Eine Kleine Ⅳ

 シオンは、エルダニア王国へ赴いていた。
 アリシア女王が臥せたとの報が、聖域へ届いたからだ。
 女王の寝室へ通された瞬間、シオンは、室内に満ちる空気を敏感に察知した。

 ――メリッサの時と同じだ。

 生命が、どこか別の場所に引き寄せられている。
 ここに在りながら、既に半ばを持っていかれている感触。
 豪奢な寝台に横たわるアリシア女王は、どこまでも儚げだった。
 髪は緩く結われ、細い首元が露わになっている。
 国の頂点に立つには、まだ、あまりにもか弱い。
 「アリシア女王陛下」
 「――教皇猊下……」
 翠玉のような瞳が、薄く開いた。色を失った唇から、吐息とともに声がこぼれる。
 「随分……お早いご到着ですね」
 「専用機で参りました」
 「……よろしいのですか。メリッサさんの方は……?」
 言葉を選ぶように、途切れがちに問われる。
 「少し、安定しました」
 一拍、置く。
 「……陛下のおかげで」
 アリシアは、かすかに眉を動かした。
 「……私は、何もしていません」
 その否定は、弱々しいが、はっきりとしていた。
 シオンは、寝台の傍に歩み寄る。
 「あなたが――引き受けたのではありませんか」
 空気が、張り詰める。
 アリシアは、返事をしなかった。
 否定も肯定もせず、ただ、視線を天蓋の装飾へと向け、静かに息を吐いた。
 「教皇猊下」
 しばしの沈黙の後、ようやく、声が落ちてくる。
 「もし、それが事実だとしたら……私は、王として正しいことをしたのでしょうか」
 「正しさは、後になってしか測れません」
 シオンの声は、静かだった。
 「ただ――誰かが確実に救われた。それだけは、事実です」
 アリシアの唇が、わずかに震えた。
 「……代価として、私がこうなったのだとしても?」
 「王とは、そういうものです」
 即答だった。慰めでも、同情でもない。
 「国の命運を、己の身体で引き受ける存在です」
 アリシアは、ゆっくりと目を閉じた。
 「……猊下も、同じなのですね」
 「ええ」
 シオンは、否定しなかった。
 「私は教皇です。そして……一人の男でもあります」
 沈黙が落ちた。アリシアは、その言葉の意味を、ゆっくりと測るように目を閉じた。
「……それは」
 やがて、かすかな声が戻ってくる。
「教皇としてではなく、一人の男性として、誰かを守ろうとした、ということですか」
「ええ」
 シオンは、短く答えた。
「世界のためでも、聖域のためでもない。ただ……彼女を失いたくなかった」
 それは、懺悔に近かった。教皇がしてはならない選択を、自分はしようとしていた。その事実を、今、はっきりと口にしていた。
 アリシアは、静かに息を吐いた。
「……私も同じです」
 目を開かないまま、呟く。
「国のためと言いながら、結局は……誰かを、死なせたくなかっただけなのかもしれません」
 天蓋に向けられていたアリシアの視線が、わずかにシオンへ向けられた。
「……猊下は、彼女に伝えたことがありますか。大切だと」
「何度も」
「そうですか」
 小さく、しかし確かに、口元が緩む。
 それは、王としてではなく、一人の女性としての微かな笑みだった。
 「……メリッサさんは、幸せですね」
 「幸せにすると、決めています」
 その答えには、迷いがなかった。
「猊下、私は――エルダニア王国の歴史を変えたいのです」
 アリシアの声は微かだったが、その芯には確固たるものが宿っていた。
「専制君主制は、もはや時代に合いません。まずは立憲君主制へ移行し、やがては――共和制へと至る道を整えたい」
 それは、自らの立場を否定する宣言だった。
「――王の特権を放棄なさるのは、何故ですか」
 静かに、問う。
 アリシアは、天井を見つめたまま、答えた。
「扉を開いたのは……過去の国王です。そして、このまま王家が強大な権力を保持し続ければ、いずれ――未来の国王が、同じ轍を踏む」
 言葉に、悔恨も怒りもなかった。あるのは、冷静な認識だけだった。
「私は、王家の特権を放棄することでしか、エルダニアの未来を守れません」
 それは、逃避ではなく贖罪でもなく――断絶だった。
 シオンは、ゆっくりと息を吐いた。
「それは……国を救う選択であると同時に、王家を終わらせる選択でもあります」
 アリシアの唇が、わずかに歪んだ。
「承知しています」
 即答だった。
「私が、最後の“特権的な王”になればいい」
 「……後悔は」
 「ありません」
 かぶせるように言い切る。
「私が引き受けなければ、誰かが――もっと無責任な形で、同じ力を振るうことになる」
 沈黙が落ちる。
 シオンは、その言葉の裏にあるものを見ていた。
 呪詛。
 代価。
 そして、メリッサ。
「陛下」
 低く、しかし確かに呼ぶ。
「あなたは、王として――そして、一人の人間として、覚悟を決められた」
 アリシアは、わずかに目を伏せた。
「……それでも」
 声が、初めて揺れた。
「それでも、救えなかった命があるかもしれないのなら……」
 シオンは、遮らなかった。
「その時は」
 アリシアは、絞り出すように言った。
「その責任も、すべて、私が引き受けます」
 それ以上は、言葉にならなかった。
 背負う者同士の沈黙が、寝室に静かに満ちていった。
 二人のあいだに落ちた沈黙は、やがて言葉では掬いきれない領域へと沈んでいった。
 それは感情ではなく、もっと深い――理に関わる何かだった。そしてその理こそが、今まさに、この国を縛ってきた“呪い”の正体でもあった。

