Eine Kleine Ⅳ

 門から少し離れた高台で、メリッサは、膝を抱えるようにしてその光景を見下ろしていた。
 金色の光が、空を縫うように螺旋を描く。
 聖域教皇シオンと、エルダニアの王女アリシア――二人の小宇宙が重なり合い、門を閉じていく様は、あまりにも完成されていた。
 綺麗だ、と最初に思ってしまったのが悔しい。
 自分が立つべき場所は、あそこではない。
 そう理解していたはずなのに、胸の奥で何かが、じくじくと痛んだ。結局、最後の最後。一番大事なところは、全部アリシア王女が持っていった。
 王族の血。
 アテナの加護を受けた王笏。
 国家元首としての小宇宙。
 必要なものはすべて、最初から彼女の手の中にあったのだ。
 メリッサは、強く拳を握りしめる。
「あたし、いらなかったよね」
 声に出すつもりはなかったのに、風に攫われるほど小さな呟きが、確かに零れ落ちた。
 シオンが護符を掲げ、静かに封印の言葉を紡ぐその横で、アリシア王女が王笏を構え、微動だにせず立っている。
 凛とした立ち姿。
 恐怖に震えているはずなのに、それを誰にも悟らせない気高い佇まい。
 お似合いだ。
 不意に、そんな考えが頭をよぎってしまって、メリッサは自分自身に苛立った。
 シオンとアリシア王女。
 聖域教皇と王国の正統な後継者。
 並び立つ理由がある。
 肩を並べる資格がある。
 それに比べて、自分は何だろう。
 元冥闘士で、過去に傷があって、使われる側で、“ここにいなくても、話はちゃんと終わった”存在。
 納得いかない。
 面白くない。
 正直、不愉快だ。
 そう思ってしまう自分が、ますます嫌になった。

 金色の光が消え、門が完全に閉じた瞬間、周囲に静寂が訪れる。歓喜はない。ただ、事が成されたという事実だけが、そこに残った。
 シオンが、ゆっくりと護符を下ろす。
 アリシア王女が、安堵したように息を吐く。
 二人が顔を見合わせ、頷きあったのが見えた。何を話しているのかは分からないが、慎ましい仕草のアリシアに、育ちの違いを見せ付けられた感じがした。胸の奥が、ひどく冷えた。

 ――あたしがいなくても、よかったんだ。

 その事実を、否定できない自分がいる。
 メリッサはその場に座り込み、膝に額が触れるほど身を丸めた。
 泣くほどではない。叫ぶほどでもない。ただ、ぽっかりと空いた場所が痛い。
「ばかみたい」
 誰に聞かせるでもなく、そう呟いてから、そっと目を閉じた。
 遠くで、誰かがシオンの名を呼んでいる。きっと、戻る場所はもう決まっているのだ。そこに、自分の居場所があるのかどうか。それを考えるのが、今はただ、怖かった。

 門が閉じ、事態は収束へと向かっている。
 誰もが安堵し、誰もが生き延びたことを喜びあっている。その中でメリッサは、身体の感覚が失われていくのを、ぼんやりと自覚していた。
 座っているはずなのに、地面が遠く感じる。喉の奥から、鉄の味がせり上がる。
「……?」
 声にならない違和感とともに、口元を押さえた瞬間、指の間から赤が溢れた。
 血だった。
 次の瞬間、全身を貫くような痛みが走る。
 骨の内側から、何かが崩れ落ちる感覚があった。
 瘴気。
 魔界の気配。
 あの上級魔物が放った呪詛。古語による言葉。
「エルダニアを真に救ったものに、死を」
 それは、王女でも、教皇でもなかった。
 門を閉じるために命を賭した者でもない。
 標的は、誰にも見えないところで動き、瘴気を引き受け、踏みとどまり、最後まで逃げなかった者。
 メリッサの身体は、確実に蝕まれていた。
 視界が大きく揺れる。倒れ込んだ拍子に、再び血を吐いた。痙攣が走る。指先が、言うことをきかない。
「……っ」
 声を上げる力も、もう残っていなかった。
 誰の目にも届かない場所で、歓声からも安堵からも、完全に切り離された影で、意識がゆっくりと遠のいていく。
 最後に視界に映ったのは、戦いとは無縁の、高く澄んだ青空だった。
 白い雲が、ひとつ、静かに流れていく。

