Eine Kleine Ⅳ

 それは、突然だった。
 第三国政府の公式回線から、全世界へ向けて、一つの声明が発信された。

 ――エルダニア王国における、正統な王位継承について。

 拘束下にある現国王、アンドレアス・ラウレンツ・フォン・エルダニアは、自らの意思と責任において、王位を第一王女、アリシア・ローズマリー・フォン・エルダニアへ正式に譲渡する。
 同時に、同国は内政・外交の継続主体として存続し、第三国はエルダニア王国の独立と主権を認め、復興支援を行う意思を表明する――。
 声明は、淡々としていた。
 情緒も、弁明もない。
 だが、それこそが、国家が生きている証明だった。この瞬間を境に、エルダニアは“崩壊した旧体制”ではなく、“継承された国家”として定義し直された。
 王が失脚した国ではない。
 王位が空位となった混乱国家でもない。
 王位は、確かに次へと渡された。それは、軍事介入でもなく、宗教権威による承認でもなく、政治による、明確な線引きだった。
 各国の外務省が、即座に反応する。
 “暫定政権”ではない。
 “新王政”だ。
 エルダニアは、独立国家として、再び世界地図に書き戻された。
 聖域の名も、黄金聖闘士の存在も、その声明には一切記されていない。
 だが、それでいい。
 神話ではなく、奇跡でもなく、制度として世界に認めさせる。
 それが、アリシアが選んだやり方だった。
 声明を受け、エルダニア国内外で空気が変わる。
 復興支援の名目が立つ。
 国境は閉ざされない。
 民は“国が終わった”と思わずに済む。
 そして何より――呪詛の“定義”が、揺らぎ始めた。
 「エルダニアを真に救ったもの」
 その言葉が指す対象は、もはや一人の行為ではない。
 国家としての継承。
 主権の確立。
 未来の担保。
 それらは、一個人の犠牲で成立するものではなくなった。
 世界が認めた瞬間、救済は“個”から“国”へと拡張されたのだ。
 まだ、終わってはいない。
 呪詛が一方的に牙を剥く構造は、確実に崩れつつあった。

 療養室に流れるラジオニュースからは、エルダニア王国の王位継承が行われたことが告げられていた。
 第三国から発信された公式声明。
 復興支援と国家承認を伴う、極めて重い報だった。
 その放送が終わるよりも早く、シオンは、異変に気付いていた。
 メリッサの呼吸が変わった。
 不規則に浅く刻まれていたそれが、わずかに、しかし確かに整っている。
 シオンは、誰にも告げずただ見つめる。
 医師が測定器に視線を落とす前に、数値として表れるよりも前に、シオンは“生命の調子”そのものを感じ取っていた。
 指先に、血の気が戻っている。冷たさの中に、ほんの僅かな温もりが混じった。
 奇跡と呼ぶには小さすぎる。だが、死へ傾いていた流れが、ほんの一歩だけ、踏みとどまった。
 眠りに沈むメリッサが、意識の底で、報せを受け取っていることを、シオンは確信した。
 エルダニアは滅びていない。
 彼女が関わったすべてが、無に帰したわけではない。その認識が、彼女を現世につなぎ止めている。
「……そなたは」
 静かに名を呼ぶことすらせず、言葉だけを落とす。
「最後まで、責を引き受けるつもりか」
 返答はない。それでも、呼吸は続いている。
 シオンは掌に集めた小宇宙を、さらに慎重に流し込んだ。
 強くは与えない。侵さない。彼女の生命の律動に、寄り添うように。

 ――誰にも触れさせぬ。これは、私の罪であり、私の祈りだ。

 医師の一人が、息を潜めて言った。
「……猊下。数値に変化はありませんが、しかし……容体が、わずかに持ち直しているように見えます」
「そうだな、持ち直している」
 シオンは柔らかい声で答えた。
 エルダニアで、アリシアは定義を書き換えている。王位継承という、不可逆の事実をもって。
 その結果が、距離も時間も越えて、ここに届いた。
 罪ではない。
 混乱の象徴でもない。
 アリシアは、国家を次へ繋いだ存在だ。
 その意味が呪詛を削り、メリッサの生命を縫い留めている。
 シオンは、再びメリッサを見下ろした。
「……時間は、稼げる」
 誰に向けた言葉でもない。
 それは確信だった。

