心臓が爆発しそうだ。
 裾は腿まで届き、袖は手をすっぽり覆い隠す。明らかに大きすぎるその衣服に身を包まれた姿は、どう見ても“彼のものを借りて着ている”ようにしか見えなかった。
「……っ」
 羞恥のあまり言葉が出ず、メリッサは視線を逸らす。だが、シオンの眼差しに一瞬触れたとき――彼が何より愛おしげに見つめているのを感じてしまった。
 シオンもまた、己の内に湧き上がる感情を抑え込もうとしていた。
 節度を守らねばならない。年の差も、立場も、重すぎる。
 だがそれでも――彼女を「愛おしい」と思う気持ちは、止めることができなかった。
「似合っている」
 ただ、それだけを穏やかに告げた。
 メリッサの頬はさらに熱を帯び、唇が震える。
 その瞬間、二人の間に流れる空気は、言葉以上に雄弁に互いの想いを語っていた。

 シオンはしばし思案し、静かに口を開いた。
「白羊宮から教皇宮までは、長い石段を上らねばならぬ。今のそなたに歩ませるのは酷だ」
 メリッサが口を開きかけるのを制するように、彼は続ける。
「二つの方法がある。一つは、私が背負うこと。もう一つは、抱きかかえることだ」
 メリッサは一瞬、息を呑んだ。
 背に負われるのも、腕に抱かれるのも、どちらも恥ずかしすぎる。シオンは穏やかに彼女の瞳を見つめる。
「選ぶのはそなた自身だ。私は、どちらでも構わぬ」
 その声音は淡々としているはずなのに、不思議と胸を締めつけてくる。
 メリッサは唇を噛み、視線を彷徨わせた。どう考えても、背負われるのも抱きかかえられるのも、心臓が耐えられそうにない。頬の熱を隠すように、両手で顔を覆ってしまう。
「じ、自分で歩きます……」
 くぐもった声が指の隙間から漏れる。
 その答えを聞いたシオンは、ふっと小さく笑った。からかうのでも、呆れるのでもない。ただ、彼女の健気さと意地らしさに胸を衝かれての笑みだった。
「そなたは強情だな」
「……だって」
「だが、今のそなたに十二宮の階段を上らせるのは、あまりに無理がある」
 静かに言いながら、彼は覆われた手をそっと外す。掌の下から現れた頬は、予想どおり赤く染まっていた。
「自ら歩む意思を尊重したいところだが……許せ。ここは私に任せよ」
 そう囁く声音は柔らかいが、有無を言わせぬ力を帯びていた。
 メリッサの胸は激しく脈打つ。抗おうとする言葉は喉の奥で溶けてしまい、ただ目を伏せるしかなかった。
 シオンはしばし彼女の赤らんだ顔を見つめ、それから静かに腕を差し伸べた。
「――では、抱きかかえるとしよう」
 言葉は淡々としていたが、その声音の奥にある微かな熱を、メリッサは聞き逃さなかった。瞬間、胸の奥で何かが弾けるように熱くなる。
「そ、そんな……恥ずかしいから……!」
 か細い抗議は、抱き上げられた瞬間に途切れた。  
 視界がふっと揺れ、気づけば大きな胸にすっぽりと収められていた。衣擦れの音、彼の心臓の鼓動――すべてが近すぎて、呼吸すら忘れてしまいそうだ。
「体調を優先せよ。羞恥は一時のものだ」
 そう言うシオンの声は理性的でありながら、彼自身もまた落ち着きを保つのに苦心していた。腕に抱いた彼女の軽さと温もりに、封じていた感情が静かに疼き出す。
 メリッサは両腕をどうしていいか分からず、ぎこちなく胸の前で握りしめる。視線を上げるのも、彼と目を合わせるのも怖くて、頬を真っ赤に染めたまま俯いた。
 シオンはそんな彼女を見下ろしながら、言葉を飲み込む。――愛しい、という思いが喉までせり上がっていたが、決して口にしてはならぬと自らに言い聞かせた。
 彼はただ静かに歩みを進める。白羊宮を後にし、長い十二宮の階段を登るその道のりを、互いの鼓動だけが埋めていた。