 ――扉を開いた者に、死を与えよ。エルダニアを真に救ったものに、恩寵を与えよ。

 それは、元来ひとつの文だった。
 分断され、歪められ、呪詛として切り出されたのが、前半。そして、王冠の内側に密やかに刻まれていたのが、後半。
 重要なのは、どちらも“王家の意思”によって成されたという点だった。
 扉を開いたのは、過去の国王だ。王家の特権と、専制の力を以て、禁を破った。
 エルダニアを真に救ったのは、現王アリシア。
 同じく王家の血を引きながら、王家の特権そのものを放棄することで、未来を断った。
 同一の系譜。
 同一の王権。
 ゆえに、呪詛の対象は、王家という概念そのものだった。
 王家が開いた扉。
 王家が閉じた未来。
 死を与える定義と、恩寵を与える定義が、同じ座標上で同時に満たされた。
 結果、呪詛は行き場を失った。
 誰か一人の命を奪うことも、誰か一人に恩寵を集中させることもできず、ただ、相殺された。

 ――条件が、消滅したのだ。

 理が崩れた瞬間、それは目に見える形で現実へと反映される。
 エルダニア王宮で、聖域の療養室で、同時に変化が起きた。
 アリシア女王の身体を蝕んでいた“奪われる感覚”が、ゆっくりと引いていく。
 そして、メリッサの身体に絡みついていた、理由も分からぬ衰弱が、初めて終わりを示した。
 呪詛は、解かれたのではない。
 成立しなくなった。
 それは、魔を打ち破る英雄譚ではない。
 王が、王であることを終わらせることで成し遂げた、静かで厳かな決着だった。
 誰かが死ぬことで救われる国ではなく。
 誰かが力を手放すことで、未来が続く国へ。
 エルダニアは、その瞬間、ようやく――呪いの歴史から自由になった。

 国家としての決断を下したあとでなお、彼女には果たさねばならない“個人としての責任”が残されていた。
 アリシア女王は、父――アンドレアスへ宛てて、書簡を送った。
 それは、王としての通達ではなかった。
 判決を覆す嘆願でもない。
 赦しを乞う言葉も、なかった。
 ただ一つ。
 エルダニア王国は、専制君主制を終わらせる――その決定を、告げるためのものだった。
 両親は、すでに政治犯収容施設へ送られている。
 父アンドレアスは、終身刑。
 母ヴィクトリアは、十年の禁錮刑。
 面会は、一切、認められていない。
 返事が来ることはないと、分かっていた。それでも、書かずにはいられなかった。