 時間は、確かに稼げていた。だが、それは勝利ではない。小宇宙を分け与えることで、メリッサの生命は辛うじて現世に留められている。脈は保たれ、呼吸も途切れない。
 しかし、それだけだった。
 一刻、また一刻と過ぎるごとに、彼女の身体は静かに消耗していく。
 頬の血色は戻らない。
 体温は低いまま、指先の温もりも長くは続かない。
 まるで、命そのものが“削られている”かのようだった。
 医師たちは言葉を選びながら、同じ結論に辿り着く。
 通常の衰弱ではない。
 回復を妨げる“何か”が、常に作用している。
 原因が分からない以上、対症療法しかない。
 シオンは、すべてを理解している。
 これは病ではない。
 傷でも、毒でもない。
 “定義”が、まだ書き換わりきっていないのだ。エルダニアは確かに救われた。国家は次代へと引き継がれた。だが“真に救ったもの”という言葉は、なお曖昧なまま宙に浮いている。
 その余白が、彼女の命を削っている。
 シオンは、メリッサの手を取った。力なく横たわるその指は、彼の掌にすっかり収まってしまう。
「……メリッサ、もう十分だ」
 小宇宙を注ぎながら、低く囁く。
「これ以上、背負う必要はない」
 返事はない。
 瞼も、唇も、動かない。
 呼吸だけが頼りなく続いている。
 だが、それすらも――徐々に、間隔が伸び始めていた。
「教皇猊下……」
 医師の声に、シオンは顔を上げなかった。
「あと、どれほど持つ」
 問いは冷静だった。
 逃げも、期待も含まれていない。
 沈黙の後、答えが落ちる。
「……若く、体力があるとはいえ……このままでは、数日が限界かと」
 数日。
 シオンは、ゆっくりと息を吐いた。
 時間は引き延ばせるが、無限ではない。自分が注ぎ続ける小宇宙は、延命に過ぎない。根本を断たなければ、いずれ必ず尽きる。
「……ならば」
 初めて、シオンの瞳に、別の光が宿る。
「“定義”そのものに、手を入れる」
 それは、聖闘士としても、教皇としても、容易に口にしてよい言葉ではなかった。
 だが。
 メリッサの命を秤にかけるなら、その躊躇に意味はない。
「時間は私が稼ぐ。その間に、答えを引き寄せる」
 衰弱は進んでいる。
 確実に、緩やかに。
 だが、まだ終わってはいない。
 
 アリシアは、エルダニア王国国王となった。
 即位の宣言は、世界へ向けて発せられた。
 第三国の名の下、国際社会の監視と支援を受ける形でではあるが、エルダニアは、ようやく国家としての輪郭を取り戻した。
 だが。
 それだけでは、足りない。
 執務机に置かれた通信端末が、淡く光る。
 聖域から届く定時報告。
 メリッサ・ドラコペトラの容体。
《小康状態だが、衰弱は止まっていない。時間稼ぎは限界に近い》
 文面は冷静で簡潔だ。そこに、希望はひと言も書かれていない。
 アリシアは、端末を伏せた。
 王冠の重みが首に伝わる。それは権威の象徴であると同時に、責任の塊だった。
「……やはり、私が動かなければなりませんね」
 独り言のように呟いて、立ち上がる。
 呪詛の意味も構造も、理解できた。
 だが、理解しただけでは、呪いは解けない。
 魔物は言った。
「エルダニアを真に救ったものに、死を」
 その言葉は、曖昧で、残酷で、そして強力だ。解釈の余地がある限り、呪詛は生き続ける。
 今、世界はこう認識している。
 女王アリシアが即位し、エルダニア王国は救われた。国家は再生の道を選び、歩み始めた。
 だが、それは結果であって、定義ではない。
 メリッサは、表に立っていない。
 戦場の中央にも、玉座の前にもいなかった。
 だからこそ――呪詛は、メリッサを“真”とみなした。すべてを繋ぎ、整え、道を敷いた存在。名を刻まれず、称えられず、それでも不可欠だった者。
 アリシアは、拳を握る。
「……それなら、呪詛が縋るその曖昧さを、女王として、潰してみせるわ」
 机の引き出しを開け、白紙の公文書を取り出す。王国印章を押すための準備を整えながら、思考を研ぎ澄ます。
 必要なのは、力ではない。
 小宇宙でも、奇跡でもない。
 公式な言葉と不可逆の定義。
 王として、女王として、世界に向けて宣言するのだ。