 ――パンみたい。

 理由もなく、そんなことを思った。
 地元にあるお気に入りのパン屋、アルトス・リメナの焼きたての食パン。
 朝一番に行かないとすぐ売り切れてしまう、あの店の看板メニューだ。トーストすると、外はさくりとして中は柔らかくて、何もつけなくてもほんのり甘い。
 もう一度だけでいいから、食べたかったな。
 その思考を最後に、メリッサの意識は完全に途切れた。

 最後の封印陣が静かに閉じ、空気を満たしていた異様な圧が、潮が引くように消えていった。
 終わった。
 誰もがそう思った瞬間だった。
 石畳の中央で、アリシアは息を整えながら、無意識に胸元へ手を当てていた。
 何かがおかしかった。
 鼓動は速いが乱れてはいない。小宇宙も確かに自分の内にある。
 隣に立つシオンを見上げる。
 背に戴いたマントは綻び、血に汚れてはいるが、その眼差しは揺らがず、確かに生の熱を宿している。

 ――妙だ。

 アリシアの脳裏を、言葉にならない違和感が通り過ぎる。
 あの瞬間。
 魔物が消滅する寸前、確かに“声”があった。
『エルダニアを真に救ったものに、死を』
 古い文献の中にしか出てこない、今はもう使われていない言葉だった。だが、意味ははっきりと理解できた。あれは、王族の血を受け継いでいる自分に向けられたものだと、そう覚悟した。
 それなのに――何も起きていない。
 アリシアは、ゆっくりと視線を巡らせる。
 倒れ伏す兵士たち、結界の残滓、そして――空白。
 胸の奥が、ざわりと騒いだ。
 “真に”。
 その一語が、遅れて重く沈む。
 封印を完成させたのは確かに自分とシオンだ。だが、この戦線を繋ぎ、民を守り、交渉を成立させ、退路を確保し、誰もが戦える形を整えたのは――。
 思考が、ひとりの名へと収束しかけた瞬間、アリシアはそれを振り払う。
「……考えすぎね」
 そう呟いてみても、不安は消えなかった。
 理由の分からない胸騒ぎが、冷たい指先となって心臓を掴む。
 風が吹いた。
 白い雲がゆっくりと流れていくその下で、誰にも見られない場所で、すでに――ひとつの命が静かに崩れ落ちていたことを、まだ誰も気付いていない。

「……カノン。メリッサは、どこにいるのだ?」
 戦いの余韻がまだ空気に残る中で、シオンは問いかけた。
 カノンは一瞬だけ視線を巡らせ、それから迷いなく答える。
「安全な場所に待機させています。王都を見渡せる丘の方に」
 その言葉に、シオンは胸をなで下ろした。よかった。この騒乱の中に、彼女の姿がなかったこと。それが、今になって胸に染みるように安堵として広がる。
「そうか……感謝する」
 短く礼を告げると、シオンは聖衣の胸元に手を差し入れた。聖衣の内部には、護符や聖具を収めるための、わずかな空間がある。
 そこから取り出したのは、場違いなほど現代的な黒い長方形――スマートフォンだった。
 画面に表示される名前を確かめ、発信する。
 呼び出し音がなる。
 繋がらない。
 眉がわずかに寄った。
 もう一度。
 それでも、応答はない。
「……?」
 嫌な予感を振り払うように、再度発信する。だが、結果は同じだった。
「すまぬ、後は頼む!」
 言い残すと同時に、シオンは駆け出していた。
 丘へ向かう道のり。瓦礫を避け、人の流れを掻きわけ、息が乱れるのも構わず走る。
 走りながら、何度も何度もかけ直す。