 メリッサは顔を覆ったまま、必死に身を縮こませていた。あまりの羞恥に、どうしてもシオンの胸に身を預けきれない。身体を離そうとすれば、彼の腕に負担がかかる。
「……っ」
 シオンは小さく息を吐いた。
「メリッサ、もっと身を寄せて。そうしなければ抱えにくい」
「で、でも……!」
「腕は私の首へ回しなさい。そうすれば安定する」
 淡々とした口調。それでも耳元に落ちる低い声に、メリッサの心臓は跳ね上がった。言われるままに恐る恐る首へ腕を回すと、至近距離で互いの吐息が触れ合う。熱を帯びた頬を見られたくなくて、思わず視線を逸らした。
「……っ、だめです……近すぎる……」
「かかえられているのだから、当然だろう」
 理屈としてはその通りなのに、彼の胸に密着する現実が、羞恥を容赦なく煽る。メリッサは小さく身をよじろうとしたが、その動きは逆にシオンの腕にさらなる負担を強いた。
「……無駄に抵抗すれば余計に揺れる。落ちたくなければ、しっかり掴まれ」
 静かな声に、僅かな苦笑が滲んでいた。
 メリッサは仕方なくシオンの首にしがみつく。密着する身体から伝わる体温が、息苦しいほどに熱い。
 シオンは彼女の震えを感じながら、歩みを緩めることなく階段を登っていった。その腕にあるのは重荷ではなく、どうしようもなく愛おしい存在――だが、それを決して表には出さなかった。
 
 白羊宮を出てから、二人はほとんど言葉を交わさなかった。シオンの足取りは揺るぎなく、メリッサはその腕の中でただ彼の心音を聞いていた。互いの沈黙は重苦しいものではなく、寧ろ静かな水面のように落ち着いていた。
 だが、天秤宮へ辿り着いたところで、シオンはふっと歩みを止めた。
「疲れただろう?少し休憩させてもらおう」
「……はい」
 床に降ろされると、メリッサは途端に足元が覚束なくなり、思わずふらついた。すかさず肩に添えられる大きな手。その確かさに胸の奥が熱くなる。
 シオンは肩を支えたまま、広間の奥へ声を張った。
「童虎!出て来い!私が来てやったぞ!」
 その呼び声に応えるように、宮殿の奥から現れたのは、中国服に身を包んだ東洋人の男だった。ゆったりとした歩み、穏やかな眼差し。だが次の瞬間、男の口から飛び出した言葉はあまりに直裁だった。
「おお!シオンではないか!」
 そして視線をメリッサへ向けた。
「お主、いつの間に?わしに黙って恋人なぞ作りおって」
「――っ!」
 メリッサの頬に、一瞬で朱が広がった。
「馬鹿者。恋人ではない。彼女はメリッサ・ドラコペトラ嬢だ」
 シオンの声は低く、普段よりも険しさを帯びていた。
「メリッサ・ドラコペトラ嬢……?おお!救国の乙女か!」
 童虎が手を打って笑う。
「……何だその二つ名は」
「お主知らんのか。伝令が触れ回っていたぞ」
 シオンは大きく息を吐き、額に手をやった。
「全く……誰の許可を得てそんな真似を……」
 そんな仰々しい名などメリッサを困らせるだけではないか。
 しかし、童虎はそんなシオンの胸の内など知らぬかのようにメリッサへ視線を向けた。
「やはりの。カノンの小宇宙が急激に成長したから、もしや、とは思ったが。ご苦労じゃったな」
「いえ、苦労というほどでも……」
「ほ、控えめじゃな。もっと胸を張れ。それに、聖域に恩を売れたのだ。シオンが何でも言う事を聞いてくれるぞ。のう?シオン」
「よせ、童虎」
 鋭い視線を投げつつも、どこか諦めにも似た響きが混ざっていた。
 メリッサは戸惑った。彼の隣で見慣れた厳粛さや静謐さはそこにあったが、童虎の前でのシオンは、それだけではなかった。憮然としながらも、旧友にしか見せない柔らかさが覗く。眉間の皺もどこか深い絆の証に見えて――その姿は、彼女の知る“教皇”や“黄金聖闘士”ではなく、一人の人間としてのシオンだった。
「メリッサもこいつの軽口の相手などしなくて良いからな。それより童虎、ちゃんと自己紹介しろ。大事な客人だぞ」
「ほっほっ、これは失礼した。では、挨拶せねばの。わしはこの天秤宮を守護する天秤座の童虎じゃ。シオンとは長年親友をしておって、こやつのことなら何でもわしに尋ねてくれ」
「余計な事は言わんで良い。メリッサを少し休ませたい。茶をくれ」
「おお、構わんぞ。ゆっくりしていけ」
 軽妙なやり取りの合間に流れる、長い友情の歴史。その中に置かれることで、メリッサの胸は不思議に揺れていた。

