Eine Kleine Ⅳ

 すぐ傍にいるはずのシオンの声が、少しずつ、距離を失っていった。

 ――シオン様……

 呼びかけたつもりだった。
 けれど、その言葉は、息にすらならなかった。
 喉の奥で、形を持たないまま、溶けていく。
 視界が、暗くなる。
 痛みも、重さも、次第に輪郭を失う。
 ただ、最後まで残っていたのは――包み込むような、小宇宙の感触だった。
 離れない。
 置いていかない。
 そう告げるみたいに。
 その温度に縫い留められたまま、メリッサの意識は、深い闇へと落ちていった。

 メリッサの瞼が閉じきるのを、シオンは、最後まで見届けた。
 浅くなっていく呼吸。
 細く、遠のいていく脈。
 つい先ほどまで、確かに、彼女はここにいた。
 目を開き、自分を認識し、名を呼ぼうとした。
 戻ってきた。
 そう、思ってしまった。
 だが、それは、束の間だった。
 意識は、再び沈んだ。
 今度は、先ほどよりも、深く。
 次が、あるとは限らない。
 その現実が、遅れて、だが確実に、胸を締め上げる。
 もし、次がなかったら。
 もし、このまま……
 思考が、そこで止まる。
 それ以上を考えることを、本能が拒んだ。
 シオンは、ベッドの脇に膝をついたまま、微動だにしなかった。
 医師も侍医も、誰一人近づけさせていない。
 彼女に触れるのは、自分だけだ。
 他の誰かの手に、彼女の最期を委ねるつもりはなかった。
 小宇宙を、さらに、静かに重ねる。
 限界まで抑え、薄く細く、そして長く。
 自分の存在を、彼女の生の縁に縫い留めるように。

 ――戻ってこぬかもしれぬ。

 その可能性を理解してしまっているからこそ、喉の奥が焼けるように痛んだ。
 声を出せば壊れてしまいそうだった。
 教皇としての理性が、黄金聖闘士としての誇りが、今は、何の役にも立たない。
 目の前で、愛する者が静かに消えようとしている。
「……メリッサ」
 返事はない。
 それでも名を呼ばずにはいられなかった。
「一人で、逝かせはせぬよ」
 それは、誓いだった。
 彼女がこのまま戻らぬのなら、その闇の果てまで、共に行く。
 置き去りにはしない。
 迷わせもしない。
「……必ず、傍にいる」
 それが、今のシオンにできる、ただ一つのことだった。

 時間は、容赦なく流れていく。
 そして、次があるかどうかは、誰にも分からない。   
 医師の言葉は、淡々としていた。
 原因不明の衰弱と多臓器不全。
 回復の兆候なし。
 いつ容体が急変しても、おかしくない。
 もはや時間の問題だ。
 シオンは、一言も発しなかった。
 怒りも、動揺も、表に出ない。
 ただ、事実を受け取っただけだった。
 ベッドに横たわるメリッサは、静かだ。
 あまりにも静かで、生きているのかどうか、触れて確かめなければ分からないほどだった。
 小宇宙を、極限まで薄く伸ばしながら、シオンは思う。
 もし、彼女が逝くなら。その時は、自分もここまでだ。生き延びる理由は、もうない。教皇の座など、どうでもいい。後任はサガでもアイオロスでも構わない。なりたい者がなれば良い。あの時とは違って、今はどちらも適性がある。
 話し合いでも、選挙でも、くじ引きでも。極端な話、じゃんけんでも構わない。
 聖域が納得できる形で決めればいい。
 自分が関わる必要はない。
 シオンは、静かに、侍医たちへ告げた。
 自分たちの葬儀は不要だと。
 弔いの儀式も、追悼の言葉も、英雄譚もいらない。
 ただ――
「婚礼衣装を……用意してほしい」
 この期に及んでもなお、シオンの声は慈しみに満ちていた。
「特に、メリッサには」
 彼女は、戦場で称えられるために生きてきたわけではない。
 誰かの犠牲になるために、選ばれたわけでもない。
 だからこそ願う。
「……美しく、してやってくれ」
 生きている間、何度も傷つけられ、理不尽を背負わされてきた。せめて、最後くらいは、ただ、幸福そうに眠らせてやりたかった。
 そして――
「私も共に、眠る」
 言葉は、それだけだった。
 場所は、決まっている。
 メリッサの家族が眠る墓。
 彼女が帰るべき場所。
 そこへ自分も行く。
 教皇としてではなく、黄金聖闘士としてでもなく、メリッサを愛する一人の男として。
「……一人にはせぬよ」
 それもまた、一つの想いの形だった。