 ――出てくれ。

 全神経を聴覚に集中させる。
 風の音、遠くの声、鎧の擦れる微かな金属音。
 その中に混じった、聞き覚えのある電子音。
「こっちか?」
 足を止め、耳を澄ます。
 確かに、聞こえる。
 あまりにも無機質な、スマートフォンのデフォルトの着信音が。そういえば、以前、何気なく尋ねたことがあった。どうして着信音を変えないのか、と。
『めんどくさいから』
 それだけ言って、笑った彼女の顔が脳裏をよぎる。
 今時の若者は、好きな音楽やらこだわりの通知音やらに設定するものだと、半ば冗談めかして言った自分に、『別に困らないし』と返した、その声。

 ――困っているではないか。

 胸の奥が、嫌な形で冷えていく。
 音を辿って、瓦礫へ回り込んだ瞬間、視界に入ったものを、シオンは一瞬、理解できなかった。
 不自然な姿勢で倒れている人影。
 地面に散った、暗い赤。
 答えはあまりにも早く、あまりにも残酷だった。
 シオンの足が止まる。
 呼吸が詰まる。
 着信音はまだ鳴っている。
 彼女のすぐ傍で。
「……メリッサ」
 名を呼ぶ声が、震えた。
 応答はない。
 現実は、否応なくそこにあった。

 周囲には誰もいなかった。
 瓦礫に遮られたその場所は、戦場の喧噪から切り離されたように静まり返っている。
 空を仰げば、薄く雲が流れていた。
 澄んだ青の中に、白がゆっくりと形を変えながら浮かんでいる。
 シオンは膝をつき、メリッサを胸元へ引き寄せた。
 抱き締めた身体は、あまりにも細く、軽い。
 腕の中にあるという実感が乏しく、少し力を抜けば、そのまま消えてしまいそうだった。
 それでも――血の匂いに混じって、微かに花のような甘い香りがする。
 確かにメリッサだ。
 震える指で、額を、頬を、確かめるように撫でる。
 呼吸は浅く弱く、今にも途切れそうだった。
「……すまぬ」
 誰に向けた言葉なのか、自分でも分からない。
 守ると決めていた。
 傍に在ると、誓っていた。
 それなのに――腕の中で、彼女は壊れかけている。
 白い雲が、視界の端で流れていく。
 彼女が、最後に見たであろう空。
 胸の奥を鋭い痛みに抉られ、呼吸ができなくなる。
「目を、開けてくれ……メリッサ」
 返事はない。それでも、抱く腕に力を込める。失われぬように、離れていかぬように。
 この一瞬だけは、誰にも渡さないとでも言うように。

 どれほどの時が過ぎたのか、分からなかった。
 静寂を破ったのは、荒い足音だった。次いで、息を詰めたような声が届く。
「教皇!」
 シオンは顔を上げない。腕の中の温もりから、視線を外すことができなかった。
 石畳を濡らす血と、力なく抱かれているメリッサの姿を見て、カノンは言葉を失った。戦慄が背筋を駆け上がる。
 外傷はない。それなのに、これほどの血を吐いている。
 ただ事ではない。
 それだけは、即座に理解できた。
「……カノン」
 低く抑えた声だった。
「私は、メリッサを連れて聖域へ戻る」
 抱き締める腕を強める。まるで、離すことを拒むように。
「後のことは、任せてよいか」
「――承知いたしました」
 迷いはなかった。
 それが、今の最善だと分かっている。
 シオンは膝をついたまま、メリッサを深く抱き寄せる。
 次の瞬間、黄金の光が、二人を包み込んだ。
 瓦礫の間に風だけが残り、青空には、変わらず白い雲が流れていた。
 何もなかったかのように。
 だが確かに、その場所にはひとつの命が消えかけていた。