 ――王家はここで終わる。

 それを、王家自身の手で告げる必要があった。
 書簡を送り終えた夜。
 アリシアは、静かに息を吐いた。

 そして、その報を受け取ったシオンは、彼女に告げた。その決断は、当然ながら聖域にも伝えられていた。王権の変質は、世界の均衡に関わる問題でもある。
 「聖域が、エルダニアの後ろ盾になることはできません」
 その言葉は、冷酷にも聞こえただろう。
 「聖域は、国家の上に立つ存在になってはならないのです。しかし――友好を深めることは、可能です。信頼を築くことも」
 それは、保護ではない。
 支配でもない。
 対等な関係として、隣に立つという宣言だった。
 アリシアは、その意味を、即座に理解した。
 王家の威光に守られることもなく、誰かの名の下に救われることもない。
 それでも、孤立はしない。
 その事実が明らかになった瞬間、張り詰めていたものが、音を立てて崩れた。
 アリシアは、泣いた。
 嗚咽でもなく、取り乱すこともなく。
 ただ、静かに、涙を流した。
 女王としてではなく。
 歴史を終わらせた者としてでもなく。
 父と母を罪人として裁かれたとしても、それでも前へ進むことを選んだ、一人の娘として。
 シオンは、何も言わなかった。
 慰めも、励ましも、与えなかった。
 ただ、その涙が終わるまで、背負う者として、同じ空間に立ち続けていた。

 アリシアとメリッサの身体は、ともに呪詛に蝕まれていた。
 だが同時に――与えられた恩寵によって、確かな回復の兆しも現れ始めていた。
 それは劇的な奇跡ではない。
 死へと傾いていた流れが、静かに、しかし明確に反転したという変化だった。一人の身体に起きた変化は、やがて国そのものの在り方へと波及していく。それは偶然ではない。王が選んだ決断が、そのまま国の形を変えるのだ。

 アリシア女王は、全世界へ向けて声明を発した。
 エルダニア王国は、専制君主制を終わらせる。
 王権を制限し、立憲君主制へと移行する。
 その宣言は、王宮ではなく、無数の報道陣が集う場で行われた。
 アリシアは演台の前に立ち、自らの手で王冠を外した。
 誰かに預けるのではなく、誰かに奪わせるのでもなく、王としての象徴を、王自身が終わらせた。
 その瞬間、まだ万全とは言えなかったはずの身体に、はっきりとした変化が訪れた。
 呼吸が楽になり、視界がクリアになる。
 あたかも――重荷が、ようやく降ろされたかのように。
 その境を越えてから、アリシアの回復は、目に見えて加速した。
 そして同時に、エルダニア王国は、もう一つの声明を発表する。
 ヴァルトフェルト村事件において、重要参考人とされていたメリッサ・ドラコペトラは完全な無罪である。
 彼女に向けられた嫌疑は、すべて誤りであり、その過程で彼女の尊厳を著しく貶めたことを、国家として正式に認める。
 エルダニア王国は、メリッサ本人、そしてギリシャ共和国へ向けて、公式な謝罪を行った。
 それは、単なる外交的手続きではなかった。
 国家が一人の若い女性を踏みつけた事実を、公に認めたという意味を持っていた。
 呪詛は、もはや成立しない。
 扉を開いた王家は、終わりを告げ、エルダニアを真に救った者たちは、名を刻まれることもなく、ただ、静かに、生へと引き戻された。
 世界は、まだ混乱の最中にあった。
 だが確かに、何かが終わった。
 そして、何かが始まった。
 