 ――エルダニアを真に救った者は、誰なのか。

 それを、個人に帰属させてはならない。功績を“一人”に集中させれば、呪詛はまた別の標的を探すだけだ。
 エルダニアを救ったのは、王でも、女王でも、聖闘士でもない。
 王国の意思だ。
 民を守ろうとした集合体。
 未来を選び取った国家の決断。
 その中に、メリッサがいた。
 シオンもいた。
 アリシア自身もいた。
 誰か一人ではない。
「“真に救ったもの”は――エルダニア王国という存在、そのもの」
 それを、女王の名で、国内外へ不可逆の形で宣言するのだ。
 公文書に、ペンを走らせる。
 王位継承声明とは別の、もう一つの重い文書。それは、歴史への書き込みであり、呪詛への反論だった。
「……待っていてください、メリッサさん」
 通信端末を、もう一度見る。
「あなたを“救った者”にさせません」
 そのために、女王は言葉で戦うことを選んだ。

 王宮の臨時記者会見場は、異様な静けさに包まれていた。
 修復の追いつかない壁と仮設の照明が、エルダニア王国王都がまだ復興の途上にあるのだと、無言で示していた。
 それでも集まった各国メディアの数は、かつてないほど多い。アリシア女王は、簡素な演台の前に立った。
 王冠は戴いていない。だが、その背すじは誰よりも真っ直ぐだった。
「――エルダニア王国は」
 一言目で、空気が張り詰める。
「大規模なテロ行為の標的となりました。現在もなお、王都は壊滅的な被害を受けたままです」
 用意された原稿はあるが、彼女はそれを見ない。
「首謀者、共謀者、実行犯。すべて、現在捜査中です。事件の全容解明には、相応の時間を要するでしょう」
 記者たちが、息を呑む。
「復興についても同様です。王都機能の再建、インフラの回復、治安の安定――短期的な回復は、正直に申し上げて、見込めません」
 ざわめきが、会場を走った。それでも、アリシアは続ける。
「今回の襲撃により、エルダニアは莫大な経済的損失を被りました。加えて――」
 一瞬、間が空く。
「我が国の基幹産業である製薬事業にも、深刻な影響が出ています」
 この言葉を待っていたかのように、フラッシュが一斉に焚かれた。
「研究施設の損壊。供給網の断絶。国際的な信頼の低下」
 淡々と、事実だけを並べる。
「これにより、エルダニア経済は、今後、重大な危機に直面することになるでしょう」

 ――その瞬間。

 世界が、反応した。
 速報のテロップが踊る。
 市場が開く前から、先物が崩れ始める。
 エルダニア国債、急落。
 製薬関連企業の株価、連鎖的下落。
 格付機関の速報コメントが流れ始める。
 それらは、すべて織り込み済みだ。
「女王として、この現実から目を背けることはしません」
 記者の一人が、声を張り上げる。
「――復興支援を表明している国々に対し、何よりもエルダニア国民に対して、あまりにも無責任ではありませんか!それは、国益を損なう発言では?」
 アリシアは、正面からその視線を受け止めた。
「事実を述べることが、国益を損なうとは考えておりません」
 その声は、揺れない。
「むしろ、虚構の安定を演出することこそ、さらなる混乱を招く無責任な態度だと、私は考えます。違いますか?異論がおありなら、後ほどお受けいたします」
 会場の空気が冷える。
 この発言が国内外でどう受け取られるか、分からぬはずがない。
 会見終了後、王宮の一室で側近が青ざめた顔で報告する。
「女王陛下……国内世論が、急激に悪化しています」
 アリシアは、黙って聞く。
「自国の経済を貶めた。国を売った。無能だ。……批判が、止まりません」
 それでも、アリシアは顔を上げなかった。
「……構いません。言わせておきなさい」
 静かな声。
「これは、必要なことです」
 誰にも言えない、真実がある。
 エルダニアが“救われていない”状態でなければならない。
 救われたと定義された瞬間、“真に救った者”という呪詛の刃は、再び誰かを指す。
 それが、メリッサであってはならない。他の誰かであってもならない。
 アリシアは、窓の外を見る。広がるのは瓦礫の街。未だ癒えぬ傷跡。
「……私が、悪役でいい」
 国を沈めた女王。
 判断を誤った統治者。
 その評価を、一身に引き受ける。
「あなたが生きるなら、それで十分なのです」
 遠く離れた聖域で療養室に横たわる、自分より年下の大学生の姿を、恋した男性が愛している女性の姿を、思い浮かべながら。