 一方、アリシアは、王としての矜持を投げ打っていた。
 神官、賢者、魔導書、禁忌とされた古文書。
 国内外を問わず、あらゆる知識を集め、あらゆる可能性を試した。それでも答えは出ない。
 呪詛は確かに存在する。だが、解呪の“核”が見えない。
 何が足りない。
 何を捧げればいい。
 誰の想いが、まだ届いていない。
 それでも、救えなかったなら……。
 アリシアは、王座の前で静かに膝を折った。
 その時は、国王として責任を取る。この国が生んだ因果なら、この身で贖う。
 そう、覚悟を決めた瞬間だった。
 思いもよらぬ形で、最後の“鍵”が差し出された。

 アリシアは王冠を外し、豪奢な執務机に置いた。しかし、疲労からか、置く位置を見誤ったようだ。
 王冠は、重たい音を立てて絨毯の上に転がり落ちた。
 アリシアは、しばらくそれを拾い上げることができず、ぼんやりと王冠を眺めていた。
 滑らかな曲線を目で追いながら、周囲に施された宝石の数を無意味に数える。
「あ…ら?何かしら……」
 ふと、内側に刻まれた文字に気付いた。
 のろのろとした動作で王冠を拾い上げる。代々の王が、戴冠の儀のたびに目にしてきたはずの文言。だが、これまで誰一人として、呪いとして読んだ者はいなかったはずだ。
 
 ――扉を開いた者に死を与えよ。エルダニアを真に救ったものに恩寵を与えよ。
 
 アリシアの呼吸が、止まる。
 これまでこの言葉は、エルダニアを真に救った者に死を与える呪いだと理解されてきた。
 だが、それは文章を一つに繋げて読んだ結果にすぎなかった。
 この刻文は、本来――二つの命令文だった。
 “扉を開いた者に死を与えよ”
 “エルダニアを真に救った者に、恩寵を与えよ”
 「……違う……」
 声が、震えた。
 呪詛は、救済者を殺すためのものではない。殺されるべき対象は、“扉を開いた者”だった。
 では、扉とは何か。
 王冠を握り締めた指先が、白くなる。エルダニアは、救われてきた国ではなかった。
 侵略、簒奪、神への背信。
 そのたびに、“何か”を差し出すことで延命してきた。
(誰が、何をしてきたの)
 その瞬間、アリシアの脳裏に、一つの光景が閃いた。
 王家の秘史。
 封じられてきた、最初の“契約”。
 神ではない存在に助力を乞い、国を守る代わりに、未来を差し出した過去の王がいた。
 扉を開いたのは、エルダニアそのものだ。正確には――かつての国王が、民を代表して“開いた”。
 呪詛は、今になって暴走したのではない。ようやく、条件が揃っただけだ。
 エルダニアを“真に救った者”が現れた。
 だから、もう一方の命令文も同時に動き出した。
 “扉を開いた者に死を与えよ”
 だが、その“死”は、すでに果たされているはずだった。
 歴代の王が、王冠を戴き、寿命を縮め、狂い、倒れていった理由。
 それでも、完全には終わらなかった。
 なぜなら――扉を開いた責任を、誰も“自覚して引き受けていなかった”からだ。
 王は王冠を継いだだけで、罪を継いだつもりになっていただけだった。
 アリシアは、ゆっくりと王冠を拾い上げた。
 これは、象徴ではない。鍵だ。
 そして、同時に――引き受けるべき罪の証明。
 「……分かったわ」
 呪詛が解けなかった理由。
 メリッサが、解呪の対象にならなかった理由。
 彼女は、救った者だ。殺される側ではない。
 なのに、呪詛は彼女を蝕んでいる。
 それは――本来向かうべき“死”が、行き場を失っているからだ。
 アリシアは、静かに王冠を胸に抱いた。
 この国を真に救った者に、恩寵を与えよ。
 その言葉は、今も生きている。
 ならば。
 扉を開いた者に与えられる死を、今度こそ、正しく引き受けなければならない。
 それが、エルダニア現国王の責任だ。