 変化は、遠く離れた場所にも確かに届いていた。
 まだ病床にあるメリッサの傍らで、メリッサと共にシオンはその中継を見ていた。
「……なんか、ビミョーな気持ち」
「微妙……とは?」
「あたしの名誉が回復されたのは良かったんだけどさ、ほら、あたし国費留学生待遇という名の人質だったでしょ?でも、ちゃんと勉強してたしさ……あの留学、消滅しちゃうのかなぁ…って」
「そうかもしれぬな」
「いや…もったいなさすぎる……だってね、現実的に考えたらエルダニアの王立大学に国費留学って、めちゃくちゃ美味しいんだよ!?二度は巡ってこないチャンスだったのになぁ……って。あぁ……もったいな……」
 メリッサのぼやきを、シオンは黙って聞いていた。
 責めるでも、笑うでもなく――ただ、深く息を吸う。
「……そなたは、最後まで現実的だな」
「だってさあ。理想も正義も大事だけど、人生って現実で回ってるじゃん?」
 病床に横になったまま、メリッサは天井を見つめる。
 怒りも悲しみもなく、ただ、取りこぼしたかもしれない未来を惜しむ声だった。
「三年だよ?国費だよ?研究設備も人脈も一流でさ……あたし、ちゃんと頑張ってたんだから。できないなりに、さ」
「それは、誰も否定できぬな」
 シオンは静かに断言した。
「エルダニアがそなたを“人質”として扱った事実は消えぬ。しかし――そなたがそこで学び、築いたものまで否定される理屈はない」
 メリッサは、ゆっくりと視線をシオンへ向けた。
「……つまり?」
「アリシアは、象徴として王冠を外した。だが同時に、国家としての責任も引き受けたということだ」
 テレビ画面では、会見が終わり、王女――いや、女王の背中が映し出されている。
「謝罪とは、過去を清算する行為だ。そして清算とは、“なかったことにする”ことではない。過去を直視し、未来へどう繋ぐかを選ぶことだ」
 シオンは、メリッサの手にそっと触れた。その指先は、まだ少し冷たかった。
「エルダニアは、そなたの尊厳を奪ったままにしてはならぬのだ。国家として謝罪した以上、誠意を形にせねばならぬ」
「……まさか」
「留学の“継続”か、“再提示”だろうな。条件を変え、そなたの自由意志のもとで」
 メリッサは、しばらく呆然としていた。
「え、待って。それって……今度はめちゃくちゃ条件のいい留学になるってこと?」
「そうなる」
 メリッサは小さく息を吸い、笑った。
「……なんだ。それなら話は別だわ」
 その笑顔を見て、シオンは胸の奥で、ようやく一つの重荷が捨て去られるのを感じていた。
 名誉は回復された。
 罪は否定された。
 そして――未来は、まだ閉じていない。
 それこそが、呪詛に対して与えられた“真の恩寵”だったのかもしれない。
 
 それなら話は別だわ――
 そう笑ったメリッサの横顔を、シオンは見つめていた。
 その笑みがあまりにも健やかで、それが戻ってきたこと自体が、奇跡のようでもあった。
 失いたくない。だが、それ以上に、縛りたくない。
 その想いが彼の中でせめぎ合っていた。
 留学。
 距離。
 時間。
 使命の前では、私情は後回しにされる。
 シオンは、これまでの人生で、別れも、喪失も、“仕方のないこと”として飲み込んできた。
 だが、今は違う。
 メリッサは、彼の守護対象ではない。命令に従う部下でも、聖域の所属でもない。一人の人間であり、未来を選ぶ権利を持つ女性だ。それを、誰よりも理解しているのが、自分であるという事実が、胸を締めつけた。
(……遠ざかるのだな)
 その想像だけで、心の奥が締め付けられる。
 それでも、彼女が望むなら。
 彼女が歩きたい道がそこにあるなら。
 自分は、それを遮ってはならない。
 シオンは、メリッサの手に触れたまま、ほんのわずか力を込める。
「……学びたいのだろう?」
 声に出したのは、それだけだった。
「うん。せっかくならね」
 即答だった。
 迷いのない声。その潔さが、誇らしくもあり、同時に――痛ましかった。
 メリッサは、前を向いている。それに比べて自分はどうだ。彼女が遠くへ行くことをこんなにも恐れている。再び、手の届かぬ場所へ行ってしまうことを。それは、愛するがゆえの恐れであり、決して、彼女の未来より優先されてはならない感情だった。
 シオンは、心の内で静かに結論を下す。
 自分は、彼女の選択を支える。
 離れても、待つ。
 待つことを、選ぶ。
 それができて初めて、彼女を“守る”と言えるのだと。
 メリッサがふと、彼を見上げる。
「シオン様?」
「……なんでもない」
 言葉にできないほど、未整理な感情だった。
 彼は微かに微笑み、視線を画面へ戻した。
 世界は大きく変わりつつある。
 そしてその変化の中で、彼自身もまた――変わらねばならないのだと、悟っていた。