 アリシア女王は、この先、国の建て直しに身を投じていく。
 瓦礫に埋もれた王都。
 失われた信頼。
 崩れ落ちた経済。
 そのすべてを、時間をかけて拾い上げ、組み直し、再び立たせる。
 短期的な評価など、最初から求めてはいなかった。今の彼女は、ただ一つの決意を胸に抱いている。

 ――呪詛を、引き受ける。

「エルダニアを真に救ったものに死を」
 その言葉の“定義”が、いつか再び成立するのなら。
 その時、指し示されるのは、他の誰でもない、自分であってほしい。
 民のために。
 国のために。
 そして――メリッサを生かすために。
 王としての責務でもない。
 英雄願望でもない。
 それは、ただの選択だった。
 アリシア女王は、静かに目を閉じる。
 救われるべきは、国ではない。
 救われるべきは、人でなければならない。
 その一点を、決して見失わぬように。

 メリッサが目を覚ましたのは、深夜だった。
 ベッドサイドの間接照明が、淡い琥珀色の光で室内を満たしている。
(どこだ……ここ……?)
 天井は低く白い。装飾はなく窓も見当たらない。自分の家ではない。教皇宮の客間でもない。無機質で、必要最低限のものしか置かれていない部屋。
(……病院?)
 そう思った瞬間、身体を動かそうとして、激しく後悔した。
 指先を、ほんのわずかに動かそうとしただけで、全身に、激痛が走り息が詰まる。声を上げることすらできず、歯を強く食いしばるしかなかった。
 痛みは、どこか一箇所ではない。
 骨の内側、内臓の奥、血管の一本一本にまで染み込むように、均等に、逃げ場なく、広がっている。
(なに、これ……)
 自分の身体なのに、自分のものではない感覚。重く、冷たく、言うことをきかない。まるで、長い時間、誰か別のものがこの身体を使っていた後に、無理やり戻されたみたいだ。
 呼吸をするたび、胸の奥が軋む。
 喉が焼けるように痛い。
 ゆっくり瞬きをすると、視界の端が滲んだ。
 涙なのか、それとも、まだ意識が定まっていないだけなのか、それさえ分からなかった。
(あたし……何してたんだっけ……)
 思い出そうとすると、頭の奥に、靄がかかる。
 エルダニア王都。
 眩い光。
 暗黒の門。
 誰かの声。
 それから――
「……っ」
 言葉にならない息が、喉から零れた。
 胸の上に、微かな重みがある。
 温もりだ。
 誰かの小宇宙が、薄く、けれど確かに、身体を包んでいる。守るように。縫い止めるように。
 それが、誰のものかを考えるより先に、どうしようもない安心感が押し寄せた。
 理由は分からない。でも、分かってしまう。
 ここは、安全だ。
 そして――自分は、まだ、生きている。
 その事実だけが、深い闇の底をほのかに照らしていた。

 小宇宙で、分かった。
(シオン様だ……)
 視線をゆっくりと左右に動かす。
 けれど、人影は見えない。
 カーテンの影。
 医療機器の電子音。
 低く一定の空調音。
 誰も、いない。
 それなのに、自分の身体を包むものがはっきりと分かる。
 温度。
 密度。
 触れ方。
 それは、他の誰の小宇宙とも違う。
 強く澄んでいて、けれど、決して押し付けがましくない。