 黄金の光が消えた瞬間、冷えた石の床の感触が戻ってきた。
 聖域――医務棟の奥にある、外界から隔絶された治療室。
 シオンは、膝をついたまま現れた。腕の中には、メリッサが力なく抱かれていた。
 慌ただしい足音が、すぐに続く。呼び寄せられた医官たちが、状況を一目見て息を呑んだ。
「担架を!」
 短く鋭い声が飛んだ。
 その声はシオンにも届いていた。しかし、彼はすぐには腕を離さなかった。
 メリッサの呼吸は、弱々しい。生きている証はある。だが、確実に“削られて”いる。
「外傷はないようです」
 医官のひとりが、慎重に言葉を選ぶ。
「……ですが、瘴気の侵食が深い。しかも――」
 言葉が、続かない。
 シオンは、視線を上げなかった。彼女の額にかかる髪を、そっと指で払う。
「呪詛だ」
 断定だった。
 医官たちが息を詰める。
「どの系統か分かるか?」
「……判別できませんが、恐らく、かなり古い時代のものかと……」
 知らない――
 その事実が、静かに胸を打った。
 アテナの加護の下、数多の呪詛と対峙してきた聖域ですら、把握していないもの。
 シオンは、ゆっくりとメリッサを寝台へ横たえる。名残を断ち切るように、だが極めて慎重に。白いシーツの上で、彼女はあまりにも小さく見えた。
「……そなたは、何を代償にした」
 それは、問いというより独白だった。
 治療が始まる。
 光が走り、結界が張られ、祈りの言葉が重ねられていく。
 それでも、メリッサの小宇宙は静かに、しかし確実に削られ続けていた。
 シオンは、その場を離れなかった。聖衣のまま椅子にも座らず、ただ彼女の傍に立ち続けていた。

 治療は、続いていた。
 聖域に伝わる浄化法、解呪の祈祷、瘴気を緩和する結界。
 どれも、確かな効力を持つはずのものだった。しかし、どれも決定打にならない。
「……進行が止まりません」
 医官の声は低く、沈んでいた。
 メリッサの身体を蝕むものは、確かに魔界由来だ。
単なる瘴気侵食ではない。
「呪詛が核にあります。しかも……」
 言葉を探す沈黙。
「対象が、あまりにも限定されすぎている」
 シオンは、初めて顔を上げた。
「限定?」
「はい。無差別でも、王族でも、聖闘士でもない。まるで――“特定の行為”を成した者だけを狙い撃つような……」
 それ以上、医官は続けられなかった。聖域の知識体系に、その形式は存在しない。
 シオンの脳裏に、あの場面がよぎる。
 異形が、知性を宿した目でこちらを見据え、聞き慣れぬ、耳に残らぬ言葉を吐いた瞬間。

 ――理解できなかった。

 呪詛の言葉は古く、難解だった。
 聖域の膨大な記録にも、シオンの知識にも、該当がない。
 自分には、意味を推測することすらできなかった。
 それを理解していたのは、あの場ではただ一人。
 アリシアだけだった。
 だが彼女は、まだ知らない。メリッサが王都にいたことも、その呪詛が、彼女を標的としていた可能性も。
 救命の道筋は、まだ闇の中にある。
 寝台の上で、メリッサは静かに眠っている。
 眠っているというより、意識を奥底に沈められているようだった。
 小宇宙はかろうじて保たれているが、それはシオンの小宇宙によって“支えられている”状態にすぎない。
 シオンは、彼女の手を握り続けている。
 温もりはある。
 それが、余計に胸を締めつけた。
 生きている。それなのに、理由も分からぬまま、失われかけている。
 救うための力も、祈るための言葉も、今は、まだ見つからない。