「向こうで大学院に進んで、研究者になるのもいいなぁ。それか、製薬関連の企業で働くとか?いや……島で薬草の研究するのも悪くないかも。はぁ……夢は無限だ」
 ベッドに身体を預けたまま、メリッサは指を折りながら語る。その声は軽やかで、未来を疑わない明るさに満ちていた。
(夢は無限……か)
 何気ないやり取りの中でさえ、彼の内側では別の思考が静かに進んでいた。
 シオンは、相槌を打たなかった。

 ――無限。

 その言葉が、胸の奥に静かに沈み込む。
 彼女の描く未来図の中に、自分は、どこにもいなかった。
 それは拒絶ではない。排除でも、忘却でもない。ただ、初めから数えられていないだけだ。
 それが、何よりも堪えた。
 彼女は、前を見ている。自分の足で歩き、選び、掴み取る未来を。その強さを、誰よりも尊いと思っているのは、自分だ。
 だからこそ、否定できない。
 否定してはならない。
 シオンは、ゆっくりと息を吐いた。
「……学問は、そなたに向いている」
 それが精一杯だった。
「でしょ?あ、でもね――」
 不意に、シオンの手が彼女の額に触れた。
「少し、話し過ぎたな。熱が上がってきたようだ」
「え、うそ?あたし元気だよ?」
「今は、休む時だ」
 有無を言わせぬ口調だったが、厳しさはなかった。
 メリッサは少しだけ不満そうにしながらも、目を閉じる。
「……じゃあ、おやすみ。シオン様」
「……ああ、おやすみ。メリッサ」
 規則正しい呼吸に変わるまで、彼はその場を離れなかった。
 やがて、静寂に包まれる。
 夜が、完全に降りた。
 シオンは、ゆっくりと立ち上がり、寝室を後にした。
 月明かりだけが差し込む回廊を、一人歩く。
 足音は立てず、誰にも気取られぬよう、いつものように。だが今夜ばかりは、胸の内があまりに騒がしかった。
 その言葉を心の中で反芻する。彼女の夢が広がっていくほどに、自分の居場所は相対的に小さくなる。それを、悲しいとは思わない。
 思ってはならない。
(私は……どこへ行くのだろう)
 教皇としての役目は終わらない。使命も、責務も、山のようにある。
 そんな日々の果て、彼女が選ぶ未来の先で、自分は彼女の隣に立てるのだろうか。
 それとも、遠くから見守るだけの存在になるのだろうか。
 その問いに、答えは出ない。
 出してはならないのかもしれない。
 彼は立ち止まり、石の壁に手をついた。
 誰にも見せぬ、ほんの一瞬の弱さ。
(存外……傷ついたな)
 自覚した瞬間、わずかに苦笑が浮かぶ。
 彼女は何も悪くない。未来を語っただけだ。希望を口にしただけだ。
 それなのに、こんなに胸が痛むのは、自分が彼女を手放したくないと願ってしまったから。
 それだけのことだ。
(……私は)
 彼は、静かに目を閉じた。
 愛している。
 それは、疑いようもない。
 だが愛しているからこそ、共に歩む未来を彼女に強要してはならない。
 それが、教皇としてではなく、一人の男として下した結論だった。
 シオンは再び歩き出す。
 月は何も語らない。
 ただ、夜の静寂だけが彼の覚悟を淡々と受け止めていた。
 その夜、彼はほとんど眠らなかった。