 王冠の金属の冷たさが、心臓の鼓動を直接叩いてくるようだ。
 アリシアは立ち上がり、執務室の奥――誰も立ち入らない小礼拝室へと向かった。そこは、王家が“祈るため”ではなく、“契約を思い出すため”に残した部屋だ。
 壁に刻まれた古い紋章が、影の中に沈んでいる。
 「……エルダニア王国、現国王アリシア・ローズマリー・フォン・エルダニアは――」
 誰に聞かせるでもない声。だが、言葉は確かに世界へ向けられていた。
 「この国がかつて開いた扉の責を、今ここで引き受ける」
 王冠を床に置く。
 王冠は、象徴ではなく媒介だ。
 「救済の代償を、他者に押し付けることを終わらせる」
 これは、宣言だった。
 礼拝室の空気が、わずかに歪む。
 誰にも見えないはずの“扉”が、静かに軋む音を立てた。
 同じ刻。
 療養室では、機械の音だけが規則正しく鳴っていた。
 シオンは、ベッドの傍らに膝をつき、メリッサの手を両手で包み込んでいる。
 体温は低いまま。
 指先は色を失って久しい。
 小宇宙を流す。
 治すためではなく、繋ぎ止めるために。
 「……戻って来い、メリッサ」
 呼びかけは、何度目か分からない。
 返事がないことにも、もう慣れてしまいそうになる自分が怖かった。
 多臓器不全。
 肉体が同時多発的に終わろうとしている。
 呪詛の正体は、未だ掴めない。
 だが一つだけ、確信していることがある。
 これは、彼女の罪ではない。
 シオンの小宇宙が、微かに震えた。
 理由は分からない。
 だが、何かが動いた。
 それは希望と呼ぶには、あまりにも小さく、あまりにも脆い感覚だった。

 小礼拝室では、アリシアの足元で、王冠の内側の刻文が淡く光り始める。
 扉を開いた者に死を与えよ。
 その文字が、順に浮かび上がる。
 アリシアは、視線を逸らさない。
 「はい。受け取ります」
 恐怖はあった。
 だが、それ以上に――安堵があった。
 これでいい。これが、王としてではなく、人としての責任だ。
 エルダニアを真に救ったものに恩寵を与えよ。
 その一文が、最後に残る。
 アリシアは、はっきりと言葉にした。
 「恩寵は、メリッサ・ドラコペトラに」
 次の瞬間、王冠から、黒い糸のようなものが引き抜かれる。
 それは、長い時間をかけて絡まり、行き場を失っていた“死”そのものだった。
 糸は、迷わずアリシアへと向かう。

 療養室。
 メリッサの身体が小さく跳ねた。
 モニターの数値が、一瞬だけ乱れる。
 「……?」
 シオンは、息を詰めて見守る。
 指先にわずかな温もりが宿る。
 頬に、血の気がうっすらと戻った。
 苦しげに寄せられていた眉根の緊張が緩んだ。
 意識はまだ戻らないが、落ちていく流れが止まった。
 シオンは、額をメリッサの手に押し当てた。
 「……誰だ」
 誰に向けた問いか、自分でも分からない。
 だが確かに、“死の向き”が変わったのを感じていた。
 
 アリシアの選択は、不可逆だ。だが、即座に命を奪うものではない。
 呪詛は、正しい主語を得ただけだ。その代償が、どのような形で現れるのか、まだ、誰にも分からない。 
 ただ一つだけ確かなことは、メリッサが、ようやく死の呪縛から解き放たれたということだ。

 王冠から引き抜かれた“何か”が、完全にアリシアの内へ収まった瞬間――胸の奥が凍えた。
 痛みではない。
 息苦しさでもない。
 重さだった。
 心臓の鼓動が乱れる。
 次の拍動が妙に大きい。
 「……っ」
 アリシアは、無意識に片膝をついた。
 床に手をつくが、感覚がわずかに遅れて返ってくる。
 血が巡っていないわけではない。だが、身体のどこかが――自分のものではなくなったような感覚。
 視界の端が、暗む。
 壁に刻まれた紋章が、瞬きの間、別の形に見えた。
 古代語。
 呪詛と同じ時代の、契約文。
 (……なるほど)
 アリシアは、そこで初めて理解した。
 これは、死そのものではない。
 死へ至る道のりと責任を、引き受けたのだ。
 「……これでいいわ」
 震える掌で床を押し、立ち上がる。
 女王はまだ倒れない。倒れるのは――命が終わる時だ。
 同じ頃。
 聖域の療養室では、空気が変わっていた。
 シオンは、微細な違和感を逃さなかった。
 小宇宙の流れが変質している。
 これまで、メリッサの身体を包んでいたのは、底の見えない沈降だった。
 どれほど注いでも失われていく、その感覚がなくなった。流れが、わずかに戻ってくる。本当にわずかに。
 メリッサの胸が、深く上下した。呼吸が安定している。
 「……?」
 シオンは、思わず身を乗り出した。
 肌の色。
 脈。
 劇的な変化ではない。
 衰弱の“速度”が落ちている。
 医師が見ても、誤差だと言うかもしれない。
 それでも――好転したと、シオンは感じた。
 「……止まった、か」
 シオンの喉が、わずかに鳴る。
 「……誰が、何をした」
 答えはないが、メリッサの指先が、徐々に温もりを取り戻していた。