 封印が終わった後も、アリシアの胸の内に、安堵は訪れなかった。魔物が最後に残した言葉が、耳の奥に焼き付いて離れない。
 あれは、誰に向けられたものだったのか。
「真に救ったもの」
 その条件はあまりにも曖昧で、それでいて重たかった。
 アリシアは、王宮内を駆け回った。
 瓦礫の撤去を指揮する者、負傷者の収容に当たる者、学者、官吏、残った従者。
 目に付く者を片端から呼び止め、問いを投げる。
 瀕死の者はいないか。
 理由の分からない衰弱はないか。
 魔物に直接触れていないのに、命を落としかけている者はいないか。
 その声には、躊躇も遠慮もなかった。
 それは、これまでのアリシアからは想像できないほどの苛烈さだった。
 答えは、いずれも否。
 負傷者は多い。死者もいる。
 だが、呪詛を疑うほど“不自然な生”の崩れ方をした者はいない。それが、かえって不安を煽った。
 アリシアは、王宮の奥へと向かう。
 非常時にのみ開かれる隠し部屋。そこに、両親――国王夫妻は避難していた。扉が閉じるや否や、アリシアは深く一礼し、言葉を選ぶ余裕もなく切り出した。
「魔物の放った呪詛が、誰か一人を狙っている可能性があります」
 二人の表情が、強張る。
「我が国を救おうとしたどなたかが、今この瞬間も、呪詛を受けて苦しんでいるかもしれないのです」
 一拍置き、声がわずかに震えた。
「お父様、お母様。どうか……どうか、私にお力を貸してください」
 国王夫妻は、すぐには答えなかった。
 重い沈黙が、部屋を満たす。先に、王妃が静かに口を開く。
「……もし、条件が“真に救った者”であるなら」
 国王が、その言葉を継いだ。
「メリッサ・ドラコペトラのことかもしれない」
 その名が落ちた瞬間、アリシアの思考が、一気に過去へ引き戻される。
「メリッサ・ドラコペトラ……あの方が……」
 聖域で、一度だけ会った。
 エルダニアが罪を被せようとし、重要参考人として扱った、大学生。
 そして――
 シオンの傍に立つ距離感と、二人の間に流れる温かな空気。彼女がシオンにとって特別なのだと、あの時すぐに理解した。
「……彼女は、今どこに?」
 問いは、ほとんど祈りだった。

 聖域の医務室は、異様なほど静まり返っていた。
 癒しの小宇宙が、幾重にも重ねられているはずの空間にいながらも、メリッサの呼吸は、目に見えて浅くなっていく。
 寝台に横たえられた彼女の身体は、あまりにも弱々しかった。
 布越しに伝わる体温が、少しずつ失われていくのが分かる。
「……原因が分かりません」
 医師の声は低く、苦渋に満ちていた。
「外傷はありません。臓器にも致命的な損壊は見られません。毒でもない。通常の瘴気反応とも異なります。ただ……」
 言葉が、そこで詰まる。
「小宇宙が、内側から削られているようなのです」
 シオンは答えなかった。
 ただ、寝台の傍に膝をついたまま、メリッサの手を握っていた。
 細い指。
 力の入らない掌。
 離すことができなかった。
 治癒の小宇宙を注ぎ込めば、弾かれる。
 守りの結界を重ねれば、その内側で彼女自身が衰弱していく。

 ――治そうとするほど、壊れていく。

 そんな理不尽に、どう抗えればよいのか。
「猊下……」
 誰かが声を掛けたが、シオンは首を振った。思考は、すでに一点に集約されている。
 呪詛。
 だが、どんな呪詛なのかが分からない。
 解呪の鍵が、どこにも見当たらない。
「……そなたは」
 どうしようもなく声が震えた。
「また……私の目の前で……」
 それ以上、言葉は続かなかった。
 メリッサの唇が、微かに動く。吐息なのか、声なのかも判然としないほど、儚い動きだ。
 シオンは、思わず身を屈めた。
「メリッサ」
 名を呼ぶ。
 返事はない。
 ただ、呼吸の間隔がさらに伸びた。
 これは、医療の領域ではない。聖闘士の力でも、教皇の権能でも、女神の加護でも届かない。
 理解した瞬間、胸の奥で何かが冷えていく。
(……間に合わぬ)
 このままでは、彼女は――
 シオンは、メリッサの額にそっと触れた。熱は、ほとんど感じられない。その現実が、何よりも残酷だった。
「……許せ」
 誰に向けた言葉なのか、自分でも分からない。
 守ると誓った。
 導くと決めた。
 それなのに、彼女の命は、今まさに尽きようとしている。
 最愛の恋人、シオンの目の前で。