 翌朝。
 療養室に差し込む朝の光は柔らかく、昨夜の出来事など最初から存在しなかったかのように穏やかだった。
「おはよう、メリッサ。体調はどうだ?」
 シオンの声は、いつもと変わらない。
 低く、落ち着いていて、感情の揺らぎを一切含まない。
「おはよ。……あのね、今日ちょっと楽かも」
「それは何よりだ」
 彼は自然な所作で椅子を引き、彼女の傍らに腰を下ろす。
 何事もなかったように振る舞うこと。
 それは、250年の生の中で、嫌というほど身につけてきた術だった。
 敗北も、仲間の死も、裏切りも、選択の後悔も、彼は常に教皇として、指導者として、平静を装ってきた。
 だから、今回もできるはずだった。
 理屈の上では。
「シオン様?」
 名を呼ばれ、思考がわずかに遅れて戻る。
「どうした?」
「……なんか、今日、ちょっとだけ顔色悪くない?」
 胸の奥が、かすかに軋んだ。
「そう見えるか」
 口元に、穏やかな笑みを浮かべる。意識しなければ崩れてしまいそうな、薄い微笑。
「昨夜、あまり眠らなかっただけだ」
「そっか……無理しないでね」
「案ずるな。慣れている」
 その言葉は、半分は真実で、半分は嘘だった。
 慣れてはいる。
 だが――今回だけは、心がついてこなかった。
 彼女が語った未来。
 そこに自分の影が落ちていなかったこと。
 それを理解し、受け入れ、尊重しようと決めたはずなのに、胸の奥のどこかで、未だに小さな抵抗が燻っている。
 それを悟られぬよう、声の調子を一定に保ち、呼吸を整え、視線の高さを合わせる。
 ほんの僅かな乱れも許されない。
 平静を装うという行為がここまで意識を要するものだったとは、彼自身、予想していなかった。

 アテネ国立大学の国際交流課から連絡が入ったのは、その日のことだった。
『ドラコペトラさん、エルダニア王立大学から正式な招待状が届いております』
 電話の向こうで話す担当職員の声は、どこか困惑を含んでいた。無理もない。つい先日まで重要参考人として追われていた学生が、今度は女王直々の書状で招かれているのだ。
『差出人は……アリシア・ローズマリー・フォン・エルダニア女王陛下。国費留学生として、王立大学への正式な受け入れを提示したい、とのことです』
 メリッサは、しばらく何も言えなかった。
「……国費、ですか」
『はい。条件等の詳細は書状に記されておりますが……どうなさいますか?』
「あたしは――」