(ああ……)
 息を吸うと、胸の奥に絡みついていた痛みが、ほんのわずかに緩む。この身体が、ばらばらにならないように縫い留められている。
「……」
 声を出そうとして、やめた。今、声を出せば、この感覚が壊れてしまいそうだった。
(そっか。あたし、ちゃんと守られてたんだ……)
 意識の底でそう思った瞬間、胸の奥が、静かに熱を帯びた。
 それは痛みではない。
 不安でもない。
 戻ってきてよかった。
 そう思える場所が、ここにはあった。

 視線をもう一度、ゆっくりと動かす。
 天井。
 壁。
 医療機器。
 やはり、誰も見えない。
(……?おかしいな……)
 こんなに濃く、はっきりとした小宇宙があるのに、人がいないはずがない。
 メリッサは、痛みに逆らわないよう、ほんのわずか、首を傾けた。
 視界の端――ベッドの足元。
 そこに、影があった。
 椅子に腰掛け、前屈みになっている人影。
 顔は見えないけれど、輪郭だけで分かる。
(あ……やっぱりシオン様だ)
 自分の視線の、死角。
 それだけの理由で、見えなかっただけだった。
 最初から彼の小宇宙は、ここにあった。
 そんなところで。
 言葉にしようとして、やめる。
 胸の奥が、じんと、熱くなる。
 ここにいてくれた。
 ちゃんと、いてくれた。
 それだけで身体の痛みが、少しだけ遠のいた。

「シオン……様……」
 吐き出された息は、声にならなかった。
 声の出し方を、声帯が忘れてしまったかのようだった。
 もう一度呼ぼうとして、息を吸う。
 その瞬間、気管支が、吸気を拒むように、きゅっと窄まった感覚がした。
「――っ……!」
 次の瞬間、激しい咳が込み上げる。
 身体が大きく跳ね、胸の奥から、引き裂かれるような痛みが走った。全身が、砕け散りそうだった。咳をするたび、骨も、内臓も、意識も、ばらばらになる。
 息が吸えない。
 吐くこともできない。
 苦しさと痛みが重なって、声は喉の奥で、完全に潰れた。
 視界が、白く滲む。
 その時――
「メリッサ!!」
 鋭く名を呼ぶ声。
 椅子が倒れる音。
 床を蹴る足音。
 次の瞬間、ベッドの傍らに誰かの気配が迫った。
「メリッサ……!」
 シオンは、咳き込みながら身を強張らせる彼女の身体に、決して触れすぎない距離で身を寄せた。抱き起こすことも、体勢を変えることもできない。
 今、下手に触れれば、その細い身体が、音を立てて壊れてしまいそうだった。
 シオンは、呼吸を整えながら、小宇宙を静かに、慎重に広げる。
 呼吸を助けることはできない。
 それは、生の領域だ。
 だが――痛みを、包むことはできる。
 鋭く、荒れ狂う感覚の縁をなぞるように、痛みの刃の先を鈍らせるように。
「……大丈夫だ。動かなくていい」
 声は低く抑えられている。それでも、必死だった。
「今は……それでいい」
 メリッサの全身を貫いていた激痛が、一段階、和らぐ。
 消えるわけではない。ただ、痛みに押し潰されず耐えられる程度に和らぐ。
 咳は、次第に収まり、浅く、細い呼吸が戻ってくる。
 弱々しいその音を、シオンは、片時も聞き逃さない。
 意識が戻った。
 それは、確かな前進だ。
 けれど、呪詛がどこにどう作用していたのか、どのようにメリッサの身体を蝕んでいるのか。それは、まだ分からない。
 小宇宙で押さえ込めているのは、あくまで、症状の一部でしかない。
 根は、深い。
「……」
 シオンは、唇を噛みしめた。
 ただ、メリッサが生きている今を、必死に繋ぎ止めるしかない。
「……戻ってきてくれて、ありがとう」
 メリッサの呼吸は、まだ弱い。
 脈も不安定だ。
 時間は味方ではない。
 それでも、彼女は目を覚ました。
 その事実だけが、希望の欠片だった。
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