 ――ああ、この人はこんなふうに話すんだ。

 彼女の知らない顔が、ここにはあった。
 彼は決して孤高の人ではなく、誰かと肩を並べ、笑い合う時間を過ごしてきたのだ。その当たり前の事実が、なぜか胸の奥を温めていった。

 童虎は手際よく湯を沸かし、見慣れぬ器具を軽やかに操っていく。
 茶壺から茶海、茶杯へと、澄んだ琥珀色の液体が移ろうたび、ふわりと立ち上る香気が広間の空気をやわらかく満たした。焙煎された葉の芳ばしさと、清らかな泉水の気配が溶け合い、心をほぐすように漂う。
 白磁の茶杯を前に置かれたメリッサは、思わず目を瞬いた。
「あたし、中国茶をいただくのは初めてで。お作法を知らないんです」
 その言葉は正直な戸惑いと、わずかな恥じらいをにじませていた。
 童虎は朗らかに笑う。
「ほ、そんなもの気にせんでよいわ。好きに飲めばええじゃろ。わしは気にせん」
 そして、ちらと横目でシオンに視線を投げる。
「――ああ、それとも、シオンが教えてやるか?」
「私がか?」
 静かに問い返したシオンに、童虎の口元はますます愉快そうに緩む。
「救国の乙女が困っておるんじゃ。礼にもならんじゃろうが、お主が代表して教えてやればよかろう」
 まるで長年の友しか許されぬような遠慮のなさで、シオンの胸の内を確かに突いてくる。
 メリッサは頬を染め、膝の上で指先を揃えた。――彼に教えてもらうというのは、どうしてこんなにも心臓をせき立てるのだろう。
 童虎はさらに一歩踏み込むでもなく、にやにやと笑みを残したまま立ち上がった。
「わしはちと所用で外すが、すぐ戻るからの。茶は好きに飲んでおれ」
 軽やかな足音を残し、広間の扉がゆるやかに閉ざされる。残されたのは、湯気を立てる茶器と、二人分の茶杯、そして沈黙。シオンは僅かに肩を落とし、深く息を吐いた。
(童虎め……余計な気を回しおって)
 そこには呆れも混じるが、完全に否定しきれぬ柔らかさもあった。
 メリッサは視線を落とし、指先を揃えたまま、どうしていいかわからずに息を潜める。ただの茶の時間。それなのに、心臓は早鐘を打ち呼吸も苦しくなるようだ。目の前の茶杯から立ちのぼる湯気さえ、二人を隔てる帳のように思えてしまう。
 広間には、静かな水音と、二人の吐息だけが重なっていた。

 長い沈黙ののち、シオンは茶杯へ指先を伸ばした。大きな手で持ち上げると、薄手の白磁があまりに小さく見える。
「童虎の茶は、香りを味わうのが第一だ」
 そう言って、茶杯を鼻先へ寄せる。ほんの僅かに目を細め、静かに香を吸い込んだ。
「まずは、立ち上る香気を胸に満たすといい。心が澄んでいくのが分かるはずだ」
 メリッサは恐る恐る真似をした。
 湯気の向こうに広がる芳ばしい香りが、鼻腔を優しくくすぐり、思いのほか深い余韻を残す。
「……本当だ。ふわっと広がって……落ち着きます」
 小さな驚きに瞳が輝く。
 シオンは頷き
「次に、ほんの少しだけ含む。舌に転がし、喉へと流す前に、味を知る」
 今度は茶杯を唇に当てた。彼の喉仏がわずかに動く。その仕草に、メリッサの胸の奥で熱いものが弾ける。
 慌てて自分も茶杯を唇に運ぶ。
 薄い縁から舌先へ流れ込むのは、澄んだ苦みと、後から柔らかく広がる甘み。
「……美味しい……」
 ぽつりと零れた声は、自分でも気づかぬほど素直だった。シオンの視線が、その横顔をじっと捉えていた。湯気に包まれた頬の朱、無垢な驚き。
(……童虎の思惑通り、か)
 苦笑が胸をよぎる。だがそれ以上に、彼女が新しい世界に触れる瞬間を傍らで見られることが、ひどく愛おしく思えた。
 メリッサはその視線に気づき、慌てて視線を落とす。茶杯を握る指が熱を帯び、声はかすかに震えた。
「そ、そんなに見られると……落ち着かないです」
 シオンはゆっくりと瞬きをして、目を逸らした。
「すまぬ。ただ……」
 言葉を続けかけ、喉の奥で押しとどめる。