 通話を終えたあと、メリッサはしばらく何も言わなかった。その沈黙は、迷いではなく、確認に近いものだった。
 メリッサは留学を決意した。決意、と言っても元々迷っていたのではない。体調の回復度合いを見計らっていただけなのだ。
「シオン様、あたしもう一度エルダニアに行こうと思う。絶対に楽な道じゃないけど、自分の力を試したい。未来の可能性を広げたいんだ」
「……良いと思う」
 声は落ち着いていた。
 自分でも驚くほど、よく整っている。
「ほんと!?」
 メリッサの顔が、ぱっと明るくなる。その表情を見て、否定などできるはずがなかった。
「ああ。行っておいで、メリッサ。どうか、後悔のないように」
 祝福の言葉だった。
 それなのに、その言葉を口にした瞬間、胸の奥で何かが小さく音を立てた。
 ああ、そうだろう。
 そう言うしかない。
 そう言いたいと、ずっと思ってきたはずだった。
 教皇としてでも、守護者としてでもなく、彼女を想う者として、最も正しい言葉。
 胸の奥で、ゆっくりと何かが沈んでいく。自分の知らない未来へ、彼女が歩き出す音が、はっきりと聞こえた。
 留学。
 研究。
 新しい環境。
 新しい人間関係。
 そこには、もはや自分の居場所はないのだろう。
 いや、“最初から、そこにいるべきではなかった”のかもしれない。
 シオンは視線を逸らさず、穏やかな表情を保ったまま、静かに頷く。
 彼女が選んだ未来を、自分が縛って良い理由など、どこにもない。
 分かっている。
 理解している。
 理性は、完全に納得している。
 だが、心は別だった。
(……そなたは、前へ進む)
 そして自分は、その背を見送る側に留まる。
 それは教皇として、長命の者として、何度も経験してきたはずの立場だった。
 だが、今回は少しだけ違った。
 彼女は、自分を振り返らないだろう。それは残酷だが、健全で正しい。
 だからこそ、なおさら胸が痛んだ。
「……ありがとう、シオン様」
 メリッサは、心からそう言ったのだろう。その声に、迷いも躊躇もなかった。
「あたし、頑張るね」
「ああ」
 短く応じる。
 それ以上言葉を重ねれば、声の奥に滲むものを、彼女に悟られてしまいそうだった。
 何事もないように振る舞う。
 それは、250年生きてきた彼にとって、本来なら造作もないことのはずだった。
 だが、この日だけは違った。
 彼は初めて知る。
 祝福の言葉が、これほどまでに胸を削るものだということを。
 それでも、彼は微笑む。
 メリッサの未来が、彼女自身の力で切り拓かれるものであるならば。
 その輝きのために、自分の痛みなど、取るに足らない。そう、信じるしかなかった。


 メリッサが旅立った日、聖域の空はどこまでも澄み切っていた。
 雲一つない青。
 あまりにも穏やかで、残酷なほど平等な空だった。
 シオンは教皇宮の外廊に立ち、しばらくその空を見上げていた。
 見送るために空港へ行くことはしなかった。
 それは冷淡さではなく、彼なりの選択だった。
 彼女には振り返らせたくなかったからだ。
 もう、エルダニアへ向かう飛行機が出た頃だろうか。あるいは、すでに雲の向こうへ消えただろうか。
 小宇宙を辿れば、位置を知ることなど容易い。
 だが、彼はそれをしなかった。
 それは見守ることではなく、縛ることに近いと知っていたからだ。
 風が、白い法衣の裾を揺らす。
 太陽の光が、石畳に淡く反射する。
 ここは変わらない。
 自分が立つこの地も、自分という存在も。
 変わるのは、彼女の世界だけだ。
 シオンは、静かに息を吐いた。
「……私は、この地で待っている」
 誰に聞かせるでもない、独り言。
 それでも、言葉にしなければ、胸の内に沈んでしまいそうだった。
 別れの言葉ではない。
 約束とも、祈りともつかない。
 ただ、未来を拒まないための言葉。
「いつか……また会おう――」
 その「いつか」が、どれほど遠いかは分からない。
 数年かもしれない。
 十年かもしれない。
 あるいは、もっと先かもしれない。
 それでも構わなかった。
 手を伸ばさずにいることもまた、選択の一つだった。
 彼は、待つことを知っている。
 時に抗わず、時に耐え、なお失わぬものを250年かけて学んできた。
 青空は、何も答えない。
 彼は、ゆっくりと視線を下ろし、踵を返す。
 聖域の日常は、今日も続いていく。
 その中で、彼は変わらず在り続けるだろう。

 ――彼女が、自らの手で未来を掴み取る、その日まで。

 そして、再び交わるその時まで。
 それが、教皇シオンが選んだ、唯一の愛し方だった。


                   ―――了
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