 呼吸が、また一つ遅れた。
 メリッサの胸が上下するまでの間隔が、耐えがたいほど長い。次が来るのかどうか。それを待つ時間が、拷問に近かった。
 シオンは、無意識のうちに歯を食いしばっていた。
 教皇としてできるのは、ここまでだ。
 それが、理性の結論だった。
 生と死の境に踏み込む行為は、聖域において禁忌に等しい。
 魂の秩序を揺るがす力。
 女神の意志を代行する立場であるがゆえに、決して選んではならない道。
 それでも、彼女の指が、完全に冷え切ってしまう前に。
 この名を捨てる覚悟なら、ある。
 教皇である前に、一人の男として。
(メリッサを失うくらいなら、私は、何を失っても構わぬ)
 その瞬間だった。胸元で、通信端末が震えた。発信元はアリシアだった。端末の番号を事前に教えていたのを、思い出した。
「……私だ」
 極力感情を押さえて応答した。
『猊下。封印は完了しました』
 電話越しの声は、王女としての落ち着きを保とうとしている。だが、その奥に張り付いた緊張を、シオンは聞き逃さなかった。
「ご苦労だった、アリシア」
『……ですが、どうしても拭えない違和感があります』
 前置きはない。それだけ、事態が切迫しているということだ。
『あの上級魔物が放ったのは呪詛です。猊下は、あの言葉を理解なさいましたか』
 シオンの視線が、寝台へと落ちる。
「……否。あれは、私の知るいかなる古語とも異なっていた」
『そうでしょう。あれは、エルダニア王家に伝わる古語です』
 即答だった。
『理解できたのは、あの場で私だけでした』
 短い沈黙。
『“エルダニアを、真に救ったものに死を”』
 その言葉が、医務室の空気を変えた。
「……“真に”」
『はい。そこが最も重要です』
 アリシアの声は、わずかに硬くなる。
『猊下。私にも、あなたにも、異変はありません。ならば――呪詛の対象は、別にいる』
 シオンは、何も答えなかった。ただ、メリッサの手を包む指に力が籠もる。
『猊下』
 呼び掛けが、静かに強まる。
『メリッサ・ドラコペトラさんは……今、どちらに?』
「……ここにいる」
『ご無事なのですか?メリッサさんのご様子は?』「メリッサは――」
 言葉が続かない。何を伝えれば良いのかは分かっていた。だが、メリッサの容態を口に出すのが、恐ろしかった。呪詛の対象にメリッサが選ばれたのだという現実を、認めたくなかった。
『猊下……』
「……原因不明の衰弱だ。治癒も、解呪も、すべて弾かれている」
『――っ』
 息を呑む気配が、通信越しに伝わった。
『猊下。もし、条件が“真に救った者”であるならば、門を閉じたのは、私と猊下です。ですが、そこに至る道を繋いだのは――』
「……メリッサだ」
『はい。ならば、呪詛は彼女を指しているということです。疑う余地はありません』
 重く、確かな結論。
『猊下。私は、直ちに聖域へ向かいます。これは、エルダニア王家の責任です。彼女を救うために必要なものが、国家元首の小宇宙であるなら――私は、与えることを惜しみません』
 通信が切れる直前、アリシアは付け加えた。
『……彼女は、真に、我が国を救った方です』
 静寂が戻る。
 シオンは、メリッサの額にそっと触れた。
「……聞いたか」
 返事はない。
 それでも。
「そなたは――」
 唇が、わずかに震えた。
「……真に、救ったのだ」
 メリッサの頬に、温かな雫が落ちた。
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