 ――ただ、そなたの表情が美しかったのだ。

 その想いを飲み込み、再び茶杯を口に運んだ。
 広間には、二人の吐息と茶の香だけが静かに漂っていた。茶杯を手に、メリッサはようやく肩の力を抜いていた。初めて口にした中国茶は、思いのほか馴染み深い味わいで、舌の奥に残る柔らかな甘みが心まで溶かしていくようだった。
 そのとき、扉の向こうから足音が近づき、童虎が姿を現した。
「シオン、少し良いか?」
 穏やかな声音だが、その瞳にはどこか探るような光が宿っている。
 シオンは茶杯を卓へ戻し、片眉をわずかに上げた。
「何だ?」
 短く返す声には、緊張を隠すような冷静さがあった。
 童虎は口元を緩め、ひょいひょいと手招きする。
「良いから、ちと来い」
 視線を横に滑らせ、メリッサを一瞥した。
 メリッサはその意図を察したのか、慌てて微笑んだ。
「あ、どうぞ。あたしのことなら気にしないでください」
 気を遣わせまいと、努めて明るい調子で。
 シオンは片手を胸の前で軽く挙げ、「すまない」とだけ残す。
 だがその横顔には、僅かに陰が差していた。先ほどまでの穏やかな眼差しから、童虎にしか分からぬ程度の、不機嫌さを孕んだ色へと変わっていた。
 二人の背は並び、重い扉の向こうへと消えていく。
残された広間には、茶の香と静けさだけが漂った。
 メリッサはふと息を吐き、手元の茶杯を見つめた。
(教皇様……)
 彼の背中を見送るとき、胸に残ったのは名残惜しさと、ほんの小さな不安だった。
 だが湯気の向こうで煌めく琥珀の液体が、再び気持ちを和らげる。
 メリッサは慎重に急須を取り上げ、自分の茶杯へと注ぎ足した。湯が白磁を伝って小さく鳴る音が、心を落ち着かせるように響く。再び杯を傾けると、唇に触れる柔らかな苦み。その余韻を味わいながら、メリッサはそっと瞼を伏せた。
 重々しい扉が閉じられると、外の喧騒が遮られ、ひんやりとした空気が二人を包んだ。
 廊下に足を進めながら、シオンは横目で童虎を見やった。
「……何の用だ」
 声音は低く抑えられているが、わずかな苛立ちが滲む。童虎はまるで意に介さぬ様子で、両手を袖の中に収め、のんびりと歩を進める。
「そんなに剣呑になるでない。客人の前で話すわけにもいかんから、こうして二人になっただけじゃ」
 シオンは眉間に皺を寄せたまま黙し、童虎の言葉を待つ。その横顔に浮かぶ険しさは、旧友だからこそ見抜けるものだった。
 やがて童虎が足を止め、柱に背を預けながら口を開いた。
「……お主、あの娘に心を寄せておるのではないか?」
 その問いに、シオンの瞳が細められる。
「童虎」
 名を呼ぶ声は低く、警告のように響く。しかし童虎は怯むどころか、ゆったりと笑った。
「長年の付き合いじゃ。隠しても無駄よ。わしには分かる」
 沈黙。
 廊下を渡る風が、ふっと衣の裾を揺らした。
 シオンは唇を閉ざしたまま、視線を落とす。
 そこには否定も肯定もなく、ただ言葉を選びあぐねる彼の姿があった。童虎はその反応を見逃さず、深いため息をつく。
「やはりの。……ならばなおさら、慎重になれ」
 短い忠告が、廊下の静けさに重く落ちた。
「あの娘は……冥闘士ではないのか?」
 シオンの呼吸が一瞬止まる。深い紫の瞳が、僅かに揺らいだ。
「……何を根拠にそう言う」
 返された声は静かだが、奥底に張り詰めた糸のような緊張があった。童虎は視線を逸らさずに答える。
「小宇宙の気配じゃ。薄れてはいるが、纏うものはかつて冥界の戦士が放っていたそれに近い。……間違いなく、魔星を背負っておる」
 シオンは短く息を吐いた。
 言い返すことはできなかった。むしろ童虎がそこまで察していることを、当然と受け止めているようにも見える。
「……過去を詮索するのはやめろ。彼女は今、冥界とも戦いとも無縁だ」
 シオンの声音は厳しく、一つ一つの言葉が重たく響いた。
 だが童虎は首を振った。
「詮索が目的ではない。わしが案じておるのは、お主の心よ」
 幼いと言えるほど若々しい顔に、穏やかながらも鋭い光が宿る。
「立場を思え、シオン。教皇が一介の娘に心を寄せるなど、軽々しく許されることではない。ましてや、その娘が冥闘士の出であると知れたなら――」
 そこで童虎は言葉を切り、友を見据えた。
「聖域も、アテナも、そして何より本人も危うくなるぞ」
 シオンは黙したまま、視線を床へ落とした。
 掌が固く握られる。
 童虎の忠告が正しいことは、痛いほど理解している。
 しかし、それでも――心はもう動いてしまっていた。
 童虎は柱に凭れたまま、腕を組み直した。
「シオン。わしはお主の気持ちを頭ごなしに否定する気はない。だがな――」
 童虎の声が、低く深く響いた。
「冥闘士であろうとなかろうと、あの娘はまだ若い。二十にも満たぬ娘を、お主が抱え込むのはあまりに重いぞ。自覚はあるか?」
 シオンの眉がかすかに動く。言葉に詰まり、ただ沈黙で応じる。童虎は続ける。
「ましてや、教皇という立場はお主一人のものではない。聖域の秩序そのものを背負っておる。己の感情を優先すれば、いずれ誰かがその代償を払うことになる」
「……」
「お主の想いは、あの娘を護ることと矛盾しておるんじゃよ」
 鋭い言葉が胸に突き刺さる。シオンは拳をさらに握りしめる。口を開くことができなかった。 
 童虎は静かに息を吐いた。
「わしは友として言う。もし、どうしても傍に置きたいのなら、覚悟を決めろ。お主の命も、立場も、未来も、あの娘のために差し出す覚悟をな」
 それは脅しではなく、長い戦いを生き抜いた者の真実の声だった。
 シオンはゆっくりと目を閉じた。
 その瞼の裏に浮かぶのは、血に染まったブラウスで眠るメリッサの姿。
 そして――その命の重さを抱きとめたいと願ってしまった己の心。
 シオンはゆっくりと息を吐き、肩の力を抜くこともできず、ただ童虎を見つめた。
「分かっている、童虎」
 低く、しかし確固たる声だった。だが、胸の奥では言葉以上の葛藤が渦巻いていた。