 アリシアは、執務室へ戻った。
 歩幅は保っている。
 姿勢も崩していない。
 だが、内側では確実に変化が進んでいた。
 心臓の奥に残る異物感。それは、拍動と共に脈打つ。
 (呪詛は……まだ、完全には終わっていないわ)
 メリッサが救われるには、時間が必要だ。
 その時間を生むために、自分が引き受けた。だが、引き受けただけでは足りない。
 「……恩寵を、与えよ」
 王冠の刻文を、思い返す。
 恩寵とは何か。
 回復か。
 赦しか。
 それとも――選択肢か。
 アリシアは、机の引き出しを開けた。
 そこには、王家にのみ伝わる古文書が収められている。
 呪詛と同じ時代の、解釈の余地が残された契約。それを、冷えていく指先でめくった。

 療養室。
 シオンは、メリッサの額に手を当てた。
 熱はない。
 悪化もしていない。
 それだけで、今は十分だった。
 「……聞いているか、メリッサ」
 返事はないが、小宇宙の奥で、微かに応じる揺らぎがある。まだ、彼女はここにいる。
 誰かが、メリッサを助けるために、命の天秤に重りを載せた。代償を払っている者が、どこかにいる。
 それはきっと……
 シオンは、目を伏せた。

 メリッサは、ぼんやりした頭で周囲を見る。
(聖域か……)
 無機質な白い天井。
 白い壁。
 窓の向こうは雨模様で、空気がわずかに湿り気を帯びている。
 部屋には、誰もいない。
 身体を起こそうとして、やめた。正確には、起こせなかったのだ。相変わらず、指一本でも動かすと、全身に激痛が走る。
 重く、怠く、力が入らない。
 少し持ち上げたはずの身体は、痛みと脱力感ですぐに支えを失い、どさりと寝台に落ちた。
 視界が揺れ、焦点が定まらない。
 それでも――生きている、とは思った。
 腕に入っている点滴の管。そこに、うすく血液が逆流しているのが見えた。
 血が巡っている。
 心臓が、まだ動いている。
 その事実だけで、十分だった。
 ここが聖域だ、と気付いたのは、なぜだったのか。
 石の匂いか。空気の静けさか。
 それとも、もっと別の――言葉にできない感覚か。
 後で振り返っても、その理由はよく分からないままだった。
 ただ、そうだと分かった。
 ここは、守られる場所だ。
 胸の奥で、かすかに何かが脈打つ。
 小宇宙。
 強くはない。だが、途切れることのない、自分のものではない温度。静かに、寄り添うように在る気配。
 意識が戻ったことを、誰かに伝えるほどの力はない。声を出そうとも、思わなかった。
 ただ、ゆっくり呼吸をする。
 雨音が遠くで続いている。
 世界はまだ、終わっていなかった。

 記憶を、遡ってみる。
 魔界との境界に穿たれた穴が、閉じられた。
 金色の光が縫い合わさるように消えていくのを、遠くから見ていた。
 その直後だった。
 血を吐いた。
 喉の奥に広がる鉄の味。
 身体の内側を、何者かに掻き回されるような、不快な感覚。
 痛みというより、侵される感触に近かった。
 あれは、何だったのだろう。
 最後に見たのは、エルダニア王国の空だった。高く澄んだ青と、そこに浮かんでいた白い雲だった。
 そこから先は、何も覚えていない。
 意識が途切れたのか、それとも、切り離されたのか。
 どうしてここにいるのか、それさえも分からない。
 けれど。
 ここが聖域で、自分が運ばれてきたのだとすれば、誰の手によるものかは考えるまでもなかった。
(シオン様だったらいいな。てか、シオン様に違いない)
 胸の奥が、かすかに熱を持つ。
(忙しいんだろうな……)
 そんなことを思う。
 世界が崩れかけていたのに、自分のことで、手を煩わせてしまったのだろうか。
 瞼を閉じる。
 小宇宙の温度が、変わらずそこにある。
 姿は見えなくても、離れてはいないと、なぜか分かった。
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