 ――あの娘に触れたい。抱きしめたい。守りたい。
 
 しかし、叶うことのない願いを知っている。

 自分たちの身分、役割、そして年齢。
 二百三十年の隔たりは、単なる数字ではなく、心と体を縛る鎖のように重い。
 聖闘士と冥闘士という立場の違いもまた、決して越えられない壁だった。
 童虎の忠告は、冷静で正しい。『彼女を傍に置くなら、全てを捨てる覚悟が必要だ』と言われれば、理解はできる。だが、それでも心は揺れる。
 シオンは拳を強く握りしめた。
 心の奥底で、メリッサを守ることを最優先にする自分と、身分や立場を守るべき理性の自分が戦っている。
 唇を噛み、わずかに眉を寄せる。
 どれだけ理性で押さえつけても、視線の先のあの寝顔が、胸の奥に火を灯すのだった。
「……分かっているのだ、童虎」
 その言葉には、覚悟と、同時に抑えきれぬ感情の両方が滲んでいた。どれほど理性で踏みとどまろうとも、心は既に彼女に触れ、守ろうとしていた。

 シオンは深く息をつき、振り返ることなくゆっくりとメリッサのもとへ戻る。
 目の前には、穏やかに茶を注ぐ彼女の姿。血の跡はなくなり、右手もずっと小さな動きで回復していることがわかる。それでも、彼女の体が完全ではないことは明白だ。

 ――今、傍にいるだけで十分なのだ。

 触れたい衝動を必死に抑え、シオンは彼女との距離を一定に保った。膝と膝が触れぬよう、少し後ろに腰を引く。腕も、自然に膝の上に置くだけにする。
「……茶は熱くないか?」
 声は低く、平静を装っていたが、心臓の奥で微かに高鳴る。メリッサは顔を上げ、少しだけ微笑む。
「ううん、ちょうど良い温度です」
 その笑顔に、シオンの胸は僅かに締めつけられる。触れたくなる、抱きしめたくなる。だが、すぐに理性が制御を取り戻す。
 立場、年齢、聖闘士と冥闘士。全てが越えてはならぬ壁。
 どれだけ心が求めても、手は伸ばしてはいけないのだ。シオンは視線を落とし、静かに言葉を紡ぐ。
「ゆっくり休め。無理をしてはいけない」
 メリッサはその声に安心したように息を吐く。その仕草だけで、シオンの胸は痛みと温もりで満たされる。触れずとも、彼女の存在がすべてを語っていた。
 内心では、指一本触れられないもどかしさが苦く、そして甘い。シオンはその感情を抑え、ただ傍にいることで彼女を守る決意を新たにした。
 それが自分に許された、唯一の行動なのだから。
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